後ろも顧みずに、がむしゃらに飛び出してから、思えばもうずいぶんと月日が経っている。
思い出はきれいに蘇るというけれど、ここに至るまでロワジィも、記憶にある「それ」と、実際存在する「それ」では、だいぶんな隔たりがあるのだろうなと覚悟していた。
そういうものだ。思い出はいつでも美しい。
それが、どういう具合なのか、彼女の記憶するそのままに残っていた。木の葉の鮮烈な緑の色も、迫るようにそびえる峰の形も、雨上がりにむっとにおいたつ藪のにおいも。木立を通る風すら、彼女の記憶と合致していて、夢を見ているようだった。
夢なのかもしれない。
かえって戸惑う。
ロワジィの帰郷の話だ。
村をぐるりと囲む柵。
その木柵の節目の模様。
町に行商に出た男どもが、そろそろ戻るという時分になると、入り口境界あたりに立って、今日かそれとも明日かと子供らは待ち続けていた。
持ち帰る町の土産がなにより楽しみだったのだ。
こないだは砂糖菓子だった。だから今度は、きれいな糸で刺繍された手巾にちがいない。
いや、きれいな刺繍とか、今回町へ降りたあいつのセンスならありえない。きっと乾物だと思う。
いやきっと飴玉だよ。子供は甘いものが一番好きだとか思ってるような奴だよ。
益体もない会話を暇つぶしに交わしながら、子供らは「村」と「外部」の境界線で大人を待っていた。
ここをくぐれるのは、大人だけだ。
行ってはいけないよと、きつく言い聞かす大人の目を盗んでこの先へ行くと、ろくなことにならないのを、子供らは知っていた。大人は脅しで言うのではない。危険だから言うのだ。
山の獣。入り組み、切り立った地形。
ロワジィがまだ三つか四つの頃、ひとりの少年が山に入った。普段から言うことを聞かずに大人が手を焼いている子供だった。居合わせた年長の子供が、行くなと止めたが、体も大きく天邪鬼の彼を止められなかった。
少年は帰ってこなかった。
食われたんだろうな、夜半まで山狩りをしていた父がぽつと言った。なにに、とまでは口にしなかったけれど、山犬か、熊か、猿か、とにかく村の子供の頭数からあっさり一人減ったことをロワジィは覚えている。
あの子には、上の言葉を受け入れる、生きる力が足りなかったんだな。ぼんやりとそんなことを思った。
山肌の集落は貧しい。
そうして生きる力がないものには厳しい。
大人を待っていた境界線、よく目にしていた節の形だった。すこし斜めから見ると、狸の顔のように見える部分があることを、ロワジィだけが知っている。
それがそのままここにある。
先に手紙は出しておいたので、外部のものが来たと呼子が鳴らされることはないと思うが、歓迎されるかどうかは判らないと思った。そもそも、ロワジィを見知っているものが、もういなくなっているかもしれない。
飛び出した時点で、半数以上、住民はやられていたからだ。
お前はどこのものだ。
なにをしに来たのだ。
そんなふうに言われるだろうか。
それとも、集落の態を維持できなくなって廃村になっているかも。
町へ下り、もうとっくに生まれた土地への執着はなくしてしまったと思っていたのに、実はずっと精神の奥深い場所に、郷愁は持続していたらしい。
そんなことに彼女は気がついた。
生まれたとはいえ、それほど幸せな出来事があった場所ではなかった。あの嵐のような襲撃がなければ、だいぶましではあったろうが、ふた親が早くに亡くなり、持ち回りで育てられて、長じて大人に混じって働くようになっても、どこかよそ者扱いだった。
赤い頭が目立っていたからだろう。今ではそう思う。
村人たちはみな地味な顔立ちで、黒い頭に黒目の、扁平な顔をしているものが多かった。ロワジィや、ロワジィの母のように、赤い頭に緑の目はその中で異様に目立つのだ。
閉鎖された村の中で、いくら打ち解けても混じらぬそれは、やはり特殊であったのだろう。
町に下って様々な頭の色、目の色があると知って、拍子抜けしたほどだ。
どちらにしろ、昔の話だ。
郷愁。男にもあるだろうか。
傍らを行く男に戯れにたずねてみると、難しく困った顔をして、首を傾げられた。
「俺は、生まれた場所自体知らないから」
