夜明けのにおいがする。
においがする、むかし戦場で哨戒(しょうかい)当番だったとき、横にいた男に何気なく、本当に何の気なしに言ったら、そいつになんかものすごい顔をされて、その上、なんだそれ、夜明けににおいがあるのか、だなんてまじめに聞かれた。まじめに聞かれたって困る。
自分は明け方が近くなると、視界で感じるより早く、なんとなく鼻の奥がむずむずするような気がする。日の出のにおいっていうか。さあ今から太陽が昇って、空気があたためられますよ、みたいな、その前準備にもそもそ動き始める、植物の葉のにおいというか。
けれど、じゃあそれって本当にあるの、と聞かれても説明しようがないから、やっぱりすごく困る。
ただ、する、としか言いようがないからだ。
ひと晩じゅう、町の中を死にもの狂いの鬼ごっこをした。そう広くない町だった。それでも、集落ではなく、一応漁協があるような町だ。その中を、鬼を引き連れて、しかも普通は鬼ごっこって鬼がひとりで、逃げる方が多人数でしょうが。だのに、自分がやっていたのは、鬼が多数で逃げるのは俺ひとり、とかいう鬼ごっこだった。
ちょっと頭おかしい。
わりと序盤であー、ってなった。多数でひとりを追うとか、これ鬼ごっこじゃなくて狩りだわって。
森じゃなくて町中だったし、猟犬はいなかったのが、ゆいいつ幸運だったんだろうけど。
でもまあ実際狩りだったんだろうし、犬だっているもんなら嗾(けしか)けたかったんだろうな。そうも思う。
呼び子で追い立てられ、路地という路地を走らされ、脅しうちの矢を射かけられて、もうさんざんだった。半泣きどころか、本気で涙目だ。
自分は鹿じゃない。
いいか、体の一部で銀十枚。生け捕りにすれば金三枚。絶対、殺すなよ。
そんな、がなり声が何度も聞こえたんだから、これはやっぱり、あっちにとったら賞金付きの狩りだったんだと思う。
宴会の余興みたいな。
まあ、自分に言わせれば、勝手にひとのいのち余興にするなよって言いたい。
俺は食ってもうまくない。
敵も、自分も、血走った眼をしていたと思う。
そうして、逃げ回っているうちに、だんだんダメかもって言う瞬間がすこしずつ、でも確実に増えてきて、それは例えば細い一本路地で前後囲まれるだとか、よろけた拍子に足をくじいただとか、相手がふりおろした棍棒を間一髪でよけただとかで、自分は自分でそれでも何人かは、ナイフ投げて深手を負わせることができたと思うのだけれど、多対一、ってやっぱり相当無理がある。
屋根伝いに逃げたり、袋小路の壁越えたり、小細工を弄(ろう)してみたけれど、なんというか悪あがきってやつだった。
結局、数の多さって、もうそれだけで強い。認めたくはないけれど。
しかも、この町に来る道中で十騎見かけたから、十人との追いかけっこかあ、だとか自分は思っていたのに、ふたを開けてみればその数倍ほどに増えていて、まったく洒落(しゃれ)にならなかった。聞いてないよって。
あのひとを檻に戻すために二十人ですか。
おいおいどれだけ連れ戻したいんだよって思った。あの若造どれだけ執念深いんだよって。
ナイフにしたって、興行で動かずじっとしている的と、始終動いている的に中(あ)てる難しさは段違いで、それもあてようと構えを取るために少し立ち止まると、すかさず左右から物騒なものが飛んできたりするから、ひと晩中、ほぼほぼ走りっぱなしで、本当に限界突破すると思った。
俺は配達で鍛えている郵便夫じゃないですからね、どこかで息を入れないとヘタるんですよって言いたい。あんなに太腿(ふともも)の筋肉発達してないし。
しかも持久走なら、自分の速度で淡々と走ることができるけど、捕まったら死、みたいにひたすら走らされて、休むことは許されないとか、もう何かの刑罰ですよねって思った。
引き回しみたいな。あれは馬につながれているけど。
そうして悪いことに、俺は行きたくもないのに、相手が意図している方へ、方へ、追いやられていった。不可抗力ってやつだ。
とうとう、高所のまったくない、物陰どころか灌木(かんぼく)すらない、町の柵の外まで追い出された。
そこは海岸線だった。浜辺ってやつだ。
花も咲かない、足元は粗い砂地の続く、なだらかな平地。
せめてもうすこし水深の深い港あたりだったなら、隙をついて、水の中にとんずらするという手も、ない訳ではなかったけれど、港には船がある。港に行かせては絶対にいけない。だからしようがないとしか言えなかった。
そうか、ここが自分の終着点か。できればやわらかな寝台の上で、酒と、煙草と、女がいたらよかったと思ったけれど、ないものねだりだった。しようがない。
でもまあよく持った方だと思う。
もう息が切れるとか通り越して、血反吐(ちへど)出るんじゃないかって言うくらい、ひどく喉が痛くて、心臓はめったくそに暴れていて、いま自分が空気を吸っているんだか、吐いているんだか、最後の方はよく判らなくなっていた。
でも、そんな状態でも、人間って立っていた。ちょっと俺すごいんじゃないって、頭の片隅で思う。褒めてもいいよねって。
べつに、醜態(しゅうたい)をさらすのがどうのとか、敵前で膝をつくのは騎士としてうんぬんかんぬん、そう言うもっともらしい、格式ばった、古くさい理由ではなくて、単純に、なんとなく、倒れるタイミングを逃してしまっただけだ。今さら倒れるわけにもいかない。
自分は膝に手をついて、ようやく立っていた。
