ぽかっと目が覚める、というのは、なるほどこういうことなのだ。

目覚めた瞬間理解したように思った。

 疲れの取れたすがすがしさとは違う、よく寝た充足感とも違う、けれどたしかに長く寝込んでそのあいだ時間が進んだなという感覚だけがあり、

「……起きたか」

 充血した目を擦りながら、グシュナサフがこちらに声をかけてくる。壁際に寄りかかり、こちらの様子をうかがっていたらしい。

「……ええと」

 俺はいったい、だとか、何故あんたがここに、だとか言おうとして、バラッドは喉がしわがれまったく声が出ないことに気がついた。

 引き攣れて痛い。

 顔をしかめると、同僚が、枕元にあった水差しを面倒くさそうに差し出してくれた。体を起こそうにもうまく動かせなかったので、ありがたく吸い口から水を飲む。

 うまいと思った。

 

「――いちいち聞かれるのも面倒だからあらかじめ言っておくが、宿場であったのは、まあ、偶然だ」

 飲み終えた彼を見て、グシュナサフが再び口を開く。

「……はあ、」

「お前、よれよれになって転がり込んだのは覚えているか」

「ああ、……、」

 

左腕をゆっくりと上げ、巻かれた手巾を眺めながらバラッドは頷いた。ぶっ倒れる前、たしか左右の太さは倍ほど違っていた記憶がある。森で獣に噛まれた傷口が膿んだのだ。

今は変わりがない。

「何日寝ていました」

「二日だな」

 そう言えば途切れ途切れの記憶で、傷口を焼かれていたなとバラッドは思いだす。戦場で同じような手当てをされたこともあるので、あの痛みは初めてでもないが、慣れることのない痛みだと思った。

 痛みに慣れる、というのもどうかと思うけれど。

「……ええと、」

「うん、」

「あんたが手当てしてくれたんですよね」

「まあ、そうだな」

「ありがとうございます」

礼を言うおのれの頬や首のあたりがやたらすうすうするなと思い、なんとなしに手を回すと、髭はあてられ、頭は短く刈り込まれていた。

「さっぱりしたろう」

「ひどいな、ほとんど坊主じゃあないですか」

「贅沢言うな。虫は湧くし臭いはひどいし、意識のない重いお前を抱えて洗うより、切った方が早かったからな」

 いやなら自分でもうちょっとなんとかしろ。口角を下げてぼやく同僚へ、

「上手ですね。あんたがやったんですか」

意外に思ってバラッドは訊ねる。器用でこまめな男だとは知っていたけれど、その分を自分に割いてくれるとは考えにくいと思った。

「……俺じゃあない」

 内心首を捻ったとおり、グシュナサフは短く否定する。

そうしてもの言いたげな目で見つめられて、バラッドは目をぱちぱちとさせた。

 

「あんたじゃないなら、……、ええと、姫です?」

「いや」

「ここに、わざわざ宿の人間とか、呼ばないですよね」

「呼ばんな」

「じゃあいったい誰が、」

「女だな」

「女、ですか」

「……俺から言うのはいろいろと面倒だから、あとで自分で確認しろ」

「はあ、」

 的を得ない説明に曖昧に頷きながら、ふとバラッドはおのれの右手の違和感に気がついた。

 自分の手が、わりと強めに何かを握っていた。感触はやわらかだった。

 右の掌の中に、別の小さな手があるのだ。

 ゆっくり辿るように視線をずらして、

「うわ、」

 思わず喉から声が出た。

 彼にぴったりと寄り添うようにして、コロカントが小さな寝息をたてて眠っていたからだ。

 そう言えば目覚めたときからなんだか右側があたたかかったように思う。気持ちのいい温もりだったので、それまで気にも留めなかったけれど、

……やばい。可愛い。

 穏やかな寝顔をあらためて見直して、思わずニヤついた。

「目が覚めたら姫が添い寝とか、ご褒美ですかね」

 頬がやわらかくておいしそうだ。今まで女相手においしそう、だとか下種な冗談以外のなにものでもないと思っていたけれど、目の前の色づきかけた白桃のような頬は、文字通り本当にうまそうだと思った。

