ロワジィの生まれ育った集落に名前はなかった。住んでいたものはみな、ここ、と呼んでいたし、それで不便はなかったのだ。
それは彼女が育った地域が、特別変わったものというわけではなくて、大陸に星のように点在する戸数も三十に満たないような集落であれば、どこも似たようなものであるのだった。
名をつけるほど外部との接触がない。地図にも載らない。
血を混ぜるという意味での近隣の集落との交流は勿論あるが、それ以外の住民の人生の一連が、ほぼ内部で完結してしまえるのである。
とくに女子供のほとんどは、生まれてから死ぬまで、町、というものを目にしない。話に聞くだけだ。
町へゆくのも、種として出されるのも、男たちだった。
自給自足で生活のほとんどを賄っているとはいえ、それでもどうしたって自力では入手できないものもある。例えば、製鉄の材料。それから縫い針。火打石。塩。それから外貨。
そうしたものを仕入れに、年に一度ほど、不定期に男たちは町へ降りて行った。
山肌にしがみつくようにしてあった集落は、日当たりも悪く、貧しかった。流しの行商人が足を運ぶのをためらうほど、つつましやかだったのだ。
それでも町へ降りてゆくときは、荷車に獣の皮や干した山草を山と積んで、男たちは出かけて行き、そうして町のものを手に入れて戻った。
ロワジィの集落から一番近い町までは、馬を引いておよそ十日の距離がある。
町の名前は、ハーラン。彼女が山を下りはじめて触れた「異界」だった。
そのハーランの通りを歩いている。
このあたりでは一番に大きい町というだけあって、鍛冶と製鉄の組合所(ギルド)も置かれていた。どちらも鉄が関わっているのは、付近の山で良質の鉄鉱石が産出されるからだ。
鉄工の工房は煙突が高い。その空ににょきにょき伸びた煙突を眺めながら、ロワジィはギィと、相変わらず付きまとう小男イーヴを伴って、今夜の宿に向かっていた。
町並みを眺めていると、感慨がわいて起こる。
あのころはまだ、二十歳になるかならないかの頃だった。
家族を殺された怒りに任せて村を飛び出し、右も左も判らない田舎娘の、今まで生きてきた常識をあっさりくつがえし、新しい認識を叩き込んでくれたのがこの町だった。
人は疑ってかかれ。
無償ほど高いものはない。
騙すほうではなく、騙されるほうが悪い。
だいぶんたった今は、もうそれが良いも悪いもない。生きているうちに価値観は変わるものだと知ったし、ただ、ああそう言うことが昔あったなというだけのことだ。
若かった。ひと言で言い表すとすればそれなのだろう。
「懐かしい?」
彼女の嬉しいでもない悲しいでもない、まさに複雑としか言えない顔をちらと盗み見たらしいモグラが不意に口を開いた。
「うん、……、……どうかな」
「久しぶりの故郷なんだろ。もっと嬉しい顔しろよ」
「久しぶりすぎて十五年よ。……帰り道忘れちゃってたら笑えるわね」
「怖い。十五年とか超怖い。あんたが出て行った年に生まれた子供が、その歳月で俺好みの天使ちゃんに成長しちゃうとか。光陰矢の如し怖い」
「……そうよねぇ」
おどけてからかう小男にむっとすることなくロワジィは返した。複雑な思いを抱えて町を眺めていた彼女に気づき、小男なりに盛り上げようとしてくれたらしいことは判るからだ。
認めたくないが、五年も付きまとわれればそのあたりは覚える。
認めたくないが。
すこし先を歩く形だったギィが、歩を緩めて彼女の隣に並んだ。そっと肩を寄せられ、
「飯」
「うん、?」
「先に飯食うか」
