最近すこし暖かくなってきた気がする。

 コロカントは薪を抱えたまま空を見上げ、ちらちら落ちてくる白い綿雪をひとつ、ふたつ、と数えた。

 まだだいぶん寒い。雪も二日にいっぺんは降る。

 けれど耳を澄ますと、森の中で音がするのだ。

 それは降り積もった雪が木から落ちる音だったり、風が巻き上げる粉雪が雪の粒同士擦れて立てる音だったりした。

 それに混じって、長い冬をじっと忍んでいた森の小さな獣たちが、動き出す音がある。

 まだ固いつぼみの枝に、尾のぴんと長い鳥が数羽やってきて、にぎやかにさえずりを交わしている。じきに春で、うれしくてたまらないといったふうの弾んだ声。

 巣ごもりしていた栗鼠(りす)が出てきて、雪の上にちょんちょんと足跡を残しながら、秋に蓄えたくるみやどんぐりを掘りおこして食べている姿。

 春と言うのは不思議なものだと思う。春が来たからと言って、何かがとくべつ変わるわけでもないのに、妙にうわついた心持ちになる。

 はる。

 小さく彼女は呟いていた。

 

 雪が緩んだころに、また来ます。

 誰かがそう言った。彼女は待っている。

 

 冬の間にがちがちに固まり、まだ雪の下にある土を思う。雪が溶け、もうすこし暖かくなったら、畝を作り種をまくのだ。

何度も何度も、霜が降り、降りては溶け、溶けたものが凍り、その繰りかえしを行ううちに、掘り返しやわらかだった土はみっしりとひきしまり、鍬(くわ)先を拒んで撥ねつけるものになる。剣を振るい慣れているはずの男たちが、しまいには根を上げるほど、春先の最初の畑おこしは難儀だ。

それでも小器用な男の方は、うまい具合に力を逃がし、鍬を入れるのだが、もうひとりの口が達者の男になるとてんでいけない。力任せに鍬を叩きこもうとして、土に跳ね返されている。

剣は、鉄のかたまりだそうだ。

 細身に作られているとはいえ、男が腰に佩いた剣は、ためしに持ったことのあるコロカントの手にはずっしりと重かった。

その重量のある鉄のかたまりを、使いこなすことができるのだから、こうした農具のひとつ扱えないはずはない。鍬の方がよほど軽いのだ。

だのに男はまるで巧くならない。

力が足りないわけではないのだと思う。実際、共に暮らしている中年女のオゥルは、わりと楽にざくざくと土を起こしているように見えた。

――あたしは、農家の出ですからね。

男ができないことをどうして女ができるのか、不思議に思ったコロカントが、女にたずねると、そう返された。

――覚えるも、覚えないも、小さいころからこうしてましたから。

頭で考えて、うまくいくことではないのだろうなと思った。慣れの問題だ。

 

そのうち、鍬を放り出して、男は草笛を吹きはじめる。小器用な男の方が、お前いったい何しにきているんだと呆れてとがめても気にする素振りはない。

その草笛を吹く男の横に彼女も腰を下ろす。

しばらくそぞろ吹いたあと、農夫が土を耕す風景は、ミランシア領のどこでも見られる馴染みの景色だったと、ふと思い出したように男は言った。

……いやぁ、鍬を振り上げ振り下ろす。彼らの動きは、ものすごく簡単に見えてたんですよ。今日、認識をあらためます。実に力も、そうして辛抱も、いるものですねぇ。

初めて知ったと頭を掻いて、男は笑った。

今度から、パンを食うときは、感謝して食うことにします。

笑う男の鼻の頭に土がついていた。

おかしくなってコロカントも笑う。

 

