年が明けたようだった。
寝台脇に置いてあった暦は、うすく埃が溜まり、しばらく動かされた形跡がない。
病床から見上げる空は、低く重く垂れさがっていた。
――ぬけるように青い空が見たい。
このところ、毎日きまった時間に訪れる医師は、発音もはっきりしない挨拶を口のなかで呟くばかりだ。先ごろもそそくさと辞した。ではまた明日、だとか言ったのだろうが、気にいらない。
その挨拶も、半笑いを浮かべながらやってくる態度も、とにかく気にいらないのだ。そもそもあれが本当に医師なのかどうかすら疑わしい。
もう来るなと言いたいのに、男は声がでなかった。
六十半ばの男だ。父祖の代からミランシアに仕えていた家のひとつだった。
三年とすこし前、ハブレスト領がミランシア領に侵攻し、陥落したときから男は山あいの町で隠遁生活を送っていた。
ここはだいぶんハブレストに近い。だが恭順したふりだけしておけば、その軍勢はやってこない。見逃されているわけではなく、単純に、ハブレストが他への火消しに忙しいのだ。
昔気質の人間だった。頑迷なところもあるが、人気は高い。旧ミランシアにおいてそこそこの発言権があり、武勇にもすぐれた。
ミランシアが国体のかたちを失ったときにも、旧臣一派に声をかけ、ばらばらとこぼれ、ハブレスト傘下へ入るのを内内に止めたのもこの男だ。
亡き領主との親交も深かった。
辺境伯、と領民は彼を呼ぶ。
それなりの脅威になりうる彼がハブレストから目こぼしされた一番の理由は、彼の妻がハブレスト領主の遠戚にあたるからだった。
そういえば妻はどうした顔であったかなと男は思った。妻が逝ったのは、そう昔の話でもないはずだったのだけれど。
ハブレストと一部繋がっているからとの油断が招いた事故で、妻は死んだ。
ミランシアが落ちたとき、男は身辺の不穏を感じ、妻と二人の息子をハブレストにある妻の生家のつてを辿り、いったん身を寄せさせることにした。
書き付けを渡し、急ぎ馬車に乗せ、見送った。慌ただしい出立に、ろくろく挨拶も交わさず、窓からちらと見せた青い顔が最後だった。数日後、男は、妻子が死んだ報せを受けた。
峠越えの中の出来事だったそうだ。車輪が道を踏み外し、馬車もろとも妻子は谷底へ落ちて行ったのだという。
不注意か、故意であったのか、調べるすべはない。
遺体はさがしたが、獣にでも食われたものか、急流を流れて行ったものか、結局見つからずじまいだった。
――あれが最後だと知っていたなら。
報せを受け、妙にしんとした頭で男が思ったことはと言えば、ああこれで俺は我が家でたったひとりの生き残りというわけだ、領主の遺児とおなじだなという、現実味のない乾いた感想だけだった。
――あれが最後だったなら、せめてもうすこし、やさしい言葉をかけてやればよかった。体をいたわれだとか、道中気をつけろだとか、言ってやればよかった。
そんなことも思った。
余所に子もなかったので、しばらくして妻の生家から養子を迎えたが、しかしこの義理の息子は、
「――父上」
そこまで思ったときに戸口から不快な声が響いて、男は思わず身をよじろうとした。だが、動かない。
身動きできないよう、寝床にかたくいましめられていたからだ。
ああ、と戸口から様子をうかがう息子が薄笑う。
「動いては、だいじなお体に障りがあります」
なにを。唯一男の自由になる目玉が、どんよりと養子を睨む。
「そんなおそろしいお顔をなさいますな」
轡(くつわ)を噛まされ、満足に声も出せない。
――いつからこうなってしまっていたのだ。
思い返そうにも、先に医師に無理矢理流し込まれた薬のせいで、頭の中が霞がかったようではっきりとしない。考えがまとまらない。まとめようとしても指の間から零れる水のように、どろどろどこかへ流れていってしまうのだ。
このところ、いつもそうだ。
まるで窓から見える空だな。そう思う。
おのれをちちうえ、と呼ぶ若い男が近づいてくる。この男いったい誰だったか。
見上げた。
わからない。
話す声が、へどろの膜を通し一枚ぼやけて向こう側から聞こえはじめる。夢の中で耳打ちされているようだ。夢の中。夢というには、どうにも体のあちこちが軋むけれど、
