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ぱち、と藪の下生えを踏みながら、口にできそうなものを探してコロカントは歩いていた。野萱草(のかんぞう)が群生しているのを見つけたが、腹の足しにはなりそうもなくて、摘みながら小さくため息が出る。

――せめて、藪苺でもあるといいのに。

すこし離れた場所で、今夜の寝床を作っているだろうバラッドのことを思う。

 

助けに来た彼と共に塔を離れてから、三日経っていた。

 

あのあと、首尾よく塔を離れることができたのは本当に運が良かったのだ。

バラッドによると、ふたりが乗っている年老いた馬を連れてきたのは、グシュナサフなのだそうだ。別ルートで行動してますが、あいつとものちに合流しますからね。男はそう言った。

グシュナサフが馬を調達したのだとしたら、ではバラッドはここまで歩いてやってきたのだろうか。ふと思った。

四年前、ここに連れ込まれた際にすこしだけ見えた景色は、ここが人里離れた僻地であること、徒歩で移動するには、相当難儀するように思えることを彼女に伝えたけれど、それを尋ねるには男があまりに他人行儀にすぎて、結局聞きそびれたままだ。

 

男は、彼女の記憶の中の彼とはずいぶん違ってしまっているように思う。

頬がだいぶ削げていて、その分眼光に凄みが増している。同じ顔なのに別人にも見えた。

ひとなつこい、尾を振る犬のように、余裕や愛嬌が感じられた雰囲気はどこかに姿を消していて、全身から漂うのは倦怠感だ。それは、抜身の刃のような能動的な剣呑さではなくて、受動的な虚無だった。

なのに眼だけはぎらぎらとしていた。

怖いと思った。

そうして、前なら軽口のひとつでも叩いただろう場面でも、男はそれを口にしない。必要なやりとり以外、ほとんど会話らしい会話もしていなかった。

他人行儀で、慇懃で、よそよそしい。

 

……でもそれも仕方がないかな。

コロカントは思う。

 誰だって、貧乏くじは引きたくない。うまい汁があるほうへ移りたいのがひとの心というものだと、あの部屋にいるあいだ彼女はくり返し訪れる男から聞かされていた。

バラッドや、その周りにばかり、お荷物の自分の世話が付いて回って、しかもそれは自ら志願したものではなく、ある日突然、否応なしに押し付けられたものだ。

断わればいいのかもしれない。だけど。

 ――君は、よろしく頼んだと腕に押し付けられた幼子を、拒むことができるかな?

 四年のあいだ、何度も吹きこまれたあの男の声がする。

 ――誰かに転嫁できる状況じゃあないんだ。そうして子供の世話ができるのは自分しかいない。自分が見捨てれば、確実に死ぬと判っているんだ。

 ――その状況で、いったい何人が良心の呵責なく見捨てることができるだろうか。君はどうする?無意味な使命感に打たれるかい。それとも渋々世話をするのかな。子供を引き取れば、確実に君の首も狙われる状況なんだ。

 ――どうかな。君はどうする?

 ――匿ったとして。そうして月日を経てゆくと、いつの間にかそれを、情が湧いたと勘違いするのじゃないかな。

 ――愛情なんてほとんどのものが思い込みだよ。自己満足の裏返しなんだ。

 男は言った。あのとき彼女は何と答えたのだろう。

 

貧乏くじ。自分で言って嫌になる。

 この四年、男がいったいどんな目に遭っていたのか、コロカントには想像することもできない。

(……わたしのせいで、)

 馬にまたがり、手綱を握るために伸ばしたバラッドの指には、ところどころ爪がなかった。乾いていたので一両日中の傷ではないと思われたが、引きはがされたのだ。

(……わたしのせいで、)

 怒りともかなしみとも違う、静かな衝撃で目の前が真っ暗になった。

 あれは、彼が自分と関わることで負った傷だ。彼が、彼自身のためだけに生きていたのだとしたら、きっと負うことのない傷だった。

(そうして、あのひとはきた)

助けるに値しないと判断したなら、あんなふうになる前に、彼は彼女を見捨てただろう。命をかけることはない。賭すだけくたびれ損だ。

現に、コロカントに肩入れすると約したはずのほかの諸侯は、彼女がハブレスト側に捕まったと知れたとたん、瞬時に手のひらを返したのだ。

(わたしは、)

だのに男は見捨てなかった。助けにきたとはっきり言った。

(わたしはあのひとに、なにも返せないのに)

 

 そこで足がもつれて、コロカントの思考は止まる。

「……もう、」

 思わず握りこぶしを作り、太腿のあたりを軽く叩いた。満足に歩くこともできない自分の足が情けなかった。

 

