街道筋を歩いている。
ロワジィとギィである。
長逗留していたぶどう園を後にし、峠をひとつ越え、地図にも乗る、支道へと合流した。道中に必要な道具は、ふたつに分けてどちらも背に負っている。連れる馬もなく、曳く荷車もない。側道とはいえ、本筋につながる道ではあるので、行き交う荷馬車や旅人も見かける。気ままな二人旅だった。
季節はちょうど春の真ん中で、道を歩いていてもあたりの浮かれ具合が伝わってくる。
ひばりが、ぴちぴちぴちりぃとるりぃとるりぃとると忙しくさえずりながら、まぶしい空をまっすぐに上ってゆく。あまりに高く高く上っていくので、ついふたりで足を止めて、いったいどこまで上がるものなのか眺めたりもした。
春の日が目に沁みた。
吹きわたる風に綿毛がぽやぽやと飛んで、野の花は満開だ。春の花は色のやや薄いものが多くて、秋は赤だの黄だのといった濃い色が多いのがすこし不思議な気がする。
日差しも暖かで気持ちがいい。急ぐ旅程ではなかったので、歩き疲れると木陰に腰を下ろして休息をとった。
明るいうちに距離を稼がなくてもよいのかと問うギィへ、
「なに言ってるの」
真面目な顔でロワジィはきっぱりと首を振る。
「こんな、昼寝したらものすごく気持ちがいい日なんてめったにないのよ。ここでいま、逃がしたら、人生損してる。絶対」
力説すると、そうか、とかえされた。
そうして軽く寝るつもりが夕どきまでぐっすり寝こけてしまい、目が覚めたら暗くなっていて二人で苦笑いする羽目になる。
通行人があるとはいえ、その通行人がどういう素性のものか判らないうえ、街道を通るものを狙って野盗が出ることもあるというのに、あまりに浮かれて無警戒であると反省した。
反省したが、
……でもさあよくよく考えたら鉞を腰からぶら下げた大女と、その大女より縦にも横にも幅があるクマのような大男がそろっているわけじゃん。寝ていたとしてもその物騒な見た目に無茶する人間なんて、なかなかいないよ普通。
というのは、途中で知り合った羊飼いの少年の談。
年を聞いたら十一だという。名をテオと名乗った。
暗くなった街道を、四十頭ほどの羊の群れを追いながら、急ぐ小さな背中を見つけたのだ。どこまで行くのかとロワジィが声をかけると、悲鳴を上げて逃げられた。賊だと思ったらしい。
少年は逃げたが、羊は付いて行かずに残っていたので、どうしたものかと顔を合わせたあとに、彼が戻るまでロワジィとギィでそのまま羊を追って歩いた。
じきに、真っ青な顔をしながら少年はおっかなびっくり戻ってきた。賊は怖いが、群れは置いていけない羊飼い根性があったらしい。
自分たちは見た目は悪いかもしれないが、そうではないと少年に告げ、次の馬宿まで一緒だと言うので、共に行くことになった。
テオの叔父が馬宿を経営していて、そこへ住み込んで働いているのだそうだ。
口べらしさ、と少年は言った。
「俺ん家は、貧乏子だくさんだからね、」
いっぱしの大人びた口調だ。
「子だくさん」
「うん。俺の上にも三人兄ちゃんがいて、みんな家を出て町に出稼ぎに行ってる。そんで俺、あと下に五人」
総勢九人兄弟。子だくさんの話はよく聞くが、ロワジィの村にもそこまで子供の多い家はなかったので、驚いて聞きなおすと、兄弟すべて孤児(みなしご)なのだと少年は言った。
「なんかね、母ちゃんが子供ができない体だったんだって。で、かわりに、あちこちから、親のないのを貰ったんだって。貰ってたら、なんか、いつの間にかどんどん増えたって言ってた」
「にぎやかで、いいね」
世辞でなくわりと本心からロワジィは言った。彼女自身は兄弟姉妹もなくひとりで育ったので、大人数の家族に憧れがある。
「ぜんぜん」
少年は肩をすくめる。
「だってさ。家だと兄ちゃんもういないから、俺がいっとう上だったろ。下のちっちゃいののメシだの、しょんべんだの、面倒見なきゃあいけなかったし。あいつらすぐこぼすし、漏らすし。寝るときなんか、すごいんだぜ。上下たがい違いに、ひとつの布団に四人入んの。顔蹴られるし、寝しょんべんするし、布団とられて寒いし、最悪」
「そう」
相づちを打ってやりながら彼女は微笑む。最悪、とぼやきながら、少年の顔はまるで厭そうには見えない。
血のつながりはなくてもあたたかい家庭だったのだろうな。そう思う。
「面倒見るなんてすごいじゃないの。誰にでもできることじゃあないわ」
褒めるとたちまち頬を染め、得意げになる。可愛いなと思う。
「あんたら子供はいないの」
不意に少年に聞かれて、一瞬何のことを言われたのかわからず、ロワジィは目をむいた。
「……子供?あたし?」
「あー、あんたら夫婦とか、そういうんじゃないんだ?」
「ああ……、そういう、」
違う、と一言で切って捨てたくなくて、ロワジィは言いよどむ。そう言えば似たような会話を、農場の娘たちともしたなとふと思った。
あの時は姉弟かと聞かれたけれど。
「夫婦に、見える」
「うん」
少年は即答する。
「なんていうか、コイビト?とかじゃないっぽい。そわそわしてないっていうか。こなれてる感じがする。雰囲気が」
「それ、遠回しに若くないって、言ってない?」
ロワジィは笑った。ちらと男がこちらへ目をやったような気配がする。
「ちがうの」
「うーん、」
どうかな。あいまいに彼女は応えたはずみ、すっと身を寄せてきた男の腕が僅かに触れた。あ、ごめんね。小さく呟き、邪魔にならないよう離れる前に、男は彼女の手を掴み、一瞬ぎゅ、とその掌のうちへ握り込む。
……え、
その手はすぐに離された。だからもしかすると、握られたというのは彼女の勘違いで、実はただ腕がぶつかっただけなのかもしれない。
だったけれど。
ごつごつとした指は熱かった。それだけでなんだかどきどきする。
……そのまま握っていても厭じゃなかったのに。
すぐに離れてしまったので、花冷えの夜風に煽られて、その熱さはすぐに消えてしまいそうだと思った。勿体なくて、思わず上着の隠しに彼女は握られた手を突っ込んだ。
……何やってんだろねぇ、と自嘲しつつ。
すでに日は落ちている。外灯はない。その動きを少年に知られなくてよかったと思う。
「あんたらは、次の町までいくの?」
要領を得ないことに諦めた少年が、また別のことを聞いてくる。
「うん。次の町にもいくんだけど、……、」
「けど?」
「もっと大きな町を目指してるのよ」
言いながら自分でもかなりざっくりした言い方だなと思った。
「大きな町?エスタッドの都みたいな?」
「そうねぇ」
言われてロワジィは頭の中に大陸地図を思い浮かべた。
この大陸を大きな一枚の盆とする。中心に都が置かれている。
都の名前はエスタッドと言う。
国はひとつだ。自治領の名でいくつかの旧国名は地名として存在したが、ちょうど十年ほど前に大陸統一を果たしたエスタッドに、今はすべて吸収合併される形になっている。
都から蜘蛛の巣のように四方八方の要所要所へ街道を敷かれており、中央から地方へ、地方から中央への流通の目が伸びるようになっている。
ロワジィより一つ前の世代、国というものがひと晩で興りまた潰えていた時分は、それこそ国境をひとつ越えるにも大掛かりなことで、許可証だの手形だのが必要だったらしいが、今は簡単な関所検問があるだけで、大陸のどこへでも行ける仕組みになっている。
皇国、と名のつくように中央政権国家であり、皇帝が政治を取り仕切る。
最近代変わりしたと風のうわさで聞いた。
「あんた、行ったことあるの」
「ないない。ロワジィは?」
たずねると、大げさに手を振って少年は否定する。街道をずっと上っていけばたしかに皇国にたどり着くが、ここからだとひどく遠い。おいそれと羊飼いの子供が訪れられる場所ではなかった。
「一回だけ、行ったかな」
「へぇ」
「この仕事をはじめてから最初のころにね。花の都、だとか、エスタッドを見てから死ね、だとか言われてるじゃない。一度は見てみたかったのね」
「どうだった」
「気持ち悪くなった。人が多すぎて」
訪れた時分はちょうど建国祭間近だとかで、近隣の町や村からおのぼり連がぞろぞろとやってきていた。ロワジィもその連中の一人だったわけなのだが、都に入る前からすでに道を歩く人の多さに腰が引けた。
ここまで多くの人間というものを見るのは人生はじめてだったし、これ以降もおそらくないと思われた。無理だと思った。人の列というよりは砂糖にむらがる蟻のようだった。
それでも意地を張ってこれも経験だと人込みを眺めていたのだが、中途から具合が悪くなった。人に酔ったのだ。
「あたし、あそこ無理。住めそうにない。人が多すぎ」
なにごとも多すぎず、少なすぎず、いい塩梅がちょうどよいのだとしみじみと思った。
しかし、のちに都で育ったという同業者と仕事をしたときに、相手は辺境へ行くと空間がすかすか空きすぎて不安を感じるとボヤいていたから、これは生まれた場所の差異だったのだろう。
「ギィの就職先をね。探したいの」
