木箱だの、布包みだのが、山と積まれた隙間にコロカントは尻を割り込ませている。

せまい。

荷物と押しくらべしているようなもので、膝を抱えて場所を確保しながら、ふうと息が出た。

 

「――できれば幌があればよかったのですが」

 

 手配できずすみません。御者台から申し訳なさそうな声が聞こえて、コロカントはその声の方へ頭を向ける。

 御者台で手綱を握るのはグシュナサフで、その隣には宿で知り合ったララという名の女も座っていた。聞けば、バラッドの古い知り合いだという――本人はものすごい勢いで否定していたが。

……でも、本当は知っているのだろうな。

 バラッドが目が覚めた後のやりとりを眺めて、なんとなく察した。男と女のあいだに初見のよそよそしさはなく、言葉の端々に気安さが滲んでいたからだ。

親しいのだな、と思う。

どう親しいのかは、文字通りの箱入りだった彼女には、まだ説明することができなかったけれど。

 

「平気です」

 

 御者台へ返しながらコロカントは笑ってみせた。

「外が見えるのは楽しいもの」

 本心だった。

彼女にとってこの道中は、見るもの聞くものほとんど初めての経験ばかりだったからだ。

 静けさや穏やかさはあったけれど、誰も足を踏み入れない森とは違う。錠をかけられた部屋とは名ばかりの檻とはもちろん違う。

ずっと遠くまでひつじ雲が流れてゆく空、街道の向こうからたまにやって来る行商の馬、干し草を山と積んだ荷車。

ぽつんと点在する部落には、腕まくり井戸端で話し込む女どもがいて、その脇で遊ぶ子供ら、すこし離れた向こうで草を食む山羊や驢馬(ろば)。

一度だけ、郵便の早馬が追い越して行ったこともあった。

青から黄金色に変わる中途の麦畑や、なだらかな丘陵が続くぶどう畑には、野良仕事に精を出す農夫がいた。鋤(すき)をつないだ牛が、のんびりと反芻(はんすう)している。

 そうした風景の向こうから、時々初夏をにおわせる風が吹いてくる。

 見慣れた人間にとっては、なんの変哲もない、ありふれた日常なのだと思う。けれど、コロカントにはすべて新鮮で、驚きの連続だったのだ。

 宿場を立ってから三日経っている。その三日、飽きもせずにひたすら流れる景色を眺めている。

 いまも、街道近くの草むらから、ピチピチピチピチリートルリートル。賑やかしくさえずりながらせわしなく羽ばたき、次第に高い空へ上がっていく雲雀(ひばり)を見つけ、おやあれはいったいどこまで上がっていくのだろうと、興味津々眺めていたところだ。

 

「次の水場で、ハナを休ませます。そこで休憩しましょう」

「はい」

 

 グシュナサフが近隣の略地図を示しながら言った。あとふた時ほど進むと、渡河できる浅い流れがあるらしい。

 辛抱なんてちっともない、頷きながらコロカントは思った。

 そうしてまた背を向けてしまった御者台から隣へ目を転じる。

 そこに寝ているものがある。バラッドだ。

コロカントと同じように荷物の隙間に体を押し込み、まぶしい、暑い、狭い、と文句をたれていたバラッドは、今は目を閉じ大人しくなっていた。

眠っているのかもしれない。

削げた頬が、痛々しいと思った。

男は、口では言うだけ言って荷台に乗り込んでいたけれど、その体は普段よりまだずっと熱かったし、起きているだけでしんどそうだった。休憩の折も水と煙草ばかりで、食べ物はほとんど口にしない。