最初は自分に食いついていた四人がそのまま自分を囲むようにして、それから町の方からぱらぱら二、三人。そうしてまた三人。
そうして、しばらくたって、ようよう自分の息が整うころ、だしぬけにあいつが現れる。
数えたら、全部で十一人いた。
仕込んでいたナイフは二十あったから、外したのも含めて、それでも半数ほどは減らしたんだなと思った。
百発百中ではなかった。的当てだったら折檻(せっかん)ものだ。だけど、これは見世物じゃなかったし、一人で半数減らしたのだから、逆に敢闘賞(かんとうしょう)もらっていいんじゃないのって思う。
汗を拭う自分に、そいつは悠々と近づいてきた。次第に明けてくる、相手の顔がうっすら見え始めた闇の中に、夜目の利く分だけ、俺にはよく見えた。
肩をそびやかしていた。
涼しい風を吹かせて、おやおや、だとか眉を上げていた。
これからとらえた獲物をいたぶることを考えただけで、楽しくて楽しくてしかたがない、下衆(げす)の顔をして、そいつは近づいてきた。
反吐が出そうだ。
侮蔑(ぶべつ)には慣れていた。おや赤いのがいるよ。そうした一瞬の好奇と嫌悪が浮かぶ表情にも慣れていた。
けれど、この人間に見下されるのだけは、我慢ならないと思った。
自分はかま首を持ち上げ、威嚇(いかく)する蛇のように、背を伸ばし、そいつに向かった。体を起こすと、全身が軋んで、よけい眩暈(めまい)がひどかった。それでも自分はまっすぐに立っていた。
さっきも言ったけれど、騎士の矜持(きょうじ)なんてもとよりない。騎士でもない。ただ、こいつの前だけは、虚勢でいいから張らなければ気が済まなかった。
笑うなら笑え。
相手に知れているかどうかも関係ない。体力も気力も、とっくに限界だって言うことは、自分がいちばん判っている。そいつも判っていたのだろう。だから、とどめを刺すために、わざわざ出張(でば)ってきたのだ。
あのひとの悪夢の元凶。
ぶち殺してやりたいと思う。
ご主人さまの獲物に横から手を出す気は、手下どもにはないようで、ただ大人しく剣先を自分に向け、取り囲む。
すると、やあ。つかまえた。そいつは言った。
もう逃げられない。ずいぶん手こずらせてくれたけど、鬼ごっこは君の負けだね。
そんなことを言う。
だいたいね、打ち解けてもない相手に、こんな、なれなれしい口調で話しかけられるなんて、その人間性を疑う。裏がありますよって言っているようなものだ。。裏側でなにを思っているか知れたもんじゃない。
判るんですよ。そうやって人懐っこいように見せかけて、本当は、懐こさの反極だ。目の前の相手どころか、そもそも人間という種類を信じちゃいない。つねに疑ってかかって、なるべく自分が損を被らないよう、巧妙に動こうとしている。
裏があると言いきれた。なぜなら自分も同じクチだったからだ。
舌なめずり。
自分かかま首をもたげた蛇を意識したけれど、蛇というなら、こいつの方がいっそ蛇だと思う。いや、それとも腐肉を食らう獣の方がふさわしいかな。
ああもう本当に、返す返すも悔やまれる。四年前のあのとき、ラルヴァン公の屋敷に忍び込んだとき、遠慮なんてせずに、痺れ草もう一束ぶち込んでおくべきだったって。もしかすると過剰吸入で、後遺症なんかが残ったかもしれないけど、今、こうした状況には、ならなかったんじゃなかったかって。
「……そうでしょうね」
俺はこたえる。
「自分も、これ以上、逃げるつもりはありません」
観念したわけじゃなかった。大人しくやられるなんてまっぴらだ。まっぴらだと思う。思うのに、逃げるどころか、もう一歩も動きたくない。
両足は目に見えるひどさで痙攣(けいれん)していて、これでどうやってひと晩走れたのか、一旦立ち止まった自分にもよく判らなかった。
これ以上は動けない。
口を開くのもやっとだった。
「探したんだよ。だいぶ赤毛も狩ったしね。仕留めるたびに、ハズレだ、またハズレだって何度もがっかりしてねぇ。当たりのない、くじ引きをしている気分だった。でも、最後にようやく当たりがでた。よかった。数うちゃ当たるで殺してきたけど、これで報われたってね。僕の努力?……いや、屠殺した赤毛たちが、かな。うん、――それにしても、あすこにいた時分と比べると、君はずいぶん見違えたねぇ」
いっそ親しげに話しかけてくる、そいつの神経がよく判らないと思う。
判りたくもない。
「あすこにいたころの君は、なんだか汚泥にまみれて、腐った皮袋みたいになってたけど、……うん。まともな格好になるだけで、いっぱしの人間に見えるって、いや、装いって大事なのだねぇ」
「……だいぶお世話になりましたしね」
俺は言った。
「まあお世話というか、ご奉仕したのは、どちらかというと自分の気がしますが」
「ねぇ君。君はあれの居場所を知っている。そうだね」
そいつが言う。こっちの戯言はまるで聞く気がないらしかった。
「君をつぶす前に、それだけは確認しておかないと、また探すのが手間だからね。できればさっさと居場所を吐いてくれると、助かるんだけどな。君の口を割らせるのは、――、手足を折る?指を切る?時間がかかりそうだ」
「たとえば、四年とか、ですか」
俺は笑ってやった。
「仮に自分が知っているとして、あんたにゲロすると思います、?」
一瞬のちに、さっと右の視界が赤く染まった。予備動作なしに、いきなりそいつが、手下の持っていた得物を奪って、俺へ切りつけたのだ。
切れたのは瞼(まぶた)かな。目玉かな。
