それから二日過ぎている。

「見えるところに獲物は持つな」

 小男は言った。

 ロワジィが囮の話だ。

「警戒されて罠にかからなくても困る」

 期限は十日だと男は言った。一度犯行に及ぶと、そのまま連続して何件か殺しを重ね、その後しばらく犯人は潜伏するのだそうだ。

「十日泳がせてかからなきゃ、この町からとんずらしてる可能性が高い」

「思うんだけど」

 腰に挿した短刀を長靴の中に仕込みながら、ロワジィはモグラにたずねた。

「一度で満足して、次の町に逃げている可能性は?」

「そりゃゼロじゃあない」

 モグラは肩をすくめてこたえた。

「こればっかりは計りようがねぇ。……ただ、前回の花屋の嫌疑が、自分ではなく別の人間がとばっちりで捕まったってことを、ヤツはきっとどこかで掴んでいる。実質ヤツはいまノーマークだ」

「……、」

「十一人殺されてるって言ったろ」

「うん、」

「最初の町じゃあ一人。次の町で一人。次に二人。その次三人。そのあとが四人。手慣れて来たのか刺激ってやつが薄らいできたのか、だんだん人数が多くなってきてやがる」

「……、」

「この町で花屋の時点じゃまだ一人だ。家族は赤毛じゃあないからな。殺人の衝動がある人間が、自分が安全圏にいるのを判ったうえで、さっさと別の町へ移動するというのは結構確立としちゃあ低いと思うがな」

「ひとつ確認したいんだけど」

 赤毛、に反応して彼女は口を開く。

「山端の部落とかならともかく、ここは町でしょう。赤毛って言ったって、そこまで珍しいわけでもない。あたしのほかにも赤毛で、年食った女だなんて、いくらでもいるんじゃあないの。囮しといて、別の場所に出られてたら、笑い話にもなりゃしないわ」

 ロワジィの声に片眉を上げた男が呆れた口調であんた、と呟いた。

「あんた、自覚ないわけ」

「……なにが?」

「あんたみたいな真っ赤っ赤の頭なんて、大きな町探してもそうそう見つからないと思うぜ」

「……、そうなの、」

「そうなの。なに。自覚ないの。自分の見事な赤毛に自覚ないの。そんなに長く生きてるのに。わりと悪くない赤なのに。自覚ないとかなにそれ。からすうり頭って呼ぶよ俺。長いからカラス頭な」

「やめてよ」

 褒められているのかけなされているのかよく判らない。

「ヤツは赤けりゃ赤いほど好きなの。傾向と対策的に考えるとそうなの。カラス頭のあんたがうろうろしてりゃ、目を引かないわけがない。よかったな」

「……」

 囮としては目を引ければ引けるほどよいのだろうが、さっぱり嬉しくないロワジィである。

「それで」

 全身をあらためなおして彼女は顔を上げる。

「獲物は隠す、皮鎧のたぐいは身につけない、そうしてあたしはどこを歩けばいいの」

 代わりにさらしはきつく巻いた。気休めかもしれないが、何もないよりはましだと思う。

「無防備にして悪く思うなよ。逃げられちゃ元も子もねぇ」

「いいわ、別に」

 軽くうなずく彼女に、モグラが目をすがめ、しばらく言おうかどうしようかの迷いを見せたあと、あんた、とまた言葉をつなぐ。

「俺が助けに入るんだが、?」

「そうね」

 彼女は頷く。

「……俺がタイミング逃がしたらどうしよう、とか、的外したらどうしよう、とか、そういう不安はねぇの」

「疑ってほしいの」

「いや、そう言うわけじゃあねぇんだけどよ……気持ち?気持ちの問題っていうか、」

「前にあんたの弓を見た」

 ロワジィはこたえる。あれは峠を越える護衛の途中に襲われたのだった。まだ一年も経っていない。だのにずいぶん前の話のような気がする。

「まっすぐで、いい矢筋だった。あれなら任せてもいいと思う」

「――……、」

「……なによ……、?」

 聞かれたから素直にこたえてやったのに、小男ははじめ目を丸くして彼女をまじまじと眺め、それからどういうわけか少し赤くなって口元を押さえている。やばい、だとか呟きまで聞こえた。意味が判らない。

「待て待て待て俺。年増だ。相手は年増」

「なに言ってんの」

 なにか小声で言い聞かせている男は放置して、ロワジィは立ち上がる。

「じゃあ、よろしくね」

 言って、まだ何やらどぎまぎしている男を置いて、先に盛り場へ向かって歩き出した。

 

 

 その「目」はいつの間にかあらわれた。意外と呆気ないなという思いと、呆気なく思えるほどこいつは血に飢えているのかという思いが、双方同時に胸に浮かんだ。

 糞野郎。そう思う。

 半日盛り場をうろついたあとの話だ。

 

 囮であるとはいっても、さすがにあからさまにうろつくだけではかえって怪しまれると思ったので、土産を探している体であちこちの露店をのぞき、店主と掛け合い、ついでにいくつか小物を買ってみたりもした。

 ロワジィ自身には土産を買って帰る家も相手もいない。であったから先だってテオ少年が話をしていた、少年が里帰りするときの母親への土産、という設定で探すことにした。

 最初はただの「ふり」でしかなかったのに、これがなかなか面白かった。

 彼女は少年の母を知らない。話で聞いただけだ。

 だからまず想像した。

 九人の子供と夫の大所帯を切り盛りする母親だ、きっと優しいだけではなくて芯に一本筋が通っているのではないかな。

 大柄なのかな、小柄なのかな。笑顔はきっと素敵な女性だろうな。

 笑顔が似合う女性なら、明るい色が似合うかな。。

飾りのたくさんついた、特別な日、にしか使えないような仰々しいものではなくて、普段使いのできる、しかも小さな子供がまだ大勢いるのなら、じゃぶじゃぶ洗えるものが良いかな。

色、形、素材、選んでいるうちにわりと真剣になって、見たこともない少年の母親相手に真面目に土産を物色した。

できれば、実際の母を知る少年に同行してもらえれば一番よいのだろうけれど、そもそもの目的は土産物選びではなくて、凶悪犯を掴まえることであったから、危険と判っていてたのめるはずもない。

少年には、状況をかいつまんで説明しておいた。大丈夫だから、心配しなくていいから、そう言い聞かせてなにも伝えないというのも、きっと不安をあおると思ったからだ。

 

