それはものすごく穏やかな衝撃だったのだと思う。

 

 衝撃に、穏やかだとかけたたましいだとか、そんなことを言う自分の感性はそもそもおかしいのかもしれない。でも、自分にとってそれは、頭をがんと殴られたような勢いのよい、剛力でいきなりのものではなくて、どちらかと言えば、しんと静まり返った石造りの建物の中で、ただひたすらに立ち尽くしているとき、寒気が足元からゆっくり凍み入ってくるような、そんな音もなく色もない、じわじわとした浸食に近い恐怖だったのだ。

 ああもう取り返せない。

 絶望的な遮蔽感、と言ってもいいのかもしれない。気取って言うと頭悪そうですね。意味が判らないです。でも、本気で、その部屋に音というものは存在しなかった。

 

 

 自分語りになってしまうけれど、自分はその昔、ミランシアというところに属していた。上からはどういうわけか、結構取りたてられていた気がする。

 しがらみのない俺は、使い勝手が良かったのかなと今になって思う。

でも、自分は別にミランシアという場所に愛着があったわけでも、領主に必要以上に恩義を感じてもなかった。薄情と言われれば薄情なのかも。

恩知らず。

実際、周りのやつらに比べて、自分はまったくちゃらんぽらんで、適当で、地に足のついていない、へらへらとした人間だと思われていたし、正直そうだった。忠誠、というやつがよく判らなかった。

たぶん、もともとなかったのだと思う。

忠誠心とかああ言うのって、育ちの良さというか、根っこの素直さというか、そういうのが関係している気がする。心酔度というか。

相手にどれだけ没頭できるか度合いって、つまり没頭度合い分、相手に対して自分をさらけ出すってことですよね。無理です。

自分はただ、領主のもとについていたら給金が出て、食うに困ることはなかったからそこにいた。それだけ。

他の意味はない。

 出世にも興味がなかった。

 こういうと、なんだか物欲のない、修行に明け暮れている坊主みたいな、すごいできた人間に聞こえるかもしれないけど、別にそんなことじゃあなくて、自分はいわゆる出世街道、と言うやつからはちょっと、……というか、踏み外れたところにいたから、そもそも出世とか言うものをはなからあきらめていて、だから、すこしでも領主に気に入られようと、目をぎらぎらさせているようなやつらと同じラインに、立たなかっただけだ。

 立てなかったというべきなのか。

 俺の頭は赤かったから。

理由はただそれだけだ。

 たったひとつ、そのことだけだったのに、それはものすごい強引さで俺の人生を生まれた瞬間から否定した。

 これはもう親を怨むしかない。自分じゃあどうにもできないレヴェルです。

 でも親は、まだへその緒から血が滲みだしているような段階で自分をぽんと川に捨てたから、怨む顔すら知らないのだった。

 理不尽だと思う。せめて怨む相手くらいいてもいいのにって、ガキの頃は思っていた。

 赤は不吉だから。

 いるだけで疫病神のような扱いを受けるんだから、まあ、打たれ強くはなりますよね。誹(そし)られ強いというか。というか、川に流された自分を、拾った別の人間がいるってだけでも、御の字なのかもしれない。

 普通なら拾わない。自分のところに厄が来たら困るから。

 

 でも俺は拾われた。

これは別に拾った人間が人一倍心優しかったわけではなくて、流すときに自分を包んでいた布が、小ぎれいで目についたからなのだそうだ。

高そうに見えたと言っていた。金になるかもしれない。

 万に百分の一くらいの確率で、頭の赤い赤ん坊を流した人間の気が変わって取り戻しに来たら、手間賃をせしめられると思ったんだそうだ。

 結局誰もこなかった。だので自分はそのままそこで育つことになった。

 

 物心がつくかつかないかのあたりまで、自分はその養い親のところで過ごした。

 養い親、と便宜上そう呼ぶことにするけれど、養われた覚えは一度もない。

劣悪な環境だったと思う。

 ただ、生まれたばかりのそのときから、おおまかに身の回りのことができるまで、一座に置いてもらったことだけには感謝する。

 

 養い親は旅芸人だった。

 そいつのところには、自分のように拾われたのか貰われたのか、よく判らないようなガキが何人も何人もいて、すこしだけ年上のガキが、拾われた俺を押し付けられて世話をした。養い親は何もやらなかった。ただ拾っただけだ。

 子供のつたない世話で生き延びたんだから、自分もたいがいしぶとい部類だと思う。がりがりに痩せこけて、泣く声も腹から出ないような赤ん坊だったらしいけれど、それでも死なずに生きていたんですからね。

 

 実入りのありそうな町に入ると、養い親は道端に陣取って、そこでガキどもに大道芸をやらせた。

 投げ込まれる小銭の数が少ないと、あとでそいつが当たり散らすのがわかっていたから、ガキどもは必死になって芸を披露した。小銭はほとんどそいつの酒代に消えた。

 毎日毎晩、目の前で自分よりすこし年上のやつらが、とんぼを切ったり、笛だの弦だのを吹いたり、口上の練習するのを見て育った。いつの間にか覚えたし、早く覚えておくに越したことはなかった。

なにしろ、養い親は短気で、乱暴者で、ついでに酒癖が悪かったので、出来が悪いと容赦なく殴り飛ばされたからだ。

 ガキどもが稼いだ金は、養い親が持って行ってしまうものだから、ガキどもはいつも腹を空かせていた。店先から食い物をちょろまかしたり、隙のゆるそうなやつの懐を狙って掏ったりもした。

しくじれば商人どもから袋叩きに合った。養い親は、仲裁に入ってくれるような人間じゃあない。棒でぼこぼこに殴られ、吊るされるガキを目の前にしても、まるで他人事だったのだ。

てめェらのかわりなんて掃いて捨てるほどいるんだぜ。

それが口癖だったし、たしかにその通りにちがいなかった。

殴られどころが悪かったのか、起き上がれなくてそのまま置いて行かれた年上のやつらを自分は何人も見てきた。

きっと死んだのだろう。

誰も助けない。おのれの身は、おのれで賄うしかないのだと知った。

 

 

 六つだったか七つだったか、ある日いきなりわずかな小銭と引き換えに、自分は売られた。いずれはそうなるだろうなと腹づもりはしていたはずだったけれど、やはり実際売っぱらわれる段階になると、急転のできごとだった。

なにしろ赤い頭だったからなァ、たいした金にもなりゃしねェや。

自分を手放すときに、その最低最悪だった養い親は言った。

悪ぃな。てめェの手癖が器用なことは認めるが、その目立つ頭がいけねェ。客が逃げっちまう。

 言いながらいま手にしたあぶく銭で、早く酒を買いに行きたくて仕方ないのだ。そわそわしていた。まるで悪いと思っていない口ぶりに思わず苦笑する。

 橙風味ならまだ可愛げがある。でも自分の頭はそれこそ真っ赤っかだったから、どうやったって客がいやがった。客寄せすらできない自分は一座のお荷物だったのだ。

 だけど自分にどうしようがあったろう。

 