そうしてまるで本調子でないのに、具合を気遣われることを、ひどくきらっているようだと言うことにも気付いていた。

虚勢という言葉を、まだコロカントは知らない。けれど、大丈夫かと心配することはやめた。男なりの強がりなのだろうと思ったからだ。

そうして、そのおかしな空(から)元気をする男だからこそ、好きなのかもしれないな、とも思った。

――好き。

自然に湧いて出たその言葉に、深く考えるのはやめた。どうして、だとか考えても無駄なことだと思った。

たぶん好きなことに、理由なんてないのだ。

いつからなんて余計に判らない。それでもずっと自分は男のことが好きだったのだと思った。

もしくは、自分は大きな思い違いしているのかもしれない。

言葉も世間もまるで知らない、こうして日常風景にすら目を奪われ圧倒されてしまうのだから、大本(おおもと)の人を好きになる、という意味も間違っているのかもしれない。

限られた少ない選択肢の中から、無理矢理つまみ上げただけなのかもしれない。

それでもかまわないと思った。

……口に出すわけじゃないのだから。

実際のところ、口になんて出さない。というか、出せない。

まずもってこの追手から逃げ隠れている状況で、惚れたの腫れたの浮かれたことを言える気がしない。そうでなくたって、とにかく自分と相手との差が大きすぎた。

差。

年も、経験も、知識も、置かれた立場も、なにもかも。

……どうしてわたしは子供なんだろう。

それが悔しいと思った。

子供の自分が、仮に男に好意をしめしたところで、あしらわれるのがオチだった。

たぶん、男は大仰に驚いてみせたりして、そうして、たいそう慇懃にありがとうございますと返されるだろう。

あしらわれるのは悔しい。

だから、絶対口には出さないと決めた。

その代わり、寝ている男をそっと盗み見る。春の日差しに赤毛が透き通って、きれいだなと思った。

 

赤は忌みきらわれるのだそうだ。

 

詳しくは話してもらえなかったが、町でも、戦場でも、赤毛と判るとまともな対応を受けたためしはないと男は言う。

男が言うのだからきっとそうなのだろうけれど、いやあまったくひどいもんです。そう愚痴をこぼすその口ぶりは、どこか達観して飄々としていたので、何故だか作り話のように思えてしまうのだ。

……バラッドは、やっぱりきらいなのかな。

そうかもしれない。いわれなく、ただ赤いからという理由で、石を投げられたこともあったというから、おのれの赤を忌んでいるかもしれない。

そうして、それでも自分はこの赤が好きだなとコロカントは思う。

 

頭が赤いのだから当たり前なのだろうけれど、髭も眉もまつげまで赤いのだ。コロカントの頭は藁(わら)色で、眉だのその他の毛は少し濃い茶だったから、どこもかしこも透き通るように赤いというのは、なんだか冗談みたいだった。

……作りものみたいなんだ。

男が目を閉じているので、普段気にならないまつげが妙に気になって、思わずまじまじ見てしまった。

まつげの影って本当にあるもんなんだな、だとか。毛が赤いのだから、目を開けたときに目端の上と下は、やっぱり赤く縁取りされて見えるんだろうか、とか。

とりとめなくぼんやり眺めていると、日差しのあたたかさに誘われたハナアブが、ぷんとどこからともなく飛んできて、男の短く刈り上げた前髪に止まろうとした。

追いやろうとして軽く手を払うと、指の先が掠(かす)る。

あ、と思う前に、男がぱちと目を開けた。

瞼の下から、これまた作りものみたいだとコロカントが思っている緑灰色の目があらわれ、かち合って、慌てて視線を逸らす。

きれい。このあいだ思わず言葉にすると、男は目を見張り、心底判らないと言った顔をした。

……この色石は、自分じゃ見えないから。

今また同じように伝えたら、やっぱり男は理解できないと言った顔をするのだろうから、絶対彼女は言わないけれど。

 

 くあ、と軽く伸びをして、男が荷台に起き上がる。猫のような男だった。

「いいご身分だな」

 男が起きた気配を察して、御者台からグシュナサフの声が飛んだ。おはようございます、律義にかえした男が、

「煙草、」

 寝ぼけまなこで隠しを探りながら呟くと、……そこでか、とグシュナサフは半目になる。

「姫がいる横で吸うな。遣え。お前もっと気を遣え。そうでなくたって、両脇荷物で、火がこぼれてボヤでもでたらどうする」

「ボヤというかなんというか、そもそも積みすぎですよぅ。積みすぎ。過重積載です。自分たちと荷物じゃなくて、これじゃ荷物のついでに自分たちじゃないですか。なんだってこんなに引き受けたんです、」

