鮮やかに青い空から、まっすぐに降りそそぐ日射しが目にまぶしい。

 午睡の日差しはどこかくたびれて、憂鬱で、重たげな気配が立ちこめはじめるのに、朝の陽ざしにはそれがない。深く呼吸をすると噎せるほど、においたつような水粒の空気、鮮やかな木々の緑の反射。

 夏だった。

 商業都市の大通りは、夜のあいだ閉鎖されていた大拱門(アーチ)が開かれるとともに、羊毛組合(ギルド)、そうして革細工、製粉、仕立て、それと木工へ向かう荷を積んだ馬車が行き来し、一気に喧噪を増す。

 今日も暑くなるかな、まだ夜気の名残りがただよう石畳を見るとはなしに眺めながら、ロワジィは縁石に腰かけ、露店で買った茶をすすりながら往来を眺めている。

 

「可愛いくないなぁ。物思いに耽っても年増だと可愛くないなぁ」

 

 声が背後からかけられる。馴染んだと言いたくはないが、付きまとわれて五年もすると、いい加減厭でも馴染んでしまった。それがすこし癪だ。

 小男イーヴの声だ。

 いつの間にか背後に来ていたらしく、何とはなしにロワジィが目をやると、同じように手に露店で買った茶と紙包みを持ち、こちらを眺めている。

「隣に座っても?」

「二人分離れて座るならどうぞ」

 素気ない言葉にもめげる様子を見せない。ああもうほんっとうに可愛くねぇ。ぶつぶつと愚痴を吐きながら、指定された通りに二人分離れた縁石にモグラは腰を下ろす。

 不愉快になるなら近づかなければいいだけの話だ。だのに顔を出す。

 

実際問題、このモグラとロワジィの関係というものは、説明を求められても説明のしようがない、不可解な関係だった。

 互いになにがしかの契約を結んでいない。

 旅は道連れ、どこか目的の町まで同道しようと話したわけでもない。

 それでもつかず離れずの距離にモグラがいる。

 時々は数日、あるいは半月ほど、ふらりと周囲から姿を消して、そのうち気づくといつの間にかまた戻っている。おそらく、彼自身の護衛の仕事をこなしているのだろうと思われたが、あらためて聞いたこともない。

同じ仕事を選ぼうとしたこともなかった。

野宿の際にも、きっちりひとりとひとり分、個別に天幕を張っていたし、食事も別。互いに手慣れた野天の支度であったので、たとえば作りすぎたのでおひとつどうぞ、の会話もない。

 だから奇妙な関係というよりない。

 他人よりは身近な、けれど同行者というには離れすぎているおかしな空気。その距離が、モグラの遠慮ではないことだけは確かだ。

 そのまま、五年。

 

 ああそうか、不意にロワジィは気がつく。もう五年も経っているのだ。

 

 それはそのまま、ロワジィが、商業都市であるこのトルグの町を去ってから過ぎた年数だ。

 長いのだろうか。短いのだろうか。

 勿論この町へ訪れるのも、あれ以来だった。しばらくは大陸の北の側の国々を回って稼いでいた。北を選んだ理由は特にない。なんとなく、寒い方へ気が向いただけだ。

「この町」

「あ?」

「なんだか、つい先週くらいまでいたような気がする」

「なにそれ」

「変わらないね」

 色とりどりの垂れ幕、看板、道路標識がごちゃごちゃとしながら整然と並んでいる様子も変わらない。

うかうか歩いているだけで荷馬車に轢き殺されそうになるほど往来が激しいのも、何も変わらない。

どころか一層に、かまびすしさは増していた。

町を揚げての夏の大祭なのである。

昔この町を開拓したといわれる、数名の聖人の栄誉を称える、という名目で、実に七日間、無礼講の乱痴気騒ぎが繰り広げられるのだ。

この時ばかりは、大拱門(アーチ)は外側に向けて大きく開かれ、通行人を検査する衛兵の管理もだいぶゆるくなる。夜を徹しての祭りとなるので、普段は閉門する夕刻の時間が過ぎても門は開かれたままだ。

大陸統一されるより前は、それでも不意の強襲に備えて夜間は半門になったと言うが、皇国に統一されてよりのちは、開催期間中は開かれっぱなしになった。

それだけ時代が穏やかになったということだ。

普段は出入りできない時間まで、門扉が開かれているとなると、当然、訪れる観光客は多くなる。

「こうして、たくさんの人を見るといつも律義に思うんだけどさ」

 ふとロワジィは言った。

「ん?」

「あたしがたとえばならず者退治をたのまれて、そいつらをぎったぎたに圧してるときも、こうやって、ここは毎日こんな風に賑やかで、喧しくて、活気に満ちてるんだなぁって」

「え、意味わかんない、どういうこと」

「なんかね、人の数だけそれぞれ別の人生があるっていうのが、途方もないことだなとか思うのね。……だって百人いたら百通りなのに、ここ、万単位でいるでしょう。気が遠くなりそう」

「なに田舎から出たての人間見たいなこと言ってんの。地方回ってて頭ゆるんだの」

「悪かったわね」

 横目で軽く睨んでやる。毎度毎度、口さがなく彼女の揚げ足をとる。飽きないものなのだろうか。

 モグラに付きまとわれた当初は、いちいち言動に腹が立ったものだけれど、最近は聞き流して放っておくことを覚えた。話しかけて、返ってくるだけましだと思う。毒舌だろうが辛口だろうが、枯れ木に話しかけるよりはずっといい。

「なあ、」

「なに」

「来てよかっただろ?」

「……うーん、」

 言われてロワジィは口ごもる。よかったのだろうか。よく判らなかった。

 

 

