わりととんでもない状況になったと思う。

 心底弱って、バラッドは口角を下げ、傍らの同僚に救いを求める態で視線をやった。相手も同じようにこちらを見ている。

 ――お前、いつもの口先三寸で、なんとかしろ。

 相手の目がそう言っていた。

 

 ことは、風呂を用意したことからはじまった。

 ひと月ぶりだそうである。

 彼らの主の少女が暮らす、森の中の話である。

 

 秋口から冬の初めに季節は変わっていた。

 この時期、風呂は寒い。

とんでもなく寒い。

そうして手間がかかる。人手が要った。

 

風呂、と呼んではいるそれは、この時代、ひどく簡素なものである。

都はその限りではないかもしれないが、たとえば、彼女が生まれたミランシア程度の小さな領だと、領主ですら室内にたらいを置き、沸かした湯を運び、溜め、腰当たりまで浸かる、という行為を風呂と呼んでいた。

いわゆる行水である。

きちんとした「浴室」の概念が現れ始めるのは、もうすこし後の話だ。

ほとんどの人間は、浅いぬるま湯の中で、震えながら体を洗った。

公衆浴場と言う考えが生まれてくるのも、だいぶ時代を下っての話で、寄ると触ると戦っていた当時はまだ、

「人間が集まって暮らす集落」

と言う意味と、

「要塞」

は同意義だった。

生活の利便性よりも強固さが重視されたのだ。

たとえば、門が頑丈であること。たとえば、壁が厚いこと。たとえば堀が行き届いていること。

そもそも行水のために部屋をあたためておく、ということ自体が、すでに贅沢なのだ。

冬場でも、余分な薪を使う余裕のないものは、水場へゆき凍えながら体を流すか、かたく絞った手拭いで体を拭った。

それで当時の人間はたいして風邪もひかなかったのだから、そもそも体の造りが頑丈なのかもしれない。

 

バラッドとグシュナサフは、おおよそひと月からふた月に一度の割合で、町から森へ戻ってくる。いくらかは自給自足の生活をしているとはいえ、人間ふたりが暮らしてゆく分にはとても足りないので、塩漬け肉やら小麦やらを運び込む。

それから、修繕や薪割りと言った、男手が必要なこともまかなう。行水を行うのもこのタイミングである。行水に必要なだけの量の水を、川から運ぶのはかなりの重労働だ。

そうして一番の目的は、森の「外」の情報だった。これは伝書で託すわけにはいかない。いつ誰の目に触れるか判らないからだ。

直接伝える必要がある。良い知らせと悪い知らせとの比率が、毎度毎度偏ったものになっていて、それがバラッドはすこし心苦しい。

主は決して責めない。なるべくわかりやすい言葉で伝えているつもりではあったし、そうでなくても敏い子供だったから、自分が置かれている状況をきちんと理解しているだろうと思うのに、どれだけ不首尾を重ねても、叱責はなかった。

――無理をしないでくださいね。

ただそうして労わられるだけだ。自分の力のなさが時にもどかしく思うときがある。

 

川から水を汲み上げ、住まいの中へ運び込み、湯を溜めてあとは、バラッドは同僚と共に壁の側を向き、じっと少女が行水を終えるのを待った。

この時ばかりは真面目に壁を睨んでいる。うっかり主の裸を見ようものなら、脅しでなく文字通り、オゥルが目玉をくりぬいて外へ放りだしただろう。

 

「早く、夏になるといいです」

 ごしごし擦られているらしい少女のボヤきが聞こえた。寒いのだろう。かちかち震える声に、彼は思わず笑ってしまう。

 夏は、近くを流れる川へ手拭いを持参して、毎日水を浴びるのだそうだ。ついでに馬も連れてゆき、水を飲ませてやると聞いた。

 ――ハナの水の飲み方、すごいんですよ。

 目をきらきらさせて報告してくるさまを思いだした。

 ――もうすごいの。ずっと飲んでいるんです。ハナの体のどこにあんなにたくさんの水が入るんでしょう。

 自分はあんなように、見るもの聞くものすべてが輝いて見えていただろうか。子供の頃の記憶を手繰り寄せてもよく判らない。荒んだ生活の中で、可愛げのないガキだったとは思うけれど。