 売られた先は売春宿だった。

 自分はそれまで、ああした宿で客を引くのは娼婦、つまり女だけなのだと思っていた。別に初心ってわけでもなかったけど、まあ、やっぱり疎かったんだろうなって思う。

そうした宿に出入りしているのは大人の女だけではなかったけれど、あとは下働きで使われてるだけだって。

 だから子供、しかも男目当てに来る客がいるだなんて、ガキの想像の範疇を越えていたのだ。

 初日で客を取らされたとき、本気で意味が判らなかった。頭が真っ白になるってこういうことを言うんだと思った。

暴れて喚いて、廊下に這いずって逃げようとした自分を、夜叉の面で構えていた宿の主が蹴り飛ばして部屋へ戻した。

 逃げられないのだな。

 腑に落ちる、という言葉があるけれど、その夜自分は、腹の中を客の男のイチモツでぐちゃぐちゃにかき回されながら、理解した。これじゃあ落ちるんだか突かれるんだか、わかったものじゃあないなと思いながら。

 笑えた。

 そこで生きていくしかなかったことが、なにしろ一番に笑えた。

 

 思いだすと、悲壮な決意のようにも聞こえるけれど、実際はそうしたものでもなくて、ただ流されて落ちるところまで落ちた感覚だった。それまで、養い親の一座がいっとうにひどい場所だと思っていたけれど、いやあ、下には下がいるもんです。なに比べか判らないけど、すごいですね。

 宿には自分のような男のガキが何人かいて、みな一様に頭が赤かった。男娼ぐらいしか、赤毛が働ける場所なんてなかったのだ。

いきつくところなんて、ない。

 

 そこに五年ほどいた。ほかに行き場所もなかったし、そもそも、毎晩、宵の口から朝方まで、とっかえひっかえ揺さぶられていたので、日中は泥のように眠っていて、目が覚めるともう夕刻前だった。ずっとそれの繰り返し。ここから逃げよう、だとかいう発想が入り込む余地がなかったのだ。

 

 逃げようとはじめて思ったのは、ある晩、客を殺してしまったあとのことだ。

 殺意はなかった。とっさに手が伸びただけ。完全に事故だったと主張したい。

 

 ああした宿を利用する客というのは、わりかし、ひとには言えない趣味嗜好をもっているもので、その夜の客も、突っ込んでいる相手の首を絞めて、相手が悶絶し、泡を吹いて白目をむかないとイけないだとか、たいそうご機嫌な嗜好の持ち主だった。俺はそいつが嫌いだった。

 そいつは何度かその宿を利用していて、しかも利用するたびに俺を指名した。俺の顔が、そいつはいたくお気に入りなのだと受付の男が言った。

 お前、見栄えだけはそこそこいいからなぁ。

 誉め言葉だったのかもよくわからない。嬉しくなかった。

 うんざりだった。絞められた首のアザは五日は消えないし、そうでなくてもそいつは下手くそな上に、ひたすらしつっこかったので。

 蛇のようにねちねちとした愛撫は、その晩、異様に長かった。

いつもなら紐を使ってじわじわ絞めていく首を、その夜にかぎってそいつは素手で絞めた。

掌の下で脈が動くのがめちゃくちゃ興奮するだとか言って、そいつは鼻息を荒げていたけど、正直いつもより絞める力が相当強くて、自分はそれどころじゃあなかった。みしみし骨が軋む音が聞こえて、やめろ、シャレにならない、そいつの手を思わず払いのけようとしたけれど、がっちりつかんだその手が緩むことはなかった。

 いいんだよ。そいつは言った。誰もこない。今夜は、その分の金も上乗せして払っている。

 やめろ。

 死に物狂いで暴れた。暴れた拍子に燭台を倒して、かなり大きな音がたったけれど、誰も様子をうかがいに来る気配はなかった。

 ああきれいだ。そいつは言った。ずっと見たかったんだ。ずっと、お前の緑の目がだんだん濁っていくのを、見たくて見たくてたまらなかったんだ。

 やめろ。

 叫びたかったがぎちぎちに喉を絞められていたので、声はまるで出なかった。目の前が一瞬真っ暗になったあと、すぐに真っ赤になって、こめかみの下を流れる血流の音だけがやたら大きく聞こえた。

 俺は殺されると確信した。

 

 無我夢中に伸ばした自分の手が、つい先だって倒した燭台に触れたけれど、それはまったく偶然だったのだ。

 握れればなんでもよかった。それを握り、力任せに腹の上のそいつの脇腹へ突き刺した。ぐう、とそいつが怯んで、絞める力がわずかに緩んだ。

 緩んだ、わずかでも緩んだと思ったら、もう止まらなかった。

 そのまま容赦なく、相手の力が抜けきるまで、自分は手にした固い金属質の棒を、何度も、何度も相手に突き刺し続けた。やがて相手が呻き、痙攣しだしても突き刺す動きを止めることができなかった。

 そいつの体すべての力が抜けて、ぐんにゃりと自分の上に覆いかぶさり、血泡を吹いた口から細く笛のようなため息が漏れてはじめて、自分はそいつがこと切れたのを知った。

 

 ――殺した。

 

 頭の芯は痺れたままだった。絞め殺そうとしていた掌は外れていたのに、うまく息が吸えなくて自分は喘いだ。こいつは息絶えても俺の首を絞め続けるのかと、そう思った。

 いまだったら。

いまだったら、そんなやつをひとりふたり手にかけたところで、ああご愁傷さまですこれはもう日頃の行いですもんね、と言ってやるし、気にも留めない。留めたって仕方がない。ある意味自業自得ってやつだ。

でも、そのときの自分は、ダメ人間レヴェルで言うところの、まだ初級ってところだった。町で悪さをしたと言ってもせいぜい掏摸(すり)か窃盗のたぐいで、ひとを手にかける、ということまではしたことがなかった。

度胸がなかった。そもそも、まず売春宿に半分軟禁みたいにされたものすごく世界が狭い状態で、人を殺すだのしないだの物騒な話になることがなかったし、客に対して死ねと何度も思ったことはあったけれど、思うことと実行するというのはまるで別のものだった。

自分がいた場所はかなりの底辺だったから、強盗殺人が横行していても日常茶飯事ではあったけれど、自分はそこまではなりたくないと常々思っていた節があった。

そこまで落ちたら、もう這いあがれない。

 自分にそう言い聞かせてた気もするのに、……、それが、あっさりと、まあ。人間がひとり死ぬというのは、なんて単純なことなのだろうと吹き出したいこころもちだった。

 頬はこわばり、笑うなんてとんでもない状況だったけれど、もしそのとき俺が笑えていたとしたら、きっと泣き笑いになったと思う。

 

 とにかく逃げなくてはならない。

 

朝になって、自分が客を手にかけたことを知ったら、宿の人間は俺を決して許さないだろうということだけはわかった。

逃げるしかない。

自分の荷物なんてなにもなかったから、服を着て、それで終わりだった。死んで転がる客の荷物をさぐると、いくらか入っている金入れを見つけたので、それをいただいていくことにした。