 順調に変態の階段を上っている自覚はある。――さすがに同僚が呆れた眼差しで眺めている目の前で、食いつく無神経さは持っていなかったけれど。

「……起こすなよ」

 お前キモい。身じろぎかけたバラッドを牽制するようにして、グシュナサフが呟く。

「それと、言っておくが、お前、ひどかったからな」

「え。……え?なにが、」

「……お前、熱に浮かされて駄々こねてたぞ」

「は、?」

 俺、いったい何をしたんです。眉間に皺を寄せる同僚にふと厭な予感を覚えて、バラッドが小声でたずねると、グシュナサフは首をごりごり回し、大きくため息をついた。

「覚えていないのか」

呆れた声でそう言う。

「覚えてないのかって、……、ええと、覚えてないのかって、なにを」

「……高い熱出したとはいえ、乳離れしてないガキならともかく、天地がひっくり返ったみてぇに、大の大人のお前がみっともなく大騒ぎしてたとか」

「え、え、え、俺?マジですか、俺が?」

「姫、姫、姫、姫、ってうわ言でずっと口走ってたとか」

「……えぇ、……、」

 言われて厭な汗がにじむ。まったく記憶にない。

「離れようとするとお前が喚くから、それこそ二日間、お前につきっきりでずっと、手をつないだまま、お前の横に姫がいたとか」

「……ええぇ……」

「口に出すのもこっ恥ずかしいようなセリフ、なんかいろいろ言ってたぞ。……。思春期か、お前」

「……えええぇ……」

「病人相手に引き離すってのもどうかって言うので、まあ姫はだいぶんお前に付き合ったわけだが」

「……、」

 聞きながらとうとうおのれの喉から声が出なくなる。不自由な左手でバラッドは顔を覆った。気持ちは頭を抱えたい。

「ついでに巻き込まれた俺は、ちょっぴり厭味を言ってもいいと思う」

「……、」

「あと姫の目が覚めたら、お前とりあえず全力で詫びろ」

「……、……すみません……」

 グシュナサフの視線は冷ややかだった。仮に逆の立場だったら、バラッドは相手をさんざん貶(けな)しただろうと思う。調子に乗って酒を呷り、泥酔して失態を晒しまくった恥ずかしさと似ていると思う。

穴があったら入りたい。

 

 しばらく自己嫌悪に陥ったバラッドは、もう一度視線をコロカントに落とした。彼とグシュナサフのやりとりにも、いっこうに目を覚ます様子もなく、少女はよく眠っている。

「夜半過ぎにお前の熱がようやく少し下がったからな。それで安心したんだろう」

 無理をさせてしまったな。申し訳なく思った。

「……二日」

「うん、?」

「俺、二日寝たんでしたよね」

「ああ、」

「今晩立ちますか」

「お前が動けるならな」

 無理だ動くな養生しろとグシュナサフは言わなかった。お互い、ひとところに長居をすればそれだけ足がつくのは判っている。

「動きますよ」

「そうか。……じゃあ、備えて寝ておけ。俺も疲れた。主に精神的に。寝る」

 軽く頷いて、グシュナサフは壁から改めて身を起こす。ひどくくたびれた顔をしているなと思った。

「……ひどい顔ですねぇ」

「お互いな」

 誰のせいだ。声をかけるとげんなりと返された。

 

 

 そのままグシュナサフは床に転がり、すぐに軽い鼾が聞こえ始めた。自分の容態を看ていたというのなら、ほとんど眠っていなかったのだろう。

 同じように休もうとしてバラッドは目を閉じ、しかしまったく眠れない。ひたすら寝続けていたせいか、それとも神経が高ぶってでもいるものか、とにかく眠くないのだ。

 

寝入ることは諦め、一旦用を足してくることにして、バラッドはのろのろと起き上がった。視界が不意の変化に前後左右にぶれる。眉間を揉み、コロカントを起こさないようにそっと寝台を降りると、椅子の上に畳まれていた上着を羽織って、部屋の外に出た。

 