 塔にいた四年のあいだに、だいぶ足は萎えてしまったのだ。

つながれてはいなかったものの、縦横に十歩ほどの部屋での生活では、ほとんど歩くことがない。立つことはどうにかできても、長時間歩くだとか、階段を上り下りするだとか、そうした踏ん張りがまったくきかなくなっていた。

 まして腱を切られている。

 部屋から続く下りの階段は、だからバラッドに負われて下った。

 負われる際に、彼がひたすら恐縮していて、あまりに恐縮しすぎて顔は血の気を失っていて、真っ青を通り越して真っ白だった。気の毒なほどだった。恐縮する言葉の端々を捉えると、この四年自分はろくろく体を清めることもせずたいそう汚いから、そんな背中に乗せることが申し訳ないということらしかったけれど、

(……そんなこと、誰が気にするというの)

 饐えて鼻がひん曲がりそうなにおいの彼の背に、コロカントはきつくしがみついた。あなたは何も悪くない。そう言いたかった。

きっと男は身綺麗にしようにも、できる環境にいられなかったのだ。

けれどその言葉を口にしても、それは慰めにならない。

その境遇に追いやった原因は自分にある。

だから、せめて離れずにいることで、自分の気持ちが伝わればいいと思う。ぎゅ、としがみつく腕に力をこめると、男がますます肩を怒らせこわばった。

この体温が、伝わればよいのにと思う。

 

萎えた足を眺めながら、考えに耽っていた彼女の耳に、獣の遠吠えが聞こえた。ぎくりとして顔を上げる。ずいぶん近くから聞こえた気がしたからだ。

幽閉される以前、コロカントは森で暮らしていた。暮らしていれば、森に住む生き物の鳴き声は当然耳にする。イヌ科の遠吠えも特別めずらしいものではなくて、何度となく聞いた覚えのあるものだった。

互いの位置をたしかめるために切々と吠えるそれは、どこか胸に迫る、もの悲しいものに聞こえたけれど、それはどれも住居にしていた見張り塔からはずいぶん離れた遠くから聞こえてくる声だった。

いま聞こえてきた声は明らかに距離が近い。遠く長く響き渡る前に、耳まで届いたと思った。

見渡そうにも、藪は鬱蒼(うっそう)と茂っていて、視界はよくない。

戻ろう。

男が荷物を下ろし、煮炊きの準備をしていた場所から、そう離れていないはずだ。……大丈夫。落ち着いて、戻るだけでいい。

胸をどきどきとさせ、踵を返したコロカントの耳に、がさがさ落ち葉や下生えを踏む音がした。

風が木立を鳴らす音ではない。

しっかりと自重のあるものが、踏みしめる音だ。

いくつもの音だった。

半泣きになって肩越しに振り向いたが、やはり見えない。けれど音は自分の側へ近づいてやって来ると思った。

(……足が、)

昔のように、土を蹴って走りたかった。

走ることが遠吠えの主を刺激してしまったとしても、せめて足を速めて進みたかった。

だのに萎えた足は、思うように動かない。慎重に一歩踏み出し体重をかけ、ようやく次の一歩を踏み出す。

――いや。

木々の切れ目がなかなか見えない。張り出した根が、縄手のように足元の邪魔をする。あっさりと足を取られ、つんのめり、何かにすがりたくて彼女は前方へ手を伸ばした。

気持ちだけが先に行く。

背後の気配が濃くなった。

呼気が聞こえ、急激にせばまる。熱くて荒い、真っ直ぐにおのれの喉笛を狙うたしかな殺意にうなじが粟立つ。行かないと、早く行かないと。朦朧とそんなことだけが頭の中でひたすらにくり返されていた。

泣きたかったし喚きたかったけれど、追い詰められたとき、獲物は声が出ないのだ。

 細い幹にすがって立ち上がり、またよろめいた彼女の耳に、

 

「――姫!」

 