「祭り行かない?」

 半月ほど前に誘われたのはそんな文句だった。え、いきなりなに。怪訝な顔でロワジィはモグラへ目をやる。

「祭りって、」

「なんかね、ものすごくにぎやかな祭りらしいのよ。俺も、話には聞いてたけど、まだお目にかかったことはなくてさぁ」

 ここ数日、どこかに姿をくらましていた小男が、ふらりと宵の口に宿へ姿を現したのだった。

 ロワジィの選ぶ宿は安宿だったから、相部屋で雑魚寝が基本だ。それでも普段複数宿が並ぶときは、小男は彼女と同じ部屋になるようなへまはしない。相手の寝姿も、見たところで、けったくそ悪いだけなのは、お互い理解している。

 だから、顔を見せるということは、用事があるということだ。

「いつ」

「来月の頭から一週間。このあたりの護衛の仕事も、めぼしいのはなくなって、ショボいのばっかりになってきただろ。そろそろ次に動く、ってんならいい頃合いだと思ってな」

 そのときは、まだわりと北寄りの町にいたのだ。

「来月頭まで、半月ほどあるけど」

「だからさ。今から移動しはじめたら、ちょうど、祭りドンピシャするでしょ」

「どこの」

 聞く手前から、なんとなく嫌な予感がした。モグラが口を開く間から、彼が言う言葉が判る、そんな気がした。

「ト、」

「――行かない」

 ああやっぱり。町の頭文字を口にした瞬間に、きっぱりと拒否する。

「……最後まで言わせろよクソが」

「最後まで聞いたってろくなことにならないでしょう」

「なんだよあんたビビってんの」

 渋面になったロワジィを見て、俄然嬉しそうな顔になる。揉み手をし、にやにやと小馬鹿にした笑いを浮かべるその彼へ、冷たい視線を流して、

「ビビってなんかない」

彼女は口の中で素早く呟いた。

「そういうのじゃないから」

「じゃあ別に行ったっていいじゃないのよ」

「だって、もしかしたら、いろいろ差しさわりがあるかもしれないじゃない」

「差しさわりってなに」

「……二度と会うこともないはずのあんたと、なんでか知らないけどあのとき鍛冶屋で会って、そのあともこうして何度も顔を突き合わせて話をしているってところが、もう、その確然たる証拠なんじゃないの」

「運命だったよね」

「冗談でもやめて」

「わりと本気だし」

「余計いや」

 話しているうちに鳥肌がたってきたので、ロワジィは無意識に二の腕をさすった。モグラと運命。考えるだけで首をくくりたくなる。

「じゃあ、やっぱりあんた、ビビってんじゃん」

「……だから、ビビってなんか、」

 むっとなってロワジィは顔を上げた。小馬鹿にする笑いを浮かべたモグラが、しっかり距離をとって彼女を眺めている。

 これはきっと、殴られないための距離だ。

「だって考えてもみろよ?」

 顔をしかめる彼女へ、小男が肩をすくめて言う。

「トルグに定住登録している人間だけで、七万。祭り期間中に出入りする人間が、例年通りだと十一万。合わせてざっと二十万弱の人間が、入れ代わり立ち代わりわいわいやってるってのに、そんな、あの町でしみったらしく生活している木工職人ひとりに、ばったり会うわけないじゃん。曲がり角で、出合い頭にぶつかっちゃった☆とか、そういうの、物語の中だけよ?現実見ろよ。どれぐらいの確率だと思ってんの」

「それは、そうだけど、」

 言われたらその通りのような気もする。

 気になってはいたのだ。

 ギィの勤め先を木工組合(ギルド)に斡旋してもらい、本来ならそこで、きちんと男が仕事をこなしていけるか、不自由はないか、契約上に誤りはないか、ロワジィは確認するつもりでいた。過保護と言われたらそれまでだけれど、山を下りて右も左も判らぬうちに、身ぐるみはがされ、有り金を巻き上げられて叩き売られた、男の不運と不器用さを知っているので、彼女は最後まで面倒を見るつもりでいた。

 だのに、逃げた。

 いまでは判る。自分はあの時、はっきりと建前を放り出して、男から逃げたのだ。

 ――世話になった。でももうあんたは必要ないから。そう言われるのは怖かった。

 置いてゆく側と、置いてゆかれる側、どちらがいっそう辛いか、彼女は知っている。

 だから、逃げた。

 置いてゆかれる前に、自分が男の手を離した。

 駆け足気味に話を進めて、否と言えない状況に男を追い込んで、それじゃあがんばってね、偽善で固めた笑顔で応援するふりをした。

 なにか言いかけた男の言葉を遮って、気がつかないふりをした。

 大陸の北側へ向かったのも、うっすらとそのあたりが理由だ。寒くて凍える地方で、震えて体力を使い果たしたら、何も考えずに眠れるのではないか。

 かじかむ手を温める大きな掌はもうないから。

「でも、なんであたしを誘うの」

「え、」

「別にあんたひとりで行ったっていいわけよね?どうしてあたしを誘うの」

 ふと湧いて出た疑問を、ロワジィはそのまま男にぶつけた。考えてみればおかしな話だ。旅慣れしている彼が、トルグまで一人で向かえないはずもないし、むしろ一人の方がなにかと身軽で便利なはずだった。

「観光客だけで十一万でしょう。宿とるだけでも大変じゃない。あんたひとりで行った方が、ずっと楽でしょうに」

「それは、……なんていうの?俺のやさしさ?」

「え?」

「やさしさ?」

「ごめん言いなおさなくていい」

 言いながら眉間の皺を揉む。

「若くない女が、ひとりで、毎日毎日、血と汗と埃だらけの肉体労働に明け暮れてて、なんだかとっても気の毒だなあって」

「なにそれ」

「だって俺が誘わなかったら、あんた誘うような奴いないじゃん?……祭りとか、そういう息抜き的なことしないで、ただひたすら怖い顔して、ばっさばっさ悪いやつなぎ倒して、稼いだ金地元に送金して、その繰り返し。年老いていくだけでしょ。可哀そう。あのね、人生、苦あれば楽あり的な、時々は楽しいことしておかないと、皺増えるばっかりよ?自分へのご褒美って判る?眉間の皺消えなくなるよ?」