建物の中は静かだった。

明け方よりはまだ早くて、帳場にも厨房にも人はいない。

小さく灯された明り取りの光源を頼りに、バラッドは階段の手すり伝いによたよた階下へ降りた。二日寝込んだせいか、体が重い。

……煙草が吸いたいな。

上着の隠しに無意識に手を伸ばしかけ、彼はため息を吐いた。

そこは愛用の煙管を入れていた場所だ。四年前に捕らわれた際、身ぐるみすべてはがされてしまった。勿論煙管もどこかにいってしまっている。

金も服も惜しくなかったけれど、愛用の煙管を奪われたのだけは痛いと思った。

……あそこまで育てるのは結構かかるのに。

未練がましくそう思う。ひとまず落ち着ける状況になったら、早めに新しいものを手に入れたいと思った。

しかたなしに、食堂で飲んだくれていた三人組の姿を見つけ、そこへ近づき声をかける。いくらかの小銭を渡し、紙巻き煙草と変えてもらった。

煙草に火を点け、咥えたまま戸口をくぐり、裏手へ回り、用を足したのちに深々と煙を吸い込む。

ようやく人心地ついた気がした。

はぁー生き返る、だとか年寄りめいたひとりごとを口にして、それから手近の木箱に腰を下ろす。

 ただ黙って一本。

しばらくして燃え尽きると、もう一本口に咥えて燻(くゆ)らせた。

 湿った夜気と共に煙をゆっくりと吸い、吐き出ししながら次第に白くなる空を見る。

 考えることは億劫だったし、空を見たところでたいした感慨はない。ああ星がたくさんあるなあ、星が見えるってことは今日も晴れかなあ、だとか、ぼんやり思っただけだ。

ところに、人の足音がした。

 じゃり、と砂礫を踏む軽い足音だった。

 音のする方へ視線を向ける。この軽さは子供だ。そこまで思って首を傾げた。

宿の子供だろうか。こんな時間に。

 連想するには頭が疲れていたので、そのままぼんやり眺めていると、足音の主が建物の角を曲がり姿を見せる。

「え、」

 思いがけずぎょっとなって、バラッドは木箱から尻を浮かせた。

彼の方を窺い、足を止めたのはコロカントだ。

 

「姫」

「――ああ、よかった」

 

 声をかけると、ほっとしたように声が答えて、こちらを窺うようにしていた少女はやってくる。

 その顔が、暗がりの中でもなんだかすこし困ったふうに見えて、バラッドは目をすがめた。

 なにかあったのかな。そう思う。

「姫?」

「横に座ってもいいですか」

「ああ、……、どうぞ」

 たずねられ、位置をずらして彼女が腰を下ろすだけの間を作る。そこへすとんと腰を下ろすと、少女は静かに息を吐いた。

 一拍、二拍、置いてそれから、

「煙草のにおい」

 少女は言った。

「はい、?……あああ、すみません、くさいですよね」

 言われて思いあたり、慌ててバラッドは咥えた煙草を消そうとする。吸わない人間にとって近くを流れる煙というものは、煙たい以外のなにものでもないだろうと思い当たったからだ。

「違うの」

だのに、急いで彼女が首を振り、彼の腕に手を添えて止める。

「消さなくていいんです。消さないでください。そうした意味で言ったわけではないの。臭いわけではなくて。その。煙のにおいが、前と違うなと思って」

「前、ですか」

「ずっと前、バラッドからしていたものと違ったから。……外、暗いでしょう。わたし、夜目はきかないし、近づいてもよく見えなくて。煙のにおいも違うし、声をかけられるまで、バラッドかどうか、自信がなかったんです。人違いじゃなくてよかった」

 そうして彼女は少し笑った。その肩が寒そうに見える。

消しかけた煙草を咥えなおしながら、バラッドは彼女へ上着を脱いでかけてやった。

 ありがとう、言って彼女が前を合わせる。

「温かいです」

「それ、姫ですよね」

「わたし……、?」

「破いた袖を繕ってくれたのも、洗ってくれたのも、姫なんでしょう」

 垢じみ、おのれの悪臭がうつっていたはずの上着は、綺麗に洗い張りされ、繕った跡があった。

「ありがとうございます」

 言うとコロカントは俯く。そうして、他にやれることはなかったからと、小さく答えた。

「どうしました」

「わたし、」

 呟いてコロカントは唇を噛んだ。

「――姫?」

 元気がない。

 ……どうしたのかな。

 片腕を伸ばし、バラッドは彼女の体を引き寄せる。寄せた肩は細い。

「怖い夢でも見ましたか」

「いいえ」

「どこか痛いところでもありますか」

「いいえ」

 よしよし、となだめるように肩をさすってやると、……わたしはもっと大人にならなくては。ぽつんとコロカントは呟いた。

「大人ですか……、」

 なんで。そのままで十分いいのに。可愛いし。可愛いは正義。言いかけてさすがに彼は自嘲した。

 グシュナサフに引き続き、コロカントにまで呆れた目で見られるのはちょっと悲しい。

 勉強したいと思いました。少女は続ける。

「勉強ですか」

「はい。きちんと医療を学んで、怪我をしたバラッドにきちんと手当てすることができたら、あんなにひどくなることはなかったと思うんです。もし手当てできなくて……、万一、ひどくなってしまっても、その治療の仕方を知っていたら、グシュナサフを手伝うこともできました。でも、実際は見ているだけで、わたしは何もできませんでした」