ギィはいま詰め所に拘置されている。特別ひどいことは受けていない。無実が証明できないので、あと数日拘置されていると思うけれど、すぐに出てくる。

実は知り合いが、その乱暴を働いた本人を知っているという。だから、その知り合いと一緒に、本人に掛け合って、自首を勧めてくる。

危ないことは何もない。けれどたぶん説得に時間がかかるだろうから、宿近辺で大人しくしておいてほしい。

伝えると少年は判ったとうなずき、大人しくしているよとこたえた。

「……どっちみち、俺、ロワジィたちいないと、トルグ一人じゃいけないし」

「待たせてごめんね。日に一度は様子を見に来るから。ひとりにして本当にごめん」

謝りながら嘘もたいがいだと思った。まるごと信じているわけではないのだろうが、それ以上突っ込まずに承知してくれた敏い少年がありがたいと思った。

「俺、ひとりは慣れてるし平気だよ。一日、羊としか話さなかったりする日もあるし。ここは見るところもたくさんあるし、ロワジィが部屋取ってくれたから、いつでも休めるし。俺のことは心配しないで。早くギィを出してあげてね」

 逆になぐさめられてしまった。不甲斐ないと思う。

 

 土産物選びに草臥れて、安い飯屋の椅子に座ったあたりから、ちくちくと刺さるような視線を感じるようになった。知らず鳥肌が立つ。

 ……きた。

 それは生理的な嫌悪だ。

 思わず腕をさすっていた。

 モグラ男はここにはいない。おそらくどこからか、凶悪犯に悟られないよう身を隠しながらロワジィを尾行しているものと思われたが、その彼の視線ではないと思った。

 これはもっとはっきりとした、獲物を品定めする視線だ。

 飯屋は広場に面していて、そこへ椅子と卓があるだけの、簡易なつくりだ。日射しを遮る覆いもなければ壁もない。

 その卓のひとつにロワジィは腰を下ろしたのだが、

 ……どこ。

 嬲る視線に背筋がぞわぞわとする。

 視線、というものそれ自体には圧力はないとロワジィは思っている。なので、向けられている元のところは、きっと彼女が背を向けたがわではない。

 視界というものは、おのれが認識している以上にわりと無意識の範囲があるというから、おそらく前右左のどこかに彼女をじっと見つめる相手の目があって、自分はそれを察知しているだけだ。

 思わず周囲に走らせたくなるのをぐっとこらえて、手元のマグに目を落とした。

マグの横にはパンがある。黒パンの間に豆をはさんだものだ。その豆の数をじっと数えて、平静を装おうとした。

今は日中で広場には往来がある。ここで襲われることはまずない。襲われるとすれば、店を出て、人気のない場所へ向かった時だ。大丈夫。いまじゃない。

そうは思っても指先は震えた。

小男の弓の腕を信用しないわけではなかった。けれど、腕を信用していることと、狙われて動揺するかしないかはまた別の話だ。正直自分はもうすこし落ち着いて囮のふりをし続けられると思っていたが、案外動揺するものなのだなと思った。

震える指をぐっと握って豆を睨んで数え続ける。

独房に入ったギィを思い出した。

あのひとはあそこで、あたしよりもっと怖い思いをしている。

自分に言い聞かせる。

怖がりのあのひとが、泣きべそかかずにあそこで待ってるんだもの、あたしがやれないはずはないわ。

男を思い出すと、すこしだけ恐怖心が薄らいだ。

そういえば、ふと思う。

今回の発端は、テオ少年と男が花を求めたことにはじまる。

……でも、なんだって花なんて入り用だったのかしら。

説明を受けたあのときは、男が連行されたことの方に気が行って、まったく疑問にも思わなかった。今思い返せば、たくさんの花が必要で、だとかなんとか少年は言っていたような気がする。

売り子は、通常手に下げている籠に山盛り花を詰めこんで、辻に立つ。いちいち店に売り物を取りに戻っていては、商売にならないからだ。

その籠の花よりも多くの花。いったい何に使うつもりだったのだろう。

思わずロワジィは考える。

少年の母への贈り物にしてはおかしい気がした。ここはまだ往路の中途に立ち寄っただけの町で、トルグまで数日かかる。行って戻るだけで半月はかかる道程に、生の花は不似合いだ。水を忘れず吸わせてやればそれでも数日は持つだろうが、管理が大変であるし、結局は萎れてしまう。

もしどうしても、母親に生花を贈りたいのであれば、まずトルグへ行き、組合(ギルド)に羊毛を卸して、復路に花を購うのが正しい手順だと思った。荷を下ろしたかわりに少年が乗り、驢馬を急がせれば、花が駄目になってしまう前に、届けることができるかもしれない。

もちろん、欲しい花がその時そろっていないことも考えられる。なので先に頼むだけ頼んでおいて、復路で店に寄った際に用意されたそれを受け取り、すぐに帰路に就くことも考えられた。

けれど少年は買った、と言っていた。選んで買った、宿に届けてもらうよう頼んだ。

……そんないっぱいの花、宿に運んでどうするのかな。

無事に男が釈放されたら聞いてみようと思った。

ため息をひとつついてロワジィは立ち上がる。黒パンはもったいないが残すことにした。緊張で喉が詰まったように息苦しくて、無理に飲みこんでもおかしなところに入ってしまいそうだ。

こんな時にでも平然と出された飯を平らげる、鉄の精神でも持てればいいと思うけれど、なかなかそこまでの境地に達するのは難しそうだなと思う。

ぐっと右足を踏み込む際に、長靴に仕込んだ短刀の感触をたしかめる。荷物と一緒に置いてきた、研ぎの終わった鉞を思い出して、……せめてあれがあればすこしは心強いのにね。内心ぼやき、そうして彼女は店を出た。

 

 店から離れ、通りを歩くと、ますます粘ついた視線が体へ差し向けられるのを感じる。こうもあからさまだと、たとえこれが囮のロワジィではなく、何も知らない一般人であるとしても、なんらかの違和を感じるのではないか。そう思えるほどのおのれの存在を隠すことのない、堂々とした粘着質な視線だった。

 囮だと勘づかれ、逃がしたら次はない。

ひと晩でたたき込んだこの町の地図を頭に思い浮かべながら、ロワジィはわざわざ人の多い通りを選んで、半時ほど歩いた。

釣りと同じだ。手ごたえを感じてすぐに糸を手繰っても、魚は逃げてしまう。まずしっかりと餌に食いつかせ、針と一緒に飲みこませ、にっちもさっちもいかないほど深く胃の腑までえぐりこんでから、そこで一気に引き上げる。

 

 存分に相手を焦らして、焦らして……、それから不意に人気のない路地に飛び込んで、彼女は走り出した。

 すこし離れた背後から、急にスピードを速めたロワジィに慌てて、不規則に乱れた駆け足の音が聞こえた。

かかったな、そう思う。

 

 着かず離れずの距離を保ちながら小路を選び、曲がり、また曲がる。地図では確認していたつもりだったが、思ったより道幅は狭かった。小路、というよりは、家と家の壁の間を、体を斜めに傾けて進む態だ。

 しかしなんとも厭な気分だった。

 おのずから誘ったのだとしても、追われるというこころもちは最悪だ。子供の遊びの鬼追いとは違う。あちらは鬼につかまっても今度は自分が追う側になるだけでよいけれど、こちらの鬼はつかまったら最後の命がけだ。

