偽傷(ぎしょう)、という鳥の行動をずいぶん前に聞いたことがある。

 卵やヒナが危険にさらされたとき、親は巣を守るためにあえて傷つき、飛べないふりをして、外敵の気を引き距離を稼ぎ、巣から注意を逸らす行動のことだそうで、バラッドも、はじめて聞いたときは、なるほど迂闊(うかつ)に忘れる人間を、よくトリ頭だなんて言ってからかったりするけれど、知恵って言うのは存外、莫迦(ばか)にできるものではないのだなあ、だとか変に感心したおぼえがある。

 親鳥は命がけで巣を守る。

 

 そうして今、彼がやっていることは、まさに偽傷そのものだった。

背後に三、四人、追ってくる気配をさぐりながら、つかず、離れずの距離を保って逃げていた。

 

――赤毛だ。追え。

 

最初に聞こえたのは、たぶんそんな声だ。

 

コロカントとグシュナサフ、そして女の三人を残して空き家を飛び出し、すこし離れた別の方角から、あえて蹴躓(けつまず)き、音を立てて、小さな広場にその身をさらした。

おどおどと身をすくませ、ああどうしよう、うっかり音を立ててしまった、これじゃあ見つかってしまう、ぜんたいどちらに逃げてよいのか判らないといった身ぶりをしながら、気配を探り、待つ。

敵はまだ潜伏(せんぷく)先を特定できていなかったと見え、バラッドの立てた音を聞くと、注意が一気に広場へ集中した。

――その中にはきっと、あのクソ野郎もいる。

あれは、後方に居座って、赤毛討伐の報告を受け、コロカントを取り押さえれば満足するようなタマじゃない。四年間で身に凍みるほどわかっている。

自(おの)ずから狩りの先頭に立ち、その手で痛めつけ、なぶり殺さないと決して満足しない種類の性癖の持ち主だ。

ある程度の距離まで追手を近づけ、そうして、ようい、どん。やにわ走り出して、囲みを突っ切り、それから半時(はんとき)、追手との追いくらべをしている。

捕まったら死ぬ、無慈悲な追いくらべ。

バラッドは角をひとつ曲がり、汗を拭う。とっくに息は上がっていた。

「もうやだ。もうやだ。もう絶対やだ。もう絶対二度とこんなことしない。もう絶対しない」

いつの間にか呪文のように口中で唱えていた。

 

先ごろ飛び出した空き家から、敵の注意を逸らせたのだとすれば、目的は達成したと言うべきだろう。あのまま空き家に早暁までとどまるか、それとも場所を変えるか、それは判らないが、沈着なグシュナサフのことだから、きっとうまくやると思う。

あの男が、むやみに慌てたり、焦ったりする姿というものがどうにも想像ができないからだ。

……でも、もしかしたらしたこともあるのかな。ふと気になった。感情表現に乏しいあの四面四角の強面(こわもて)で、あたふたすることあったのかな。

すこしおかしくなる。次に会ったら是非聞いてみたいと思った。

「聞ければ、ですけど」

顎からしたたる汗をまた拭って、バラッドはひとり語散る。

大成功の囮(おとり)行動でただ一点、問題があるとすれば、バラッドの偽傷の真似が、真似ごとではなく、かなり真剣に逃げてこれ、ということだ。

わりと体力の限界だった。

これではいずれ追い付かれる。

……だけど、まだ、東の空が白んでいない。

空を仰ぎ、ぜいぜい息を切らせたまま、一旦路地の陰に隠れ、そうしてバラッドは腿(もも)に手巾を巻きつけた。

攣(つ)っているのだ。

「ああもう。やっぱり、もうちょっと、鍛えておけば、よかった、の、かなぁ」

 息が切れていたので、ひとりごとも途切れがちになった。

……ざまァない。

したたる汗が、半時走った運動によるものなのか、それともあちこち軋(きし)む体の脂汗なのか、もうよく判らなかった。もしかすると両方かもしれない。

止まるととぐらぐら眩暈(めまい)がすることにも、あらためて気がついた。

 そう言えば、このところ、ろくろく食べていなかった。とくだん気取って具合の悪いふりをしていたわけではないのだけれど、空腹になるどころか、鼻先ににおいを寄せるのも厭で、無理に食べようとすると胃がムカついて駄目だった。だから食事の際は、もっぱら水だの茶だのを流し込んでごまかしていた。酒があればよかったのにと何度も思ったけれど、あれだけ荷物を山と積んでいたにもかかわらず、酒精(アルコール)のたぐいは一切荷台に積んではいないようで、用意周到なグシュナサフにしては珍しく手落ちもあるもんだなと思ったのだ。