「引き受けたくて引き受けたわけじゃない」

 苦い顔をしてグシュナサフは顎を擦る。

「配送と引き換えに、車を手に入れられたんだ。選択肢がなかった」

 町ではなく宿場で、馬に曳かせる車を探すのにグシュナサフは相当苦労したらしい。はあ、とそれを適当に受け流して、

「ここでダメなら、そこ、行って吸ってもいいですかね」

 男が腰を浮かすと、グシュナサフがますます苦虫をつぶしたようになった。

「お前、二人席に今の時点で二人座っていて、これ以上座れると思っているのか。阿呆か。こっち来るな」

「いいじゃないですか。きれいになったことだし」

 くんくんと体のにおいを嗅ぎながら、バラッドが

「ね、」

 やりとりを見ていたコロカントへ向かってほほ笑んだ。

「もう臭くないでしょう」

「はい」

 同意を求められて彼女は頷く。

今の男の言葉に、宿を出立前、グシュナサフが男をさんざんこすり上げたことを、つられて思いだした。

 

「手伝います」

出立前に何としても洗う、普段表情に乏しいグシュナサフが、珍しく決意をこめて宣言したとき、その場にいたコロカントはそうしてグシュナサフに手伝いを申し出たけれど、

「ダメです」

 きっぱりと断わられてしまったのだった。

「姫のお気持ちはありがたいです。でも、こいつの汚さは尋常じゃありません。一皮どころか三枚くらい剥(む)いてやらんと、どうにもならない。洗っている間に病気でもうつったらどうします」

 手にはたわしと、洗濯用の石鹸が握られていた。馬を洗うときに使う、毛の固いがっしりしたたわしだ。

「剥くのですか」

「剥きます。芋の皮剥くみたいに、裸に引ん剥いてつむじからケツの穴まで、こすり上げてやりますよ」

「でも、痛くはないのかしら」

「平気です。死にゃあしません」

にべもない。

引き下がったコロカントに、

「では」

 一言告げて、え、だとか、言葉の綾(あや)ってやつですよね、だとか、たわしを見て引き攣る男を、グシュナサフは水場へ引き立てて行った。そうして本気でたわしを使ったらしい。

そのあとしばらく、ひゃあひゃあ情けない悲鳴が聞こえたからだ。

こすられた本人は赤剥けたと主張するけれど、とにかくきれいになったことは確かだ。体を洗い、伸び切った毛を刈り上げ、手に入れた古着に着替えて、ようやくこざっぱりとした。

 

「……バラッド。わたしは平気です」

 

煙草を吸う男の仕草を見るのが、コロカントはこっそり好きだった。大人の男、みたいに思えてどきどきする。

だから小声で告げると、男は困ったふうに笑った。

「いえ、グシュナサフの言う通りです。遠慮します」

そうして煙草のかわりに、口風琴(ハモニカ)を隠しから取り出して、くるくると手の中で転がしている。いつの間にか手に入れたらしい。

「そうだ。じゃあ、歌ってください」

 ハモニカを目にして、コロカントは言った。

「ずっと、続きを聞きたかった歌があるの」

「結構ですよ。お代はいかほどです」

 茶目っ気をまじえて男が返す。お代、言われて彼女ははたと一拍考えた。言葉通りに、男が小銭を要求しているのではないだろうなと思ったからだ。

「……これでもいいですか」

考えて、コロカントは服の裾に留めてあった小さな花飾りのピンを外す。宿で、男の寝台横に張り込んでいた手持無沙汰のあいだに、端切れを縫い合わせて作ったものだ。

「これはまた値千金」

 芝居がかった仕草でうやうやしく男は受け取り、これじゃあ三日三晩歌い続けないといけませんねぇと、花飾りをおのれの胸元に縫い留めた。白布で作ったので、男の赤い頭によく映える。

「何をお弾きしましょう」

「歌の名前は知らないんです。樵と、森の奥にいた乙女の歌」

 遠い昔の記憶を手繰りよせ彼女が告げると、それで通じたのか、はい、と頷いて男がハモニカを口に当てる。

ひと呼吸おいて聞き覚えのある音色が流れはじめた。

 

「……わたしが間違っていたのかしら」

 続く微熱のせいか、まだ少しくぐもる感じのする男の歌声をじっと聴いたコロカントは、最後の音が鳴り終わると思わずぽつんと呟いていた。

「なにをです、」

 聞きとめたらしい男が、片眉を上げて彼女へ目をやる。

「自信はないんですけど……、わたしが覚えていたのとは、ちょっと違った気がするんです」

「違う、」

「いま歌ってくれた歌の中の樵は、森の乙女を、森の外に連れて行こうとしなかったでしょう?森の外に連れて行かなかったから、乙女は鮒に戻って死ぬこともなくて……、樵は乙女を村へ連れてゆくことはできなかったかもしれないけど、そのあとも森で乙女と会うことができた」

