商業都市トルグは賑やかな町だった。
町の周囲をぐるりと石壁で囲われており、出入りは東西南北に開かれた大拱門(アーチ)だ。警備のための歩哨が門の両脇に立っていて、旅行中を示す通行許可証をロワジィが見せると、簡単に中に通された。
くぐるとそこはまっすぐに伸びた大通りがある。
簡易の露店ではなく、建物に併設された商店が軒を並べており、張りだされた看板やら、市内の案内板やらに目を奪われる。
市内のすべての道路は石畳で舗装されている。重い荷を積んだ荷車が通行するためである。
往来も多い。目につくのはやはり荷を山と積んだ馬車が大半だった。トルグには商工組合所(ギルド)がいくつも置かれている。その組合所に運び入れ、運び出す荷物だ。
その馬たちの引き綱、車の取っ手、括り付けられた荷を覆う布、ありとあらゆるところに色が氾濫していて、それが春の日差しを反射して目に飛び込み、立ちくらみを催す。
文字通り、田舎から出て来たおのぼり一行であったので、とりあえず手近の食堂に入った。行先も定まらぬままきょろきょろしていては、先を急ぐ車に轢かれてしまいそうだったからだ。
露店とは違い、石造りの壁一枚、大通りと隔てられた食堂の空間は、それだけで少し静かで落ち着けるものだった。
腰を下ろし、飲み物をたのむと、はあ、と三者三様ため息が漏れた。
「人、多いねぇ」
大通りを臨む窓を眺め、テーブルに頬杖をついたテオ少年が言った。
「そうね、多いわね」
「俺、途中の町でも多いなあって思ったけど、ここはそれ以上だね」
やっぱり組合所があるからなのかな。少年は指を折り数える。木工でしょ、革細工でしょ、製粉でしょ、俺の行く羊毛のところと、あと仕立て。
「なんかさあ、俺、羊毛持ってくるたびすごい不思議になるんだよね」
「なにが、」
ぼやく口調にロワジィは相づちを打ってやる。
「うーん。うまく言えるか判んないんだけどさ、普段、俺が上着を仕立てようとしたら、自分とこで飼ってる羊の毛を刈って、それを梳いて、糸に紡いで、染め粉で色付けて、機織って、それから型とって縫うだろ。俺、町に初めて来るまで、服ってそういうもんだと思ってたんだよね。……でもさ、町だとさ、俺が組合所の倉庫に羊毛運び込むだろ。それを梳く人間は別にいて、紡ぐのも別で、染めるのも工場(こうば)があってさ。俺の知らないところでいつの間にか服になって、しかも俺の知らない人間がその服着るわけでしょ」
「そうね」
「しかもここの町の店だけじゃなくてさ、下手すると別の町で、その俺の持ってきた羊毛を使って作った上着が売られたり、着てたりするじゃん」
「そうね」
「俺がぜーんぜん知らないところで、俺の持ってきた羊毛が使われてるっていうのが、なんか、考えたら当たり前なのかもしれないけど、すごい不思議なんだよね。叔父さんにそれ言ったら笑われて、坊主それがリュウツウだ、って言われたんだけどさぁ」
自給自足の村の暮らしと、流通することで経済が成り立っている町では、そもそも生活の基盤がまるで違う。少年もそれは理解している。理解している上で不思議と言っているのだ。
「でもさあ、そういうの考えると、なんか、元気?でるよね」
「元気……、」
「うん。俺は知らないけど、どこかで、俺が刈った羊毛の上着着た顔も知らない誰かがいるんだなって思うとさ、なんか、嬉しくなるんだよね」
「――」
「新しい上着とか、絶対嬉しいじゃん。新しいの買って、いやな気分になるヤツなんていないだろ」
「テオは、」
運ばれてきたエールに口をつけながら、ロワジィはしみじみと呟いた。
「テオはきっといい羊飼いになるわね」
「そうかな。……俺、学校も行ってねぇし、羊追うくらいしか特技ないけど」
「なる」
言いながら彼女は向かいにぐったりと伏しているギィへ目をやった。つられて少年も男へ目をやる。
「ギィ~~」
つんつんと少年が男の肩口をつつくと、男がうううう、と低く唸ってこたえる。
言葉を発する気力はないようだった。
「……ねぇロワジィ、ギィ、大丈夫?」
「大丈夫でしょ、別にどこか悪いわけじゃないんだし」
往来のあまりのせわしなさに目が回ったらしい。風景として流せばよかったところを、ひとつひとつまじまじと眺めて酔ったのだ。
心配そうに目をやる少年に肩をすくめてロワジィはこたえ、それから手にしたエールをぐいと飲み干した。
「ほら。ここに酔い覚ましのお茶頼んでおいたから、飲めるようなら飲んでね」
「うう」
「立てるようになったら、先に宿に向かっててちょうだい。あたしはテオととりあえず羊毛納品してくるから」
「うう」
「宿を決めたら、帳場に一声かけておいてね。後から行ったあたしたちに判るように」
「うう」
「外に出たら、なるべく、足元見てあるくといいかもしれないわね」
「……わかった」
唸りながらそれでも男が了承の意を示したので、テオに目配せをし立ち上がる。何度か振り返る少年をうながして彼女は店を出た。
木工組合の扉の前に立ち、看板を眺める。荷車と手斧が彫りこまれたぶ厚い一枚板のそれは、雨ざらしで色もくすんで黒光りし、まるで真鍮メッキされているようだ。
ここに来るまでに羊毛組合にも寄ってきた。少年が驢馬(ろば)に乗せて運んできた羊毛を卸し、それからまだ時間があったので、ついでに木工のほうにも足を延ばしたのだ。
男も連れてくる予定だった。だが人酔いしたのなら仕方がない。
看板を眺めながら、さてここからどうしたものかと上唇に指を当てた。
組合はある。門番が立っているわけでもないから、事務所にも簡単に出入りできる。
だが、そこでトルグの木工工場への働き口を紹介してもらうとなると、話は別だ。
組合からすれば、ギィは素性のしれない人間である。
そうして当たり前の話だが、素性のしれない人間に、おいそれと働き口は紹介してもらえない。
トルグに来るのはロワジィも初めてだった。だからツテは辿れない。できるとすれば、コネをどうにか作ることだったけれど、
「で」
なるべく見ないようにしていた看板の下あたりに、可能な限りの固く冷えた声で、ロワジィはしぶしぶ声をかける。
意地でも目は合わせなかった。
「なんで早々にあんたがいんの」
「――うわぁなにその氷のような声。なに?嬉しくない?俺に会えて嬉しくない?」
モグラ男がいる。
「嬉しくない」
本心だった。
やだわぁ、傷つくわぁ、言いながら小男イーヴがにやにや笑いながら近づいてくる。
「ロワジィ、」
小さく呟いて少年が彼女に一歩近づき、見上げてきた。宿に顔を出し言付けしたのだから面識はあるのだろうが、いまひとつ男のひととなりを把握していないので不安に思ったのだろう。
「大丈夫、おかしな真似したら、すぐ圧してやるから」
うすく微笑んで少年に答える。
「なんだよー。折角あんたにいいネタ仕入れてやったのになー。俺に会えて嬉しくないんだー、そうなんだー」
「なにその棒読み。……なんでわざわざここ来てんのよ。曰くつきのナイフは回収したんでしょ。さっさと依頼主に報告行きなさいよ」
「行ったし。もう行ったし。それに、ここ張ってたら、あんたに会えると思ったから」
「なんで会おうとしてんの。あんたとの繋がりはもう終わったでしょう」
眉をひそめてようやく小男に視線を合わせる。
睨んでやった。
えーだって、だとか可愛い子ぶっている中年男が地味に気持ち悪い。可愛くない。まったく可愛くない。
「俺、あんたのこと、反吐が出るほど嫌いなのね」
その上、頭がおかしい発言を、真面目な顔でくり出してくる。
……ああそうか、春の陽気っていろいろ中てられるって言うし、そういうのかな。内心呟いた。
嫌いならば近づかなければいい。生きていれば一度や二度、徹底的に馬の合わない人間と出会ってしまうというのも、時にはある。
馬が合わない、それはもう仕様のないことだ。努力してどうにかなるものでもないし、結局大人としての対処法は「お互い近づかない」、これに尽きる。
それをわざわざ接触をかけてくると言うのが判らない。利害関係が一致した先だっての捕り物騒ぎはまだ仕方がなかったと割りきれるが、それで切れた縁だろうに、こうしてまたつなげてくる意義がさっぱり理解できない。
「偶然ね、あたしも大嫌いだわ」
「あいつをここに置いて行くんだろ」
その上短い言葉でロワジィの胸をえぐってくる。不意打ちに一瞬言葉を失った。
「……あんたには関係ない、」
「お別れの際には、涙、涙の、手拭いなしには見られない光景が展開されるわけでしょ。言動がいちいちムカついて、ものすごく泣かせたかったヤツの泣き顔を、苦労しないでも見れるわけで、見ない手はないっていうか」
「悪趣味」