「それは、」

「それは、わたしがまだ子供だから。わたしがまだ体も小さくて、何も知らなくて、バラッドを抱える力も、押さえる力もないから」

「……姫」

 押さえる力はともかく、抱える方はどうだろう。それをされるとますます自分の立つ瀬がなくなるのじゃないか。ふとバラッドは思ったが、揚げ足を取ることはやめておいた。

 少女は真剣に悩んでいる。

「――姫は、ずっと自分の看病をしてくださったんでしょう」

 だから代わりにバラッドはそう言った。

「なんかその、……グシュナサフから聞きました。ずっと離さなかったそうで……、その、ご迷惑をおかけしました。すみません」

「……迷惑なんて、わたし、なにも」

 ただ手を握っていただけです。

 困ったように首を傾げるコロカントに、

「姫は真面目ですねぇ」

 重ねてバラッドは言った。

「真面目ですか」

「真面目です。クソ真面目です。でもね、そんなにがちがちに頑張って、早く大人になろうと思わなくたっていいんですよ。前も言ったかも知らんですが、姫は、もっとわがままを言っていいんです」

「……わがまま、ですか」

「そうです。わがままです。子供はもっと大人にわがまま言うもんです。あれがしたいとかこれが食べたいだとか。大人になったら、辛抱しなきゃならないことが増えるから、だから、子供のうちにせいぜいたくさんわがまま言って、自分たちを弱らせていいんですよ」

「……、」

「皮袋にね。息を入れると膨らむでしょう。入れて入れて、膨らませて、ぱんぱんまで膨らませて、もう入らないってまで膨らませて、そうしたら、もうそれ以上空気は入りません。入りませんね」

「……はい」

「無理矢理それ以上膨らませようとしたら、袋は破れてしまいますね」

「そうですね」

「姫も一緒です。姫は辛抱ばっかりさせられてきたと思います。……森でも。そのあとも。たぶん、姫自身はそれが辛抱だって気づいてないんです。もう先からずっと辛抱させられてきたから。……だから、……その。現在進行形で辛抱させている手前、こんなこと言えた義理じゃあないですが、船に乗って南部へ渡ったら、姫はまず姫であることをいったん棚上げして、そうして、辛抱することを投げ出して、空気を抜くんです」

「……、」

「やらなければならないことじゃあなくって、やりたいことをやるんです。やって、楽しいこと。好きなことを好きなだけやって、そうして、空気を抜いて、」

「……このあいだも、そんなようなことをバラッドは言いましたね」

 じっと彼の言葉に耳を傾けていたコロカントがふと口を開いた。

「わたしをやめたいか、って」

 よく判らない。あのとき彼女はそう答えたはずだ。

「そうですねぇ。……まあ、あれはものすごい極論なので、自分も言った後ちょっと反省しました。だから今回はもうちょっと、やわらかにですね。その、やめるとかやめないとかではなくて、姫はそのままでいいので、とりあえず我慢をやめる、と、そういう」

「我慢ですか……、」

 してるのかな。眉を寄せて彼女は考えている。

「海の向こうはねぇ。この大陸よりずっと暖かで、気候も穏やかで、食い物も、花も、着ている服も、こっちのものとは全然違うって話ですよ。なにせ、冬になっても雪が降らないって」

「まあ」

 雪が降らないってすごいですね。聞いてコロカントがぱちぱちとまじろいだ。

「冬でも暖かいのでしょうか」

「どうでしょうね。行けば、判ると思いますよ。百聞は一見にしかず、ってね」

お祭りに行きましょうね。ぎゅ、と肩を抱く手に力をこめてバラッドは言った。

「向こうのお祭りは、そりゃあ華やかだそうです。姫も、髪に花を挿して、とっておきの服を着て。露店を回って、飲んで、食って、広場で息が切れるまで踊って。疲れたらそこいらのベンチに座り込んでね。夜になったら花火がきっときれいですよ」

 髪を結いあげ、明るい色の花を挿し、余所行きの服でめかしこんだコロカントは、とても可憐になるだろう。あたたかな春の宵、恋をささやく相手を探す、多くの若者の目にもとまるに違いない。求愛の花を受け取り困惑する様子が目に浮かぶようで、思わずバラッドは頬を緩めた。

可愛いだろうな。

 ああ、それにはまず腕のいい医者を探して足を見てもらわなくては。そうも思う。

 

