におい。
毛と肉の焦げるにおい。
蛋白質が焼け、鼻の奥を突き刺すにおい。
気付いたと同時に、手足がまるで意のままに動かないことをバラッドは知った。転がった丸太のこころもちだと思った。
なのに、焦げたにおいが気付け薬のように脳幹を刺激し、正気に戻れと余計な信号を送る。
目は開かない。べっとりにかわで貼りつけられたように、ひらく気配がない。
どうしたのかなと体をよじろうとして、おのれの体が押さえつけられ、動かせないことに気がついた。
そこで突然ひりつく熾烈な痛みが襲いかかって呻き、身をこわばらせる。
「きちんと押さえていろと言っただろうが莫迦野郎!」
誰かへの罵声。いやこれは怒声かな。がちがちと歯を噛み鳴らしながらバラッドは思った。
五感のほとんどが鈍化しているというのに、ますます力任せに押さえ込む指の一本一本や、圧しかかる誰かの膝の皿のかたちが、判るような気がする。
こういうところだけ鋭敏になるものかもなと思う。
……こんなふうに、動けないということは、なんだそうか、これは、あの塔の部屋か。
ふたたび激痛がはしり、ぎくんと体を硬直させて彼は思った。そうかもしれない。そうなのだろう。これはあの、いつ終わるとも知れない部屋の中で行われた、気晴らしという名の拷問の続きなのだ、きっと。
……ああそうか、俺はあの部屋に戻されたのか。
だったら喚いて体力を消耗するだけ損だ。相手の嗜虐欲が満足するまでじっと耐えるしかない。
そうして歯を食いしばる。情けない悲鳴を上げてますます相手を喜ばせる真似はごめんだった。
食いしばった端から、焦げる煙をまともに吸い込み、噎せ、喉を鳴らして空吐く。
ぜいぜいと音がした。
「もうちょっとだから我慢しなさいよ、」
噎せた彼の耳元で、誰かが叱るように言った。
その言葉におやと思う。女の声だった。あの部屋に女はいなかったはずだ。
……じゃあここは、どこだ?
否応なしにのたくるおのれの体内の脈動で、周囲の音が入らない。まるで心臓がこめかみに来たようだと思った。
……はなせ。
自分の置かれた状況がまるで判らず、バラッドはもがいた。
混乱した頭で必死に理解しようとする。
「押さえてろ!」
また誰かのがなり声がする。
におい。
次いで押さえ付けられた床板の振動、有無を言わせない力のてのひら、そうしてまた肉を焼くにおいを感じとり、
……ああ、なんだ。
合点がいった気がして不意に四肢から力が抜ける。
……なんだ。ここは戦場なんだな。
女の声がするというのも納得がいった。ここはきっと後続の部隊だ。
戦場と思ったどこに安心する要素があるのか、自覚のないままバラッドはふっと力を抜き、おのれを抑えつける「誰か」に身を任せる。
急激な弛緩に、慌てたような誰かの指示が聞こえた気もしたが、音としてぼんやりと知覚しただけで、すでに言葉として脳に到達しなかった。
……そうだ。きっと俺はなにか怪我でも負ったのだ。そうして死んだ。
死んだ体は地表に転がされ、焼かれる順番を待っているのだと思った。
むくろならば、暴れてはならない。
おとなしく待たなければな。そう思う。
におい。
このにおいは、戦場でよく嗅いだにおいだ。
人間だったものが焼ける煙の放つにおいだ。
送り火というには情緒なく、豪快に燃え盛りごうごうと揺れる赤を、バラッドは思いだす。
ひとつ戦があるたびに犠牲は必ず影のようについてきて、屍(しかばね)がごろごろ排出された。
見慣れたと言うのは人としてどうかと思ったけれど、じきに見慣れた光景になった。
動かない体をそのままにしておくと、陣営の士気も下がるし、疫病の流行る恐れがある。始末しなくてはならない。
埋めるか、焼くか。
手っ取り早かったのは後者で、であったから戦闘がひと段落すると、転がった自軍の屍を拾い集め、積み上げては油を撒き、火をつける作業に取り掛かかるのだった。
敵も味方も、黙って友人や親や兄弟であったものの体を焼いた。両陣営から荼毘(だび)の煙が上がり、そのすこし離れた場所では、炊事班がとりあえず今日と明日、生きのこった人間が食うための飯を炊きはじめる。
炊爨(すいさん)の煙と、弔いの煙が、いちどきに上がるさまは、はたから眺めるとどこかぞっとする光景で、だが戦場ではそれが日常のものだった。これも要は慣れだ。
慣れねば生きてゆけなかった。