「……もしかして、俺が飲んじゃうから、とかじゃないでしょうね」

 ありえるから困る。

 結局、なんのかんのと口でうるさいことを言っても、グシュナサフは面倒見がいいのだ。面倒見がいいということは、人がいいのだ。そうして、人がいいということは、つまり根っこのところが優しいのだ。

「厭だなぁ。雲泥の格差見せつけられて厭だなぁ」

 ぼやきながら雨樋(あまどい)伝いに屋根へと上がった。すこしのとっかかりがあれば、登ることに苦労はしない。

 

追手はまだバラッドを見つけそびれている。

 

 ただ逃げ切るだけでよいのなら、このままさっさと逃げ切って、どこかに身を潜めてしまえるのだけれど、あいにく今日は終わらせるわけにはいかない。

今夜は雲が多い。その暗さに助けられている。

時折ちらと月が顔を見せるけれど、それは一瞬の間のことで、すぐに黒雲が覆い隠してしまう。逃げる彼には好都合だ。

おい、どこに逃げた。そんな声が足下から聞こえた。

数の多さは、たしかにあちら側にだいぶ利があるが、夜目が利く分こちらにも分がある。目を凝らし、人のかたちが見えたところに、袖口に仕込んであった小さなナイフを、その声のあたりに三本、狙いを定めて振りきった。

 

二本は固い路地に、きんと跳ね返った音がした。

一本は鈍い音と共に、ぎゃ、と苦鳴が聞こえた。

 

……あたったかな。

剣の腕は決して得手ではないバラッドの、唯一とっておきの護身手段のようなものだった。

そもそもは護身のために覚えたものでなく、旅芸人の一座に寝起きしていたころ、見よう見まねで覚えたものだった。

見世物のひとつに、的当(まとあ)てがある。的役が頭の上に置いたりんごだの、瓜だの、ひどい時には杏だのの小さな的へ、離れた場所からナイフを投げあてるものだ。

興味津々(きょうみしんしん)に足を止める客は、あてれば拍手喝采(はくしゅかっさい)。簡単なようで難しい。毎度かならず的に当てることができなければ、見物客は興覚(きょうざ)める。覚めては見世物としては三流だ。

それでは客は金を落とさない。

そうして見物料が稼げなければ、その晩の飯抜きは言うに及ばず、座長である養い親に翌日立てないほどの折檻(せっかん)をくらうのが常だった。養い親は、拾った子供よりもその日のおのれの酒代の方が大事だったからだ。

だから、子供たちは必死になって、文字通り必死になって、練習した。

……まさか、こんな使い方をすることになるとは思わなかったですけど。

すこし笑ってしまう。

 

その昔、たった一度、グシュナサフとまみえたときにも、バラッドはこの手を使った。

殺気立つのが先か、向かい合ったのが先か、天幕を出たバラッドと、敵陣営に火を点け攪乱(かくらん)させようとしのび込んだグシュナサフが、たまたま鉢合わせたのだ。

敵だと気づいたバラッドが腰の剣へ手をやるより早く、ひゅぶ、と相手の剣先が風を切り、彼へ迫る。

慌ててとんぼを切り、距離を取ろうとするものの、通りいっぺんの剣の型を習っただけのバラッドと、夜間、敵陣に忍び込む少数精鋭に選ばれる相手とでは、腕の差は歴然だった。

たちまち追い詰められ、……万事休す。悪あがきのつもりで携帯していたナイフを掴み、やけくそ気味に投げたのだ。

小刀、と呼ぶほど殺傷には特化していないものだった。爪を削ったり、果物の皮をむくのに便利だから、なんとなく懐に忍ばせていただけの、刃があるようなないような、ただの折りたたみナイフだった。