男の身の振り方をロワジィはひと冬考えていた、なにしろ考える時間はたっぷりあったのだ。一応希望をたずねてみたが、男に聞いても俺は判らない、の一点張りなので、彼女は勝手に決めることにした。
どのみち男の待遇が今のままでいいとは思えなかった。雇っているロワジィが言うのもおかしな話だったが、男の働きぶりや技能に対して、支払う給金があまりに少ない。子供のお駄賃よりもほんのり多いかな、程度のことで、薄給と呼ぶのも申し訳ないぐらいだ。
だったら余分に上乗せすればいい。
理屈はそうなのだろうけれど、雇われ護衛で稼いだ賃金を、ほとんど手元に残さず生まれた部落へ送ってしまっている現状で、男に支払える余剰はロワジィにないのだ。
男が別にいいというからロワジィはそれに甘えているだけで、この状態を長く続けるのはよくないことだと思っている。
……もともと、すこしの間の話し相手のつもりだったんだから。
このままでいいと言うならこのままでもいいのじゃあないか、楽で甘い側へ流れることはいつでもできたけれど、それでは数多い「町の人間」と自分は同じになってしまう。うまい汁を吸い、おのれの懐具合さえあたたまることができれば、他はどうなろうとかまわない。だがそれでは山から下りたばかりの男を、寄って集って毟り取った輩と同じことだと思う。
それは厭だった。
「就職先って、」
「木工組合(ギルド)を探してるの」
男は力もあり手先も器用だ。言葉がたどたどしく、意思の疎通がうまくいくまでに時間がかかることもあるけれど、木に携わってきた技能を活かさない手はないと思う。店先に出て愛想をふりまく客商売は絶対に向かないだろうが、日がな一日木材を相手する職人仕事であるなら、男にちょうど良いと思われた。
ひと冬考えた結論がそれだ。告げると男はやはり、そうか、とだけ言った。
本意は判らない。
木工組合の言葉にああ、と頷いた少年が、
「俺わかるよ」
呟いた。
「知ってる?」
「知ってる。っていうか、俺、行く。もうすぐ」
馬宿の近くから乗合馬車もでているのだという。
「こっから一番近い町は、徒歩で三日、ってとこだけど、そのもうちょっと向こうにトルグってとこがあって」
その町の名は地図でも見かけた。ロワジィは頷く。
「そうだなぁ。こっから歩いたら十日ってとこかなあ」
「十日」
「うん。結構ね、賑やかな町なんだよ。町の中に水路がはしってて、倉庫がたくさんあるんだ。……そこにいくつか組合所があって、木工とか、革細工とか。あと製粉もあったかな。俺は羊毛のとこに行くけど」
「ひとりで?」
「そう。ひとり。納品しに行くんだ。もう何度も行ってるからね」
去年と一昨年はおじさんが付き添ったけど、今年はひとりだよ。胸を張って少年は応える。
「……いくら街道っていったって、あんたが羊毛持ってひとりで行くっていうのは、」
ロワジィは顔をしかめた。
羊毛組合に商品を納めるのであれば、おそらくある程度の量になる。乗合馬車に乗る荷物の量ではないだろうから、驢馬(ろば)にでも曳かせて道を行くことになるのだろうが、無用心な話だと思った。
少年にもそれは判っているのだろう。
こんばんはと彼女が声をかけたときですら、なにしろ彼は全力で逃げたのだ。
「でもひとりじゃないよね、」
に、と笑って少年は言った。トルグまで、ロワジィとギィも行くんだろ?
「旅は道連れってね」
ああそうか、そうよね、頷いた彼女によろしくね、と少年は言った。
「代わりにおじさんに頼んでさ。宿の料金割引してもらうよ」
タダと言わないあたりがちゃっかりしていると思う。
どうせ同じ方向の道行きなのだ。少年と同じ速度で進んだところで何も問題はなかった。
いいわ、彼女は頷いて了承した。
ここで馬宿についてすこし補足する。
街道筋にはおおよその距離ごとに馬宿が点在している。これは、れっきとした経済政策の一環である。
経済の興隆に必要なのは、需要と供給、そして流通である。
南でとれたものが北にながれ、東のものが西へゆく。よどみがちな地方地方の空気を、物資をながすことで横穴を開けてやる。
「国の豊かさ」
とは、国庫の金銭を増やすだとか、宝物庫をいくつ所持するだとかに限らない。それぞれの地方に活気があふれ、月市がたち、文化がまじりあうことで、おのれの土地に愛着を覚える。誇りを持つ。どこそこのワインに敵うワインは古今東西さがしてもみつからない、というようないわゆる、
「ブランド」
ができあがる。
必要なのは作り上げる土着の人間と、それを各地へ流す行商の人間だ。
前者はわりと簡単に奨励できる。数代かけて開墾した土地を認可し、そこで作り上げた交易品がある程度の品質水準に達したところを、各地方の酒蔵組合公認の印を与えてやればよい。
認可されたからには下手なものは製造できない。品質管理に重点を置く。品質が向上するので、値が張る。価格が上がった分の賃金が作り手に還元される。賃金が上がれば作り手はいっそうやる気を出して品質保持に取り組む。
ますますブランドの名のある交易品に信用が集まる。
肝要なのは、もう一方の行商だった。
産物をかかえ、別の地方へ赴く。赴いた地方で物々交換、あるいは貨幣でやりとりをして、また別の土地へゆく。
流通は陸路が主力である。しかし山窩(さんか)のたぐいにとって、商い品を山と積んだ荷馬車は、目の前を無抵抗で通る馳走でしかない。
狙われた。
なかには独自に自衛団を雇い、道中の安全をはかるものもいたが、それはほんの一握りの豪商にしかすぎず、大半は襲われたが最後、命からがら身ひとつで次の部落まで逃げ延びるのが精いっぱいだ。そこでエスタッドは対策を講じた。
そのひとつが馬宿だ。
街道をあらため、一定の距離ごとに拠点を作り、行き来する人間が逃げこみやすい場所を提供し、衛兵を常駐させる。
勿論、馬宿の元来の意味は、
「馬を乗り継ぐことのできる場」
であったから、伝馬も用意する。緊急時における早駆け用の軍馬である。
なかには、鍛冶や大工をそなえた、ちょっとした山塞もどきの馬宿もあったらしい。
街道全ての安全を、
「面」
で保障することができなくても、馬宿へさえ駆けこめば衛兵が何とかしてくれるといった、
「点」
の存在を作ったのだ。苦肉の策ともいえる。
テオ少年の叔父が経営する馬宿は、こぢんまりとした規模のものだった。
ただいまと厨房に顔を出し、それから少年は群れを柵の中に追うために宿の裏手に回った。
ロワジィはギィを伴い、おもての入り口から建物へ入る。
扉を開けた瞬間、籠もった暑いほどの室温と、かき鳴らす胡琴の音、爆ぜる火のにおいが、いちどきに彼女に向かってむっと流れ出し、思わず彼女は目をすがめた。
すがめた拍子にうっかりよろめきかけた体を、後ろにいた大きな手が支える。
「ありがとう」
大きな手の支えは力強い。その手は揺るぎない。
「お腹空いたわね」
振り仰いで彼女は男に言った。
なにか言葉を口にしないと、泣きべそをかきそうで、焦った。
大きめの町へ行く。木工組合を訪れる。
とうに決めていたことなのに、町の名前はあえて詳しく調べなかった。出立の準備に慌ただしかったことにかこつけて、自分はずっと調べようとしないで、まだ考え中、だとかで、曖昧にしてきた。
どうしてごまかしてきたのか、自分でもうまく理由が見つけられずにいたけれど、少年と話してロワジィは気づいてしまった。
口に出してしまうと、期限が目の前にはっきり見えて怖かったからだ。
「これ」
言ってロワジィは男に革袋を差し出した。中には白銅貨だの銀貨だのが入っている。雇った最初に取り決めた、請け負った護衛仕事から差し引いた男の取り分だ。
それにこのひと冬の農場からもらった男への手当。彼はよくやったから。言って色を付けて農場主は渡してくれていた。
「預かってたけど、あんたに渡しておくわね。いろいろ入り用になるでしょ」
「……、」
火の側に座り、出された夕食を口に運びながら、無言で金袋を見つめていた男が、
「トルグに、」
ぼつ、と呟いた。
「うん、」
「トルグに、行くんだな?」
たしかめるような声音だった。
「……行くわ」
パンをむしり、口に押し込む。腹は減っていたはずなのに、味はさっぱりしなかった。
「他に行きたい所があれば行くけど」
「……いや、」
少し言い淀み、男は結局首を振る。そうしてようやく袋を受け取った。
「……あんたが考えてくれた、それで、いい、思う」
と言った。それから思い直したように、
「あと」
どのくらいの道程かと尋ねた。
「……そうねぇ、はっきりしてないけど、あの子と一緒に荷物曳いて行くとしたら、少しゆっくりになると思うから……、半月ってところじゃないかな」
「――」
「トルグで契約終了ね」
「――」
言うとまたしばらく黙り込んでいた男が、
「それは」
もう決まったことなんだな、静かにたずねた。あまりに静かに男がたずねるので、一瞬言葉に詰まり、それからそうよと彼女は返す。
「わかった」
男は頷き、頷きながらわずかに口を歪める。諦めた笑いにも見えた。諦めた。……何を?