後方支援部隊が主な所属のバラッドは、戦闘直後でも動けることが多い。人手として駆り出された。
直前まで働かされていた前線部隊は疲弊して、すぐに動くことは不可能だからだ。より多くの動かなくなった骸(むくろ)の足を持ち、ずるずると引いて運んだ。
動揺したのは最初だけだ。見知った顔があること、ないことに、一喜一憂することにもやがて倦み、そのうちなんの感慨も湧かなくなった。
揺さぶられるような感情は、持っているだけ邪魔だった。
もともと、喜怒哀楽の上下の振れ幅のひどくうすい人間だと思っている。芝居がかった仕草は文字通り「芝居がかって」見せているだけで、彼の本質とはだいぶんちがう。
そこまで朦朧と思いめぐらせていたバラッドの耳が、泣き声を拾った気がする。
迷子のような声だと思った。
やはりどうも女のようだ。
……女。
母の記憶はない。
……女であるなら、妻か。
しかし記憶にある妻は、一度も感情を高ぶらせたことのない女だった。
青ざめた、能面のような妻の顔を、彼は思いだした。
ミランシア領に雇用されてから数年して、上司の勧めで妻をめとった。バラッド本人はまるで乗り気ではなかったけれど、
「いい年をした男が、いつまでもひとり身というのは世間体が悪いだろう」
だとかの理由で、縁談を持ち掛けられ、曖昧に首肯しているうちに決められてしまった。
仲人を取り持った夫婦がちょうどバラッドで五十組目とかで、上司は鼻高々だったし、所属の部隊でそれなりに世話になっていた男だったから、断りそびれたのもある。
周りはみな所帯を持っていたし、とくだん断る理由もなかったから、
……まあ、別にいいか。
赤毛のところへ嫁に入る女がいるものなのだなあと、おかしな感心はしたけれど。
迎えた妻はひどく地味な女だった。
夫婦らしい会話を交わした覚えもほとんどない。バラッドの側から話を振れば答えたから、不愛想というよりは極端に無口であっただけなのだろうけれど、食卓で向かい合って半分以上無言、というのもなんだか面白くなくて、ふらふらと夜の街へ飲みに出た。
無言であっても退屈しない相手、というものも中に入るから、これは相性の問題もあったのだろう。
おとなしい女だった。
ほとんど家に居つかない彼を咎めることも、感情を高ぶらせて罵ることもしなかった。
おとなしい女であることをいいことに、バラッドは戦場に召集されるまま参じ、家を顧みることもあまりなかった。
……最低の夫だったな。
今はそう思う。
新婚である妻を家にひとりきり置き去りにして、やれ付き合いがあるの、仕事でしばらく戻らないの、勝手気ままに過ごしていたと思う。
あンた、新婚さんなンでしょう。帰ってやらなくちゃだめよ。
酌婦にたしなめられたときも、いいんだいいんだと彼は笑ってごまかしていた。
……あれはひとりでいる方が気楽でいいんですよ。。
妻はきっと寂しかっただろう。
けれどバラッドのそれは、小国ミランシアにおいてそう珍しいことでもなかったのだ。
近隣諸国との小競り合いが常態化していたミランシアは、武器を取り、戦える男は、戦力として一年のほとんどを駆り出されていたし、ミランシアに従事し、忠誠を誓うというのはそう言うことだった。
生き延びるためには仕方がなかった。そうして、赤毛の彼が選べる手段は限られていた。
半年ほど戦に明け暮れて過ごし、しばらくぶりに帰った家で顔を会わせた妻は、土埃にすすけ、よれよれになった姿のバラッドを見て、ただ頭を下げ、ご苦労さまでしたと言った。
無感動に淡々とした声だった。
放っておかれた不平ひとつ漏らすことはなかった。
よくできた女だったのだろう。
そうして、くたびれ果てた彼の喉からすべりだしたのは、うん、とかああ、だとか言う生返事だけだった。
特別な交流はなかったけれど、やがて胎に子が入った。
子ができたと告げられた時も、妻は喜びをおもてにあらわすこともなく、慇懃にバラッドに告げただけだったし、だから彼もその時食べていた手を一瞬止め、あ、そうですか、と返しただけだ。
体を冷やさないようにだとか、労われだとか、通り一辺倒の言葉はもしかしたら口にしたかもしれない。
大事にするといいと思った。
無事に生まれるとよいなと思った。
……でもあれは、自分の妻を愛おしむという感情じゃあなかったんじゃあないのか?