 見失わずに来なさいよ。どこかで尾けているだろうモグラに向かってぼやく。

そうして、とうとう袋小路までたどり着くと、彼女は突き当りを背にして振り向いた。

ここならだれも来ない。騒ぎを起こしても聞こえない。

壁の間はすこしだけ広がって、大人がちいさく手を広げられるだけの幅にはなっていたが、見上げる壁は反り立った崖のように高く、足も手もかける場所がない。

呼吸を整え、確実に近づいてくる足音を待つ。

これまで手をかけた赤毛の女が十一人。小男はそう言っていた。

 ……十一人。あたしで十二人。

 

 十拍ほど遅れて、「そいつ」はぬっと姿を現した。

 

 ……なに、こいつ。

 瞬間ロワジィは遠慮なく渋面になった。

 血のにおいがする。

 世の中に「まとも」か、「まともじゃない」かの判断基準というものはいくらでもあり、それこそ判断する人間次第で左右どちらにでもブレるものだと知っている。

 だがこうして今目の前にいるそいつに関していえば、十人中問えば十人が、彼を「まともじゃない」と判断するだろうと思った。

 まず視線がおかしい。隠す気もなくおかしい。右と左の焦点が互い違いになっていて、見ているはずなのにロワジィの顔に合っていない。

 イっている。

 生理的に気持ちが悪い。

 口元はだらしなく緩んで、端からよだれがしたたり落ちていたし、なにか食べこぼしのようなものも見えた。

 手には刃物。隠しもしない。

袋小路の薄暗がりの中でも、うねうねと波打った刃型ははっきりと見えて、ああこれでいままでの犠牲になったものが切られてきたのだなと思う。

 中肉中背。年齢不詳。

着ている服も垢じみており、そればかりかところどころに黒ずんだ染みが見えた。もしかすると血痕かもしれない。

「うわあ……、」

 思わず彼女の口からそんな声が出た。できれば可愛らしくきゃ、だとか小さな悲鳴でも上げられれば良かったが、こぼれてしまったのだからしようがない。

 

 大丈夫?こんなのウロついてるのに、見落としちゃってる巡回の兵士さん本当に大丈夫?仕事してる?目見えてる?目開けたまま寝てる?疑わしきはどうのだとかあたし言ったけど、これもう疑わしいとかそういう次元じゃないよね。超えてるよね。一発確定だよね。

 

 舌打ちした。仕事をしろよ。そう思う。

あのひと掴まえてる場合じゃないだろ。

 思い、ゆらゆら頭を左右に振りながら近づいてくるそいつへ向かって、腰を落として身構えた。

 勘弁してほしい。本当に勘弁してほしい。

 鉞を振り回し、雇われ護衛をこなしていても、ロワジィは素人だ。護身術のたぐいを習ったわけでも、体術に長けているわけでもない。

自分に獲物がある場合ならいい。力で押す。早さで優る。だが、こうして刃物を持った相手に対し、おのれが空手の場合、どうやったら刃物をさばけるのか、さっぱり判らない。

聞きかじりの知識だけは、こうこう、こうして体をさばき、ここで相手も刃物を落とす、だとかあるけれど、この状況でそれが使えるとは思えなかった。

つまりこの状況では役に立たない、無駄な知識だ。

判っているのはただ一つ、相手の持つ刃物がおかしな具合で自分に突き立てられた場合、自分は死ぬということだけだ。

「あー……」

いやだなあ。そう思った。死ぬのは厭だ。

囮を引き受けることに異はなかった。モグラの腕にも疑いはなかった。ただ、こうして追い詰められたときにどうやって切り抜けるかまで考えていなかった。

勢いだったからだ。

小男が今どこに身をひそめているのかまでたしかめる余裕はない。そいつは十歩ほどまで近づいている。目を離さないことで精いっぱいだった。

とにかく初撃を避けなければいけない。

ふっ、ふっ、彼が垂れる涎と共に呼気を吐き出した。興奮しているのだ。

「お、ん、な」

 不意に彼が口を開いた。ロワジィは口端を歪める。

「おん、な、おんな、あかい、」

「――」

「おんな、あかい、おんな、あかい、おんな、あかい、おんな、おんなおんなおんなおんなおんなおんなおんなおんなあかいああああああああああああああ」

 ぞっとした。

 そいつは奇声を上げたまま、刃物ごと手を上にあげ、いきなり彼女に襲い掛かった。前動作がない。まるで大人が子供を脅かすときのようにばあ、と舌を出しげたげたと笑う。

狂っている。

生理的な恐怖に、体が硬直し、とっさに彼女は身構えることができなかった。

 まばたきもできず見開いた目に鈍い色の軌跡が見えて、これは刺さるな。そう覚悟した。歯を食いしばる。体に突き立てられる痛みをこらえるためだ。

 鈍色が目の前に迫った瞬間、耳を劈(つんざ)く風切り音がした。

一音。

そうして二音。

 きん、と鼓膜を破かんばかりの高音は、がつ、がつ、と何か固いものにぶつかり、それに追従して絶叫が上がる。

 ロワジィはいつの間にかおのれが目をつぶっていたことに気がついた。見開いていたはずだったのに、土壇場で思わずつぶったものらしい。

 頬がぴりぴりと痛んだ。指の腹で擦ると、うすく赤い汚れが見えた。

 刃が少しかすったようだった。

 だが、それだけだ。自分は生きている。

 おのれの身をたしかめて、それから、先だっての発した言葉より、苦痛の絶叫の方がよほど人間味を帯びて聞こえるのは、どういうことだろうと不思議に思った。

 それから、こうして死んだなと確信するのは、以前の猪退治に次いで、二度目だなとも思う。

 それから、それから、……。

「可愛い子ぶって、怖がってるふりを続けても、ちっとも年増は可愛いくねぇんだぞ」

 小憎たらしい声がして、むっとする。だが気が他所にそれたことで、ロワジィはようやく目をよそに向けることができた。

 頭上から声が降っていた。

 のろのろと頭を巡らせると、路地の家の上、屋根のひさしの間からモグラの顔がのぞいてるのが判る。

「それともあれか?小便チビった系?」

「……チビってない」

 口を開く際にこめかみがやたら痛いと思ったら、奥歯をきつく噛みしめすぎていた。がちがちにおのれがこわばっていたことに気がついて、ロワジィはゆっくりと体から力を抜く。