そう言う。
「山小屋に戻りたいかと聞かれると、どうだろう」
「俺はあるよ俺はあるよ」
「あんたには聞いてない」
しゃしゃりでた小男イーヴにぴしりとやって、それからふと、彼に目をやる。
「……なんだよ」
「あんたにも、ふるさとってのが、あるのよねぇ」
当たり前の話なのに、行動を共にした年数に比べて、相手の事情をほとんどまったく知らない。小男がすすんで語ろうとしなかったのもあるし、ロワジィが聞こうとも思わなかったのもある。
言葉数に比べて、おのれの手の内を提示することに恐ろしいほど慎重なのだ。
「聞いたら教えてくれる、」
「いいよ。……どっちがいい?流民の幌馬車の中で生まれた話と、海に流されていた箱の中に捨てられていた話」
「それただの作り話じゃない」
「うふふ」
聞いて損をした。
話す気のない小男へため息をひとつ吐いたロワジィは、それからやけに背負う荷物が大きいことに気づいて眉を上げる。不本意ながら五年も一緒にいれば、相手の露営の荷物の量もだいたい覚えてしまうものだ。
それが、留め金が飛んでいきそうなほどぱんぱんに膨らんでいる。
「ねぇ」
「ん?なに?どっちの話にするか決まった?」
「そうじゃなくて。……、……なんで鞄そんなにはちきれそうになってんの」
「えー、秘密」
こたえる気がまるでない。
あきらめて前を向いた彼女の目に、村の広場でなにやら輪になり遊んでいる子供らが見えた。
入り口をくぐり柵の中にずかずか入ってきた三人を見て、子供らはさっと警戒の色を浮かべ、無言で固まる。
そこまで凶悪な顔はしていないと思いたいが、背格好を見ればそれもしようがないかとロワジィは思った。
なにしろ、図抜けて大きい赤い頭の女と、それよりさらに頭ひとつ分は大きい小山のようないかつい男が、肩を並べてやってきたのだ。
小男も含む。
しかもそれぞれ鉞(まさかり)や山刀や短弓を着けている。
ああこれは石でも投げられる流れかな、でも知らない人間がいきなり村に侵入したらやっぱり怖いよね、内心覚悟した彼女の脇から、小男が一歩進み出た。
「ほーらおチビちゃんたちー。おじさんあやしいものじゃないよー、いいおじさんだよー」
「ちょ、」
猫なで声でそろそろと近づき、手にはいつのまにか小さな袋を持っている。
「ほーらいい子には飴ちゃんあげようねぇえ。ビー玉みたいできれいな飴ちゃんだよー」
駄目でしょこれ。おじさんの行動にロワジィは引き攣った。
どう見ても胡散臭い。町中でやったら、人さらいで通報されそうだ。
こりゃ逃げるな、そう思った子供らは、一瞬まじろぎ、互いに顔を見合わせた。そうして予想に反してもう一度順繰りに三人を見比べ、それから彼らの中でも年長らしいひとりが、周りから押される形で一歩進み出る。
「……おじさんたち、よそのひと?」
「そうそう。よそのひと。おじさんはよそのひと。でも、こっちのねぇ、やたら大きいおねぇさんはねぇ、むかーし、すんごいむかーし、ここで生まれたの。みんなのお父さんお母さんはいるかな?」
「いる、けど……、」
「誰か大人のひと呼んでこれる?呼んできてくれるお手伝いしてくれた子には、おじさん飴ちゃん二個あげちゃうなぁ」
「呼んでくる」
外部から来た余所者、の警戒心より、目の前にぶら下げられた人参の魅力が勝ったらしい。聞いた数人が、ぱっと塊を抜けて、各戸に向かって駆けだした。
とりあえず、初動はうまくいったようだ。
唖然としてやりとりを眺めてしまったロワジィは、肘で小男を小突きながら、ねぇ、と小声で囁く。
「ん?なに?手際よくて惚れた?」
「うん。すごいね」
素直に頷き、ありがとう、続けて告げた彼女の言葉に、小男はなぜか若干赤くなって、そっぽを向いた。
なぜ赤くなるのかと不思議に思いながら眺めていると、まもなく子供らが散っていった家のひとつから、数人の子供の手に引かれるようにして、大人の男がひとりやって来る。
ロワジィは目をすがめて、その男の顔を見た。
見知った顔に思えたけれど、なにせ十五年経っている。
「――ロワジィ、」
だが相手は彼女と見止めると、訝しんでいた顔を不意に破顔させて、こちらへ向かってやってきた。