「父上」
若い男が羊皮紙の束をさしだし、ここに承認の印をとささやいた。
しょう、にん。発した声は轡にくぐもってうめきにしかならない。承認。なんの。
ちちうえ。きこえていらっしゃいますか。
ぼうぼうと耳鳴りがする。違う。これは波の音だ。いやそうじゃない。野戦のあとの、炎の音だ。
いくさ。いくさとは何のことだったか。
男のにごった視線が、ゆっくりと目の前に差しだされた書類に移動する。紙の束を掴む指には指輪があった。見知った指輪だ。誰かの指にはめられた家紋。
おかしいな。
男は内心首をひねる。
ついこのあいだまで、俺の指にはまっていたもののような気がしたのに。
そうだ。たしか右の中指に、指輪の跡が日焼けになって残っているはず、思って男は右腕を持ち上げようとして、動かない体にまた訝しむ。
どうしたことだ。
なぜ、からだが動かない。
――ちちうえ。
呼びかけられて、これは、どうやら自分のことを呼んでいるらしいぞと男は理解した。
ああ、そうか。
生きていたか。生きていたのか。嬉しくなり、それから不意に悲しくなった。
……生きている?どうしてそんなことを自分は思うのだろう。息子は生きていた、ずっと生きつづけている。
なぜなら、目の前にいるじゃあないか。
「さあ、譲渡書に署名を」
――譲渡書。だれが。なにを、譲渡する……?
こわばった右手に、インクの付いたペンを握らされた感触がある。五感の中で、触覚だけがおかしな具合に鮮明だ。
お、お、お、おお、お、お、おおおおおおおおお。
男は呻きを上げる。
「薬が足りないようですな。……おい、追加で入れろ」
いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだ。
男は首を振ろうとして、首の動きすら自由にならないことに愕然とした。
唇に吸い口があてがわれる。いやだ。やめろ。男はわなないた。抗いはすべて封じられていた。
不快な味とにおいが、喉の奥を流れていくのを感じながら、男はああ、と嘆息する。
ぬけるような青い空がもう一度見たいと思った。
思うように動かせない指に無理を強いる養子が書類を抱えて退出し、男は重い瞼を閉じかける。
――くたびれた。
泥のような眠りの中に落ちていってしまいたかった。
たとえ次に目が覚めるときがまた回診の時間だったとしても、それまでは何も考えずに眠っていられる。
閉じる途中で、ほんの一瞬、部屋の端に赤い差し色が見えた気がして、男はまたよどんだ目をのろのろと開いた。
おやと思ったのだ。
薄暗い部屋の中に、あんな鮮やかな赤はあっただろうか。
この牢獄のような私室に閉じ込められてから、もうみ月経っている。殺風景な部屋だ。すべて記憶しているわけではないが、あんな赤色はなかったはずだった。
――では、あれが置いて行ったものか。
だったらろくでもないものに違いない。見るだけ無駄だ、そう思ってあらためて目を閉じようとしたその耳に、……ラルヴァン様、ささやく声が聞こえた。
声は低く抑えたものであったけれど、発音は明瞭で張りがあった。回診の医師のものではない。
語尾を長く伸ばすハブレスト訛りも見えない。養子でもないようだった。
では、だれだ。
訝しんで男は目を上げる。目脂(めやに)がこびりついていたので、白くかすんでよく見えない。
赤い色は身動き、近づいた。それは彼が視認できるよう身を屈め、顔をこちらへ向けてみせた。
青年、というには薹(とう)の立った、壮年、と呼ぶにはまだすこし青い気のする年のはざまの男が、ラルヴァンの前にいる。
誰だろう。見たことのある気もした。
「――ああ、少々お待ちください」
男が轡からくぐもった呻きを出す前に、赤毛の男が口早にささやき、腰から小刀を抜くとぎちぎちに締められた結び目へ差し込み、二、三度前後させこすり切る。ぶつ、と音を立てて轡が外され、急激になだれ込んだ新鮮な空気に、男は噎せて咳き込んだ。
だが饐えたにおいのない、いくらでも自由になる空気を吸うのは実に久しぶりで、涙が出た。
