地面すれすれに頭をうなだれた様子が、萎れた花のように見えた。息を切らせて立ち止まった少年に気が付いたように、同居人であったはずの檻の中のものが、頭をもたげる。ゆっくりと、重たげに。少年を視界に入れたその顔が、確かに歪んだ。
最初、少年には苦痛の顔にも見えたが、まじまじと眺めるうちに苦悩の色にも見え始めて、
――……?
少年の口が、同居人の名を呼ぶ。声は確かに出たはずなのに、自身の声が自身の耳には聞こえてこなかった。
見慣れない景色が広がっているだけ。
ここは一体どこだろう。
確かに村があったのに、その場所に戻ってきたのに、少年が見慣れた景色は、辺りには何も見当たらない。まるで無い。
少年はただ呆然として、朝まで部落があったはずの、
家族で暮らしていたはずの、
過酷ではあったけれど、決して貧しくは思えなかった暮らしを送っていたはずの、
何もなくなった荒地を見回していた。
焼け焦げた家の残骸。もはや誰であるか判別の付かない炭化した体。
そこは、少年の知らない土地だ。
――きっと、戻ってくる場所を間違えたんだ。
隣で言い聞かせるように年上の友も言った。
その見慣れない景色の中で、たった一つの見慣れたものはただ、目の前の檻に閉じ込められ、
――なんで戻ッてきたンだ……!
え。ふらふらと檻の方へと踏みだしかけた少年の耳に、低い叱責が聞こえる。呆と前方を見ていた少年は、我に返る。耳に飛び込んだのは、悲しみを含んだ怒りの声だった。
――正午過ぎてから帰って来いと言ったのが、判らなかッたのか!
――おじさん。
知らず、少年は呟いていた。
そうして気がつけば、周りを大人たちに囲まれていた。
知らない顔の大人たちだった。少年には、その大人たちが隊商の一行だということが理解できない。彼らは寝る時ですら、深く被ったフードを外すことがなかったからだ。初めて見る彼らの顔は、どれもこれも似たような顔をして、そうして無表情なのだった。
造り物のように似通っていた。思わずぞっとして、少年は身を竦ませる。
身を竦ませてようやく、少年は同居人が荷台の上に括りつけられた檻の中にいるということを、今一度認識し、その荷台が隊商の乗り物であることにもまた気付く。
そうだ。来たときは確か、P-C-Cで開発された、新種の家畜を乗せてきていた。たった二ヶ月で、今まで飼育していた種よりも倍は育つという、そう改良された生き物。
今はそこに悲愴に歪んだ、見知った顔が乗っている。
なんて表情だろう。
鉄棒にすがった指が折れそうに白かった。白さに誘われて、再びその方向へと踏み出しかけた少年の前に、男が一人立ちはだかる。囲んだ輪から外れたのだと、ぼんやりと思った。
少年にP-C-Cを語った男だった。
――何ヲしていル?
怪訝な声で、造り物の顔の一つが、立ちはだかった男に向かって威嚇した。
――組織に造反すルと言うコトがどう言ウことカ、判ラない訳でハ無いのだロう?
――判っている!判ってはいるが!
どこまでも突き抜けるように青い空を見て、男は煩悶する。
――頼む。見逃してやっちゃあ、くれねェか……!
――……おじさん。
必死な背中に、少年は思わず声をかけていた。背中は振り向かない。
――子供に罪は無いはずだ。コイツらは何も知らされちゃあいないんだ。巻き添え食って殺されるのは、あまりに可哀想じゃあねぇか。
――我々に、反抗すルと、言うのカ……?
答えた男の一人の指先が、仄白く光り始めるのを、少年は見た。
――違う。反抗する気はねぇんだ。ただ、何も知らないんだ。コイツらは何も知らないでここに住んでるんだ。頼む。なんなら、俺が“教育”担当してもいい。改変することは造作も無いはずだ。コイツら二人、生きていたところで計画に狂いが出る訳じゃあないだろう?頼む。
――……命令ハ、全住民の消去……忘レたのカ?