遅れてひりついた痛みがやってきたけれど、自分の頭は冷えていた。どうせ何をしたところで、この包囲から逃げ出すすべはないのだ。始末される時間が十拍後か、四半時後か、その程度の違いしかない。でも、できれば、彼女が好きだと言ってくれた目玉は、そのまま残っているといいのだけれど。
彼女、……――コロカント。
船は港を出ただろうか。
空は次第に白んでくる。
夜半は雲が多かったのに、いつの間にか雲は風に流され、どこかに行っていた。
今日は晴れるようだ。
見上げていた空から、ゆっくりと視線を胸へずらす。そこには、先だって歌うときあのひとから奪い取った、花飾りが咲いている。
あのひとの襟もとに、とめられていた花。
一目見て、いいな、ほしいなと思ったけれど、それくださいとは、さすがにしれっと言いにくくて、だから、あのひとから歌をもとめられたときは、なんてタイミング、指を鳴らして口笛を吹きたい気持ちだった。
これで、堂々とねだれるって。
歌いますから何かくださいと言うと、彼女はちょっと考えて、そうして、これでもいいですかと花飾りを差し出した。内心自分は、やった、とか思っていて、あさましさがにたにた顔に出ないように、一生懸命抑えていた。
でももしかすると、彼女には丸わかりだったのかも。
それは判らない。
胸元へ目をやると、ぱっとしぶいた俺の血が、花飾りを汚らしく汚している。
くそが。
不愉快になった。てめぇ、何してくれるんだって。
視線につられるようにして、そいつも俺の汚れた花飾りに目を止めた。
それから君、僕には理解できないんだけどねぇ、なんていやに気取った口調で言いやがる。
「あれがどうして逃げたのか、僕にはちっとも判らないんだ。きちんと世話したのに」
「世話、」
「そうだよ。きのこだの、ねずみだの、おぞましいもの食べてた君とは違ってね、エサは毎日新鮮なものをくれてやったし、水もかえてやった。忙しいからいつもは無理だったけれど、ときどきはかまってやったし、いくつか玩具(おもちゃ)を与えて、退屈しないようにもしてやった」
おやさしいことで。顔が歪むのを自覚しながら、俺は笑った。それから、あの頃食ったねずみや、蛙や、虫の味を口の中で急に思いだして、嘔吐(えず)きそうになった。
「まだ繁殖時期じゃあなかったから、つがいは入れてなかったけれど、いずれつがわせてやろうとは思ってたんだ」
そいつはどこか遠いところを見ている。
「あれはたいして見栄えしない毛色だけど。でも、一応、生粋(きっすい)のミランシア種だろう?聞けば、領主一族はあれのほかは絶えてしまったっていうじゃないか。だから、ちゃんと、時期が来たら、同じミランシアの牡(オス)を入れて、繁殖もさせてやるつもりだったんだよ」
「あの方は人間ですよ」
聞いているうちに、自分はだんだんいらいらしてきて、独白の合間につい口をはさんだ。
すると、ひゅ、とまた剣の切っ先が動いて、今度は自分の左を狙われた。話の腰を折るなということらしい。
さすがに両視界を奪われるのもどうかと思ったから、自分はのけ反り切っ先をかわす。かわしながら、ふと、グシュナサフが自分のナイフを避けたときも、そういやこんな感じだったな。思い出して、すこし笑えた。
続けて、そう言えばこいつ、自分の養父も、がんじがらめに寝台にくくりつけていたなと、思いだした。
結局、性分(しょうぶん)なのだろう。病気だ。ひとをひととして扱うことができないのだ。
「……可愛がってやったんだ。羽を切ってね、飛べないようにした。飛べると、逃げてしまうからね。うん、――あのときはちょっとよかったな。片足の腱(けん)をね、こう、切ったら、小さく叫んで床にもがいてね、」
嬉しそうに揉み手になってそいつは言う。
夢見る瞳って、こういう目のことを言うのじゃないかなと思う。見ている夢が、決して俺には理解できないたぐいのものであっても。
「虜囚になると、ほら、男の慰みものになるってよく言うだろう?」
ああ、君はなったか。俺を見て、ますます嬉しそうな顔になる。なったねぇ。
「僕は、子供に欲情する趣味はないからね、あれをどうこうするつもりはなかったし、実際手つかずのままだ。安心したかい?あれは純潔だ。配下のものも、手を出していない。絶対にね」
絶対。言い切るそいつに、自分は目を向ける。なんでそんなにはっきり断言することができるんだって。
ご主人さまの見ていないところで、手下の犬が捕虜を嬲(なぶ)るなんて、どこの国でもよくあることだった。
だって、実際この四年、いったい何人が何度、入れ代わり立ち替わり自分のところに来たと思ってるんだ。そう言いたい。
規律なんて結局、建前(たてまえ)だ。
「どうして判る――そう言いたいんだろう?簡単だよ。だって、毎回、しらべたもの」
「……しら、べる、」
眩暈(めまい)がひどくなって、自分はわずかに身動いた。自分の身動きに合わせるようにして、突きつけられた剣先も緊張をはらむ。飛びかかりやしないかと思われたんだろう。
彼女が、なにかひどい目に遭(あ)ったことは薄々感じていた。眠るたびにうなされるあの様子はただごとじゃない。判っていた。けれど、聞くことはなかった。だって、……、とうてい聞けない。何かありましたか、だなんて、そんな、軽々しくたずねていい部類の話じゃないことはたしかだった。
本当にそうか?自分の中の俺が自嘲する。お前、ただ、聞くのが怖かっただけじゃないのか?
