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「オレね、アンタが都はなれたら、なんかもっと、ゆっくりのんびりするもんだと思ってたのね」

 

 眉をしかめながらチャトラは言った。

 目の前の、書類に埋もれている男に対してボヤいたのだ。

 座っているのは皇帝である。

 正確には元、がつくのだけれど、彼女は男のことを皇帝、と呼んでいたので、便宜上そのままに呼び続けている。

 うん、曖昧に頷きながら、男は書類へ走らせる目を上げもしない。

 

「聞いてる?」

「耳は開いておるよ」

 

 顔を上げることなく皇帝は応じた。

 そういうことじゃなくてさ、ふくれながらチャトラは言った。

 言いながら、しかしこの目の前の男が、二、三枚並べた書類を同時進行に読みつつ別の書類にペンを走らせ、そうして彼女の話もこぼさず聞いていることを知っているので、ほらだから聞いていない、は通用しないことも判っている。

 実際器用だと思う。

 器用、と呼ぶのはすこし語弊があるのかもしれないけれど、チャトラは書かれた文字を理解するのと、文字を紙に書き入れるのと、相手の話を頭にとどめる、の三つをいっぺんに行うことはどうやってもできそうにないので、そこのところは感心する。

 内容のまるで違う紙を並行して読めるという時点で、もうすでに自分の理解を越えている。

 真似してやろうとしたら、頭のどこかの線が攣りそうだと思った。

 そうして、まったく聞いていない風に見える目の前の相手が、チャトラの話をいままで一度も聞き落としたことがないことも知っている。

 聞いていなかったからもう一度、だとか、聞いていたはずだが忘れた、だとか、言われたことがない。

 もしかすると、皇帝になるための帝王学とやらの段階で、いちどきに複数のことがこなせるように訓練するのかもしれないと思ったりもする。

 聞いたことはない。

同時に複数進行できるということはたいしたことだと思うし、聞いているのも承知のうえで、けれど毎度毎度こちらに目をやりもしない姿勢というのも、どうかとチャトラは思うのだ。

 

「誠意の問題だよね」

「誠意」

 

 言われて顔を上げないまま皇帝が首をかしげた。

 

季節は春だった。

建国祭の業務と生誕祭の責務を終え、新しい年をまたいですぐに、エスタッド皇は退位を宣言した。

青天の霹靂。

は、その時号外で初めて知らされた都民ぐらいのもので、内内では数年前から退位に向けての下準備が着々となされていたのを、チャトラも知っている。

チャトラはまつりごとが判らない。

墓穴まで面倒を見てやると宣言した皇帝の、半分を占めるところだと判ってはいるが、そもそも学のない自分が、付け焼刃で政治の何たるかをかじったところで、どうなるものでもないと思っている。

この国の頂点あたりにいる皇帝だの、三補佐だの、それを裏から支える人間だのは、それこそ物心つく前より、まつりごとに関する英才教育を仕込まれてきているのだ。

彼女が覚えたことと言えば、掏摸(すり)の技術だとか、早く飯が食えるだとか、一度見た地図は割合覚えているだとかで、もう生まれた星のもとがまるで違うのだと思っている。

そもそも次元が違うのだ。

あきらめた。

けれど、そのさっぱり政治のことが判らないチャトラにも、男が自身の位置から身を引き、ほかの誰かにその場を託すということが、年単位の時間をかけて行わねばならない、回りくどく大変なことなのだということだけは見て理解した。

 年明けてみ月はなんだか怒涛だった。特別彼女がなにか普段と別の仕事に駆り出されるということもなかったのだけれど、とにかく男の周囲が慌ただしかった。

 その慌ただしさに押し流されるようにして、彼女もくるくる働いた。

 そうして無事に譲位を終え、男は皇宮を離れた。

 ほっとしたことを覚えている。

 

「だからね、オレ、都を離れたらもうちょっと、二度寝三昧だとか、昼寝三昧だとか、まあ内容はともかく、アンタが頭にクモの巣が張るくらい、ぼへぇーとするもんだと思ってたの」

「ほう」

「そしたら毎日、毎日、毎日、仕事仕事仕事……、補佐のさ、アウグスタのおっさんとか、ノイエさんとか、ヒゲとか、ここ皇宮からだいぶ離れてるのに、ちょこちょこやって来るだろ」

「来るね」

「おはようからおやすみまで、ディクスさんいるし。前と変わらなくない?」

 

 卓の上には積まれた書類。

 そうして皇帝の背後に控えるのは護衛のディクスだ。

 黒尽くめの服なのも一緒、常に気を抜かず皇帝の傍を離れないのも一緒。

 ここが皇宮と呼ばれる場所ではないだけ、暮らす屋敷の間取りや、部屋のしつらえが変わっただけ。

過ぎる日々があまりに今までと変わりない。

 

「つまり――、」

 

 書類からちらと視線をあげて、男がチャトラを見た。

 仕事をしたまま自分の話を聞くという姿勢は、たとえ一語一句聞き逃していないとしても誠意がないと言い張ったすぐそのあとで、すくい上げるように見つめられると、なんだかそわそわと落ち着かなくなる。

 男の目に不快はない。明らかに面白がっている色だ。

 

「――かまってほしい?」

 

 言われてかっと頬に血が上ったのが判った。

 

「ば、ばば、莫迦言うなよそんなんじゃないんだよ別にオレそう言うのでぐちぐち文句タレてるとか思われると迷惑なんだよただオレはせっかく体を休められるような状況になったってのに相変わらず仕事にかまけてるアンタがどうなのって言ってるだけで別にオレのこともうちょっとかまってとかそう言うこと言ってるわけじゃ」

「猫」

「な、な、なん、」

「おいで」

 

 ぽん、と椅子の脇を叩かれてチャトラは口を噤んだ。

 男が叩いた椅子の布地をしばらく睨んで、それから自分でもどうかと思いながら、じりじりと近寄る。

 男が座っていた椅子は、ひとりのために設えられた椅子だったけれど、痩せぎすの彼女が腰を下ろす広さは十分にあった。

 皇帝は彼女を引き寄せ、喉奥で笑いながら頭へ顎を乗せる。乗せた拍子に、さらさらと男の金糸が彼女の頬をくすぐった。

 一度ばっつりと絶たれた髪は、最近すこしずつ長さを伸ばして、男の肩下あたりになっていた。

 

「な、なんだよ」

「かまってほしかったのだろう」

 

 言いながらまた懲りずにチャトラ越しに書類へ目を落としている。

……そう言えばこのひと仕事の鬼だった。

男が適当加減に見えて、課せられた仕事に対して一切手を抜かない性格であったことを彼女は思い出した。

 ……忙しくて、よくメシ抜いてたもんな。

 思い出すと腹が鳴った。単純なものだと思う。

 腹の音を聞いてまた皇帝が僅かに笑う。

 それから、これが片付いたら食事にしようか、などとめずらしく殊勝なことを呟いたので、どの口が言うんだよ、言いながらチャトラは男の肩に頭を寄せた。

 

 

最終更新:2018年12月22日 23:29