 力を抜くと、今度は上手に立てなくなった。情けないが腰が抜けた。

壁沿いにずるずると尻をつき、そうしてようやく目の前の狂人を見上げる。

 右腕を高く振り上げた状態で、そいつは壁に縫い付けられていた。

 深々と矢が二本、どちらとも手首のおそらく骨と骨の合間を通って石壁に突き刺さっている。おそらく自力で抜ける深さではない。

虫ピンで止められた標本のようだと思った。

 ……でも蝶というよりはゴミムシだわね。

 目の前のそいつをぼんやり眺めている間に、小男は屋根から雨樋を伝い、彼女の近くへ降り立つ。身軽なものだと感心した。

なあなあ、餌を欲しがる犬のようにすり寄られて、ロワジィは眉をひそめた。

「ほら、リアクション、なんか、ねぇの?」

「……、」

「俺、言ってみれば、あんたの命の恩人みたいなもんよね?危ないところ助けたよね?なんか感謝の言葉とか、そういうの、ああ、助けていただいて本当にありがとうございますイーヴさま、どうかわたくしの今までの数々の非礼をお許しください、わたくしめはあなたさまの忠実な下僕でございますとかなんとか、まあ年増の下僕なんて俺いらないけど、そういう系の、感涙にむせびつつ俺を称える言葉とか、ないの」

 言われてロワジィはモグラを見る。モグラと呼んでいたこの男の名はイーヴというらしい。これでも数日顔を突き合わせていたのだが、名前はいま知った。

呼ぶ気もないが。

「ねぇ?……ねぇねぇ?言ってもいいんじゃない?もう薹(とう)が立ちまくって伸び切ってるんだし、そういう年長者らしいお心遣いがあってもいいんじゃない?」

「助けに――、」

 催促されてロワジィは舌を湿らせ口を開く。語尾がかすれた。

「うん?なに?助け?え?なに?……ちょっとこの莫迦の声がうるさくてあんたの声が聞こえないんだよな。うるせぇよ黙れこの気狂い」

 

「助けに来るのが遅い」

 

 聞こえないと言われたので、今度ははっきりと言ってやった。え?目の前の小男が信じられないものを見る目つきで彼女を眺めたが、知るか。そう思う。

「え、なに、遅い?え?俺の聞きちが、」

「危ないところ助けたもなにも、そもそもそういう手はずだったじゃあないの。あたしは囮であんたがしとめる。役割はそれだけで、あんたはその役割をこなしたって言うだけよね。ずいぶん遅いけど」

「はあ?」

「相互扶助だとか言い出したのはあんたでしょう。言わせてもらえばあたしの安全をダシにして、あんたはこいつを確保することができた。あんたひとりの力じゃ手に余る依頼で、実際あんたは首が文字通り飛ぶかどうかの瀬戸際だった。……だったら涙にむせんで感謝の言葉を述べるのはあんたの側で、あたしはそれを受け取るべきよね」

「はああ?」

 忌々し気に舌打ちし、路地の壁を蹴りつけた小男は、くそ本当に毎度毎度可愛い気のない女だな。吐き棄てる。

「じゃあこの際ついでに聞いてやるがね、あんた、もし俺があの図体のデカくて間抜けなうすのろで、こうしてあんたの危機を救ったのがあのデカブツだとしたら、あんた、やっぱり、同じように、そうした憎まれ口叩くのか、?」

「なんで比較されてるのかさっぱり判らないけど、そりゃ素直にありがとうって言うに決まってるでしょう」

「なんで俺には言えなくてあいつには言えるのよ?」

「人徳の差じゃない?」

「……、……。……」

 撃沈し無言になる小男を眺めながら、でも本当にそうだろうか、ふとロワジィは自問した。

 本当にそうだろうか。自分はあの男にきちんと感謝を伝えただろうか。やるべきことに目が行ってうやむやになって、日常になし崩し的になって、どれほどありがとうと言葉で言えただろうか。

 唇に手を当て、急に黙り込む彼女に、ちらと思案気な視線を走らせ、なんとか再浮上したモグラが、

「……てめぇはいい加減少しは黙れよこの野郎」

 やつあたり気味に数発小突きを入れて、それからがんじがらめに奇声を上げ続けるそいつを縛った。

 

 

「ところでひとつ確認しておきたいんだけど」

 猿轡をかませ、それでもうるさいので、結局手刀を入れて黙らせたそいつの縄目の強さをたしかめながら、ロワジィはモグラにたずねる。

「あぁ?今さら危険手当とか言われても金は払わねぇよ?」

「……そんなこと言ってない」

 莫迦じゃないの、心底呆れて吐き棄てると小男が目をすがめる。

「なんだよ、つれねぇな」

「こいつの身柄はあたしが貰っていいのよね?」

「あ?」

 言われた意味が判らなかったようで、小男は口角を下げてみせた。

「あのひとをあそこから出すには、こいつの身柄がどうしたって必要だけど、こいつを連れてったら、たぶんその日のうちにきちんとした、……こういうの、きちんとしたって言うの?……きちんとした牢屋のほうに、持ってかれると思う」

「だろうな」

「前もって言っとくけど、別にあんたのこと、心配してるとかじゃないのよ。でも気になったから一応聞くけど、あんた、依頼されてこいつを探してるって言ってたでしょう。あたしがこいつを突き出して、あのひとが出てこれるのはいいけど、手ぶらで戻って、それであんたはきちんと仕事をこなしたって認めてもらえるの、」

 首が飛ぶんでしょう?

 冗談に紛らわせてモグラはそう言っていたけれど、実際追い詰められていたのは本当だったのだと思う。口の割に目が真剣だった。

 もちろん今さら彼が犯人の身柄が必要だと言い張ったところで、ではどうぞと渡すつもりはロワジィにはさらさらない。彼女も切羽詰まっている度合いとしては同じようなものだったからだ。代わりのものを引き渡さなければ、男は出てこられない。

「ああ……、」

 合点がいったようで彼は一度頷き、それから肩をすくめてそんな気狂いいらねぇよとこたえた。

「なに?俺が心配?可愛くない年増が俺のこと心配?」

「心配じゃない」

「俺が探すように言われてたのはこっちだ」

 言いながらモグラは身を屈め、奇妙な形にうねり曲がった刃を拾い上げる。

「持った『手』のほうは依頼されていない」

「――……、」

「依頼主が呪物マニアでね。……持ってみる?なんか、曰くつきらしいけど」

「いらない」

 思わず身を引いた。差し出されたそれを、近くでまじまじ眺めてみると、ひとつひとつのうねりの合間に何か文様のようなものが刻まれていることに気がつく。呪詛のように思えた。

 ロワジィは、まじないだとかを頭から信じる気にはなれないが、だからと言って真っ向否定する気もない。作られた物はただの物であっても、持つ人間はかならず意思を持つ。手から手へと渡ってゆく間に、その呪念がこもってゆくということも、もしかしたらあることかもしれないと思う。