 その馬が水を飲み、少女が水浴びする川も、いまは氷が張りはじめている。

 この時期、まれに顔をのぞかせる太陽の機嫌のよい日をのぞいて、雪のちらつくおおかたの日は、家の中にこもりぱなしだ。おとなしく糸紡ぎや、編み物や、繕いものをして、温かくなるまでじっと待つしかない。

建物の中には女と少女のふたりきりだ。息も詰まるだろう。退屈だろう。気鬱にもなると思う。

 それでも、少女は不満を口にしない。

 この森の外に出たいとはけっして言わない。

 よくできた子供だ。バラッドは思う。よくできた子供だ、そうして、それがすこし悲しいとも。

 

 泡を洗い流し終え、体を拭いて肌着を着ると、転がるように主が暖炉前に駆けてきた。靴を脱ぎ、足をあぶっていたバラッドの横で、火にあたりはじめる。

 ちらと見やると髪の毛がまだ濡れている。風邪をひいてはかわいそうだと思い、彼が膝に乗せていた毛織の上掛けを彼女の肩にかけ、手近にあった布で頭を拭いてやった。

大人しく頭を拭かれていた少女が、すんと鼻を鳴らし、首を傾げる。……バラッド、グシュナサフ。名を呼ばれて男二人ははいと応えた。

「最後にお風呂に入ったのはいつですか」

「――最後ですか。……最後。……、……いつでしたでしょう」

 くんくんと袖口へ顔を寄せ、においますかと彼は若干極まりの悪い思いになった。顔を洗うだとか髭をあたる、最低限の身づくろいは欠かしていないつもりではあったが、

「ああ、……でも、汚れていますか」

 寄せた袖口が黒く垢じみていることに気がついた。

仕方がない。なにしろ着たきり雀だ。顔を上げて同僚の姿も眺めた。相手も同じようにしまったなといった顔になっている。

せめて、ここに来る前に、古着でもよいから一枚こぎれいなものを用意しておくべきだったか、

「えぇと、じゃあ川で洗ってきます、」

 におうままで同じ家にいるというのは忍びない。しかたない、川にでも飛び込んで洗うしかないか、そう思った。

しかしこのクソ寒い中、氷の張りはじめた川の水で体を洗うだとか、なにかの修行かとも思う。わりと本気で泣くかもしれない。

 冷たくて、べそをかきながら、川っぺりで体を洗う。これが女性ならその姿も可愛げあるかもしれないが、なにせ自分も同僚も、ともに色気もない三十路目前の男だ。情けないことこの上ない。

 

憂鬱な表情をしたバラッドに、にこにこと少女はたらいとその横にある桶を指し示した。

「お湯が余っていますね」

「ああ、……はい、?」

 かくんと首が傾いた。

「お湯、冷めてしまうのはもったいないですよね」

「はい、……もったいないですけども、えぇと、」

「ここでバラッドと、グシュナサフも洗っちゃいましょう」

 

「え」

 

 不意打ちの彼女の申し出に、バラッドとグシュナサフの喉からおかしな具合の声が出た。

 

「え、自分らがですか。ここでですか」

「せっかくここに準備してあるのに、別のところに運ぶのも手間でしょう」

「いやいやいやいや。行きます。川行きます。今すぐ行きます。川できれいに洗ってきます」

「ここにお湯があるんですもの、川に行く必要もないでしょう」

「――いや、しかし、自分たちは、」

「ほら、脱いでください。一緒に上着も洗っちゃいましょう。さっぱりしますよ」

「いや、脱ぐって、姫、いや、その、マッパはいろいろとまずいです」

「まずい?どうして?きれいになるのに、なにか問題はありますか、」

 