苦々しく思う。よその家の出来事以上の関心を、彼は妻に向けることができなかったのだ。
――よくない育ちをしている。
ふた月後再び戦場に駆り出されたバラッドのもとに、留守中妻を見るものから連絡が届き、さすがに放っておくこともできなくて、彼は家に戻った。
どうも困ったことになったと、前線の野営地を訪れ相談した彼に、いいから早く行ってやれと同僚のグシュナサフが尻を叩いたのもある。
お前が今やるべきは笛を吹くことじゃない。顔を出して安心させてやることだろう。
出迎えた妻は寝台から降りることができず、ひどく痩せ、腹はいびつに膨れていた。
余計なことは何も言わず、どうして戻ってきたのかも問わず、しばらくのうちに変わった妻の姿を目にして眉を曇らせた彼へ、
――ご苦労さまでした。
頭を下げた。
――おつとめ、ご苦労さまにございます。
危険であるということは、素人目のバラッドにもよく判った。
流すにも流せぬ。診たてた医者はそう言った。
おかしなところに子は引っ掛かり、母体ごといのちを縮めていたのだ。
なのに、大事ないか、辛くはないかとおどおどとするバラッドへ、
――大丈夫です。
落ちくぼんだまなこをぎらぎらとさせながら彼女は言った。
――産みます。それがわたしの務めです。
そこに初めて妻の激情を見た気がする。
戦場でやりとりされるそれとはまったく異る種類の、しずかなる狂気、鬼気迫った息苦しさに、逃げるように彼は数日後戦場へ戻っていた。出立間際の挨拶で、握った妻の手は冷たく硬かった。
慣れた戦場に戻ってみると、再び小競り合いを始めていたうちに、見知った顔がいくつかいなくなっていることに気がついた。やられたのだと知った。
バラッドの仲人をつとめた上司の顔も消えていた。
やはり、と言うか腐れ縁のグシュナサフは飄々と健在で、戻った彼を見て片眉を上げ、ただ黙って皮袋を差し出し、酒を勧めた。
深くは聞かれなかった。察したのだろう。それに助けられたと思った。
幾日かして、戻った彼を追いかけるように、子はいけなかったと報せが届いた。
……そうか。バラッドは頷いた。そうか。やはりいけなかったのか。
まみえることのなかった赤ん坊と、ふくれた腹を抱え目をぎらつかせていた妻を思い、彼は哀れんだ。
畳みかけるようにして、肥立ちのよくなかった妻の訃報がまた少し間をおいて届いた。ハブレストとの交戦が一時休止していた夜の、町から郵便夫が届けた報せだった。
最後は痩せ衰え、まるで幽鬼のようだったと記されていた。
内内に葬儀は済ませたから、あとは心置きなく存分に領国のために励みたまえ、とも書かれていた。
……励みたまえ。読み下して思わず彼はせせら笑う。誰が。なんのために。
その夜はことさらに、賑やかで派手な音楽をかき鳴らして陣幕を渡り歩いた。せめてもの手向けだと思った。
――今夜はやけに陽気だな。何かいいことあったんだろ?
訪れた先々で騎士どもにそうからかわれ、酒をふるまわれて、ふるまわれるままに浴びるように飲んだ。深く考えることはごめんだった。
朗朗と歌い、弦をつま弾いた。
最終的には悪酔いし、前後不覚に千鳥足になり、倒れ込んだ先の飼い葉桶に溜まった水に頭を突っ込んだ。
頭を突っ込み――、そうしてバラッドは少しだけ泣いた。
爾来、いっそう他人と深く関わりあうことを避けるようになった。
武功というほどのめざましい武功もなかったけれど、出陣のたびに生きて戻り、在籍し続けたおかげで、中堅どころと呼ばれるほどほどの地位までにはなった。
のち添えをと勧める声も持ち上がらないでもなかったが、今度はひたすらに首を振り、ひとりに徹した。不便だろうと心配される声に、どうせひとりなのだから、便利も不便利もない、むしろ同じ空間に、他人が土足で入り込むことの方が、自分には不便に思えてたまらない、そう答えた。
……赤い頭と縁組させられる女性の身にもなってあげてください。不幸ですよ。不幸な女性をもうひとり作りたいですか。
本心だった。
泣いている声が途切れ途切れに聞こえる。
泣き声を口の中で噛み殺し、噛み殺しそこねて、とうとう漏れてしまった呼吸のような鳴き声だと思った。
……妻はこんな声で泣いたのだろうか。
バラッドは思う。湿った土のしたで或いは溶けきれず恨み言を吐いているか。
恨んでいるとよいなと思う。