裏木戸を抜け、闇に紛れて路地を走って逃げた。逃げた。逃げることは簡単なことだった。それに自分は気付いていなかった。

同じように路地を走る野良犬が見えた。その痩せてあばらの浮いた腹を見ながら、ああようやく俺は自由なんだなと思った。

 

 

それから、いくつかの町を転々としながら、ミランシア領に流れ着いた。

特別そこを目指していたわけではないのだけれど、なんとなく、政情的にもごちゃごちゃしているところの方が、仕事がある気がしたから、それだけ。

ミランシアに行きつくまでにまた二年ほど経っていて、俺はたぶん十二か十三になっていたと思う。

そのころミランシアは、まだハブレスト領とセイゼル領と獲ったの獲られたの陣取り合戦を性懲りもなく繰り返していて、戦場の働き口も随時募集していた。だから迷いなく受付の天幕に入っていた。図々しいと思いますか。でも、三食と寝床の保証された仕事なんてなかなかお目にかかれない。それがたとえ、命のやりとりをする戦場であってもだ。

俺はまったく剣は扱えなかったから、馬のボロ掃除でもなんでも、とにかくひとの懐を狙うだとか、路地で体を売るだとか、そういうその日暮らしから抜け出せるなら何でもいいから雇ってほしいと思っていった。

結果的に楽器ができるとなって、楽士として雇ってもらうことができた。こういうの、昔取った杵柄、と言っていいんだろうか。使い方違いますか。よく判らない。でも、覚えておいてよかったと思った。

正直、頭の色で弾かれるだろうなぁって、半分というよりは九割九分諦めでいったので、ゴネられることもなく、あっさりと雇用の契約書を差し出されて、逆に自分が焦った。え、本気ですかって思う。自分赤いですけど。不吉だそうですけど。

もし迷い込んだガキをからかって反応を見て楽しんでるだけなら、喜ぶだけあとのがっかり落差が激しいので、早めに今のはうそだ、って言ってほしいと思ったのに、雇い主は本当に自分を雇うつもりでいるらしかった。

……色盲なんだろうか。

疑いの目で眺めている自分に、受付の席に三人並んだ真ん中の男が、見えているともと応えた。それが、直接の雇用主、つまりミランシア領主だった。

色は関係ない。その人の良さそうな顔をした男は言った。そもそも、頭が赤いから、それがどうかしたのかね?

正論ですね。

本当ならそこで、できた言葉を吐いた相手に、恩義を感じるのが筋ってものだと思う。常識的に考えても、ハンチクの俺を拾ってくれた、もう命の恩人みたいなものだ。普通雇わない。下手すれば、どっか行けって水撒かれる状況だったと思う。だから、一生自分はそのひとに仕えようと思うのが、人情ってものだ。

普通は。

だのに俺は思わなかった。

思わなかった。どれだけ手前の心が醜く荒んでいるのか、まざまざと見せつけられて、だのに自分はやっぱりありがたいとは思えなかった。

……お優しいことで。

代わりに自分の心に湧いて出てきたのは、そんな台詞だった。

お優しい、情け深いミランシア領主。

行き倒れかけた赤毛のガキを雇って、さぞいいことをしてやった気分だろう。

赤毛は迷信だ、そんなことでひとの価値は計れないって?

計れるんだよ。そうやって生まれたときから俺は計られて生きてきたんだよ。あんたにゃ判らないかもしれないけどな。そう思った。

恩義を感じる代わりに、見当違いに俺は怨んだ。こんな気軽に俺を雇っちゃって、そんで、そのうちデカい不幸があんたに襲ったって知らねぇぞって。

そうして、そんな考えしかできないど底辺の自分自身が厭で厭で、死にたくなった。

 

 

ついつい、自分の惨憺たる半生みたいなものを語ってしまったけれど、別に俺は、自分がそんなふうに可哀想な生まれだったって言うことを主張したいわけでもないし、だからこんな捻(ひね)くれ捩(よじ)くれた人間ができてもしようがなかったんですよ、なんてことが言いたかったわけでもない。

ただ言っておきたかったのは、自分の日々のけなげな働きが評価されて、姫が俺のところに寄こされたわけじゃあないってだけ。

青天の霹靂ってああいうの言うんじゃないかって思う。

あの夜、いきなり血だらけの同僚が姫を抱えて自分のところにやってきて、この方をよろしく頼む、とか言われたけど、正直えええーって感じだった。顔には出さなかったけど。

だって普通、ああいう状況で、領主一族のたった一人の子供を託す相手とか、相当吟味するでしょ。忠義とか剣技に長けてて、どうやったってこいつに預けていれば安心安全、みたいな人間に託すでしょって。

それを、一応ミランシアに雇われているという態ではあるものの、やっぱり戦場でだって赤毛はいやがられたから、それとなく頭隠しつつ、陣幕へいこら回って、兵士どもの聞きたい曲を弾き語りでやったりして、ついでに駄賃貰ったりして、で、お前は前線に立たないから気楽でいいやな、だとか嫌味交じりの羨ましがられ方されたりして、それを、そうですねぇ自分らばっかり楽して申し訳ないですでも腕が立つってやっぱり自分にとっては憧れですよう、だとか適当な愛想笑いで受け流していたような、そんな俺に託すって言うのが、もう思いっきり人選間違ってませんかって。

それとも、託せるような奴らはあらかたやられてしまっていたから、単純にこの際誰でもいい、みたいな感じで選ばれたのかもしれない。まあそっちの方が可能性としては高いのかも。

だから自分は、本当にミランシア領主に大恩なんて感じていなかったし、命を懸けてもミランシア一族の血統を守るだとか、領主の正統性だとか、そういうの本気でどうでもよかったし、巻き込まれるなんてまっぴらごめんだった。

 

……だったけど。

 

自分はそれまで、あの方みたいに、純真というか汚れてないというか、つまり心の芯から相手のことを疑わない、みたいな目に出会ったことがない。

もちろん一番最初は、まだあの方は前も後ろも判るのか判らないかのような子供だったし、それは今でも子供には変わりはないのだけれど、あれから数年経っていてもあの方の目の透き通り具合は全く変わることがなくて、なんかもう、それだけで、自分は驚きというか、うわあ尊い、とか思ってしまう。

自分と違う、とかそんな次元じゃなくて、まったく世界軸が交差しない、異質な存在だった。

俺は、あんなにひとを全身で信じられる目を見たことがない。

それはきっと、小さいころから隔絶された山奥で、世間の厭なことだの汚いことだの、そういう目を濁らせるものに一切触れることなく育った、って言うのがおおよそあの方を形成したのだろうけれど、でもたぶんそれだけではなくて、もともとの魂のきれいさ、とでもいったらいいのか、まあそういうのをひっくるめて育ちの良さ、とでも言うのかもしれない。

なぜなら、もし自分が同じように物心つく前から山奥で育てられて、たとえば赤毛がどうのとか言われなかったとして、あそこまできれいな目のままでいられるかって聞かれると、自信がない。

とにかく、自分はさっきも言ったように、ミランシア領主の生き残りだったから、あの方をお守りしようだとかはちっとも思わなかったのだけれど、あの方を初めてみたときにその目に魅入られたというか、これを失うのは惜しいってふと思ってしまった。

