料亭の玄関を出て右手へ向かうと、海に面した下り坂である。眼下に広がる海原と、そこから吹き上げる風が心地良い。
 ちんとんしゃん。
 どこの座敷か、三味の音が漏れ聞こえる。わはは。酒に酔い食らった男どもの喚声。愛想笑い。密談。
 宵闇の中を、縫うように歩くハルの後ろから、無言で従う大柄な男がいる。
 ジェイムスと言う名の異人だ。
 どういった勘違いからか、遊女であり芸者であるハルのことを、日本の言葉の教師と定めてしまった男である。
 根は良い男であるとは思う。
 ……思うのだが。
 眉間に、寄りかけた皺を揉み解しながら、ハルは背後を窺った。
 ぬっ、と音でもしそうなほどに長身な異人は、けれどもこの夜歩きを楽しんでいるようで、あちらこちらを見回すに余念が無い。
 時折響く風鈴の音にも耳を傾けている。
 「あれは、よい、おと。です」
 たどたどしい言葉尻にも、男の労苦は滲み出て、静かに頷くに止めたハルである。
 ハルが、男に言葉を教え始めて三日。
 まるで乾いた海綿が、水を吸収していくように、みるみる知識を吸収してゆく男の学習意欲に、目を見張ったハルだ。
 一語の発音さえも、知らなかった五日前。
 幼児のように考え考え呟く言葉は、たいそう覚束ないとは言え、尚も驚嘆。
 一語たりとも聞き逃すまいと、喰いつく男の学習姿勢に頼もしさと、どこかおかしさを感じながら、大きな犬に、なつかれてしまったような、心持になったハルだった。
 こうして彼女の後ろから付いてくる様は、当にそう。
 「……ジェイムス」
 砂浜に降り立ったハルは、三歩後ろに歩く男に呼びかけて振り向いた。
 「はい?」
 「横。お歩きなさいよ」
 つんとしながらも、身振りをつけて示してやると、一つ笑った男はそうして提灯片手に、彼女の横へ並んだ。
 頭二つ分高い。
 横目で見上げて、異人は皆、このように大柄な人種なのだろうかと、思ったハルだった。
 昼の猛暑は鳴りを潜めて、流石に海辺は風が吹いて涼しい。
 踏みしめる砂の音に、耳を預けながら、波打ち際へと彼女は向かう。
 連日に渡り、逢い状を送ってくる男に、こうなればとことん付き合ってやろうと、妙に腹を据えたハルは、言葉だけでなく、こうして、男にとっては異国であろう文化を、教え込もうとあちらこちらに連れ歩くことにしたのだ。
 今宵は新月。提灯の明かりだけが、宵歩きの目印である。
 並び歩く男から、風に吹かれてよい香りが届いた。
 異人は、男でも匂い袋を携帯しているのかもしれない。
 鼻をひくつかせたハルに目敏く気付いて、男が彼女を見下ろした。
 「ハル?」
 「匂うね」
 「におう……、からだ、きたない、ですか?」
 「ううん」
 彼女は首を振り、次には匂いと臭いはどう教えたらよいかと、思わず頭を悩ませた。
 「汚くないよ」
 さくさくと、草履の下で音が鳴る。夜露に湿気たそれは、昼間の砂とはまた違う。
 闇に紛れて見えないけれど、恐らく砂の色は白。
 あの早春の、雪を踏みしめた感触に、似ていないことも無い。