咳き込みながら、男が何度も吸って吐きをくり返している間に、赤毛は脇へ身を屈め、彼を寝台へ縛り付けている縄を解いていた。じきに外れ、自由になる。
――ああ。
こわばった腕を寝台につき、男は身を起こそうとしたが、このみ月の間に肉がほとんど削げてしまっていたことと、ろくに動かさず固まってしまっていたために、うまい具合に起き上がることができなかった。もがいただけだ。
それに気づいた赤毛が、背に丸めた毛布を当て、抱き起す。
長く起こしていなかったので、視界も脳みそもぐらぐら揺れた。痛飲した次の朝よりもひどい眩暈だと思った。
だが爽快だった。
「……これを」
赤毛が男の口元に、皮袋の飲み口を当てる。……また毒か。顔をしかめた男へ、毒じゃあありませんよと赤毛がこたえた。
「気付けです。百薬の長ってね。……、まあ、そんなにいいものじゃありませんけど、ないよりはマシでしょう」
皮袋を傾けると、ぷんと鼻先にラムの芳醇な香りが漂い、ラルヴァンの喉が鳴る。
あてがわれるままに、ひと口、ふた口、含み、ゆっくりゆっくり嚥下する。
酒が染み入り、喉が痺れた。ほうと思わず息が漏れ、文字通り生き返ったこころもちになった。
失礼します。飲んでいる間に、男のほとんど開かないまぶたの目脂を、赤毛が拭き取る。
男はまじろいだ。赤毛の顔がすこしは見えるようになった。
ひょろりと長身の男だ。垂れ気味の右目の端にほくろがふたつ並んでいるのが、こんな時なのに目についた。
人なつこい顔をした男だな。そう思った。
「それから、これを」
赤毛が、今度は掌に丸薬を乗せて男へ指し示す。
「これは見たまんま薬ですが、悪いもんじゃないです。どちらかというと、いま、ラルヴァン様の体内に入っている毒素を、中和するはたらきのものです。ええと、知らない自分から、いきなり、悪いものじゃないとか言われて、毒かもしれない薬を渡されて、じゃあ信じて飲めるかとおっしゃりたいのは重々承知なんですが、」
「――いや」
甘露を口に含んだおかげで、しわがれてはいたがようやく声が出た。男は黙って口を開け、差しだされた薬を飲みくだす。
あっさり薬を口にした男へ、逆に赤毛が呆れながら水を差しだした。
「……信じてくれとたしかに言いましたがね。自分が、あなたが弱っているのをいいことに、毒を盛るとは思われませんか」
「――もう盛られているのに?」
思わず皮肉が口を衝く。そうだ。あの義理の息子は、とっくに俺を見限って、俺をこんなところへ拘束し、その間に家督を乗っ取る腹づもりなのだ。
あの息子が厳重に監視を置くこの部屋に、わざわざやってきてただ好意親切心から助けるとは思えない。なにか見返りを要求されるはずだと思った。
だったら他人の方がよほど信用がおける。
腕の痺れがすこし消えた気がして、男は赤毛から皮袋を受け取り、今度は自分で口元へ持ってゆき、呷った。そうして、
「いま何日だ」
尋ねた。
「青山羊の月の二十日です」
「二十日――……、」
「いく日ほどこの状態でした、」
「縛り付けられてからは八十六日だな」
「八十六……、」
おのれで聞いたくせに、男のこたえに赤毛は眉を曇らせた。
「数えておられましたか」
「寝台のここにな。頭がはっきりしているときに傷をつけた」
それを指でなぞり、へどろに飲みこまれてゆきそうなおのれを、男は必死に保ち続けたのだ。
晴れない顔のまま、赤毛は男の全身をあらためはじめる。その横顔に、
「――思いだした」
彼は言った。
「ミランシアの陣幕を回っていただろう」
「え、」
声に、男の体のあちこちを調べていた赤毛が、片眉を上げこちらを振り返る。
「即興の歌を奏で、兵たちを鼓舞していた。その頭。見覚えがある。布を巻いて隠していたが、ところどころこぼれて見えた。戦場に赤い頭とは珍しいものだと思って見ていたからな」
「……、」
「偏見や迷信にとらわれない、ミランシア公らしい取り立てだと思ったんだ」
「ひとちがいでは」
「ひとちがいかな」
「どうでしょう」
赤毛が薄く笑う。否定も肯定もなかった。そうしてそのまま、会話を終わらせるように黙り込んだ。
「助かった。礼を言う」