 世の中には言葉で説明できないことが確かにある。

気味が悪い。

「きれいだろ?これ、全部のうねりが均等になってないんだぜ」

「……、」

「切りさばかれると、血が止まらないようにしてあんの。もうダラダラ。縫合しようとしたって縫えないの。傷口がきちんとくっつかないようになってんのね」

「もういい。気分悪くなってきた」

 うきうき嬉しそうに説明しはじめる男へ、手を振ってロワジィはこたえる。モグラは刃物が好きらしい。いいから早くしまっちゃってよ。言うと彼はすこし残念そうにしてみせて、それからあらかじめ用意してあったらしい白布へ、それをたたみ込んでいった。

「なんかこれ持つと、殺戮衝動っての?強まるんですってよ。ムラムラしちゃうらしいぜ。ムラムラ」

「えー……、」

 言われて今度は真面目に引いた。それを知っていて彼女に持ってみるかとたずねてきた心境が本気で理解できない。

「あんた、それ持ち帰るあいだに、第二の殺人鬼にならないでしょうね」

 聞きながら心配になった。ミイラとりがミイラになる。わりとシャレにならないと思う。

「あ、だいじょうぶ。俺、なんかそういうの、効かないタチなの」

「へえ」

 たぶん、俺の清らかなる部分が多いせいじゃないかなあ、くそ真面目な顔で世迷言をほざいているので、

「浸食されるところがないほど、性根が腐ってるってことじゃないの」

 頭からきっぱりと否定してやった。

 

 

 意識をとりもどされるとまた喚いてうるさいので、失神している間に刺殺魔を詰め所まで運ぶ。ロワジィよりは体格の劣る、中肉中背の男ではあったが、意識のない体というものはえらく重いもので、辟易とした。

 これに乗せたら楽に運べるぞと、モグラがどこからか手押し車を持ってきたので、珍しく気を利かせるものだと感心したら、勝手にどこかの店の裏手から拝借してきたらしい。とんでもない。感心して損をした。

ギィの釈放に向けて動いているのに、窃盗で今度はロワジィが捕まったらとんだ笑い話だ。ことわって来いと強く言うと、しぶしぶ小男はどこかへ行った。

彼のことは放っておいて詰め所へ向かう。

 

入口へ近づいたロワジィに対応したのは、数日前の兵士とは別の人間だった。だが、ああ、あんたか、だとか頷かれてすぐに中へ通される。気炎を吐いた彼女の話は、衛兵の間で通っているようだった。

前回と同じように、まず入り口脇の小部屋へ連れていかれた。

その場でここまで運んできた赤毛に執着する刺殺魔は、衛兵の手に渡す。目を覚ましたところだったので、また喚き始め、喧しかったのでちょうどいいと思った。

「それとこれ」

 言って、ロワジィは犯行に使われた刃物のレプリカを差し出した。

 当人連れてきゃ一発だとは思うが、証拠品として揃えてあるに越したこちゃないだろう、言って小男が渡してくれたものだ。差し替えようと最初から持っていたらしい。

レプリカといっても、刃まできちんとついていて、刃物として使用する分には差し支えはない。本物とちがうのは、彫りこまれていた禍々しい紋様がないことだったが、捜査機関に必要なものは刃に込められた曰くではなく、形そのものであったから、問題ないだろうとのことだった。

小男の談なので、まるごと信じるのもどうかとは思うが。

犯行に使われた凶器を見て、兵士はすぐに察したようだった。

 そのまま刺殺魔は連れていかれ、ロワジィは小部屋の机に座るよう指示される。

そうしていくつかの書類を差し出され、待つあいだこれに目を通し、記入すべきところに記入をするように告げられた。

お役所仕事は手続き仕事だ。面倒くさくて仕方がなかったが、これもギィが自由になるためと、彼女は大人しく書類を受け取り、目を落とす。

 サインをいくつかに記しながら、書面を読んでいると、刺殺魔を連れて行った衛兵が四半時ほどで戻ってきて、確定だなと告げた。

「獲物と傷口が一致した。なにより取り調べる前に被疑者本人がさっさと口を割りはじめている。心神喪失の線はあるとしても……、――まあ、被害者が多すぎた。有罪だろうな。あんたの連れは晴れて無罪放免だ」

「冤罪の間違いで――、」

 つい皮肉がこぼれかけ、そのまま、衛兵の後ろにのっそりと立つ姿があることに気がついて、ロワジィの言葉が途切れる。

 男がいた。

知らず椅子から立ち上がっている。

拍子に、ばさばさと書類が膝の上から床へ落ちたが、どうでもいいと思った。

 兵士に促され、ギィがゆっくりロワジィに近づく。

 黙ったまま、彼女は男の体に目を走らせた。脱臼していた肩は戻されている。殴られたり小突かれたりした痣も、だいぶん薄くなっているようだ。腫れて満足に開かなかった瞼も今は持ち上がり、黒目がまっすぐに彼女を見ていた。

 すこし頬が削げたな。そう思う。

「ロワジィ、」

「迷惑なんてかかってない」

 迷惑をかけた、きっとそう言うだろうなと彼女は察し、男の言葉をさえぎって言葉を発する。

「あんたはなにも悪くないもの」

 言ってそのまま男の体へ手を伸ばし、力いっぱい抱きしめた。

「ロ、ロワジィ」

 とまどった男が、彼女の肩に置きそこねたまま手を宙に硬直させ、文字通りお手上げになって、困惑しているのが判る。

「なに、」

「お、俺、風呂、浴びてない、におうから……、」

「におうわね」

 たしかに男は汗くさい。拘置所に浴場はないからだ。清拭程度は許されたかもしれないが、饐えたにおいも混じる。

それでも抱きしめ、人目もあったがついでに男の厚い胸板に額をすりつける。こんな時でないと勢いで抱きつくなんてとてもできない。だったらいつもより少し過剰でもいいように思う。

「駄目だ」

「なんで、」

「におい、うつる、離れてくれ。……あんたまでくさくなる」

「じゃあ洗い場で、こするわ。焦げ取り用のたわしで」

 焦る男がおかしくて、彼女はくすくす笑う。

「ロワジィ、」

「なぁに」

「頼む、離れてくれ、あんたが汚れる」

「別にいい」

 言うと男がまた狼狽え、しばらくして諦めたようにため息をついて、おずおずと彼女の肩に手を置いた。

「ねぇ」

「うん、」

「遅くなってごめんね」

「うん、……?」

「たくさん待たせてしまった。ごめんね。おかえりなさい」

 この状況で言う言葉なのか一瞬迷ったけれど、それが一番しっくりするような気がして、ロワジィは結局男にそう言った。

 聞いた男がすこしためらったあと、ただいま、と返す。ほっとしたような声だった。

それで十分だと思う。

 