「うん。肌着一枚になるように命じてね。――それから、壁際に立たせて、全身くまなく検(あらた)めるんだ。だって、健康管理は飼い主の義務っていうしね。『裏』も、表も、全部診たんだよ」
「……聞きたくないです」
目を閉じ、怒りをこらえながら自分は相手の話をさえぎった。聞きたくない。
ぶん殴らなかったのは奇跡だ。
無抵抗な幼いものを押さえつけて、なにが楽しい。綿羊と同じ扱いを受けて、自尊心を叩き潰されて、それは無傷と言えるのか。
瞼(まぶた)の裏が赤くなる。そうして俺は絶望した。ああ、守るだなんてやっぱり自分は口先だけで、彼女を守り切れなかったって。
「どうして逃げたのかなあ。なにが気に入らなかったんだろう。連れ戻したら、今度はもっと、頑丈な檻にして、それから、足枷(あしかせ)もつけようと思うんだ。今までは、ちょっと見栄えが悪いかって、つけていなかったんだけどね。うん、でも、やっぱりつけることにした。銀の細い鎖がいいな。番犬(みはり)も増やして、それから時々、犬に追わせて、もう二度と、逃げようだなんて思わないようにするんだ」
「――、」
胸糞悪い。
唾を吐き棄て、やっぱりどうあってもこいつはぶち殺そう。そう思った。
こいつが生きている限り、あのひとはこいつの悪夢にうなされる。こいつが生きている限り、いつか追いつかれ、連れ戻される恐怖が付きまとう。
どこに逃げても。どれだけ遠くに逃げても。
こいつがいる限り、あなたは上手に笑えない。
「こちらがいくら尽くしてやってもねぇ、世話してやってる気配りは、相手に伝わらないのだね。苦労は報われるそうだけど、けど、あれはちっとも手乗りにはならなかったなあ」
浮かされるよう呟くそいつが、ちらちらとこちらの胸あたりへ目をやっていることに、ふと俺は気がついた。気がつき、その視線の意味するところを理解した瞬間、いきなりどす黒い優越感がこみあげ、下卑た笑いが抑えきれなくなる。
ああそうか、って思った。
どれだけつんと澄ましていても。おきれいな顔で、取り繕っていても。
うらやましいか。うらやましいんだな。うらやましいんだろう。
「――これ、気になります?」
見せびらかして、俺は言った。そいつが気にしていたのは、俺の血で汚れた、あのひとが作った白い花だった。
「いいでしょう。いただいたんですよ。あの方から」
「……どうして、君なんだ、?」
先までの熱に浮かされた表情を引っ込めて、いきなりしんとなって、そいつが言う。心底理解ができない、不思議そうな顔だった。
「僕はきちんと四年世話をしたよ。飼ってやったんだ。それは僕のものだ」
「他人のものは自分のものですか。あきれた暴論ですね。あんた、今までもそうやって……、ラルヴァンさまからも奪ったんですね」
辺境伯の名と、屋敷と、荘園と、そうして老父の指にはまっていた当主の証と。
そういやこいつは、もともとハブレストの分家だかから貰われてきたんだっけ。もともとの出も、いいところのお坊ちゃんなんだな。
まったくだから金持ちは厭だ。俺は心の中で罵る。
金さえ出せば、もめごとは解決すると思ってやがる。解決しなければ黙らせればいい。金をちらつかせて、味方を雇うこともできるし、耳ざわりの良いおべんちゃらを言うやつらばかり周りに集まるし、女も股をひらく。
こいつの典型的なハブレスト顔、お貴族さまによくある金髪に碧眼(へきがん)、手に入らなかったものは、今までほとんどなかったにちがいない。
「金を積みますか。それとも自分を殺して剥(は)ぎますか。どちらにしたって渡す気はありませんね」
そいつは、羨ましくて羨ましくてしようのない顔を、もう隠しもしなかった。ととのった甘いお貴族顔を崩していた。目を丸々と大きく開き、穴のあくほど花を凝視して、待て、をかけられた犬のように、半開きの口からよだれを滴らせんばかりになった。
ああ、こいつはひとじゃない。俺は思う。そうして俺もひとじゃない。
どちらとも牙むき、毛を逆立てて、乱杭歯(らんぐいば)を見せ威嚇しあう、薄汚い獣だ。
「四年飼ってやったって言いましたっけ」
俺は言った。
そうして、そいつから一瞬目を離し、周囲を探る。ご主人さまの金に忠実な下僕は、先ごろと同じように、得物の切っ先を自分に向けたままだ。正確に言えば九つと、奪われたもうひとつは、目の前の若造の手にある。
ナイフはすべて使い切った。投げる得物はもうない。
「自分もね、四年。同じように世話をしたんですよ」
「……、」
「森に押し込めて、怖い噂を近隣に流して。ここから出てはいけないと、彼女には言い聞かせてね。自分は常にお傍にいるわけにもいかなかったから、……、世話する女もつけました。女は、彼女の安全を守る一方で、どこか遠くへ行かないように注視もしていたでしょう。ときどきは、森に必要な物資を運び入れて、変わりはないかこの目でたしかめました。……あんたが、土足でどかどか乗り込んできて、しっちゃかめっちゃかにするまでは」