たずねられ、ロワジィは思わず笑いだした。男と言い、モグラと言い、集落に近づくにつれ、だんだんと沈み込みがちになる自分を気遣ってくれるのは判るが、いかんせんその気遣い方が下手すぎる。気持ちは大変にありがたいけれど、せめてもう少し、さりげなく心配されたい。
笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭いながら、
「ありがとうね」
二人に向けて彼女は言った。
「心配してくれる相手がいるって幸せなことだよね」
「なに、いきなり。心配とか、とか、俺がするわけねぇだろ。妄想過多な年増気持ち悪い」
「お腹すいちゃった。先にご飯食べに行こう」
小男の悪言は流し、おのれを見下ろす男へ彼女は顔を向ける。……ロワジィ。伺うような男の視線に、大丈夫よ、彼女はちいさく笑ってかえし、男の手を握った。
「あんたがいるもの」
「ロワジィ、」
「おいしいもの食べに行こう」
「いいね、行こう行こう。あんたのおごりで食いに行こう」
「あんたは誘ってない」
ちゃっかり便乗しようとする小男へ、じろりと睨みを利かせたところへ、
「あ。おじさんー」
不意にやや離れたあたりからまるで知らない声が上がって、ロワジィと、彼女を見ていた男と、そうしてモグラの視線が声の側へ向けられた。
向けながら、可愛い声だなと思った。
それもそのはずで、声をかけてきたのは、道外れに固まっていた少女たちだ。
ひざ丈より相当短いスカートが若さを表している。丈は短いのにいやらしさがない。むき出しの手足がまぶしいと思う。
「あ、ほんとだ、おじさんだー」
「わあ、おじさん久しぶり」
「わあーおじさんー。ご無沙汰ぁ」
邪気なくにこにこと笑い、少女たちはこちらへ手を振り近づいてくる。
……おじさんって。
少女たちの視線を辿り、そうして今度は隣へ向けたロワジィは、そこに見たことのない小柄な中年男が立っていて、本気で二度見どころか三度見した。
そこには大変にいいひとそうな人間が、襟を正し、さわやかな笑みを浮かべていたからだ。
「やあ、みんな。二年ぶりかな」
声までやさしい。
こんな小男は知らない。
とりあえず、五年行動を共にした、卑屈で貧相で狡猾なモグラは今はどこにもいない。ギィも驚いたようで、軽く目を見張って小男を眺めている。
「きれいな巻き毛だねエマちゃん。膚が透き通るように白くなったねアリスちゃん。食べちゃいたいくらいサクランボのような唇だねリラちゃん。焼きたてのパンのようなほっぺただねルイーズちゃん……、」
――あ、中身は一緒でした。
清らかに見える聖人が、言っていることは相変わらず少女たちへの賛美だったので、ロワジィは、モグラへの認識を元に戻してドン引いた。
どうやら、小男が常連で通う店の女たちのようである。しかし言葉通りに二年ぶりだというのなら、一度か二度枕を共にしただけの相手の名前を、どうしてそうも正確に覚えているのか。
もう偏執じみて怖いと思うロワジィだ。
まだ正午になるかならないかで、だったから、少女たちは仕事で通りをぶらついているのではなく、そぞろ歩いてでもいるらしい。
「ねぇねぇおじさん、今日はこの町に泊まるの?」
「わたしに会いに来てくれたんでしょ?」
「わたしのところに来てね」
「だめ、わたしのところ」
少女たちは小男を囲み、腕にすがり、身を寄せ、彼を見上げて口々におねだりを口にする。でれでれと聖人から崩れた小男は、まんざらでもないらしく、どうしようかなぁ、おじさん人気者でまいっちゃうなぁ、だとか呟いている。
正直に言って気持ち悪い。
「おじさん、いまからどこに行くの?」
「うん?おじさん?おじさんはね、いまからお友達とご飯食べに行くんだよ」
少女のひとりがたずねると、その彼女の肩へ手を伸ばして引き寄せながら小男はこたえる。