「たぶん、奪うことが好きな人間じゃあだめなんですよ」

 その晩、結局一日付き合わされた畑仕事に肉刺(まめ)を作り、つぶれたそれに情けなく眉尻を下げながら、その男が言った。

「……きっと、奪うよりも、育てることが好きな人間じゃあないといけないんでしょうねぇ……、」

 その言葉の通りなら、男は奪うことの方が得意だということになるなと、聞いたコロカントは思った。

……でも、本当にそうかな。

 男の手は、ひどく繊細だと彼女は思う。

 男は荷物に笛だの弦だのを突っ込んで持ち歩いていたし、頼めばそれらを鳴らしてくれる。興が乗れば歌ってくれたりもした。

男のかなでる曲は、中年女が寝しなに歌ってくれる子守唄とはだいぶんちがって、コロカントが耳にしたことのない音のつらなりだった。

彼女にとっては異国の音だ。

不思議な歌ですね。

彼女が褒めると、男は苦笑した。

自分の歌のほとんどは、やぶれかぶれのでたらめですから、容易に褒めちゃあいけません、世に出れば、もっときらびやかなもの、素晴らしいものがたくさんございますよ。

……本当にそうかな。

彼女は思った。自分には、男のかなでる歌はとても美しいもののように思えるけれど。

 

そんなことを思い出す。

はる、もう一度呟いて、コロカントはじっと空を見る。

まだ雪が降ってくる。この降り方だと、あと半時ほどで視界は真っ白になるほど吹雪いてくるだろう。

雪の緩みはまだ遠い。男たちがここへやって来るのも、当分先のことになりそうだった。

(……会いたいな)

 そんなことを思う。

 会って、たくさんの歌を聞かせてほしい。

 笛の吹き方を教えてほしい。

 

 空から戻した意識の片隅に、ちら、と何かが引っかかった。見逃してしまいそうなほど、小さな何か。気を惹かれてコロカントはさくさくと雪を踏み進む。

 落ちていたのは釦(ぼたん)だった。

親指の先ほどの大きさなのに自分の目に留まったのは、きっとこの森の中でそれだけが人工的で異質なせいだ。

指でつまんで拾う。まっさきに、自分か、オゥルのものだろうかと思った。

 この森に、他に住んでいる人間はいないと聞いている。住んでいるのは彼女と女のふたりだけだ。

 つまんだそれを眺めてみたが、彫られた鷹の模様に見覚えはなかった。透かし彫りまで入っているようにも思える。これだけ細工されているのだから、上着の釦だろう。女がつけていれば珍しくて目に入ったと思うが、女がそんなような上着を着ていた覚えは、コロカントにはない。

 そうして自分の手持ちの服にも、こんな手の込んだ細工があるものはなかった。

(じゃあ、誰だろう)

 一番に心当たりがあるのは、日頃からやたら派手な服を着ている男のものだということだが、彼も、そうしてもうひとりの男も、森のあちらこちらに吹き溜まりができ徒歩で進むのが困難になってから、姿を見せていない。

彼らがここを訪れたのは、もうずいぶん前のことだ。

それから何度も雪が降っている。雪上に、男たちのものが落ちているはずはないのだ。

薄曇りの空に透かして見た。

おもてに鷹の紋章が彫られていて、裏から赤い色の石があてられている。鷹の目の部分に、ちょうど当たるように配置されているのだ。とてもきれいだと思う。

どこかで見た紋章だなと思った。どこで見たのだろう。

それから、こんなにきれいなものはきっと大事なものに違いない、だったらその大事なものを失くして、持ち主は困っているのではないだろうかと思った。

 だから、気がつかなかった。

「動くな」

 不意に背後から声が聞こえて、コロカントは驚いて振り返る。聞いた覚えのない声だった。それから、なんて低い声なんだろうと続けて思った。

 振り向いて目を見張る。複数の矢尻が、彼女へまっすぐに向けられていた。

「お前が、ここに住んでいる子供だな」

 低く押し殺した声がたしかめ、彼女はこわばったままひとつ頷く。有無を言わせない怖い声だと思った。

「――お前意外に、子供はいないな」

 頷く。

「そうか。……痛い思いしたくなけりゃあ、大人しくしていろ。殺すなとは言われているが、傷つけるなとは言われていねぇからな」

 言って油断なくひとりが弓を下ろし、ゆっくりと彼女へ近づいた。その近づく相手と、それから矢尻を下げることもないものどもを、交互に彼女は見比べる。

影のようだと思う。彼らは黒い覆面で顔を隠していた。体のかたちからするとみな男のように思えたが、判らない。

 