命と引き換えに託していった同僚がいた。お子を頼む、と見るも無残な姿になりながら、血を水のように滴らせ吐き出していた。断末魔の力でもって、ぎりぎりと俺の腕に指のあとを残しながら、ただ遺(のこ)してゆく子供の心配だけをして、死んでいった男だった。
追われ逃れる生活ではなく、どこかに腰を据え、安全に、健やかに、成長しなければならないと思った。だから、生きてゆけるだけの衣食住をととのえ、その環境に彼女を閉じ込めた。
最初はほんのいっときの、匿い場所だったと思う。すぐにもっと安全な後ろ盾を見つけて、その人間の屋敷へ連れてゆくつもりだった。
だのに自分たちの不手際で、彼女の後ろ盾になってくれる人間を、なかなか見つけられることができなかった。
なんとか交渉まで漕ぎつけたと思えば、必ずどこかで邪魔立てが入って、はい、元の木阿弥(もくあみ)。そうして何度も何度も、積んでは崩され、崩されては積む、賽(さい)の河原の石積みのような作業を、自分はくりかえしてきた。
彼女の身の安全を思えば、安請け合いをする諸侯に、託す気にはなれなかった。こちらへよこせ、引き受けよう。名乗り出るものは数多くいたけれど、やつらが見ているのは、コロカント自身ではなくて、彼女の肩書や、彼女が保有する財産だけで、渡したが最後、身ぐるみ剥がされ、すぐハブレストに売り渡されるのは目に見えていた。
ようよう見つけたラルヴァン公は、目の前の若造に始末された。
――だけど、本当にそれだけだったのかな?
また俺の中で嘲笑する声がある。
――それはただの立派な大義名分ってやつで、本当は、交渉がおじゃんになるたび、お前は心のどこかで喜んでいたんじゃないのか?
そうかもしれない。自分はきっと、彼女をいつまでも、あの森の中に閉じ込めておきたかったのだ。
俺は、あの歌にあった、自分勝手な樵のように、力任せに彼女を引き立て、森の外へ出てゆく熱情をもたなかった。
だとしたら、自分だって、目の前のこいつとやっていることは、何も変わりはない。
「でも自分はもらえました。手渡されたんです。彼女の手作り。なんででしょうね?……ああ、……そういえばですね、手乗りなんて言うから思いだしましたが、自分が座ってるとね、彼女寄ってくるんですよ。別に刃物ちらつかせて命令しなくたってね、自主的っていうんですか。そうして迎えてやると、きちんと、こう、膝の間に来るんです。ちっちゃくて、いいにおいがして、やわらかくて。ね。ああ、でも、あんたには判らないんですよね。かわいそう」
にこやかに蔑(さげす)んでやる。
自分とこいつが決定的に違ったことと言えば、自分は彼女に嫌われずに済み、こいつは
ものすごく嫌われたということだ。
「悔しいですか。でもあんたがやったことって、俺以下ってことですよ。あんたが莫迦にしてる赤毛以下。まだ子供だとか、世話してやってるとか、関係ないんですよ。――怯える女をね、力で押さえつけて、内部に無理矢理指を突っ込むよう下衆(げす)は、そんな強姦魔は、百遍(ひゃっぺん)首を吊って死ねこの腐れ外道」
吐き棄てた瞬間、目の前の若造の顔がふくれあがった。それまで何を言われているのかよく判らないような、ぽかんととぼけた顔をしていたものが、不意にまがまがしいほどになって、そうして俺につかみかかってきた。
俺はよけなかった。
そいつが胸ぐらを掴みあげ、憎悪まるだしの顔が眼前に迫っても、俺はせせら笑ったまま、よけなかった。
そいつは持っていた剣の柄(つか)で俺を殴ろうと振り上げた。殴ったって容易に人間は死なない。斬りつけた方がよほど効率的なのに、こいつはしない。ひと息に俺を殺そうとしないあたりが、らしいと思った。
振り上げ、振り下ろす。
剣の柄というよりは、鍔(つば)の部分で頬骨のあたりをがつんとやられて、視界に一瞬星が散った。俺は蹈鞴(たたら)を踏みながら、倒れるのだけはぐっとこらえ、そうしてそいつの振り下ろした手首を握った。腕を切り落とされたって離さない。
そのまま、体勢を崩したまんま、ぐいとおのれの側に引き寄せる。力任せだった。
掴まれると予想していなかったらしいそいつは、引かれるままこちらに倒れ込む。その手には、いま俺を殴った剣が握られたままだ。
ひねり上げ、柄元へ手を添えながら、俺は手加減なく、体勢を崩して胴体をさらしたそいつの無防備な腹部へ、切っ先をめり込ませた。容赦なんてこいつにするもんかと思った。
ここまでが一拍。
「な、」
なにを、だとか、なんで、だとかそいつは言いたかったのだと思う。
とっさに後退して逃れようとする背へ、手を回し、鷲づかみにして、俺は柄元まで一気にめりめり刃を押し込んだ。
腹から剣を生やしたまま、驚きに目玉がこぼれ落ちそうになるほど見開いて、そいつは砂地へぶっ倒れる。
