――ご無事ですか。
突き刺さる外気を連れて、男二人が力任せに入り口の扉を叩き壊し、転がり込んできた。
頭のてっぺんまで雪をかぶり、まるで雪男だ。
建物の中にいた中年女とコロカントは、驚きと呆れで無言になり、文字通りに叩き壊された扉を眺めた。蝶番のあたりががっぽり外れている。
「……どれだけ莫迦力なんですかね」
しばらく、扉と男どもを眺め比べていた中年女が、ようやくして言った。
全身を上気させ、はあはあ肩で息を切らしている男どもは、歓声を上げて出迎えられるどころか、非難の目を向けられて、戸惑い、ぽかんとなる。
七日七晩、冬の嵐が吹き荒れていた最中(さなか)のことだった。
その年の嵐は、中年女も目を剥(む)くほど猛狂い、石造りの塔が全面びっしりと凍り付いたのだ。
三階建ての塔の天井部分には、一旦内部であたためられた空気がまた凍り、できた大きなつららが何本も垂れさがっていて、その先端からぴたぴたと雫が滴っている。まるで雨漏りだと、オゥルとコロカントは笑った。
あまりに大きくなるとさすがに危ないので、日に一度、女が階段を上がり、つららを叩き落としていたけれど、またすぐにできる。いたちごっこだった。
こういう時はケチっちゃあいけません、そう言って女はおしげなくぼんぼん薪をくべた。それでも室内を温めるには程遠い、近年にいちばんの寒さだった。
息が白くなる。
震えるコロカントを、何重にも毛皮に巻いて、そうして馬と離れないよう女は指図した。
馬の体温は、人間よりも高い。くっついていれば、凍え死ぬことはない。
女は経験でそれを知っている。
石が凍るのだから、もちろん木製の扉も氷で貼りつき、女と子供の力では開けようがなかった。湯はかける端から氷に変わる。閉じ込められたのだ。
けれど、女は決して悲観的になることもなく、なぁにどうということはないですと笑ってみせた。
「こうなることを見越してましたからね。薪は、たんと運び込んであります。馬たちの干し草だってある。水は氷を溶かして飲めばいいのだし、三階に干してある乾物と、塩漬け肉で、ひと冬越える算段なんです。鶏は卵を産むし、ヤギは乳を出します。外に出られないからって、なぁんにも困ることはないんですよ」
まあ、顔が煤(すす)けるかもしれませんけどね。
言って女はコロカントの隣へ腰を下ろし、同じように馬の腹へ体を付けた。
「あたしの生まれは百姓の家でね。それも水呑み百姓でしたですよ。ろくな食いものもない、薪もない、おまけに住んでいるところは草を貼り合わせた壁のほったて小屋。そんなみじめな状況でもね、家族で体を寄せ合って冬を越えられたんですから。それと比べりゃ、ここは天国だ」
女の言葉には自信がある。実感がある。だからコロカントは、まったく不安に思うこともなく、女と同じようになんとかなる、と大きく構えて、嵐のおさまるのをじっと待っていたのだ。
その日は朝から、風がいつも以上に強かった。やたらと扉を叩く音がひどいと、女と言いあっていた。
外に出られないことへ開き直っていたので、大人しい馬の傍らで、かじかむ指に息を吹きながら、秋口に手に入れた糸車を回し、糸を撚(よ)っている。
「これで、姫の春に着られる肌着を、編んであげましょうね」
器用に車を回して女は言う。大きな声だった。
連日吹きすさぶ風のせいで、室内でも声が通りにくい。大きな声でがならないと、互いの声が届かないことがある。
コロカントも、女と同じように糸を撚ろうと、手順を習った。
ところが教えられたとおりに糸を持ち、車を回そうとするものの、まず車が立たない。右手と左手で違う動きをしながら同時に動かし、糸車を倒れない速さで回してゆくのだが、これが五つのコロカントには、どうにも困難な仕事だった。