「あんたが増やしてるんでしょうが」

「やだ、俺に転嫁?責任転嫁?……ただでさえ、ぴちぴちの天使ちゃんたちと比べると、もう月とスッポンになってるのに。お手入れ怠ったら、皺になるばっかりとか、可哀そう。売れ残り可哀そう」

「……あんたね、喧嘩売ってんの」

「売るわけないじゃん。あんたに殴られたら、華奢な俺吹っ飛んで、お亡くなりになっちゃうじゃん。年増に殴られて死ぬとか、一番最悪な死に方じゃん。な?行こうぜ?」

「言葉の前半と後半がまったくつながりを見ないけど」

「年増が細かいこと気にするなよ。はい、行くね?行くよね?じゃあ、行くってことで」

「でも、」

「行く」

「……わかった」

 勢いで丸め込まれた感がぬぐえないまま、ロワジィは頷く。これ以上モグラと会話を交わしたところで、のらりくらりと揚げ足をとられて腹が立つだけだからだ。

 ――それに、どうせ会わない。

 そうも思う。

 

 

 トルグへの道のりにこれと言って変わったところもなかった。

 同じ町に向かうからと言って、並んで歩くこともせず離れて進むのも同じ。

 中途あまり治安のよろしくない場所を通る過程で、二度三度、女と小柄男の道行きと見て、追い剥ぎが襲い掛かる素振りを見せもしたが、ロワジィが鉞を腰から引き抜き、モグラが数矢威嚇の射撃を行うと、恐れをなしてそれ以上襲い掛かってくることはなかった。ならず者でも命は惜しいらしい。

 こういう時、弓は便利だと思う。

 山に入り、獣を追ったこともあるので、ロワジィも弓を構えたことはある。それでも十中一、二というあたりの的当てぶりだ。巧くはない。

弦を引く力はある。けれど的を定める一瞬に、こめる集中の気迫、のようなものが弱いのだと思う。これはもう性質だ。

――お前は弓が下手なのだから、勢子をするか、罠を使え。

村で名手と言われていた男から、指導を受けた末にそう言われた。

静ではなく動が強い、そういうことなのだろう。

巧くなるのは諦めた。

……おおざっぱなのだろうな。

自分ではそう思っている。

だから、藪の中だろうと、相手が動いていようと、こともなげに百発百中をうたうモグラの腕は正直うらやましい。

腕だけ、だけれど。

 

 半月ほどかけてたどり着いた町の外観を見て、ロワジィと小男は宿をとることを速攻で諦めた。これは無理だ。

 まず人間が、外門におびただしく列をなしている。拱門をくぐり、中に入るのを待つ列である。

 そうして、すでに宿をとることを諦めた集団もあり、町の外壁へ沿うようにして、露営の幕を張っている。

「通は、翌年の予約をもう済ませてあるんだよ」

 あんたら初心者だね。

その露営の場所取りすら足の踏み場もないほどで、それでもなんとか二人分、周囲に気を使いつつ天幕を張ったときには、ロワジィも小男もぐったりしていた。

その様子を見た隣人に、笑いながら言われてしまう。

話好きのその男によると、さらに本当の大祭通は、前年に宿をとり、まず数日はそこへ寝泊まりし、そうしてわざわざ外壁沿いの露営群へ混じってくるのだそうだ。

「やっぱり外が、祭りの雰囲気を感じるには最高だからね」

「はあ、」

 判ったような判らないような、二人とも頷きながら首をひねっていた。通の思考とやらは斜め上過ぎる。

 

 

「でも、」

 縁石に腰かけ、祭りに浮かれる面々を眺めながら、やっぱりお祭りっていいね、ロワジィはうっすら笑い、手にした茶を飲み干した。

「来てよかった」

「なんだ、」

 意外そうに驚いて、彼女を眺めていたモグラは、すこししてから目をすがめる。

「年増でも、そういう可愛い顔もできるんだな」

「なにそれ」

「自分の心に正直が一番ってこと」

「なにそれ」

「これ」

 言って小男は、服の隠しから折りたたまれた書き付けを取り出し、二本の指の間にはさんでしばらく逡巡したあと、ほら、言ってロワジィへ折りたたんだまま差し出した。

「なに、……?」

「まあ見ろ」

 顎をしゃくって促され、四つにたたんだそれを彼女は開いて目を落とす。

「……ブランディーヌ、ドロシー、オルガ、パトリシア……、?……???」

「あ間違ったそっちじゃねぇわ。こっち」

 ものすごい勢いで書き付けを回収され、もう一枚折りたたんだものを渡される。

「なんとなく予想がつくけど、今のなに」

「あ?これ?俺がトルグで目を付けてる店の、天使ちゃんの名前。超かわいいの」

「ごめんね犯罪ぎりぎりのあんたの嗜好を聞いたあたしが莫迦だったわ」

 年増年増とロワジィを莫迦にする小男こそ、四十を超えているはずで、その四十男が自分の娘ほどの相手に欲情するというのが、個人の勝手だとは知りながら、やはり理解に苦しむ。

 まあ、玄人相手にしか手を出していないだけましなのかな、そう思いながら渡されなおした紙を開いて、一瞬でおのれが真顔になるのを感じた。

 ――387番地、工房通り、商業区。

 これがなにかだなんて、聞かなくてもさすがに判る。

 

「……行って来いよ」

 目を落としたきり、無言になったロワジィへ、つまらなさそうにぼりぼりと脇腹を掻きながらモグラは言った。

「やさしい俺さまが集めた情報によると、組合(ギルド)の寮住まいは相変わらずで、そこから通いで仕事をしているんだと。製材だの組合から請け負ってるところらしいな。祭り期間中も、工房は別に休みをとるわけでもなく、いつもと変わらず仕事してるそうなんで、まあ、普通にあのデカブツも仕事してんじゃねぇの」