即死か、そうでなくともそれに近い状態だと思う。
感慨にふける間もなく、俺はぱっと身を翻(ひるがえ)し、走った。
とくに考えはなかった。とにかく敵のいない方へ、到底逃げきれるもんじゃないと思っていたけれど、それでもそのまま突っ立って巻藁(まきわら)になるなんて、体が拒否をした。
多勢に無勢だ。知ってる。だけど、水の中に逃れることができれば、なんとか逃げ延びるチャンスはあると思った。
その水際が遠い。
正直、事ここまで来て、自分がこんなに意地汚く生き延びようとするなんて、思いもしなかった。びっくりだ。そもそも、これだけ疲労困憊(ひろうこんぱい)状態で海に逃げたって、溺れ死ぬ可能性の方がどう考えても高い。
けれど、そいつの腹部に剣を突き立てた瞬間、俺が思ったことと言えば、よしこいつは片付いた、だから戻らなきゃ、って言うことだけだった。
港で彼女が待っている。
ご主人さまが即死して、呆気にとられた下僕どもは、我に返るや否や、俺の後を追ってきた。命令を出す人間はもういない。敵討ちを、なんて考えるほど、慕われるような人間でもなかった。
そいつらも、だから、なんとなく体が動いたんだろう。
ざぶざぶと波をかき分け、足首ぐらいから膝丈まで海に浸かり、あともう少し、潜れる深さまで分け入ることができたらなんとか、ああくそ、どうしてこんなときに引き潮なんだ、奥歯を食いしばり気ばかり急いて、沖へ沖へと急ぐ自分の背に、不意にばすばすと焼けつくような痛みが走り、俺はのけ反った。
波打ち際から数人に、矢を撃たれたのだと一瞬遅れて気がついた。
ああそういえばあいつら、目暗撃ちしてきたもんな。そりゃ持ってるよな。
納得する。
長袖の下に、たしかに鎖帷子は着込んでいたけれど、なで斬り程度の刃は防げても、近距離からの矢の威力は脅威だ。シャレにならない。だって鉄の盾に突き刺さったりするんだぜ。
ああ、でも貫通しなかっただけ、着ていた甲斐があったってものなのかな。
この場合、どっちにしたってものすごく痛いことに変わりはないけど、どてっ腹に風穴開かなかったって、喜んだらいいのかな。
そう思う。
そういや、背中の傷は、騎士として恥なんだそうだ。こんな時なのに思いだした。
逃げようとするところをやられるわけだから、敵に背を向けているってわけで、つまりは、勝負を投げ出した負け犬ってことらしい。
でも、それ、つねづね思っていたけど、真っ向からぶった切られたやつの、ひがみなんじゃないかって。
騎士なんて、基本、重い鎧着込んで、馬に乗って槍構えて、露払いをされたあとでの突撃仕事だ。重いし、視界も狭いから、うまく身動き取れない。素早い方向転換なんてできやしない。
結果、真正面で攻撃を受けるしかない。男は黙ってじっと耐えて、じゃないけど、自分はそんな痛いのはいやだ。
痛いのを我慢して、正面にばかり傷を作って、そうして堂々と仰向けに倒れ死ぬのが騎士としての勲章なんだとしたら、自分はやっぱり騎士なんてごめんだ。負け犬だろうが、後ろ指さされようが、どれだけみっともなく、汗みずくで逃げまくったって、自分はなるべく怪我を負わずに生きていたいし、生きて、生き延びて、そうして。
――そうして。
顔面から海にぶち当たって、俺の思考はそこで途切れた。
*
空が燃えている。
ざざ、ざざざざ。ざざざざ。
砂嵐のようなうるさい耳鳴りとともに、べしょべしょと冷たいものが左顔面を撫ぜて、俺は薄目を開ける。くすぐったくて不愉快だったのだ。
ざざざ。
薄目を開けると、左の眼球を容赦なく塩からい砂混じりの水が洗って、ひどく沁(し)みる。沁みるので、目をまた閉じた。
目を閉じ、まただいぶ長いあいだ、うとうととする。
うとうととしながら、この頭の中にうわんうわん響く耳鳴りが、耳鳴りではないことに気がついた。
これは波の音だ。
……ああ、……、海。
どうも頭がはっきりしない。そうして、俺はなんだって波打ち際で洗われているのかなと考えた。
子供じゃあるまいし、水遊びの趣味はなかった。そもそも季節はまだ晩春で、水に浸かるには早すぎる。全身の感覚がなぜか遠くてよく判らないけれど、くすぐったいだの、冷たいだの感じた顔面は、まだ感覚が残っているようだ。
……俺は、どうして、海に。
それよりも、俺は今まで何をしていたのだっけ。空が燃えるように赤いので、今が明け方にはちがいないけれど、漁師でもない俺が、波打ち際にいる理由が思いつかない。
いやまて。急にぎくりとなって沁みるのもかまわず、俺はまた目を開いた。先刻よりもしっかり。
俺はなにか大事なことを忘れちゃいないか。
明け方。
はっとして、俺は体を起こそうとした。でも動かない。
指の先ひとつ、ぴくともしやしない。
座礁したクジラの方が、まだ体を動かせるのじゃないだろうか。俺は本気の本気で、頭をもたげることもできやしなかった。まるで金縛りだ。