聞いてロワジィは顔を歪めた。本当にこの男に関しては良識を疑う。
「ねぇねぇ、」
控えめに少年が上着の裾を引いた。うん、応えて彼女が目をやると、俺、知ってるよ。訳知り顔で耳打ちする。
「これ、あれだよね、気になる子にちょっかいだして嫌われるってやつだよね」
「はあ?」
少年の言葉に、耳打ちが聞こえていたらしい小男が瞬時に反応を示した。
「ロワジィが心配だから、様子を見に来たってことだよね」
「違ぇし!」
ものすごい勢いで小男が否定する。ふーん、あ、っそう。上から見下ろしながらロワジィは意地悪くにやにやと笑ってやった。優位に立てる状況は可能な限り立つべきだ。
「なんだ。ただの貧相なオッサンだと思ってたけど、可愛いところもあるじゃない」
「あのなあいいかこの際はっきりと言っとくがな俺が好きなのは十から十五くらいの天使ちゃんたちであってこんな薹がたって頭に花が咲いている年増女なんてこっちからお呼びでないわけそれに三十路なんてもうがさがさの苔の生した岸壁みたいなもんで俺の天使ちゃんたちの瑞々しくてすべらかしい膚に比べるべくもないっていうか」
「ごめん、普通に気持ち悪い」
こぶしを握って熱く語られて、ロワジィと少年はどん引いた。
娼館にはさまざまな事情で生きる女たちがいて、そこにはまだ娘と呼ぶにも気の毒なほど、若木のような少女たちもいるのは確かだ。
だが、娼館に少女らがいることと、それをおかしな熱情で語る男は、同列にしたくない気持ちのロワジィだった。
異生物を見る目を投げかけていると、さらに捲し立てようとした小男が、彼女の肩越しに後ろを見てあ、と声を上げる。
「――ロワジィ、」
呼ばれて振り返ると男が立っていた。
先よりだいぶ具合はよくなったようだが、まだ心なしか顔色が悪いように見えた。……先に宿に行っててよかったのに、彼女が呟くと、
「組合、顔を出すのだろう」
そんなように返された。
「俺の身の振り方の問題、なのに、俺がいない、おかしい」
「それはそうだけど、……、でも交渉は明日にしようと思ってたのよ。今日は場所を確認しに来たの。あんたも本調子じゃないでしょう」
「平気だ、自分の影だけ見てきた」
ロワジィが言ったとおりに足元だけ見て歩いてきたらしい。たしかに足元を見て歩けと彼女は言ったが、他のものにぶつからなかっただろうか。男が下ばかり見て歩く姿を想像して、思わずおかしくなった。
頬を緩めた彼女を見て、それから脇の少年に目をやって、そうしてそこでギィは、すこし離れて建物の影に隠れるようにして立っている小男に初めて気づいたようだった。
見やり、数瞬間を開けて、それからその痩せぎすの顔をどこで見たのか思い出したのだろう。む、と小さく息が漏れる。
男が最後にモグラを見たのは峠越えのときだ。先回の町では会っていない。そうして男の中で、モグラに対する印象はかなり悪いものであったはずだった。
しるしに、わずかに低く腰を落とし身構えている。
「ロワジィ」
声に警戒が交じる。
「なにか因縁でも」
「おつむが小さいと、そうやって無害な人間に対してすぐ攻撃的になるのかね?ああ厭だ厭だ」
「日頃の行いってやつでしょう。それよりいいから、あんたはさっさとその仕入れたとかいうネタを言いなさいよ」
いつまでたっても軽口ばかりで話が先に進まないので、うんざりしてロワジィは小男に顎をしゃくる。
「大丈夫よ、別に厄介ごとに巻き込まれてるわけじゃない」
そうしてこちらを見るギィに応えてやった。
「ええええ、なんか俺あつかいひどくない?差別じゃない?俺に会っても嬉しくないような年増に、俺がわざわざ手間暇かけたネタを披露してやらないといけないの?」
「はいはい嬉しい嬉しい」
先ごろよりさらに冷たい声で返してやると、くそ、だとか口内で悪態を垂れながら、それでもゆらりとモグラは身を起こした。話す気になったらしい。
「組合に、昨日今日のあたりで届くはずの木材が、まだ届いてないんだそうだ」
「――」
「使いをやって様子を見に行かせたが、その使いも帰ってこない。木材所はここから半日離れた山のふもとにあるらしいが、たいした距離じゃない。だったら、遅れるなら、普通連絡ぐらいよこすもんじゃあねぇかね?これは何かあったんだろうなと、まあ、これは俺のカンだが」
「襲われた、」
「或いはな。入荷が遅れてこっちも困るだとか暢気に担当者が愚痴っていたが……、本格的にひとを雇って乗り出す前に、まあ、首突っ込んどきゃ、いい点数稼ぎにはなるだろ」
実はもう話を取り付けてある、言ってにい、とモグラは笑ってみせた。
こうした稼業に身を置いているものの中には、キナ臭いことを嗅ぎつける嗅覚が優れているものがいる。小男もきっとその部類なのだろう。
なるほど、頷いてロワジィはまた唇に指を当てた。
「その半日の距離の木材所の場所は聞いてあるの」
「当然」
「あたしたちが調べてくることも伝えてあるのね」
「抜かりはねぇよ」
「ふぅん」
もう一度頷いて、それから彼女はじっと小男を見つめた。
「聞くけど」
「あ?」
「今度はなんの依頼のついでなの?」
「あ?」
彼女の言葉の意味が本気で判らなかったようで、モグラが眉間に皺を寄せる。
「点数稼ぎってことは、木材所を見てくることを、報酬交渉して依頼として受けてないってことよね。あんたに限って、無報酬や善意で仕事をするとは考えにくい。こないだみたいに、なにか、あんたに旨みのある目的があって、肉体労働の方をこっちへ振るつもりなんでしょう」
「なに、それ、俺の人格ものすごい勘違いしてない?俺、根っからの善良な人間よ?」
「ふぅん」
まるで信用のない台詞を吐くので、白い目で見てやった。
「ロワジィ」
黙ってやりとりを聞いていた男が、彼女に僅か顔を寄せて、連れて行ってくれ、静かにそう言った。言われて振り向き、彼女は顔をしかめる。
「……でも」
「俺も連れて行ってくれ。足は引っ張らない」
「もしかしたら木材所にゴロツキどもがいるかもしれない」
「判っている」
「状況次第では荒事になるかもしれない」
「判っている」
男が言ったように、たしかに男自身の身の振り方の問題だ。行くという気持ちも判るし、それが誠意というものだろう。そう思っても、ロワジィとしては、男をこれ以上暴力の場に連れ出したくない気持ちもあった。
ちらと目を合わせると、男が覚悟を決めた顔でこちらを見ている。
結局、不承不承頷くしかなかった。
木材所はトルグから北へ半日歩いた場所にあった。
所、と名前がついているのだから、なにか倉庫的なものか、作業小屋的なものがあるのかとロワジィは思っていたが、実際は木を切り倒しすこし拓けた場所に、山から切り出してきた丸太を積んであると言うだけの資材置場だった。
脇に、廃坑道を再利用したらしい作業員が休む休憩所の入り口があって、人相の悪い男が二人、入り口の付近でたむろっている。
どう見ても作業員には見えない。
「……まーそもそも作業員なら、仕事する格好しているわけで、あんな物騒な刃物下げて歩いちゃないわな」
かなり離れた藪から様子をうかがった小男が呟いた。弓を使うだけあって、めっぽう遠目が利く。日々を暮らすのにはまるで問題はないが、小男ほど目が利く自信がなかったので、その一点に関しては純粋にうらやましいとロワジィは思った。
藪の緑の中では目立つ赤毛を手巾で隠して、彼女は低く身を伏せ、小男の報告を聞いていた。ギィも同じように大柄な身を低くしている。
人間の顔かたちというものは、自然の造形の中でわりと目立つのだ。先に見つかるのは得策ではない。
毎度こちらの都合に巻き込んでしまうのは申し訳ないとは思ったが、少年は町で待ってもらっている。もしも、のことを考えると、とても連れてこられないからだ。
その「もしも」だった訳なのだけれど。
「ほかに目につくのは」
「入り口前が汚れてやがる。ありゃ血だな。ひとり分ってところか。木工組合から様子見に派遣したやつが帰ってこないって言っていたし、……、そいつのかね」
状況次第で荒事になる覚悟はしていたものの、あっさり荒事突入にすこし溜息が出た。
「入り口付近の二人は、見張り?」
「……いや、ありゃあ多分、用足しついでに煙草ふかしてるだけだろ。そのうち入る」
「作業員さんは?何人かいるのよね」
「外には見えねぇわ。とっくに始末されて林の中に転がされてなけりゃ、坑道の中じゃねぇかな」
どうする、言外にたずねられて、彼女は考え込む。
「ここになにか大金だとか、そうしたあいつらを惹きつけるものが、置かれていたのかな」
「なんで」
「ここが、組合とつながっている木材所だっていうのは、昨日様子見の人が来た時点であいつらは知っている……、のよね?」