「お祭り、いいですね」

 聞いているうちに、すこしわくわくした声になってコロカントが言った。

「お話はたくさん聞かせてもらったけれど、まだ見たことないもの。……でも、お祭りって、人がたくさんいるのでしょう。迷子にならないかしら」

 大丈夫ですよ。笑ってバラッドは返す。

「自分も、グシュナサフもお傍にいますからね」

「一緒にお店を回って、踊って」

「……まあ、そうですね。ご一緒するのが自分たちで、姫がかまわないなら」

 応えると、彼女のぶどう色の視線が不意に持ち上げられ、じっとおのれに注がれるのを感じた。暁の光はまだ見えないけれど、互いを視認するには十分な明るさになっている。

「わたしは、バラッドがいいです」

「はあ、光栄です」

 相変わらず深くてきれいな目の色だと思った。

……ああ、きれいだなぁ。

うっとり見返しながら、バラッドは思う。苦しいことや悲しいことばかりたくさんあったはずなのに、どうして彼女の目はこんなによどみなく透き通っているんだろう。

 

「――バラッドの目はきれいですねぇ」

 いつの間にか口端の煙草は吸い口を残して灰になっていた。それにも気づかないほど、彼はしばらくコロカントの目に見惚(みと)れていたのだ。

同じようにこちらを見ていた彼女が言う。

「……え、自分ですか」

 思いがけない言葉を言われて面食らう。自分の目がきれいだとか、思ったこともなければ、他から言われたこともない。

「宝石みたいです」

 そのままそっとまぶたのあたりに手を這わされて、急にどき、と胸が高鳴った。次いで、おのれが動揺したことに、ええ、とバラッド自身戸惑ってしまう。

 ……待て待て待て。内心突っ込む。

踏みとどまれ俺。初恋のガキじゃあるまいし、姫はまだ子供で、こういうスキンシップだって、何か裏の意味があるわけじゃあないんですって。判ってるでしょうが。それをちょっときれい、だとか言われたぐらいで、どきどきしたりして、これじゃ、グシュナサフに思春期真っ盛りと言われても言い返せないじゃないか。

 ……そう。そうだ。あいつ。グシュナサフ。こういうときこそあいつの顔を思い出せ。思いだして平常心になれ俺。

 自分自身に言い聞かせ、向かいの彼女に悟られないようバラッドは深呼吸を数度くり返した。上がってくる熱をなんとか逃がそうとバラッドは無駄な努力をする。

 ……落ち着け。彼女がきれいと言ったのは、別に俺が特別だからじゃあない。ただ花がきれいだの空がきれいだのと同じ感覚で、そう言っているに過ぎないんだって。判ってる。判ってるんですって。

 ……ああでも。

 このひとの目は、どうしてこうも自分を吸い寄せるのかな。

 

 ――好きだなあ。

 

押さえ付けようとする自戒の念からふわとそんな思いが逃れて湧いて、それは砂地に水が吸い込まれるように、バラッドの脳髄に沁み込んだ。

 ひょっとするとものすごく顔が赤くなっているかもしれない。あたりは明るくなってきたのでそれは彼女からも丸わかりかもしれない。それに、傍から見て子供相手に赤面している図だなんて、変態以外のなにものでもないだろう。

……ああでももう好きって言っちゃおうか。冷静さを欠いた頭がそんなことを囁く。言っちゃってもいいんじゃないかな。この流れなら言ってもあんましおかしくないかもしれないし。

言ってもたぶん許されるんじゃないか。勢いとか、そんな感じで。

ぶどう色の目に魅入られながら、喉元まで告白がこみあげる。

 

「バラッド」

「ふぁい」

 彼女の唇がゆっくり動き、おのれの名を呼ばれて、好き、の言葉のかわりにひっくり返った声が出た。情けないことこの上ない。仮にグシュナサフがここにいたら、本気で顔を覆って嘆いただろう。

 

「ララさんとはどこで知り合ったんですか」

「へっ?」

 

 ほんのりとした恋心から現実に引き戻したのは、まるで想定していなかったコロカントの質問だった。

 

「――え?――え?――え?ララ?……誰です、ララって」

 心当たりがない。

訝しんで真顔で返すと、コロカントがむっと眉を寄せる。

「知っているでしょう。知らないふりは駄目です」

「いやいやいやいや。知りません。知らないです。本当に」

「……でも、ララさんが言ったもの。知ってるって。バラッドと何度か会ったって」

「会った、って……、えええ、……何度?何度も?どこでです……、」

 身を乗り出され、押され気味になりながら、目を白黒させてバラッドが答えると、咎める口調になってコロカントが言った。

「髭も。髪も。短くなったでしょう。それ、ララさんが整えたんですよ。猫ッ毛のあんたが髪を伸ばしても貧相になるだけって言ったのに、って。あれは知らない相手を触る感じじゃあなかった」