 

大事にしている宝物ってありますよね。

それが思い出だとか、道で拾ったきれいな小石だとかは、ひとそれぞれだとは思うのだけれど、それを守るためなら、わりとどんなことでもできてしまうような気がする。

自分にとってはあの方がまさにそれで、手の内に囲い込んでもうずっと眺めておきたい宝物みたいな存在だった。あ、ちなみに、監禁拘束嗜好とかは、とくに俺にはないです。

だったから、ものすごく苦手だったけれど、忠義に篤いみたいな騎士まがいの演技もしてみせたし、旧ミランシア一派を回ってその協力を取り付けるだとか、そういう狸かヒヒ爺どもへのおべんちゃらとか、ムカつくの一辺倒だったけれど、あの方の足元を守るためならそれだって耐えられると思ったし、実際そつなくこなしてきた。

きたと思う。

けれど結局、こういう国を取るとかどうのって、皆さんの力を合わせたらできるっていうもんでもなくて、機運とか、もう個人ではどうしようもないところで自分たちはじわじわと追い詰められていった。

もぐら叩きってあるけど、あれって、出てくるもぐらと、叩く側とがだいたい拮抗しているからゲームとして成り立つんであって、出てくるもぐらがあとからあとから、ものすごい速さで百も千もでてこられたら、もう対処のしようがない。

しかもその出てくるもぐらが、頭出すだけじゃなくって、こっちに危害を加えてくるわけだから、もう四方八方どころか十六方塞がりくらいで、どっちにしろ、あの方があのまま、森にいられるはずはないって言うのは判っていた。

 

セイゼルにあっさり裏切られたのは、想定内だった。

え、だの、まさか、だのという驚きは自分の中にまるで湧いてこず、ああやっぱり、とか、そうなるよな、だとか、そういう諦めの方が強かった。

でも実際手のひら返された瞬間というものは、このタイミングでか、とか、もうちょっと先にならんかったのか、とか、やっぱり思ってしまった。

ラグリア教団の上の方、わりと融通聞くくらい上の人間と自分は話す機会を得て、なんとかそこであの方を教団下で保護してもらう段取りをつけるつもりだったのだけれど、実際は段取りをつけるどころか、セイゼルの裏切りを告げられて、いきなり首を狙われた。

ていうか俺の首なんて何の価値もないと思います。

教団にしてみれば、水面下でこそこそミランシア復興で動いていた自分の首を、ハブレストとセイゼルに示して見せることで、いっそうの献金を狙ったのだということは理解しているし、それが悪とは自分は決して思わないけれど、でも、自分の首が体とさようならするのはどうしたって厭だったから、死にもの狂いでそこから逃げ出した。

会見場所は屋敷の五階に設定されてて、その窓から下の川に飛び込んだ。

もうね、二度とやりたくないです。

飛び降りると、胃のあたりがなんかむずむずしますよね。ひあああああって情けない声上げずにいられないというか。

自分は別に高所恐怖症って言うわけではなかったけど、だからって好きこのんで高いところから飛び降りる趣味はないです。

飛び込んだ川の深さは十分あって、川底で頭を打って無事死亡ということにはならなかったのは幸いだったけれど、流れは急だわ、初春の川の水は冷たいわ、死ぬかと思った。本気で死ぬかと思った。

というか、雪解けの氷のかたまりみたいなのが自分のすぐ横を流れていったりして、真面目に洒落にならない。よくそのまま心臓麻痺とかにならなかったものだと、それだけは自分自身を誉めてやりたい。

それだけは。

そのあとはずいぶん下手ばかりうったからだ。

 

まず、すぐに川岸に上がって逃げるわけにはいかなかった。管区大司教の追手が川沿いをうろうろしていて、夜になって闇に紛れてとんずらできるまでだいぶん時間があった。

橋の下に、上流から流されてきた木の枝だの枯れ草だのが運良く塊になって引っかかっていて、自分はそれを体にかぶせて、暗くなるまでそこで耐えた。

濡れたままで。クソ寒い外気の中で。

心底焚火を焚いて温まりたいと思ったけれど、火を焚くわけにはいかなかった。煙が上がれば目印になってしまう。

歯の根が合わない、っていう言葉がある。でも、最初はがちがち鳴っていた歯も、震えていた体も、そのうちなんだか痺れて何も感じなくなって、あれ、これ自分、死ぬんじゃないですかねって思ったりした。

死ぬ。実感が良く湧かなかった。

ただただ思考がぼんやりと鈍っていって、ああこんなことならここに来る前に女でも買っていい思いしておくんだった、どうせ死ぬなら凍死じゃなくて腹上死が良かったなぁ、でも行きずりの女に突っ込みながら死ぬって言うのも、むなしい一辺倒かなぁ、だとかそんなくだらないことしか頭に浮かばなかった。

朦朧として、気がついたら夜になっていた。

 

管区大司教は、顔に似合わずわりとしつっこいタイプだったようで、逃げようとする近隣の宿場すべてに追手が潜ませていた。おかげでこっちは手ぶらのまんま、温かい寝床どころか濡れた服すら乾かせず、何日も野営する羽目になった。

こういうとき、赤毛は厄介だと思う。とにかく目立つ。

じゃあちょっと長めの布巻いて頭隠せばいいじゃないかってなるかもしれないけれど、考えてほしい。赤毛を探している状態で、あからさまに頭を布で隠している人間がいたら、そいつは間違いなく職質対象です。

仕方がないから、そこいらの民家で適当にくすねたインクを頭にぶっかけて、ひとまずの黒にした。雨に濡れたらすごいことになるなって思ったけど、えり好みしていられる状況じゃなかったし、赤さを隠せればどうでもいいと思った。

そこで、半月ほど逃げ回りながら情報を集めた。

追手のかけられない遠くまで逃げるだけなら、これほど苦労しなかったろうにって思う。行商を装って、今やあちこちにもうけられた関所を通り抜けてしまえばいいだけの話だ。いくらでもごまかせる。

問題だったのは、危険度で言うと最大にマズい状態になっている場所に留まりながら、あの方が今どうなっているのか、調べなければならなかったことだ。

そうして、彼女を隠していた森は早々に見つかって、彼女は連れ去られたのが判った。なんてことをしてくれた、そう思った。ひでぇ話だ。あれだけ自分が苦労して、噂広めて、近隣の住民近づかないように細工したのに、あっさりと連れて行きやがって、これじゃもうそこそこ稼いだあと誰も寄らない森の奥で、静かに暮らすという俺の悠々自適老後プランも台無しだと思った。

しかも連れ去ったのが、ラルヴァン卿の養子、だということが判って余計に俺は悶絶した。

ああいうの、なんて言うのか判らないけど、声が出なかった。悔しいのと腹立たしいのと何ともやるせない思いがごちゃ混ぜになって、とにかくしくじったと思った。だから、あれほど、情けはかけるなとそう言ったのに。