 少女に悪気はない。純粋に親切で言ってくれているのだ。

 すごい、純粋。バラッドは思った。純粋な分、性質(たち)が悪い。

 主は腕まくりまでしている。流す気満々であった。

「ほら、お湯が冷めちゃいますよ。早く脱いでください」

「いや、そのですね、そう言われましても、一応自分らは男で、姫は女性ですので、目の前で脱ぐわけには、……あのですね、せめて、オゥルと一緒に上に行っていただくとか」

「大丈夫です。わたしは気にしません」

「いや、姫が気にする、しないの問題じゃあないんですよ」

「じゃあ、どういう問題ですか」

「いやその、問題って言われると、難しいんですが、」

「脱いでください」

「でも、姫、」

「脱いでください」

「……、」

「脱いでください」

主はゆずらない。……強い。彼は確信した。

あまつさえ、ほら早く。急かしながら、手ぬぐいに石鹸をふりかけ泡立てはじめている。

「……、」

 戸惑いながら、バラッドはちょっと泣きたくなった。

 少女がどうしたって譲らないのであれば、彼女に二階にでも上がっておいてもらい、そそくさと、男どもで湯を使うというのも考えないでもなかったけれど、それも無理そうだ。

「背中、流しますから。大丈夫、ハナで慣れてます」

「ええぇ、」

 どこの世界に主に背中を流してもらう従者がいるのだ。困る。

 助けを求めて、中年女の方を見やったが、目が合うと諦めたように肩をすくめて返された。出どころが純粋な親切心だったので、とがめるのも野暮、と判断したのだろう。

 むしろお気になさらずとまで言われてしまった。……あたしはもう、男の裸で浮つく年は過ぎましたから。

 同僚に目を向けると、冒頭のように、お前がなんとかしろと返される。

 なんとか。なんとかって言われても。

 とっさの妙案は出なかった。

 

「ほら。バラッド。グシュナサフも」

「……、……」

 だいぶ迷った末、観念したのだろう。嘆息をひとつ吐き、グシュナサフが上着の前紐をゆるめ、それから腰履きに手をかけた。

 それを見て、主の好意を無碍(むげ)にするのも、それはそれで気が利かないというものかと、未だにためらっていたバラッドも思う。

 のろのろと釦へ手をやった。

 そうして互いに相手を伺いながら、とくに会話もなくもそもそ服を脱ぐ。気まずい。気まずいの極致だ。

囚人が役に服するとき、それまで着ていた服から拘束衣に着替えるのだそうだが、彼らの居たたまれなさ具合はこんなものだろうか。バラッドはふと思った。

 下穿き一枚になる。

「それも洗っちゃいましょう?」

「えっ」

 今度こそ裏返った声が出た。

主の少女の視線は、まっすぐに男二人の下穿きに向けられていた。肌に直に付けているものである。汚れているだろう。わかる。それはそうなのだけれど、

「洗いましょう。病気になります」

 ――ああもうどうにでもなれ。

 腹を決めてバラッドは最後の一枚も脱ぎすてた。恥じらっているのが男ふたりで、女性陣は淡々と作業感を前面に出していることに気がついたからだ。恥じらい損かもしれない。

背を向けたのはせめてもの抵抗だった。

女が手拭いを投げてよこしたので、腰に巻いてたらいに近づく。

 

「――やばい、ぽろりしそう」

「するなよ。……絶対するな」

 腰を下ろす際、軽口を叩くとグシュナサフから念を押された。

「姫に粗末なもの絶対に見せるな。穢れる。姫の目が穢れる」

 かなり真顔で言われたので、バラッドは股間の危機を感じた。

 

 背を向けると、少女が後ろから湯をかけた。

「……大きい背中ですね、」

 二人の後ろに立ち、彼女が感心している。

 長身だが細身のバラッドと中背のグシュナサフは、決して大柄と言うわけではなかったが、子供の目からするとやはり大きいのだろう。

そういえば彼自身も、子供の時分は大人の男がたいそう大きく怖く見えた覚えがあったなとも思う。

ただそれは、店先のものを盗んだだとか、品物をくすねただとかで、こちらに疚(やま)しい心持ちがあったせいかもしれないのだけれど。

 ――こいつはどうだったのだろう。

なんとはなしに、黙然と隣で背を擦られる同僚を見やった。幼少の頃の話なんて、そういえば聞いたこともない。

聞いても答えてくれるかは微妙なところではあるが。

 ひどく大きいと言うわけではないけれど、グシュナサフの体は、鋼のように頑丈で固そうだ。もともと傭兵稼業で戦を渡り歩き、取りたてられてからも進んで前線に立つ男は、浅黒く日焼けし、がっちりと力強い。男のバラッドから見ても、女が好んで寄ってきそうな体だと思った。

 うらやましいかもしれない。じろじろ見ていると、

「見るな。男から凝視は気味が悪い」

 顔をしかめていやがられた。

 