 肩を並べて詰め所を出る。

 出ると、そこに少年がやってきていた。

「テオ」

 驚いて呼びかけたその声に彼はぱっと振り向き、一面に喜色を浮かべた顔でこちらに駆けてくる。

「ロワジィ……ギィ!」

「どうしてここが判ったの?」

 男に飛びつく少年に、ロワジィはたずねた。

 会えたのは嬉しいが、様子を見に来たにしてはあまりのタイミングが良い。すると宿にモグラが顔を出したのだと少年は言った。

 意外に気が利くじゃないの、心の中で褒めてやる。

「ロワジィからの言付けだって言って、ギィがもうすぐ出てくるから、迎えに行ってやれって」

 自分は用事があるから先に行くが、年増にどうかよろしく伝えてくれ。トルグでまた会おう。続けてそう言ったのだと少年は言った。

 え、なんでトルグ。別にもう会いたくないんですけど。

 彼女の素直な感想だ。

 どうして付きまとわれているのか謎である。

「ねぇロワジィ、『としま』ってなに?」

「……あの野郎」

 喉奥で唸る。

 褒めて損をした。まるで気が利いていない。前言撤回する。

 結果的に男は釈放され、よかったと流されがちになりそうだったが、男がとばっちりで逮捕連行されたもとをただせば、やはりモグラが早急に刺殺魔を確保しなかったことにあるような気がする。

 事情はあるのかもしれないが、知ったことじゃあないと思う。

 ……やっぱり一発ぐらい、ぶん殴っとくべきだった。

 なによりロワジィは言いたい。

年増、年増とモグラはことあるごとに口にしていたが、ロワジィは三十を迎えたばかりで、彼は三十六だ。彼女の方が小男よりも六つも年下なのだ。

彼の守備範囲からするとえらく年増だと言いたいのだろうけれど、それにしたって自分より年長の人間から、年増と呼ばれるのは納得がいかない。

言いたい。声を大にして言いたい。

彼が好きなのは十代だとか本当にどうでもいい。

そこを指摘するとたぶんモグラから、ほおら年増なのを気にしているからむきになっていやがる、そんなように揚げ足をとられると思ったから、こらえて黙っていただけだ。

理不尽だ。

 理不尽と言えば、ロワジィは宣言通りに衛兵をそろっている順にぶん殴るつもりだった。

任務中の兵士を殴れば、おそらくただでは済まないことは十分判っていたけれど、男への尋問は、やはり許せないと思う。

 無実の人間にあれはない。

 悪かったなと形ばかり謝罪されても、腹の虫がおさまらない。

 食ってかかる彼女を止めたのはギィだった。

 もういい、激する彼女に男はゆっくりと言った。

俺は、あんたが俺をここから出すために精いっぱい動いてくれた、それだけでもう十分なんだ。

 ……でも。

 聞いて彼女は顔を歪める。

「それでもやっぱり、間違ってる」

「いいんだ」

 諭すように首を振り、一語一語かみしめて男は言う。

「俺はあんたと、また、一緒にいられる、それでいい」

 男に言われると、それ以上彼女が強く出るのもどうかという気がして、結局うやむやのまま、ロワジィは口を噤んだ。

 

 テオ少年をはさんで、三人で手をつないで宿へ戻る。

 

宿場界隈へ戻るには市場を通る。そろそろ店じまいの露店商たちが、今日の残りを売り切ってしまおうと、呼びこみ手叩きに余念がない。

よっ、旦那、ほら、隣の美人さんに、これ、買ってプレゼントしてやんなよ。安くするからさ。きれいな奥さんじゃあないか。え?ちがう?俺のじゃない?いやいや、旦那、そんなに仲睦まじくしておいて、ご謙遜、やだなぁ、困るなぁ……、……。

大人の男女と、間に子供。まるで境遇の違う三つの寄せ集めなのに、彼らからは仲の良い親子に見えるのだ。

それがすこし面はゆいと思う。

 

並んで通りを歩くうちに、ふと思い出したように少年が男に何かを耳打ちした。

 うん、と男が身を屈めて少年に顔を寄せる。夕暮れ時のは通りは混雑しており、呼び込みも、往来の荷車の音も、喧しい。

 ロワジィはギィとテオ少年を見るともなしに眺めていた。

耳打ちの内容は知れないし、声も聞こえてはこなかったが、クマと小型犬がじゃれ合っているようでほほえましいな、だとかぼんやり考えた。

しかもよくよく見ていると、男と少年のそのサイズ差に、本当に同じ人間なのか不思議になる。

掌は言うに及ばず、肩幅や頭周りも。男が人並み外れて大きいというのももちろんあるが、実際子供というものは、どこもかしこもちいさいのだなあと、彼女は今さらの感想を抱いた。今でこそこの大きさが、成長すると男ほどのいかつさになることもあるわけで、まったく手品のようだと思う。

小さいものはいつの間にか成長する。

――あたしは成長していないな。

男と少年を視界に入れながらロワジィは思う。

自分の時間は十年前に止まったままだ。

時間を止めた人間に、未来は訪れない。だから成長もないだろう。ただひたすら肥溜めのようにどろどろとした感情を腹に抱えたまま、まことに手前勝手な復讐を続けて来ただけだ。得るものは何もない代わりに、失うものも持っていなかった。

それでいいと思っていた。自分はこのヘドロの中に終生居続けよう。どんな生き方をしたところで、結局最後は本人が、いやまったくたいそう満足な人生だったと笑って往生できるのだとしたら、それでよいのではないか、そう思っていた。

自分は笑って死ねると思う。でも。

――ここから、どこかへ一歩踏み出したとしたら、それは成長かしら。

少し前までなら、鼻で笑って流した感傷だった。

いまは笑って流す自信がない。

 