無表情のまま、似た顔の一人が腰を落として身構えた。
――忘れた訳じゃあない!だが……、だが。
――おじさん。
正午過ぎに戻ってこいよ。そう言って笑っていたあの顔が、怒りに歪んでいる。
――……どうして……。どうして、言った通りにしなかった……!
肩越しに振り返った顔がそのまま驚愕に凍りついて、……ぐらり。悲鳴もなく口惜しそうな顔をしたまま、男は無言で崩れ落ちた。その胸に大きく穴が開いているのを、少年は見た。焼け焦げ、血の一滴も零れない大きな風穴。
時が止まる。
――……おじさん!
思わず少年は駆け寄ろうとした。きっともう息をしていない。頭の片隅で少年に誰かが囁く。何故なら男の瞳は、既にこの世の物では無い場所に向けられていたから。数歩、走りかけた少年の視界が奇妙に歪んで膨れ上がる。一体何が起きたのか、判らないままに少年は息を呑む。次いで頬に焼け焦げた土を感じて、混乱した。
ずちゅ、と鈍い、粘着性の液体が引き抜かれる音が、彼の耳に遅れて飛び込んだ。
いやあああああああああああああああああああああああああああああああああッッ。
唐突な絶叫が、彼の耳に反響した。檻の中の声だった。硝子細工が粉々に砕け散るような、そんな悲しい絶叫だった。わんわんとそれは鳴り響き、跳ね返り、やがて木霊となって。堪え切れない苦痛の呼吸と共に唇から漏れ出す。
視界が赤黒く染まっている。
何も見えない。
どさ。折り重なるようにして、少年の身体の上に何かが凭れた。見知った重さと温かさだった。
友が。
無言で細かに震える友の身体を感じて、見えない両目を懸命に開き、少年は手探る。……違う。これは、震えているのではなく、
断末魔の痙攣。
慟哭の声が聞こえる。次いで力任せに何か柔らかな物が、鉄棒に叩きつけられる音。がしゃん。
――そレを縛レ……!
慌てたように声がする。
――無傷ガ条件なんダぞ!!
ああ。哭いている。あの人が哭いている。
潰れた視界を懸命に開いて、少年は慟哭の声の主を見ようともがいた。
なかないで。
あなたを悲しませたかった訳じゃない、ただほんの少し、好奇心の誘惑に勝てなかっただけなんだ。なかないで。そんなに哭き叫んでは、喉が張り裂けてしまうから。あなたが悪いんじゃない、約束を破って内緒で出かけた僕が、僕が、僕が、
俺が、
“――だってあなたに何かがあったら、私がとても悲しいでしょう。”
精一杯の愛しさを込めて、囁き微笑んだあの人の顔。ぐるぐると回り、花となって咲き誇り、白い花弁が天から降り注ぎはらはらはらはら……ああ。零れてしまう。掬おうとした手の平からそれは零れていってしまう。白い花は、細やかな砂になる。隙間から静かに零れ欠け落ちて、そう。まるでコルクの栓のように、
「――ュー」
視界を閉ざされた暗闇の中で、不意に聞きなれた声がした。静かに落ち着いた声。どこか懐かしくて、何故か涙の出る声だった。
「ヒュー」
気遣う声。
僕は――僕は――……俺はこの声を知っている。知っていた……?
