腕の中のコロカントが、身じろぐ気配があって、バラッドはあたりに奔らせていた視線を胸元に戻した。
樹上である。
ここ何日かは夜になると、こうして大きな枝ぶりの木に登り、夜が明けるのを待っている。夜露をしのぐためと追手の目を逃れるためだ。
ひどく寒い。
体の大きな馬につけられていた野営のための寝具や食料は、簡素だったのはともかくとして、ひとり分しかないものも多かった。食料は現地調達しろということだとしても、毛布がひとつしかないのはどうにもいただけないと思った。
……一枚でも二枚でも寒いことに変わりはないのだから、寄り添って暖を取れとか、そう言うことですかね。
野営の初日、どうやって寒さをしのぐか、わりと真面目にバラッドは悩んだ。
もしかすると、細身の自分と違って全身鍛えている男だから、寒さを感じる器官も筋肉におおわれてあまり寒くないとか、そう言うことなのかもしれない。
そうも思う。
結局どういうつもりだったのか、用意した当の本人のグシュナサフに問わないと判らない。
ふたり分必要だという考えに及ばないような人間ではないと判っているから、だとするとふたり分用意する余裕がなかったのか。
再会したときの眉間のえぐれた傷あとに免じて、問い詰める前に言い訳分ぐらいは聞いてやろうと思うけれど。
野営の五日目のいまも、手ごろな木の枝にバラッドがまたがり、その彼の膝の上にコロカントを乗せている体勢だ。
少女は眠っている。
自分はともかく彼女を凍えさせることだけはしたくなかった。ひと晩じゅう火を点けていられないのも地味に痛い。
毛織物でぐるぐる巻いて彼自身の上着も着せ掛けてやった。そうして抱きかかえると、彼女がこわばっていた肩の力を抜いたのが判った。ほう、と吐息が漏れる。
晩春とはいえ、山間の夜は霜が降りるほどだ。寒かったのだろう。
口には出さず我慢しているのが不憫だと思う。
座りのいい場所を探すようにもぞもぞとするコロカントが、万が一にも落ちないように両手を回すと、その動きに誘発されたのか、うん、と小さく呻いて上掛けから彼女が顔をのぞかせる。
ぼんやりと自分を見上げた気配に、バラッドは薄く笑った。
「……どうしました」
早暁の気配はあるが、闇はまだ濃い。
「朝まではまだ時間がありますよ」
「バラッド、……、」
囁いてやると、寝ぼけた声で名を呼ばれた。それだけで一瞬、心臓が跳ねるのだからもうどうしようもない。
……思春期の少年か俺は。
重症というよりはまったく末期だというのは、誰に言われなくても理解している。
「寒くはないですか。明日もまた移動します。すこしでも寝た方がいいです。……寝心地は、まあ、最悪ですが」
そろそろきちんとした寝床で寝かせてやらないとならないな。しんしん凍み入る寒さが少しでもやわらぐように、襟巻を巻きなおしてやりながらそう思った。
自分はともかく、戸外の寝起きに慣れていない少女にはだいぶ過酷だった数日のはずだ。
「バラッド、」
もう一度呼ばれる。
暗い中でも、彼女がこちらを見上げているのが、うっすら見えた。特技だ。
「はい」
旅芸人の一座時代に、闇にまぎれて食料をくすねていたせいか、それとももって生まれた体質なのか、光源のない暗がりの中でも、バラッドはわりと夜目が利く。
……お前、野良猫か何かか。
昔、戦場で誰かにそんなように言われた覚えがある。猫。
……どうせ猫なら、もうちょっと強そうな豹だとか、虎だとかのほうがいいな。
そんなように思った。
「寒くはないですか」
こちらも再度たずねると、はい、と先よりすこし覚醒したこたえがあった。
「寒くないです。くっついていると、あったかいです」
「それはよかった。こうして自分が支えておりますので、まだしばらくお休みください」
抱きかかえ直そうとすると、その腕を突っ張るわずかな抵抗を感じて、バラッドはおや、とコロカントを見下ろした。
「どうしました、」
「わたしは寝ました。今度はあなたが寝てください。ずっと寝ていないでしょう。……昨日も、一昨日も、その前も」
「自分は大丈夫です」
なにしろ、四年間、ずっと骨休めしていたようなものですから。冗談めかすと、
「ふざけてもだめ」
やや咎める声になって彼女は言った。
「眠らないと倒れてしまいます」
「……大丈夫ですよ」
彼女が本気で心配していることは理解している。茶化すのをやめ、バラッドは自虐的な笑いを引っ込めた。
「戦場ではふた晩三晩寝ないのはザラだったりしたので……、わりと慣れているというか」
「……戦場で」