「いいなぁ、わたしもお腹空いた」
「あ、わたしもー!」
「おじさーん、お腹空いたー」
一人が声を上げると、次々に少女たちは小男へ甘くおねだりを便乗しはじめる。成人の女が同じことをすれば、それは目に余る媚となって映るのだろうが、きゃあきゃあ騒ぎ立てる少女たちは、上に見積もってもおそらく十五、六というところで、媚を売るというよりは、巣に戻った親鳥に餌を乞う雛のようで、邪気なく微笑ましい。
娼婦であるのだから、その無邪気さすら手練手管ではあるとは思うものの。
「よーしおじさんみんなにご馳走しちゃうぞぉ!みんなで、おいしいものお腹いっぱい食べに行っちゃおうねぇぇ」
「わぁ、おじさーん」
「やったあ、おじさん!」
「ありがとうおじさんー」
「いいの?おじさん、わたしたちみんな行って大丈夫?」
「いいのいいの!可愛い子はそんなこと気にしなくていいの!おじさん、お金たくさんあるから!大丈夫!……おら、あんたらも奢ってやるから来い」
両手に花、の状態で完全に鼻の下が伸びたモグラは、蚊帳の外から見ていたロワジィと男にも声をかける。奢るとか言っている。先ほど集(たか)ろうとしていた人間とは思えない言動だ。
――このおじさん、ちょろいな。
思わずそんな言葉が頭に浮かんでしまったロワジィだ。
場の流れでそのまま飯屋にいる。
ロワジィとギィ、それに小男イーヴと娼婦の少女十人がなだれ込んだので、そう広くない店内はほぼ貸し切り状態だ。
さすがに大所帯であったのと、小男のだらしなく蕩けた態を延々と見続けるのもアレだったので、ロワジィは男と入店前にそっとその一群から離れようとしたのだが、
「どこ行くんだよ遠慮すんな水くせぇ」
目ざとく小男に見つけられて、そんなように言われる。
結局一緒に昼飯を食うことになった。
少女たちは食欲旺盛だ。
そこにはもちろん自分の懐が痛まないのなら、頼めるだけ頼んでしまおう、という便乗的な考えもあるのだろうが、それでも若い者の食いっぷりは見ていて気持ちがいい。無理やり詰め込んでいるのではなく、純粋に腹が空いているから食べる、それだけの動きだ。
よく食う人間がロワジィは好きだ。こちらまで食欲がわいてくる。
そういえば男も普段からよく食うなとふと思った。
遠慮なしになんでも頼め。太っ腹なところを少女たちに見せたい小男のお言葉に甘えて、ロワジィもギィも、腹帯をゆるめてしこたま飲み食いした。
ひとしきり腹に納めたあとは、飲めや歌えやの宴会場と化している。いつの間にか稼ぎどきとばかり、流しの歌うたいも二人ほど乱入していたし、浮かれ騒ぎを聞きつけて、町のお調子者まで参戦していた。
もう誰が店の人間で、誰がちゃっかり相伴に預かっているものなのやら、判別のつかないごちゃまぜっぷりだ。
飯屋の主人も、
「これ、前払いね」
言ってモグラが過分なほどの前金を手渡してあるので、カウンターの奥で煙草を片手に勝手にしてくれの構えであった。
それとなく娘たちに話を聞いてみると、小男は町へ寄るたび、こうして湯水のようにばらまきながら娼館を渡り歩くらしい。
「……おじさん、ほんっとにカモね……」
わりと実入りがいい仕事を選んでいるらしいのに、いつも金がない金がないとモグラがボヤいている理由が、なんとなく判ってしまった。
阿呆だな、という感想しかないが。
本望なのだろうから、同情はしない。
宴の中心の小男と、四、五人の可愛い子ちゃんを眺めるかたちで、壁際に移動しながらロワジィは酒を飲んでいる。もうここまでどんちゃん騒ぎになっていると、遠慮もへったくれもないなと思う。