「ヒュー」
ああ。まただ。
忘れていることがある……何か……悲しいこと。
「ヒュー?」
「ちょっと!マスタ!」
耳元に吹き込まれた声に唐突に意識が戻って、弾かれたようにヒューは身を起こした。
「あ、え、え、……なんだ?」
「なんだ、じゃあないわよ。ぼーーーっっとして……熱でもあるんじゃないの?」
腰に手を当てたマルゥを見やる。呆れた顔の少女を見て、それがあまりに日常染みていて、ヒューはほっと息をつく。夢を見ていた。
「大丈夫ですか」
蜘蛛の巣が顔にまとわり付いたように、何かがすっきりとしない。知らずヒューは、手の平で顔を何度も拭った。そんな彼を心配そうに覗き込んだカークの瞳が、ネオンを映して青い。
「俺は……寝てたのか?」
寝入った記憶がまるで無かった。
つい先刻まで少女と会話をしていたはずだったから。
問われてカークは折れそうに細い首を傾げ、気遣わしげに、だいじょうぶですか。もう一度呟いた。
「――急に、黙り込んで――そのまま。最近とみにその行為が多い。何か――心配事でもあるのですか。それは私たちにも言えない、深刻なことですか。そうでないのなら、是非聞かせてほしいのです。私たちはあなたの、その憂いた顔が気になります」
「カーク。マルゥ。今夜の晩ご馳走はオアズケだ」
不意の話題の転向に、少女の目が点になる。
「……は?マスタ?」
頓狂な声を上げたマルゥに、いつものニヒルな笑いを浮かべて、ヒューは、
「マルーゥ」
最近とんとご無沙汰してたと、自分でも思うほどの呆れた声。訂正を仕掛けた。
「はーい。ヒュー」
満更でもない顔で、マルゥが返す。その顔がどこか安堵していることに、ヒューは気付いていた。口に出した以上に、心配していたのだろう。
「オアズケかけて、どこに行くって言うの」
「宝探しに行こう!」
「宝……宝って」
ひょんに始まるヒューの会話に流石に二人とも慣れている。何故その発想に行き着くのか、だとか。どうしてそれが必要なのか、だとか。聞き返すことはない。それどころか、また新しい依頼でも受けたのかと、探る目付き。首を振って違うと答えた。職業紹介所に足を運ぶまでには、まだ懐は寒くない。
「タイムカプセルだ」
「って。なによソレ?」
「昔に埋めた箱の在り処を唐突に思い出した。掘らないと今夜は眠れそうにねぇ。睡眠不足はお肌の大敵だからな。見つけに行くに越したことはない」
「何が、埋まってるの」
「きっとイイモノだ」
俄然瞳を輝かせて興味に身を乗り出したマルゥに、損はさせねぇぜ。胸を張ってそう嘯くと、
「カーク?」
どこか青褪めても見えるような、以前ブルーネオンに照らされたままのもう一体に眼をやり、おまえも来るか?そう聞いた。問いに何故か大袈裟に反応した彼は、数歩後退して、首を振る。
「いえ――、いえ。私は――――、その、調べ物が――ありますので――」
「そうか」
もとより無理強いするつもりもないヒューは、あっさりと諦めて今度は自分が運転席に乗り込んだ。珍しく、目的地まで運転する気になったのだ。
「じゃあ。行ってくるな。朝メシまでには帰る」
「二人分の用意、よろしくね!」
定位置の助手席からにこやかに手を振るマルゥに、笑いを誘われたか、小さくカークは笑った。様子が少しおかしく見えたのは、ヒューの気のせいだったのかもしれない。そうして彼は、
「気をつけて――行ってきてくださいね」
まるで子を案じる母の顔になって、細い首を傾げ折った。
「夜は原生生物も多いですから――」
「だいじょぶ!」
「だいじょぶ!マルゥ強いし!」
たいそう不安な返事を二人で勢いよくハモらせ。それから爆音を上げて、ピックアップはエンジンをふかし始める。
ヒューの運転は、基本荒いのだ。
「くれぐれも注意してくださいね」
「だいじょぶ!」
「だいじょぶ!俺も強いし!」
しつこいほどに念を押すカークに、ならばいっそ本人も同行したらいいのではなどと、ふとヒューは思ったが、能天気にハモるに止めた。気が乗らないだけかもしれない。理由があるのかもしれない。相手が自分から話し出さない限り、しつこく追及するのは性に合わない。だからヒューは何も聞かなかった。
「まったくカークは、いつまで経ってもヒュー離れが出来ないんだから」
様子を見ていたマルゥが、半分感心し、半分呆れた声で茶化すと、聞いたカークは、困った笑顔を浮かべて、けれど今にも飛び出そうとする車体から、物言いたげに身を離した。
だって。
風に乗って涼やかな声がする。
「あなたに――」
ギアチェンジの音に紛れて、それは空耳となってヒューの耳に遅れて飛び込む。
あなたに何かあったら、私がとても悲しいでしょう?
……え?