「知ってるだろうな」
「じゃあおかしいでしょう。だって組合とつながっていて、納品が遅れたら、人が派遣されるって、普通考えたら判ることでしょう。その派遣された人間を殺してしまったら、次どうなるか、とか」
「――普通に考えたらな。あのな、普通じゃねぇんだよ。脳が足りないから、ここを占拠してるの。こんなところ乗っ取ったって、たいした金にもならないし、そのうち大掛かりに討伐されるってぇのも判らないぐらい莫迦なの」
「――」
言われて一瞬戸惑ったロワジィへ、呆れた口調で小男がため息をついた。
「あんた、こういう稼業に身を置いてるわりにゃ、そういうところオボコだよな。……年増のオボコだなんて可愛いくもなんともねぇが」
「悪かったわね」
「――口に、」
隙あらばとにかく小馬鹿にしてくるモグラにむかむかしながらこたえると、それまでじっと黙っていたギィがおそろしく低く抑えた声で呟く。
「なんだよ」
「口に気をつけろ」
「おお怖ぇ怖ぇ。ブルって金玉縮んぢまいそうだ。冗談が冗談だって判らないのはあれかね、あんたもやっぱり足りないクチかね」
「……」
頬を歪めて笑って、それでも男の不穏な無言が、かなり危険な物であるとモグラは気づいたのだろう。
それ以上の無駄口をおさめ、背に挿した矢筒から矢羽を一本引き抜くと、坑道入口へ向けながらおら行っちまえ、ロワジィに向かって囁いた。
「露払いはしてやる。突撃すんのはあんたらだ。俺はか弱いからな」
腰の鉞(まさかり)をたしかめたロワジィは応える。
それから、隣で棍棒を手にした男へ目をやった。
「あたしが切り込むから、あんたは討ち漏らした奴の始末をお願い」
「――判った、」
神妙に頷きながら、それでも顔は恐怖で真っ青だ。農場を荒らす獣退治では一度もこんな怯えは見せなかった。おのれで語ったように、男は人間が怖いのだ。
――……ああ、あたしはまたこのひとに無理させてる。
胸が痛かった。けれど怖いのだからここで待っていてくれと頼むのは、男の自尊心をひどく傷つけてしまうと思った。
とどめる言葉を飲みこんで、ロワジィは前へ向き直り、坑道入口に向けて忍びやかに進みはじめた。
まず藪に身を隠して入口へ近づくロワジィと男に、表に出ていた二人はまるで気付くそぶりを見せなかった。彼女たちが気配を潜ませる技に特別長けていたわけではなく、ごろつきどもがあまりに無警戒にすぎたのだ。
積み上げた木材の影から勢いをつけて飛び出し、鉞を構えたロワジィに、ごろつきどもは目を剥き、あ、だとかえ、だとか声にもならない吃音を発したまま、モグラの弓に貫かれてぶっ倒れた。
迷いなく、胸中線ど真ん中。
おそらくある程度接近してきているだろうとはいえ、高所を占めているわけでもない視界のよくない藪の中から、それぞれに一矢で仕留める技量はさすがだと思う。
猟師の道を選んでいれば、腕のいい猟師になれただろうに、いったいどういう経緯で、モグラが護衛稼業へ身を置いたのか彼女は知らない。いつか機会があれば聞いてみてもいいと、ふと思った。
声らしい声も出せずに倒れた二人に、気づいて坑道内から飛び出すほかのごろつきの姿もなく、ロワジィはそのまま坑道入口の扉へ走った。男も続く。
錆付いた蝶番の扉を開ける。なるべく静かに開けたつもりだったけれど、かなりの音が坑内に響いた。ぎくりとなったが誰も様子を見に来ない。
坑内はしばらく下り階段が続いており、奥の方から人の声がする。
暗がりに目が慣れるのを待つ。それから足音を極力殺し、構えながら一歩一歩下りてゆくと、階段の終わりに死体がひとつ転がっていた。背中にひどい切り傷がある。背格好から、ごろつきどもでも作業員でもなく、遣いに出された組合の人間だろうと思われた。
おそらく、入り口の外で切り付けられ、そのまま坑内へ逃げようとして階段を転げたのだろう。
死臭がする。
空気の籠もるこうした抗窟内に、どうして死体を転がしたままにできるのか、心理が理解できないとロワジィは思う。そもそも臭くないのか。あまりに人間相手に手を汚しすぎて、臭いというものに慣れてしまったのか。
死体を踏まないように避けながらなるべく浅く呼吸して、それから顔を上げると、うねりながら奥へ続く通路が見え、脇にいくつか穴がある。小部屋があるようだ。
一番奥の小部屋から、品のないだみ声が通路に漏れてきている。酒でも入っているようで、呂律が回っていない。ごろつきの大半はおそらくあそこだと当たりをつける。
手近の部屋をひとつそっと覗くと、人の姿はなく、普段は使わない切り出し用の鋸やらショベルなどが置かれてあった。物置のようだ。
「――ロワジィ」
背後から同じように忍んで歩いてきた男がそっと声をかける。
「人の声、する」
「ああ……、奥にいるわね」
「いや、あいつらではなくて。別の、」
「別の?」
言われて彼女は前方に定めていた視線をずらし、男を振り返った。
「――どこ?」
「すこし遠くの……左」
聞こえると思われる方向へ、耳をそばだてていた男が、しばらくしてそう答えた。
「左……。あいつらの声の反響じゃなくて?」
「違うと思う。水の音……それと、低い呻き声、聞こえる」
「呻き声」
思いあたるのは姿の見えない作業員だ。
先に作業員の無事を確認するべきか、野盗を始末してから作業員を探すべきか、すこし悩んでいると、ロワジィ、と男がもう一度囁いた。
「うん、」
「悪いやつは、殺さないと、駄目か」
「そんなことはないけど、……そんなことはないけど、生け捕りにするってこと?そりゃ生け捕りの方が、いいのよ。組合に突き出すにはずっと都合がいいの。でも、加減するって結構難しいんじゃないかな」
目視したわけではないのではっきりと言い切れないが、漏れて聞こえるだみ声の感じでは七、八人はいる気配だ。声を発していないだけで、実際はまだいるかもしれない。
いくら相手に酒が入っているとはいえ、武器のあるだろう十人近くを相手に、ふたりで生け捕りにするのは不可能ではないとはいえ、だいぶん難しい。
「表に、ニガヨモギタケが生えていた」
「うん、?」
「積んだ材木の中に、オオダイコの木も、見えた。オオダイコのおが屑とニガヨモギダケを燃やして出た煙吸うと、二日は体が痺れて動けない」
「――」
「山の中で木を伐る、時々大きなハチの巣に当たる。避けていると仕事にならないから、……火を点けていぶして、動けなくなったところで巣ごと、始末する。煙、ハチだけでなく人にも効く」
「――」
「焚いて、一網打尽、……掴まえる、駄目だろうか」
「駄目じゃないわ。大合格よ」
ロワジィは驚きながらこたえる。案を採用することに何も異はない。無血で済ませられるのならばそれに越したことはないと思う。
できれば男の前でこれ以上の流血をしたくはなかった。
「じゃあ、いぶす準備、頼んでいい?外にはあいつもいるから、多分周囲は安全だと思う。あたしは作業員さんたち確認してくる。野盗どもはこの感じだと、酔っぱらったまま、出てこないし……、出せるようなら、先に作業員さんたち外に出したいから」
「……わかった」
男は短く頷き、すぐ戻ると呟いた。うん、頷き返してロワジィもちいさく笑う。
「よろしくね」
半時ほどして、煙が坑道内に流れだしたころには、五人の作業員を外に連れ出すことができた。
もとは八人いて、襲撃の際に二人が命を落とし、縛り上げられ転がされたときに、深手を負ったもうひとりがこと切れたと助け出した男の一人が語った。
「ありがとう。助けも来る見込みはねぇし、もう駄目だと思っていた。……何と言ったらいいか」
数日間飲まず食わずで弱りきってはいたが、その五人には目立った外傷はなく、縄目を解き水を飲ませてすこし休むと、存外しゃっきりとした声で礼を言われた。
これなら自力で町まで戻れると判断する。
休憩所として使っていた坑道は、いまは煙が充満しているし、なにより野盗どもが占拠していて入れない。木材所の業務を再開するにしても、今のままでは無理だ。
小男を付かせて、ひとまず五人をトルグの木工組合へ送り届けることにした。
廃坑道は、使われなくなった奥への道を発破で塞いでしまっているらしく、出入り口はひとつしかないとのことで、そのひとつきりの扉の前にはギィが陣取っている。
わりとすぐに煙の痺れは効き始めるというから、対流のない坑道内では逃げ場もなく、ごろつきどもは昏倒しているものと思われた。
「じゃあ、俺は町まで戻っていればいいわけね」
ひらひらとモグラが手を振る。
「とんぼ返りしろとか言うなよ?疲れるから厭だからな?」