「ええ、」

「正直に答えてください。嘘は駄目です。知ってるんでしょう。知ってて、バラッドの、その、……なんていうか……、大切な方なのですか」

「は?大切?」

「……こいびと、とか」

「――え、ちょ、ちょちょちょちょ、待って、待ってください、話しが飛躍しすぎて、その、」

 聞き覚えのない女の名前を連呼されて、ますます混乱する。目を覚ましたときに、そう言えばグシュナサフも女がどうだとか言っていたな。今更思いだす。

「知らないんですって。本当の、本当の、本当に、知らないんです、そんな名前のひと」

「じゃあどうしてララさんはバラッドを知っているんですか」

「いや、だから、」

「寝た、って」

 

 ――うわ知ってたわ。

 

 唐突に思いあたって、バラッドは頭を抱えた。はずみでぽろ、と口から火の消えた煙草が落ちたけれど、見やる余裕はない。

マジか。

頭の中でその言葉だけがぐるぐると回る。マジかマジかマジか。

 諜報活動の際、体を張って情報を聞き出した婦人の数は両手に収まらない。その勢いで転がり込んだ娼館はもっとだ。

いったいどの女なのだか見当もつかなかったけれど、どこかの町で共寝した女のひとりだということだけは理解できた。

 

「一緒に寝る間柄なのだから、きっと仲は良いのでしょう。違いますか」

「いや、あの、寝るって言うのは、いえ、寝るって言うか、寝るんですけど寝るんじゃなくて、その、名前、知ってても知らなくても寝るっていうかですね、ええと、だから、」

……駄目だ。心底お手上げになってバラッドは窮する。コロカントのこの言いぶりを見るに、彼女は男女のなんたるかに思い至っていない。ひょっとすると思い至ってないのではなく、まだ知らないのかもしれない。

そんな相手に、いったい何をどうして説明したらいい?赤くなったり青くなったりしながらバラッドは悩んだ。

仕事上がりになんとなく解放された気になって、ついしけ込んだ、とでも言う?……いや駄目だ。そもそもしけ込んだ、も彼女には通じない。正直に、実はムラムラしてですね、と言ったところできょとんとされるのがオチだ。ただ墓穴を深くするだけである。

冷や汗がたらたらとこめかみを伝うのが判る。どう柔らかに言いつくろっても、コロカントから軽蔑される未来は変わりそうにない。

……じゃあいっそ、開き直ってそうなんですよ恋人なんですとでもいうか?今さら?つい今しがたさんざん知らない知らないと否定しまくったのに?

「バラッド」

 百面相をする彼をじっと覗きこむ彼女の目は、詰(なじ)っているというよりは不安に揺れているように思えた。ええと、とりあえず汗を袖で拭って、彼は体勢を立て直す。

「姫は」

「はい」

「姫はどうしてそんなにその、……ララですか、彼女のことが気になるんです?」

 

「え、」

 

 ふと湧いた疑問を口にすると、瞬間コロカントは不意打ちを食らったように固まり、それからぱっと頬に血の色を上らせた。

「それは、」

「……姫?」

 いきなり真っ赤になった彼女にびっくりして、バラッドは身を起こす。持ち上げた左腕が引き攣れて痛んだが、意識の端にもかからなかった。

「どうしました」

 この数日の発熱は傷口の化膿によるもので、伝染するものではないと判っていたけれど、心配になって、バラッドは彼女を逆に覗きこむ。もしかしたら、彼女に同行していた自分があまりに汚かったから、その不潔さのせいで、なにかよくない病気にでも罹ったのかと思ったからだ。

「だってそれは、……バラッドの目が緑色できれいだったから、その、ララさんもやっぱり見たのかなって……ううんそうじゃなくて、わたし、」

 もごもごと口中で不明瞭な言葉をつぶやきながら、彼女はますます赤くなる。

「どうしたんです。具合でも悪いですか」

「違うの、違います。どこも悪くないです」

 彼が顔を近づけると、コロカントは視線をそらし、いけないもう戻らないと、言って木箱から慌てて立ち上がり、裾を払った。

「――姫?」

「あの、わたし、先に部屋に戻ってますから、」

「姫?」

「バラッドも、無理しないで早めに戻ってくださいね」

 そうしてくるりと踵を返し、ぎこちない急ぎ足で遠ざかろうとする。

「姫」

 ご一緒しますよ。言ってバラッドは立ち上がり、彼女の横に並ぶと片腕を差し出した。どうせ一服も終わったのだ。妙に気迫のこもる追及を、うやむやにできたことには助けられたけれど、いったいどうして彼女の言動が変化したのかについては、さっぱり判らない。