いぶかしむロワジィの前で、あんたには世話になりっぱなしだな、言ってぐいとジョッキのエールを呷ると、立ち上がる。たいして食べていなかったので、珍しいなと思った。どうかしたのかと声をかけると、寝る、と返される。
「先、寝る」
「ああ……、おやすみなさい」
引き留める言葉も特になく、男の背を見送る彼女の側に、馬宿に常駐していたらしい流れの歌うたいが、小銭を求めて近寄った。その動きを目端でとらえ、ぽんと青銅貨を数枚、前に置いてやる。
「――なにを」
「なんでもいいわ、静かなのやって頂戴」
手を振ってこたえる。
いま食事を終えると、男が下がった部屋に彼女も入ることになる。相変わらず相部屋なのだが、この宿はひとつひとつの間取りが小さい。四人でひとつの部屋は、今日はほかに宿泊客がおらず、実質ロワジィとギィだけだ。
どこか心ここにあらずな様子の男が気がかりではあったけれど、すぐに追うのもどうかと思ったので、食堂兼広間でもうすこしだべる事にする。
胡琴の調律を終えた歌うたいが、爪弾きながら静かに歌いだす。
“そうです、それはこいでした。”
高めのテノールが紡いだのは、大陸で昔から歌われているバラッドだ。
“そうです、それはこいでした。”
“なにげないひとことできずついた、そうですそれはこいでした。“
「――恋、ねぇ」
苦笑いしてロワジィはジョッキに口をつける。お決まりの歌。歌うたいのいくつかの手持ちの歌の中のひとつで、どこの酒場でもなじみのものだ。
もう何度となく聞いたことのある歌。
どこも特別でないはずなのに、やけに耳に沁みるのはなぜだろう。
抱えた膝に顎を乗せ、ぼんやりと炎を目に入れた。
部落にいた年長の若者に憧れ、同じ年ごろの娘ときゃあきゃあ騒いだあれは、恋だったのだろうか。
年に一度の宵祭りで、隣村からやってきていた青年が彼女の手を取り、踊りの輪に誘う。そのときの胸の高鳴りは、恋だったのだろうか。
絵描きの男のことは、尊敬していたけれど恋はなかったように思う。
――恋ってもっと素敵なものだと思ってた。
掴みどころはないけれど、七色に光るシャボン玉のように、淡くてきらめいているものだと思っていた。
こんな風に、胸が痛くて苦しいばかりのものだなんて思わなかった。
“こまったようにわらうえがおのむこうがわで、ほんとうはあなたが、きずついていたのだとおもいます。”
じゃあどうすればよかったんだろう。
膝を抱えたまま、ロワジィはじっと考える。
木工組合を思いついたのは、余計なお世話だったのかな。
お給金これ以上払えないけど、一緒に来てね、って言えばよかったのかな。
大きな怪我や病気になったときに、何の保証もない生活をずっとしてくれ、って言えばよかったのかな。
襲撃してくる人間が怖くて震えているひとに、我慢して退治してくれ、って言えばよかったのかな。
わからない。
男は「良い」人間だと思う。だからこそ彼女の憂さ晴らしに巻き込めなかった。
手前勝手な願いだとは思うけれど、男には幸せになってほしかった。
丹念に仕事をする男のことだから、最初は馴染めなかったとしても、すぐに組合で重宝されるだろう。
丁寧な仕事をくり返す穏やかな生活をしてゆくうちに、男の傍に寄り添う誰かも出てくるに違いない。それはきっと嵌め絵のように、隙間なくぴったりとあて嵌まる相手だ。男のすべてを受け入れて、愛おしんでくれる娘だ。
あのひとを振り回してへとへとにさせる、あたしじゃあない。
炎を見つめるうちにまばたきを忘れたのか、瞳が乾いて痛くなってきたので、彼女は目を閉じる。
“こまったようにわらうえがおのむこうがわで、ほんとうはあなたがきずついていたのだとおもいます。”
歌うたいがくり返す。
どうしてあのひと、諦めたように笑ったりなんかしたんだろう。
ロワジィは目を閉じたまま、抱えた足が痺れるまでしばらく考え続けた。
少年を伴った道中は、時々空がしぐれ、にわか雨が降ることをのぞけば、問題なく進んでいた。
街道筋なので日に何度かは馬に乗った見回りの衛兵も行き来する。そのせいか、旅人を襲う不埒ものはこのあたりにはいないようだった。
町に近づくにつれて雇われ用心棒の仕事はだいぶん少なくなりそうだとは思いつつ、けれど治安が良いのはいいことだとロワジィは思う。
賊がいないということは、それに苛まされる人間の数も少ないということだ。苛まされる人間の数が少ないということは、それだけ不幸に泣く人間が少ないということでもある。
不幸なんて、少なければ少ないほどいい。
驢馬の引き綱を手にしながら、脇を歩く少年に目をやった。
「ねぇねぇ、ロワジィ」
「うん、?」
「トルグへは急ぐの」
視線を向けられたことに気づいた少年が、彼女にたずねる。物怖じしない少年は、すっかり彼女とギィに懐いていた。
一度休憩のときに、そのあたりに転がっていた小切れをナイフで削ってくるくると削り、黙ってちいさな羊を作ってしまった男に、少年は特に憧れの念を抱いたらしい。
すげぇ、を連発し、それからずっと男にまとわりつき、休憩のたびに何か作ってくれとせがんでいる。
大きなギィに並ぶ姿は、なんだかクマのまわりをちょろちょろ走る犬のようで、見ているとその体格の比率になんとなく笑ってしまう。
「ううん」
聞かれてロワジィは首を振った。
「急いでない。あんたの荷物も、腐るもんじゃあないしね」
言って彼女は後ろを振り向いた。
少年は刈りためた羊毛をひとくくりにまとめ、驢馬に括り付けて運んでいる。一頭分の羊毛というもの、実は割合重いのだ。それを集めて数十頭分ともなると、重量はかなりのものにある。
「なにかしたいことでもあるの」
「うん」
少年は頷いた。頷き、ちら、とすこし離れて歩くギィへ目を流す。視線を受けて男もロワジィとテオ少年を見た。
「別に、何日かトルグへ行くのを伸ばしたって、困らないけど、……、なにするの?」
「ひみつ」
「そう」
なにを企んでいるのかはわからないが、とどまりたいなら付き合ってもかまわない。そう思って彼女は了承した。
町へ着き、宿を決めると、さっそく男と少年は連れだってどこかへ出かけてしまった。
午後八つ。夕暮れにはまだ早い。思ったより早く着いたので、まだ飯時にもなっていない。トルグまで行く予定があるので、仕事を探す予定もなかった。
つまり暇なのだ。
夕飯まで昼寝してしまってもよかったのだけれど、折角空いた時間を寝て過ごすのももったいないように感じる。では自分は何をしようかとひと息ついて荷物を見回し、そういえば小刀が刃こぼれしていたことをロワジィは思い出した。
――研ぎに出そうか。
細かい手入れは勿論、使った毎に研いで磨いておくのだけれど、やはり本職の鍛冶屋に持ち込むと切れ味が違う。ついでに鉞やほかの山刀も見てもらおうと荷物をさぐり、ひとつにまとめて宿を出る。
「さて、鍛冶屋はどこかな」
ひとり語散てロワジィはあたりを見回した。この界隈は宿場が固まっている。数日逗留する予定のここは、目的のトルグよりはだいぶ小さいとはいえ、規模は「村」ではなく「町」である。
考えてみれば半年ほど人混みから遠ざかっていたのだ。
久しぶりの人の多さにやはりくらくらした。同じ数だけの羊や山羊を見ても、どうということもないのに、相手が人間であると言うだけで生じるこの苦手意識というものは、一体何なのだろうと思ったりもする。
そうして人混みは苦手だと言ったその口で、露店を冷やかしのぞきつつ、そぞろ歩くのは好きなのだ。
朝の仕事場に向かうせわしなさとも違う、日暮れ前の夕飯の買い出しに行き来するのとも違う、のんびりとした空気が通りには流れていて、そこをぶらぶらとロワジィは歩いた。
鍛冶屋の場所をたずねながら歩いたので、見つけたときには空が少し赤くなっていた。
表通りから入ったところにある店は、間口半間あるかないかの、縦にも横にもえらく小さなものだった。
身を屈め入り口をくぐろうとしたところへ、中から出て来た人物と鉢合わせしそうになり、ロワジィは慌ててつんのめりながら横に避けようとした。
