「――なあなあ。あれ、やっていかない?」
言われてロワジィは自然に指さされた側へ目をやった。
「なに、……?」
商業都市トルグの大通りでの話だ。
夏季に催される大祭の期間真っ最中で、路地はどこも人、人、人の波だった。
ロワジィは人混みが苦手だ。そこそこの町の規模ならそうでもないが、万単位で人間が動く黒々とした頭――大陸の多くの人間は体毛が黒であるので――を見ていると、人酔いする。
これはもう育ちなのだと諦めている。
田舎生まれの田舎育ちだ。人慣れしてなくてもしようがない。
隣を歩いていたギィが、わりと平気な素振りで歩いているのが意外だった。ロワジィの知っていた以前は、彼女と同じようにトルグの大通りを歩いただけで、げっそりしていたはずだった。
聞くと、慣れた、とこたえが返ってくる。
慣れるものらしい。
それもそうかとも思う。なにしろ男は五年この町で暮らしているのだ。
それから、小憎らしいほどけろりとしている小男。この男は雑踏であるとかごちゃごちゃとした町並みに溶けていると彼女は思う。慣れている、というより馴染んでいるのだ。
――これも育ちかな。
そう思った。
小男イーヴが指し示した路上には、大きな天幕が張られており、その下に簡易のテーブルが用意されている。
祭りを散策しているものが足を止め、そのテーブルの上にかがみ込んで、何やら思案しているのが見えた。
なにか書きしたためているものらしい。
「あれなに」
「お星さまにお願いごと」
「え」
「お願いごとを紙に書いて、それをお祭りの飾るとお空のお星さまがお願いごとを叶えてくれるんですって」
夢見がちと対極にありそうな小男から耳を疑う台詞を吐かれ、ロワジィは文字通り彼を二度見した。
「……んだよ」
「あの、……、大丈夫?暑さで頭に虫湧いてない?」
「湧いてねぇ」
わりと本気で心配すると、顔をしかめられてしまった。
「あのさぁ。俺ら、祭りに来てんじゃん?来てるのに、楽しまないって手はねぇだろ」
「……ああ、いや、うん、……、それはそう、だよね。うん、そう、なんだけど」
「なんぞその煮え切らない返事」
「いや、……だって。……星に願うだとか、どう考えたって鼻で笑って莫迦にするタイプでしょうあんた」
遠慮しながらつい本音を漏らすと、小男が心外な顔をする。
「誤解。それ超誤解。俺の人間性を著しく否定するような発言は、俺が傷つくからやめてくれない」
言いながら、なぁ頼むから深読みしろよ、言ってモグラが舌打ちした。
「深読みって、」
「だから、文字通り、深読みして?……、……あのな。花も葉も枯れたあんたみたいなのと違って、俺が愛してやまない可愛い天使ちゃんたちは、夢見るお年頃でしょ。信じていれば願いごとはきっと叶う、とか、あの宝石みたいな大きなお目目輝かせて、言っちゃえる若さあるでしょ」
「悪かったわね根までとっくに枯れてて」
「だからさ。気付けよ。俺がマジに星に願いごとすると思うか?点数稼ぎに決まってんだろ」
「点数稼ぎ、」
「ここで天使ちゃんたちがきれいなお嫁さんになれますように、とか俺の優しさを事前に仕込んでおくだろ。でもって、あとから同伴でここにデートに来るだろ。んで、そのお願い見つけたら、メロメロでしょ。天使ちゃんたち俺にメロメロしちゃうでしょ」
「はあ、」
呆れた声しか出ない。とりあえず力説する小男から少し距離をとって眺めることにする。
ったく、本当にでかいやつって言うのは頭が回らねぇな、とどめに嫌味を放ってよこして、モグラはさっさとその願いごとを書くテーブルに向かってしまった。
その後ろ姿をなんとなく見送ってしまったロワジィだ。
しばらくぼんやりとしていると、書いてみるか、控えめがちな声が上から降ってきた。
「え、?」
振り仰ぐと、ギィが彼女を見ている。
「願いごと」
「あたし?」
「そう。叶うかもしれない」
頷く男の顔を眺め、
「うーん」
ロワジィは唸った。
どうも願いごとを書いているのは、だいたいが若い男女か家族ものだ。
――あたしが交じって、年甲斐もないだとか笑われないかしら。