 ありがとうございますと口早に呟いて、彼の腕に手を添えたコロカントは、すこし俯き、なにかを考えるようにしてから、

「バラッド」

 彼の名を呼んだ。

「はい」

「ひとつ、わがままを言ってもいいですか」

 小声でたずねる。

「わがままですか。なんでしょう」

「ええと、……そんなにたいしたことじゃないんです。でも、こんなこと、言っていいのか判らなくて」

「大丈夫ですよ。仰ってください。どうぞ」

「そのですね、……子供っぽいって、笑わないでくださいね。……、その、……オゥルがしてくれたみたいに、ぎゅってして、……キスしてほしいんです」

「――オゥルみたいに、」

 オゥルみたいに。口の中でもう一度繰り返し、俯くコロカントをバラッドは見下ろす。

彼やグシュナサフは間を空けた来訪者でしかなかったけれど、決して豊かとはいえない森での二人きりの生活で、どれだけあの中年女がコロカントをいつくしみ、愛情を注いだのか、想像はできる。

母鳥がヒナを羽根の下に入れて温め、守ってやるように、大切に大切に愛おしんだに違いない。

 

「……オゥルは、わたしを助けようとして、死にました」

 俯いたまま、ぽつんと彼女は呟いた。

「あそこで暮らしているあいだずっと、わたしは本当に大事にされたのに――、……大事にされたはずなのに。顔の洗い方も、ご飯の食べ方も、服の畳み方も、全部オゥルが教えてくれたんです。なのに、わたしが思いだせるのは、あの日の、わたしを助けようとして体に矢が刺さって死んでしまったときの、……あの、怖い顔だけなの」

「――姫、」

 肩を落とす様子になんだか胸がいっぱいになって、バラッドは彼女を抱きしめた。小さな体がやるせないと思った。

泣いているかとも心配になったが、彼女の声に湿り気はない。

「前も言ったでしょう。あなたは何も悪くないのだから、自分を責めないで」

 薄い肩をそうして抱きしめたまま、バラッドはコロカントの頭のてっぺんに小さく唇を落とす。オゥルならたぶんこうしたのじゃあないか、そう思いながら、ちゅ、と軽い音を立てて、二度。もう一度。

「大丈夫です。姫はひとりじゃありません。――もう誰も置いて行かない。ひとりにしやしません」

「……本当に、」

「本当の、本当の、大まじめです」

 そろそろと顔を上げた彼女が、約束ですね。噛みしめるように繰り返すのへ、はい、ダメ押しのもうひとつキスを降らせて、バラッドは誓ってみせる。

 

「……バラッドは、あたたかいですね」

 そのまま、抱きしめられるままじっとしていた彼女が、すがるようにこぶしを握って呟いた。

「あったかい……まだ熱でもありますかねぇ」

「このあたたかさはずるいです。……勘違いしてしまいそうになります」

「勘違い、」

 何の。怪訝な顔になって覗きこんだバラッドへ、

「なんでもないの」

 慌てて彼の胸へ顔をうずめてコロカントは否定した。……はて、いったい何を勘違いするのかな。心の中で首を傾げながら、そうして彼は彼女が満足するまで、しばらく抱きしめていたのだった。

 

 

 

 椅子に体を投げ出して、その青年は室内をぼんやりと眺めていた。

 おかしいなあ。口が疑問を模(かたど)る。

 飼っていたものが、逃げてしまったのだった。

 おかしいなあ。また呟く。

 羽を切り、鍵をかけて、どこにも行かないようにしたのに。

 羽艶が悪くならないように餌は与えた。水浴びもさせてやった。手乗りではなかったから、籠の外には出さなかったけれど、時々部屋の中で可愛がってやった。

 だのにどうしていなくなったのだろう。

 

 室内をうろついていた視線が、ゆっくりと右の人差し指に向かった。

 指輪に彫られているのは家紋だった。彼が、この家を継ぐことを証明する模様。

 ……こんな飾りひとつで。

 この指輪の持ち主が、旧ミランシア領でいまだに大きく発言力を持つという証だった。

 もとは養父のものだった。

 養父は死んだ。必然的に彼のものになった。

 とても面倒ではあったけれど、形式上の葬儀も済ませた。さすがに裏庭に穴を掘って放り込む、というわけにもいかなかったので。

 養父は血泡を吹き、のたうちながら死んだ。

 ……やれやれ。

醜悪な死に顔を思い出して、青年はぐんにゃりと椅子の背にもたれた。長々と息を吐き出す。……あいつもずいぶん手こずらせてくれたもんだ。

 にい、と口の端が上がった。

 養父は舞台を降り、代わりに青年の幕が上がった。

 ……まったくちょろいやつだったな。彼は思う。彼が養父に対して思う感想のすべてだ。

無私だとか、篤実(とくじつ)だとか、周囲が養父を持ち上げるたびに、鳥肌が立った。

反吐が出るとはこういうものだなと思った。

 義に篤い。結構なことだ。それで、自分の足元をすくわれていちゃあ、ざまあないけどもね?