避けようとし、げ、と言う声を耳にする。
どうも品のない声だな、しかしどこかで聞いたことのある気もする声だなと思うのと、発した相手の顔を検めるのが同時だった。
「あー……、」
げ、とか言うな。
舌打ちする。
聞き覚えのあるその声の主の頭は、彼女よりだいぶ視線の低いところにあった。
ざんばらの髪。痩せぎすな体と比例した、貧相な顔立ち。口元の消せないゆがみが、男の荒んだ内面を表していると思った。
峠越えのときに一緒に仕事をした、弓使いの男だ。
ロワジィとギィへ、曳き荷の仕事を押し付け、とくにギィに向けて悪態をついていた男だ。正直心証はかなりよくない。
仕事の間は、それでも仕事のうちと我慢したが、終わった今となっては、できれば二度と顔を合わせたくない人間だったし、相手もそうだったろう。
実際この広い大陸で一度別れたもの同士が、次に出会う確率はかなり低い。流しの護衛というわりと狭い業界にいてもそれは同じだ。一度同じ仕事をした仲になったとしても、連れ立って次の仕事を探すのでもなければ、通常出会うことはなかった。
今までは。
その確率の低い再会に、べつに嬉しくもない、ロワジィの中では過去に出会った人間の中でも最低の部類に入る男に会うというのは、運が悪いというか呪われているとしか言いようがない。
「最悪」
思わず本音が口を衝いて出た。
「そらこっちの台詞だ」
「なんであんたがここにいるの」
「俺が言いたいね」
互いに嫌悪感をむき出しにして顔をしかめる。
「来たくて来てるんじゃねぇよ」
「じゃ、どっか行きなさいよ」
「相変わらずムカつくな、あんた」
しっしと手を振ったロワジィに歯を剥き出して小柄は威嚇し、それからふと思い出したように、きょろきょろあたりをうかがった。
彼女がひとりなのを見止めると、もの言いたげな顔になる。
「なに、」
「あんた」
そうして小柄は、にやにや下卑た顔になった。
「あのうすのろの役立たずがいねぇな。……売ったのか」
とっさに彼女が手を出さなかったのは、ここが町中で、騒ぎを起こすと巡回の兵がくるからだ。
一度ゆっくり目を閉じ、それから侮蔑をこめて気に食わない顔を見下ろす。
「役立たずはあんただろ。売るとか、そういう発想しかできないの。考え方が貧困で、本当お気の毒さまな頭ね」
「……くっそ、いじめて泣かしたい」
「泣かせられるんなら泣かせてごらん。頭が鉞の形にくぼんでいいならね」
半分本気の言葉だった。
「……そもそもあんた、なんでこんなとこにいるのよ。鍛冶屋に用事?出て来たってことは、用事は済んだんでしょう。終わったんなら、そこどいて頂戴。邪魔」
目を細めて威嚇してみせると、だから仕事だって言ってんだろ、と男がそれでも脇へ避けながらぼやいてみせた。
「なにそれ」
「仕事だよ。しーごーと。デカいと耳まで遠くなるのか」
「ああ、そう。じゃあ、がんばってね」
立ち話を続けたい相手ではまるでない。心底これ以上関わりたくなかったので、さっさと会話を切り上げて店内へ入ろうとする彼女へ、
「いやいやいやちょっと。ちょっと待てよ」
小柄男が食い下がった。むかむかとする。
「……なによ。あたし忙しいの。用事ならとっとと言いな」
「人探ししてるんだが。挙動の不審な中年の男は見かけなかったか」
「あんた」
「……あのな。喧嘩売ってんのか。犯すぞてめぇ」
男の語気が不穏を帯びる。その様子を見下ろし、肩をすくめながら残念だけど、ロワジィは応える。からかうのが面倒くさくなったのだ。
「町に着いたのついさっきでね。着いてすぐ宿に向かって……、だからおかしな素振りの人間は見てない」
「そうか、……、邪魔したな」
応えるとわりと素直に男は引いて、おや、と彼女は片眉をあげた。もっとしつこく絡んでくるかと思ったが、そうでもないらしい。人探しの仕事中なのは、本当のようだった。
不審な男、になんとはなしに引っかかって、ねぇ、と去りかけた背中へ彼女は声をかける。
「探し人って、」
「そう言ってんだろ。一度で聞け」
「なにしたの、そいつ」
「ひとごろし」
「……、」
思わず口を噤んだ隙に、小柄男はするりと小路から姿を消す。口の端を下げて彼女は見送っていた。
いやだなと思う。
これだけ人が多い町であるのだから、そうそう巻き込まれたり、その探されている当人に出くわしたりしないと思うが、それでも用心するに越したことはない。しばらく路地の壁を眺めていた彼女は、鍛冶屋の用事が済んだら、少年を探しに行こうと思った。
どうしていやな予感というものはこう当たるのかと思う。
しかし考えてみれば、そもそもいい予感、なんて生きていてそうそうないのだ。たいがいは、ああこうなってほしくないなと、思わぬ方向に転がってゆきそうな、半分判ってる未来に対して祈るだけで、そうして祈りなんてものは聞き届けられたためしがない。
獲物の研ぎを頼むと、いま職人が出かけているとかえされた。じきに戻るとのことだったので、腰かけて待つ。待つあいだ、手持ちぶさたに路地を眺めていると、次第に表が赤く燃えてくる。
珍しくはっきりと色のある夕焼けだった。とろけた卵の黄身の濃いような太陽が西の端にあるのだろう。店は路地の奥まったところにあったので、直接空は見えなかったが、あたりの空気まで茜色に染まっていた。
これは明日晴れるかなと思い、ぼんやり眺めるうちに空気は次第に暗みがかった赤紫に色を変え、その変化に感心したロワジィが目を細めて見ていると、それからしばらくして表は藍になっていた。
夜の気配にいつの間にかすり替わっている。
この移り変わりが見事なものだと思う。
そうして結局半時ほど待ったころ、待たせて大変申し訳なかったと恐縮しながら、職人が裏手から店に戻ってきた。
腰を上げ、手に下げていた包みを手渡すと、職人がひとつひとつ手に取り丁寧に見分する。なかでも鉞に目を止め、柄と頭の嵌めこみ部分が、若干くたびれているようだと告げられた。ひと冬ずいぶん使ったので、緩んでいたのだろう。
直しを頼んだ。
柄を付け替えるとなると、待たせることになるがいいかねと聞かれ、数日留まることを思い出す。明後日までに仕上げてほしいと頼むことにした。
ひと揃え店に預けて店を出る。外はすっかり日が落ちていた。
宿に向けてロワジィは歩き出す。
戻る途中で、立ち並ぶ家々から、夕餉のにおいが通りに漏れていた。思わず鼻をひくつかせる。中から子供のはしゃぐ声がした。
帰る途中に一杯ひっかけ、もうやってられねぇやなどとくだを巻き、首を回しながら扉を開けると、おかえりとかけられる声がある。くんくんとにおいを嗅がれ、あんたまたやってきたねと怖い顔をされ、そうしてほら早く入っとくれ、飯がさめっちまうよと尻を叩かれ席に着く。
変わりばえのない毎日。
すこし羨ましく思った。
彼女が手放してしまったもの。選ぶこともできたのに、別のなにかを択ってしまったもの。自分で決めて、過ごしたこの十年に悔いはないけれど、
――でも、もし。
考えることはある。
もし、あのとき、誰かと別の新しい家庭をもう一度築いていたら、彼らと同じような日々を送れただろうか。
それはつつましやかで質素な暮らしかもしれない。けれど、家に迎える家族がいて、派手に大きな喜びもない代わりに、打ちのめされるような悲しみもなくて、穏やかに、淡々淡々と過ごして年老いてゆく暮らしだ。
幸せな一生。
――もし。
歩きながら顎に手をやり、考えこんでいた彼女の耳に、その時泡を食った声がたしかに聞こえた。
顔を上げる。
呼ばれた気がした。
「ロワジィィ――ッ」
宿場の界隈にいつの間にか戻っていた。その向こうの通りから、転げるように走ってくる姿がある。
慌てふためき足をもつれさせながら走る少年の態に、胸騒ぎがした。
ああ、よくない予感が当たってしまったなと思う。
「ロワジィ!ロワジィ!!」
ぶつかる勢いで彼女の胸に飛び込んだ少年が、がばと顔をあげて腕にすがった。
「探してもいないし!どこ行ってたんだよ……!」
「……どうしたの。どうしたのよ」