そうして、直接手を下せる場面があったにもかかわらず、やっぱりそうしなかった自分自身も、殴ってやりたい気持ちでいっぱいだった。俺の大ばか野郎。いっそあのとき、暖炉に多めにくべた麻痺草を、倍はぶち込んで止めを刺しておけばよかった、そう思った。

老いた養父にとどめを刺して、あいつは権力を牛耳り、旧ミランシア諸侯をそそのかして、ハブレストに取り入ろうとしている。

結局最後にものを言うのは、家格の高さと、利権です。自分がいくら旧ミランシアの大義を熱く語って一応の協力を取り付けてはあっても、ぶら下げられた人参に簡単に食いつくんですよね。

つまり、今までの数年に及ぶ努力が水の泡。

とめるものは何もない。

 

後悔先に立たず、まったくだ。でも俺は、自分のヘマのせいで、自分が追い詰められているのだとしたら、ここまでじりじりとした思いにさいなまれることもなかっただろうと思った。

俺の、宝物。

あの、ひとを疑うことを知らない、深淵の目。

たった一人になってしまった俺の主。

あの目が、世俗にまみれた畜生どもにいたぶられなぶられて、段々に光を失い澱んだただのガラスだまになってしまうと考えただけで、自分は気がふれそうだった。

あのとき自分はどうするのが最良だったのだろう。

追ってきているだろうグシュナサフを待つ?……彼女の命は、幽閉したあいつが握っている。生かすも殺すも、あいつの気分ひとつだった。

猶予はあまりになかった。

 

彼女が閉じ込められている建物は、つららを逆さにしたようなひどく鋭利なかたちのもので、聞けばもともと政敵だとか、王家の隠し子だとか、そうした殺すにはなんとなーく気が引けるが、表立って目については困る、のような人間を生かしたまま入れておく専門に建築された幽閉塔なのだそうで、つまり最小限の人数で要所要所をかためれば、侵入者対策は完璧というしろものだった。

ひでぇもんだ、またそう思う。お偉がたの考えることはよくわからない。

そんなふうに何年も何年も、青い空ひとつ見られもせず、ただ息を吸って吐くだけの毎日を強要されるのだとしたら、いっそ自分はひと思いにとどめを刺してほしい。生殺しだけは勘弁だ、そう思った。

でも、この時ばかりはその生殺しに感謝した。彼女はまだ生きている。

生きているなら、まだ、手は届く。

 

つららを逆さにした幽閉塔は三つ並んでいて、右から順にすこしずつ高くなっているのだった。どうやら彼女は一番高い左端の塔にいるものらしかった。

塔の入り口までには二つの深い堀があって、そこを渡るはね橋は大概上げられている。堀をうまく渡ったとしても、塔の一階二階にあたる外壁のあたりは、どれほどの手間暇かかったのか感心するほど、つるつるに磨き上げられていて、鈎(かぎ)のかかりそうなとっかかりは何もない。

ほかに足掛かりになりそうな建物も、植え込みも周りには見当たらず、最上階まで余計な窓も明り取りも開いておらず、そうして上へ至る階段は、正面入り口から続くひとつだけだった。

上に行くには正攻法で正面突破するよりほかない。

そこまで気付いて自分は途方に暮れた。

 俺には剣の腕がない。

 それでも、戦場に出てはいたのだ。後方支援とはいえ、混戦にもなれば敵兵はわりと近くにも来るもので、目の前に武器を振りかざした敵が来て自分は何もできずはい、おしまい、だとかは非常に厭だったので、一応の護身は習ってはいたけれど、それはどこまでも護身用だったし、型どおりのものでしかなかった。

 自分は、力技で正面から押し切れるような体力も武力もない。

 たとえば自分が、騎士団一の剣の使い手だとかで、単身正面から乗り込んで、迫る敵を片端から千切っては投げ千切っては投げ、一気に階段を駆け上り、囚われの姫君を片手に悠々凱旋、とかできたらものすごく格好いいですね。惚れる。でも、あいにく自分は剣の使い手ではなくて、ちまちませせこましい交渉だとか細工がひとよりちょっとだけ得意、という程度の人間でしかなかった。

 理想と現実の乖離というか。ないものねだりかもしれないけれど。

 じゃあ、助力を頼む?誰に?

 そこでも待つあいだ、グシュナサフはやってこなかった。

 後にも先にも、自分が芯から信用できるのはこの同僚だけで、あの男の性格ならきっと後を追ってきているのだろうとは思ったけれど、きっとあれも顔を知られているだろうから、足が付いていてなかなか満足に街道も歩けないのだろう。

 心配はしていなかった。あれは傭兵稼業で渡ってきた男だ。

 ここにいる、と知らせてやりたかったが、宛先のない文は出せない。

 それで、それ以外の人間で自分が頼めそうなやつが思い浮かばなかった。むなしい。どれだけ交友関係狭いんだっていう話です。でも、赤毛と仲良くしようなんて騎士の方が、希少だった。

 出世を狙っている奴らは、自分とはけっして仲良くなろうとしなかったから。

 

 しかたなく外注することになった。いわゆる用心棒、金で雇う傭兵ですね。

 手持ちの金は少なかったし、本当はこれだけには手を付けたくなかったけれど、四の五の言っている場合じゃあなかったから、虎の子、軍資金に手を付けた。やむを得ず、ってやつだ。

 そもそもセイゼル領がミランシア領の肩を持とうと思ったのは、たぶん、結局のところ、金だったんだろうなぁと思っている。ミランシアの支度金。コロカントの後見になれば、自動で転がり込んでくるひと財産。

 財産、って言っても、小国ですからね、しかもお人よしの領主は、たいした重税もしないわりには周囲との小競り合いに明け暮れていたわけだから、そうそう残るはずもないです。でも、ごく一般の感覚で言えば十分にひと財産だった。

自分らだって、阿呆じゃあない。彼女の血統の正統性だけを提唱して、それはそうだじゃあ協力しましょう、だなんて賛同を得られるとは思っていなかった。ただまあ、これを手土産に、そこそこの後見を立てて、セイゼルと交渉しようとあくせくしていた俺らの苦労は、おじゃんになったわけですけれども。

でも、後生大事に抱えているよりは、いま彼女を助ける方法に使うべきだ、そう思った。

そこまではよかった。

……よかったんだけども。

五人雇った傭兵のどいつかが、ハブレストの息のかかったやつで、結局俺は土壇場で売られた。

跪(ひざまず)かされた自分の前に、ラルヴァンのクソ養子がわくわくした顔で立っていて、どうしよう、どうしようと呟くのが聞こえた。まるで新しいおもちゃを前にしたガキのはしゃぎっぷりだった。

実際自分はおもちゃだったに違いない。

 

――君は楽には殺さない。

 そいつは蠅のように手をこすり合わせてそう言った。

――こんなところまで単身やってくる君は、きっと彼女に忠実な人間なんだろうね。あんな子供に、……、……あんな子供にねぇ……、……。いるんだね、そういう絶滅危惧種みたいな人間。初めて見たよ。