いつかどこかで聞いた覚えのある言葉に、驚いてヒューは振り返った。後方は、排煙にまみれ朧で何も見えない。
明かりのひとつもともらない暗闇の中、うねり這う奇妙に甲高い男の声がする。
「連絡――は」
声に含まれた苛立ちと怒りを敏感に感じ取って、部屋の隅に控えた影がひくりと動いた。
未だ。
遅い。
闇を纏った長身の影。傍らの肉塊へ、手にした凶器をずぶずぶと差し込む。動きに同調して引き攣れるように肉塊は震えた。
四肢をもがれた研究体。
既に褐色に変色した粘り気の強い液体が、診察台に見える長いストレッチャーの上にも床にも血溜まりを作っている。
お。おおお。おお。お。お。
苦痛と云うよりは、もはや反射に近い。喉から漏れ出る言葉にならない声は、けだものの発するそれに似ていた。
「おや」
僅か感心したように、眼を見張る気配がする。
「まだ生きるの」
虚ろな呻きにく、くと喉の奥からくぐもった笑い声。軋みの混じった、温かみのまるで無い声が、
「まがいものでも意外にしぶといね?」
次はお前だと暗に示されて、控えた影が身震いした。
「手配を急ぎなさい。もうあまり……待てない」
「――はい。……――はい」
影は素早く立ち上がり、まるで逃げるように立ち去った。慌てた足音を聞き取り、低く笑う音。おおおおおおおおおお。肉塊のあげる嬌声は、断末魔の溜息だ。
「古い玩具には……」
もう飽きた。
早く新しい物がほしい。
「待ちきれないねェ」
柄にもなくわくわくとして、影は呟いた。手にした凶器が深く傷口を抉っても、もう目の前の獲物からは声は上がらない。
「待ちきれないねェ」
舌なめずり。
既に日もとっぷりと落ち、夜気さえ漂い始めているというのに、スコップを片手に辺りの砂地を掘り返すヒューの額にはびっしりと汗が浮かんでいた。息切れがする。
「運動不足か……」
ここ最近の、食う・寝るをひたすら繰り返し続けていた、己の怠惰な生活を一部思い出して、思わず後悔の念を浮かべたヒューだった。
ただし。後悔するだけだ。
反省はしない。
ざく、ざくと手当たり次第に深いものやら浅いものやら、たちまち穴だらけになった大地を尻目に、うっとりと星を眺めているのはマルゥである。
早い話が、開始早々少女は穴掘りに飽きた。
その上流星群が近い。今夜は星が満開なのだ。
「星。流れるかなぁあ」
「さぁな。流れるといいな」
鼻の脇を通って顎から滴り落ちた汗を手の甲で拭って、ちらとヒューも夜空を視界の隅に収める。P-C-C博物館の、プラネタリウムの造り物のように、手を伸ばせば届きそうに近い。
「星にお願いをすると叶うって言うけど」
「あんな秒速幾らで流れるモンに、主語述語動詞加えて3回も唱えること自体無理だろ」
即答する。ヒューは意外と堅実的だった。
「……ジンクス信じてないの」
「超高速早口言葉の練習を始めるところから、始めてはどうだろう」
身も蓋もない。
意外と素直に口の中で繰り返し始めるマルゥに笑って、それから再びヒューは大地にスコップを突き立てる。
ざく、ざく。繰り返される単調音に、眠気を誘われそうになる。
「……聞いてもイイ?」
やがて空を見上げての早口言葉にも飽きた少女が、しばらくおとなしくヒューのその様子を眺めていたが、やがて背後からぽつりと言葉を投げかける。
「なんだ」
ここでも……ない。