だが、おかげで生まれた集落へ向かう憂鬱はだいぶ発散した気がする。故意なのか、たまたまなのかはよく判らないけれど、ありがたいと思った。
「おねぇさんもこっちで飲もうよぉ」
近くで四人ほどで盛り上がっている娘たちに、ロワジィと男は声をかけられる。
「うん」
断る理由もないので、気を引かれて彼女は輪に加わった。娘たちはさざめきながら、彼女の分の席を空けてくれる。
「ほらほら、おにぃさんも」
「いや、いい、俺は」
「遠慮したらだめだよー?」
続いて彼女らは男の手を引いて輪に誘った。遠慮というよりは、どう接していいのか判らなくてお手上げ状態の男へ、ほらほら、強引に見えない強引さで彼女たちは男を立たせて連れてくる。このあたりは商売柄だろう。
眺めながら、ギィは「お兄さん」枠なのだなとロワジィはふと気づいておかしくなった。
「ねぇねぇ。おにぃさん。お名前なんて言うの?」
「や、その、」
「名前ー」
「ギ、ギィ」
男のうろたえっぷりが面白いらしく、数人から突かれている。見ていて面白かったので、ロワジィは助け舟を出さずにしばらく眺めていることにした。
「おにぃさん、いくつ?」
「に、28あたり」
「おにぃさん、すごくおっきいねぇ」
「肩の筋肉すごいねぇえ」
「おにぃさんお仕事何してるのー」
「いや、その、ちょっと、あの、触、触ら、」
型や背や腹を突かれたり摩られたりして、男は腰が引けている。若干涙目だ。それを横目で眺めながら、
「余計なおせっかいだって判ってるんだけど」
ロワジィは側にいた娘のひとりに話しかける。
「うんー?なぁに」
「あいつ、その、……、……大丈夫?あんたたちに迷惑かけてたりしないかな」
迷惑をかけていたところで、彼女たちは春を売る商売娘であり、金を払っているのはモグラで、ロワジィには彼の行動をどうする権限もないのだが、それでもやはり気になるものは気になるのだ。
媚薬も持っていたことだし。
「迷惑」
「うーん。なんて言うの?あの性格でしょう?非道いこととか、してないかな、とか、……、」
「ひどい」
しばらくロワジィの言葉を口の中でくり返していた娘が首をひねる。
「んー。おじさん、すごい親切だよ?」
「えっ」
ものすごい言葉を聞いた気がする。ロワジィは本日二回目の二度見をした。
「え?親切?え?誰が?」
「おじさん。一緒のお布団で寝るだけなんだよぉ。やさしいよ」
「……布団で寝るって言うのは、……、」
「んーん。ちがうの。本当に寝るだけなの。手を握ったり、くっついたりはするけど、それだけ」
彼女たちの商売上の「寝る」意味なのかとロワジィが言葉を濁してたずねると、娘は首を振ってこたえる。
「そうそう」
ギィを弄り飽きたらしい娘たちが、彼女たちの会話を聞きつけてこちらに移動してきて首を突っ込んでくる。男はどうなったかとひょいと視線をやると、完全に石になって固まっていた。頭の回線が焼き切れたらしい。
「なにもしてこないし。わたしたち寝られるし、すごく助かる」
「あたしら、店にいる、他の姐さん方にくらべると若いでしょー。だから、結構、無茶苦茶やって来る客なんかもいるんだよね」
「叩いたり蹴ったりとかさ」
「アザになるの」
「おかしなもの突っ込んだりとか」
「上には言わないだろうって」
「もし告げ口したら、あることないこと言いふらしてやるぞ、って。そうしたら客が離れていくぞ、って脅したりするの」
「……そう、」
娘たちの口々の告白に、曖昧な笑みを浮かべながらロワジィは目を伏せた。彼女たちの身上に同情するのは間違っている。同情で腹は膨れない。けれどあっけらかんとして語る分、辛いものもある。
「でもね、おじさん、そういうの、ないの」