「その子を放しな……!」

 

 寒気を割くようにして鋭い牽制の声が上がり、数人の目が声の側へ向けられた。同じようにこわばりながらも目をやったコロカントは、塔の外壁を背に仁王立ちになる中年女オゥルを見た。手には薪割りの鉈を持っている。

(……ああ、)

 だめ。

 次に起こることが容易に知れて、絶望の呻きが彼女の口から漏れた。こんなしわがれ声がおのれの喉から出るのが信じられなかった。

 制止する前から判りきっている女のすこし先の未来。見開かれた目。雪に染み出す赤い血。すぐに冷えてゆく大きな体。

「だめ、」

 どうにもならないことをとうに知っていたのに、思わず駆けだそうとした彼女の腕を、脇の覆面がひねり上げる。苦痛の声が漏れた。

 その声に女が動いた。

 絶叫を上げながら鉈を構え、必死の形相で突っ走ってくる。

「――だめ!」

 コロカントの口が制止の悲鳴を上げたのと、彼女の脇から容赦なく数本の矢が放たれたのとどちらが先だったか、まなじりを裂けるほど見開いた彼女の目の前で、ばすばすと女の胸に矢尻が突き立って、反動で女は後方へ吹っ飛んだ。

 そうして、起きない。

「オゥル、」

 雪解けのまだ遠い森は、不気味なほど静かで、コロカントの上げた声も、吸収されてしまう。

「……オゥル、」

 目の前で起こった一連が信じられなかった。

現実味がまるでない。ただ凍り付くだけのコロカントに、ひねり上げた腕を脇の覆面は放してやりながら、脅しを口にする。

「……大人しくしてねぇと、お前もこうなる。判るな」

 判る?……判らない。判らない。どうしてオゥルはこうなっちゃったんだろう。どうしてこのひとたちはこんな乱暴なことをするんだろう。わからない。わからないわからないわからないわからな……、……、……。

「おい、連れていけ」

 がくがくと膝を震えさせはじめたコロカントへ顎をしゃくり、言われた別の覆面が、彼女の体を抱えあげる。はずみで、彼女の手の中から先ごろ拾った飾り釦がぽとん、と雪の上へ滑り落ちた。

 覆面の誰も目をやらないそれを、ひとり彼女は凝視した。なにかに懸命に意識を向けてなければ、気が違ってしまいそうだと思った。

 そのときになって思いだす。ことここに至って思いだしたところで、何の役にも立たないどうでもいい記憶。

(……赤い目の鷹)

 赤目の鷹は、セイゼルの紋章だ。

 

 

 馬の鞍に縛りつけられ、コロカントは森の中を進んだ。

 ろくに着せ掛けられてもない体は、芯まで冷えたけれど、寒いと感じることはない。音を拾い上げる機能がどこか麻痺していて、覆面どもの交わす言葉も、雪中を進まされる馬の呼気も、水にくぐもったようによく聞こえなかった。

 夏の暑い日に、水に潜ったみたいだと思う。

 世界が遮蔽されていて、普段聞こえる音はわずかにしか聞こえず、代わって川底の小石のぶつかる音や、自分のこめかみのあたりのどくどくという音が、妙に大きく聞こえるのだった。