相手が、とっさの動作と思えない絶妙さで避けたので、結局まったくの脅しにしかならなかったのだけれど、まぶたをかすり、グシュナサフはそこではじめて表情をわずかに動かした。

のちの酒の席で、実はぎょっとなった、とこっそり言った。

 

――お前、その手を使え。

――その手って。

――剣が苦手だとか、こないだぐちぐち言ってただろう。堅苦しいとかなんとか。重くてうまく扱えないとかなんとか。お前、ナイフ投げろ。むしろそれに特化しろ。

 

そう勧められたそのときは、はあ、としか返しようがなかったのだ。

多勢と多勢が、莫迦力でもって重鈍器を振り回し、入り乱れているのが戦場だ。なにを食べたらあそこまで大きな斧だの、両手剣だの振り回せるようになるのか、それらがあちこちでぶち当たって火花を散らしているのだから、もう本当に頭がおかしいとしか、バラッドには言いようがない。

きっとなにか、たとえば彼のナイフのように、小さいころから怪力になるための特別な訓練でも積んでいるのだ。

そうでもなければ、説明がつかないと思う。

そんな頭がおかしい状況の中で、投げナイフの威力は蚊とんぼほどのものしかなかったし、それならへっぴり腰の剣をふるう方が幾分ましに思えたから、バラッドはそれからずいぶんしばらく忘れていたのだ。

思いだしたのは、ミランシアが落ちたあとのことだ。

 

さっと足元に数人集まる気配があって、それから目暗撃(めくらう)ちで矢が飛んでくる。屋根の上にいると気づいたらしい。

「とりあえず一人、」

 敵が屋根に上がって来る前に、バラッドは腿をひとつ叩き、もってくれ。祈るような気持ちで屋根伝いに走り出した。

 余計なことはするな、のグシュナサフの言葉がちらと頭をよぎったが、気付かなかったふりをした。

 

 *

 

 男が出て行った扉を凝視したまま、コロカントは動くことができずにいる。

姫ちゃん。

後ろから気づかわし気な女の声が聞こえたが、振り向くことができなかった。

 身動いて、空気を動かすことがなぜか怖かった。

 去っていった空間に、まだ煙草の残り香があった。男の体に染みついていたもので、道中手に入れた紙巻き煙草のそれは、彼女の知る嗅ぎなれたにおいではなかったけれど、男がたしかについ今しがたまでここにいた証のように思えて、それを消すことが怖かった。

 代わりに視線だけのろのろ動かして、男が開いていった指の先を見る。あんなふうに振りほどかれるなんて、思ってもみなかった。

 わがまま言ってもいいって言ったのに。

 唇を噛む。悲しかった。自分のわがままが通らなかったことではなく、一本一本、やさしい手つきでそっとほどいていった男が、悲しいと思った。

 姫ちゃん、女がもう一度呼ぶ声がする。その声に返事をすることもできなくて、コロカントはじっと扉を見る。

 

 男は行った。何をするために出て行くのか、まったく教えてくれないままに行ったけれど、ここ数日、次第に輪を狭めてきた追手の注意を逸らしに行ったのだろうということは、見当が付いていた。

 ……たぶん、ここが知られたのか、どうかしたんだ。

 厳しい状況であることは判っていた。同行している大人たちは、明るい、とりとめのない話題ばかり選んで、彼女を笑わせ、追手のかかる恐怖をできる限り与えないよう努めてくれていたけれど、それでも時折、男二人のあいだでなにがしかの目配せが交わされていたり、男が女に今後についてひそひそ話していたり、徐々に逼迫(ひっぱく)してゆく空気をコロカントは敏感に感じとっていた。

 これがシャトランジなら、周りの駒を次々にとられて、きっともう裸の王。次の一手で引っくり返すことができなければ負けなのだ。

詰みなのだと思う。

執拗(しつよう)に大勢に捜索される状態で、足手まといの自分を匿(かくま)いながら遠方へ逃がすというのが、そもそも無理だったのだ。

 その無理を通すために、勝負に待ったをかけるために、バラッドは出て行った。

 扉を閉める直前、男は振り向いてこちらを見た。視線が絡んだ。

 男は笑っていた。

 