「やさしいもん」
「同伴で外に連れて行ったりもしてくれるし、おいしいものご馳走してくれるし、お金あったら、あるだけ、わたしたち買い上げてくれて」
「それで何もしなくて朝まで寝られるとか、ほんとおじさん最高!だいすき!」
「ねー!だいすき!」
「……、」
勝手に盛り上がる娘たちの中で、ロワジィはもう一度無言になる。
話を聞いてただ辛くなるロワジィと違って、意図がどうであろうと、実際に金を払い、娘たちの自由を期限付きで買ってやるモグラは、理屈で考えれば「いいこと」をしているのだろうし、それは行動にうつしているだけ立派な行いなのだろう。判る。判るが、四十過ぎのいい年した男が、まだ月のものが来ているか来ていないかすれすれの少女たちに囲まれて、ただだらしなく膝枕やら胸枕やらに埋まり、体を重ねることもなく同じ布団で手をつないで寝るだけで満足している、というのも、よくよく考えるとやはり気持ち悪い。申し訳ないが気持ち悪い。
「なんども聞いたんだよぉ。しないのー?って」
「遠慮してるんじゃないのって最初は思ったんだけど」
「でも、しなくていいんだって。見てるだけで満足なんだって言って」
「へぇ……、……おじさん、勃起(た)たないのかしらね……、」
まぁ若くはないしね。
思わずロワジィは呟いてしまった。媚薬とか持ってるのに。
それともあれだろうか。精神的な満足で快感を得られるだとかのレヴェルの高いプレイなのだろうか。あまり考えたくはないが。
「違うの」
そのロワジィの呟きを拾い上げて、娘のひとりが、首を振った。
「ここだけの話、なんかね、ものすごい片思いしてるんだって」
「……え」
「胸に秘めた?片思いなんだってー。おじさん純情だよねぇ」
「え、申し訳ないけど、あいつが、片思い?え、こわい」
少女たちを天使ちゃんと呼んで、崇拝に近い言動を繰り返している普段の姿も相当いかがなものかと思うが、あの口を開けばひねくれた悪口しか出てこない小男が、純愛。それはもっと怖い。
「あのねー。お布団で一緒に寝るだけだと、時間が結構余るでしょー?だからおじさん、たくさんお話してくれるの」
「おじさん、すごい物知りなの」
「いろんなところのお話たくさん知ってるの」
「へぇ、」
「魔法のナイフの話とかしてくれるんだよぉ」
以前にモグラが主に請ける仕事を聞かされたことがある。ひどく偏ったコレクターからの依頼を選ぶのだと言っていた。
……そう言えば、刃物マニアだとか言ってたかな。ふと彼女は思いだす。
「なんかねぇ、前にその流れで、どういう訳かおじさんの恋愛話になったんだよねぇ」
「ものすごーく気が強い女のひとだったんだって」
「ひとめぼれだったんだって」
「でも最初っから喧嘩ばっかりで、全然その女のひととお話しできなかったんだって」
「へぇ、」
本人からはけっして聞けないような内部漏洩に、思わずロワジィは身を乗り出した。
あの顔で、純愛。ちょっと気になる。
「髪の色がとってもきれいだったんだって」
「目が大きくて、睫毛が長いんだって」
「へぇ、」
いったいどんな女性だったのだろう。彼が真面目に恋心を募らせる姿が全く想像できない。
「叶ったのかしらね」
彼女がたずねると娘たちは首を振った。
「なんかねぇ、それが、ダメだったんだって」
「駄目だった、……、」
「そう。自分でも好きだってわからなくって、それで、気づいたときには失恋しちゃってたんだって」
「だから、その女のひとには告白してないんだって。見てるだけだったんだって。おじさん、乙女だよね」
「ずっと胸に秘めた恋とか、おじさんせつないー」
「へぇ、」