 あのとき、女は岸辺にいて、彼女が顔を出し手を振ると、にこにこ手を振りかえしてくれた。

 そうしていい加減唇が紫になるまで浸かっていると、ほらほら、そろそろ上がらないとお腹をこわしますよ。そう言って大判の手拭いをもって近づいてくるのだ。

 川は逃げないんですから。そんなに頑張って浸からなくたっていいんです。

 そんなことを言っていたな。思いだす。

 思いだすと、目から涙が垂れた。うつ伏せに縛られていたので、垂れた涙は鞍布に吸い込まれてすぐに冷たくなった。涙はあとからあとから出てきて、布はぐちゃぐちゃに湿っていった。

 

「おい、子供に毛布をかぶせておけ」

 いい加減進んだ頃に夜になって、彼女は鞍から下ろされた。あまりに体がかじかんで、ひとりで座ることもできなかった。

「渡す前に死なれても困る」

 がちがち震える彼女の上に、おざなりに毛布がかぶせられて、視界が遮られる。四半時ほどすると、彼女自身の体熱と呼気で、毛布内の空気はしっとりと湿り気を帯びた。それでも相当寒い。けれど、覆われた内側の熱は、初春の寒気より数倍ましだと思った。

 ほら、お腹をこわしますよ。女の声がまた蘇る。

 畑仕事に節くれだった、女の温かな手。抱きついた肉厚のうなじと、大きな胸。

 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。

 震えながら口を押さえる。堪えなければ、泣き声を上げてしまいそうだった。

 女は死んでしまった。あの何度も抱きしめてくれたあたたかな胸に矢を突き立てられて、だめになってしまった。女はもういない。もう動かない。

 ――わたしが、声を上げたから。

 彼女の声に反応して、女は動いた。自分のせいだ。ちょっと腕が痛いくらいで、声を出さなければよかった。

 わたしのせいだ。わたしのせいだ。

 声を押し殺して彼女は泣いた。

 

 しばらく泣いたのち、ふと毛布の向こう側、熾した火に当たる男たちの輪から、楽器の音が聞こえてくることにコロカントは気がついた。

 やわらかですこしもの悲しい弦の音だ。聞いたことのある楽器の音だった。

(……バラッド、)

 男は笛だの弦だの、そのときの気分でいくつか楽器を弾く。最後に森を訪れたときに、荷物の袋の中に入れていた楽器のひとつが、こういう音をだしたと思った。

 途切れなく伸びる弦の音にじっと耳を傾けて、覆面のどれが弾いているのか判らないが、腕前は赤毛の男の方が上だなとそんなことも思う。

 彼女に巧拙はよくわからない。それでも、毛布の向こうに流れる音は、ささくれて時々ぶれる。赤毛の方が、聞いていて心地いいのだ。

 そこから連想して、そのとき伴奏しながら男が歌った曲を、コロカントは思い出した。

 冬に降る雨のような物語だと思った。

 ――むかしむかし、ひとりの男がおりました。彼は歌う。

 

 男は樵でした。

ある日、樵が森の奥へ迷い込んだとき、泉のそばでひとりの乙女を見つけました。

 ……なぜ、こんなところに乙女が。

 驚くとともに、樵はその乙女の美しさに、一目で心を奪われてしまいました。

 腰までとどく髪は水藻のよう。白くやわらかな肌は絹のよう。見上げるまなこは青い石のようでした。

 ……君はどうしてここにいるんだい。樵は聞きました。僕は一目で君を好きになってしまった。どうか僕と一緒になっておくれ。

 乙女はそれを聞くと、悲しそうに首を振りました。返事はありません。乙女は喋れなかったのです。

 けれど、その日から、樵は森の奥へ通いました。毎日毎日、木を伐る仕事も忘れて、樵は乙女に会いに行きました。

 樵が乙女を求めたとき、乙女は喜びもしませんでしたが、いやがりもしませんでした。ただ若い男の熱いたかぶりを受け入れたのです。樵が触れた部分だけ、ひんやりとした体があたたかくなるのでした。