「ロワジィだろ。懐かしいなあ。俺だよ、ヨハンだ。あんたの報せは聞いていた。近々、ここに顔を出すって」
「ヨハン、」
丸々とした男に覚えはないが、声に聞き覚えがあると思った。ロワジィは頬を上げ、無理矢理微笑み、記憶の中の彼を探した。
記憶の中のヨハンは、いつでも険しい目をしていた。
集落では、種である男を村の外へ出す。これは、狭い関係の中での近親を避けるためである。夫となった男どもは、みな、近辺のほかの村から来た男たちだ。
だが、貰い手の決まらない男も中にはいて、ヨハンもその一人だった。
悪い男ではなかった。ただ、他の村にちょうどよい年頃の娘がいなかったのだと思われる。
独り身のまま、長女一家の手伝いをすることが決まっていることに不満を持ち、酒臭い息を吐いていることが多かった。
ロワジィよりいくつか年上のはずで、ごつごつとした体格の男だった。
彼女の頭が赤いことをからかっては、何度となく、取っ組み合いの喧嘩をしたこともある相手だ。
その尖っていた彼と、目の前にいる恰幅の良い男とは一致しなくて、
「ヨハン、なのよね、」
「ああ俺だ。だいぶん腹回りが立派になって、見違えただろ?……あんたは変わらないな」
彼は人懐こい笑いを浮かべながら言った。変わらないというより、前よか一段ときれいになった。続ける。
年月は荒(すさ)んだ男を丸くするらしい。
「あんたも知ってるだろ?シャンタルおばさん。あのひとが、いまは世話役を務めてて……、あんたたちが来たら、寄こしてくれって言われてたんだ。案内する。それとも、おばさんの家はまだ覚えているか?」
「ああ……、どうかしら」
広場から各戸をぐるりと見まわして、ぼうとなりながらロワジィは答えた。
「ここは、あんまり変わってないのね」
すこし現実が遠い。ここに着くすこし前に、夢のようだと思ったけれど、やっぱりこういうの夢見心地って言うのかな。そう思う。
十五年前の野盗の襲撃のときに、壊され燃やされた家もあったが、基本的に材料に乏しい家の造りはみな同じで、だったから燃えた家を取り壊し、あった場所に建てなおした家も、もとの家の形と大差ない。
元通り、と言ってもいいくらいだった。
「懐かしいか」
家々を見回すロワジィとどうとらえたのか、ヨハンが尋ねる。うん、とあいまいに彼女は頷いた。
ロワジィに親しげに笑いかける村の大人を見て、これは害ない人間だと判断したのか、警戒を解いた子供らが、ばらばらと周りにまとわりはじめた。
主にモグラが囲まれている。
おじさん、飴ちょうだい。おじさん、飴ちょうだい。
囲まれねだられて、やー、困ったなと口では言いながら、わりと彼はご満悦そうだ。
記憶にある通り、変わらないならあの家だろうと当たりを付けて、一、二歩進んだところで、彼女はギィがその場に佇んでいることに気がついた。
「ギィ、?」
振り返ると、男はすこし困ったように眉尻を下げて、行ってくるといい、そう言う。
「俺はここで待つ」
「でも、」
「俺はよそ者だから」
水入らずで話してくるといい。言われてすぐに、つかつかと彼女は男へ近寄り、その腕を掴んだ。
「ロワ、」
「水入らずで話すんだから、あんたも来るんじゃないの。あんたはたしかによそ者かもしれないけど、あたしのパートナーでしょう」
「ロワジィ」
「……お願いだから、一緒にきて」
二度遠慮しかけた男にだけ聞こえるように、息を吐く強さで彼女は男の耳元に囁いた。
「お願い。なんか、久しぶりすぎて、緊張で口から心臓出そう」
「おじさんも!おじさんも村長の家行きたい!」
ささやきは聞こえなかっただろうに、流れで読んだらしい小男が、空気を読まない発言をした。
「……おじさん……、」
視線を流すと、飴玉を配り終えたモグラは、今度は焼き菓子の袋を手にしている。これも子供らに配るつもりらしい。
そう言えばやたら彼の荷物が多かった。彼女は思いだす。
ぱんぱんに膨れた荷物の大半は、村への手土産だったのだろう。お気遣いができる男と見直すべきか、人気取りが上手だと呆れるべきか、悩むロワジィだ。
「ん?なに?俺がいないと駄目だから一緒に行ってくれって?」