 物思いに耽り、ぼんやりするロワジィに、男がそっと肩を寄せる。

「うん、」

 視線を戻すと、いつの間にか少年はすこし先を走っていた。男に駄賃でも貰ったものらしい。

「俺、くさいから、飯屋迷惑……、宿で食えるもの、買って帰る」

「ああもう、……食費はあたし持ちだって言ってるのに」

 ひと冬農場で働いたおかげで、ある程度まとまった金を男は手にしていたけれど、定職のない今の生活ではいつ何時入り用になるか判らない。

 そもそも、男にかかる生活の費用は彼女持ち、ということを最初に提示していたはずだ。

 現金を使う場所のない自給自足の山であるならともかく、気を緩めるとあっという間に路銀が心もとなくなるのが町の生活だ。いたるところに誘惑がある。

 ひとつふたつの値段はたいしたことがなくても、まとまるとわりと大きな額になったりする。

「あとで、立替分払うからね、」

 言ったのに返事がない。ロワジィが脇の男を見上げると、じっと男がおのれを見ていたことに気がついた。

「なに、……?」

 いぶかしんで眉を上げると、ここ、言って男が指の背を彼女の頬に伸ばす。

「血」

「うん?……、ああ……、ああ、うん、ちょっとね、ちょっと切っちゃって」

 先ごろ路地裏に刺殺魔をおびき寄せた際に、かすったものだ。拭ったつもりだったが、また滲んでいたものらしい。

「薄皮一枚切っただけよ。どうってことないわ」

 困ったようになって顔をしかめる男に彼女は言った。囮になった、だとか絶対口には出せないと思った。卒倒するかもしれない。

「痛い、」

「痛くもなんともないわ。忘れてたくらいだもの」

 これは本当のことだ。言われてみればなんとなく、ひりつくかな、程度のもので、数日もすれば目立たなくなるだろう。

 男の方がよほど痛む顔をしている。

「ロワジィ」

「うん?」

「俺が出てこられた、いうことは、あんた代わりに誰かを掴まえたんだな」

「あー……、……。……うん、まあ、そうなるわよね、流れ的に」

「花売りの家族、殺された、聞いた」

「そうね、そうみたいね」

 卒倒するかもしれないとおそれを抱いているところへ、思案しながら男が切り込んでくる。困る。どうにか話の矛先をそらせるものはないかと思いながら、彼女はこたえた。

「取り調べのあいだ、ずっと、犯行に使った刃物、刃物と、兵士たちに、聞かれた」

「へぇ、そう、刃物」

「ロワジィ」

「うんー?」

 生返事。

「なにで切った」

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「あ、ほら、見て、これおいしそう」

 横顔をもの言いたげに見つめられるが、素知らぬふりでロワジィは露店を覗きこんだ。背中にもじっと視線を感じたが、言うつもりはない。

 だがこの向けられる視線は不快じゃない。

 刺殺魔のときはあれほど気味が悪かったのに、それが不思議だと思う。

 

 

 宿に戻ると、まず裏手に回った。

 風呂場がないので、前と同じように洗い場で男の汚れを落とすことにする。

 春先とはいえさすがにまだ、汲んだきりの水場の水では冷たくて気の毒だったので、宿の主人に掛け合って桶に二杯、湯を貰った。

 今よりよほど水がない場所を、旅したこともある。水は貴重だ。まずは飲料用に確保されるから、体を清めることに回せる分があると言うのは、だいぶん贅沢なことだった。

桶に二杯。十分体を洗える。

湯を渡すとロワジィは部屋に戻った。男はひとりで洗えるだろうし、彼女が付いていてじっと眺めていなくてはならない理由もない。

部屋に戻ると戻っているはずのテオ少年はいなかった。どこかで道草でも食っているのだろうか。

少年をひとりで寝泊まりさせておくために、個室をとっていたので、遠慮なく畳んだ寝具にもたれる。人目もないし、今日はいろいろあった。

疲れた。

目をつぶるとどっと疲労が襲ってきて、いつの間にかロワジィは丸まって眠っていた。

 

そっと誰かが傍に座る気配で目が覚める。

うん、と体の向きを変え、目を開けると、こちらをうかがっている男の目とかち合った。

こざっぱりとした身なりになっている。

汗を流し、髭もあたり、洗った髪も乾いているようだったので、自分はいくらか眠っていたようだ。

目が合うとああ、と男が言った。

「すまない、起こすつもりは」

「……あたし……、だいぶ寝てた?」

「ふた時ほど」

 目を擦りながらロワジィは身を起こす。窓の外はもう真っ暗だ。目を閉じればすぐにまた眠れそうな気はしたけれど、腹が減った。夜中に空腹で起きるなら、いま起きて食べた方が無難だ。

 あたりを見回した彼女の仕草に察して、男が横にあった包みを差し出す。

「あんたは?」

「俺は、さっき食べた。うまかった」

「テオは?」

「食べて、もう寝てる」

 差し出された量がひとり分に見えてたずねると、男がこたえる。後ろを向くと彼女にすり寄るようにして少年が寝息をたてていた。

では遠慮なくいただこうとロワジィは包みを開く。紙袋を開けるとぷんとにおいが立って、誘われるように腹が鳴った。

そういえば、昼はろくに食べていなかったのだ。

いただきますと呟き、食欲旺盛に食べ始めるロワジィへ、袋に入ったはちみつ酒が差し出される。それも受け取り、喉に流し込んだ。

しばらく会話もなく黙々とロワジィは咀嚼する。

それを見るとはなしに眺めながら、やがて彼女が食事を終えると、その、といかにも言い出しにくそうに男は口を開いた。食べ終わるのを待つあいだ、どう切り出すべきか、ずっと思案していたような口ぶりだった。

「その、もしあんたが、付き合える気があるなら、でいいのだが」

「うん、……なに?」

「明日発つのだな?」

「そうね、思ったより長くなってしまったし、もともと中継地点でしかないしね」

「その、……その、すこし、出ないか」

「いいわよ?」

 軽くうなずいてロワジィはこたえる。

 夕闇どきより、一度ぐっと深く眠ったことで頭も冴えていたし、疲れもだいぶ取れた。それに食べてすぐ眠ると言うのも、胃にもたれそうだ。

腹ごなしに出歩いてもかまわない気分だった。

 

少年は眠っていたのでそのままそっと置いてゆく。

連れ立って表に出ると、夜風で流れた髪が顔にかかった。目にも口にも容赦なく入ってくる動きに、もう、と払って隠しから出した手巾で結ぼうとすると、遠慮がちにその手を男に阻まれる。

「――そのまま」

 かすかに目を細められた。

「でも、」

「そのまま」

 求められるとなんだか改めて強く出て結ぶ気にもなれず、ロワジィは肩をすくめていいわ、とこたえた。別に自分が鬱陶しいだけで、今は視界が遮られても支障はない。

 邪魔なら短く切ってしまえば楽だとは思う。洗って乾かす手間もなくなり、相当楽になるに違いない。判っているのだが、自分のような背丈のある女が、皮鎧を着て腰に獲物を挿し、おまけに短髪ともなれば、どうあっても男にしか見えないような気がして、それもどうかと思う。

