そのひとのことが好きでした。

 

 前にも一度グシュナサフに言ったと思うから、こうしてくり返すとただのくどい愚痴、になってしまうのは判ってるのだけど、でも、この際だからやっぱり言わせてもらうと、もともと成就しようがない恋だったんだな、って妙にすとんと納得しました。

 これも、前に言ったと思います。好きになったひとは、自分が世話になったひとの、恩人の、娘でした。

 

 世話になったひとは、ミランシア領にきて、軍属した自分に、何くれと世話を焼いてくれたひとでした。奇特、ってこういうひとのことを言うんだと、今になって思います。

 赤毛の自分に、分け隔てなく初めて接してくれたひとだったから、最初はありがたいというよりはもう戸惑いしかなくって、だって嘘でしょうって思いました。これにはきっと裏があって、ある日突然の手のひら返しが来て、そうしてがっかりの底に叩き落とされる展開くるんでしょうって。

 あとからがっかりするぐらいなら、最初からやさしくされない方がましです。だから、自分はびくびくでしかなかったのだけれど、そのひとは、本当に裏表なく、親切なだけのひとでした。

 ミランシアに流れてきたばかりで、ツテもコネもない自分に、住むところを世話してくれたのもそのひとでした。

 どころか、ほとんど文無しの自分に、人並みな生活が送れるよう、布団だの着替えだの揃えてくれたのも、そのひとでした。そうでなければ自分はただ部屋、という名前だけの箱の中で、地べたに転がって寝ていたと思います。

 それだけ世話を焼いてもらって、返せるものが自分には何もありませんでした。世話になってばかりというのも心苦しいから、そうした趣味かどうかは判らなかったけれど、せめて文字通り体で返そうかとも思いましたが、自分が上着を脱ぎそう申し出ると、そのひとは苦く笑って、そうして困ったように笑って、もうそんなことしなくてもいいのだと言いました。

 こんなひともいるんだなって初めて知りました。当時の自分は、感動すら覚えたと思います。

そうして、こんなひとがいるのだったら、世の中まだ捨てたものじゃないのかもって思ったりもしました。

もしかすると、自分にもほんのわずかに運、みたいなものが向いてきたのじゃないかって。いっぱしの人間あつかいされるだけで、自分はたいそう居心地が良かったのです。

本当に世話になりました。重ねて言いますが、奇特なひとでした。

世話になったひとの名は、忘れました。

 

 ミランシア領主一族のたった一人の生き残りだとか、たいそうな肩書が彼女には付いていましたが、自分はいっかな興味がありませんでした。彼女がどこの誰だろうと、たとえばそれが道端の物乞いの連れ子だろうと、そんなことはどうでもよかったのです。

 自分はただ、自分に向けて、なんら警戒なく笑ってくれる彼女を、好きになっただけです。

 花がほころぶように笑うのです。

 笑顔がとても好きでした。

 

 好き、と言ったって、自分は毛頭、口にするつもりはありません。

 実際、好き、とか周りに言ったところで、絶対、キモい、とか、終わってる、とか言われると思います。自分自身、父と子ほど年が開いている相手に対して懸想するのって、正直引くなあと思っています。

だから、ただこっそり、彼女のことを思っているだけでよかったし、それだけなら許されるのじゃないかと思っていました。

 ほんのすこしの間だけ、想っているのは自由でしょうって。

 邯鄲(かんたん)の夢。

 

 そもそも論として、設定にムリがありすぎだと思っています。

年も。

立場も。

自分と彼女の温度差も。

 彼女は、しかたがなかったんです。選びようがなかった。

 火付けされ、ごうごうと燃える館から命からがら逃げだして、しかも当時三つでした。ようやく赤ん坊から足が生えて池から上がったような三つの子供が、明確な意思表示なんてできるわけがありません。

 ただ、連れ出した男が行くままに、自分のところへ託されたのだと思います。

 騎士ですらない自分のところに連れてきたあの男は、本当にどうかしている。きっと、もう、他に頼るところはなくて苦肉の選択だったのでしょう。

 