「わたしも、毎日剣のお稽古をしたら、ふたりみたいに強く、大きくなれるでしょうか」

そうしたときに背後から少女の声がして、バラッドはぱちぱちまじろいだ。

「姫がですか、」

「はい」

「姫は、強くなりたいのですか」

「はい」

 ごしごしと背中を洗いたてながら、少女は頷いた。

「大きくて、力持ちになったら、今よりもっとオゥルの仕事が手伝えるでしょう」

 わたしはまだ子供だから。

 できることが限られていて悔しいと彼女は言った。

「もっとお手伝いが出来たら、オゥルの腰が痛くなることもないし、バラッドたちが薪割りや畝起こしをしなくてもよくなります」

「……、」

 それに。彼女は続ける。

「強くなったら、誰かに迷惑をかけなくても、自分で自分を守ることができるはずです。わたしは早く大きくなって、なにか、皆の役に立てるようにならなければ」

「――姫は」

 聞いて思わずバラッドは少女の言葉の途中で口をはさむ。

「姫はそのままでいいんですよ」

「……、」

「早く大きくなんて、ならなくっていいんです。ゆっくりでいいんです。役に立とうなんて考えなくていいんです」

「でも、」

うつむいたらしい主の声がわずかに陰り、くぐもった。でも、傷が。

「傷、?」

「……傷が、たくさんあります」

 言われて思わずバラッドはおのれの体を見下ろし、それから隣の男の体へも目をやった。そうして苦笑する。言われてみるまでいちいち確かめもしなかったが、たしかに傷だらけだ。わき腹のあたりに右から左に流れた茶色の傷痕があったし、細かなものは無数に散っていた。

 大きなものはぶつぶつと途切れ、ところどころ盛り上がり、ところどころえぐれている。隣も似たようなものだった。

 そういえば、少女へ向けている背中の側にもみっともない痕があったな。不意を打たれて逃れようとしたときに、後ろから射かけられた痕だ。

 ――あれはおかしな具合に食い込んで、鏃(やじり)を引っこ抜くのがえらく痛かったな。

バラッドは頭を掻いて言い訳する。

「適当に縫いますんでね、不器用なもので」

「……縫う?」

 縫うという言葉が理解できなかったのだろう。そっと横に回ってきた少女が、眉を寄せる。

 彼女は、布や毛皮が縫うものだということは知っているだろう。

 袋を作ったり、掛け物を作ったり、ほつれを繕ったり、ときには女がわらぐるみを作ってくれることも知っているだろうと思う。

けれど、

「怪我を……縫う、んですか」

「大きなものは、縫って処置することもありますねぇ」

「それは」

 聞いた主が、一瞬痛みをこらえるような顔をした。想像したのだろう。

「――このあいだから、針と糸の使い方を教えてもらって、繕いものをすることがあります」

 そうしてしばらく黙ったあと、ぽつ、と彼女は小さな声で呟いた。

「まだ下手です。気をつけるように言われているのに、わたしは何度も指に刺します。刺しただけでものすごく痛いのに、……、どうして、こんな、」

「ああ、……、……。違うんです。これは、最近のものじゃあないです。だいぶん昔のものです。自分らは、戦に何度も出ましたから」

「……戦」

 戦。彼女が口の中でその言葉をくり返す。

「昔というのは、まだミランシアがあったころの話ですね」

「そうです」

「戦とは、たくさんの人間同士がたたかうことですね、」

「そうです」

「バラッドも、グシュナサフも、戦うのですか」

「そうですね。そういうときもあります」

 彼の首肯に、もう一度口を噤んで何か考えていた少女が、

 

「わたしもそのうち戦へゆけるでしょうか」

 

 そっと尋ねた。それを聞いて、まったく想定していなかった話でもないのに、どういうわけか胃の腑のあたりがぎゅっとなって、バラッドは慌てて首を振る。

「とんでもない。姫が戦へゆかれる必要はありません」

「わたしは役に立ちませんか」

「とんでもないです」

 首を振りながら、矛盾を自分は口にしているのかもしれないと思った。

 

 ミランシア再興のために、彼らは水面下で動いていた。

 各地に散った諸侯の協力を得て、コロカントを旗頭に立て、もう一度旧勢力を取り戻すために奔走していたのだ。

 諸侯らは一枚岩ではない。各家の利になることでしか動かないし、不利益になると見ればたちまち約定を反故にもするだろう。

 こちらで賄賂を渡し協力を取り付け、あちらで接待の場を設けながら女をあてがって名誉欲をくすぐり、おだてて、いい気にさせる。バラッドが日々していることと言えば、そんなようなことだ。

 コロカントを立てるということは、遅かれ早かれそのうちまつりごとの場に、彼女を引き出すということだった。士気を高めるために、戦場に連れ出すこともあるかもしれない。

 判っていたことだった。だが、

 ――だが、まだ七つじゃあないか。

 バラッドの中でなにかが囁く。……こんな子供に、自分たちは何を背負わせようとしているんだ?