「はい」
「寝ないで、何日も戦うのですか」
「まあ、そういうときもありますねぇ」
のんびりと答えた。ぬかるんだ泥沼だの、厳寒期の山だの、一触即発の戦況の場合は、立ったまま仮眠するだけのこともある。
ただそれが常態と言うわけでもなくて、膠着しているときはかなり現場は穏やかだ。近隣の娼婦が顔をのぞかせもするし、当番でなければ昼寝できる余裕すらある。
聞いたきり、コロカントが黙り込む。だいぶん長い間口を噤んでいたので、これはまた眠ることができたかなと彼が思いはじめたころに、
「……ずっと前に、バラッドとグシュナサフふたりの背中を洗ったことがあったでしょう」
ぽつんと彼女が呟いた。起きていたらしい。
「そんなこともありましたね」
思いめぐらせて、その時間感覚の遠さに一瞬彼はめまいを覚えた。四年前。五年前だったか。
「ものすごく昔の気がします」
思わず正直な感想を言うと、そうですね、と腕の中の少女も頷いて息を吐く。
「あそこから、時間も、場所も、ずいぶん遠くまで来てしまいました」
しみじみ呟いて彼女はまたしばらく口を噤み、
「バラッド」
名を呼んだ。
「はい」
「あの夜に、あなたが言ったことを覚えていますか」
「え、」
彼女が過ごした森の見張り塔をぼうっと思い返していたバラッドは、唐突にたずねられ、返しそこねてまじろいだ。
「……言ったこと、……ですか」
なにを言ったかな。思いだせなくて言葉に詰まる。
「ええと、」
弱る彼に、そんなにたいしたことじゃあないんです。コロカントが小さく笑った気配がした。
「たぶん、バラッドにとってはたいしたことじゃあなかったの。落ち込んでいる子供を慰めるためにかけてくれた、言葉のひとつだったんだと思います」
でもどう言うわけかわたしはずっと覚えていて、そう彼女は続ける。
「あの日、洗おうとしたあなたたちの体は傷だらけで……、それまでも、ふたりが腕まくりをした腕なんかは見たことがあったし、腕にも傷はあったけれど、あまり深く考えたことはなかった。あんなふうに、背中どころか体中、傷だらけだったなんて知らなかった。そうして傷だらけの体を見て、初めて、いくさ、というものを突き付けられた気がしました」
「……、」
「わたしはそれまで、自分がミランシアを再興するということがよく判っていなくて、……、あのときも言ったでしょう。わたしは、自分が名乗りを上げれば、ハブレストが取っていってしまったミランシアという国を、どうぞどうぞって返してくれるものだって思ってたの。今考えたらそんなことあるはずないのに、笑っちゃう」
でも。また少女が笑う気配がある。
「ミランシアを再興するということは、人と人とがまた争うことだって、……争って、血が流れて傷つくことなんだって、そこでいきなり気がついて。……気がついて、……、気がついたら怖くて、どうしても眠れなくなって。オゥルとグシュナサフはもう布団に入っていたから、起こしたくなかった。だから、表に出たまま戻ってこないバラッドを探しに、わたしも外に出たんです」
ぽん、と彼の手のひらに少女は手を重ねる。
「……、」
その手を軽く握り返し、先を促す。
「あなたは、裏手の方で、壁にもたれて、空を眺めていて」
コロカントは言った。
「外はとても寒くて、寝巻一枚で出たわたしはすぐ後悔したけれど、そのときも今のように上着の中に入れてくれて、上着の中はやっぱりあったかくて」
「……、」
「そうしてあなたは、わたしの話を聞いたあと、じゃあ逃げちゃいましょうか、って言ったのよ」
「ああ……、」
言われてようやく思いだし、バラッドは苦笑する。
「そんなことを言ったかもしれません」
「言いました。水と食べ物をもって、森を抜けて。どこかの港から、ここじゃない遠い国へ行っちゃいましょうって」
「……今まさに似たようなことをしていますねぇ」
「そうなの」
ふふ、とコロカントが笑う。
「『花屋でも、菓子屋でも、帽子屋でも、踊り子でも、給仕娘でも、なんでもいい。姫が大好きで、楽しい仕事を見つけて、そうして働いて暮らすんですよ』」
「ああ――、言いました」
ずっと手をつないでいるんですよ。あの時自分はそう言った。離したら、迷子になってしまうから。
少女もきっとその言葉を思い出しているはずだ。握り返した手のひらに、力がこめられたから。
その何かを訴えるようなしぐさに、
「……姫」
バラッドは呼びかける。
「はい」
「姫は、姫をやめたいですか」