「おじさんはよそのひとだから、ここで待っててね」
きっぱりと同行をおことわりすると、小男は呆気にとられたあと、大人げなく、むくれた。
「――久しぶりね」
ヨハンに案内され、ロワジィとギィは集落をまとめ役の家を訪れている。
中に通され、ひと通りのあいさつを交わしたあと、茶を勧められて席についていた。
「あの時も大人だったあなたに、大きくなったって言うのも、おかしいのだろうけれど……、でも、泣きべそかいて、鉞(まさかり)掴んで飛び出して行ったここの娘が、何年も何年も外の世界で苦労して、そうして大きくなって戻ってきてくれるのは、やっぱり嬉しいわ」
しかも、お相手まで見つけてね、言って彼女は微笑んだ。薔薇がほころぶような色香のある微笑みだと思った。
ロワジィが子供の時分に、彼女はすでに人妻で、数人の子持ちであったから、おそらく歳は二十ほど離れていると思われる。ということは、少なく見積もっても五十の後半になる計算だが、目の前の彼女からはそうした衰えを一切感じさせない。
一切感じさせないというよりは、いっそうあでやかになっている気がする。
ある意味こわい。
本当だったら、久しぶりに戻った村で、顔なじみに会っているのだから、懐かしさに胸がいっぱいになって、涙がうるっと来てもいい場面なのだと理解しているが、それよりもロワジィの頭にあったのは、
「フェロモンってすごいな、こういうの、やっぱり生まれつき?真似ってできるのかな」
だとか、
「いやあこのむんむん迫る女の色気って、思い出補正かと思ってたけど、そうじゃなかったわ」
だとか、そういう感涙とは真逆の、わりと淡々と下種な感想だった。
口には出さない。
隣ではギィと、結局のこのこ付いてきたよそ者のおじさんが、美魔女に勧められるままに茶菓子を口に放り込み、瞬間固まった後、慌てて茶碗へ手を伸ばし、茶を口に含んでまた絶句している。
……まぁきっとそうなるだろうな。
横目で眺めていたロワジィは、思わず吹き出しそうになり、慌ててえへん、えへんと咳払いでごまかした。
このあでやかな村の世話役は、作るもの作るものとにかく不味かったのだ。二人の顔を見る分に、彼女の腕前は、爾来変わりがなかったらしい。
子供のころ、はじめて彼女の料理を口にしたとき、ロワジィは驚愕を通り越えて戦慄したことを覚えている。彼女のつくり方が奇抜だったわけでも、特別な材料を加えたわけでもないと言われて、余計だった。
同じ材料を使い、同じ手順を辿って、どうしたらこうも不味く作れるのか。もはや才能じゃあないかと思った。どういう方面の才能かは判らないが。
本当だぞ、うちの母さん、薬缶を火にかけただけで茶がまずくなるんだぞ。
家族が言っていたのを聞いたが、その通りだったようだ。
ごく、と二人が喉を鳴らして無理矢理飲み下すのを含み笑いで眺めていると、ロワジィ、と美女から呼ばれて慌てて顔を戻す。
「はい」
「しばらくゆっくりしていくの」
「――いえ」
聞かれて彼女はちいさく首を振った。
「明日か、明後日には発ちます」
「そう」
返答に、世話役の彼女が特に驚いた様子もなかった。想定していたのだろうと思う。
そうしてもう一度、しっとりとした色を含んだ声で、ロワジィ、と呼ばれる。
「はい」
「渡したいものがあるのよ」
「渡したいもの、」
「渡したいというかね、……返すものというか」
そう言って彼女はちょっと待ってね、中座して、家の奥へロワジィに渡したいらしいものを取りに行った。
その間に横に座っていた男と小男を見やる。
二人はまだ引きつっていた。
「……なぁ」
さすがに憚(はばか)ったのか、世話役には聞かれない押さえた小声で、モグラが言った。
「あのさ、『これ』な、……、あの、なんだ、あれか、この村独特の薬膳とか、そう言うのか」
「ううん」
「それとも、ほら、よく、よそから来た人間を試すっていうか、……テスト?みたいな?食いもんじゃねぇもの食わせて、反応見るとか、それか、村長の前で吐き出したら死刑、とか、そういう物騒なしきたりでもあんのか」
「そんなもん、ないわよ」