 森の奥へ通うのが、ひと月になり、ふた月になり、み月になったころ、樵はたまらなくなって乙女に言いました。

 ……今日こそ、なんとしても、僕は君をここから連れてゆくよ。

 悲しそうに首を振る乙女を立たせ、樵は乙女の手を引いて森の出口へ向かって歩き出しました。

 ……君の姿を見たら、村のみんなはきっと驚く。樵は言いました。だって、森の奥に、こんな美しい君がいるなんて思いもしないもの。

 乙女は歩く途中で、何度も何度も、森の奥を振り返りました。裸足の乙女の足の裏の皮は破れ、小路に点々と赤い跡がつきました。

 乙女を村に連れて帰ることに頭がいっぱいだった樵は、その赤い跡に気がつきませんでした。

 そうして歩くうちに、森の出口が見えてきました。

 ……もうじきだから。樵は言いました。君は、僕と村へ帰って、そうして一緒になるんだ。

 嬉しそうに言った樵は、振り返ってあっと言いました。

 そこには誰もいません。いまのいままで手を引いていた乙女の姿は消えていました。

 ……どうして。

 樵の足元には、つい手前まで続く点々と赤い跡と、そこでひくひくと鰓(えら)を動かす一匹の鮒(ふな)がいるだけでした。

 腹を見せて息絶える魚を見た樵は、もう一度あっと声を上げました。

 魚の目は、まるで青い石をはめ込んだように真っ青だったのです。

 

 そこまで歌ったところで、寝る時間ですよと声をかけられ、コロカントは素直に席を立ったのだ。立ちながらふと、森を出られないという点では、乙女も自分も似たようなものかもしれないなと思う。

 理由はちがえど、森を出ては生きてゆけない。

 ちがいますよ。

 その彼女の思考を見透かしたように、穏やかに掛けられた声がある。振り向くと、緑灰色の目が眠たげに細められていた。弦を締め直しながら男は呟く。

 姫はきちんと生きてゆけます。大丈夫、ここにいるみんなで、並んで手をつないで出てゆけばいいんです。ひとりじゃあない。そうしたら、怖くないですよ。

 ――本当にそうだろうか。

 またじわ、と涙が滲んで、コロカントは固く目をつぶる。

(バラッド。グシュナサフ)

 もし本当にそうなのだとしたら、今すぐ隣にきてほしい。

 隣にきて、今日あったことはみんな悪い夢なんだと笑い飛ばしてほしい。

 悲しくて、怖くて、喉になにか塊が詰まっているような気がしてしようがない。

(わたしももしかしたら魚になって、)

 だからこんな風に上手に呼吸ができないのだ。

 ひくひくと腹を見せる一匹の魚。

 ――たすけてください。

 あの歌の続きはあったのだろうか。あったとして、あのあと、樵は一体どうしたのだろうか。

 ――たすけてください。

 あるのなら、今ここに来て、聞かせてほしい。

 

 

「――血のにおいがするのう」

 言って老人は顔を背けるようにして、体を窓際へ寄せた。九十を超えた枯れ木のような腕が、窓枠を掴む。

対面していたバラッドが、顔をわずかにしかめた。

「血ですか」

呟き、同じように窓の外の空へ目を移す。

陰鬱なこの部屋の空気をあざわらうかのように、外気は澄み、ぬけるように空はあおい。今日は珍しくとてもいい天気だった。

「血、ですか、」

もう一度彼は呟いた。

 

バラッドが訪れていたのは、ラグリア教団管区大司教の私室だ。

二神を崇めるこの教団は、旧ミランシア領やセイゼル領、ハブレスト領は言うに及ばず、大陸全土に勢力を持つ巨大宗教団である。

裾野の民を取り込む努力を惜しまない一方で、まつりごとに口出しのできる貴族とのかかわり合いも密にし、地盤をしっかり固めている。教主を名乗るトップはもとより、バラッドの目の前の老人も、前セイゼル公の娘を一族に迎えていた。