騎士崩れというか、軍属している関係上、似たまねごとはしていたし、何をどう気に入ったのだか判らないミランシア領主からは、推挙してやる、みたいな冗談のような話もあった気もしましたが、丁重に辞退しました。させていただいた。

だって。厭でしょうって思います。

戦地で肩を並べる隣の男が、赤毛とか。

不吉でしかないです。

こんなこと言うと、ゲンの担ぎすぎなんじゃないかって思われるけど、それは安全地帯にいて、一瞬あとに首と体がお別れになる恐れのない人間の言葉であって、生きるか死ぬかの逼迫(ひっぱく)した場に身を置くことになったら、きっと、真逆のことを言うのじゃあないでしょうか。

すがれるものはおのれの腕と、ほんの少しの運と、それと神頼み、そんな状況で隣にいる男が赤毛だったら、口に出すかどうかは別として、やっぱり厭だと思います。

でも、それまでの半生からしたら、赤毛だからと多少いじられるぐらい、どうってことはなかったのです。

領ごとにだいぶんちがうのか、自分が生まれ育った地域よりミランシア領は段違いに、赤毛に対して偏見が緩やかだったし、道を歩いていて石礫(いしつぶて)を投げられるだとか、罵倒されるだとか、屎尿(しにょう)壺の中身をいきなりぶちまけられるだとか、その他もろもろ、がなかったから、もうそれだけで自分にとっては御の字でした。陰口ぐらい、なんだ、と思います。陰口じゃあ体は傷つかない。

嫌悪には、慣れました。

たぶん、住民が穏やかだったというよりは、領主の方針だったのでしょう。……政治方針?統治方針?学がない自分には、難しいことはよく判らないですが、とにかくそういう、赤いひとにもやさしくしましょう、みたいな風紀がそこにはあって、だからあからさまに迫害されることはありませんでした。

店にだって入れたし、そこで買い物をしても、追い出されずに済みました。

 天国みたいだった。

 感謝しかないです。ないはずです。だのに、ひがみ根性がしみついた自分は、ありがたいと素直には思えませんでした。

本当なら、そうした方針を掲げているミランシア領主に恩を感じ、それこそ剣をささげて御身を守ります、みたいな平身低頭の誓いをしたらよかったんだろうと思います。でも、自分にはできませんでした。

軍属したものの、後方部隊でただへこへこと、勇ましい曲を奏でたり、馬の世話をしたり、騎士さまどもの機嫌をよくするために、おべんちゃらしたりしました。やっていることはただの太鼓もちでした。

 結局、自分が騎士になるとか冗談のような話が実現する前に、ミランシアは亡くなりました。

 

 そのひとのことが好きでした。

 

 ほとんど同じ立場のグシュナサフを見ていると、ものすごく不思議な気持ちになります。不思議、とはちょっと違うのかもしれない。ああ、こいつはものすごくまともなんだなあとしんしんと圧倒され、思わず平伏したくなるのです。

 劣等感。

 同僚のそいつは、自分と同じように彼女に接し、彼女を大事に思い、あの男なりに彼女の幸せというものを祈っていたと思います。あんまり感情を表に出さない男だから、なかなか他人には判りにくいけれど、自分とあいつはそれぐらいは口に出さずとも判る間柄だと自負しています。

だけどあいつのそこには、不純なものが一切感じられませんでした。親愛の情、と言ったらいいのか、男親が子供に向けるような、慈味を帯びたまなざし、あたたかで大きな包容、そんなものが滔々(とうとう)と流れる大河のようでいて、真にまっとうな愛情だったのです。

それが普通なのかもしれない。きっとそうなのだろうな。

そうして自分にはそれがたいそう羨ましく思えました。

自分は、あいつみたいになりたかったのかもしれません。

あの平常心、予想外の出来事が起こったって、すぐに適応できるだけの頑丈な体と健全な精神。

有事になると、へっぴり逃げ腰になり、ただおろおろ左右する自分とは、正反対のような男だった。

たぶん、何もかも失った彼女に必要だったものは、そうしたあたたかな年長者からの庇護(ひご)で、自分のように偏執的でいっときの熱病のようなおかしな狂慕は、必要なかったのだと思います。