「単純に、嫌がらせじゃねぇよな」
「違う。あのひとが作ると、いつも、こうなの」
「え、」
「いつも、こうなの」
「……マジか。いつもとか、……、……マジか」
不味さがよほど衝撃的だったようで、モグラが彼女の言葉に震えている。男はどうだったのかな、ちらと見上げると目が合った。
一言低い声で、
「すごかった」
と返された。何がどうすごかったのか、賞賛でないことは確かなようだ。
そうこうしていると、奥から頑丈そうな木箱を抱えて、世話役が戻ってくる。
「……これね、お返しするわ」
差しだされ、促されるままに受け取ったロワジィは、木箱の蓋を開き、え、と息を飲んだ。
「これ、……、」
中にあったのは大量の紙幣だ。
使い込まれ、しわくちゃになった紙幣は伸ばされ、丁寧に重ねられて、いくつもの束になって重ねられている。
ひと財産はあるように見えた。
隣で興味津々に覗きこんだ小男がおほ、だとか品のない声を上げて、男に肘で小突かれている。
「前任から預かっていたの。いつか、あなたがここへ戻ることがあったら、渡すようにって」
「――、」
うつむいたロワジィの様子を見ながら、世話役は静かに告げた。
黙ったまま、彼女は束に結んだ紐を指先で撫ぜる。
「あのね。わたしがこんなこと言っていいのかどうか判らないけれど、……、でも、村を代表して言わせてもらうわね。ロワジィ。本当に、いままで、どうもありがとう。とてもたくさん。……とてもたくさんの、あなたの気持ち」
箱の中身は、彼女が村を出てから十五年、流れの護衛業をして、村へ仕送り続けていたものだ。
「これはね。使わせてもらった部分もあるの」
世話役は続ける。
「あの酷いことがあって、ここはずいぶん荒らされてしまったでしょう。人も半分ほどになった。働き手も、住処も、奪われて……、だからここを立て直す最初の頃、やっぱり先立つものは必要で、……どうしても必要で、使わせてもらった分もあるの。元の通りに建てられた家を見たでしょう。あなたのおかげよ。……これは、その必要を差し引いた、余剰分」
もう十分よ。
彼女は言った。
「村を出て行ったあなたが、一体どんな仕事をして、どんな思いでお金を送ってくれたのか、ここにいるわたしたちは想像するしかなかった。でもきっと、わたしたちの誰が想像するよりも、あなたは苦労したのでしょう」
「――、」
苦労したのだろうか。重ねて言われて、ロワジィは僅かに苦笑し、首を傾げる。苦労した覚えはあまりなかった。ただ無我夢中で十五年生きただけな気もした。
贖罪のつもりもあった。そうして山を離れても無事で生きていると、報せる意味もあった。それから、とにかくそんな小難しいことは棚上げして、ただ滅茶苦茶にされた、生まれた場所の役に立ちたい気持ちもあった。
「もう十分。わたしたちには十分よ。あとは、あなたのために使わなくては」
幸せになりなさい。
「――、」
世話役の声が少し遠くなる。うつむいた自分の目から涙がこぼれて、紙幣の上に染みを作るのを、彼女は見た。ああ濡れてしまう、濡れたら乾かさなければと、そのままの感想を抱いた。
村を離れてずいぶんの間、おのれはずっとひとりなのだと彼女は思ってきた。少なくとも男に出会うまでは、ずっとひとりで肩肘張って生きてきたと思っていた。
だが離れた場所で、おのれを気遣う人間がいた。言葉を交わすわけでも、思いをたしかめあうこともなかったけれど、いつも心配してくれている存在があった。
「……ありがとう」
指で涙を払い、顔を上げしっかりと世話役の目を見返すと、素直に彼女はその木箱を受け取る。
「大事に使います」
でももう心配しないで。無理ではなく、心からロワジィは言った。
「無茶な仕事はもうしないし……、どこかに腰を落ち着けて、静かに……、まあ、静かかどうかは判らないけど……、暮らすつもりです」
「そう」
よかった。
嫣然と世話役が微笑む。
濡れた頬のままにっこり微笑み返し、揺れ動いた気持ちをすこし落ち着けようと、ロワジィはうっかり目の前に出されていた茶椀の中身を、一気に飲み干した。
うっかり。
おかげで、鳥を締めたときのような、おかしな音が喉から漏れたのはご愛敬だ。