――でも、その忠心に免じて、要望は聞いてあげたいよね。

――何か望みはあるかな。

弄る視線に決して叶わないだろうなとは思いながら、彼女に会わせてくれ、と俺は言った。

 会うだけでいい、会話しなくてかまわない、なんならちらっと遠目から姿を見るだけでいい。彼女が生きて、そうして無事でいる姿を見せてくれ。

 甘いことを言っているのは判っていた。そいつが、なさけ仏心があるようなやつにはどうやったって見えなかったし、言うだけ相手の嗜虐をそそるのは判っていた。

 判っていた。でも言わずにはいられなかった。

 うん、うん、と頷いてそいつは答えた。

――そうだね。そうだろうともね。

――会いたいよね。

――会って、無事を確かめたいよね。

でも無理なんだよ。そいつは言った。揉み手をし、しんから嬉しそうにそいつは言った。

――無理なんだ。だって君と彼女を引き合わせたところで、わたしになんの見返りもないもの。

じゃあ聞くなよ。

そう言いたかった。そもそもが叶わない望みだと判っていても、懇願させられるこっちの身にもなってみろ、そう思う。

自分自身の性格だって相当ひん捩(ね)じれまくっていると自覚があるが、それにしたってこいつはどうだ。自分はここまでゲスじゃあない。

 

そいつは、三つあるうちの右端の塔に自分を連れて行った。

その部屋には縦に長い窓があった。そうしてその窓からは、あの方が幽閉されている一番高い左端の塔がよく見えた。

自分はそこで両手足を鎖でつながれた。ぎちぎちに短い鎖でなく、やや余裕のある長さの鎖だったことが笑えると思った。

それは、窓から左端の塔が見えるだけの長さだ。

――ほら、見てごらん。

そいつは俺の顎を掴んで、無理矢理に左の塔へ向かせて見せた。

――あそこのてっぺんに、彼女はいる。

――いる。だのに君は届かない。

――無力だね。

――無力な君はここから毎日毎日、あそこにいるだろう大事なご主人を懸想して過ごすんだ。大丈夫、命の危害は加えない。わたしは別に、彼女の手や足を捥(も)いで楽しみたいわけじゃないしね。

……嘘を吐け。

自分はそいつを睨んだ。

お前はきっと、そうしたくてそうしたくてたまらないはずだ。ちいさいころ掴まえ好き勝手に玩(もてあそ)んだ羽虫のように、羽を千切り手足を一本ずつ引き抜いて、ピンに刺しもがくさまを見たくて仕方ない、そんな顔をしておいてどの口が言う。

俺は睨んだ、でもそれだけだった。

そいつの言う通り無力な自分は、睨むだけで何もできやしなかった。

無能。

自分に吐き気がした。

 

そうしてそこで無能な自分は、四年過ごした。

 

 

そこでの四年間なんて、自分はただズタ袋というか、なんて言ったらいいのか、公衆便所って言ったらだいたい判りますか。聞いたって不快になるだけの、つまり、塔に詰める兵士のみなさんに順繰りに輪姦(まわ)されていただけです。

虜囚の扱いなんて、大なり小なり、そんなもんだって思う。拷問まがいのことをされなかっただけ相当ましだ。

とくに赤い頭、って言うのは基本ろくな仕事に就けやしないから、最底辺の仕事をしていることが多くて、それも女よりも男にその傾向が強くって、だいたい赤毛の男を見たら、売りと思え、みたいなところはあった。

あながち間違ってないところがいっそう惨めだ。自分も昔そうだったし、前も言ったけど、宿には赤毛が多かったし。

だから、塔に詰めてた連中が上のいない間、頭の赤い自分のところに排泄処理に来ようとするのはまあ当然っちゃあ当然のことで、俺も今さら悲劇のヒロインぶる気もなかったので、うわあせめて並んで一人ずつにしてね、くらいのものだった。

可か不可かって言われたらもう完全に不可なんですけども。

俺の後ろの穴は出すためのもので、なにかを入れるために存在してるわけじゃないと言いたい。力説したい。

よくよく考えてみて。生理的にそうなってないでしょ。形が。

あとあれだ、紅顔の少年とかならまだ判る。自分はその手の趣味はないもんで、男相手に欲情するとかやだそれ怖い、だけど、男くさくなる前の、まだ男か女か判らないような、若木みたいな少年相手に興奮するというのは、想像はできる。

理解はしたくないですけど。

でも自分、少年じゃないんですって。三十路越えたおっさんですよ。おっさんのケツ掘って何か楽しいですか。色気ある喘ぎなんて出せるはずもなくて、ただ野太い呻き声しか出ないですけど。いいんでしょうか。毛とか普通にありますよ。

ただまあ、ここでまったくの初めてじゃなかった、ってのは、結果的には助かったのだった。助かった。この状況で助かったとは言いたくなかったけれど。

宿に置かれていたときはひと晩で数人相手させられていたし、ただ長いだけのやつとか、テクニックが皆無なわりに自信満々なやつとか、とにかくとんでもない客が多かったから、自分がどう動いたら極力傷つかないで済ませられるかを知っていた、っていうのはだいぶん助かった。

三十路越えて複数相手にいきなり開通させられるとか思ったら、憤死か出血死かショック死か判らないが、たぶん死ねると思った。

無理です。

 

そうして、蜘蛛の糸みたいな、そんなばかばかしい慰めに、自分は縋(すが)って生きていた。縋っていないと気がふれそうだった。

自分はいい。もうさんざん世の中の不条理な部分を見てきたと思うから、ああまたか、くらいでどうってこともなかった。

でも、虜囚の扱いなんて大なり小なり、って自分は言った。つまり、自分と同じように彼女も囚われているわけで、……、ということは、つまり、だから。

そうして鎖につながれている自分は、ただ、願うしかなかった。

でも力を伴わない願いなんて、クソの役にも立たないと思う。

 

忘れたころに時々、あいつはやってきた。律義すぎると思う。いやこういう場合って律義とは言わないのか。

自分のところへ顔を出して、今から彼女のところに行くんだ、だとかいちいち報告してゆくのだ。告げて、がちがち歯噛みする自分の顔を見るのが快感らしい。

頭おかしいですね。

ただ、このころになると自分にもすこし余裕というか、諦めのようなものがあって、無駄に精神をすり減らしちゃならないと思うようになった。

それはいざというときのために温存しておかないと駄目だ。

塔の周辺に気を紛らわせそうな娯楽施設はなかったし、なので入れ代わり立ち替わり自分を娼婦がわりに使用する兵士どもの会話の合間合間から、彼女が今どんな様子か、僅かではあったけれどうかがい知れるところもあったし、塔の内部の構造だとか、兵士どもの配置だとかに聞き耳を立てるようになった。

自分はまだ生きている。あの方もまだ生きている。

だったらどうにかしなくてはならないと思った。

そうして、四年、無抵抗で従順な囚われ男を装った。

 

装い、相手を油断させたある日のことだった。

いつもは数人で連れだって来ることが多いのに、その日は、自分のところにやってきた奴はひとりしかいなかった。

ひとりしかいなくて、しかもそいつは、錠の鍵を腰からぶら下げている奴だった。

チャンスだ、と思った。いまを逃す手はない。

そうして、自分がここを出るときは、彼女もともに逃れなければならないと決めていた。いったん自分だけ脱出して、また機を窺うなんてありえない。少なくとも、あの男に逃げたことが知られれば、二度と彼女を救出することはできないと思う。