だから、絶対絶対に、口に出す気はありませんでした。口に出して、万一彼女を歪(ゆが)め、撓(たわ)ませてしまったら、自分はもう中年腹かっさばいて、腸(はらわた)をまき散らしても、死にきれないと思います。

覚(さと)られてもいけない。

何枚も何枚も、偽善の笑顔を貼りつけて、なんでも判っている、理解ある包容力のある大人のふりをして、自分は彼女に接しました。内心必死に、毎回ここ一番の大勝負のような気持ちで、大汗をかいて彼女と向かい合い、立ちくらみを起こしながら、とりとめのない話をしようと心掛けました。

覚られてはいけない。

一番に楽だったのは、道化て接しているときでした。

こいつはおかしなことを言うやつだ、おかしなことばかり言うやつだと彼女に笑われていたときだけが、唯一、ほっとしていられる時間だったと思います。

 いびつな自分が彼女と接するには、もう、そうするしかなかったのです。

 

 囚われていた彼女を連れて塔から逃げ出し、失態に失態を重ねながら、自分はグシュナサフと合流し、港町へ向かいました。

 道中、執拗に彼女を連れ戻そうとする追手を幾度か巻いて、誤魔化し誤魔化し、そうして半月ほどの旅程はもうすぐ終わりを告げようとしていました。

 どういうわけか道行きの中で、同行することになった女もひとり増えていましたが、追手の目をくらませる意味でも、彼女を精神的に支える意味でも、結果的には増えたことはよかったと思います。おかげで、自分が慰めるよりももっと効率よく、彼女は安定し、平静を取り戻すことができるようになりました。

 同性の力というものは、すごいものだと思いました。もうこれは理屈ではないです。

 もちろん安定したと言っても、それは表面上だけのもので、彼女の傷ついた根底の部分はもっと、時間をかけて穏やかに癒していかなくてはならないのだと思っています。

 でも、それはたぶん、自分じゃなくてもよいのだろうな。

 

 ハブレスト領の南の先端に、小さな港町があります。

 漁港、と呼んでやるには申し訳がないほど、ちんけな港で、そこからまずは漁船に乗り、もうすこし安全な港へ行き、それからまた船に乗り、そうしてまた船に乗り、海を渡って向こうの大陸へ行こうと計画していました。

 そこまで行けば、彼女が追われることはほとんどないと思います。

 対岸のミランシアだとかいう、小さな領を知っている人間はなかなかいませんし、そこでのいざこざに関わる人間は、もっと少ないだろうと思いました。

 そこでは、彼女の身分や前身を、気にするものはいません。

 ミランシアの再興、という点から鑑みれば、この地を離れることはよろしくないことかもしれないですが、実際、自分も、そうしてグシュナサフも、もう一度お家復興のために誠心誠意、身を粉にして働く意志があるかと言えば、たぶん答えは否、だと思います。

 復興をしたいとか、したくないとかいうことよりも、これ以上、彼女を災厄の渦に突っ込みたくないという思いの方が強かったからです。

 傷つくのは、もう十分じゃあないかと思いました。

 これからは穏やかで、やさしいものだけ見て、暮らして行ければいい。

 でももしかすると、また再興しようとするのかもしれない。それは判らない。

 ただ、すくなくとも、現状ハブレストやセイゼルや、そうして元ミランシアの裏切りどもが闊歩(かっぽ)しているこちら側に身を置いていることは、得策でないことはたしかです。