ああそうか、金縛りなのか。だったら、やけに顔のあたりだけ感覚が鋭敏なのもうなずける。これはまだ、夢を見ている途中なのかも。
思いながら俺は、でもこの状態が決して夢なのではなく現実で、俺は昨日からひと晩中、追手を引きつけた囮役、そうして今は明け方、港からはもうとっくに三人を乗せた船が出た頃合いだと判っていた。
出ただろうな。出てくれないと困る。
そうでないと、俺が死にものぐるいで駆けずり回り、そうして、あのお貴族顔の変態野郎を殺した意味がない。
あいつ、最期は実にあっさり逝ってくれやがったなあ。
もっとこう、もがいて、苦しんで、ばかな、僕がこんなやつに、だとか、今際(いまわ)の際(きわ)の台詞を吐いて、悪党の親玉らしく、みじめったらしく死んだらよかったのに。
そうしたら、この自分の中のモヤモヤやるせない気持ちも、すこしは晴れたかもしれないのに。
でも結局、人間なんて死ぬ時は、あっけないものなのだろうな。
場所も、覚悟も、言い残すことも、最後の体の向きすらも、自分で決めることができなくて、ただぷつんと糸が切れるように、終わってしまうものなのだろうな。
俺は、こんなふうに、塩からい水に、びしゃびしゃ洗われている場所じゃない方がよかった。お花畑や惚れた女の膝の上、とまでは贅沢言わないから、せめて砂地の方で仰向けで死にたいと思った。でもそれじゃ、騎士の大往生と同じかと思って、なんだかおかしくなった。
それに今、たぶん、何本か判らないが背中に矢が刺さったままの状態で、仰向けになったら、それこそ悲惨だ。悶絶死だ。
最後まで痛い痛いと思って死んでいくのは、いやだな。
視界の端に、真っ赤な空が見える。
空が燃えている。
空が赤くなるのは朝に夕に二度あるはずで、だのに、どうして俺は、きっちり明け方だと確信しているのかなと思った。
……ああ、でも、理屈じゃないんだ。判るよ。
だって、こんなに不吉なほど赤いのは、明け方に決まっていた。朝焼けの赤は、凶兆だ。戦場でものすごく嫌がられる色だ。
ばたばた地に倒れ、こと切れていく戦友たちから流れてゆく赤い色と同じだからだ。
お前の頭は、死んだあいつの血の赤さを思い出すンだ。だから、言いがかりなのは知ってるけどよ、ほんとう申し訳ないけどな、俺は赤毛が大嫌いだ。
何度そんなことを言われたかな。
でも、理屈じゃないんだよな。大丈夫。傷ついてもないし、判ってるよ。
喉がひどく渇いていた。
そりゃそうだ、食わずはともかく、飲まずでひと晩走っていたんだし。
頬の下には、そりゃもう飲みきれないほどの海の水が、ひっきりなしに寄せては返しをしていたけれど、こんなもの、腹いっぱい飲んだって渇きは癒されないことは知っている。
水が飲みたいな。
俺の周りで遊んで行く波が、妙に鉄錆(てつさび)くさい。
唇がなんとか動いて、俺は口を開けた。開けたとたん、砂と一緒に海水が口中になだれ込んできて、思わず俺は噎(む)せた。
体が痺れていたくせに、こういう、反射的な体の動きってするもんですね。咳き込んだ。
咳き込むたびに、体の芯に針をぐりぐり突き刺したようなつんざく痛みが走って、俺は引き攣り、手足をこわばらせる。
だけど、はずみですこし頭も動いて、先ごろよりもずっと空が仰げるようになった。
目を閉じる。一瞬意識が途切れた。
それから、慌てて目を開ける。
このまま眠ってしまって、この暁の空を見そびれてしまうのは、どうにももったいない気がした。
もったいない。
これだけ三十何年、赤さを毛嫌いされ続けて、見そびれてもったいないだとか、気がふれているとしか思えない。どうかしている。
周りほとんどに嫌悪されて、野良犬みたいに追い払われて、俺は好きこのんでこんな色に生まれたわけじゃあないし、たとえ頭を丸刈りにしたって、色は代えられない、それは知ってる、だけど、たったひとり、彼女がこの色をきれいと言ったから、朝焼けと同じでとてもきれいで好きだと言ってくれたから、たとえ朝焼けのそのすぐ後にしぐれてきて、ぬかるみの中のどろんこ合戦になったとしても、それでも、あなたが好きだって言ってくれたから。
俺はあなたが、好きでした。
どうしても眠くて、かくっと俺は落ちかけて、また無理矢理目を見開く。
赤い空を見続けていたかった。
俺の好き、という意味と、彼女の好き、と言ってくれる意味が、もう百八十度、コインの裏と表ほどまるきり違っていたとしても。
俺が彼女に抱くすべてが異常で、偏執じみているのは自覚していた。今はまだいい、だけど彼女がもう少し成長して大人の女性になったとき、俺はどうする?
彼女が求めていてそうして真に必要なものは、父親代わりの愛情で、俺が彼女に抱いている変質した歪んだ思慕は、彼女にまったく必要がない。
子供の彼女は、ためらいもなく俺の懐へやって来るけれど、それはいつまでだ?世間的にいつまで許される?お前、怖くないのか?