 必死に駆け寄る声が飛び込んだ。

 声は緊迫に満ちていた。弾かれるようにして顔を上げた彼女は、こちらへ駆け寄るバラッドの姿を見た。

 腕を掴まれ、引き寄せられる。それだけでなんだか泣きそうになった。

 ほんの一瞬だけ抱きしめられた気がして、

「枝へ」

 それもつかの間、短い指示と共に、普段の彼からは想像できない力強さで軽々と持ち上げられ、いくらか背丈のある木の下枝に据えられた。

「もう何段か、上がれますか」

「はい」

 足の踏ん張りがきかないだとか、泣き言を言っている余裕はない。こわばったまま頷き返し、コロカントは腕の力で体を引き上げ、三、四段、枝を登った。

「終わるまで、動かない」

「はい」

 常より低く抑えた声に、彼女は頷いた。

男が態勢を戻すのと、最初の獣が姿を現すのが同時だ。

それは顔面がひしゃげた犬のような生き物だった。コロカントが初めて見る獣だった。名前は知らない。

体高は大人の膝丈よりすこし上。よほど大きく跳躍しないかぎりは、枝に乗る彼女まで爪牙は届かないと思われた。

 次々に獣どもは姿を現す。全部で五頭。あらためたところで、……おい。バラッドが誰かに呼び掛ける声が聞こえた。

「見物していないで手伝ってくれ」

 彼の言葉に、藪をかき分けて馬がのっそりとやってきた。不満というよりは面倒くさそうだ。ひとつ鼻を鳴らした相手へ、バラッドが薄く笑う。

「まあそう言うな」

 言葉を残して身を低く構え、五頭めがけてがむしゃらに突っ込んだ。

 いつの間にか、手には中ぶりの剣を持っている。

たちまち群れはぱっと散った。追い詰め、あとは仕留めるだけだった獲物を、横取りする相手に、殺気立っている。

まずは邪魔ものを始末する気らしい。

半円形に囲むところへ、男が先んじて一歩踏み出し、まず一頭目の鼻づらへ手にした刃を叩きつけた。ためらいのない動きだ。

ぎゃん、と悲鳴を上げ、斬りつけられた一頭は怯んだものの、他の四頭はますます興奮し、馬のいななき、唸り声、ごきりとなにか固いものが砕けた音に、たちまちあたりは混然とした。

馬が大きく足を上げ、男の背に迫った一頭を踏み潰す。大人の手のひらよりも大きい蹄は、戦槌と同じようなもので、老いているとはいえ、馬の体重をかけた一撃は、強力な援軍だった。

「やるじゃあないですか」

 一瞬振り向き、言った彼の右後ろから、すり寄るようにじりじりと寄った一頭がぱっと地面を蹴った。気づいていたのは上から見ていたコロカントだけだ。

危ないと声を上げる間もなかった。そのまま腕にかぶりつく。

「くそ、」

 舌打ちした男がぶんと腕を振るい、力任せに引き離すと、剣を振り下ろす。

 ――ああ、血が。

 ぱ、と振りほどいたはずみに赤い雫が舞った。

はらはらしながら見下ろしているうちに、狂乱の中、滴る鮮血と獣どもの肉、視界が回って次第に何を見ているのか判らなくなった。

――お願い、どうかお願いします。

神なんていないことは判っている。そんなことはこの四年のあいだ、いやというほど身に凍みていた。祈ったってなにも変わらない。

だのに、なにかに向けて祈っている。

誰に何を願っているのかよく判らないまま、ただひたすらにそんな言葉をどれほど呟いていたのか、

 

「姫」

 

 誰かの声が聞こえた。

「姫。大丈夫ですか」

そこではじめてコロカントは固い木の幹に額を押し付け、固く目をつぶっていたことに気がついた。

「終わりましたよ」

おそるおそる見下ろした彼女は、いつの間にかあたりがしんとしていたことに気がついた。樹上の彼女を見上げるバラッドと、何もなかったようにすぐ近くで草を食みはじめる馬、その二人の回りに転がる群れの死骸。だらりと口から舌をはみ出させ、つい先ごろまで生きていたまだ温かい体はまだ僅かに痙攣しているようにも見える。

そうして、肩で息を吐く男の左腕から、ぱたりぱたり血が滴っていることに気がついた。

「……バラッド!」

「え、」

 小さく悲鳴を上げながら、コロカントは思わず広げた男の腕の中へ飛んだ。夢中だった。飛ぶつもりはまるでなかったのに、彼の腕を見たとたん、思考が吹っ飛んで思わず体が枝を離れていた。