「言ってないわよ。このひとたち町まできちんと送ったら好きにして頂戴」
「俺は天使ちゃんたちに会いに行くからな?可愛い少女の胸に顔をうずめて眠るからな?年増には到底太刀打ちできないぴちぴちの肌に埋もれるからな?」
「あんたの嗜好は別に聞きたくないからいちいち確認しないで」
顔をしかめてロワジィも手を振る。振る、というよりは、犬を追いやる動きに似ていたけれど。
そうして小男と作業員の姿が見えなくなると、あたりが急に静かになる。聞こえるのは鳥の鳴き声だけだ。
さえずりを聞きながら、ロワジィは黙々と野営の準備をした。
空模様は悪くはなく、朝まで雨は降りそうにはなかったが、それでも何もしなければ夜露にしっとりと濡れてしまう。
皮を敷き、夜具を置いて、その上に夜露除けの厚布を張った。
ギィは、扉の前で万一煙の効かない相手がいた場合のために抑えをしているので、彼女が二人分の支度をする。
簡易のかまどを作り、手鍋を火にかける。荷物に入れておいた干し肉と芋と、それから近辺で見つけたすこしの山菜を一口大にナイフで切って沸騰した湯の中に入れた。
さえずりと一口に言っても、よくよく耳をすませば、かなりの種類があるのだな。聞くとはなしに聞きながら、彼女は思った。
親を呼ぶ巣立ちしたばかりの雛の声。
互いに鳴きかわし位置を確かめ合う群れの声。
つがいを探す歌うような響きの声。
「……木のにおいは良い」
扉にもたれ、地面へ腰を下ろしていた男がぼつんと呟いた。声に誘われて彼女は顔を上げる。
嬉しそうな目をしていると思った。
「懐かしい?」
「そうだな、ずいぶん嗅いでなかったような気がする、……山にいるみたいだ」
深々と息を吸い、積み上げられた材木を見ている。ロワジィにとっては高く積んだもの、でしかなかったけれど、男にはその一本一本の違いが判るのだろう。
……ああ、やっぱりこのひとは、こういう場所の方が合う。
じっと年輪を眺めている男の目は穏やかだ。あまりに穏やかで、見ていてなんだか、すとんと納得してしまった。
……あたしの都合で振り回すわけにいかない。
つまるところは理屈でないのだった。
本当のことを言えば、すこし、ごねてみるか、の気持ちも、彼女はゼロではなかった。
多分、男は彼女が強く頼めば、トルグではなく、彼女の傍にいることを選んでくれるだろうと思う。
どれだけ人間の悪意が怖くて、どれだけ震えても、顔をこわばらせて同行してくれるのだろうと思う。
男がおのれへ好意を寄せてくれているのも判っている。そうしてそれは裏のない真っ正直なものだ。
――あたしには勿体ないわ。
今回のこの木材所の一件は、十分恩を売れる。報酬はいらない、代わりに男へ勤め口を紹介してくれと頼めば、おそらく組合はそれで済むならと喜んで引き受けてくれるだろう。
男はきっといい職人になる。
日も暮れ、鳥たちも巣へ戻り、鳴き交わす声も聞こえなくなる。まだ虫が鳴くには早い時候なので、木材所はとても静かだった。
火の爆ぜる音だけが耳に沁みる。
坑道内からは何も出てくる気配はなく、きっと野盗の頭以下数人は、神経をやられてぶっ倒れているに違いない。
用意した簡素な食事を済ませてしまうと、あとはやることもない。朝までここで張り、それから坑道へ入ってごろつきどもを縛り上げる。段取りになにか間違いがなければ、明日の昼にはモグラが組合の人間と衛兵を連れて戻ってくるはずだ。
「静かね」
はちみつ酒をちびちび舐めながら、ロワジィは言った。とくだん飲みたい気分でもなかったけれど、手持無沙汰だったのだ。
「やることがないな」
焚火を眺めながら男も応える。暗くなったら明日に備えて眠る、それが護衛稼業を長く続けていけるコツではあったが、まだ宵の口でさすがに寝るにも早い。
「――花火、する?」
「花火、もう、ないな」
この前の夜に、すべて燃やしてしまったことを知っていてロワジィが呟くと、聞いた男がちいさく笑った。
「また祭り、あるといいのだが」
「そうね」
「玉入れの露店で。あんたは全部外して」
「そうね」
「――」
言って男が惜しそうな目をした。そのまま続けて何か言いだす雰囲気を感じたので、
「あのね」
気づかないふりをして、彼女は言葉を押しかぶせた。
「こないだの夜にね」
「――うん、」
「なんかいろいろぐちゃぐちゃになって言えなかったけど、あたしもあんたに言いたかったことがあるのよね」
「俺に、」
「そう」
言ってぐいと酒袋をあおる。
「ここで言っとかないと、なんか、最後まで言えないような気がするから言うけど、あんた、あたしにありがとうだとか言ってたけど、……あのね、あたしだって楽しかったのよ」
「――、」
「晴れただとか雨が降っただとか、どうでもいいような話したり、今日の煮ものはうまくできたとか、言える相手がいたり、宿の部屋が臭うとか言ったり、土産物の露店冷やかしたりとか、もう本当に、そういう些細なこと」
「――」
「あたしは村を出てから、あんたより先に町で暮らしてきたけど、なんだか本当にあっという間だった。寝て、起きて、請け負った仕事して、また寝て、それの繰り返し。気づいたら十年経ってて、でもまったく実感なんてなくて」
膝を抱え、また二口、三口、酒をあおり、
「ああ、」
空になった袋を振ってみせて、男をうながす。
「そっちの、頂戴」
「まだ飲むのか」
「飲むわよ?」
「また、倒れる」
「そうね、お湯中で」
肩をすくめて返すと男がやれやれと息を吐いた。呆れたように見えて、口元は笑っている。
このひとも雇った最初のクマみたいだったころに比べると、なんだかずいぶん表情豊かになったんじゃあないのかな、ぼんやり眺めてロワジィは思った。
……まあ、今でもクマだけど。
「ツブれたら、あんたが運んでくれるんでしょう」
「町まで?」
「町まで」
「――そうだな、」
言って男は焚火に向けていた視線を彼女へ向け、それから片手をついて、彼女へ身を寄せた。
「相変わらず、怪我をしている」
「うん、?」
頬を示されて気がついた。焚きつけに使う小切れを拾いに藪に入ったときに、どこかに引っ掛けたらしい。
「気づかなかった」
言うと男が困ったように顔をかしげる。
「俺が組合に働き口を紹介してもらったら、あんたはまたどこか別のところへ行くのだろう」
「そうね、テオを叔父さんのところに送る仕事は残ってるけど」
「ひとりで」
「まあ、ひとりじゃないかな」
同道する連れも思い当たらない。男が何を言おうとしているのか読めなくて、ロワジィは曖昧に頷いた。
心配だ、と男は言った。
「心配って、なんで」
「放っておくと、あんたはどこかで傷だらけになっていそうだ」
眉を曇らせてじっと見るので、彼女も見返した。見つめる目が、思慕というよりは子供を憂う母親のものに見えて、なんだかおかしくなってしまう。母親だとしても、こんなに大きな体の母がいたらやっぱり笑ってしまうと思った。
体はふわふわしている。酒もほどよく回って、いい気分だ。
「えっと、結局あたし、いまの話の流れで、あんたにちゃんとありがとうって言ったかな?」
「どうだったか」
男は首をひねった。ひねりながら、先ごろ頬に触れた指は、頬をゆるやかに撫でて離れない。
乾いた指のあたたかさが気持ちいいと思う。
「ロワジィ」
「うん……?」
「触れてもいいか」
「うん、?触れるって、」
聞きかけた彼女に手を伸ばして、男がおのれの側に彼女の体を引き寄せた。
口では聞いておきながら、良いも悪いもこたえる前にぐいと引き寄せるのはずるいと思う。男に抱きしめられる形になって、これでロワジィが今さらやめてくれと突っぱねたら、この男は放すのだろうか。試してみたい気もした。
ただ、そこまで厭でもないのに、きつく拒むのは、さすがに大人げないと思う。思う。けれど、こうして普段より近くに他人を感じると、ひとりの期間が長かったせいか、相手との距離の取り方が判らなくなるから、困るのだ。
この子は強い、しっかりしてるから、ひとりでも大丈夫だ。
ふた親を失ったとき、持ち回りで世話を焼いてくれた村の人間は、彼女を評してそう言った。悪気はなかったに違いない。押しつけでもなかったろう。単純に身の回りのことをひと通りこなせる彼女を、誉める言葉であったはずだ。
けれどまだ十になるかならないかの子供にとって、その言葉は重かった。
それでも期待に応えようと思った。強くなろうと思った。しっかりしようと思った。けれど夜眠る前に、布団の中でおのれに何度も言い聞かせていて、本当は涙がこぼれた。
男の胸に顔ごと押し付けられてロワジィは困惑する。
要は、気恥ずかしいのだ。
「苦しいか」
「苦しくない。苦しくないけど、えっと、」