鍵をぶら下げたそいつは、俺が抗うとまるで思っていないようだった。というか、生きていると思っているかも疑わしいものだった。

突っ込む穴に手足がついている、そんな認識だったかもしれない。

 

そいつが下穿きをずり下ろし、お粗末なイチモツをむき出しにして自分に圧しかかり、へこへこ腰を振りはじめたところで、俺は前々から腐食させていた右手の枷の鎖を無理矢理引き千切った。

引き千切る、というとなんかものすごい力自慢みたいだけど、実際は四年かけて小便をかけぼろぼろに錆びさせただけのもので、たいしたことはやっていない。やったことはと言えば、毎日催すと鎖に向かって排泄する、地味で涙ぐましい努力だけです。

ぺき、とかわりと呆気ない音を立てて鎖はこぼれた。圧し掛かっている奴に気づかれないほど小さな音だった。自分は逆の腕の鎖を相手の首に素早く巻いて、捩じり切った。

一気にいった。

容赦なく捩じり切りながら、そう言えば昔はじめてひとを殺したときも、こうして犯されれていたなあ、だとか思ってしまった。なにかそういう星のもとに生まれたのかもしれない。

首の骨が折れる音が聞こえて、だらりと舌をはみ出させ、絶命した相手の下から急いで抜け出す。腰の鍵をひったくるようにして抜き取り、それから足の鎖を外した。

鎖を長くされていたのが幸いした。おかげで監視どもが見ていない間、動かすことで手足が萎えるのを防ぐことができたし、単調にこなすそうした目的があったおかげで、俺は気がふれるぎりぎりのところで、踏みとどまることができたと思う。

部屋の外を窺う。気配はなかった。

そもそも自分の繋がれていた右端の塔に出入りする人間は少ない。ひとり、ふたりというところだと思う。理由は簡単で、自分に何の囚人価値もないからだ。

ただ、あの男が楽しいから自分を生かしておいただけで。

だから別に監視が常時ついていたわけでもなくて、むしろ監視、というよりはもう管理、みたいな扱いだった。とりあえず時間になったらメシ放り込んどきゃいい、みたいな。

死なれると困るから最低限の世話だけはしないと、的な。

でもまあ実際そうですよね。公衆便所ですからね。

 

奪った鍵の束は、明らかに自分のいる右端の塔の鍵だけではないことはたしかだった。数が多かったからだ。

彼女の塔の鍵も入っていると思われた。

絶命した男の身ぐるみを引っぺがして、とりあえず身につける。自分が身につけていた服は、もう服というよりはただのボロきれだったので、遠慮なく肌着以外は全部いただいた。

靴がすこし小さかったけれど、裸足で走るより相当いい。なに踏むか判らないし。

それから、伸び放題に伸びた髪をひとまとめにして縛った。

男が部屋の隅に放っていた短剣も腰に佩いた。どれだけ自分が使えるかは判らないけれど、徒手空拳よりはましだと思う。

一対一で、相手の不意を衝ければ、なんとかなるんじゃないかなあ、くらいの。

 

下る階段にも人の気配はなかった。

階段途中に切れ込み窓があったので、外の様子をのぞいてみたけれど、目につく範囲で動いている人間はいない。

下り終わった出入り口にも、出入り口横の詰め所にも、誰もいなくて、……、……ええと、これ、いくらなんでもいなさすぎじゃないでしょうか。

無警戒すぎます。

罠だろうか。そう思った。

あの蛇のような男が企画した、なんらかのお楽しみってやつで、自分を一旦部屋から出してぬか喜びさせて、あの方のところへ行ったタイミングで、逃げられると思った?はい、残念でしたー、みたいな。

上げて落とすのは精神的にクるので、やめてほしい。

びくびくしながらあたりを窺い自分は塔を出た。

出てすぐに、キナ臭いにおいがあたりに漂っていることに気がついた。

目をやると、塔から離れたすこしむこうの森の上の方が、赤々と揺れているのが見えた。あれ、火事じゃないでしょうか。山火事。ボヤというよりは規模が大きいです。

ああそうか、これ以上燃え広がらないように、手のすいたものが出て火事場に向かっているんだな。

あの絞め殺されたやつ、鍵当番だったから、ここに残されたんだな。空いている今のうちに一発だとか思わなけりゃあ、今頃冷たい床に転がることもなかったろうにな。

そこまで思ったところへ、――バラッド。えらく懐かしいこえで呼ばれたような気がして、自分は顔を巡らせた。

空耳かもしれない。ここでの生活で、頭がおかしくなっていないと言いきれなかったので。

そこへ、見たことのある大きな馬に乗った同僚が、いきなり近くの茂みから姿を現したので、余計にえってなった。

幻覚でも見てるのかなって。

「あれ……、え、?あんたです?」

 近づくグシュナサフを見ながら、あれこれ、幻覚じゃなくて夢かもとか思った。

 タイミングよすぎでしょうに。

 馬の背から飛び降りた同僚は、自分をざっと目で検めて、動けるかとだけ言った。すまんだとか、遅くなっただとか、付け加えないのがこいつらしいと思った。

それから、同僚の眉間に深くついた抉り傷を見て、こいつもきっと、この四年で苦労したのだろうなと思った。

 

「……あんた、おとぎばなしの王子さまみたいですねぇ」

 

思わずうるっときた自分がそう言うと、同僚ははあ?眉に皺を寄せて厭そうな顔をする。

「王子、」

「知らないんですか。むかしから、囚われの姫君を助けに来るのは白馬の王子さまって決まっているんです。ハナはブチ馬で、白馬じゃあないですけど」

「……お前、つながれている間に頭に虫でも湧いたのか。誰が王子だ」

「あんたです。で、俺が姫君ですよね」

「阿呆か」

 はー、と大きくため息をつき、俺の軽口をばっさりと切って捨てて、同僚は左端の塔を顎でしゃくる。

「いいから行くぞ。だいぶん大きな焚火になったんで、おそらく早々帰ってこないとは思うが」

 その言葉で、付け火したのがこいつだということに自分は気がついた。

「姫を連れ出したらハナに乗って行け。俺は後ろから追う」

「どうするつもりです、」

「お前はどうしようと思っていた」

 聞くと逆に聞き返された。はあ、と応えながら、自分はかねてから考えていた脱出経路を口にする。

 なにしろ考える時間だけはあったので。

「現況で、これ以上ミランシア周辺に留まるのはリスクが高すぎると思います。今回の手のひら返しを見ても、誰も信用ならない。動けなかった四年で相当根回しされているし、姫はともかく、俺やあんたは面が割れている。この土地を離れて、遠い異国に身をひそめるというのが、いま一番安全なんじゃないかと」