集落からやや離れた位置に、ロワジィの生まれた家がある。
村の男だった父は、村の慣例に従ってよその村へ種として出てゆくのではなく、ある日唐突に外部からひとり女を連れて帰ったと聞いている。
赤い髪と、緑の目。彼女の母だ。
父がどうしたつもりで母を連れ帰ったのか、そもそも母はどこのものか、彼女は知らない。当人たちにしか判らない事情、というものもあったろう。
結局、詳しいこと聞ける年齢になる前に、流行り病でふたりとも死んだ。
両親以外に身内のなかった彼女は、そのままその家に住んだ。
月日が経ち、よその村から種となる男を迎えることになったときも、彼女はその家へ夫を迎えたし、そこで家族を作った。
いまは住むものはいない。
ここにはもう住まない、捨てていくのだから、焚きつけにするなり、バラして使うなり、好きにしてくれと言い置いて、集落から出て行った。手入れするものもなく、あばら家になり床でも抜けているだろうと思っていたが、丁寧に営繕されながら、備蓄小屋として使われているようだった。
好きにしてくれと嘯いて出て行ったくせに、残っているのを見て嬉しかった。現金なものだと思う。
家の脇には山と積んだ丸太がある。乾燥させ、薪として使うのだ。軒下に鈴なりに吊り下げられた黍(きび)も見えた。どちらも長い冬に備えて今時分から用意してある。
その家を横に通り過ぎて、少し行った先に、夫だった絵描きの男と娘が、眠っている場所がある。
派手な目印は何もない。穴を埋めたその上に、拳ほどの石をひとつずつ置いただけだ。
墓の回りは下草が刈られた跡があって、村の誰かが時折ここを気遣ってくれているようだった。ありがたいと思った。
それでもぽやぽやと伸びてきている夏草を四半時ほど言葉少なに毟り、それから、もうほとんど平らな土饅頭の前に膝をついて、ただいま、とあらためてロワジィは小さな声で呟いた。
「ただいま。……ずっと留守にしていてごめんね」
言いながら、ふたつの石を交互に見くらべる。見比べて、ああ気持ちは凪いでいるなと、他人事のように思った。激しく憎んだり、怒ったり、そうした感情はずっと持続してゆくものだと思っていたけれど、そうでもないらしい。
あのとき起きた出来事を、彼女が忘れることは決してないし、後悔ばかりが残るけれど、それでも胸を掻き毟り、夜ごと悪夢に悲鳴を上げるような苦しさは、もうない。
十五年。
……もう土にかえったかな。
掘り返した土の、あの生々しい黒さはもうどこにもない。石がなければ、ここだと判らなかっただろう。
その土と同じように、自分の感情もいつの間にか、ゆっくりと馴染んでいったようだ。
道中見つけた山野草を手向けながら、静かに語りかける。手持ち花火のように、小さな赤い花がたくさん散っている山野草だ。
この子の傍には必ず君がいるのだよ。
娘の絵を描きながら、夫がそう言ったことを思い出す。
夫は好んで描いた絵の中の娘は、どれも赤い花を髪に挿していた。
「あっという間だった」
しばらく目を閉じ、静かに木立を渡る風に耳を澄ませ、それからゆっくり目を開くと、ロワジィは後ろに控えていたギィへぽつんと告げた。
「なんかね、本当にあっという間だった。ものすごい勢いで、ずっと、走ってきた気がする」
「……、」
町で暮らす時間と、山での時間の差が、そう感じさせるのかもしれない。ここはあまりにも変化に乏しいし、町の暮らしは一瞬一瞬流動していて、ひどく目まぐるしいからだ。
慣れるまでは苦労したなあ、だとかしみじみ町の時間の速さを思い返していると、それまで背後で佇んでいた男が、不意に大股で彼女の脇へ並び、
「……ちょ、」
同じように膝をついたかと思うと、そのまま、がっしと前のめりに手を突き、ふたつの墓へ向かって平伏した。
「……ちょっと、あんた、なにやって、」
「幸せにする」
しんと響く男の声に、呆気に取られて彼女は固まる。
その脇で、額を地面に擦りつけたまま男は言った。
「泣かせない。ひとりにしない。生きている間ずっと傍にいる。俺のすべてで、このひとを守ると誓う。このひとに、できるだけふさわしい人間になれるように、日々努力する」