もぞもぞと居心地悪くもがいた彼女に、男がたずねた。
まず上体だけ持っていかれた体勢になっているので、今のままだと腰が痛くなりそうだ。だったら下半身も男の側へ移動させれば済む話なのだけれど、動けば動いたで、抱きしめられたことが嬉しくて、いそいそ動いているように自分で自分が思えて、なんだかそれもいただけないと思ってしまったりする。
かと言って、そのまま上だけ体を寄せていると、そのうちおかしな具合に腰をやりそうなので、結局じりじりと下肢を引き寄せた。
回された腕は固い。
以前、酔っぱらった男に抱き寄せられたことがあったけれど、あれは男にほとんど意識らしい意識もなかった。それに、抱き寄せてすぐにむにゃむにゃと男は眠ってしまったので、わりとすぐにロワジィは落ち着くことができた。
だからこの状態は以前とはだいぶんちがう。
それに自分は男より八つも年上なのだ。毎度毎度、あやすように、自分を引き寄せる男もどうかと思う。
……もう子供じゃあないんだから。
見上げると、こちらをじっと見降ろしている男の目とかち合った。
「……あんたの目」
うっとりと見入る男の黒の虹彩。熱情の色は見えず、ひどく穏やかだ。……獣みたい、前にもどこかで思ったことを彼女は頭の中でくり返した。森の中で会う、熊や鹿の目に似ている。
「きれいな色だ」
「――あたし?」
同じように男もロワジィの目の色を見ていたらしい。頭の赤毛はさんざん馬鹿にされたけれど、目をきれい、だとか言われたこともなかったので、思わずぱちぱちと数度まじろいだ。
「きれいかな、」
「きれいだ。……緑の色、……。木の色」
「そんなこと、言われたこともなかったわ」
木の色か。聞いて彼女はうすく笑った。
男には森が似合う。山が似合う。自然の中で木に携わって仕事をしている姿がいっとうに似合う。
だったら、男に似合う木の色だと言われるのは嬉しいと彼女は思う。
「ロワジィ……、触れてもいいか」
「うん?」
触れているならもうとっくに触れているじゃあないの、言いかけておかしくなった。こうして引き寄せて抱きしめられて、また確認をとる男の意図が判らない。
「どうせ、駄目って言っても触るんでしょう」
「触る」
口の端で男も笑って、それから先よりきつく抱きしめられた。
抱きしめられる前にすこし上体を起こしていたので、今度は男の胸板ではなく肩口あたりに顎を預ける格好になる。ぶ厚い肩に遠慮なく顎を乗せて、ロワジィも男の背中へ腕を回した。
「……あんたの音がするわ」
寄せた体ごしに男の鼓動が響いた。力強い鼓動。目を閉じてその音を聞いていると、自分の心臓まで同じ律動で脈打つ気がした。
預けた頭の後ろを、男がさぐる感触があって、
「……?」
振り返ろうとする動きを押しとどめられ、そのままうなじへやわらかに噛みつかれた。
「ちょっと、」
すこし位置をずらして、何度も、何度も、鼻の頭をすりつけながら、確かめるように歯を立てられる。
不思議なことに、ぞくぞくとした痺れはおこらない。男の呼吸があまりに穏やかで、性的なものを何も感じ取れないせいかもしれなかった。
「痕が付くじゃないの」
「付けている」
「……付けたって、どうせ、すぐに消えるわ」
「消えなければいいのに」
本気でそう思っていそうな声色で男は呟いている。そうだ。どんなに強く噛みついたところで、どうせ一週間もすればうすく痣になって消えてしまう。
男との記憶もきっと噛み痕のようなものなのだ。
触れ合える近さにいる今は、互いの存在が強く鮮やかで、数日後にはそれぞれ分かれて生きてゆくことがどうにも実感がわいてこないけれど、離れて半月もすれば、すぐに日々の暮らしに忙殺されて、男のことを思い出したとしても、ああ、そんなこともあったなと思えるようになるに違いない。
手を伸ばせる今は、ひどく胸が痛いけれど。
「あんたは、」
「うん……?」
「あんたはきっと幸せになるわ」
飽きもせず痕をつける男へ、ロワジィは言った。
「間は悪いけど、根はいいひとだもの。きっと、真っ当に幸せになれる」
言うと男はじっと考える素振りを見せた。考えていることはすぐに判った。甘噛みが止まったからだ。
「……なるだろうか」
しばらくして男は口を開く。なる。ロワジィははっきり頷いてみせる。
「辻占でも預言者でもないけど、……なるわ。護衛のカンは結構当たるのよ」
「そうか、」
頷きそれから、
「ロワジィ、」
男はかすれた声で小さく続けた。
「うん、」
「ロワジィ」
「うん、」
何度も名を呼ばれて、まるで子供が母親を探すようだなと思いあたって、薄く笑いが浮かぶ。……こんな大きな図体の子供、なかなかいないわね。
笑んだ彼女を知ってか知らずか、俺は、朴訥に切々たる声色で、男は言った。
「俺は、あんたがいないと、ひとりでさびしい」
ぎゅ、といっそう強く背を抱かれた。言われた彼女は何も返せない。男の言葉に応える言葉を、いまの自分は持っていないと思うからだ。
浮かんだ笑みはこわばるかと思ったのに、そのまま残って口角は上がっている。
「――……うん、」
そのままひと晩、ロワジィと男は互いにすがるようにして、じっと抱き合っていた。
明くる日、トルグから新たに派遣された木工組合の人間と、一個分隊の衛兵が到着した。昨日モグラが町に送った作業員から話を聞いてやってきたのだ。
ひと晩見張っていた坑道入口の扉を衛兵に譲って、ロワジィとギィは町へ戻ることにする。口元を手布で覆い、中へ野盗どもの様子をうかがいに行った衛兵の一人が、
「叩き落とした蠅のようにピクリとも動かない」
と戻って報告しているのを聞きながら、荷物をまとめ、一言声をかけて木材所を後にした。
煙を吸えば二日は体が動かないと男は言った。野盗どもはあと丸一日は体が痺れているはずだ。
そうして彼らには、「叩き落とした蠅」よりも苛烈な刑が待ち受けているのである。
町へ戻り、相変わらず賑やかしい大通りを辟易しながら通り抜け、宿場へ戻ると、待っていたテオ少年に抱きつかれる。
それから三人で昼食を済ませ、目当ての組合の建物へ向かった。
入り口の扉を開け、中に入ると、カウンター向こうに腕まくりをした事務員が十数人、忙しそうに算盤をはじいたり、書類に印を押したりしている。
組合の看板を掲げるここでは、各都市の木材入荷調整やら仕入れ値の設定だのを一手に引き受けているのだ。価格計算だとか、流通相場だとか、説明されても右から左に言葉が流れて行ってしまうロワジィには、正直別次元の職場である。
自分は背丈がある。護衛でなくても、畑仕事だとか、荷下ろしだとか、ひと通りの力仕事はできると思っている。もともと、考えるより先に体を動かすのが好きだ。
それから、好きか、嫌いかで言えばたいへん苦手だが、愛想をふりまく売り子の仕事も、やってやれないことはないと思う。
けれど、こうした事務職と言うやつだけは、どうしたって無理だと思った。できそうにない。可不可でなく、たぶん机の前に腰を下ろし、一日じっと動かないというだけで発狂できそうだ。
だから、こうして淡々と事務仕事のできる面々を見ると、尊敬する。文字通り心から尊敬する。特別な能力のある人間なのだとすら思う。
そんな畏怖さえ込めた目で室内を見回していると、入った三人に気づいた事務員の一人が顔を上げ、ああ、と心得顔に頷いた。「木材所に巣食った野盗を始末した流れの人間」の話は通っているらしい。組合長、と呼びかけると、呼ばれた男が振り返る。
振り返った男を見て、ロワジィは咳払いをする態で、こっそり笑いを横へ逃がした。
書類の山に埋もれて、毛むくじゃらのクマがいた。
自分の後ろにもクマのようなギィがいて、カウンター向こうにも、縦にも横にも大きな、髭面のクマ男がいる。
クマ二匹。
まだ子供で、誰にも咎められない特権を持つ少年だけが、驚きを隠すことなく目をまん丸にして二匹を見比べ、ひえ、だとか奇声を上げている。
「ああ、あんたたちか」
言って髭面の男は腰を上げ、にこにこと邪気のない笑顔を浮かべてこちらへやってくる。組合所の事務室にいるよりも、山中で斧を振るっていた方がよほど似合う風貌だ。
思っていたことがつい顔に出たのだろう。そうなんだよ。うんうんと頷いて、親方グマは彼女たちに席をすすめ、事務員の一人に茶を持って来いとドラ声を張り上げた。
「もともとは森で木を伐ってたんだけどな。どういうわけか、組合長だとかに担ぎ上げられちまって、ガラにもねぇ書類仕事させられてるんだよ」
言って組合長も彼女たちの向かいに腰を下ろし、肩が凝って仕方がねぇ、首をゴリゴリ回して見せた。