言われていることは判る。どういう仕組みで糸車が回るのかも判る。だが、判ることと、その通りに体が動くことは別らしい。
眉間に皺を寄せ、むずかしい顔で車とにらめっこをしているところへ、急にばきべりどかどかどかがきん、だとか音がして、唐突に扉がぶち倒された。
この建物は、農機具小屋でない。今はだいぶん古びてしまっているけれど、有事の際に使用する見張り塔、つまりはもともとは軍事施設だ。
その入り口の扉も、頑丈に鋲を打たれ、補強されて、この強風にもびくともしない。先ごろまではしていなかったはずだ。
それが倒れている。
おまけに、必死の切羽詰まった声をあげながら、雪男が二人、室内に飛び込んでくる。
雪の合間に見える赤毛に見覚えがあった。
「バラッド、……?」
「姫!」
ご無事でしたか、お変わりありませんか、ごしごし凍った顔面を擦り、室内の暖気に目をしばたたかせていた男が、コロカントが声をかけるとぱっと反応し、駆け寄ってきた。
「ああ、よかった、心配したんです。心配したんですよ。こんな途方もない嵐は見たこともないって、自分とグシュナサフは、森で姫が凍えきっていないか、もう心配で心配で、生きた心地もしなくって」
男の手は大きい。彼女のこぶしを全部包んでしまう。
ぎゅ、と握られた手のひらが氷のようだ。男の体の表面が冷え切って、内部は上気しているものだから、冷気を吹いているようなものだった。
あまりに冷たくてコロカントは飛び上がる。
「バラッド、つつつつつつ、冷たいです」
こぶしからぐんぐん熱が奪われる。
「そうですよね、冷え切ってますよね、今どんどん火を燃やして温めますから、すぐに温かくなりますからね、……いや待てよ、おかしいな、なんか、姫の方があたたかいですか……、?」
「……ちょいと」
息せき切って言い募る男の後ろから、氷よりも冷えた女の声があって、雪男とコロカントは同時に目を移す。
どうしようもない、と顔に書いてある女がそこに立っていた。
「姫から離れな」
「なんです。邪魔しないでください。今、姫の無事を確かめるためですね、……、」
「姫から離れな。あんたが冷えきっているんだよ」
「え、」
言われて男はやっと我に返ったようだ。体温をうばわれ、歯をかちかち鳴らすコロカントと、そのこぶしを握るおのれの手を眺め、わあ、と慌てて手を離す。
「すすすすみません、本当すみません、悪気はなかったんです……!」
「謝るのはいいから。入り口なんとかしておくれ」
ぶち壊した扉を持って、所在なさげに佇むグシュナサフへオゥルは顎で示し、
「壊したものは直す。姫が凍り付く前になんとかしな。男ふたりいればできるだろ。あったかいスープを飲みたいなら、急ぐんだね」
(……あのときのふたりは、本当に雪だるまだったな)
思いだして、思わずコロカントは布団の中で笑った。
(鼻水まで凍ったって言ってた)
「――だって急いでいたんです、」
中年女にどやされ、男ふたりの突貫工事で、扉の応急処置がなされた。
ぶつぶつ文句を言いながら金づちを叩くバラッドと、黙ったままゆがみを直すグシュナサフが対象的でおもしろくて、入り口付近は寒かったけれど、コロカントは近くに寄ってふたりを眺めた。
入り口が無事に塞がると、ようやく女からお許しが出て、男ふたりは急いで暖炉前へ移動し、濡れた服と靴を脱ぎ、凍えた足を投げ出して、火であぶりはじめる。
熱いスープを差し出す女へ、扉を叩き壊したことに対する弁解をはじめた。
「町の方はね。すごい騒ぎですよ。大通りが凍り付いて、馬がすべってね。骨でも折ったら馬喰(ばくろう)はおまんまの食い上げでしょう。しかたなく、人足で荷車引くわけですが、まあこれもすべった転んだで」