「――そうだな」

 顎に手を当て一気に告げると、俺もそう思う、同僚が頷いた。

「姫の御身をお守りするならそれしかないだろうな」

「ハブレストの南に港町がありますよね。小さな漁港ですが、客船の出入りがない分、警備はゆるいです。そこから船を乗り継いで、一旦大陸を渡ります」

「……わかった」

 自分の提案に、一も二もなく同僚が頷いたので、あんたはいいんですか、ふと不審になって俺はたずねた。

「なにが」

「俺の考えに全面的に乗るとか、」

「俺もそう思うと言ったろう。――街道と馬宿は極力利用するなよ。追手の数を減らすのは引き受ける。あとでまた落ち合おう」

「俺が、姫の護衛ですか」

「他に誰がいる」

 弓の弦具合を確かめながら、怪訝な顔で同僚が顔を上げる。

「俺か、お前の二択なら、お前しかいないだろう」

「俺の剣の腕が、からきしなの知っててそう言いますか」

「お前が俺のかわりに数を減らすほうが無茶だろう。死ぬ気で守れ」

 言ってもう一度顎をしゃくられる。

「早く。――姫を頼むぞ」

「はい」

 頷いて今度は素直に左端の塔へ向かう。走りながら腰の獲物に手を伸ばした。こんなことになるなら、もうちょっと真面目に剣術の稽古でもつけてもらえばよかったかも。今さらながら思う。

 結局、そういうのって、後悔ってやつだと思うのだけれど。

 

 さかさまになったつららの塔の一番左は、自分が入っていた建物よりずっと高くて、そうして内部の作りがまるで違っていた。

 根本的な土台だの、使われている石だのに違いはなかったのだけれど、まず最上階へ続く螺旋階段に、明り取りや換気目的の切り込み窓はどこにも見当たらなかった。

 明り取りのかわりに、階段の要所要所に蝋燭がたてられていて、光源と言えばそれだけ。グシュナサフは入り口に張っている。むっとよどんだ空気の中で、自分の階段を上る音だけがいんいんと響く。

 さすがにあの方の見張り番まで火消しに駆けつけているとは思えなかったので、きっとこの上にいるとは思う。だからなるべく音を消して登っていきたいのに、偏執的に密閉されている階段は、中途に音の逃れる切り口がないものだから、いつまでも音が反響し、いっそうるさいくらいだった。

 ああ、でもこれ、ただの自分の心臓の音かも。

 饐えたにおいのする血流が俺の全身を勢いよく巡って、こめかみがずくずくと痛い。

 繋がれていた四年間、手足の筋肉が萎えないように動かした、とは言っても、結局それは鎖で拘束された形での運動だったわけで、自由に動けたときの筋量とはきっと決定的に違う。

 だからこんなふうにして、よろけるように一歩一歩階段をのぼり、全身汗みずくになっているのだ。

 拷問のようだった。ずっと一目見たくて、見たくてどうしようもなかった相手に会えるというのに、自分の心臓は不協和音をたたき出し、頭がくらくらする。

 滴ってくる汗が、緊張のためか、体を動かしたためか、それとも不調によるものかもよく判らなくて、ただ、汗でぼやけた視界の向こうに扉の前で陣取る見張り番が見えた。

 相手は呆気に取られていた。

 たぶん、自分のことを襲撃者と認識できなかったに違いない。自分に突っ込みに来る顔ぶれのひとりだった。だから、あれ、なんでお前がこんなところに、みたいなことを言いたそうな顔をしていた。

 会うやつみんな俺の常連とか笑える。

 俺はそいつの腹に剣を突き立てた。

 悪いねって。でもてめぇらもこの四年間、たいがいひどいことを俺にしたよねって。犯すのみならず、メシにネズミとかカエルとか差し入れてくれたよね。ほら、食え。これ食わないと水はないぞ、とかそういうの。

 おかげで、自分は蛇だって言い聞かせながら、下卑た笑いを漏らす前で、何度もそいつらを頭からばりばり咀嚼した。

 ――だからお互いさまですよ。

 

 たいした悲鳴を上げることもできずにそいつは倒れた。あっさりしたものだった。

 さっきぶんどった鍵束から、その扉の鍵を探し出すほうが時間がかかったのはご愛敬だ。

まず汗で手がぬめってなかなか一本ずつ取り出せなかった。

 それから、意外に束になっている数が多くて、しかも当たり前だけどどれがどこの鍵かだなんて表示されていないので、そのうちのどれが合うか何度も探し直す破目になった。

 勘弁してくれって思う。こういう焦っているときに手間のかかる作業を癇癪を起こさずにやるとか、苦手なんです。

何度もやり直してようやくかち、と穴と鍵が合致したとき、自分は扉の向こうからなにかこちら側へ声がかけられていることに初めて気がついた。

わりと没頭していたらしい。

そうしてその声が、自分が聞きたくてたまらなかった声だということに気がついて、余計にどきどきした。

いやもうどきどきっていうよりずきずきです。心臓が痛い。

おそるおそる開いた扉は小さくて、俺は首をすくめながらくぐる。扉の向こうはまぶしいくらいだった。

今思えばたいした光量はなかったはずなのだけれど、明り取りひとつない階段を駆け上がってきた自分の目は暗反応していて、あとたぶん酸欠だの貧血だのそんなようになっていて、だから部屋の中の明るさに目が慣れるまで少しだけかかった。

慣れて、それからがなんかもう自分の中で修羅場だった。

 

部屋の中には見覚えのない娘がひとりいて、それが不安そうに自分を見ていた。間抜けな自分は一瞬あれってなって、たしかに俺は左の塔の最上階まで来たはずなのに、あの方はどこだとか思っていた。知らないうちに彼女は他の場所にうつされて、そうして別の娘が閉じ込められていたのかな、とか。

あれでもさっき中から声がしたよな。あの声はたしかにあの方だったと思うんですけど。

じゃあこの部屋のどこかに隠れているのかなって。でも部屋はとても狭かったし、身を隠せそうな物陰も家具も何もない。

それから、ゆっくりと、そう言えばこの閉じ込められていた娘は誰なんだろう、とか思って、ここに閉じ込められているくらいなんだから、さぞややっこしい状況の令嬢なんだろうな、しかしいきなり現れたのが自分なんかで悪かったな、しかも急な運動で俺はあはあ息切れしてるし、不審極まりないよな、そんなことを思って、その知らない娘の視線に引かれるように彼女の顔を見た。

ぶどう色の瞳が自分をまっすぐに見ていた。

え、てなった。

え、え、え、ちょっと待て。待て待て待て。

どういうことだよ。

なんでこの娘の目の色が、彼女と同じなんだよ。

よく考えれば、考えなくたってふつう判りそうなものなのに、自分の頭はそこで思考が止まってしまって、目の前の娘と、あの方がまるでつながらなくて、時間にしてみたら数拍のことなのだろうけれど、痴呆みたいに口をぽっかーんと開けてその娘を眺めてしまった。

 

バラッド。

 

 その知らない娘がおずおずと自分の名を呼んだ。

 自分の知ってる声で。自分が切望してやまなかったあの凛とやさしい声で。

 

 その瞬間、俺の足元は静かな衝撃で崩壊した。

 

 

20181228

最終更新:2019年04月24日 09:20