「そうですね」

「わたしが覚えていた話は、樵が乙女を、森の外に連れて行ってしまうんです。嫌がる乙女の手を無理に引っ張って、足の皮が破けて、血が出ているのも気づかないで、手を引っ張って……、」

「そうですね」

 応じる目が笑っている。言葉の途中であ、と気づいてコロカントは軽く男を睨んだ。

「……話を変えましたね」

「そうですねぇ」

 とうとうこらえきれなくなったのか、くすくす笑いを漏らして男はこたえた。

「ずっと最後がどうなったか知りたかったのに、ひどいわ」

「だって。イヤなんですよぅ。森の乙女だけ痛くて悲しい思いをするじゃないですか。男が勝手をして女を泣かせるなんて、同性として風上にも置けやしない」

「それは、そうかもしれないけど」

「笑っているのがいいです。女は笑っているのがいい。自論ですが。どんな女も、笑っているのが一番かわいいです。泣かせちゃあいけません」

「それも、そうかもしれないけど」

 頬をふくらませたコロカントを、尚も楽しそうに見ていた男の後ろから、

 

「――鏡見ろ」

「カワズの面にションベン、とかいうのかしら?……ちょっと違う?」

 

 呆れた声がふたつした。声にコロカントが目をやると、御者台からグシュナサフと女が肩越しにこちらに目をやっている。口をはさまずにいられなかったらしい。

「どういう意味です、」

 聞きとがめたらしい男が言い返すと、

「鏡を見たら、女をたくさん泣かせてる男が映っているのを、お前、知らないのか」

 御者台から厭味が飛んで返る。

「鏡ですか?……見ても、いい男しか映っていませんよね」

「どの口が言う」

「事実です」

「自覚がないとか始末に負えんな……、」

きっぱりと言い切る男に、ますます呆れたグシュナサフが不意に馬を止め、

 

「お前、ちょっと降りろ」

 面倒くさそうに言い放った。

 

「なんですやぶからぼうに」

「いいから降りろ。そこの袋持ってな」

 怪訝な顔で返した男へ、説明することなくグシュナサフは顎で指し示す。ひどいなあ。横暴ですよ。ぶちぶち文句を垂れながら、男が言われた通り袋を持ち荷台から腰を上げ、

「姫も行きましょうね」

 コロカントに話を振ってくる。いきなりな話に、彼女はぱちぱちとまじろいだ。

「わたし、?」

「自分一人じゃさみしいですもん」

「別にかまいませんけれど、……、でも、」

「ね。野掛け。二人で休憩しましょう」

 促されて頷き、荷台を降りる。

 やりとりを聞いている分には、いつも通りの軽口だと思うのに、急に不機嫌になったらしいグシュナサフが判らない。彼は、この程度でへそを曲げるような男でないと思う。

 そうして、その指示に大人しくしたがうバラッドはますます意味が判らない。ゴネるという確信があった。

普段なら、ここでもっとゴネる。

 ……それに、バラッドは野掛けだと言った。コロカントは思う。

 さっき、グシュナサフがもう少し進むと水場があると言ったのに?ハナをそこで休ませると言ったのに、水場のないここで野掛け?

 訳が判らず見上げたコロカントを、安心させるように男はほほ笑んで見せて、それから御者台に向かって、……十くらいかな。呟いていた。

「十か。そんなもんだろう」

「じゃあ、またあとで」

 釈然としない彼女をもう一度促して、車に手を振り、男は街道脇の林に向かって足早に歩き出す。

踏み込んだ雑木林は鬱蒼と茂っていた。

 

「ちょっと、失礼しますね」

 いくらか林の中を進むと、唐突に男は地面へ袋から出した毛布を敷きはじめた。そうしてコロカントに、その上に腹ばいになるよう指示を出す。

 野掛けではなかったの?