 真っ直ぐに育っていると思う。優しい、思いやりのある人間に育っていると思う。

 だがその優しさも率直さも、まつりごとでは不必要なものだ。

 彼らが少女を引き合いに出そうとしている舞台は、その人間らしい温かな心根を、真っ向から否定するような場所だ。

 清流に泳いでいた魚を、糞尿汚泥に放つようなものである。

 暗い気持ちになる。

 ここに来る前に、彼は数人の諸侯と顔を会わせている。それからセイゼルの領主にほど近い人物と、森を発ったあと、すぐ話をする場をととのえている。

 彼らはみな、ミランシアの生き残りである少女の後見役を望んでいた。

 後見とは名ばかりの、力の奪い合いだ。

 いまはまだいい。少女はここにいる。この場所を知るものは少ない。彼女に関わる人間も限られたものだけだ。

立身欲だの出世欲だの、私利私欲で彼女を利用しようとする輩はいない。

――……本当にそうか。

バラッドは自問する。

だったら自分はどうして森の内と外を行き来しているのだろう。

亡き領主に忠誠を誓ったから?

このままミランシアの血統を途絶えさせてはいけないから?

旧友が命がけで彼女を託したから?

――俺はどうして。

それは結局、手前勝手な都合につながるのではないのか。

 

「……バラッド、」

 思いに沈みかけていたバラッドは、呼びかける声に気がつき顔を上げた。主が彼を見つめている。

 見透かされそうな目だなと思った。

「ああ、……その。なんといいますか、戦場は姫に、見ていただきたくない部分もありますので……、それを考えていました」

 慌てて取り繕う。

「見てはいけない、」

「いけないというかですね。……、……その。戦うということは、人間と人間が殺し合う……、いのちを奪い合うということです。それは、生きてゆくために、動物の命を取って食う行為とは、似ているようでまったくの別のものです。実にむごい。できれば自分は、そんな光景を姫に見ていただきたくはないです」

 むごい、という言葉にちらと少女の目が動く。彼らの傷へ向けられているようだった。

「でも、バラッドもグシュナサフも戦うのでしょう」

「それはそうです。自分らは、そういう役目のものですので。……でも、姫は、戦なんて見ないでよろしいんです。安全なところにいて、そうして」

「でも、あなたたちは戦う」

「……、」

「戦えば血が流れる」

「……、」

「痛いのではないですか」

 湯をかけ、汚れを流しながら、少女がそっと傷痕へ手を当てた。祈るような動きだった。

「縫い針で刺しただけで、あれだけ痛いんです。……痛いでしょう」

 小さな手が茶色の引き攣れた痕をなぞる。しっとりと温かな手が心地よいと思う。

 忘れてしまいましたと、バラッドは低く笑ってこたえた。

「その時は必死だったのでしょうが」

「……、」

 そのあとの少女は黙っていた。だからその話はいったん打ち切られ、夕飯になった。

 

 