顔に茶色く変色した古傷があり、ふとロワジィが目をやるとこれかい、聞いてもないのに彼は傷を撫で、話し始める。話好きのクマらしい。
「木を運んでいた時分に、冬眠明けの熊と出くわしっちまってな」
クマが熊に遭ったわけだ。おそらくひどく緊迫した状況だったろうに、想像して思わず口元が緩むロワジィである。
「逃げようがねェから、応戦よ。あっちの爪が、かすってな。代わりに、こっちの棍棒は、ヤツの脳天にめり込ませてやったが」
冬眠明けで気の立っているクマを、棍棒で殴り仕留めたわけである。とんでもない。思いかけて、この自分の脇に立っているもう一人のクマ男も、そう言えば岩山のようにでかい猪の骨を、へし折っていたのだっけな、そんなように思った。
クマ人間の行動は、理解を超えている。
「――話は作業員どもから聞いている。あそこいらに巣食ってたろくでなしどもを、掃討してくれたらしいじゃあねぇか」
しばらくちょっとした世間話を交わした後、茶が運ばれてくると、ぐいとそれを一気に喉へ流し込み、組合長が身を乗り出して話し始めた。
「あいつらな、前々から、ちょっかいかけてきて、こっちとしても、いっぺんガツンとやってやらにゃあと思っていたところなんだよ。お役所の方にも言ってはいたんだが、実害が出ねぇと、腰を上げない仕様になっているしな。……今回の件も、あんたらの初動が早かったおかげで、最小限の被害で済んだ。恩に着る。死なせちまったやつらには申し訳ねぇが、そいつらの家族は食いっぱぐれることがないように、組合が責任をもって生活を保証する」
ありがとう、言って彼は頭を下げる。
「……で、働き口を紹介してほしいって話らしいが」
鉞(まさかり)持ってるあんたかね?言って、彼はまずロワジィへ目をやった。
「探しているのはこのひと。あたしとこの子は付き添いよ」
促されて、ロワジィは首を振り、ギィを指し示す。示されて彼の視線は男へ移された。
「たいしたガタイしてるじゃあねぇか。面構えも悪かあない」
「えぇと……、名前はギィ。です。……山、での仕事の経験、あります、……製材、それに木工も、できる思います、」
「いい手を持っているな」
たどたどしく丁寧にあいさつするギィをじっと見つめたあと、ぽつ、と組合長は呟いた。
「どんな仕事をするか、どんな人生を送ってきたか、手を見りゃあ、だいたい、そいつの人間が判る。俺ァそう思う。口先だけが達者で、ロクでもねぇ手を持つヤツを、俺はごまんと見てきた。あんたの手は、仕事をきちんとこなす手だな。あんたはちゃんとした人間だ。それに、……、俺の若いころにそっくりだ」
呟き、椅子の背もたれへそっくり返っている。
……あー、これが、そのうち、こうなるんだ。
豪快に笑っている髭面と、緊張にしゃちほこばっているギィを見比べて、ロワジィはそんな感慨を抱いた。わりと微妙な感慨である。
隣のテオ少年も同じだったようで、なんとも言いにくい顔をしながら、黙って交互に眺めていた。
「口利きの件だがね。今、紹介できるだけでも、三、四件はあるんだな。……先の木材所も人夫が減ったことだし、補充しなくちゃならねぇ。それから、懇意にしている木工細工の工場(こうば)も人手が足りなくて、心当たりがあったら紹介してくれと頼まれている。大口の仕入れ先の製材所はいつでも人材不足だ。どれも木工組合に加入しているところだから、福利厚生もしっかりしている。……まあ、まずは組合の社員寮を回してやる。あんたら、この町の人間じゃないんだってな?寝具だの煮炊きの道具だの、使い回しでよけりゃあいくらかあるし、そこで腰を落ち着けて、町にも慣れて、それからお前さんが一番しっくりくる先に行ったらいい」
木材所を荒らしたごろつきどもは、よほど憎まれていたと見える。正直、紹介状を書いてもらえるだけでもありがたいと思っていたので、そこまで気を利かせてくれるとは思わなかった。
「よろしくお願いします、」
ギィが髭面へ頭を下げる。続けて組合長は、社員寮の近くには安くてうまい酒場があるんだとか、そこの給仕娘の尻がきゅっと切れ上がっていい具合にたまらんだとか、益体もないことを話し始めた。
くそ真面目に相づちを打つ男とひげ面を眺めながら、この調子だと、あたしが余計な心配しなくても大丈夫そうかな。ロワジィはぼんやり思う。
実感がわかなかった。
木工組合の社員寮にちょうどよく空き部屋があったので、その日のうちに手配をしてもらえる運びになり、ロワジィと、ギィと、それからテオ少年と、案内をする事務員とで、寮のある区画へ向かう。
徒歩でも行けるがすこし遠いとのことで、乗合馬車に乗って向かうことにする。
荷台に揺られていると、宿場のある賑やかなあたりとは違って、閑静な住宅街が拓けてくる。この町に定住する人間が住む区画だ。
午後の住宅街は静かで、どこかの家から赤ん坊の泣き声が漏れてくるのが聞こえた。
「住みやすそうなところね」
「うん。俺、トルグって、もうずっと、旗が立ってて、看板並んでて、馬が行ったり来たりしているような、わちゃわちゃしてるところばっかなのかと思ってた」
ロワジィがあたりを見回し呟くと、座席の隣に座った少年がこたえる。
「大通りは、表の顔ですからね」
案内役が、座席にもたれ、のんびりとこたえた。
「こちらの区画を見ると、みなさん驚かれるんですよ」
「トルグの裏の顔を見て来たって、俺、帰ったら自慢するんだ」
「そうね。……待たせてるし、急いで戻らないと……、」
テオ少年の護衛を彼の叔父から頼まれ、そうしてまだ帰途に就いていない手前、あまり遅らせるのも無用な心配を招く。一応、彼の叔父の経営する馬宿へ向かう乗合の馬車に、じきに戻る旨を手紙で託けてはいたが、そもそもトルグでも、その前の中継の町でも、無駄に時間を食っているのだ。早いに越したことはない。
明朝トルグを発つ。
寮からほど近い停留所で車を降り、社員寮へ向かうと、入り口の前にやっぱりというべきか、いい加減にしてほしいというべきか、当然の顔をして小男が手を振っているのだった。
「……あんた、まだいたの」
うんざりした声しか出ない。そりゃそうよ、言ってモグラは肩をすくめてみせた。
「だってここでお別れでしょ?涙のさようならでしょ?ここ見逃がしたらせっかく今まで付きまとった意味がないわな」
「本っ当に、悪趣味、」
隠しから取り出した手拭いを、わざとらしくひらひら降る小男へ、心底嫌悪を抱いてロワジィは吐き棄てた。唾棄、という言葉があるが、ここに組合の人間がいるから我慢するものの、いなければ本気で唾を吐きつけていたかもしれない。
けれどその反面、突然ロワジィは動揺した。
ああ、ここで終わりなんだ。
小男の言葉で、さっと舞台の緞帳が取り払われ、はい、演目終了。みなさんどうぞおかえりください。
冷たい水を頭からぶっかけられた気分だったのだ。
明日には組合の口添えで市民登録を正式に済ませ、この街の住人になる男と、なぜかこの期に及んで、まだ町を散策できるような気がしていた。のんびりと馬車に乗り、居酒屋にでも入って、莫迦話をし、酔っぱらい、肩を組んでげらげら笑いながら歩いて、そんな日常がずっと続いて行くような気がしていた。雇われ護衛の仕事を請け負い、こなして、また次の町へ共に行けるような気がしていた。
ここで終わりなのだと口先はうそぶきながら、実際の自分はぼんやりと実感の湧かないまま流されるままにここに来てしまった。
心づもりがまるでできていなかった。
生温かい水の中にもぐり、おぼろな視界とぼやぼやとした音だけを聞いていたのに、唐突に首根っこを掴まれ引きずり上げられて、現実、というやつで横っ面をはたかれた気分だった。
そもそも、こんな場所でこんな風に別れることになるだとか、想像もしていなかった。
なんとなく夢想していたのは、たとえば町の外門で、おのれはこちらへ、男はあちら側へ立って、それではさようなら。別れの言葉を口にして、互いに背を向け歩いてゆく姿だったりした。
そうでなくてもせめて二人きりでしみじみと、別離の抱擁を交わしての最後になるものだと信じて疑わなかった。
まさか職の決まった当日に、男の居住先の玄関口で、それも案内役の事務員やら、少年やら、小男やらの目がある中で、別れを告げることになるとは思ってもいなかった。
声にもならない動揺は隠しようもなく顔に出たようで、見止めたモグラが嬉しそうに手を擦り、まー、あからさまに狼狽えちゃって、言ってにやにやと笑ってみせる。
「なに?俺たち、邪魔?お邪魔?どこかに行った方がいい?」
「……そんなこと、言ってない、」
頭が痺れて口がうまく回らない。
それでも目の前に立つ男を見上げ、ああ、このひと本当に大きいんだと、場違いなことを思う。