首を傾げたままそれでも彼女は言葉に従い、その従った彼女の上へ、男は無造作にあたりの落ち葉や小枝をかぶせ始めた。

「……バラッド、」

「すこしの間、かくれんぼしましょう」

 言って、男自身も体を彼女の隣にすべり込ませ、同じように落ち葉の中に潜りこむ。

「……バラッド?」

「うわあ。なんだか落ち葉って不思議な感触ですねぇ。ひんやり湿っているのに、あったかい。天然のお布団っていうんですかね?……カブトムシの幼虫とか、こんな気分なのかなぁ」

 いったい何をしようとしているのか、重ねてたずねようとした彼女の耳が、遠くの地響きを捕らえた。

 ……これは、

 緊張がさざ波のように伝播し、一瞬で血の気が引いた彼女の手を、ごそごそ落ち葉の中で探し当てた男の手が包む。

「――なあに、ただの早駆けの馬です。なにもしやしません」

 男の声は落ち着いていた。

まるでこの地響きをはなから知っていたようだ、そう思ってコロカントは、グシュナサフとバラッドが先に交わした会話を思い出した。

 十くらいかな。男はそう言った。そうして理解する。

あのやりとりは、道の後ろからやって来る馬の数のことだったのだ。

 バラッドもグシュナサフも、背後からの蹄の音に気がついた。追手かどうかまでは判らないが、可能性は高い。

仮に追手だった場合、顔が知られているバラッドとコロカントが荷台にいるのは、相当不利だ。

年老いた馬一頭曳きの車は逃げ切れるはずもないし、応戦するには数も多く、女子供を庇いながらのやり合いは無理だ。

ふたりはそれを知っていた。だから、気付いていない自分を必要以上刺激しないように、軽くやりとりをまとめて、グシュナサフが機嫌を損ねたふりをして、車を降りたのだ。

地響きが次第に近づいてくる。

彼女は顔を伏せ、目を閉じ、土の中で眠る幼虫だけを思い浮かべようとした。

自分は落ち葉の中で丸くなっているただ一匹の幼虫なのだと思った。白くて柔らかい皮膚に、いくつかの足をもち、朽ちた落ち葉を咀嚼するだけの生き物だ。

いずれ蛹になり、羽化する日を待っている。

……だから、考えてはダメ。言い聞かせる。

追手は自分には気付かない。小さくて見つかりっこないに決まってる。

そうして、幼虫は必要以上に動かない。じっとしている。動いたら、鳥や、ねずみに見つかってしまう。だから体を丸くしたまま、決して動いてはいけない。

余計なことは考えたくなかった。余計なことを考えたら、ぼろを出してしまいそうだと思った。

 

――だのに。

 

身を固くしている彼女から聞こえる距離に、騎馬は止まった。ふたりがじっと隠れている場所は、街道からすこし離れたところにあったし、茂った藪に隠されている。犬でも連れていなければ見つかるはずがない。だのに彼女にはすぐ間近に止まったように思った。

規則正しく地を蹴っていた早駆けから、次第にばらばらと踏み鳴らす早足になり、おぅい、先頭をゆくらしい誰かの声がする。

その、声。

顔を伏せたまま、落ち葉に額を付けたまま、彼女は思わず目を見開いていた。見開かずにはいられなかった。閉じていることは恐怖だった。

二度と聞きたいと思わない、あの男の声。

彼女を塔に閉じ込め、好きなように玩(もてあそ)んだ人間の声。

十ほどの騎馬は、馬にひと息入れながら、行く先を思案しているようだった。ぼそぼそと話し声が聞こえるが、ここからでは何を話しているかまでは判らない。

見開いているはずの視界は真っ暗で、ほとんど何も見えない。

こんなとき、心臓が破裂しそうなほど早くなるだなんて嘘だ。がたがた歯の根が合わないほど体が震えだすだなんて、もっと嘘だ。頭の中も体も、ただ一本のつららになったみたいに、恐ろしいほどしんと冷えて静まりかえっている。

 

「大丈夫ですよ。姫」

 

落ち葉にまぎれて囁く男の声が耳に染み入る。

「大丈夫。あすこからじゃあここは見えません」

そう言って、ぎゅ、と握り返された男の手は、こんなときでもあたたかなのだ。

あたたかさにすがるようにそっと顔を上げると、男は伏せた姿勢のまま、鋭い目をして一隊を注視していた。その唇がかすかに動いて言葉を反芻している。

やりとりされる唇の動きを読んでいるのだということに、すこし遅れて気がついた。

 