する、と彼の口から言葉が滑り出た。ずっと聞いてみたかったような、聞いたらきっと後悔することになるから聞いてはいけないと戒めていたような、とにかくこんな木の上でたずねることでないと思った。そうして、そんな重要なことを自分が尋ねてよかったものか、滑り出たあと思いはしたけれど、既にこぼれてしまったものは仕方がないと思った。
咄嗟だった。勢いだ。
うつむきかけたコロカントが、ぱっと顔を上げ、そうして言葉の意味を推し量るように、彼の目を見る。そろそろ早暁の気配のする闇は月も西に沈み、光源と言えば星明りしかない。自分はともかく、この暗さで彼の瞳がどこにあるのか少女に判るはずがないと思うのに、どうしてこうも真っ直ぐに、おのれの瞳を射抜いてくるのだろうと不思議に思った。
「どうでしょう」
しばらく黙ったあと、ためらいがちに彼女は言った。そうしてまた言い淀む。
まだ考えている。
「わたしが、望まれているミランシアの旗ではなくなるというのは、それは、」
許されることなのですか。続けて彼女は言った。
「……許すも、許さないもありませんよ。誰も姫に生き方を強いることはできない」
「でも、」
言いながらバラッドは内心おのれを嘲る。……お前、甘言と一緒に毒を注ぎ込む蛇みたいだな。
――彼女じゃあない。彼女じゃあないんだよ。
――お前が、彼女に、そんなふうに生きてほしくないだけだろ。
「わたしは――、」
困ったようにコロカントが首を傾げた。
「まだよく判りません。旗になるのが当たり前だと思っていたから、自分がどうしたいかなんて、考えたことがなかった。……考える時間はたっぷりあったはずなのに」
「……そうですか」
そうですよね。
彼女の返事にいくらかほっとして、バラッドは肩の力を抜いた。おのれの誘導尋問をうまいことかわされてよかったような、本音を聞いてみたかったような。
「急ぐ必要はありません。これから、ゆっくり考えればいいです」
「そうですか、……――そうですね」
ほっと、彼女も力を抜いたのが膝越しに伝わる。
「バラッド、」
そのまま何か続けようとした彼女の口を、
「し、」
バラッドは手のひらで軽く押さえた。驚かせる気はなかったが、遠くで下草が踏まれたような気がしたからだ。
「……おしゃべりはちょっとお休みです」
確信はない。もしかしたらかなり過敏になっているだけで、ただの葉擦れか、森の獣の動きだったのかもしれない。
抱えた少女の背中にさっと緊張が走る。もともと聡い子供だった。今の一言で状況を読んだに違いなかった。
こわばる肩を、だいじょうぶ、だいじょうぶと言い聞かせるように指先でなだめながら、バラッドはあたりを探った。
気のせいだったろうか。
馬のハナは木の下で休んでいる。その物音ではない。
――仮に追手だったとして。彼は自問自答した。
仮に追手だったとして、単体はありえない。楽観的に見積もっても三、四人はいるだろうと思う。
移動には相手も馬を使っているだろう。足の不自由なコロカントを抱えて、いそいでハナに飛び乗り早駆けしたとしても、年老いた馬の速さはたかが知れている。
追い付かれてしまう。
そうして彼女を背に庇いながら戦う腕はおのれにはない。それは自覚している。
――とすると、打つ手はひとつしかないですよねぇ……、……。
隠れているいまの場所が見つかるより前に、バラッドが単独で先に背後を衝くなり、あえて音を立てて逃げ出すなりして、追手の注意を彼女から逸らす必要がある。
――引きつけて、巻くだけの余力が俺にあるかな。
ああクソ、内心唾を吐きながら彼は歯噛みした。……こんなことになるんだったら、せめてもう少し、真面目に剣術でもやっておくんだった。
じりじりとした心持ちを抱えたまま、それからだいぶ長いこと、バラッドと少女は聞き耳を立て続けた。
気のせいだったようだ、動いても平気だろうと判断したころには、明けの明星が出ている。
「……もう大丈夫でしょう」
腕の中の少女に告げる自分の声が、掠れ、しわがれたものになっていて、バラッドは苦笑いした。思ったよりおのれががちがちに緊張していたことに今さら気がついた。……死ぬのが怖いのかな。自問する。ろくでもない人生だって割り切っていたはずじゃあなかったのかな。
同じようにへたへたと脱力したコロカントが、そこでようやくあくびを漏らした。漏らし、目端の涙を拭っていた彼女が顔を上げバラッドを見た。表情の判別がつくほどには、東の空は明るい。
「バラッド」
こちらを見上げた彼女が言った。
「はい」
「熱くないですか」
「……熱い、?」
――寒いではなくて?