しばらくして、男は言った。先に飲まされた丸薬の効能か、それともラムが効いたのか、だいぶん頭がはっきりしてきたような気がする。
「だが早めに退室した方がいい」
「なぜですか」
「ここにいては、危険だ」
監禁された老いぼれの部屋に、訪れるものはなかなかいないとは思うが、それでも義理の息子が気まぐれにやって来る可能性もある。たとえば、先ごろの書類に何か不備があったとか。
養父から家督を奪うためなら、監禁し、毒を盛って、じわじわと絞め殺しにかかる性格だ。不審者に一切の容赦はないだろう。見つかれば赤毛の命はないものと思われた。
「――まあ、朝まで誰も動けないと思いますよ」
だというのに、男の心配をよそに、のんびりとした声で赤毛はこたえた。……動けない。動けないとは。
「いったいどういう、」
「煙を吸わせてきましたからね。……たぶん、ぴくりともしやしません」
「煙」
重ねて訝しむ。
「……はい。クマにも効くらしいです。最初に頭がぼうっとして、眠くなって、眠ったあと痺れて動けなくなる二段構えだそうですが、……聞いた話です。自分で試すのは、ちょっと、厭ですね」
「どうやって」
「種明かしするほどたいそうなことは、何もしていないですよ。ほんとうなんです。ただ、ねずみ穴を使っただけです。ご子息の部屋にも、兵士の詰め所にも、同じ繋がったねずみ穴が開いていてですね。そこからこう、こっそりと……、はい。ご子息の部屋には、念のために、暖炉にもう一束ぶち込んでおきましたので、まあ、爪の先まで動かせないと思いますけども」
笑顔で物騒なことを言っている。
「ねずみ穴」
「はい」
「屋敷に開いていた」
「はい」
「誰に聞いた」
「さあ。誰でしたでしょう」
蛇の道は蛇っていうんですよ。また曖昧に言葉を濁して赤毛がほほ笑む。明かしたくはないらしい。
とにかく、赤毛の言葉を信じるとすれば、朝までこの部屋に誰かが訪れることはなさそうだった。
目の前の彼をのぞいては。
「聞かせてくれ。君は俺をどうしたい」
単刀直入に男はたずねた。助ける動機を知りたいと思った。
「この老いぼれの、使い道がまだあるから助けたのだろう」
「老いぼれだなんてとんでもない」
芝居がかった口調で赤毛が大きく首を振る。そうして見ると、まるで一度も見たことのない人間のようにも思われた。これだけ派手な容貌をしているのだから、記憶にはっきりと残りそうなものなのに、うすらぼんやりとしている。
仮に今目隠しをされて、さあ今見ていた男の顔を思い浮かべろと言われて、はっきりと描写できるだろうか。
赤い頭や、ふたつ並んだほくろや、着ていた服は、容易に思い浮かべることができるのに、それ以外の部分が不明瞭で混沌としているのだ。
やはりあの楽士じゃあないのかな。男は思う。思い違いだったろうか。
「『危険を冒して』、自分はラルヴァン様をお助けします。恩を売るだとか、弱みを握るってやつです。見返りに、していただきたいことがございます。ですが、その話はまた後日に。……まずは体をなんとかしましょう」
赤毛は言った。
「夜中に忍び込んだ侵入者の自分を、信じてくれと重ねて言うのも心苦しいですが」
あらため終わった体を再び寝台に倒し、赤毛は先ほど解いたいましめを男に掲げて見せた。
「それとですね。申し訳ありませんが、ほどけていては怪しまれるので、縄も、轡も、もう一度掛けせていただきます。不自由でしょうが、明日また伺いますので」
「判った」
「あのヤブが持ち込む薬は、体に害のないものにこっそり差し替えておきました。明日飲んでも支障はございませんが、数日は薬が効いたままのふりをしていただきたい。できれば、会話もままならない方がよろしいです」
「判った」
「明日はもうすこしマシな酒と……、それからなにか腹に入れるものも持参します。……轡をかける前に、何か聞きたいことはございますか」
「……そうだな」
聞きたいことはたくさんあると思う。まず、み月監禁されていた間の、屋敷の様子。ろくでもない義理の息子が、家督をどこまで乗っ取っているのか。世情はどうなっている。