「――でも、」

「なんだよ。ここまで来ておいて、えー会うだなんてそんなこと、ぜんっぜんなーんにも考えていませんでしたあ、なんてカマトトぶって許される年でもないのは判ってんだろ」

「でも、」

「でもじゃねぇ。あの時に、俺付き合わせて、あほみたいに泣いたのはなんだったわけ。俺、二日酔いってのは経験あったけど、マジで三日酔いはお初だったわ。感動したわ」

「でも、」

「行けよ」

 普段とは違うその声の静かさに、ロワジィは顔を上げる。珍しく小男にからかう色はない。眼差しは真剣だった。

「行って、きちんと、ケリつけてこい」

「……、」

 お膳立て。きっとそうなのだろう。

 ……ここで逃げたら、一生こいつに軽蔑されるわね。

 それは悔しいと思う。

 しばらくうつむいて、それからひとつ深呼吸すると、覚悟を決めロワジィは頷く。隣の縁石に腰かけたまま、器用に片頬杖をついていた小男は、彼女が頷いたのを見取って鼻を鳴らした。

「ひとつだけ忠告しといてやるが、そのこわばった怖い顔のまま行くなよ。年増なりに精いっぱい可愛らしく、にこやかに行け」

「……失敗した。もっとお祭りらしく、めかしこんでおくんだった」

「なにしても今さら変わんねぇよ。おら、さっさと行っちまえ」

 棘のある軽口に救われる気がする。そうして、ああそう言えばずっと救われてきたのかもしれないな。ふと思った。

 口には死んでも出す気はないけれど。

 

 

 観光客がひしめく中央区を抜け、書き付けにもあった、商業区へロワジィは踏み入れる。大祭に祭り上げられている聖人の名を冠した区である。

喧噪はだいぶんましになった。

 それでも遠目から、昼から上がる花火の音や、昼間から酒に酔っぱらったものの騒ぎ声、指笛の音、そうしてこの際ついでにと、商業都市の倉庫や工場が立ち並ぶあたりも観光して帰ろうとする、場慣れしていないものの姿も、そこかしこに見受ける。

 自分もその場慣れしていないひとりだなと思う。

 倉庫や工場の軒下にも、中央区よりは控えめとはいえ、大祭の飾り付けがあちらこちらになされ、そぞろ歩くには、いっそ押し合いへし合いする大通りよりもゆっくりと見られる分、こちらの方が穴場と言えるのかもしれない。

 丁寧に飾り付けられたそれを、けれど歩いているロワジィはまったく見る余裕もなかった。

 

 ひどく緊張して歩いている。

 こわばるなにこやかに行けと、モグラから背を押される形で、書かれた住所へ向かっていたが、祭りの飾りつけに紛れて外壁に表示されている番地が、次第に握りしめた数字に近づいてくるにつれ、こめかみあたりがどくどくと疼いて、まともに歩けているかどうかの自信もない。

 ……どうしよう。

 野盗が立てこもる巣窟へ突撃するときよりも、ずっと怖いとは思わなかった。

……いったいどういう顔をしたらいいんだろう。

なんだか泣きそうだ。

 あれから五年経っているのだと、先ほど気がついた。

 その数字は長いのかどうかと、そのとき彼女はふと思ったけれど、よくよく考えれば、決して短い年月ではないはずで、だったから、ギィにはギィの、トルグで木工職人として五年分暮らしてきた生活があるはずなのだ。

 まず、捨てるように逃げた自分に対して、いい感情があるとはあまり思えない。

 恨みごとのひとつやふたつもあると思えたし、そうでなければ、きれいさっぱり自分のことはなかったことにして、新しい生活を一からはじめている最中かもしれない。

 好いた女のひとりもできただろうか。

 それとももしかすると、自分が考えるほど、男は彼女に対して思うところがないかもしれない。

 恨まれているだの捨てただの、言えなかった言葉があるだのと後悔しているのは自分ばかりで、実際のところ、男はそれほど、自分に執着するものを持たないのではないか。

 底抜けにやさしい男だった。ひとが良い男だった。

 そのひとの良さを、おのれへ向けられた好意と勘違いして、惚れた腫れたと勝手に盛り上がっていたのは、自分だけではなかったか。

 なにしろ、男と過ごした期間はたったの半年ほどなのだ。

 そうなると、新しい日常があり、普段通りに仕事をしている男のところへ、のこのこと今さら顔を出して、自分はいったいどうしたいのだろうと思う。

 ……久しぶり、とでも言うの?言ってどうする?

 穏やかな暮らしを手に入れた男を、ただ引っ掻き回しに行くだけではないのか。

 引っ掻き回してどうしたいのだろう。ケリをつけてこいとモグラには言われた。

 けれど、ずっと心の隅にわだかまったままの、おのれの気持ちがすっきり晴れたら、それでいいのだろうか。

おのれに会うことで、相手が昔を思い出し、不快になることには目を向けずにいいのだろうか。

過去は美化される。思い出が実際以上のものになることを、ロワジィは知っている。

 だからそれは、ただの自己満足の延長ではないだろうか。

 

 途方に暮れるうち、向かう足取りは次第に重くなり、頭の中にがんがんに響く鼓動は息苦しさの頂点に達し、ついには書き付けの住所まであと二区画、というところで、ロワジィは一歩も進めなくなった。