「何で急に穴掘り人足をしたくなったの」
「夢をな」
「……夢?」
夢を見るんだ。
それこそ夢見がちに呟いたヒューの言葉に、マルゥはいよいよ首を傾げた。
「ヒュー。カークみたいなコト言ってる」
「夢、か」
言われてヒューは頬を歪ませて笑った。
……そういやアイツも夢がどうのこうの言っていたな。
「夢遊病?伝染性だったらどうしよ」
アタシにもうつるかな。
思わず鳥肌の立った二の腕をごしごしと擦って、マルゥは身を払う仕草をした。
「その夢が何なのよ?」
「夢の中にはな。俺の小さい頃によく似た、聡明そうな少年が俺の知らない過去を体験してるんだよ」
P-C-Cで生まれ育ったという、茫洋とした自分の記憶とはまるで異なる、鮮烈な悲鳴。あちらが夢なのだとしたら、己の今まで生きてきた時間は一体何なのだ。
「……聡明、ねぇ」
「勇敢と言い換えてもいいぞ」
「はー」
ひらひら手の平を払う仕草で、少女は珍しく苦笑いを浮かべた。
「で。その聡明で勇敢なお坊ちゃまは、一体何を、夢の中でヤラかしてるワケ?」
「穴を掘っている」
「……ぅん?」
眉を八の字に寄せてマルゥは、
「穴って一体何の、」
「だから。そのクローゼットの中に入っているはずだった宝箱を、だ」
体験したことのない過去を体験している夢の中の少年の、手にしたものは覚えのある自分の箱だ。
「よくあるだろう。小さい頃に埋めておいて、成人した際に掘り返す、だとか。五つか六つのときに未来の自分に手紙を書いておいて、それが三十路を過ぎたときに配達されてくる、だとか」
多くは気恥ずかしい、青臭い、まだ何も世間と云うものを判っていなかった頃の、けれどだからこそ逆に純粋で真摯な思い出の詰まったガラクタたち。
「埋めたはずなんだ」
「……ヒューが?」
「いや。夢の中のソイツが、だ」
あれは夢だ。けれど夢じゃない。
何一つ物的証拠はなかったが、それははっきりと確信だった。
夢のはずが無い。
「夢の中の話でしょう……?」
「夢の中の話だぞ。でも夢じゃないんだ。ソイツはきっと、ここいらにその箱を埋めたはずなんだ」
少年の手には余る大きなスコップを抱えて。一、二時間どころか半日がかりで彼は深い深い穴を掘った。
他の誰にも内緒だと、年上の友が得意顔で笑った。
雪が降っていた。
今のヒューと同じように、息を弾ませた少年の吐息が白く天に昇ってゆく。かじかんだ紅葉のように赤い手を、すり寄せて暖を取る。そのぬくもりは直ぐに、空から舞い落ちる白いつぶてに吸われ奪われてしまう。
爪先が痺れていた。
「……家に帰ったらホット・ミルクを飲もうとか。暖炉前でブランケットに包まって、夕ご飯ができるまで寝ちまおうとか」
深い深い、穴を掘って、
「そんなことを思いながらソイツは」
がちん。
話しながら差し込んだスコップの先が、確かに何かを捕らえて冷たい金属音を響かせた。硬質の感触にヒューがぎょっとし、動きが止まる。
「あ」
期待と不安に、マルゥが身を乗り出していた。見やったヒューは、おそらく自分も同じように引き攣っているのだろうと思った。
「宝箱のおでましだ」
続いて素手で泥土を払う。湿り気を帯びた木箱の感触が伝わる。
「夢の中の話と……なんでシンクロしてるんだろ」
夢中で土を払いのけるヒューを見て、マルゥが不思議そうに呟いた。
「だってヒューは」
P-C-Cで生まれたんでしょう?