だが、それらすべては話しはじめたらひとことでは終わらなさそうだったし、まずはこの思う通りに動かなくなった体をどうにかするのが先決と思われた。
いくらか逡巡して、それから男は口を開く。
「君の名と、それからどうして俺を助けるのかを教えてほしい」
男の言葉に、赤毛はしまったと頭を掻き、それから、
「気を急いて名乗ることを忘れていました。……――バラッドと申します。ラルヴァン様におかれましては、我が主に助力をたまわりたい」
飄々とした態度をすこしあらため、深く腰を折ってみせながら、彼はそう告げた。
同じ曇天の下、脂焼けした目頭をこすり、グシュナサフは視線を前方へ向けた。
よどんだ空気のせいか、気圧のせいか、どうにも頭が重い。呼ばれた声に顔を上げると、腐れ縁の同僚が、こちらを見つけ、小さく手を上げ、やって来るところだった。
場末の酒場の片隅である。
飯どきの酒場はえらく混んでいた。立ち飲み酒屋だが立つ場所すらない。酒を手にした男たちが、表の通りまであふれて仕事帰りの一杯を呷っている。
「――ああ疲れた」
どうだった、たずねる前に、同僚は彼の隣に無理矢理身を割り込ませ、壁に背もたれて手にしたジョッキを一気に呷った。
がさつな仕草だ。わりと洗練された動きをすることが多い同僚にしては、珍しいと思った。
差しだされた空になったジョッキへ、酒を注いでやる。それもまた一気に飲み干し、同僚は垂れた雫を乱暴に腕で拭った。
苛ついていると思った。
「ヘタを打ったか」
「なにがです?」
やはり不機嫌だ。声が普段より低い。
「……しのび込んだはいいが、相手の場所までたどり着けなかったとか、誰かに見つかって騒がれたとか」
「俺がそんなへますると思いますか」
言うと彼は、いっそうむっとした顔になって、噛みついてくる。
「ないか」
「ないですよ」
当然、といった態で返された。
「そうだな、たどり着いたが、相手の様子がまるで話せる状態じゃあなかった、とか」
「どれも違いますね。不合格。落第です。もうちょっとマシな回答はないんですか」
「俺に突っかかるなよ。――どうだったんだ、」
三杯目を注いでやると、ああ、と赤毛の頭をがりがりと掻いて同僚は大きく息を吐く。
「卿には会えました。……まぁ、だいぶひどい容体になっておられましたが。話はできましたし、こちらの言うこともひとまず信じてもらえた。あの感じだと、一週間もあれば復調できると思います」
「じゃあ、それなりにうまくいったんだろう。なんでそんなに不機嫌なんだ」
「不機嫌じゃあないですよ」
「不機嫌だろう」
「不機嫌じゃないです」
「じゃあ言い方を変える。ムカついている」
「……、」
珍しく押して重ねたグシュナサフの言葉に、バラッドは手にしたジョッキを一口喉に流してから、別にそんなんじゃない、ぼつりと呟いた
「うん、」
「……気に食わないのはですね、屋敷の警備がザルだからですよ。……呆れるほどザル。警備って言うのは、なにも、門扉をかためりゃあいいってもんじゃあないでしょう。不審者の侵入経路ってやつを考えなくちゃあ意味がない。……だのに、考えられている形跡がまるでない。ありゃ、どうぞ入ってくださいと大開きにしているようなもんですよ。スカスカすぎて、罠かと疑いました」
「うん、」
なにか言いたいことがあるのだろうな。察したグシュナサフは、黙って頷くにとどめる。頷いていれば、相手が勝手に語ってくれそうだからだ。
「あとですね、いくら意識を混濁させて、ある程度思いのままに操りたいって言ったって、限度ってもんがあるでしょう。限度。人体へ投与する限度。廃人になっちゃあ意味がない訳です。それを考えていない。考える頭がないんですかね?……そもそも毒なんですから、入れる量間違えればコロっといってもおかしくないわけでしょう。その慎重さがない。上に立つ人間に慎重さが欠けてうまくいったためしがないです。ありゃ駄目だ」
「うん、」
「それに」
言って同僚はもう一度酒を呷る。
「胸くそ悪くなっただけですよ……、……、権力争いってやつが」
「権力争いな」