 怖い。

 傍目にも、真っ青になり立ち止まった彼女はわりと不審に見えたのだろう。もし、あんた、かけられる声がして、ロワジィはのろのろと視線を動かした。

 声をかけたのは辻占だ。

 なぜこんなところに辻占が、とふと思いはしたが、考えれば今は夏の大祭期間中で、彼らが普段店を構える中央区は、どこも祭りで混雑している。

 うかうかしていると踏まれるほどで、だから、ゆっくり腰を落ち着けて占いでも、という雰囲気では決してない。

ここは商業区ではあるけれど、こうして彼女のように、祭りの喧騒からすこし頭を冷やしたい人間が紛れ込んでくる。そこそこの稼ぎがあるということなのだろう。

「祭りの観光のおひとだろう。道に迷ったかね、誰かとはぐれたかね、それとも気分でも悪いかね」

「ああ、……ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたものだから……、大丈夫」

「そう」

 よろしければ、あんたをひとつ占ってあげようか、いくつかの色石を取り出し、卓上へ転がし唆す辻占へ、

「悪いけど、……そう言うの、信じてないから」

 言って首を振りかけ、ああ、と思い直して彼女は辻占に近づく。

 近づくと、ぷうんと甘ったるい匂いが濃くなって、ふとその芳香を彼女は辿った。辻占の衣装だ。くちなしの花がいくつか挿してある。

白い花が懸命に開いて、香を漂わせているのだった。

「……でも、やっぱり占ってもらおうかな」

「気が変わった」

「占いでもなんでもすがりたい気分なの」

 言うとふふふ、と深くかぶったフードの下から辻占は笑いを漏らす。

「なにを占おうか」

「そうね……、」

 唇に指をあてて、ロワジィは思案する。

「なんでもいいの、」

「なんでも」

「……じゃあ、道に迷って、誰かとはぐれて、今最悪の気分のあたしが、元気になるような結果の占いが、いいな」

 こわばった頬を無理に上げて、彼女が笑っておどけてみせると、一瞬目を開いた辻占が、はは、とおかしそうに声を立てて笑った。

「これはまた欲張りな相談だ」

「そうよ、欲張りなの。業突く張り」

 つられて無理にでも笑うと、先ごろよりはすこし心が軽くなる気がした。そうだ、自分は欲張りだ。おかしくなる。

あれもやりたい、これもやりたいで、手に持ちきれなくなるまで胸に抱え込んで、とうとう持ちきれなくなって落としてしまったのだ。そうして落ちて壊れてしまった欠片を見て、ふて腐れて涙ぐんでいる、自分勝手でどうしようもない人間だ。

「大きなお肉をくわえていたのよ」

彼女は言った。

「それで充分だったはずなのに、川に映った肉まで欲しがって落として、……両方なくしてしまったの」

「その肉を探している」

「そう。落としてしまった方の肉をね」

「――そこまでおのれが判っているのなら、あやふやな道しるべはいらないだろうよ」

 辻占は続けて先とは違う意味で笑う。そうして、衣装に挿していたくちなしの花を一刺し抜き取ると、ほら、言って彼女へ差し出した。

「え、」

「お守りだよ。あんたが、大事なものを見つけなおせるように」

「……そうね」

 頷き、ロワジィは受け取り、その甘いにおいを放つ白い花に鼻を寄せてから、無造作に髪に挿し入れた。

「ありがとう。百人力ね」

「見つけなおせるはずだよ」

「やってみる」

 顔を上げて、彼女は建物に表示された番地をもう一度見上げる。書き付けの住所まであとすこしだ。

 気まぐれのやりとりがありがたいと思った。先までの絶望的な気持ちは消えている。

 

 

 だったけれど、

「……でもなぁ……、」

 心が決まったとはいえ、小便をかけられる蛙ほどには面は厚くなく、平然と工房を訪れる勇気はさすがに出ない。

 それに、モグラの聞き込んできた情報が正しいのなら、店は通常通りの操業をしているはずで、仕事の注文でもないロワジィが、勤務時間中にただその店で働く職人を訪ねるというのは、店にとっても迷惑な話だろう。

 すこし離れた路地から、やや身を隠すようにして、彼女は示された住所の先を眺めていた。

 通りと通りが交差する点に小広場が設けられており、その広場をぐるりと面する形で作業場が連なっている。この広場はほとんどが木工の店舗のようだ。

店舗と言っても、中央区にあるような、商いをするスペースのあるそれではなく、木材が出し運びしやすいように、広く間口を設けてあり、がらんとした土間に資材が積んであったり、職工の道具が置いてあったりで、店と呼ぶよりは、製材所か木工所と呼びたいところだ。

……失敗したかな。

そうも思う。

事ここまで至れば、怖じ気づくのも滑稽で、ロワジィはもう逃げる気はなかった。

どうにでもなれ。

度胸というよりはやけくその開き直りである。

であったけれど、どうせ声をかけるのなら、別に勤め先を訪れる必要はなく、それこそ男の住まいのある寮のあたりで待てばよかったのではないか。

そう気がついた。

小男に番地の書かれた書き付けを渡され、さあ早く行って来いと尻を叩かれて、そうか、行くのか、では行かねばと何も考えずに工房まで来てしまった。

来てからどうしたものかと思案している。

年増の考えなし。小男ならそう小馬鹿にして言ったかもしれない。

 

 立ち並ぶ工房は、どこもちょうど午前の休憩が終わったところのようで、姿の見えなかった作業員たちが、思い思いに店の奥から姿を現し、作業に取り掛かる。

 みなのんびりとした表情だった。いまは夏の大祭中で、たしかに通常通りに操業はしているのだろうけれど、目まぐるしく出荷に追われるほどの忙しさはないのだろう。

 そこまで思い、そのままあちらこちらの作業場を見比べていたロワジィの視界の端に、遠目で見ても大きな図体が飛び込んだ。

 ……ああ。

ぎゅっと心臓が掴まれたように痛んだ。

心臓が掴まれるというのは、本当に、文字通り、掴まれるのだなと、彼女は頭の片隅で思う。

姿を現した作業員どものひとりに、ギィがいる。

いる、と気がついた瞬間から、そこから目を離せない。

視線に力はないと、以前思ったことがあったけれど、今この瞬間自分の物に関しては、その保証はできないと思った。なにかの思念の力がこめられていそうだ。頼む。気づいてくれるな。会いに来たというのに、そう祈ってしまう。