「なまぐさ坊主」

 口さがないバラッドの地味な顔の同僚は、酒が入った席でそう言ったことがある。

 苦い顔をしていた。教団にではなく、そのなまぐさ坊主に頼るしかない自分たちの無力に、だ。

 じわじわと周囲を囲われてゆく現状を打ち破れそうな方法が、ほかに見つけられなかったことを、彼も痛いほど理解していたからだ。

 最初から負け戦だった。王手。いつその声が聞こえてきてもおかしくない。

時間がなかった。

それでも、進退窮まりつつある現状の中で、最有効と思われる一手であることは確かだった。

領を成すのは、領主ではなく領民である。その領民の大多数が信じる教義をおろそかにする施政者はいない。

軽んじれば、時に暴動になった。

 

「……ハブレストの侵攻は過ちであった。残されたミランシアの遺児こそが、旧領の正当な後継者である」

「……、」

「それは憤死した旧領主の遺志であり、また散り散りになって逃げ延びた臣下どもの悲願である」

「……、」

 遠くの山々を眺めながら、管区大司教は噛みくだくように呟いて目を閉じた。

「バラッドと言ったな」

「――はい、」

 しばらくして老人は口を開いた。じっと黙り込み、彼の思案を待っていたバラッドは、低く囁くように答える。

「戦をのぞむか」

「それは、」

 口を開きかけたバラッドを制して、老人が淡々と呟く。年齢によって刻まれた深い皺で、感情がよく読めない。

「バラッド」

「はい、」

「姫君はいくつと言ったかな」

「数えで七つにございます」

「……七つか」

 瞼がいつの間にか開かれて、バラッドに向けられている。鋭い視線だった。

「わしはもう九十を超えた。おのれが七つの頃いったい何をしでかしていたものやら、まったく覚えがない。……、……そうか、七つか」

 溜息をついて老人は再び目を閉じた。視線がかくれ、ようやく空気がゆるむ。そこではじめてごく、と詰めていた息を吐き出してバラッドは唾を飲みこんだ。

 

「義、という言葉があるな」

「はい、」

 目をつぶるとともにまた口を噤んだ老人は、バラッドが頭の中でたっぷり二千を数えるまで沈黙し、

「忠義。仁義。正義。どれもよい言葉だ」

 それから抑揚なく言った。

「……はい、」

「ひとのおこなう道すじ。ひとが、ひとであるためのしるべ。個が、個のためにおこなう為を義と呼ぶことを、わしはとても尊いことだと思うが、その『義』に『国為』がつくと、すこおし意味合いが異なるように感じるようになった。これもまた年かな」

「……、」

 次に老人が目をひらく瞬間が恐ろしくなり、バラッドは思わず視線を外し、窓の外を見る。

「まだ子供だ」

 老人は言った。

「……はい」

「子供を陣頭へかかげることを、大義というか」

「……、」

「それを義と押し通すかたくななつよさを、そなたは持っているか」

「……、」

「――姫を旗竿に、そなたたちがハブレスト領より独立することをのぞむと言うことは、ハブレストとの境に、もう一度戦を起こし、いのちの奪い合いをするということだ。……ハブレスト領が旧ミランシア領へ侵攻して四年。下の人間どもの生活は、すでに落ち着いている」

「……、」

「住まいや畑や女房子供が、明日にも焼かれもみくちゃになる生活を歓迎する人間はおるまい。ようやく落ち着いた生活をもう一度荒立てる。遺児のために兵となり、戦って死ねと命ずる。……まあ、まず恨まれるだろうな。奮起させるには、大きな力が必要だ。――情け容赦なく強い力がな。生半なものではハブレストとの押しくらべに簡単に負ける。生死のかかった民の目にいつわりは通用せんぞ。――そなたや、そなたの同志の掲げるその七つの子供は、その憎悪や侮蔑の籠もった視線を、平然と受けて立つ強さを持っているか」