ちらとグシュナサフは同僚の顔を窺った。この男が単純に、長期にわたって拘束され汚物にまみれた老人を、憐れんだわけではないことは理解しているつもりだ。
誰かをそこへ重ねているから腹が立つのだ。
「どいつもこいつも、本当にてっぺんが好きですね?上に立つって、そんなに気分がいいもんですかね。万能感とかですかね。それとも、莫迦だから、煙と一緒で高いところが好きってだけなんですかね……、?」
「だから、俺に突っかかるな」
矛先が自分に向きつつあったので、グシュナサフは急いで牽制し逸らす。
するとしばらく言葉が途切れた。酒場の喧騒にどっぷりつかりながら、互いにただ黙然と杯を重ねる。
酒場の中も、仕事帰りの一杯ひっかける客どもは腰を上げ帰途に就き、あとは腰を据えてちびちび安酒をなめる輩だけが残っている。
そうして、いい加減、ほろ酔いが悪酔いに代わりそうな頃合いになってようやく、
「……でも、そんなどうしようもなくけったくそ悪い煙突のてっぺんに、自分はあの方を据えたいわけですよねぇ……、」
ボヤキに紛れて同僚がぼろ、と本音をこぼした。
――ああやはりそこか、目をすがめてグシュナサフは同僚を眺める。
いやだなぁ、もう人間は厭だなぁ、森へ帰りたいなぁ。わりと頭に回っているのか、脇の柱に絡みながら、彼は泣き言を漏らしていた。
「ここだけの話、ひとつ、いいか」
「うん、?」
「釘を刺しているんだと思ってもらっていいが」
グシュナサフは酒で唇を湿らせ、口を開いた。意を決した風の彼をちらと窺って、ぐすぐす柱に泣きついていたバラッドが怪訝な顔になる。
「なんです、怖い顔をして」
「お前、あの方のこと、どう思っているんだ」
「――どうって」
たずねられて、ひとまじろぎの間に、同僚の顔から表情が消えた。
表情と言うより色がない。いまくだを巻いていたのが嘘のように、すう、と静かにおもてが冷え、水底から身構えていた。見事なものだと思った。
人懐こそうに見えて、この男の本質はこちらの側だとグシュナサフは知っている。
それは薄氷(うすごおり)の刃だ。
「どうって、」
「お前の言葉は、主語があやふやだったりで、あちこち飛び火するし、いつも誤魔化されて判りにくいが、前々からひとつ真面目に聞いてみたかった。言いたくはないが、もしお前が、あの方におかしな思い入れをしようとしているなら、」
「くどい。簡潔に言え」
「惚れているなら捨てろ」
切り込まれたので同じように言い返してやる。そのまま彼の顔色を窺うが、そよとも表情は変わらない。相変わらずの能面だった。
そのまま、じっくりグシュナサフの思考を吟味するように、彼は隠しから煙草入れを取り出し、煙管を咥える。
壁際の明り取りの蝋燭から火を点けて、
「俺が、あの方に懸想してるって言いたいんですか」
言った。
「していないと言いたいのなら、」
「してますよ。悪いですか」
「悪い」
断言されてグシュナサフは顔をしかめた。ぬけぬけとよく言う。しかめた彼を、当の本人は面白そうに眺めている。
いつの間にか表情が戻っていた。
「お前、第一、年を考えろ」
主の少女は年を越えて数えで七つになった。グシュナサフとバラッドは同年代だったから二十八だ。年が十違うだけでも、わりとどうかと思うのに、二十離れているとか彼には全く理解ができない。考えるだけで頭がおかしくなりそうだ。
未知の領域である。
「手を出してやしませんし、出すつもりも毛頭ありません。小児趣味ってわけじゃあないんです。でも思うのは自由でしょう、」
「思うのがまず不味い」
「あんた以外、誰かに言うと思いますか。大声で俺はあの方が好きなんだあ、って、あたりに吹聴したら別ですけど、でも、それ、ただの阿呆ですよね」
ふ、と煙を吐いて同僚は低い天井を仰いだ。笑っている。
「それに考えてもみてください。あの方はですね、むかし俺がお世話になった人の、その恩人の、娘。しがらみです。しがらみにぎちぎち。どうにも転がりようがない。悪心抱いたりしようもんなら、それこそ化けて出られますよ」
「……それはそうかもしれんが、」
それでもだめですかね?おどけて尋ねる同僚の、目の色だけは笑っていない。