 海の向こうで身を落ち着け、きちんと彼女の心身を癒し、とにかく一度遊戯(ゲーム)盤をふりだしに戻さないと、考えられるものも考えられないと思ったからです。

 とにかくあともう少し、港町にたどり着き、宿は足がつくのをおそれて、空き家へ転がり込んで、ひと晩を明かすことになりました。

 漁船の手配も済んでいます。遠漁にも耐えられる造りの、思ったよりも大きな帆掛け船です。

 はからずも、ここから三日ばかり行った港の近くを通る漁に出るのだそうです。

 明朝、空が白んできたら、港で落ち合う手はずになっていました。

 

だけど。

 

「囲まれるかもしれん」

 ごく短く、低い声で、戸口に立って外を窺(うかが)っていたグシュナサフが、自分に告げました。たいそう抑えた声でした。

部屋にいる女たちに、聞かれることを嫌ったのだと思います。

 うん、と自分もわずかに頷いて、そうして、俺が出る、と答えました。これは今しがた決めたことではなくて、前々日あたりから、彼と話し合って決めたことです。

 いま彼が言ったのは、自分たちが身をひそめているこの空き家の周辺に、追手が集結しつつあるということでした。小さい町であったから、空き家になだれ込む、よそ者の自分たちの姿を誰かが見とがめたのでしょう。そしてその情報を、追手が掴んだ。

完全に囲まれては袋のねずみと言うやつで、それこそ自分たちは猫の鼻っ面に噛みつくしか打つ手がなくなってしまいます。完全に中に人がいると確かめられる前に、斥候(せっこう)の目を他に逸らさなくてはなりません。

 あの下衆野郎はどれほど本気でしつこいのか、ひとりふたりの追手ならともかく、十人単位となると、自分とグシュナサフのふたりでさばききるのはかなり難儀です。まずもって自分は、剣の腕前は下の上、くらいに思っているし、頼りにできるグシュナサフにしても、多勢に囲まれて無事でいられるかどうかはかなりの賭けです。

 自分一人の身を守ることと、庇う誰かがいることのちがいは大きいからです。

 追手を巻き、さっさとこの場を離れるのならばいくらでもできるし、実際、いま以上の人数に追われたこともありました。

 ただし今回は、ここに留まらなければならない。女子供の足で、ひと晩逃げ回り続けるのは無理です。

 この町から姿をくらますのもなしです。

明け方までとどまり、それから港へ向かわなければいけません。

ましてやこれは、腕比べ自慢、御前試合の人数抜き、などではないのだし、そもそも追手を倒すことが目的ではなくて、無事に海の向こう側に彼女を送り届けることが目的なのだから、ここで無茶をして怪我をし、彼女を孤立させることだけは、絶対にあってはならないことでした。

船を燃やされでもしたら、万事休すです。

追手の気を、別の方向に逸らしてやらないといけません。

 そうして、腕が立ち、無傷で動けるグシュナサフと、傷を負い、半分以下の戦力になった自分との、どちらが囮(おとり)にふさわしいかは、自明の理です。

 まだ追手に面が割れていないグシュナサフと、とうに知られている自分のどちらが、

無個性のグシュナサフと、赤毛で目立つ自分のどちらが、

これは自己犠牲にはしり、われこそはと力説した結論ではなくて、事実としてふたつを並べ、比べてみて、どちらがより囮によいのか、どちからより護衛によいのか、結果として選ばれただけのことで、自分も、グシュナサフも、納得尽くの結論でした。

グシュナサフがこの場を離れ、仮にすべての追手の目をそらせずに、いくらかの相手をしなければならなくなった場合、彼女を守り切る力は、今の自分にはありません。

これがもしまるで逆の立場だったとしたら、やはり彼が囮をかってでたと思います。

 

「遅れるなよ。暁七つだ」

 荷物をさぐり、こっそり身支度を整える自分に、かぶせるように同僚が言い、自分は思わず笑うつもりはなかったのに、忍び笑いを漏らしてしまいました。

「おい、」

「巻けると思いますか」

「お前なら巻ける。巻いて来い」

「……、どうですかね」

確信をもって言い切られて、なんだか妙におかしかった。

 そうして、この男ならそう言うだろうなと思ったことをそのまま言ってきて、さすがだと思いました。

「いいか。お前が戻らんと姫が泣く。手足捥(も)がれて這いずってでも、出航には間に合え」

「そんな無茶な」

 ひそひそやりとり、そうして襟を直して腰に剣を佩(は)き、手甲の留め金を止めていると、部屋の中で何かが動く気配がして、そうしてひょこと彼女の頭がのぞき、自分はどきとなったのです。