 夜、見張り塔の外に出る。

 吐く息は白く空へ立ちのぼった。

 夕飯とそれの片づけを終え、主の少女は、中年女とすでに二階へ上がり寝床へもぐっている。同僚も、さっさと暖炉前の敷物の上で、横になっているはずだ。

 就寝前の癖で、煙草をふかさないとバラッドは落ち着かない。寝られないわけではないのだが、妙にそわそわ尻座りが悪くなる。

 火のついた煙管を咥え、塔の外壁に寄りかかる。長々と息を吐き出した。

 ――どうしたもんかな。

 知らずひとりごちている。

 ミランシア再興のために、この四年近く突っ走ってきたはずだった。それが遺された少女の為だと疑わなかったし、復権こそが悲願なのだと固く信じてもいた。

「……でも、それって、俺らの都合ってだけですよねー……、」

 張り切って背中を流すコロカントを見て、バラッドは気づいてしまった。

 彼女を再び闘争の中に戻すことが、本当に彼女の望みにつながるのか。

 ああした風に、なんでもない日常を穏やかに過ごすことの方が、彼女にとっては幸せと言えるのではないのか。

 今さら?おのれの中のおのれが嘲笑する。お前、気付くのが四年ほど遅いんじゃあないのか。もうあちらこちらに働きかけて、その成果が実りはじめてきたんだろう?いまになって、はい、この話は無かったことにと言ったところで、やつらが納得すると思うのか?居場所を密告されるに決まっている。

 ――そんなことは判っている。

「それに現実的じゃあないですよねぇ、」

 いまはまだいい。だが、このまま森にかくまって、そのあとどうする。死ぬまで森の中でひっそりと暮らすのか。

 誰にも会わせずに、隔絶した土地で、限られた数名とだけ言葉を交わして、それで一生を終えるのか。

 こんなこと誰にも言えない。同僚に相談したところで、お前今さら何を言っているんだと顔をしかめられるのがオチだ。

「……幸せってなんでしょうねー……、」

 ぼんやりと虚空に向かって呟いて、呼気と煙を見上げたバラッドは、

 

「――何をぶつぶつ言っているのですか」

 

 いきなり横から声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。思わず煙管を取り落としそうになり、慌てて咥えなおす。

「お邪魔でしたか」

 迂闊だった。少女がこんな時間に起きだすと思っていなかった。完全に油断していた。接近するまで、まったく彼は気がつかなかった。

「ああ、……いえ、ちょっとお星さまに願いごとをですね、」

 彼は振り向き、同じように白い息を吐き、彼を伺う少女の体を、急いで手迎えた。羽織っている毛皮の中へ入れてやる。小さな肩は、戸口からここへ来るまでにすっかり冷えていた。

「姫。こんな薄着で外に出てくるなんて、風邪ひきます」

「……ごめんなさい。でも、バラッドがいると思ったので」

「まあ、そりゃ、たしかにいましたけれども」

 両腕で包むように温めてやると、身震いしていた体が次第に緩んで、彼女はちいさく息を吐いた。

「バラッドは、温かいですね」

「いやまあ、たくさん着てますからね」

 寒いのが苦手な性分だ。特別冷え性と言うわけではないのだけれど、手足の先がかじかむのが厭だ。戦場でも着膨れするほど着込んで、同僚のグシュナサフに呆れられたこともある。

 ――お前、そんなに着膨れて、いざというとき動けないだろう。

 同僚はわりと薄着だ。それで寒い素振りを見せない。脳みそのあたりまで筋肉で鍛えられている奴はさすがちがうなと、バラッドは感心している。

 

「こんな夜に、どうしました」

 胸のうちにコロカントを抱きながら、バラッドはたずねた。普段主は一度床に入ると、ぐっすり眠って起きてこない。

 こわい夢でも見ましたか。さらさら流れる髪にこっそり頬を寄せていると、そうじゃないんですと胸の中の少女がこたえた。

「いろいろ考えていたら、頭がこんがらがって」

「頭が」

「はい。どうにも判らなくなってしまって」

「判らない、……、」

 腕の中の主はうつむきながら、彼の名を呼ぶ。

「バラッド」

「はい」

「わたしは、ミランシアの生き残りです。生き残りですね」

「はい」

「わたしは今日までずっと、ここで、準備が整うのを待って、……、そうして、ミランシアの旗揚げのときが来たら、名乗りを上げて、先頭に立って、みなを鼓舞する役目なのだと思っていました」

「はい」

「ばらばらになってしまったみなをまとめるのが、わたしなんだって。わたしの、ミランシアの付く名前があれば、みながひとつにまとまって、そうしてハブレストに滅茶苦茶にされてしまった所領が、元通りになるのだって」

「……はい」

「ひとつにまとまって、元通りになって、そうしたら、みなが平和に、穏やかに、暮らせるんだって。いまは、ハブレストに好き勝手されてしまっているけれど、それがなくなって、前のように、笑えるようになるんだって。わたしは莫迦だった。ずっと、それ以上、何も考えていなかったんです」