声を背中で聞きながら、無言でヒューは箱を取り上げた。小さい頃に埋めた木箱は、成長した手と反比例して、小さく映る。こんなにも、小さなものだったのか。一抱えあったように感じたあの頃の少年が、如何に幼かったのか、彼は改めて認識した。
箱には不釣合いなほどに大きな南京錠。
長い間に錆付いたそれは、例えここに開錠の鍵があったとしても、錆付いて回りそうにもない。
尻ポケットに差し込んであった小さなエネルギー・エア・ガンを引き抜くと、彼はそれを無造作に、赤茶色に変色した南京錠へとあてがい、引き金を引く。
びしと小さくくぐもった音が響いて、引き千切られた錠前がぱくりと口を開けた。
「なんか……パンドラの箱ってカンジねぇ」
神が。この世の悪いものを全て詰め込んだ開かずの箱。
好奇心と云う誘惑に負けた女が、その箱の蓋を開いた。
以前どこかで呼んだ文章が、マルゥの言葉を聞いてふと、ヒューにもまた蘇る。
あけてはいけない。
決してあけてはいけない。
けれども女は好奇心には勝てなかった。
「この世の悪いものが全て箱の中から逃げ出してしまったあとに、」
箱の底にはたった一つ、希望が残っている。
箱の中には、宝物が眠っていた。それが、ただのガラクタや使い古した布の固まりだったとしても。
自分にとっては大切な大切な宝物。
小さな頃に拙い手で組み立てた木製キット。
見よう見真似で刺繍した小さな袋。
道端で拾った色の付いた小石。
きっと自分以外の誰かが見たら、ゴミにしか見えない。けれど記憶のこもったガラクタたちばかり。
箱の中身をすぐさま覗こうとした。
けれど、覗いてしまったらそれで最後のような気もした。
僅かな逡巡を打ち払って、ヒューは気合をこめてえい、とその蓋を開く。
きおく。
……記憶が。
記憶が激情の奔流となって、彼に向かって迸り出てくる。襲い掛かり、飲み込まれる。強い眩暈を感じて、ヒューは思わず目を閉じた。
「あっ。流れた……!」
つうつうと連続で流れ出した星に、気付いて思わず眼を奪われたマルゥは、だから開いた瞬間の箱の中身を見なかった。
だから。
箱の底には、様々なガラクタに埋もれるようにして、一枚の写真があった。
黄ばみ折れ曲がった写真だ。
所々湿気に負けたか黴が生え、破れかけている写真だ。
少年の家族写真だ。
少年と、父と。
そうして彼の傍らで、
ヒューと同じ。日焼けした藁色の髪と鳶色の瞳を持った幼い少年が、慣れない記念撮影に、緊張し笑顔を強張らせたすぐ傍らで、
どこか困ったようにほんの微かに笑んでいる黒いガラス玉の瞳の
まるで人形のように精巧な
「……カ」
カーク。
私とあなたは、きっと無限の隔たりが、眼に見えない壁が存在して、決して深いところでは交じり合うことはない。
私は、私自身以外の何者でもないし、
あなたは、私ではない、あなただけの存在だ。
私はそれを判っている。
私が腕を伸ばして、あなたのそのあたたかな手の平に触れてみても、本音の本音の部分で、心底判りあえたと言うような状況は、絶対に訪れるはずはないのだ。
それは、私がまがいものだとか、あなたが実際生きているからとかそういう問題ではなくて、
魂の本質が違うのだから仕方ない。
あなたはとても高潔で、綺麗だ。
私にはとても真似の出来ない、そんな色をしている。
あなたは、私のことを時折優しいと言う。
けれど、それはきっと私が優しいのではなく、あなた自身の優しさを私が映し出しているに過ぎないのだ。
私はそれを判っている。
私は鏡のようなものだ。
あなたは私に時折触れようとする。とても近い距離に思える。
けれど、私とあなたの皮膚と皮膚のミクロ単位の僅かな空間、そこには虚空ほどの世界が存在していて、
それはおそらくどんなに血肉を食い破っても埋まることの出来ない隔たりなのだ。
あなたは、私を絡め取って放さない。
いつかその手が振りほどかれ、
憎悪のこもった罵声を浴び、
信頼が最大限に砕け散る、そんな日が来ることを私は知っている。
あなたは私を許さないだろう。
でも今あなたは笑っている。
羨ましくなるほどに、実に楽しそうな笑い声を立てる。
ああ。人間とは、こんなに楽しそうに笑えるものなのだな。
私は憧憬をこめてあなたを見つめている。
あなたは笑っている。
笑っているあなたを見て、如何に複雑な世界が裏に待ち構えていようと、欺瞞に満ちた粉飾の日常にまみれてしまっていようと、もうそんなことはどうでも良くなってしまって、笑っているあなただけで良いな、などと思ったりもする。
けれど。
私はそんな虚飾に彩られた日々に、終わりが来ることを知っている。
――私の犯した過去を知っても、あなたは笑ってくれるのだろうか。
最終更新:2011年07月28日 08:11