棚に置いてあったらしいおのれの道具を男は手に取った。それから他のものと工程でも確認しているのか、図面を見ながら会話し、頷いている。

工房からの距離があるので、ロワジィには男の声は聞こえない。ただ固唾をのんで見守るばかりだ。

確認が終わると、頼んだよとでも言うようにひとつ大きく背中を叩かれ、それから話していたものが男から離れてゆく。男はやれやれと頭を掻き、角材の上にかがみ込んだ。

鑿(のみ)を手に取りかがみ込み、柄頭を叩きはじめる。かつ、かつ、と小気味よく穴が穿たれてゆく音がした。

その規則正しく穿たれる音にすこし救われる気がして、ロワジィは路地角からそっと男を見た。

変わらなかった。

大きくて力強い盛り上がった肩も、ぶ厚い胸板も、鑿を手に、淡々と仕事を始めるその姿勢も、手元にそそがれる真剣な視線、だのに全体的にのっそりとした冬眠あとのクマのように感じるその仕草も。

元気でやっているようだった。

他のものと談笑していた様子に、仕事先でうまくやれているようだなと思った。

五年のうちに、精悍になった気がする。

世間知らずで年も若い、まだ甘さの抜けなかったあのときと比べると、大人の渋みと言おうか、頬が角張り、ますますいかつい顔になったなと思う。

懐かしかった。

なんだか胸がいっぱいになってしまう。息が苦しい。

……どうしよう。

眺めているロワジィの胸のうちに、怖気がちらと顔を出す。

どうにでもなれと思った。

逃げる気はないと覚悟が決まったはずだった。

しかし、どうにも腰は引けていて、なにかちょっとしたきっかけさえあれば、今すぐにでもこの場を立ち去ってしまいそうだ。

だめだ、あのひとを今さら引っ掻き回す権利なんて、やっぱりあたしは持ってない、申し訳なさと弱気と、それから、おら、行っちまえ。どやしつけたモグラの顔、――大事なものをあんたは見つけられるはずだよ。辻占の不思議な笑み。それぞれが頭の中で交錯して、次第に不安が体いっぱいに充満し、かつ、かつ。鑿の音から耳をふさぐようにして、ロワジィは思わず足を後ろに退きかけた。

 

 瞬間、一陣。

 ひょうと風が吹いた。

 

 それは路地から広場に向かって吹いたもので、とくだん強くもなく、洗濯物をはためかせたり、木の葉を揺らすほどのものもなく、ただの気まぐれ、無風状態のところに吊り下げられた風鈴の短冊をわずかに揺らし、揺らしたはいいが鳴らすほどには力のないもの、けれどロワジィの髪に挿したくちなしの花からこぼれた香りがその風に乗り、そうして材木に屈み下を向いていたギィがふと惹かれるように顔を上げ、そのまままっすぐに、上げた視線をロワジィに向けた。

 かつん。

 音が止まる。

 男の目が見開かれたのが判る気がした。

 それから男は弾かれる勢いで立ち上がり、勢いで道具を突き崩し、おいどうしたなにかあったかと掛けられる声に頓着することもなく、文字通りなにもかも放り出して、ただロワジィを視界に入れたまま、工房の軒をくぐり、まろびながら一直線に彼女へ向かってやって来る。

 その顔はこわばり、鬼のようなと言っても差し支えない形相をしており、え、どうしよう。先とは違った恐れと迷いが、彼女の中に急激に湧きおこり混乱する。

 どうしよう。駄目だ。見つかっちゃった。どうしよう。

――見つかったなら逃げないと。

 姿を見に来たのに、会いにきたのに、追い詰められ、一気に湧きおこった思考にぐちゃぐちゃになったロワジィは、混乱したままじりじりと路地裏に後退する。

 身を翻(ひるがえ)し、男へ背を向けかけた彼女へ、

 

「――行くな!!」

 

 とどろくような男の声が押しかぶせられた。路地に殷々と響く、腹の底から吠える獣の怒号だった。

 その声に竦んだ。一歩も動けなくなる。狩りと同じだ。反撃を受ける相手に近づきすぎたのが悪い。音を出すな。気配を殺せ。風上には決して立つな。

 それができなければ狩る側と、狩られる側は真逆になる。

 判っていたはずなのに。硬直する彼女の腕を、近づいた男が荒々しく握り掴んだ。――ああこれはもう駄目だ。

奥歯を噛みしめ、目をつぶる。

 時間の速さだとかいうものは、結局当人の感覚によるものだ。そのときのロワジィは完全に時間の概念が吹っ飛んだ状態だった。

 実際のその間が数拍のものだったのか、あるいは四半時ほどは軽く過ぎていたのかはよく判らない。

 ものすごく長いこと立ち続けている気もしたし、ほんの一瞬のような気もした。

 そうやって、しばらくきつく目をつぶった末に、いい加減目をつぶることにも疲れて――、おそるおそる目を開けたロワジィは、同じように固くこわばり、じっとおのれを見据える男の真顔を目に入れた。

「……あ、」

 ぎりぎりと肉に食い込む男の指が痛い。

「あの、……、」

「逃げないで、くれ」

 ロワジィの声に押しかぶせるようにして男が言った。恐ろしく低い声だ。怒り狂っているのだろうか。よく判らなかった。

 黙って頷いた彼女を見て、こたえを信用したのか、男が力を抜いた。放された腕が痺れている。……どれだけ力任せに掴んだんだろう。ふと思う。そう言えば男は素手で猪も倒していた。だとすると、力任せに見えて、相当加減されていたのかもしれない。

「……あの、」

「話がしたい」

 またしばらく沈黙が流れたので、おずおずと口を開いた彼女へ、早い口調で男は言った。ロワジィはまた頷く。

「話がしたいが、ここでは、……、」

 言って男は、……待っていてくれ。目で彼女を制して、仕事場へ一旦戻る。何事かと表へ顔を出していた数人の男へ近づくと、ぼそぼそと手短に言葉を交わして、またこちらへ向かってやって来る。