「……ねえ。ここは冷える。部屋で待とうよ」

 背後に近づいた女が、彼女を気遣いながら言う。

「……ララさん、」

「あのさぁ。あたし頭よくないし、こういうとき、気の利いた言葉ひとつ言えないから、思ったそのまま言うけどね。あいつ、糠(ぬか)に釘って言うの?暖簾(のれん)に腕押しって言うの?とにかく、押したって引いたって、いまいち手ごたえ無いって言うか、ウナギみたいに、掴まえたってどこか手のあいだから、するっと抜けていくっていうかさ。そんな掴みどころないみたいとこ、あるでしょ?……、だからきっと、何喰わない顔で戻ってくると思うわけ、」

「……、」

「心配するだけ無駄みたいなヤツだよ。泣かされた、って言うなら、何人も泣かせてるような男だもの。女泣かせるなんて言語道断だとか、しゃあしゃあとご高説ぶってたけどさ。ほーんと、鏡見ろって言うの。自覚のない正論ほどタチの悪いものはないさね。泣いて、諦めた女が忘れたころに、しれっとやってきて、またいつの間にか姿くらましてるような男さ。あいつのために泣くだけ涙がもったいないよ、」

 女は言う。

女が言うのだからきっとそうなのだろう。きっとそうなのだ。コロカントは思った。わたしがしている心配みたいなものは、本当に余計なお世話で、そんなことしなくたって、バラッドは自分で切り抜けるすべをきちんと持っている大人だ。

 判っている。

 判っていた。でも。

 

 ――じゃあどうしてあんな、泣きべそみたいな顔で笑ったんだろう。

 

「……でも、冷たかったの」

 がちがちにこわばった唇を無理矢理押し開いて彼女は言った。

「わたしが知ってるバラッドは、いつでもあたたかかったです。思いだせる昔からずっと、……、霜が降りるような夜でも、それから助けに来てくれたときも、焚火が熾せなくて木の上で夜を明かさなきゃいけないときも、いつでもあたたかかった。おいでって、外套の中に入れてくれて、土ぼこりと、煙草のにおいがして、」

 行かないでください。

 だのに、そう言ってしがみついたバラッドの体は、はじめて冷たくて、

「冷たくて、固くって。手も、足も、体も、知らないひとみたいだった。腕を怪我してるのに、本当なら寝ていなければいけないのに、無理して動いているから、ずっと具合が悪そうで、熱が下がらなくって、だからいつもより熱いはずなのに、冷たかったの。自分でしがみついておいて、なんだかびっくりしました。びっくりして、……、」

 そうしてコロカントは男が着衣の下に、鎖帷子(くさりかたびら)を着込んでいることに気がついた。だから、固かった。だから、冷たかった。原因はすぐに判ったけれど、

「ちょっと用事を済ませてくるだけだって、言ったでしょう。町をぐるっと一周走って来るだけって。走って来るだけ。……走るだけなら、重いものを着込むだけ邪魔なはずで、……、なのに、じゃあどうして鎖帷子を着込まないといけないの」

 じきに戻ると言っているくせに、振り向きもしなかった。

 約束してほしいと言ったのに、聞こえないふりをした。

 男が笑ったのは、嘘をついていたからだ。

「バラッドは嘘をついていました。わたしが知っているバラッドは、ずっとついていた。大きな嘘も、小さな嘘も、わたしはそれに気づいているのに、気づいていたのに、気がつかないふりをし続けました。嘘なんでしょうっていうのは、なんだか怖かったから。もの知らずを装った、可愛げのない子供でした」

 緑の目を揺らして、ちょっとだけ笑って、男は最後まで嘘をつき続けた。

「バラッドは、笑った顔が好きだって言った。ずっと笑っていてほしかったって。――だったらわたしは笑えばよかった」

「……姫ちゃん、」

 悲しいと思った。悲しいと思ったし、胸はひどく痛んだけれど、涙は出ないのだ。

 笑えればよかった。いってらっしゃい、きっと戻ってきてくださいと騙され続けたままで、無邪気に笑えればよかったのに。

「わたしは泣きません」

 祈るように扉の向こうをじっと見つめてコロカントは言った。

「わたしは泣きません。わたしが泣いては、バラッドが困ると思います」

 

 

 

 

最終更新:2019年06月23日 23:00