言われている意味が判らなくて、彼は鸚鵡(おうむ)返す。熱いというよりも、はっきり寒いと思う。現に、みっともなく小刻みな震えが、こらえようとしても止まらない。
「ぐるぐる巻きにしすぎましたかね」
「そうではなくて」
言ってコロカントは掌を彼の額にあてがった。
「わたしではないの。バラッドが、熱いんです」
「え、は、……?」
言葉の意味を理解しようと、かくんと傾げた首がやたら重い。
あれ、おかしいな。
ぐるぐる回る視界に目を擦る。寝不足のための眩暈かとも思ったけれど、これは。
「あれ、……、自分、熱いです?」
そこではじめてバラッドはおのれの変調を自覚した。
それから何をどうしたのか、実のところバラッドはあまり覚えていない。
ただ、刻々とおのれの状態がよくない方向に向かっていっているのだけは判った。
彼の体は細身とはいえコロカントの軽く二倍はあって、いくら少女がこの四年で成長していたと言っても、大人である彼の体を抱えて十一の子供が太くて高い枝から怪我もなく下りる、ということはできそうにも思えないから、つまりは自分で降りたのだと思う。
降りたのだろう。記憶にはないけれど。
馬のハナに鞍を付け、荷物をまとめて縛り、足の不自由なコロカントを抱え馬の背に乗せたのもきっと自分だったのだろう。これも同じように覚えてないけれど。
這いあがるようにして重いおのれの体を持ち上げ、彼女の後ろにまたがったことだけはかろうじて覚えていたけれど、それからどう指示を出して馬を進めたものやら、さっぱり記憶にない。
しくじったな、とだけ朦朧とした頭の片隅で思った。
数日前に獣に襲撃された際、腕に傷を負った。咬傷だったので、これはすこし膿むかな、とちらと思いはしていたけれど、少女の手前大げさにするのもいやで、ろくろく手当もせず、ただ止血するにとどまった。
彼女はきっと気に病むから。
泣き顔を見たくなかったのは建前で、単純に恰好を付けたかったのが本音だ。
悪いことにそこから雑菌でも入ったのだろう。ひどく痛んだ。あらためなくてもそこがえらく腫れていることは、腕の太さが左右でおかしいことから見て取れた。
膿んだ臭い。
塔から逃げ出したままに体を洗い清めていなかったこと、そうして満足に睡眠をとっていなかったことも悪い方へはたらいた。
参ったな。
他人事のように思った。
四の五の言っていられる状況ではないので、足がつくリスクが高いことは承知で、街道へ出た。
露営では悪化する一方だ。宿に転がり込みたいところだが、ここまでひどい腐臭を放つ自分を泊めてくれる宿があるかどうか。
ああ、水場で全身洗っておくべきだった。どうしてこう、俺は手際が悪いのだろうな。
後悔っていうものは本当に後からするのだなあ、と妙なところを感心しながら、コロカントの耳に、一言、二言、行き先を耳打ちしたような気がする。
半泣き声ではい、と答えた彼女は、彼の指示した通り手綱を握り、馬を進めたのだろう。
進むあいだ、彼が馬から落ちることはなかったので、何とか座っていたように思うけれど、やはり覚えていない。