 その間、ロワジィの思考は麻痺していた。その様子を見ても、もうあまり何も感じない。ただ、ああ、職場の人間に仕事を抜けることを断ってきたのだろうな、そんなように思った。

「行こう」

 彼女のもとへ戻ると、男はそう言って彼女の手を取り、先に歩き出す。黙ってロワジィは引かれるままに、後ろに付き従った。

 どこに連れて行くのか聞く気にもなれなかったけれど、話がしたいと男は言った。おそらく自室にでも向かっているに違いない。

町並みを眺める気にもなれず、のろのろと視線を落とすと、おのれの手を取る男の腕に、飾り紐が変わらず結ばれていることに気がついた。

 彼女の手首にも、同じようにそれは結ばれている。

 男の手で丁寧に結ばれた彼女の紐は、この五年の間に何度も切れた。色褪せ、ほつれ、いい加減ぼろぼろで、みすぼらしいものになっていた。

こんなものを未練たらたらで身につけているから、いつまでたっても思いきれずにいるのではないかと思うこともあった。けれどどうしても、外すことも捨てることもロワジィにはできなくて、切れるたびに丹念に繕い、結びなおした。

 男の腕に巻いてあるそれにも、何度も繕い直したあとがある。

 じっと見ているうちに、視界が涙でぼやけてよく見えなくなった。

 

 

「……着いた、」

 滲んだ視界のまま手を引かれて歩いていたロワジィは、男の声に顔を上げる。

 連れてこられたそこは、寮の一室ではなかった。

 やや高台に位置する小さな公園、とでも言ったような場所で、遊具はないものの腰を下ろせるベンチや花壇が設えられている。

 いまはほかに人の姿はなかったが、商業区で働くものの憩いの場なのだろうと思われた。

 ぼやけたままでは邪魔なので、目じりにたまった涙を拭うと、明らかにぎょっとして男の肩が揺れた。彼女が泣いていたことに今気づいたらしい。

「すまない、」

 先だってのこわばり、鬼の形相はなりをひそめて、おろおろと弱り顔になる。

「その、手、痛かったか」

「……違う、」

「話がしたい、……厭だったか」

「ううん、ごめん、違うの」

 首を振りながらもう一度涙を拭い、彼女はあらためて連れてこられたあたりを見回し、

「……ここ、」

 呆然と呟いた。

壮観、と言っていいように思う。

高台のそこからは、町の中心部が見下ろせるつくりになっていて、それもちょうど大祭の賑わいが百花繚乱、目にまぶしいほどだ。

 豆粒ほどの馬車が碁盤目の通りを行き交い、風になびく飾り旗、吹き流し、思い思いに着飾り、祭りを楽しむ人の波。

「ここは他より高くて、風が抜ける。暑い日は、よく、ここで飯を食う」

「……、」

 息を飲むロワジィの横に立って、男が口を開く。

「通りを歩くのも悪くないが、こうやって、すこし離れて眺めるのもいいと思う」

「……、」

「こんな見晴らしがあんたは好きだろうなと、ずっと思っていた」

「……、」

 なんとこたえていいか判らなくて、ロワジィは通りの喧騒を見下ろす。

 話がしたいと言ったのだから、きっと自分は黙って、まず男の言い分をまるきり聞くのが筋と思えた。きっと男には言いたいことが山ほどあるに違いない。

だが口を噤んで彼女が待っているのに、男も見せたかったと言ったきり、黙って顎をさすり、大祭を見下ろしている。

「……あの、」

 それでもしばらくは黙っていようと、観念して町の様子を眺めていたロワジィだったが、ここに連れてこられたときは真上にあった太陽が、じりじりと次第に午後の傾きになった時点で、さすがに口を開く気になった。

「あのね」

「――うん、」

「見た、し、とてもきれいだと思う、けど」

「うん」

「今、なにを考えてるの」

「今か」

 言われて男は笑った、苦笑いだ。

「――なにを考えているかな」

 またしばらく沈黙。

 今度は言葉を選んでいるようだったので、じっとロワジィは待つ。

「――言いたいことが、あった」

そうしてようやく、ぼつんと男が呟いた。うん。彼女は頷く。

「五年前のときも、それからここに住んでからも、あんたに言いたいことが、いろいろあったはずだった」

「うん」

「でも、……、……もう、ない」

「え、」

 がしがしと困ったように頭を掻き、男は町並みから彼女の顔へ目を戻す。

「もうない」

「……ないって、」

 その顔は困惑した苦笑で、だから彼女は、男が冗談やからかいでそう言っているのではないことは理解できた。そうして、

「……今朝」

「うん、……?」

 また不意に男が口を開いた。

「今朝、はじめて寝坊して、慌てて支度をして、部屋を出た」

「うん」

「本当に寝坊するのは、はじめてだったんだ」

「うん」

「だが、……、あんたに会うと判っていたら、寝坊なんてせずに、もっときちんと髭を当たっておくべきだった、だとか、せめてもうすこしヨレてない服を着るべきだった、だとか、そんなせんのないことばかり、ぐるぐると考えている」

 大真面目な顔でそう言って弱っている。聞いてロワジィはつい笑ってしまった。

「なにそれ、」

「本当に、それしか浮かばない。困った」

「ふ、」

「ふふ、」

 つられて男も笑う。そのまま二人でくつくつと忍び笑いを漏らしているうちに、おかしくなってきて、仕舞いには顔を見合わせて笑いあった。緊張はいつの間にか解けている。

 笑っていると、男が腕を伸ばし、ロワジィの手を握った。抵抗しなかった。繕った組み紐がその答えだと思った。

「五年、」

 男は言った。うん、ロワジィは応える。

「金を貯めた」

「うん、?」

 男の意図が読めなくて、頷きながら彼女は男を見上げる。斜め上の男も、彼女を見ていた。

「俺に何が足りないのか、俺なりに考えて、なにをするにも資金が根本的に俺にはないと思って、――金を貯めようと思った」

「……、」

「五年。酒も、煙草も、女もやらなかった。とくに欲しいものもなかったから、ほとんど使うこともなかったし、……、そこそこ、貯まったと思う」

「……、」

「あの時俺は、置いて行かないでくれと駄々をこねることしかできなかった。今は、あんたがついて来るなと言ったって、ついてゆけるだけのものがある。だから、俺はもう遠慮しない」