 死んでからも厄介だった。

 生前世話になったとかで、各地で政情をうかがっている諸侯が、やたらと弔問に訪れたのだ。

 まこと、ラルヴァンさまは立派な方でございました。

 墓前で涙を浮かべ切々と語る客相手に、同調して手巾で涙を拭いながら、ちゃんちゃらおかしいと青年は思った。

 なにが立派なものか。ただ目の前の現実から目を背け、理想気高い論理を掲げただけの稀代の愚か者じゃあないか。

 ミランシアはとっくの昔にほろんだのだ。

 過去の栄光そのままに、侯爵だとか褒めそやされては、いい気になっていた道化もの。あいつは自分が道化だと気づいちゃあいなかった。そう、あいつは時機というものをまったく持って理解していなかったんだ。ただ、埃をかぶった骨董品よろしくいつまでも古くさい頭で、ハブレストにしてやられた前領主がどうの、再起がどうの、……、義に反する?別にかまわないじゃないか。

 足元をすくわれるのなら、すくわれた方が悪い。

 ――それとも本当にハブレストにあらがって、ミランシアを復興できるとでも思っていたのか?

 

 ことん、と小さな音がした気がして、青年はもたれていた椅子から体をもたげた。

 そのまま立ち上がり、飼っていたものが寝起きしていた寝台へずるずると近づき、倒れ込む。

 寝床からはにおいがした。この部屋にいたもののにおいだ。

 深く息を吸う。悪くないにおいだと思った。

 無意識に枕へ指を這わせ、その縁飾りを撫ぜながら、おかしいなあ。青年はまた呟く。

 この部屋に連れてこられたものは、とても幼く、とても小さく、とても頼りない生き物だった。贔屓(ひいき)目に見ても、万人を従える武勇や、天賦の才にすぐれているようには思えなかった。

 歯に衣着せずに言わせてもらえれば、ただ一匹の生き物だった。

あんなものを先頭に立ててひと旗起こしたところで、付いてゆく人間はたかが知れていると思う。あいつはいったい何を考えていたんだ?

 

忠勤を励めよ。

まだ矍鑠(かくしゃく)としていた時分、養父は青年にそう言い聞かせた。忠勤ねぇ。彼は頬を歪めて笑う。

 あんたみたいな愚鈍であわれな老害はいないよ。

 濁った眼玉が救いを求めて右往左往していた。弱らせても弱らせても寝床を抜け出そうとするから、結局最後はくくりつけるはめになった。

枯れ木のようになった体がもがき、いくつかはぺきぺきと折れて、鬱血した。

……あいつは実に厭なにおいだったな。

枕に彼は顔をうずめる。

そうして、そう言えば糞尿を垂れ流した養父と同じ、饐(す)えたにおいを放っていた男がいたなと思った。

その体は垢汚れ、ぼうぼうに伸びた毛むくじゃらの赤毛には虱(しらみ)がはびこり、見張り番どもの憂さ晴らし対象になっていて、かさぶたと体液だらけで、不潔極まりなかった。

肥溜めの方がよほどましだと思った。

野菜くずだの骨がらだの、ひどい時にはそのあたりでつかまえた蛙だのを餌として放り込まれていたけれど、ばりばりとそれをむさぼり、汚水をすすって男は生きていた。

――ああ、豚なのだな。

そう思った。

ここまで落ちても、人間はわりと生きているのだなあと、腹を下しのたうち回る男を眺めながら、青年は感心したりもした。

――なんで生きているんだろう。

 

養父とひとつだけ違ったのは、その目がいつまでも光を失わずにいたことだ。

男の目は、離れた場所にそびえる塔をまっすぐに見つめていた。

面白くないと思った。

物理的にどうしたって届かない、届くはずもない、その機会さえ与えられない一点へ、男はいつだって目を向けていた。憧れのような、焦れたような、奥底にちろちろ燃える熾火をほのめかせて、男の目は逸らされることはなかった。

……この部屋だ。

判りきっていたことだった。

あいつだ。あいつが諦め悪く、ここにいたものを連れ出したんだ。

取り戻さなくてはと思う。彼女のにおいがする薄掛けを強く抱きしめた。

あれは渡さない。あれはかならず取り戻す。

 

世話をしたのはわたしだ。

あれは、わたしのものだ。

 

最終更新:2019年06月02日 23:54