近年どころか、こんな寒さは五十年に一度のものだと言われているらしい。
「こう、なんていうんですか、定住していない、……、路上生活のみなさんね、ばたばた凍死するもんで……、こりゃ尋常じゃないって、広場に避難小屋作って、保護されてましてね。町でこんななんだから、山の方はもっとひどい、小さな集落なんざ全滅らしいぞだとか、そう言えば、まるまるひとつ雪に埋もれた村を見た気がする、だとか、そんなまことしやかなうわさまで流れて」
「それで叩き壊した」
「だって。戸を叩いて呼んでも、ちっとも返事がないでしょう。これは何かあったに違いない、すわ一大事って」
「……オゥル。グシュナサフとバラッドは、心配してきてくれたのでしょう。あまり怒っては可哀想です、」
半目で睨む女と、首をすくめるバラッドに、見かねてコロカントが口をはさむと、おや、と女は苦笑した。
「悪気のないのは判ってますよ。……まあ、姫がこう言うならね。これ以上あたしは何も言いませんけれど」
言って女はやれやれと首を回す。
「連絡しないでやって来るのがふたり急に増えて、夕飯をなにか増やさなくっちゃあ、腹ペコどもが餓死してしまいますね。ああ忙しい」
いやみを残して去っていった。
その背を眠そうに眺めて、男が猫のようなあくびをひとつ漏らす。火に温まって、眠気が出たようだ。
あくびのついでに、女の背に舌を小さく出している。大人げない振る舞いがおかしくて、コロカントは笑った。
女は決して本気でいやみを言っているわけではなく、男もそれを判っている。これはつまりふざけた挨拶のようなものだ。
笑う彼女へ男が目をやり、破顔する。ものすごく嬉しそうな顔だった。……何がそんなに嬉しいのかな。つられてにこにこしながら、コロカントは内心首を傾げた。
「これ、どうぞ」
しばらく笑って、手にした菓子鉢をふたりに差し出す。
「一昨日、オゥルと一緒に作ったの」
「……高級品じゃあないですか」
差し出された鉢をのぞいたバラッドが、驚いた顔をした。芝居ではなく素だ。彼女が差しだした鉢には、丸い形の小麦菓子が入っていたが、鶏卵と砂糖を使った焼き菓子が、ここではひどく貴重なことを、男は知っている。
飼っているめんどりは、一日か二日おきにひとつ卵を産む。成長期の彼女に必要なたんぱく源だった。
二日でひとつ。四日でふたつ。
焼き菓子に必要な卵をそろえるだけで時間がかかる。男はそれを言っていた。
「自分なんかが食べたら、もったいないですよ。姫が食べてください」
「食べるために作ったんですもの。焦がさないで上手に焼けたんです。どうぞ」
言うと礼を述べて、男どもは手を伸ばした。一枚つまみ、口に放り込む。
「……うん、うまいです」
口をもぐもぐさせながら男は言った。よかった、言いかけた彼女へ、
「うまいです。姫はきっと、いいお嫁さんになれますよ」
そんなことを続ける。
「お嫁さん、」
「………………オヤジかお前」
同じように焼き菓子を口に入れながら、たっぷり呆れた間を取ってから、グシュナサフが呟く。
「酒場の酔っぱらいと同じようなことを言うな」
「失礼な。素面(しらふ)です」
大まじめな顔で反論するふたりの会話を聞きながら、
「お菓子を上手に焼けると、いいお嫁さんになれるのですか」
不思議に思って、コロカントはたずねた。
「なれます。自分のところに来ますか」
「バラッドの、」
にこにこ勧誘しかける男に、やりませんよと向こうの方から女も牽制を投げかける。
「目に見える虎挟(とらばさ)みを、わざわざ踏み抜きに行くのをね、バカっていうんです」