「……、」

「俺はあんたと行きたい」

「……待って、」

 見つめる黒い瞳に、熾火のように籠もった熱がある。男の言葉の先を聞くのが怖くなって、ロワジィは手を上げ、無理矢理遮ろうとした。

「あたし、そういうつもりで来たわけじゃ、」

 その手をやわらかに掴み、男はロワジィを覗きこむ。

「あんたと生きたい」

「待って、」

 駄々をこねる子供のように、弱く首を振る彼女へ、男がきっぱりと言い重ねる。

「待たない。俺はもう十分待った」

「でも、だって、……、」

「ロワジィ」

「――」

「あんたが好きだ」

 言われてロワジィは短く息を吸った。このひと、なんて取り返しのつかないことを言っているんだろう。信じられない思いで、まじまじと彼女は男を見返す。

 男の目に揺るぎはない。

「あんたが好きだ。そうしてあんたも、俺のことを好きなんだと、俺は勝手にうぬぼれている」

「……ギィ、」

「会いに来たというのはそう言うことだろう。違うか」

「……、」

「俺は浮かれているだろうか。俺は思い違いをしているか。ずっと会いたかったあんたに会えて、のぼせあがって、あんたの気持ちをまるで無視して、とんでもないことを言っているか。厭ならどうか教えてくれ。俺は莫迦だから、はっきり迷惑だと言われないと、判らない」

「……迷惑だとか、別に、そうじゃない、そうじゃないけど、……でも、……、」

「ロワジィ。あんたが好きだ。――あんたはどうだ」

 へどもどと言葉を探して言い淀むロワジィへ、真っ向上段から切り下ろして男は言った。ええ、心底返事に窮して彼女は眉を下げる。

「どうって」

「あんたは俺が好きだろう」

「えええ……、」

 断言されてうつむいた。嫌いじゃない。そんなこと判りきっている。嫌いだったらそもそもこうして五年間、ぐずぐずと未練がましく悩んだりしないし、会いに来るはずもない。

 小男にドヤされたときに否定すればいいだけの話だ。

 ……でも、だからって。彼女の気持ちを推し量ろうと、じっと見下ろす男の目に困り果ててしまう。

「そんな、……そんな、どうして好きか嫌いかの二択しかないのよ。中間とか、その、もうちょっと曖昧な部分っていうか、そういうの、あるでしょう」

「ない」

「ええ、……」

 ばっさり切って捨てられて余計に動揺する。

「だって、それにあたし、あんたに会いに来たのは、その、まずは五年前のことをいろいろ謝ろうと思って」

「いらない」

「ええ……、」

「謝るも何もない。どちらが悪いわけでもない。済んだ話だ。それより、これからの話をしよう」

「――、」

「ここで暮らして判ったことがある」

 男は上唇をなめ、また話し始めた。こんな熱に浮かされたように能弁な人間だったろうか。顔を上げ、男を眺めながらロワジィは思う。五年の間に男もまた変わったのだろうか。

「『ひとりで食べる飯は味気ない』」

「……それって、」

 ぽかんとなってロワジィは呟く。男と旅していた時分に雇ったきっかけを聞かれて、話した覚えがあった。

「自分でない、誰かの作る飯はうまい、そんなようにあんたが言っていただろう。……あんたが言っていたあのとき、俺にはさっぱり意味が判らなかった。誰が作っても、飯は飯だと、そう思っていた」

「……うん、」

「でも、違った。寮の炊事場でひとり分作って、部屋で食べて……、まずくはない。――だが、うまくもない。ひとりで食う飯は何の味もしない」

「……、」

 ロワジィ、言って男は彼女の手を握る力をすこし強めた。

「あんたと食う飯は、いつだってうまかった。理屈じゃない。本当に、うまかったんだ。俺はあんたの飯が食いたい。あんたが作ってくれたら、俺はいくらでも食う」

「……、」

「俺の飯を作ってくれ」

「……、」

「俺と一緒になってくれ」

「……、」

「あんたの飯は俺が作るから」

「なに、それ」

 聞いて思わずロワジィは噴き出した。なんて珍妙な、一世一代の告白なんだろうと思った。告白なのだろう。あんたといたい、男はそう言っている。まっすぐ彼女を見つめ、握った手に汗をかき、気の毒なほど彼女を口説き落とすことに一所懸命だ。

 笑っちゃ悪いと思いながら、それでもどうにもおかしさを隠せず、笑いながらロワジィは男を見返した。男はくそ真面目に彼女を見ている。

 ――両手いっぱいの花をおくりたかった。

 以前に男が彼女へそう言ったことがある。

 その時それは叶わなかったけれど、たとえそれが花でなくたって、こんな風に、両手にいっぱい、かかえきれないほど真摯なまなざしを注がれて、

「はい、」

 これ以上なにを望むというのだろうと思う。

 ロワジィは頷いた。

「こちらこそよろしくお願いします」

 こたえると、笑っていたはずなのに、何故か視界がブレて、頭を下げた拍子に涙がこぼれる。

「不束者ですけど。……どうぞよろしくお願いします」

 悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。気分はしんとしている。不思議な涙だと思った。

 顔を上げると、男は先と同じように、しゃちほこばって彼女を見ている。目が合うと、視線ををわずかに眇めて、くちなし、と短く呟いた。

「うん、」

「あまいにおいだ」

「うん、?」

「あんたみたいだ」

そう言って、男は照れたようにちいさく笑った。

 

 

 

(20180706)

 

最終更新:2018年07月10日 00:27