でかいなと思ったのがきっかけだった。それから今に至るまで、男に対して彼女は様々な思いを抱いてきたけれど、いっとうはじめは、ただそれだけの感想だった。
「あの、」
「……うん、」
ロワジィの動揺は、きっと男にも伝わっているのだろう。互いに相手の顔を直視できなくなりながら、彼女と男は、気まずい思いで口を開き、また閉じて、そわそわとなった。
思い切って顔を上げたのは、男の方が先だった。
「あの、」
言って妙にぎこちない動きで男はロワジィへ掌を差しだす。差しだされた意味が理解できなくて、数拍、彼女は男の掌を見て考えてしまった。
握手を求めているのだと気がついたのは、その少し後だ。慌てておのれの手を、男の手へ重ねる。
――そういえばこのひと、最初、握手も知らなかった。
握手を知らず、今の彼女と同じように、不思議な顔をして差しだした手を眺めていた男が、今は別れの挨拶のためにおのずから手を出すようになった。すごい進歩じゃないの、そう思うとすこし笑えた。
重ねた掌は相変わらず温かい。
「あんたには、迷惑を、いっぱいかけた」
言って男が頭を下げる。
「世話になった。本当に、ありがとう」
「うん、」
「……どうか、元気で」
「うん、」
胸がつかえたようで頷くのが精一杯だ。あんたも元気でね、だとか、仕事がうまくいくといいね、だとか、もう少し気の利いた言葉を言えたらいいのに、こういう時に限って頭に何も浮かばない。
「……じゃあ、」
名残り惜しくはあったけれど、含み笑いをしている小男や、心配そうに見上げる少年の手前、感傷に浸っているわけにもいかず、短く相手に別れを告げる。
そうして預けていた手を、おのれの側に引こうとした。
くっ、と。
間際のほんの一瞬、するりと抜けていく彼女の手を逃すまいとするように、男が僅かに力をこめる。
言葉にならないだけ、万感がこめられていると思った。
――行くな。
それに気づいていながら、気づかない振りをした。それが今の自分にできる全部だと思った。
男から離れ、脇の少年へ向き直り、さあ、と明るく声をかける。
「行こう。今日のうちに、買い足さないといけないものが結構ある」
「……うん、……。でも、」
ためらう少年は、ロワジィと男を見比べ、けれど見比べた男の側も、案内役の事務員が近寄り、すでに寮規定についての説明を始めている。……説明するよりも、中に入って見ていただければ判ると思いますが、言われながら男も背を向け、建物へ入ってゆく。
その背は振り返らなかった。
思い切る、という言葉がある。ああこのひとは思い切ったんだろうなぁ、そんなことを思いながら、脇にいるモグラへ向かって、
「残念だったわね、」
彼女は声をかけて肩をすくめた。
「ご期待には沿えなかった」
劇的な別れにはならなかった。ありふれたような挨拶をして、ありふれた握手を交わし、そうして後を引くわけでもなく、すでに別行動だ。
ああ、うん、だとか拍子抜けしたように返す小男が、じろじろと彼女のを見て、言いたげな顔をした。
「なによ、」
「……いや、」
ごにょごにょと口ごもる小男を後にして、少年を促し、彼女も背を向け、市場へ向かう。
ひょんな勢いではじまった関係だった。まったくもののはずみだった。
こんな呆気ない終わり方が、似合うのかもしれないと思う。
トルグからの復路の道中は、何事も起きず、一度も雨に降られることもなく、快適な旅だった。
行きは羊毛組合に納める積み荷を背負っていた驢馬の背が、帰りは空いたので、そこへ少年を乗せ、ロワジィが綱を引く。それで余計に旅程が捗った。
もともと羊を追う仕事をしている少年である。野宿に音を上げることもなく、往路と同じように小旅行を楽しんでいる。
予定外だったのは、小男だ。
付きまといが相変わらず続行している。
トルグを発つことになり、どういうわけか続けられていたこのおかしな関係も、今度こそ切れるとほっとした。
もともと彼のおかしな興味で続いていたような関係だ。
ほっとして、だのに、翌朝の出立にはすでに大拱門(アーチ)の外にいて、遅いじゃねぇかずいぶん待ったぜ、だとかなんとか、当然の顔をして彼女と少年に合流したのだ。本当に訳が判らない。
不審を通り越して呆れの境地になり、はあ、だとかそんな返事しかできなかった。
初対面から今まで、こいついいやつ、だとか一度も思えない相手だったので、どうにも裏があるようにしか思えない。
ひょっとすると、仲間面をして近づき、ロワジィの気が緩んだところで、金目の物でも持ち逃げするかと警戒したが、金に困っているようには見えなかった。
小男の特殊な性癖は彼自身がひけらかしていたので、知りたくもないのにロワジィは知っているけれど、
「……まさか、……、いや、聞きたくないけど」
「何よ?」
「一応、念のために聞かせてもらうけど、あんた、若ければ少年でも少女でもかまわないだとか、そんなのじゃないのよね?」
「はあ?」
テオ少年を狙っているのではないかと、不安になって確かめたりもした。
聞くと小男はものすごく厭な顔をした。少年は射程外らしい。よかった。
金目当てでもなく、少年狙いでもないとすると、面を突き合わせているだけで互いにむかむかするのに、どうして付きまとってくるのか、理解できない。
たずねても、話をはぐらかして結局答えてくれない。
薄気味悪い。
救いと言えるかどうか、小男は同行すると言ってもさすがに隣を歩きはせず、ロワジィと、驢馬にまたがった少年が歩く後を、二百歩ほどの距離を置いて付いてきた。
ロワジィが止まると、モグラも足を止めてそれ以上はやってこない。食事の煮炊きも別。野営の場所も、もちろん二百歩ほど向こうで別。
無駄に会話をしなくて済むのはありがたいけれど、一定の距離で付かず離れずというのも、なんというか偏執狂(ストーカー)が後をついてきているようで、それはそれで気持ちが悪い。
「あんた、いったいどうして付いてくるのよ」
丸一日で我慢の限界を超えたロワジィは、距離をとって逃げようとするモグラに大股で近づき、その腕を鷲づかみにして問い詰めた。
「なんだよ」
「なんだよじゃないわよ。いい加減嫌がらせはやめて頂戴」
「別に嫌がらせじゃねぇし」
「じゃあなんであたしたちの後ついてくるの」
「行き先が一緒なんだろ」
へらへらと笑って追及を避ける。要領を得ない。
結局最後は諦めるしかなかった。
トルグを発ってから八日目に、少年の叔父が経営する馬宿へ戻った。
遅くなったことを何度も謝罪し、報酬込みで少年の護衛を引き受けて、一応はここから町までの往復を無事に戻ったが、その任も真っ当にこなせたとは言えない、前払いで支払われた報酬を半額返すと申し出るロワジィに、叔父夫婦は恐縮し、いやたしかに遅くはなったが、こうして少年自身には何事もなく戻ってきたのだし、中途中途の連絡はきちんと手紙で受けていたのだから、そこまで申し訳なく思う必要はない、どうかそのまま納めてほしい、そうした一連のやりとりが行われたりもした。
押し問答に発展した末、牧羊柵の修繕など、周り仕事をロワジィが引き受けることで話がついた。
馬宿に数日逗留し、頼まれ仕事をこなすことにする。
戻ってきた少年は、旅装を解くのもそこそこに、羊の様子を見に出て行ってしまった。日頃自分が世話をしているので、留守のあいだ群れがどうなったのか、気になったものらしい。
……本当にいい羊飼いになる。
同じことをまた思う。
そうしてロワジィの方は、いけしゃあしゃあと宿に泊まる気らしい小男と、食堂のテーブルに差し向かいで座っている。
小さな宿なので、一階にある食堂のテーブルもひとつしかない。
そうして野外とちがって狭いので、小男と距離をとるにも限界があった。
「……そんな顔すんなよ」
思いっきり憂鬱な顔をして座っていると、にやにやとモグラが手をこすり合わせる。虐めたくなるだろ。
「女は愛嬌ってね」
「……そういうのは、あんたの好きな若い子たちに振りまいてもらって」
「そりゃなあ。俺だって、そうしたいのは山々なんだがなあ。嘆かわしいことに、ここには年増しかいないんだなあ。……ほら、なんていうの?ものすげく嫌いで、普段だったら絶対ェ口にしない食いもんとかあるじゃん?俺キノコ嫌いなんだけど、ぶっ倒れるほど腹が減っていて、キノコ以外食べるものがなけりゃあ、しかたなく食べるでしょ。そういうのあるでしょ」
「飢えて死になさいよ」
キノコが嫌いとか、子供か。呆れた。そうして本当に口が減らない。無口だったギィとは大違いだ。
そう言えば男と離れてもう十日ほどになるのだな。ふとロワジィは思った。