 埃だらけの寝台の上で、せんから、女と彼女がなにか二人で盛り上がっていたものが、おしゃべりをやめて、自分の方へやってきたようでした。

 まいったなと思いました。

 こっそり行くはずだったのに、勘づかれてしまった。

 いや、もしかすると、聡い彼女のことだから、切迫した状況になりつつある空気に、気付いていたのかもしれません。気づいていて、知らないふりをして女と話していたのかも。それは判らない。

 

「――バラッド、」

 

 彼女が小さな、けれどきっぱりとした声で自分を呼び、そうしてどこか行くのですかとたずねました。

「そうですね、ちょっと、用事を思い出しました」

 船の持ち主との打ち合わせに漏れがあったので、それを確認しに、だとか、ハナの飼い葉を買い忘れたので調達してきます、だとか、煙草を切らしてだとか、詳しく求められたらすぐに、用意したどうでもいい答えを返そうと思ったのに、

「そうですか、」

 しんとした声をして、彼女はそれ以上言及してこず、自分はすこし拍子抜けをしました。

 そうしてつと部屋を出て、玄関口の自分の前に不器用な足取りでやって来ると、

「バラッド」

「はい」

「行かなくてはなりませんか」

 必死な色をたたえて、見上げた。

 自分はそのじっと向けられるまなざしに、なんだか横っ面をはたかれたようにくらくらとしてしまって、支度に追われるふりをしながら、あえて彼女と視線は合わせませんでしたが、なに、じきに戻ります、の一言が、妙に口の中でもつれて大変苦労をし、へどもどとしました。

「どうしても、行かなければなりませんか」

「……自分か、グシュナサフか。どちらかが行かないとならんのですよ」

「他に方法はないのですか」

 ああもうこれは十中八九、彼女はまるごと理解しているのだろうなあ、そんなふうに思いながら、しかし自分は明言することは避けようと思いました。

 何となく不安なものと、はっきりと壁一枚向こうに敵がいると知る恐怖とでは、段違いだと思っています。

「じきに、戻ります」

「本当に、」

「本当の、本当の、本当です」

 このひと番で、嘘をつくのも千秋楽。大真面目な顔をして、自分は慌ただしいそぶりで背を向け、行こうとしました。

本当なら、ここで膝をついて、じっと目線を合わせてやったらよかったのかもしれない。そうしたら彼女は安心するだろうし、きっとそれが大人の対応っていうやつなのだと思います。

しかし、彼女の瞳にのぞきこまれ、なにもかも解呪(かいじゅ)されて、最後の最後にボロを出し、化けの皮が剥(は)がれてしまうほうが、自分にはもっと怖かったのです。

どうしてこんなに心臓が痛いのかな。

「バラッド。約束してください」

 手を揉みながら彼女が頼みました。それだけで、もうとっくに固められていた決心だの覚悟だのが、根元からぐずぐずになっていくような錯覚を覚え、自分は咳ばらいをひとつし、また伸びてきた顎髭(あごひげ)を撫ぜて、普段のお道化を立て直そうとしました。

 まいったな。

わがままを存分に言ってもいいと、彼女にこないだ大見得(おおみえ)きって言ったばかりなのに、それでこちらが困っていたら、本末転倒だと思う。

「約束ですか」

「絶対、すぐに戻って来るって」

 ああもう行かなければ。こんなお涙頂戴(ちょうだい)の舞台劇をやっている時間はないのだから、こうしてる間にも敵は刻々とここを囲もうとしているのだし、早く出るのに越したことはないのだ、そうして判りました約束ですと返せないまま、戸口を抜けようとした自分に、引きとめるような形で彼女が後ろから抱きつき、思わず足が止まりました。