やめておくとも言いかけたが、ふと先だっての、祭りに来たのだから楽しまない手はない、という小男のいい加減な主張を思い出した。
ここで水を差すというのも、それこそ可愛げがない。読み通り、「お祭り気分」で郷に従って冷やかしてもいいかという気になった。
「やる」
頷く。
近づいて、テーブルの上にあった細長く切った紙を一枚手にした。みな、紙を手にしている。どう書くのかなと裏表を返しながら周囲を見ていると、
「これで」
男から糸を巻いた黒鉛を渡され、
「ここに願いごとをひとつ書く」
紙の真ん中を示される。書いて係の者に渡すと、大祭の飾りに一緒に吊り下げてくれるようだ。
「あんた、書いたことあるの」
知っているふうの男に彼女が聞くと、ある、と男は頷く。
「組合の付き合いで、毎年書く」
「へぇ。……なんて書いたの?」
「――それは、」
たずねると男は一瞬うろたえて口を噤んだ。
今の質問にうろたえる要素があるだろうか。首を傾げながら、それ以上は突っ込まずに、ロワジィは大人しく手元の紙へ目を落とす。
「……願いごと、ねぇ、」
あらためて問われると、いったい何を願ったものか、さっぱり思いつかない。周囲の家族連れを眺めてみると、まだ字の書けない兄弟が、母親にねだっておのれの願いを書いてもらっている。
おおきくなったら、そらをとべますように、だとか、さかなになりたい、だとか。微笑ましくて、つい顔が緩む。
とはいえ、
「うーん」
さすがにいい年行った自分が、空を飛びたいと書くわけにはいかないだろうし、
「願いごとねー……」
虚空を睨んで悩んでしまう。
生活していて望みがないわけではない。
けれどそれは、たとえば金が欲しいだとか、雨漏りする外套を新調したいだとか、そうした具体的で夢のない望みばかりで、星に願うにふさわしい願いごとだとは思えない。
「うわ遅っせぇ。まだ書いてないの」
先にテーブルについていたモグラが、悩んでいるロワジィを目ざとく見つけてにやにや近寄ってくる。
手には十枚ほどの紙が握られており、
「え、ちょっとあんた、なにそんなに書いたの」
「見る?」
得意げに広げられて、いったい何を書いたのかを、彼女は目を走らせた。
「……エミリーちゃんがお姫さまになれますように、ララちゃんがお姫さまになれますように、アリエルちゃんがお姫さまになれますように、ティナちゃんが、ああもういいわ」
思わず声に出して読んでしまって後悔する。
「人数分あるわけね」
「素敵な願いだろ」
「読むだけ無駄だった」
心底げんなりする。
言いながら、しかし、こうして商売娘の気を惹く努力のこまめさだけは、感心すると思った。
「これ吊ったら、飯食いに行こうぜ。あんたもさっさと書いちまえよ」
そのうえ偉そうに指図される。祭りを楽しんでいるのはその通りだが、別にモグラと楽しみたい気持ちはロワジィにはさらさらなかったので、行くならひとりで行けばいいのに。つい思ってしまった。
言えば百返ってくるので、口には出さないが。
結局うんうんと頭をひねり、彼女が記したのは、毎日を健康に暮らせますように、だとか言う、ざっくりとありきたりな願いだった。
「聞いてもいい、」
願いごとを飾り付けて、再び並んで歩き始めた隣の男へ、ロワジィはふと思い出して口を開く。
「うん、?」
「どうでもいい好奇心なだけなんだけど、さっき、なんか、妙に慌ててたから。……願いごとをなんて書いたの?」
「いや、」
聞くと、男は気まずそうにがりがりと頭を掻いて、笑われると思う、と言った。
「笑わないから。教えて」
「――だが、」
「約束する」
小指を立て、男の指に絡ませる。しばらく逡巡していた男が、やがて、実はもう叶った、小さな声で呟いた。
「――え?」
「あんたに会いたいと、書いた」
「え、」
「叶うとは思わなかったが」
「……、」
握った指へ、ぎゅ、とすこし力をこめて男は言った。聞かされたロワジィが逆にうろたえてしまう。
「会えてよかった」
しみじみと呟かれ、思わず赤面し、そうしてロワジィは片手で顔を押さえながら、人込みの中を、男に手を引かれながら、歩いた。
(20180712)