彼女はそのうち離れてゆく、それを俺が追わない保証がどこにある?穏やかに笑って、ひとり立ちを嬉しく思いやれる自信が、俺には全くない。
そうして俺は、こじらせたあいつと同じような、糞野郎に堕落するにちがいない。
……必要なかったんだよ。最初から。
だから、俺は場の流れで、こうして浜辺に転がっていたりするけれど、きっとこれでよかったんだと思えた。ここで退場。今後の人生にでばらない方が、彼女は真っ当に生きてゆける。
俺はあなたが、好きでした。
だけど、と半分眠りにおちながら俺は思う。だけど、あなたに幸せになってほしいという願いだけは、混じりけなく、純粋な、俺の願いだったですよ。
それだけは嘘じゃない。とことん嘘にまみれた自分が言ったって、信用しきれる話じゃあないのは判っているけれど。
あいつは始末しました、もうどこにもいません。あなたを探し出し、連れ戻すことは決してない。あなたはもう、こわい夢を見なくていいんです。
……あなたはまた笑えますか。
森の中の生活だって、そうだ。閉じ込める気はなかった。いつか必ず、外へ出してやりたかった。外へ出して、多くの人間と交流しながら、真っ直ぐに育って行ってほしかったんだ。
祭りにもいきたかったな。花火を見たかった。踊りつかれるまで騒いで、喉が乾いたら軽くエールを流し込んでげらげら笑いたかった。
酔って頬を染めたあなたは可愛かったろうな。
たくさんの指切りをした。数えきれないほどたくさんで、薄情な俺は、もうそのほとんどを忘れてしまっているけれど、でもそのひとつひとつ、騙してやろうと嘘をついたわけじゃなかったんだ。
手をつないで森を出ましょうね。手を離しちゃいけません。離したら、迷子になってしまいますからね。ずっと繋いで、……、……でも。
でも、俺がしたことは、やっぱり、あいつと同じだったかな。あなたの飛べる力を奪って、不自由を強いていたかな。押しつけがましくあなたの幸せを願うだとか言って、てめぇ勝手な都合を、ただただあなたに強制していただけかな。
開いた目を海水が押し寄せて洗っていっても、俺はもうとくに沁みる、とか、痛い、とか感じることもなくなっていた。
ただ、閉じてしまうのだけはいやだった。最後までこの空を見ていたい。
何度も、何度も船を乗り継いだ向こう側の国は、こちらの大陸ほど赤い頭が迫害されていないらしい。赤毛はわりとめずらしくないって話だ。そもそもは、あっちの大陸から流れてきたんだそうだ。
だから自分にとっては、ミランシアにいた時分よりもさらにずっと、居心地のいい場所になるに違いなかった。
あっちへ行ったらやりたいことがいっぱいある。
まずは腕のいい医者探しだ。彼女の足を見てもらわなきゃならない。そこできちんと治療して、それから、彼女が今まで見ることができなかった、たくさんの人や、町や、場所を見に行こう。
車は今度は幌付きがいいな。曳くのはハナだ。御者台には俺とグシュナサフが交代で座って、……あいつも付いてくるのかな。それとも、どこかの繁華街でまた春売りに戻るのだろうか。
そういえば、あいつとは、落ち着いたら今度一度、きっちり話をつけなきゃならないと思っている。ちらちら仄(ほの)めかしてこっちの反応を楽しんでるふしがあるし、そもそも彼女にいろいろ吹きこまれちゃ困る。俺の人徳とか崩れるし。
ざざざ。ざざざざ。潮騒が思考の邪魔をする。
……ああクソ、もう船は出たかな。出ただろうな。
だったら俺は、次の船を探して、追いかけなくっちゃならないな。
彼女はやさしいから、きっと心配してくれているだろうから、俺は早く追いかけて、合流しなくちゃならない。そうして、ひょいと姿を見せて、お待たせしました、ほら、なんともないでしょう、無事に戻りましたよって言って、にっこり笑ってみせるんだ。
彼女はどうするだろう。笑うかな。泣くかな。怒るかな。
俺はあなたが好きです。
常識的にも、世間的にも、憚(はばか)られて、絶対に口に出しちゃいけないことは判っていたけれど、でも、俺はあなたが好きです。
もう眠くて、どうにも眠くて、早く目を閉じた方が楽になるのは知っているのに、赤く燃える空を見ていたかった。
どうせもうすぐ、日が昇り切ったら、この赤さは消えてしまう。
あなたは俺のことを、朝焼けのようで、きれいで好きだって言ってくれた、たったひとりのひとだった。俺はあんなふうに言われて、うまい返しもできないまま、曖昧に笑ってごまかすしかなかったけれど、胸が痛くなるっていうんですか、本当はとても嬉しかったですよ。
はじめて自分の赤髪を、自慢に思った。
生まれ変わりだとか、俺は信じちゃいなかった。信じたところで、俺みたいな生き方をしてきたような奴は、生まれ変わったって、またどうせろくでもない人生歩むのは判りきっている。
だけど、でも、もし、神さまの気まぐれ的な、万に百分の一くらいの確率で、生まれ変わることができたら、俺はやっぱり、赤毛で生まれてこようと思う。
赤毛で生まれて、そうしてあなたに、もう一度会えたらいいなと思います。