「うわっととと、」

 慌てて構えは取ったものの、さすがに片手では受け止めきれなかったらしい男が、たたらを踏み、ぐしゃ、と尻もちをつく。

「え、え、ちょっと、姫」

その男にまたがる体勢になりながら、

「血、……!」

 コロカントは叫んでいた。男の左腕、深々と犬歯で抉られた穴から血が染み出している。

片袖を破り、男の傷の上から押さえた。言われておや、とようやく自覚したらしい男は、彼女の視線を同じようにたどって、

「……ああ、」

 極まりが悪い声を出した。

「参ったな、……、格好つかないです」

 弱った顔になりながら、そんなことを言っている。

「薬は、……、せめてお水で洗わないと、……ああ、お水……、近くに水場は、」

「大丈夫です、たいした傷じゃあありません」

 がりがりと頭を掻く男へ、

「たいした傷です!」

 ぴしりとコロカントは叱りつけた。

 あてた布はすでにじっとりと血液を吸っていた。掌の下で湿っているのが判る。

 ……どうしてあなたは。

傷口を押さえ、いけない、いけないと思いながら、つい涙がこぼれてしまった。男がそれを見て狼狽するのが判る。

「ああ……、すみません、怖がらせるつもりは、」

「違うんです。血が怖いわけではないの。もちろん、見慣れているというものでもないけれど、でも、違うんです」

 明後日の方向に気を遣う言葉に、彼女は頭を振る。ええ、と余計に弱った声を上げながら、身を引こうとする素振りを男は見せた。

「じゃあ、その……、放してください。自分で押さえます、姫の手が汚れてしまう」

「汚れるからなんだって言うんです……!」

 むきになってコロカントは差しだした彼の手を振り払う。姫、困惑しながら覗きこむバラッドに、

「ごめんなさい。わたしは自分が申し訳ない」

 コロカントはうなだれた。

「……姫、」

「森にいたときから何も変わらない。わたしはあなたたちに世話をかけてばかりです。今だってそう。わたしにもっと機転があれば、獣たちが近づくのをもっと前に知ることができたし、自分で身を守ることもできたはずです。……こんなふうに、あなたが怪我をすることだってなかった」

「姫、」

「わたしに力があれば、あなたと一緒に獣を退治することもできた。わたしがしたことは、木の上にいることだけでした。なんの助力にもならない。あなたが痛い思いをしてまで守る価値なんてありますか。わたしは、……わたしは、あなたに申し訳ない」

「……、」

 男は彼女の意図を推し量るように口を噤む。

「……本当は、ずっと思っていたんです。でも森にいたとき、わたしはあまりにものを知らなくて、自分の中のもやもやとしたこのわだかまりがいったい何なのか、形にすることができなかった。だけど、あれからたっぷりと考える時間だけはあって、……わたしは、自分の中の『これ』を理解することができました」

「……、」

「旧ミランシア領主の生き残りという肩書だけが、わたしにはあると聞いて育ちました。……でも、それだけなんです。他に持つものはありません。力も財も伝手もない。たとえこのままセイゼルとハブレストの手から逃れたとして、あなたたちのお荷物であることに変わりはないんです。褒美を与えられるわけでも、出世を約束できるわけでもない。所領もなにも、分けるものはないんです。いっそここに置いて行ってくださってもかまわない。きっと誰も責めないでしょう」

 ――君はどうする?

 あの部屋で何度も吹きこまれた声が呪いのようによみがえった。みっともないと思いながら、当て布を押さえる手が震えてしまう。

「九年前、意に染まずに押し付けられた子供を見捨てることができなかったのだとしても、あなたはもう十分に、守る義務を果たしたと思います」

 

「――……姫」

 

 その震えるコロカントの手に、男は自由に動く方の手を重ね、どうしましたと静かに言った。

「何か吹きこまれたんですね」

「違うんです。……違うの。吹きこまれたとか、そうではなくて、」

 うまく言葉に表せないもどかしさに、コロカントは涙目のまま彼を見上げる。そのまま急に、見上げた体勢のまま、どんと鼻先から何かにぶつかった。

ぶつかったのが男の体だと気づいたのは、二呼吸ほどあとの話だ。

それが、抱きしめられているのだと理解したのは、もっとずっと後だった

 男の胸の中はあたたかい。この四年、一度も感じることのなかった温もりだった。どう言うわけか、涙が止まらなくなる。

それ以上何も言えなくなって、ごめんなさい、ごめんなさいとただ繰り返すばかりになった彼女の背中を宥めるように撫でながら、謝らんでくださいと男は言った。

「あなたは何も悪くないのだから、どうか謝らないで」

「だって……だって、怒っているのでしょう」

 そうでなければ、素っ気ない態度の説明がつかない。みっともない自分の顔を見られたくなくてコロカントはまたうつむいた。

男はもう自分の世話に厭(あ)き厭(あ)きしていて、

「怒る、」

 涙声でたずねると、男は不審そうに眉を寄せて怒る、と繰り返した。

「怒るって、……、え、あの、自分がですか」

 えええ、と眉尻を下げて困った顔になりながら、バラッドが言う。その仕草に演技は含まれていないように思った。

「ぜんたい、どうしてそんなことを。……というか、……、あー……、」

 口中でぶつぶつといくらか呟いたあと、男はしばらく思案を巡らせるように押し黙り、それからよいしょ、と膝の上のコロカントごと、ゆっくり立ち上がると、

「止血はもういいでしょう。火が消えていないかも心配だ。とりあえず向こうに戻りませんか」

 はぐらかすようにそう言って、彼女をいざなった。

 

 

 

最終更新:2019年02月02日 22:38