――不自由な足の子供連れだ。そう遠くまで行けるはずがない。

――それともあれかな。二人だけじゃないのかな。

――とにかく、赤毛を見つけたら狩れ。躊躇はなしだ。ひとつも漏らさずにな。親を引っ張れば、子供は絶対に出てくる。芋づる式、って言うんだっけ。……え?誤認?……別にいいんじゃないか、赤毛なんだから。

――ひとまず北へ……、いや東かな。すこし大きな集落があるらしいから、そこへ逃げ込んでいるかもしれない。

 

やがて、意見がまとまったのか、一隊は林に目をやることもなく馬に鞭を入れ、街道から脇道を東へ、走り去っていった。

走り去っていったはずだ。もう音は聞こえない。

それなのに、身じろぎひとつすることもできなくて、そのままじっとしていた。

「――姫、」

 気遣う男の声が水を通したようにぼんやりと聞こえて、コロカントはのろのろと視線を動かした。

「姫」

 どうしよう。あれが自分を追いかけてくる。どこまでも執拗にあれは追いかけてくる。

 逃げきれない。

きっと、あれは自分を見つける。見つけられてしまう。

「姫」

 今度こそ、自分は男たちと引き離され、がんじがらめに搦(から)めとられて、指先ひとつ満足に動かせないほどに縛(いまし)められて、それから針先でつつかれて命を終える標本台の蛾のように、弄り殺されるに違いないのだ。

 今になって汗が吹き出してくる。汗が吹き出すのだから暑いはずなのに、体も頭も冷えていた。

 あの部屋で行われた日常がくり返されることは、恐怖でしかなかった。

その汗だくの前髪をかき上げ、男が彼女を覗きこむ。

「姫」

息が吹きかかるほど間近に、ひどく怖い男の顔があって、その緑の目が自分へ注がれている。

眉が僅かに寄せられた。それからぼうと緑の目がぼやける。

相変わらず作りものみたいにきれいだな。彼女が眺めていると、みるみるうちに緑の色石が揺蕩(たゆた)い、そのまま潤みは目尻から溢れ、頬を伝い、顎から滴った。

「……バラッド、」

 驚いてコロカントは男の頬へ手を伸ばす。この色の目からでも涙は普通に出るものだなという驚きがひとつ。

大人でも、こんなふうに泣くことがあるのだなという驚きがひとつ。

「どうしたの。どこか痛いのですか」

「違います。すみません、……すみません」

 ぐいと上げた袖で涙を拭うとそのまま片手で顔を覆い、男は呻いた。

「自分は笑っていてほしかったんです。あなたに笑っていてほしかった。ずっと、自分の好きな笑顔で、花がこぼれるように笑っていてほしかったんです。……決して、そんなふうに怯え、慄くさまを見たかったわけじゃない」

 食いしばった歯の隙間から押し出される呻きは、コロカントがはじめて聞く男の声だった。伸ばし、一度は躊躇(ちゅうちょ)した手を、おずおずと男の頬へ伸ばす。

 その手を不意に痛いほど握られて、

「この状況だって、あなたは有無を言わさず巻き込まれているだけだ」

 男は続けた。

「ひとえに自分たち大人が、力不足で不甲斐ないせいです。……すみません。こんなこと言ったって、あなたを困らすだけなのは判ってるんです。これじゃあただの責任転嫁だ。許す、と言われて贖罪(しょくざい)が完遂するわけじゃあない。物事はそんなに単純な造りではないです。……でも、……、それでも自分は、姫が笑った顔が好きだったですよ」

「……バラッド、」

 呼びかけに男は覆っていた片手を外し、彼女の視線にかち合わせた。その目はぎらぎらと濡れている。今まで見たことのない、深い怒りをたぎらせた目だった。怒りというよりは憎しみだ。

 

……なんて悲しい色だろう。

 

初めてみた男の表情に、圧倒されるだとか、飲みこまれるとかそんなことは一切なくて、ただ彼女が思ったことは、なんて悲しい顔をしているんだろうという、そのことだけだった。

 

「自分は――、――――俺は、あなたをそんな顔にさせるやつを、ぶち殺したい」

 

 あのとき。

しばらく後にコロカントは思うのだ。

 あのとき、自分が止めていたとしたら、何かが変わったろうかと。

 

 

 

 

最終更新:2019年06月15日 22:22