「そもそも、俺は、あの方が元の場所に戻るまでの限定付きみたいなもんです。あのとき、他の頼れそうな人間が、みなやられてどうしようもなくなったから、俺のところにお鉢が回ってきたってだけでしょう。あの方が返り咲いたらお払い箱ですよ。ずっとお傍にいるってわけじゃあない。……それまでの期間、ほんのちょっぴり、岡惚れしてるってのも、許されないことですかね、?」
「……、」
自分で釘を刺しておいて気が重くなる。同僚がもう何度も何度も、自問をくり返していることにグシュナサフは気付いたからだ。
――これは無理かな。彼は思う。ひと言、ふた言、牽制したところでどうにかなるものではなさそうだ。
向かいの赤い頭は、なぜか自身の小指を見ていた。見て、もう片側の手で、痛むように包んでいる。……ぶつけたのだろうか。ふと思った。
「……じゃあここだけの話、」
だったから、最初の追及からすこし矛先をずらしてグシュナサフはたずねる。
「いつからだ」
「え、」
「雷に打たれたわけじゃあないんだろ。――何か、きっかけみたいなものがあったから、お前は」
相手が男でも女でも、主は主だ。忠誠だとか、使命感だとかは判る。だがたった七つの子供に惚れ入れる神経と言うものは、正直グシュナサフには理解できない。
理解はできない、それでも理解する努力はしたいと思うけれど。
「きっかけねぇ、」
紫煙をくゆらせてバラッドが呟いた。……きっかけねぇ。
緑灰色の目が揺れる。
「……なんで俺、根掘り葉掘り聞かれてるんですかね……、」
「俺は飲んでいる。お前も飲んでいる。肴みたいなもんだろう」
「男の内情話聞いて面白いですか。俺は面白くないです」
「俺は興味深い」
「……、」
顎でしゃくって促すと、きっかけねぇ、同僚が三度目を呟いた。
「莫迦みたいなちんけなもので、話すのもためらわれますが、氷です」
「氷」
火皿の灰を落とす。ふたつ目の煙草を指で軽くもみほぐし、詰めると、また火を点け、バラッドは口を開く。
「いつだったかなぁ。たしか、ふたつみっつ前の冬だったと思いますけど」
「ふたつみっつと言うと、姫がまだ四つか五つの頃か。終わってるな」
「やかましい。放っておいてくださいよ」
茶々を入れると不貞腐れた。
「冬と言ってもですね、ガンガン吹雪いてる真冬じゃあなくて……、いま時分よりもっとあとの、もう名残りみたいな冬だったですよ」
煙管を口元へ持って行ったはいいが、彼はそれを含まない。ただじっと火口のじりじり燃える切り葉を見ているだけだ。
ようやく雲の切れ間から時々日差しも見えてね。彼は言った。すこしずつ、雪解けがはじまって、そうするとあちこちで雪解けの氷ができるんです。
つららがあったそうだ。
正確に言うと、つららができたその下の地面に、雫が地面に辛抱づよく垂れ落ち、再び凍った氷があったのだ。中心がくぼんだ形の不思議な形に、興味を覚えたコロカントが拾いあげたのだという。
すこしだけゆるんだ気温に、住んでいる建物の回りを歩いてみる気になって、誘われて外に出た。
それでも外は寒い。襟を立て、首巻に鼻までうずめるようにして身震いしていた彼を、背後から呼ぶ声がした。
見ると、寒気で鼻の頭まで真っ赤にした主が、宝物を持ち運ぶようにそうっと手を持ち上げて、彼にその手に握るものを示している。
風邪をひかないよう、全身毛皮で厚着された少女は、動きがもくもくとしていて、見ていて子熊か狸のように思えておかしかった。
彼女が見つけたのは小さな氷だ。男の爪の先ほどの、大人であったら見落としてしまいそうなちいさな塊だった。
――落ちていたの。どうしてこんな形になるのでしょう。
――面白い形ですねぇ。
ふと気を惹かれて、いいですか。彼は頷いたコロカントの手から氷を取り上げ、くぼんだ真中へ手袋をしていない親指と人差し指をあててみせる。人の肌の熱が氷にうつり、ぽたぽたとちいさな塊は溶けた。
――はい。
手首を伝った雫を払い、彼は少女に形を少し変えた氷の粒を差し出す。
指先の熱でくぼみの部分が溶けたそれは、氷の輪へと変化していて、目にした少女がわあ、と喜色をあらわした。
――ゆびわ!