「……、」

 強さ。強さとはなんだ。

 バラッドは内心吐き棄てた。

 彼らが主の少女に強いるつもりの道は、修羅道だ。ようやく咲いた花が次の日にはしおれたと言って涙ぐむ心根の主の手に、血まみれの剣を握らせ、敵となるものを容赦なく叩き落とすことを強さというのなら、自分は、

 

「――セイゼルは、手の平を返すことを決めたぞ」

 

 ぽつんと呟かれた老人の言葉に、思考に沈みかけたバラッドは、弾かれたように顔を上げる。

「は、」

 引き攣った声が喉から漏れた。顔がこわばるのが判る。莫迦な。どうして。そんなことを言いたかった気もするが、よく判らなかった。

「血のにおいがすると言ったろう」

 愕然となりまばたきを忘れるバラッドへ、憐れむように老人は胸元の聖珠を弄りながら告げた。

「端的に言うとな。セイゼルは、待ちきれなくなったのだ。……腹をすかせた犬が、口を開けて肉が落ちるのを待っていたが、いつまでたっても落ちてこないので、考えを変えたのだ。落ちるのを待っていては、肉は腐るかもしれない。カラスに食われるかもしれない」

 だったら。老人は瞑目する。しばしば挟む瞑目は、思案しているのではなく、祈っていたのだということにバラッドは今頃気がついた。

「……では、」

 ようやく押し出したおのれの声は、まるでおのれの声ではないようだった。

「教団の立ち位置は、どうなります。中立をつらぬいていただけますのか」

「――建前はな」

 老人が低く答える。

「……だが、セイゼルとハブレスト双方から、多額の寄進を先だって受けたのでな……、……、地獄の沙汰もなんとやら、まあ、優先順位というものがある」

 なまぐさ坊主。同僚の言葉を思い出す。九十幾つを生き抜いた老人のしたたかな顔がそこにある。

 そうしてバラッドは、私室の扉の向こう側から、抑えきれずに立ちのぼる、剣呑な空気を嗅いだ。

 ああ、よそのにおいだ。そう思う。

ひとり、ふたりの扉前に立つ護衛のものではない。

これは、彼を捉えるために部屋の外に待機した人間の放つ殺気だ。

 老人の私室と案内されたここは、私室にしてはずいぶんな殺風景だった。今にして判る。これは、彼自身の退路を断つための、部屋だった。

「そなたは姫の居場所を知っている。謀反を起こしたときに、賛同する約束を取り付けたものの名前も知っている。腹をすかせた犬へ、くれてやる餌としては上等の部類だとは思わないか」

「――」

 バラッドは低く身構える。

 

「……ふたつ、お聞かせ願いたい」

 しばらく老人と静かに睨みあったのち、バラッドは言った。

「なにか」

「わたしが、管区大司教様を質に取り、ここから脱出を試みるとは思われませんか」

「わしが質になるかね」

 老人は忍び笑う。自嘲だった。

「管区大司教の座を狙う、教団内部の人間は多いぞ」

「そうですか。――……、そうですね。それと、ここは屋敷の何階でしょう」

「五階かな。見晴らしがよいだろう」

「五階。そうですか」

 バラッドは頷く。そうして老人が室外へ合図をしようとする隙を衝いてぱっと立ち上がり、窓際に並ぶ老人へ身を寄せた。

 さすがに驚いたか、一瞬こわばる老人の刻み込まれた深い皺を目に入れながら、

「申し訳ありませんが、今ここで捕まるわけにはまいりませんので」

 窓外へ視線を転じる。……ままよ。

下に流れる川が浅瀬でないことを祈りながら、バラッドはためらいなしに窓枠を越え、宙へ身を躍らせた。

 

 

 

 (20181026)

最終更新:2018年10月26日 00:54