飄々として、ギィになかなか素直になれない彼女をドヤしつけて、焚きつけて、ひとのことにはかまける癖に、自身のことになると、てんで臆病で慎重で機微に疎くなるらしい。
「まぁ、らしいっちゃあ、らしいか」
納得はできる。
あの性格なのだから、きっとこれからもその惚れたという女性には、本心を隠して接するのだろうなと思った。
「でもそれって純愛なのかな……、」
単に拗らせているだけのようにも思えてきたロワジィだ。
「ねぇねぇなに?こっちはなにで盛り上がってるの?」
そんなことをぼんやり思っていると、くだんのモグラがジョッキ片手にやってきて、少女たちにしなだれかかる。噂をすれば影、であった。
「おじさんの恋愛話」
「え、?」
「おじさんの恋愛話」
「え?……、は?俺?」
ロワジィがこたえると、ぎょっとなったモグラが、膝枕から跳ね起きる。
一気に酔いが醒めたらしい。
「そう。ここだけの話、おじさんがある女のひとに片思いしてたんですって」
「え、え、え、」
「純愛なんですって」
「は?なんで?なんでそんな話になってんの?っていうかどこ?どこまであんた聞いたの?」
取り乱し方が尋常でない。わりと目が血走っている気がして、迫られたロワジィは顎を引いた。
「どこまでって……、……。片思いしてて、そのまま言えなかったってところまで」
「ぎゃああああああまじか!まじか!忘れろ!」
聞いたそのまま伝えると、いきなり頭を抱えてモグラは七転八倒している。急変ぶりに、彼女までぎょっとなった。
語らない自分の過去というものは、たしかに気恥ずかしかったり、知られたくないものだったりするけれど、こんな大仰に、騒ぐほどたいしたことだろうか。転げていた小男は、今度は唐突に起き上がり、ロワジィの肩を掴むと、前後にがくがくと揺さぶりはじめる。
「聞かなかったことにしろ!な!」
「いや、そんなこと、言われても、」
揺さぶられて目を白黒させながら、小男のあまりの剣幕に戸惑うロワジィだ。酔っぱらって感情の加減を忘れているのだろうか。
たしかにお互い弱みを見せたくない関係ではあるけれど、そこまで厭なものなのか。
「え、だって、もう終わったことなんじゃないの?……っていうか、ちょっと、放して」
前後に振られ続けて頭の中身が偏りそうだ。いい加減やめなさいよ、ロワジィがモグラを止めようとしたところへ、
ぬ。
としか形容しがたい動作で、いつの間にか復活していたギィが割込み、彼女の肩に置かれた小男の手を掴んだ。
「え」
「え」
ロワジィとモグラの声が重なる。
怖い顔をしていると思った。
「――外に出ろ」
短い言葉で男は言った。その声に小男の顔が引き攣る。
「え、ちょ、ちょっと、ギィさん?……ねぇ?ギィさん?」
「……ギィ?」
小男がいきなり半狂乱になる意味も、男が不機嫌になる意味もさっぱり判らないロワジィは、すこし焦って後ろから男の名前を呼んだ。
「どうしたの?」
「――シメてくる」
「え?」
聞き返す。冗談かと思ったが男は大真面目な顔つきである。
「え、シメるって、どういう……、」
「大丈夫、すこし、二人で話するだけ」
「うわ、やめろって、掴まないでって、うわうわうわ、いやああ!やーめーてー」
「外に出ろ」
ぽかーんとなっているロワジィを尻目に、相手の襟首をつかみ、荒々しく引き立てて、男は泣きわめくモグラと一緒に店を出て行った。
「…………ええぇー……」
呆気にとられたまま思わずロワジィは二人を見送ってしまう。その背後で、あー、と察しの良い少女たちが、店の出入り口と彼女を見くらべて、なにやら頷いていた。
ハーランの午後はのどかである。
(20180805)