「――」
「だからどうか、このひとと共に生きてゆくことを許してほしい」
どうか。
伏せたせいで、くぐもった声になった男の誓いがロワジィの耳から染み込んで、徐々に頭の方まで回り、遅れて理解がやって来る。
墓を相手に、真剣に約束する男がおかしいと思った。それから、そういう男だったからこそ、自分はきっと好きになったのだろうなと思った。そうして、こんなとてつもなく大事なことを告げているのに、それを聞く相手はもうどこにもいないという事実が、すこしだけ悲しいとも思った。
彼らがなくなることなければ、自分は山を下りることも、ギィに出会うこともなかったはずだ。判っている。けれど、いまここにいてほしかったと強く思う。
男の言葉を聞いてほしかった。
自分には勿体ないほどくそ真面目なこの男の言葉を、一緒に聞いてほしかった。
嬉しいのか悲しいのか気持ちを持て余したまま、
「許すわよ」
ロワジィは言った。
「許すわよ。きっと土の中でびっくりしてる」
「そうか、……、……そうだといいが」
彼女の声に、ようやく男が顔を上げる。それから、土饅頭のあたりを見つめて数度まじろいだ。何を納得したのか、うん、だとか腹に落ちたような声をひとつ男は発し、それから彼女の方を見る。
鼻の頭に黒土が付いていた。
「ふ、」
それを見て妙におかしくなって、ロワジィは泣き笑いの顔のまま、声を立てて笑った。
「ああああもう入らない」
その晩、ロワジィと男たち二人は、ささやかながら精いっぱいの村の歓待を受け、腹がくちくなるほど飲み食いをし、お開きになった後ロワジィの生家――今はだれも住んでいないので――に、なだれ込んでいた。
よそ者が珍しい村の人間からは、是非うちに泊まりに来て町の話をしてくれと誘われたが、好意だけ受け取り、ありがたく辞退した。
ただでさえ静かな村の暮らしに闖入しているのだ。これ以上は申し訳ないと思う。
屋根の下で寝られるだけで御の字だ。
だというのに、
「じゃ、俺は可愛い子ちゃんがいるおうちに、お呼ばれしてくるねっ」
だとか、さりげない厚かましさをモグラは発揮していた。場の空気をまるで読んでいない。むしろ読んでいる上でこの発言をしている。ああ厚顔無恥って本当にあるんだな、変なところで彼女は感心した。
しかし、いくら若い娘が好きだとはいえ、ここがロワジィの故郷であると知っており、素人相手に手を出すような、そこまで良識が欠けている人間だとは思いたくないが、……ないが、
「……でもなぁ、あんただしなぁ」
いまひとつ信用しきるのは怖い気がする。結局、彼女と男で両脇から抱え、ぶうぶう不満を上げる彼を、有無を言わさず備蓄小屋まで持ち運んだ。
冬に備えた干し草が小屋の中にまとめてあったので、広げて使わせてもらうことにした。
山中とはいえ、いまは夏で、防寒という意味ではとくに必要はないのだが、それでも固い土間に直に寝るのと、干し草の上に寝具を敷いて寝るのとでは寝心地の点で段違いだ。
「くふふふふ……ふかふか……くふふ」
藁床を見た途端、若い娘の家への押しかけを妨害された不満は、どこかへ吹き飛んだらしい。
酔っぱらったモグラが、おかしなテンションのまま、寝床で転げているのを見ないようにしながら、蝋燭の芯を調節していたロワジィは、おのれの名を呼ばれた気がして顔を上げる。
小屋の壁にもたれ、こちらも酒気にとろんとした目をしながら、男が彼女の仕草を見つめていた。
「……呼んだ、?」
「ああ……、」
「なぁに」
「その」
「うん、」
「聞いてもいいか」
「うん、……なに?」
聞き返すと、男は口を噤み、すこし考える素振りを見せてそれから、
「昼間、あんたが言っていたことなんだが、……。その、明日か明後日には発つって」
「うん」
「……もうすこし、ゆっくりしていかないのか。せっかく帰ってきたんだろう」
「うん」
男の言葉にうなずいて否定して、ロワジィは小さく笑う。
「用事も済んだし。いいの」
「そうか」
「うん」
一度ここに戻りたかった理由はたった一つだ。