――そうです、美しいでしょう。なんとここだけのオーダーメイドですよ。
言いながら彼女の手袋を片方そっと外す。小さな手はしっとりと暖かく湿っていて、吸いつくようにやわらかだった。
おとぎ話の王子だと、どうやっていたかな。
娯楽の少ないここで、彼らが運び込んだ数冊の絵本。読んでくれとねだられ、暖炉の明かりで何度も何度も繰り返し読んだ。飲み込みの早い子どもの脳は、すぐに自分で諳んじることができるようになったけれど、それでも彼がここを訪れるたびに、読んでくれと持ってくる。
飽きもせず、じっと聞き入る膝の上の重みが愛おしかった。
彼は小さな指へ氷の輪をはめる。なんとなくうやうやしい心持ちになった。
――バラッド、王子さまみたいですね。
同じように絵本を思い浮かべていたらしい少女が、ぽつんと呟く。ああこれは期待に応えにゃなるまいな。生来のサーヴィス精神もはたらいて、彼はどうか、と彼女の前にひざまずき小さな手を押し頂いて、絵本の王子と同じ言葉を口にする。
悪い魔女に魔法をかけられ、高くて細い、挿絵で見るとまるで砂糖菓子のような、氷の塔のてっぺんに閉じ込められた王女。魔女の呪いを解き、姫君を助け出した王子は、彼女の手を取りこういうのだ。
――どうか、わたしのお妃に。
告げた瞬間にコロカントが向けたぶどう色の目を、彼は一生忘れられないと思う。
「それで、惚れた」
「いやどうかなまあきっかけとしてはそういうこともあったんじゃあないかって言うただのたとえ話みたいなもんでよく判りませんよそんなこと」
短く刈り上げた赤毛を、目端に落ちているわけでもないのに何度もかき上げて、バラッドは口ごもってこたえた。吸わないままに燃え尽きた火皿の灰を、かん、と音を立てて灰壺へ叩き落としている。
「……へこむぞ」
普段なら決してそんなことはしないのにな。眺めながらグシュナサフは苦笑した。ああくそ言わなきゃよかった、相手が相当後悔しているのが見て取れたからだ。
「――それより、あんたのほうはどうなんです」
居心地の悪さを酔いに転換して、同僚がグシュナサフを睨んだ。
「……俺か、」
「こっちにばっかり喋らせて、そっちの首尾はもちろん上々なんでしょうね」
「すり替えた」
グシュナサフは頷く。
館に出入りする医者の水薬の話だ。ラルヴァンを回復させるには、まず投薬されている元の薬を無害にしなければ意味がない。
薬と言うよりははっきりと毒だとは思うけれど。
「入り口の錠が三重になっていてな」
どれだけ用心深いんだ。錠開けしながらグシュナサフは呆れた気分になった。手前がろくなことをしていないという自覚があるからこその、用心深さだと思った。
「いっそ壊してしまえば楽だったんだが」
「なに言ってるんですか。脳味噌まで筋肉になったんですか。カギ壊して警戒されたら、隠密に近づいている意味がないじゃないですか」
「……判っている」
空になったピッチャーを振って、同僚が給仕娘にエールの追加を催促する。その手をおい、と掴んでグシュナサフはとがめた。
「なんです、」
「手持ちが俺はもうないぞ」
隠しから金入れを取り出し、相手の前でからからと振ってみせる。もとより手持ち金は心細くなっていて、そろそろ荷運びでもして小金稼ぎをしなければと思っていたところだった。
中にある残りの銅貨は、今夜の宿代だ。
「なんだよ。ケチケチするなって。その分飲んで、あとは野宿でもしたら、」
「断る」
ずうずうしく手を伸ばされたので、グシュナサフはさっさとまた金入れをしまう。後はお前がなんとかしろ、同じように相手の胸元へ目をやると、きょとんとした顔で見返された。
「なんだ、」
「俺が金持っているとでも」
「思っていない。いま稼げ」
当然の台詞が返ってきて、グシュナサフは苦笑する。ええぇ、心底面倒そうにバラッドが嘆いた。
「俺もう今日分は、きっちり働きましたよぅ」
面倒くささを嘆きながら、それでも追加で飲みたい欲が勝ったらしい。しぶしぶ隠しから取り出したのは、小さな真鍮の縦笛だ。
「ちょうど酒場だ。客集めは必要ない。よかったな」
低く笑って彼は同僚の肩を叩く。合いの手くらいは入れてやる。言うとこれ見よがしに大きくため息をつき、バラッドは残ったジョッキを一気に呷ると、
「――聞いたからな。入れろよ。合いの手。絶対」
捨て台詞を言い置いて、笛を咥え、唐突ににぎやかに吹き鳴らしながら酒場の炉端へ出て行った。
――終わってるのはよく判ってるよ。
ふと、背中越しに呟きが聞こえた気がしてグシュナサフは顔を上げたが、他の酔いどれどもの喧騒にかき消されて、結局それが空耳だったのかどうかわからずじまいに終わった。
(20181010)