 

「姫、」

 バラッドを困らせちゃいけません、重い声でグシュナサフがたしなめ、彼女の体をそっと抑える女の手がある。

 それにいやいやと頭を振り、彼女が身もがいた。

 こんなふうに彼女が駄々をこねたことなんて、今まで一度きりもなかった、どうして今なんだろう。俺は歯がみする。どうせなら、自分にもっと時間があって、敵だの味方だのそんな刃傷(にんじょう)な瞬間ではなくて、こんな、くもの巣だらけ埃だらけの空き家なんて場所ではなくて、気持ちの余裕もたっぷりあって、だったらきっと、俺は、上手にあなたのわがままを受け入れ、叶えてあげることができたのだと思うけれど、

「姫、」

 もう一度グシュナサフがたしなめる。

振り返ることは怖かった。彼女の顔を見たら、いままで三十何年間作り上げてきた自分というものが、一気に消し飛んでしまいそうだと思った。

どうしてこんなに心臓が痛いのかな。

消し飛んだらどうだ、そこに何か残るのかね?ごみの吹き溜まり、つぎはぎだらけながらなんとか人と形(なり)の態をととのえてきた、てめぇの心棒なんてものは、全体あるのかね?

 だから俺は、場違いにやたらと明るい声を出した。

「なんてことはないんです。……ちょっと表に出て、走ってね。走って、町の外周をぐるっといっぺん回ってくるんです。荷台に寝てばかりで体がなまったから、準備運動というか、腹ごなしみたいなもんなんですよ。船に乗ったらまた寝るつもりなんですからね。……だから、」

 戻りますよ。

 する、と、やけに簡単に俺の口から嘘がこぼれて、こんなときなのに、簡単にだます演技ができる自分に自身で驚いて、そのまま、戸口を一点に睨みつけ、すらすら言葉を続けた。

 こういうときぐらい、本音を言うべきだったんじゃあないかって。

「いい子でいるんですよ。もし自分が戻るのがちょっぴり遅くなっても、グシュナサフと、ララの言うことをちゃんと、聞いてくださいね」

 言いながら、なんだかお使いに出るヤギのおっかさんみたいだ。そう思った。……いいかい、オオカミが来ても戸を開けてはダメですよ。

 ……オオカミは俺かもしれないが。

内心にやにやしながら、俺は彼女の握った拳をひらき、指をひとつひとつ引きはがして、そのまま戸を開け、身を屈めてくぐる。

 くぐったあと、どうしても、もう一度だけ、彼女がいったいどういう顔をしているのか無性に気になって、気になってしようがなくて、振り返って、もし泣いていたらどうしようか、だとか、見た後どうなる決心も付かないまま、俺は戸を閉めるついでにちら、と戸口の向こうをのぞいた。未練だった。

 まっすぐ俺に注がれるぶどう色。

 ああ――いいな。

こんなときだというのに、俺はうっすら笑ってしまう。

ミランシアがどうのだとか立場がどうのとか、いろいろごちゃごちゃ思い煩っていた気もするけれど、そんなのなにもかもまっさらにとっぱらって俺が言えることは、やっぱりこのひとの、よどみないこの目が好きだってことだった。

そう思う。

 俺はあなたが好きだったな。

「巻くだけでいい。余計なことはするな。……いいな、余計なことはしてくれるな」

 噛み含めるようにして、グシュナサフが念を押す。ちょっと待て、お前そんなふうに俺のこと心配したことなかっただろうって。急にどうした。お前はいつだって飄々として、俺のことなんてどうだっていいふうだったろうって思う。なんて目で俺を見てるんだよって。

これじゃ、どっちが子ヤギか判ったもんじゃない。

「いいな」

 いいな、がどう言うわけか、たのむ、に聞こえておかしかった。

 返事のかわりに、めえ、と俺は鳴いた。鳴いて、そうしてそっと戸を閉めた。

 

 

最終更新:2019年06月17日 21:35