何をしているだろうか。勤め先は選んだだろうか。寮に入ると言っていたから、いま時分は狭い共同炊事場で大柄な図体を小さくしながら、ひとり分の夕飯でも作っているだろうか。
一人用の手鍋は小さい。
あのごつごつと節くれだった器用な太い指で、ちまちまと下ごしらえをし、ちまちまと手鍋に具材を放り込んで、ちまちまと背を丸めて作っているだろうか。
ちょうど運ばれてきたエールのジョッキをロワジィは受け取り、
「……お疲れ?」
「はいはい、お疲れお疲れ」
乾杯を催促するモグラに、軽くジョッキを上げてみせて、それからひと口ごく、と飲み下した。
ぽた。
頬を伝い、顎からしたたり落ちた雫の感触に、おや、となってロワジィは掌で水滴を拭う。夜冷えするこの時期、寒くないように食堂の暖炉に火が入れられているが、ほどよく温まる程度で、汗ばむほどがんがんに炎は熾されていない。
なにしろ、まだ長袖の上に毛物を重ねて着るほどだ。
だから汗が滴ったのではないと思う。
「……あれ、」
だったらなにか、何かのはずみで鼻血でも垂らしたのかと思った。拭った掌を見てみたが、赤黒く汚れてもいないようで、
「あれ、」
だから天井に雨漏りのような水たまりでもできていて、それがちょうど滴り落ちる場所に自分は座ったのではと思い、
「あれ、?」
そうして、汗でも鼻血でも雨漏りでもなく、ぼたぼた垂れるそれは自分の目じりからこぼれているものだということにロワジィはようやく気がついた。
「え、なんで、……?」
いま何も悲しい気分ではなかったはずだ。
「なんで、……なんであたし泣いてるんだろ、……、えー……、なにこれ」
涙だと気づくと、あふれる量が倍になった。
「ごめん、なんかちょっと、止まらない」
対面のモグラにロワジィは言った。
それからそう言えば彼は自分の泣き顔が見たいだとか、泣かせたいだとか言っていたなと思いだし、ああそれなら別に謝らなくてもいいのかと思ったりもする。
本懐ってやつかな。
「やだなあ……なんだろ……やだなあ」
「泣けよ」
向かいでつまらなさそうな顔をしたモグラが、頬杖を突き、なんとか涙を収めようとしている彼女を上目遣いにちらと眺めて言った。
「え、」
「泣きたいんだったら、泣きゃあいいんだよ。我慢して、我慢して、我慢して、我慢して、への字口引き上げて笑ったって、……、そういうの、知ってる?痩せ我慢って言うんだぜ。あのな、天使ちゃんが泣くのを一生懸命我慢してたら、そりゃそそられることこの上ねぇけどな、年増は痩せ我慢したって、可愛いく見えたりなんかしねぇんだよ」
「……、」
「あんた、本っ当に、とことん、甘えることが下手な女だな。それでも泣きゃあ、まだちょっとは可愛げあるかって見物してたけど、まあー、最後までぐっとこらえて、男らしいことこの上ないのな。感心するわ。俺、あんたに、タマでも付いてるんじゃねぇかと疑ったね」
「……、」
「あのね。泣きたいときは泣くの。悲しかったら泣くの。泣くの別に悪いことじゃないの。みっともなく泣いたっていいじゃねぇのよ?……あんた、あのうすらデカブツに惚れてたんだろ?頭おかしい赤毛殺しの囮になって、自分の命狙われたって、あいつを檻から出したいくらい、惚れてたんだろ?」
「……惚れてたとか、そんなの、判らない」
「判れよ。てめぇのことだろうがよ。あのな、惚れた相手と別れたら、普通は泣くの」
泣けよ。
ジョッキをあおり、おーい、ここにもうふたつ。厨房の奥に声をかけて、それからモグラはクソ、本当拗らせた年増は面倒くせぇ、厭そうに顔をしかめ、がりがりと頭を掻きむしる。
「だって、」
「あ?」
「……だって、泣いたって、どうしようもないじゃない」
「どうにかしたいから、泣くんじゃねぇだろ。そんなことも判んねぇの、あんた」
……そうなんだ。
涙がこぼれる。
たぶんずっと泣きたかった。
どうにもならないと知っていながら、泣きわめいてみたかった。駄々をこねてみたかった。
あのやさしい男を困らせてみたかった。
そうしておかしな話だけれど、困らせてみたい思いと同じくらいの強さで、泣いて、男を困らせたくはないのも本心だった。
……だって、好きだった。
ロワジィはうなだれる。
ぶ厚い肩や背も。かたい腕も。大きな掌も。つっかえつっかえ、考えながらひねり出す飾り気のない言葉も。
黙ったきりこちらを見る黒い目も。こわくて癖のある髪も。ロワジィ、と伺うように自分の名を呼ぶ唇も。
本当に好きだった。
涙と一緒に自分の中からふちを超えてこぼれて、そうしてどこかへ消えて行ってしまう。
「一緒にいたいってあのひとは言った」
ぼたぼたとテーブルの木目に吸い込まれていく涙を見つめながら、ロワジィは言った。
「でもあたし何も言わなかった。あのひとをこっちに引きずり込んだらだめだって思った。だから、何も言ったらいけないって思った。……何度も何度もあのひとは言ってくれたのに」
やさしい男が、波打ち際のように、くり返しくり返し、返ってこない言葉に傷つきながら彼女に告げた思い。
“そうです、それはこいでした。”
半月より少し前、ここで同じようにエールを飲んでいた。
行先はトルグにすると彼女が告げたとき、男はじっと考え、それからそれは決まったことなんだなと、ひどく落ち着いた声でたずねた。
“なにげないひとことできずついた、そうですそれはこいでした。”
あのとき、流しの歌うたいが歌っていたバラッドを、今なぜか思い出す。
男の思いに彼女が返事をしないまま、何度もくり返させて、傷つけて、そのうちゆっくりと諦観に代わり、そうして静かに絶望させてしまった。
振り返らなかったのは、きっとそう言うことだ。
「最後に握手したときにも、行くなって、あのひとたぶん言ったのに」
傷だらけになったのはロワジィではなく、男の方だ。
“こまったようにわらうえがおのむこうがわで、ほんとうはあなたが、きずついていたのだとおもいます。”
「あたし、自分のことでいっぱいいっぱいで、あのひとのこと何も思ってやれなかった」
ごめんね。
次から次へと涙があふれる。
「ねえ、惚気ていい?」
「……もうとっくに惚気まくってて今さら何言ってんのあんた」
つまらなさそうにこちらを眺めるモグラへたしかめると、頬を歪めて返されてしまう。
「――好きだったなぁ」
言ってロワジィは腕と腕の間に顔を伏せ、嗚咽をこらえる。
「農場で、猪退治頼まれてね。ものすごい大きな猪で、……あたしひとりで始末しようとしたけど、失敗した。ああ、あたし死ぬんだなって思ったら、あのひとがいきなり猪ぶっ飛ばして……、笑えるでしょ、本当に横から突っ込んでぶっ飛ばしたの。信じられなかった。あんなでっかいのが、どーんってなるの。物理的に飛ばすって、どれだけの勢いよって思ってね。……でも格好良かった。……格好良かったなあ」
止まらない。
「すごく器用なひとだった。お祭りの的当てで、高得点だしてね。飾り紐、取って、巻いてくれた。お揃いだって言って、似合うと思うって……、……。恥ずかしかったから言えなかったけど、本当は嬉しかったの」
嬉しい、ありがとうとあのときどうして言わなかったんだろう。
「熱だして寝込んだら、ものすごく心配してくれてね。あんなでっかい図体して、ぼろぼろ泣くの。びっくりした。そのくせ、自分の体には鈍くってね……、風邪こじらせて、熱だして、歩けなくなって、だのに心配するのが、拾った仔犬のことなのよ。行けって。俺は平気だからとか言うの」
本当にやさしいひとだった。そう思う。
「それで、パン粥作れって言うのよ。小屋には他にも料理がたくさん並んでるのに、パン粥がいいって。作ってくれって。絶対あっちの方がおいしそうなのに、あんたのがいいって、おいしいって、おかわりまでするの」
いいひとだった。自分には勿体なかった、だから。
「――ああ、そうか」
鼻をすすりながら一人で合点すると、なに、と律義に小男がたずねた。
「どうにかしたいから泣くんじゃなくて、どうにもならないから、泣くのね」
これはきっと悔し涙だ。
「好きだったなあ……どうしよう。なんだかものすごく好きだった」
ずっと側にいたかった。
差しだされるままエールをあおる。
「言えばいいのに」
「無理よ、もう終わったことだもの」
言えば言うだけ涙があふれる。早いペースで酒を流し込んでいると、すぐにぐるぐると天井が回り始めて、ロワジィはテーブルへ突っ伏した。ごめんね。閉じても涙は眦から流れて止まらない。
ごめんね。声にならない思いでもう一度思う。
……あんたに、ちゃんと、好きだって言えばよかった。
口に出したら、変わっただろうか。
(20180613)