「……、」

 でも。

 毛皮の中で、主の指がバラッドの腕を掴む。細い指は震えていた。

 それが寒さのせいでないことを、どちらも理解している。

「わたしが元の場に戻るということは、争いが起きるということだった」

「――」

「バラッドや、グシュナサフや、それからわたしが名前も知らないたくさんの人たちが、ハブレストやそのほかの国と戦うんだってことを、判っていなかった」

「――」

「わたしが名乗りを上げれば、はい、どうぞって、ハブレストが奪った土地を返してくれるって思ってたんです。そんなことあるはずない。力で無理矢理奪われたんですもの、力でもう一度奪い返すのでしょう、」

「――」

「たくさんのひとが傷ついて、痛かったり、つらい思いをして、……、死んだりして。そんな簡単なことをわたしは判っていなかったんです」

「――姫」

 その言葉以上にひどく辛そうな主に、バラッドは彼女の言葉を遮ろうとした。

「わたしはこわいです」

 かぶりを振って続けられた言葉に、彼は息を飲む。

 胸を突かれた。

「ミランシアやハブレストやセイゼルが、わたしを取り合って戦争になる。たくさんのひとたちを巻き込む争いになる。わたしはこのまま、ここにいてもいいのでしょうか。ここにいて、オゥルやあなたたちに迷惑をかけることになりませんか」

「――」

「バラッド。わたしはこわい」

「――」

「わたしは――、……、」

「――逃げちゃいましょうか」

彼女の肩を後ろから強く支えて、唐突にバラッドは場違いなほど明るい声を出した。見上げた空は下弦の月だ。すこし端の方が霞がかっている。明日は雨かなと思った。

「え、」

「逃げちゃうんです。この塔からも。森からも。ミランシアだとかハブレストだとか。それから跡継ぎだとか。そうしたややっこしいことなにもかも。放り投げて、もうなーんもなかったことにして、姫と、自分で、逃げちゃうんです」

 急に振られた提案に、驚いてコロカントが顔を上げる。ぱちぱちとぶどう色の目がまじろいだ。

「わたしと、バラッド、」

「はい。逃避行です。水と、すこしの食い物持って。森を抜けて、どこか港から、船に乗って遠い国に行っちゃうんです」

「……、」

 煙管をひとつふうと吹かして、彼は薄く笑った。ああ、俺はなんて残酷な夢を語っているんだろう。

 叶うはずもない、叶えてはいけない、彼女の別の未来。

「手は放しちゃあいけません。手を放すと、迷子になっちゃいますからね。ずっとつないでいるんです。そうして、もう誰も、ミランシアだとかいう名前なんて知らないくらい遠くの国へ行って、そこで好きなことをして暮らすんですよ」

「好きなこと……、」

「はい。花屋でも、菓子屋でも、帽子屋でも、踊り子でも、給仕娘でも、なんでもいい。姫が大好きで、楽しい仕事を見つけて、そうして働いて暮らすんですよ」

「バラッドは、」

「自分はずっとお傍におります。姫がもう邪魔だからどっか行けって言って水撒いたって、離れませんからね」

「……ふふ、」

 目をぎょろぎょろとさせ、おどけてこたえると少女がちいさく笑った。……よかった、ようやく笑ったな。ほっとなって彼も目をすがめる。

「そんなこと、言いません。邪魔になんてならないもの」

「そうですか、」

 すこしは気が晴れたらしい。彼女の目から、先ごろまでの思いつめた悲壮な色は消えている。

「ずっと一緒にいてくれますか」

「おりますよ。……自分も、それから、グシュナサフもオゥルも、お傍におります」

「……そう、」

 バラッドのこたえに、コロカントはほほ笑んだ。

「約束ですよ。決してひとりにしないでくださいね」

「いたしません。たとえどんな状況になっても、必ずお傍におります」

「約束」

 言って少女は小指を差し出した。その小指におのれの指をからめながら、なんて稀代の大嘘つきなんだろうと、おのれのことながら胸糞が悪くなった。

 こうして舌先で丸め込んで、俺はあなたをそのうち屠殺場へと引き立てる。

 ……いや、絞首台かな。

 火皿から灰を落とし、中に入りましょうかとバラッドは静かに少女に告げた。

 

 

 

20180927

最終更新:2018年10月05日 13:07