テオ少年の肩に手を置き、落ち着かせるように撫でさすった。
摩りながら確信する。少年とともに出かけていたはずの男の姿が見えない。
「あのひとに、なにか、あったのね」
「ギィが。ギィが、俺、行ったらだめだって言ったんだけど、大丈夫だって言って、俺、ちがうって、俺たち関係ないって言ったのに、あいつら全然聞いてなくて、」
「……テオ」
ロワジィは、少年の目線に合わせて膝をついてしゃがみ込んだ。薄暗がりの中でじっと相手の目を見つめ、ゆっくりと静かな声で語りかけるように努める。できているかどうかの自信は正直なかった。
「落ち着いて教えて頂戴。あのひとに、なにがあったの」
「……うん、」
震える拳でテオはおのれの顔を擦り、それから大きく息を吐いて口を開いた。
「ギィが捕まった」
男が身柄を拘束されている詰め所にすぐに向かいたい気持ちに急かされながら、とりあえず現状把握しようと、ロワジィは少年を伴って宿に戻る。
まずは理解できないと、行ったところで話にならない。
「あのね。俺とギィで、花売りの女の子のところに行ったんだ」
部屋に入って腰を下ろした少年はそう言った。戻るまでにある程度、頭が整理できたのだろう。先ごろよりだいぶ落ち着いている。
「花売り、……、」
「あっ、花売りって言っても、その、『そういう』方の花売りじゃなくって。もう本当に、普通の……、こういうの普通っていうの?えっと、咲いてる花しか売ってない、花売り」
一瞬いぶかしんだ彼女を察して、少年が急いで補足する。町の仕組みをしっかり判っているませた言動に、うん、と頷きながら思わず彼女はすこし笑った。
笑ってはじめて、ずっと頬がこわばっていたことに気がつく。
「それで?」
「通りで籠に花入れて売ってて、で、俺たちその籠の中のよりもっといっぱい花がほしくて、どこかで買えないかって聞いたら、店に来ればまだたくさんあるからって」
「うん」
「その子に連れられて、その子の店の裏庭っていうのかな、温室みたいにしてるところがあって……、そこに行って、で、これとこれとこれって選んで金も先に払ったんだ。わりと買って、ちょっと持ちきれないねってなったんだけど、そうしたら、頼んだところまで届けてくれるってその子が言って」
「うん」
「泊ってる宿まで持ってきてくれるっていうから、宿の名前言って、それで俺たち、その店でたの」
お金はもう払ったし、長居する用事もないしね、言われてそうねとロワジィは返す。返しながら、その払った金というのは、先日馬宿で渡したあの賃金なのだろうなとふと思った。
「それで……、そのあと、ちょっと通りの店とかぶらぶら覗いて、俺、今度家に帰るときに、母ちゃんに何か土産渡したかったから、何がいいかギィといっしょに見たりして、それで、そのうち、もう日も暮れたし、腹減ったから、飯食おうって俺たち飯屋に入ったんだ」
「うん」
「席に座って、飯頼んで待ってたら、なんか店の入り口がうるさくなって、衛兵が何人かどかどかやってきて、ここにいたんだな見つけたぞって」
「――うん」
「見つけたぞって言われても、俺たちさっぱり意味わからなかったし、なんだよって言ったら、あいつらいきなりギィのこと殴りつけて床に押さえて、取り調べするからついて来いって言って」
「――」
「けど、何も理由言わずにつれてくって、絶対おうぼーだろ。衛兵だからって偉ぶっていいわけないだろ。だから俺、一体何なんだよって言ったんだ。何で連れて行くんだって。そうしたら、花売りの店に強盗が入った跡がある、直前までお前らが会ってた証言がでてる、だから怪しいって」
「――」
「強盗とかいきなり言われてびっくりしたけど、でも俺たち、本当に何もしてないし、知らないんだよ。その子の店で別れてからあとは、市場ぶらぶらしてただけだし、だから関係ないって言ったら、俺もぶっ飛ばされて……、そしたらギィがやめろって、おとなしく付いて行くからもう何もするなって言って」
言って少年が唇をかみしめる。悔しいのだろう。その右頬が赤く腫れていて、ロワジィはそっと彼の頬に手を当てた。
「ロワジィ、」
「……ありがとう。庇おうとしてくれたのね」
「でも俺、庇えなかった」
彼はうつむき肩を震わせる。
「俺、ガキで、衛兵のやつらに鼻にもかけてもらえなかった。連れて行くなって言ったけど、誰も聞いてやしなかった。大丈夫、すぐ戻るってギィは言ったけど……、ごめん、ロワジィ」
「大丈夫よ」
震える体を抱き寄せて、彼女は少年を抱きしめた。
「あのひと、強いひとだから。大丈夫。それに今からあたしも行って、話つけてくる。あんたもあのひとも、そんなことしないってあたしは知ってる。話して、ギィ連れて戻ってくるわ」
「俺も行く」
「駄目。ここで待ってて」
おのれよりずいぶん小さな頭に手を当て、癖のないやわらかな金髪をぐしゃぐしゃと撫でる。ロワジィが少年に告げると、思った通りの答えが返ってきた。きっぱりと首を振ってみせる。
「けど、」
「もう外は暗い。それに、あんたとギィが無実なんだから、花売りの店に押し入ったやつがまだウロついてるってことでしょう。ここで待ってて」
「けど、」
「最初に言ったこと忘れたの?あんたが言ったのよ。旅は道連れだって。……トルグでのあんたの用事が済むまで、あたしは雇われ護衛として、あんたの叔父さんから、あんたの身の安全を引き受けたし、前払いで馬宿の宿泊料金を割り引いてもらってる。面子だってかかってんのよ」
「けど、」
「テオ」
尚も渋る少年の目をじっと見つめ、ロワジィは言った。
「お願い」
「……」
「信用して」
「……わかった」
しばらく黙りこくり、彼女の眼の中を覗きこんでいた少年が、ようやく頷いた。
「ここで待ってる」
それを聞いて、彼女は頷き立ち上がる。いつもの癖で腰に鉞を挿そうとして、鍛冶屋に預けていたことを思い出した。やれやれ。こんな時にね。ため息をつき、仕方なしに小刀を腰の後ろにしまって、見上げる少年の頭に手を置いた。
「今から行って……、朝までかかるかもしれない。きちんと寝るのよ」
「わかった」
「念のため、部屋を変えるわ。ここは相部屋だし、色んな大人が出入りするから……、個室をとるから、そこで寝てて」
「わかった」
頷いた少年をたしかめて彼女は帳場へ行き、部屋の変更と少年をたのむと、宿を出る。ぴり、と夜風が肌を小さく刺した。
夜の気配が張り詰めている。
街灯の火勢が常より強められ、往来に人の姿は少なく見える。まだ宵の口であるから、普段なら酔っ払いがあちらこちらでたむろっているのだろうけれど、花売りの話がもしかしたら広がっているのかもしれない。
急ごう、自分に呟いて、ロワジィは妙に寒い風に襟を立て、男が連れていかれた詰め所へ向かった。
「どういうこと」
開口一番、会わせられない、とにべもなくあしらわれ、語気が強くなる。
「あたしはあんたらが連れてった男の身元引受人よ。会わせられないってなんなの」
「――今は取り調べを受けている」
食ってかかったロワジィに、相変わらずそっけないその衛兵は応えた。
「それに今日の面会時間は終了している。明日出直せ」
「なにが取り調べよ。なにも知らないって言ってんだろ」
衛兵は答えない。硬い石の建物の扉の入り口に立つ彼は、こうして詰め寄る相手に慣れているのだろうと思った。
飽きている、のかもしれないけれど。
「そもそも、あんたらお得意のお取り調べだかをする前に、まず被害を受けた相手に容疑者の面通しをするのがスジだろ。乱暴された当の店の人間が見たら、あのひとがやったか、やってないかだなんて、すぐに判るでしょう」
「店の人間はみな死んでいる」
「死ん、――」
ひゅ、とおのれの喉が息を吸うのを彼女は感じた。
「――死んだ?」
「死んだ。皆殺しだ」
思わずロワジィは押し黙った。少年は強盗と言っていた。だから、ただ押し入って刃物でもちらつかせ、金目の物を奪い、店のものを縛った程度の犯行だとたかをくくっていた。
町の空気がぴりぴりと張りつめるわけだと思った。
「……面会時間っていつ」
「今日の面会時間は、」