「あのね。家族とか、村とか、大事なものを壊されたときにね。ずっと、なんか、認められなくて、……、認めたくなくて、どうにかしたくって、ずうううっと暴れてたと思ってたんだけど」
「ああ」
蝋燭の炎を見つめながら彼女は呟いた。
「なんだろな、……でも本当は最初から、もうどうにもならないんだーって、頭のどこかで判ってたんだろうなって」
「――、」
「でも、……若かったんだろうなぁ。とっくに認めてたって言うのを、自分で認めたくなくてね。ややこしいけど。なんか諦めたみたいで、負けたみたいで、悔しいって」
結局はおのれ自身への、意地の張り合いだったのかもしれないなと思う。無駄だったとは思わない。自分が納得できるために必要だったものが、十五年、という時間だったのだろう。
そのまま感慨に沈みかけた彼女を、
「……ロワジィ、」
途中からじっと黙って聞いていた男が、静かに呼んだ。うん、と顔を上げると、男が僅かに笑って、ぽんと横の床を叩いている。呼ばれて素直に彼女は男の横へ移動して、腰を下ろすと、その肩にもたれた。
男の肩のどこに頭をあてると一番しっくり馴染むか、自分はもう覚えてしまった。
ああもうこの肩は手放せないなあ。そんなように思う。
前方へ目をやると、おかしな奇声を上げ、藁床に顔をすり寄せていたお邪魔虫は、いつの間にか鼾(いびき)をかいて寝入っている。草臥れたのだろう。
寄りかかると背中へ腕を回された。落ち込んでいるのかもって、気にかけてくれるのかな。おかしくなって笑った。
「落ち込んでいるわけじゃないのよ」
「……うん、」
「認めてるってことに気づくまでの道が、何本も何本も、あったのよね。正解なんてどれもなくって、ただ、あたしは、その一番遠回りの道を選んだだけでさ」
「うん」
「まあ……、ずいぶん遠回りしちゃったけど」
ぼそ、と本音が漏れると、また男がちいさく笑う。
「なに」
「――いや、」
肩を揺らしながら男が笑い、そうして笑ったことを誤魔化すように、回した腕で不意に彼女を抱きしめた。
「ちょっと、誤魔化さないで」
「あんたが遠回りしてくれてよかった」
抱きしめられたロワジィが抗議すると、彼女の髪に鼻をうずめた男が、深々と呼吸しながら呟く。
「あんたが一番遠い道を選んでくれたおかげで、俺はあんたに会えた」
「うわー」
でたよこの天然タラシ文句。心の中でいっそ感心しながらロワジィはぼやく。こういうくさい台詞を、しれっと大真面目に呟くのだから、タチが悪い。こちらがまったく心構えのできていない隙ばかり突いて、おかげで毎度毎度不意打ち状態だ。
今が夜で、蝋燭の明かりで良かったと思った。明るかったらきっと、真っ赤になっているのが判ってしまうと思った。
「ねぇ」
恥ずかしいのならいっそついでだ。先だっては言えなかった言葉でも、今なら言えると思った。
「うん」
「昼間、あそこで言ってくれたこと」
「うん、?」
「ひとりにしないって」
「うん」
言いながら彼女は回された男の手を掴む。その手にも、自分の手にも、同じしるしが嵌めてある。
「約束してね」
指輪にそっと口をつけながら、ロワジィは言った。
「もし、あんたがひとりのときに、なにか……、襲ってくるような何かがあったら、全部放り出して、真っ先に逃げてね。ガラにもない勇気なんて、出さなくていいからね。立ち向かおうだとか、そんなの、本当にいらないから、」
「判っている」
祈るように囁く彼女の頬へ、軽く口づけながら、大丈夫。男はこたえた。
「安心してくれ。俺はひとが怖い」
「うん」
「なにかあったら、尻に帆をかけて全力で逃げる」
「うん」
「大丈夫。あんたを、ひとりにしない」
「――うん」
目をぱちぱちと瞬きながら彼女が頷くと、男が頬からまぶたに唇をうつし、大丈夫。そう繰り返す。
「うん」
「もう泣かなくてもいい」
「うん……、」
口づけの雨を降らせながら、男は何べんも誓いを口にする。頭を撫ぜられ、男の腕にすっぽり抱え込まれると、なんだか子供に戻ってゆくような気がして、面映ゆい。
いぎたなく寝こけるモグラの鼾(いびき)が、妙に大きくわざとらしい気もしたが、気付かなかったことにした。
(20180821)