 特別女あつかいしてほしいわけでもないけれど、だからと言って男と間違われて嬉しいかと言われると話は別なのだ。

「どこか、適当に店に入る?」

「いや」

 言って男は持参した酒瓶を振ってみせた。先に夕飯と一緒に買ったものらしかった。

 酒がすでにあるのならば、宿の部屋も個室であるのだし、別にあの場で飲んでもよかったような気がするのだが、男には別にやりたいことがあったらしい。

 夜も更け、人気のなくなった広場の噴水に腰を下ろして、酒を煽る。どろりと喉を焼く、濃いラムだった。飲むと胃の腑から熱くなる。

春先の夜風はかなり冷たくて、思わずロワジィが身震いすると、気づいた男に巻いていた襟巻と上着をかけられた。

「あんたが寒いでしょう」

 言ってどこかで言った覚えのある台詞だなとふと思った。

「寒い、慣れている」

 男のこたえる台詞も似たようなものだ。

 考えを馳せ巡らせて、ああそうだ、祭りの夜にそんなやりとりをしたのだなと思う。あのときは、たしか、

「――花火」

 次に男が口を開いて言った言葉はそれで、一瞬彼女は男がおのれの考えを読んだのかとぎょっとなり、それから目の前に差し出された包みに、

「え」

声が漏れた。

 包みは祭りの射的の景品でもらった手持ち花火だ。

いつの間にかなくしたと思っていた。

「……あのとき、全部やらなかっただろう」

 祭りの夜、男に想いを告げる娘を見た。見てはいけないものを見てしまった気がして、林の中にロワジィは逃げた。そうしてひとりで花火に火を点けた。

 林の中での花火は目立つ。逃げたはずだったのに、見つけてほしかったのか、見つけてほしくなかったのか、今でもよく判らない。

こぼれ落ちる火花はたいそうきれいで、幻想的だったけれど、花火をしていた当の自分はものすごくみじめだった。

「もう、湿気ってる、しれないが」

 油紙の包みを広げながら男は言う。

 あの時しそこねた花火の束がひとくくり中から出てくる。いいわ、呟いてロワジィは差しだされたはじめの一本を受け取り、男が下げてきたカンテラの火に近づけた。夜とはいえ野外でもなく、あちらこちらに外灯の灯る町中を歩くだけなのに、

……どうして灯かりなんか持つのかしら。

宿を出る際不思議だったのだが、男は最初から花火をするつもりだったらしい。

 けれど炎に近づけた穂先は、ただ煙を上げ焦げるばかりで、ああ、男がちいさく首を振る。

「だめか」

「次は、点くかも」

 たしか十本で一束あったはずだ。差し出された二本目を受け取りながら、ねぇ、とロワジィは男にたずねた。

「聞こうと思ってたの。あんたが今回とばっちり受けた花屋の騒ぎ……、いろいろ考えてたら、腑に落ちないところがあって。……あんた、花屋で、なにをしようとしたの」

 男がちら、と上目遣いに彼女を見る。

「あんたが捕まったってテオが言いに来た話の中で、あの子、とにかくたくさんの花が必要だったから、店に行った、とかそんなようなこと言ってた。売り子が持ってた籠の中の花じゃ、全然足りないって。聞いたときはそれどころじゃなかったから、気にもしなかったけど……、でも、花売りが売っているのは日持ちのしない花でしょう。テオが母親にお土産にするには、ちょっと不向きなものだわ。……じゃあ一体、何に使うつもりだったの?」

「――……花を、」

 二本目、三本目、四本目も同じように焦げるばかりで火は点かない。五本目を選りながら、男がこたえた。うつむいている。どんな顔をしているのかは判らなかった。

 照れていたのかもしれない。

「花をあんたに贈りたかった」

「え……、?」

 思ってもいなかったこたえに、ロワジィは息をのみ、え、ともう一度たずね返す。

「花?え?え?……あたしに?」

「花」

「なんだって、あたしなんかに、」

「あんたに贈りたかった。……両手いっぱいの、……両手、……持ちきれないくらいいっぱいの、部屋の中一面、埋め尽くすくらいいっぱいの、花、……あんたが好きだって言っていた黄色の花、あんたに」

 ちりちりと咲きこぼれる黄色の房飾り。

かかえきれない両手いっぱいの花束を、

「あんたに感謝を伝えたかった」

 男は言う。感謝。彼女は言葉をくり返す。

「俺、……、生まれてから山でずっと過ごした……、それから、町、下りて、あんたに会った。……俺、あんたに、たくさんのこと、教えてもらった」

「……教えたって、……あたし、別に、なにも、」

 戸惑ってロワジィは花火の穂先を見つめる。

五本目。六本目。燻ぶりばかりが上がり、うまく火は点かない。

教えてもらった大切なこと。知識ではなくて、もっとずっと底のところの部分。

「……誰かから心配されること。俺の作った飯、うまいと言って食ってくれる相手がいること。風邪で寝込むと看病されて、うさぎのりんごを食えること。それから、毎日、起きて、食って、歩いて、自分一人でない、誰かがいること。その誰かと話すと、楽しいこと。自分以外の誰かを、考えると、ここがあたたかくなること」

 言って男はとん、と拳で胸を叩く。

 七本目。八本目。

「あんたと会う前の俺は、きっと、俺の形をした、でも、大事なことを知らない『なにか』だった。花宿に行って、それから斡旋所に回されて……、本当に、もうどうでもよかったんだ。――でもあんたが、俺を、俺にしてくれた」

 九本目。

「……なにそれ」

 じっと炎を見つめ、ロワジィは呟く。見つめる炎がゆらゆらと大きく揺蕩って、きちんと見えない。

「ありがとう。あんたといられて、よかった」

 静かに男は言った。彼女は顔を上げる。ぼやけてほとんど見えない視界の向こう側で、男が真面目な顔をしてこちらを見ていた。

ぼたん。

そのくそ真面目な顔を見た瞬間、涙が地面へこぼれた。

「……莫迦じゃないの」

 悪態が口を衝く。

「莫迦じゃないの。本当に莫迦じゃないの。あんた、花売りの花なんてね、あんなの、観光客相手のぼったくり価格に決まってるでしょう。通常価格より何割も上乗せされてて、それを承知でみんな一輪、二輪買ったりもするけど、あんた、それを、抱えきれないほどいっぱい買って、一体どれだけ無駄金払ったか判ってるの?しかも、結局騒ぎでうやむやになって、花は届かないわ、先払いした分、全部ぱあになるわ、おまけに強盗の嫌疑かけられて、連行されて、痛い思いまでして、そこまでしてしたかったのが、あたしに感謝を伝えるだとか、莫迦、大莫迦、本当に……、」

「――……」

 鼻声の悪態に男が笑う。

そうして地面から十本目の花火を拾い上げ、ゆっくり炎に近づけた。

「そうだな。手持ちがほとんどなくなってしまった。本当に頭が悪い」

 炎に近づけた最後の花火がちり、とかすかな音を立て、

「――あ」

「点いた」

 しゅ、しゅ、とこまかな松葉の火花が散る様子に、思わず彼女と男から声が上がる。

続けて火花が出始めたことを確認したギィは、指先でつまんでいたそれを、壊れものをあつかうようにそっとロワジィに差し出した。

「あんたがやってくれ。俺は見ている」

「――、」

 黙ったままロワジィは受け取った。火の粉と一緒に涙が点々と地面に落ちてゆく。

向かい側で、花火のうすぼんやりとした灯かりに照らされて、同じようにじっと彼女の手元を見つめる男がいる。

どれだけあたしはあんたにありがとうって――……、

 いろいろ言いたいことはあったはずなのに、それ以上ロワジィは何も言えず、ただもうすこし終わってくれるなと念じながら、火花を散らす穂先をひたすら見つめていた。

 

 

 

(20180520)

最終更新:2018年05月27日 01:16