「明日の聞いてるに決まってんでしょう」
衛兵の答えを中途でさえぎって彼女は顔をしかめる。こういう杓子定規のお役所仕事だから、公的機関と言うやつは厭なのだ。返事まで固い。
「明朝、五つから面会は可能だ」
「ああそう。じゃあここで明けるまで待たせてもらうけど、いいね」
「ここは、」
言ってどっかりと腰を下ろし動かない構えの彼女を見下ろして、ふと彼が表情を変える。
「……なによ。邪魔?邪魔だってのは知ってるのよ」
少年に、男を連れて戻ると言った手前、手ぶらでは戻れないと思った。そうして少年には言わなかったけれど、男が、自白を強要するために拷問まがいの取り調べを受けるのだと思うと、自分だけ寝床で眠っていられる気分でもなかった。
ロワジィの仕事は雇われ護衛だ。彼女のはかりにかけて、よっぽど許せないものは断ることもあるが、それでも後ろ暗さをほのめかす依頼を受けることもあったし、その分、留置場だの拘置所だのと言った部分と付き合うことも多かった。
市井のまっとうな仕事に就いている人間よりも、だいぶ街道が裏側だ。
だから男が今どんな状態で、どんなことをその身に受けているか、あらかたの予想がついたし、ついたからこそじっとしていられない気持ちだった。
……こいつらは、自白が取れるなら、骨の一本や二本、平気で折る。
「いや、」
衛兵はじっとロワジィを見る。その目に僅か憐れみが交じっているような気がして、なに、ともう一度彼女は聞いた。
「――少し向こうに明かり窓が見えるだろう」
彼は言った。言われている意図が読めなくて、怪訝に思いながらロワジィは指さす建物の外壁へ目をやる。
そこには確かに、片手の平を広げた程度の四角の小窓があった。
「見えるけど」
「この建物の取調室はあそこにある」
「だから、なんだって、」
「夜明かしするのは構わんが、ここにいると、聞こえるぞ」
「――」
虚を突かれ思わずひるんだ彼女の耳に、その時不意に苦鳴が飛び込んだ。
「――ギ、」
聞き違えるはずがない。彼女の好きな、男の低くて耳に沁みるかすれがちな声。
腰を浮かせた彼女はそのまま口を噤んだ。
途切れがちに窓から漏れる男の声は、呻吟の色が濃い。う、う、う、と短い呼吸がしばらく続いて、それからうーっ、うーっ、と痛みをこらえ、こらえきれずに食いしばった口から漏れるような音が、その小さな窓から聞こえてくる。
「……ちょっと、あんたら、何やって、」
色を失い、彼女はよろめき立ち上がった。あらかたの予想はついていた。けれど、予想がついていたことと、現実に男が拷問まがいの行為を受けて、苦しみ呻いている声を聞くことは、まるで次元が違う話だ。
知らず小窓に駆け寄っていた。ギィ、とロワジィはその小さな四角に向かって叫んだ。窓はだいぶ高い場所にあったので、上背のある彼女でもさすがに手は届かない。
「やめなさいよ!そのひとは無実よ!そのひとは絶対にやってない!」
「無駄だ」
すぐ近くまで寄った衛兵が、彼女に建物から距離をとるように警告しながら首を振る。
「ギィ!」
「あの窓から中に声は届かない。決して届かない。そう言う作りになっている。中から外に聞こえるだけだ」
無感情に衛兵が牽制する後ろから、ひときわ大きな男の苦痛の咆哮が響いた。獣の呻きのようだと思った。
あ、あ、あ、あ、そのあと単発的に言葉にならない吃音。
「……これは、」
関節が外れたのかもしれんなと、衛兵が呟いた。
呟きを聞いてかっとなった。後先考えず、はずみでロワジィは彼の胸ぐらを掴みかかる。けれどその動きは見越されていて、素槍の柄で難なく交わされ、弾かれてしまった。
「一度は見逃がす。次は公務執行妨害でお前もぶち込まれるぞ」
「ぶち込みたきゃあぶち込みなさいよ!いますぐあのひとを放しなさい!」
――ほら、早く吐いちまえ。なに、認めるだけで楽になれるんだ。手当もしてやる。「俺がやった」、……、そうだろう?
――獲物はどこだ。どこに隠した。
低く尋ねる兵士たちの声と、男の悲鳴が交互に聞こえ、
「……やめてよ……お願い、やめて……」
歯を食いしばり懇願する。耐えられなかった。
突き飛ばされ、したたかに背を打ったが、痛みは感じない。
ざり、と石畳に爪を立て、ロワジィは呻く。呻いている間にも、男の苦痛の声が、小窓から聞こえてくる。
「ひと晩続くぞ」
衛兵は言った。目の前が真っ暗になる思いでロワジィは顔をあげ、無感情なままの彼を見た。
唇はわなないたが言葉は出ない。
彼は最後にちら、ともう一度彼女へ視線を投げかけてから、おのれの持ち場である扉の前に戻っていった。交代の時間まで、また石のように立ち固まっているのだろう。
その動きを呆然と眺めていた彼女の後ろから近づく足音がある。
「なあ、あんた」
近づいた足音は遠慮がちに彼女へ声をかけた。
「……なに、」
聞き馴染みがあるとはけっして言いたくないなと思う。そうしてこの男にも遠慮、というものがあるのかとすこしだけ感心した。
先ごろ別れた小柄の男だ。
「話がある。ここじゃあなんだから、場所を変えて話したい」
「――」
のろのろと頭を巡らせ、ロワジィは背後の小男を見た。
「話すことなんてない」
「あのデカブツ出したいんだろ。あんたにとっても悪い話じゃない」
「――」
ゆっくりと彼女は視線を戻し、詰め所の明り取りの窓を見た。相変わらず男の声が断続的に低く漏れて聞こえて、そうしてもう一度彼女は小男を振り返る。
「出したい」
「じゃあ付いてきてくれ」
ぼつんと素直な気持ちが口からすべってこぼれた。聞くと小柄は頷いて、さっさと背を向ける。その背をぼんやり見送りかけ、それからロワジィは我に返り立ち上がった。
連れていかれたのは路地裏から半分ほど地下にもぐった酒場だ。入り口がまるで穴ぐらだと呆けた頭でロワジィは思う。
酒場には眠っているような顔をした、年老いているのか若いのか、まるで分らない年齢不詳な女が一人いるだけだった。カウンターに肘をつき、入ってきたロワジィと小男のことを見もしない。慣れているようで、小男は勝手に軋む椅子を引き腰を下ろし、彼女にも座るように勧めた。
背を丸め手をすり合わせる様子が、ネズミというよりはモグラだなとふと彼女は思った。
そういえばこの酒場も獣の穴ぐらのようだ。
モグラは言った。
「あいつ、強盗殺人で引っ張られたんだろ」
「それがなに」
眠っていると見えた女が、非常に気だるげな動きでカップに酒を注ぎ、男と彼女の前に無言で押しやり、そうしてまた動かなくなる。
ほかに客もいない。寂れた店らしい。
こんなことをしている場合じゃないのに、気持ちばかり焦っていらいらとロワジィは髪をかき上げる。
「あんたに関係ない」
「ああもうそう突っぱねるなよ可愛いくねぇな」
舌打ちしてモグラは注がれた酒を煽った。
「なあ、俺は三十八だが、あんたいくつだ」
「三十だけど」
「そうか。俺の許容範囲は十代だ」
「……、」
ため息をついて彼女は立ち上がる。関わっただけ無駄だった。どうしてこんな男についてきたりなんてしたのだろう。
気の迷い、とはこういうことを言うんだな。そう思う。あの状況で、なにか打開策があるようなことをほのめかすから、思わず目の前の相手の言葉に従ったけれど、ついてくるべきじゃなかった。時間の無駄だった。
「待てって」
彼女の動きを見て、男が声をかける。
「あたしは忙しいんだよ。絡む相手なら他を探しな」
「赤毛が好きなんだ」
不意に真剣さを声ににじませて男は言った。背を向けかけたロワジィは、発した言葉の内容とはまるで対比的な切羽詰まった声色に、思わず動きを止め、男を振り返る。
「なに」
「赤毛で年増の女を狙って犯しやがる。しかもぶち込むのは殺したあとときた」
「なに、」
「……あんたの連れが巻き込まれている殺しの件な、十中八九、俺の探し人だわ」
「――」
知らず詰め寄り、ロワジィは小男の胸ぐらを掴んでいた。
「あんた、」
絞りだした声は低く震えてしまう。
「あんたがとっとと掴まえてたら、あのひとは、こんなばかばかしいことに巻き込まれなかったってことよね」