 きっと。きっと迎えにゆくから。

 聞こえるはずのない声が聞こえた気がして、ぼんやり歩くハルの足が、砂に取られてふと、縺れた。
 「あ。」
 まろびかけた彼女の身体は、けれど砂上に膝を汚すことはなかった。
 「ハル」
 差し出した男の頑丈な腕が、彼女の帯上で支えていたからだ。
 蘭服の袖からやはり、よい香りがした。
 「O.k. bent u?(大丈夫ですか?)」
 「こら」
 咄嗟の言葉には、やはり習いかけの言葉は出てこない。自分を気遣う男の青い瞳に、
 「めっ」
 形ばかり怒って見せたハルである。
 「蘭語使って良いって言ってないでしょう」
 怒って見せたのは、照れ隠しも多分に混じっていた。この仕事を選んでより、毎晩と言っていいほどに、男たちに触れられてきた彼女だったが、どこかの誰かの勘違いのせいで、ここ数日はご無沙汰している。
 だから何故か、気恥ずかしい。
 触れられ慣れたはずの体が、僅かに硬直した。
 「……ハル?」
 不思議そうに見下ろす瞳は、どこまでも真っ直ぐで、異人と言う物は、もしかすると自分たち倭人よりも、よほど素直な部類なのかとも思う。
 ……それとも男が特別だったか。
 「ジェイムス」
 見上げて何か言いかけた彼女に、男は邪気のない笑顔でにこりと笑うと、不意に身を離した。
 あ。
 もっと触れていたかったような、なんとなくほっとしたような、そんな曖昧な気分を抱えて、彼女は男の顔を見る。
 「ハル?」
 ばら。
 何かを言いかけたジェイムスが、次の言葉を探し出す前に、つぶてが。
 小さなつぶてが降り注いだ。
 ばらばらばらばらばらばらばらばらばらばら。
 いくつも。いくつも。
 石つぶてだ。
 雨のように、雹のように、それは二人に降りかかる。
 「洋妾(ラシャメン)が通るぞ!」
 「売国奴!」
 「股を開いたおまんまはうまいか!」
 容赦の無い言葉も一緒に、ハルの耳に飛び込む。
 目の前が暗くなるという言葉は本当なのだなと、いつでも冷静な頭のどこかがそう囁いた。
 がん、と頭を殴られたような衝撃があった。
 眼をやれば、少し離れた石垣の上より、子供が数人、わだかまってこちらに顔を向けている。まだ幼い顔も中にはあるというのに、皆一様に黄色い歯をむき出して、悪意に満ちた笑いを張り付かせているのだった。
 彼らの知識ではあるまい。おそらく親より聞かされた言葉ではあったのだろう。
 ただそれを、繰り返して見せているだけだ。言われたこちらがどうするのか、反応を見ているだけだ。
 頭では、判っていた。それでもかっとなった。
 「お黙りよ!」
 顔を歪めて叫んでいた。
 「誰のお陰で戦艦から鉄玉が飛んでこないと思っているんだい!」
 激したほうが負けである。
 判っていたのに堪え切れない。
 「……妾だって、」
 「らしゃめん!」
 「らしゃめん!」
 「らしゃめん!」
 手を叩いて囃したてる子供に向かって、思わず。投げられた小石を拾うと、投げ返す。
 頭に血の上った状態で、上手に投げ返せるはずも無く、つぶてはまるで明後日の方向へと飛んでゆくのだ。僅かでもそのハルの剣幕に一瞬ひるんだ子供等は、自分たちの怯えに腹を立てたように、一層につぶてを投げるのだ。
 「好き好んで異人を相手にしてる訳じゃあないよ!!」
 畜生。
 つぶての多さに頭を庇い、悔し涙が滲み出た。
 涙が出たのは、子供らの言葉に間違いが無いからだ。
 そうして自身が見られていることに、見て見ぬ振りをしているからだ。
 畜生、畜生と声を漏らしながらしゃがみ込んだハルの耳に、
 「……やめろッ!」
 厳しい叱責の声が飛び込んだ。
 ひどく険しい顔をした男が、子供の群れに向かって行く様が見えた。
 「わあッ」
 拳を握り締めた異国の男に恐れをなした子供等は、唐突に悲鳴を上げ、逃げ散る。
 すぐさま消えた。
 呆気ないほどに静かになった。

 「……ハル」

 近づく男の声にしゃがみ込んだまま、ハルは硬直する。
 本心だった。
 犬に懐かれたようだとか、
 いろは言葉の師気分だとか、
 そんな言葉で自身を誤魔化して気分を盛り立てていたけれど。
 “好き好んで相手している訳じゃあ”。
 口をついた、それが本心だった。
 男の顔が、見れない。
 未だ拙い男の語学力では、おそらくは今の子供等とのやり取りを、半分も理解できてはいないだろう。
 違う。
 甘い考えに逃げようとする自身を、唇を噛んでハルは責め立てた。
 男が理解していようがいまいが、そんなことは関係ない。
 妾ァ……なんてことを。
 「ハル」
 近づいた男の手が差し出されても、彼女は顔を上げることができない。
 あの青い瞳を見るのが怖かった。
 きっとそれはまるで邪気がないに違いないから。
 「ハル」
 傍らに膝を付いた男は、そっと手を伸ばすと、彼女の髪に触れてくる。
 「……?」
 耳元に仄かな香りを感じて目をやると、
 「はな」
 石垣にでも咲いていたのだろう、小さな花弁の白い花を、男は彼女の髪に挿したのだった。
 「ハル、いけない、泣く。わらう、いい」
 そう言う。
 「……ジェ、イ、ムス」
 弾かれたように顔を上げた。
 怖かったのに見てしまう。
 いけないと知りながら縋ってしまう。
 男がハルを見つめていた。温かみのある瞳で、彼女を気遣っていた。
 「ジェイムス……」
 「ハル?……ハル?」
 「ああ……ごめん……ごめんね」
 異なる種類の涙が、気付かないうちに溢れ出た。
 ごめんね。
 「どこか、いたいか?……なぜ、泣く?」
 どうしてこんなに優しい。
 顔を覆って泣き出したハルに、あたふたと男は焦った。膝を付いて寄り添い、彼女の顔を覗きこむ仕草に思わず顔を背けながら、
 もう会ってはいけない。
 強く思った。
 こんなにも真っ直ぐな気性の男に、自分は似合わないから。
 だから。


 翌晩から、逢い状が何通届いても、彼女は開かなかった。
 開けなかった。
 ――あんな言葉を吐いた妾に、会う資格はないね。
 そう思ったからだ。
 「おめぇさんに拒める権利はねぇ」
 そう言って見番の人間が何度か怒鳴り込みにきたが、頑として首を縦に振らなかった。
 振れない理由は、やはり言えない。
 依怙地になって口を噤み、黙って畳を見続けるハルに、
 なんて強情な女だ。
 見番の男は吐き棄てて消えた。
 そういった晩が、幾日か続いて、
 ふつ、と逢い状が途切れた。
 飽きられたのかもしれない。
 諦めたのかもしれない。
 ほっとすると同時に、虚しさが襲った。

 黒船が国へ戻ったのだとハルが知ったのは、更に数日が過ぎて後のことだった。

最終更新:2007年10月03日 19:33