「ちょっとちょっと首絞まるから。放せ。放せって」
掴んだまま持ち上げたので、本気で絞まっている。
ぐう、と呻いて男は顔を歪めた。歪めながらその手が腰のあたりをさぐっている。ああこれは反撃が来るなと思った瞬間、剣筋が鈍い光となり、彼女の眼前に迫った。予測していた動きなので、同じように腰から抜いた小刀ではじき返す。
「力任せに絞めるなよクソアマ。俺はか弱いんだ」
「貧弱、の間違いじゃないの」
言いながらもロワジィは男を放し、続きを話せと顎をしゃくって促す。くっそほんっとに可愛いくねぇな。ぼやきながら、男があのなぁ、と言葉を続けた。
「俺だってうすらぼんやりしてたワケじゃねぇよ。依頼主から前金受け取ってるし、期限も切られてるしな。足取り掴んでもうすこしだったのな」
「後からならなんとでも言える。つまり逃がしたってことよね」
「ああもう畜生」
二度目の舌打ちをして、男は艶のないざんばら髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「いちいち揚げ足取んなっての」
「続きは」
「……金握らせて、花屋の店の人間の体を検べさせてもらった。ヤツの持ってる刃で切りつけると、傷口の形にクセが残る。必ず切り端が波上にうねってんだ。間違いねぇ」
「確かなの」
体の向きを戻し、そこでようやくロワジィはもう一度椅子に腰を下ろした。
モグラは信用ならない。人相からしてあまりに荒んでいると思う。けれど、同じ稼業相手だからこそ、偽らない部分というものがおそらくたしかにあって、今の話は作ったものでないと理屈抜きにロワジィは信じた。
そもそも彼女を騙しても、彼に何の得にもならないように思う。
「騒ぎが起きる前……さっきの鍛冶屋な。似た傷跡の出る刃ってのが普通に出回っているもんか、店の人間にたしかめた。まず無いそうだ」
「――」
「ヤツが今までに殺した人間が、判ってるだけで十一人。かならず赤毛の女を狙う。頭が赤くてもガキは狙わないし、男も基本は除外だ。使う獲物は波型の刃の短剣。女の下っ腹を集中的にかっさばいて、そのあとかならず犯す。現場は腑の海だぜ。足の踏み場もねぇ。今回、花屋の女将が赤毛だった。残りの娘とダンナは赤かぁなかったが……、まあ、これは、巻き添えだろうな」
「――下種野郎」
聞いて思わず吐き棄てた。男も頷く。
「あんたと同じだなんて身震いするが、そいつに関しては同意見だな。狂ってるよ」
「それで」
ぐいと身を乗り出し、ロワジィはモグラをじっと見据える。
「赤い頭が狙われるから、夜道に気をつけろって、そんな世間話をするために、あんたあたしをここに呼んだんじゃないんでしょう」
「話が早くて助かる」
同じように身を乗り出し、物騒な笑みを張り付けた男が言った。
「ぶっちゃけて言うと、あんた、ヤツに襲われてくれ」
「――」
「あんたは連れを助けたい。俺はヤツを掴まえたい。相互扶助ってやつだ。違うか?」
「――」
そこまで言って男は一度言葉を区切り、がりがり頭を掻く。掻き、しばらく言おうかどうか迷う素振りを見せてから、ようやく口を開いた。
「……内実打ち明けると、切られた期限が迫っててな。期限を超えると今度は俺の首がやべぇ。泳がしたままで次の犯行を待つには、時間がない」
「――」
「ヤツをふん縛って、あのお役所連どもに突きつけてやりゃ、あんたの連れは釈放されると思うが」
「やる」
黙って男を見据えていたロワジィは頷いた。聞いた男がえ、と聞き返す。手伝えと言いながら、承諾されるのは予想外だったらしい。
「やるわ。囮になればいいのね」
「いやいやいや。……いや、そうなんだが、そうなんだけどさ、……、なんてぇの?報酬半分よこせとかさ。そんな危険なことに首突っ込むのは厭だとかさ。なんかもっとゴネねぇの、あんた」
「ゴネたらあんた、報酬半分よこすの」
「よこさねぇな」
「お金なんていらないわ。あのひとがあそこから出られるんでしょう。じゃあ、あとはどうでもいい」
それは彼女の本心だ。聞いた小男が僅かに眉を上げる。
眉を上げると荒んだ顔がややおどけたものになった。この男にもこんな顔ができるものなのだな。ロワジィは感心する。
「……、……ちょっとした好奇心から聞くんだがね。どうしてあんた、そうまでして必死になるんだ?連れって言ったって、結局のところ他人だろ」
「他人よ」
「だからさ」
他人、小さく笑って彼女はうつむく。判っていたのに、ほかの誰かから言われると、すこしだけ胸が痛んだ。
「……あのひと、人間の怒った顔が怖いって前に言ってた」
言ってロワジィは古びてささくれたカウンターに肘をつく。
「獣は平気だ、悪意をむきだしにした人間が怖いって」
「……、」
「尋問なんて、悪意の固まりしかないじゃない。あのひとが犯人だって決めつけて、痛めつければ絶対ドロを吐くと思ってるやつらの集まりでしょうに。……、……あのひとはとても強いひとだわ。冗談みたいに大きな獣を前にしたってびくともしないもの。……でも怖がりで弱いひと。きっと、怯えている」
それは確信だ。聞いてすこしのあいだ男は沈黙した。
やがて、にやにや笑いをすこし納めて、あんた、ぼつんとちいさく呟く。
「え?」
「前会ったときより、すこし変わったな、あんた」
「なに、それ」
「変わった、……なんてぇの?可愛いくなった」
「はあ?」
あんたに可愛いとか言われたってちっとも嬉しくないんだけど。
不快を今度こそむき出しにしてロワジィが眉をひそめると、三度目の舌打ちをした男が、口がすべった。言って彼女の分のカップの酒まであおって唸った。
「今のは忘れろ」
翌朝、五つの鐘が鳴る時分には、ロワジィは詰め所の前にいた。
結局あのあと、酒場で小男と互いに面白くない顔を突き合わせて明け方まで飲むことになった。正直厭で厭で仕方がなかったが、ほかに行くところもなかったのだ。
テオ少年が待っている宿には戻れなかった。この整理が追い付いていない気持ちのまま戻れば、勘のいい少年は、ギィに起きていることを察するだろう。
別の飲み屋に行くという手もあったけれど、飲むなら詰まるところどこでも同じことだったし、囮を引き受けた手前、小男としばらく行動を共にするのだ。厭でも堪えるしかない。
特に話すこともなく、ほとんど無言で、時々ぼそぼそとどうでもいいことを口にして互いに苛つきながら、明け方まで痛飲した。
泥酔した小男はそのまま、酒場のカウンターの奥、女店主が普段使っているのだろう小上がりへ倒れ込んだ。すぐに鼾(いびき)をかきだす。
女は何も言わない。見返る素振りもなかった。ロワジィがちらと顔をうかがうと、迷惑だと言う態でもなかったから、もしかすると、そうした関係であるのかもしれない。
興味もないので聞かなかった。
詰め所前に訪れたロワジィの顔を見て、衛兵がああ、と片眉を上げる。昨日の兵士だ。彼もひと晩の任務だったのだな、どうでもよいことを思った。
面会に来た旨を伝えると、小さくうなずいて、中へ通された。小部屋にまず案内され、そこにあったぶ厚い台帳へ、必要事項を記入するよう伝えられる。
「――面会には監察官がひとり付き添う。監察官の合図で面会時間は終了となる。また、被疑者であるから、格子越しの面会になる。被疑者から三歩の距離をとること。被疑者に触れたり、何かものを渡したりしないこと」
「判った」
ロワジィは頷く。彼女が首を縦にしたことを確認して、哨戒の兵士は表へ戻り、ついて来い、言って監察役のもうひとりの兵士が先に立って歩きだした。
ギィが現在拘束されている場所は、拘置所に当たる。
牢獄ではない。
ないはずなのに、いくつ並ぶ独居房は、廊下に向けて面格子がはまっており、四方を石に囲まれたそこは、どう好意的に解釈してもやはり牢獄だった。
有罪無罪ごったまぜにされてここにぶち込まれた過去の人間がしがみつき、訴え、殴りかかったのだろう、ぶ厚い木製の格子は経年による摩擦でつるつるに角が取れており、手垢やら血の染みやらでしっとり黒光りしていた。
並ぶ部屋に人の姿はほかにない。いま拘束されているのは男だけのようだった。
先導する衛兵について行きながら、がらんとした独房に目をやり、そうしてロワジィは口元を引き結んだ。
男が無実だと、この判らずやどもに声高に主張することは無駄なのだ。判っていた。
そもそも彼らは公務に就いているだけだ。とくべつ男が苛烈な尋問をされているわけではなく、彼らにとっては日常業務なのである。それでたしかに後ろ暗いものが自白する場合もあるのだから、一概によくないからやめろ、とは言い切れないと彼女も理解している。
頭では、理解している。
情に訴えたところで動く相手ではないし、男も釈放されない。結局モグラ男の言うように、物的証拠を突き出すよりほかないのだ。
……でも、
ふと、昨晩は浮かばなかった疑問が頭に浮かぶ。
……下衆野郎を詰め所に突き出したとして、それであいつは依頼を達成したと報告できるのかしら。
個人的に報酬を用意し、流れの人間を雇って、見つけてこいと依頼する相手だ。生きたままの身柄も、普通は要求するのではないか。
あとで確認しようと思いながら、先導の兵士が足を止めたので、ロワジィも立ち止まり、独房の中へ目をやる。
「……ああ、……、……」
こらえようと思っていた。
できれば冷静に対処し、現状を説明して、拘束されて不安だろう男へ安心させる言葉のひとつでもかけてやろうと思っていた。
だのに口から呻きが漏れるのを、彼女は止められなかった。
ギィはまったくひどい状態だった。
あちらこちらに痣や縄目の痕があるのは言うに及ばず、顔は殴られ腫れあがっていた。両腕はだらりと下にさがりぱなしで、腕を辿った彼女は肩のあたりがいびつな形に盛り上がっていることに気がつく。両肩の関節がどちらも外れて後ろに下がっているのだった。
綿シャツとズボンは規定に従い支給のものを着せられていたが、サイズがちっともあっていなくて釦は半分外れていたし、窮屈そうで、おまけに血があちらこちらに飛んでいる。
肩が外され全身ぼろぼろで、痛みがない訳はないのに、男はロワジィを見て、表情を緩ませた。
ああよかった、ようやくあんたに会えた、そんな風な気色を浮かべて、まるで邪気のないほほえみを浮かべてみせた。
その顔を見て思わず彼女は格子に近づきかけ、
「止まれ」
監察官の制止の声にぐっとこらえて踏みとどまる。
「……ロワジィ」
顔が腫れあがり発音がやや不明瞭な男は、それでも彼女の名を呼ぶ。
「すまない、」
そうして頭を下げ謝るのだ。
信じられない思いで彼女は格子の向こうの男を凝視し、
「なんで」
唸るように低い声で呟く。
「なんで謝るの」
謝らなければならないのは自分だった。
すぐにでも男の無実を証明し、ここから出してやるのが筋だった。どんな手を使っても、男を今すぐこの劣悪な環境から、救い出してやらなければならないはずだった。
だのに現実は、まず自分が囮になって犯人をあぶりだし、物的証拠と共に詰め所に突き出すしか方法はなくて、男はしばらくこのままだ。
早くてもあと数日はかかるだろう。
無力な自分が情けなかった。
「迷惑ばかり、かける」
男は頭を下げたままそう言う。それから、解雇するならどうかしてくれと、申し訳なさそうに呟いた。
「解雇するって、なに、」
「最初に、契約、周りに迷惑かけるようなら即時解雇する、言った」
「莫迦言わないで」
憮然としながらロワジィは語調を荒くする。
「あんたをここから出すわ」
「……すまない、」
男は悄然とうつむき顔を上げない。
昨晩衛兵が言った言葉がそのままなら、男は一晩中自白を強要されて痛めつけられたことになる。
触れたいと、思った。
なにができるわけでもない。触れたところでなにも変わらない。自己満足だ。
それでも、うなだれる男に触れて汚れをぬぐい、せめて腫れた個所に手を当てたいと思った。
男は両腕が上がらず、垂れて半分固まった鼻血すら、おのれで拭えていないのだ。
「絶対にあんたをここから出すから」
くり返した。爪が食い込むほどこぶしを握りしめる。
「出して、あんたのことぶん殴った連中、ぶん殴り返してやる」
「ふ、」
静かに激怒する彼女がおかしかったのか、男がわずかに顔を上げる。
――……笑った。
心臓のあたりがどうしようもなく痛い。ぶちぶちと音を立てて筋が引きちぎれていくようだ。
不意に数度、監察官が咳払う。
思わせぶりな痰切れに、ふとロワジィが目をやると、彼はそっぽを向き壁にもたれ目を閉じるところだった。薄眼を開けて一度だけロワジィを見やり、それからまたすぐ目を閉じる。
見逃す、と言っているのだ。
感謝するのもそこそこに、ロワジィは男に近づいた。格子に手を置き、あらためてその頑丈さとぶ厚さに眉をしかめる。間から手を伸ばし、男の顔に触れた。
「ギィ」
伸ばされた手のひらに戸惑うようにしながら、男はすり、と頬を寄せる。右のまぶたは腫れていたので、満足に開いていない。
いかつい顔。
「ごめんね。……すぐに出してあげられなくて本当にごめん」
「大丈夫。殴られる、慣れている」
「こんなの、慣れることじゃないわ……、」
手ぬぐいでロワジィは男の顔を拭った。できれば濡らしたもので綺麗にやってやりたかったが、ここには水がない。それでも鼻の下と頬に擦られた汚れを擦ってとってやると、だいぶましな顔になった。
「いいにおいがする」
こんな時だと言うのに、男は拭われ嬉しそうにそう言う。
「あんたのにおいだ」
おのれの唇が震えるのが判った。
それ以上言葉がどうしても浮かばなくて、彼女は監察官が面会の終了を告げるまで、ずっと黙ったきり、男の頬を撫で続ける。
「……これは、俺のひとりごとだが」
面会を終え、小部屋に戻る途中で、監察官の兵士が呟く。
「取り調べは今朝方まで続いた。数日は抑留にとどまるだろうな」
「――」
兵士の意図がつかめなくて、ロワジィは訝しんでその背を眺める。先だっても規定に目をつぶる素振りを見せていたし、今度は内内の情報を漏らす。
「尋問休むってこと?」
「ひとりごとだと言っている」
その背は振り向かない。眉根を寄せて彼女は困惑した。
「尋問に関わった人間は三名だが、その三名とも被疑者はシロだと判断している」
「え、」
「釈放はない。ただの個人の感想だ。だから公的には何も執行力はない――だが、長年こうした仕事をしていると、連れてこられる被疑者の面構えでだいたいの予測はつく」
「――」
「無論外れることもある。だから、一連の段取りを、独断で手加減するわけにはいかないのだが」
「――」
入り口近くの小部屋に戻り、戸口の手前で足を止めて、監察官の衛兵は肩越しにロワジィをうかがった。
「まず犯行に及ぶ際に使用したと思われる凶器が、現場からも被疑者からも見つかっていない。かなり特殊な刃物だと言うのが鑑識したものの意見だ。だから今は犯行動機ではなく、刃物の在りかを供述するよう求めているのだが、知らないの一点張りだし、取り調べを受けながら、被害者の一家をしきりに案じていた。店の人間はどうなったのだ、刃物ということは怪我をしたのか、自分が店を訪れたことで、なにかよくないことに巻き込んでしまったのだろうか、だとしたら申し訳ない――、」
「――」
「あれは本当に案じていたのだと思う」
「――それを、」
兵士を追い越し、詰め所の入り口の扉に手をかけ、外に立つものに開けるぞと合図しながら、ロワジィは応える。
「それを判っててでも釈放はしないってことよね」
「まあ、規則だからな」
「疑わしきは罰せずって言葉ここにはないのかしら」
「罰してはいない。あくまでも『尋ねて』いる」
「あたしに言ってどうしようっていうの」
「さあ。ただの罪滅ぼしか。言うことでこちらの罪悪感が少しは和らぐ、という……、」
「長いひとりごとね」
鼻で笑って覚えたわ、彼女はぎらぎらと剣呑な瞳を監察役の兵士へ向けた。
「教えてくれてありがとう。無罪放免釈放の日には、あんたをまずぶん殴る」
「そうか」
まんざらでもない顔をして、衛兵は頷く。
「楽しみに待っている」