「虎挟み。罠。自分がですか。それは大きな誤解です」
心外な声を出して、男が眉を上げる。
「罠なんてとんでもない。まあ、甘い落とし穴っていう意味では、あながち間違ってないですが」
「阿呆か。お前、阿呆か」
「優しくしますよ。好いた女性は大事にします。優しく、こう、真綿に包むようにですね、」
「……真綿で包んで、絞めるんだな」
「そうじゃないちょっと黙ってろ」
暖炉の火にあたり、こちらも眠そうな目になったグシュナサフが茶々を入れると、男はむっとなった。
そうして三人のやりとりを眺めていた彼女へあらためて顔を向けて、
「姫は、自分とグシュナサフ、嫁になるならどっちがいいですか」
そんなことを言う。
「バラッドと、グシュナサフですか、」
「……なんでそんなに究極の二択なんだ、……、……、」
どっちも厭に決まっているだろう。せめて若いのを連れてこい。うんざり、といった様子のグシュナサフの声を、バラッドは聞き流すことにしたらしい。
「にぎやかで会話が絶えない自分と、無愛想な無言人間と過ごすのじゃあ、結婚生活の充実さが段違いってもんです。悪いことは言わない、自分がお得ですよ」
「……バラッドが、」
「そうですよ。だって、悲惨ですよ。会話のない夫婦。テーブルをはさんで、こっち側と向こう側で、無言で飯を食うとか、これ、もう罰ゲームですよ。罰ゲーム。しかもこっちが話題見つけて話しかけたって、ああ、とか。うん、とか。そうか、とか。ものすごく短い返事しか返ってこないんですよ。むなしさの極致。孤独ですよ。自分はそんな孤独な気分を味わいながら、会うたび、こいつと食事しているんです」
「……お前の話題が、どうでもいいものばかりだからだろうが」
「こいつの、不言実行が信条、とか、聞くと格好いいですけどね。理想のいぶし銀、みたいな。ちょっと違うか。でも、つまりは、結果みるまで、なに考えているのか判らない夫ってことですよね。駄目ですね。事故物件です」
「……おい、」
「ね?自分がお買い得です。毎日にこにこ、笑顔の絶えない、明るい、家庭間違いなしです。楽しいですよ。歌います。毎晩、子守唄、歌いますよ。伴奏付きですよ」
「……そうですねぇ」
とうとう突っ込みを諦めたグシュナサフと、たたき売りでぐいぐい押してくるバラッドを交互に見比べていたコロカントは、でも、と首をひねった。
「でも、よわります」
「弱る……、なぜです」
「どちらかに決められません。だって、ふたりとも好きです」
「え、」
言うと、バラッドが鳩が豆鉄砲を食らった顔になり、それを見て、ほとほと呆れ顔だったグシュナサフが、飲みかけていた白湯を吹き出す。
吹き出し、この男にしては珍しく大声でげらげら笑った。
「ええ、……、」
「フラれたな色男」
「……えええええぇぇえー」
涙まで流して笑う同僚に、肘鉄ひとつ入れながら、バラッドが頭を抱えた。
「ひどいです。つれないですよぅ姫」
「ご、ごめんなさい」
心底情けない顔をしていた男へ、コロカントは思わず謝る。
「でも、本当にふたりとも好きなんですもの」
(そんなこともあったな)
膝をかかえて丸まりながら、彼女はくすくす声に出して笑った。
あのときの情けない顔はおかしかった。彼女は悪気なく本心を言っただけなのだけれど、それを受けた男が、あんな顔になるとは思わなかった。
(――今、だったら、わたしはなんて答えるのかな)
(――今だったら、)
(……今、?)
笑いながら次第に夢が手から離れて、コロカントは目を開いた。
目を開くと、まどろみはぱちんと消える。
そこは、幌馬車の中だ。
彼女の隣に女が寝息をたてており、すこし離れてグシュナサフが荷物にもたれ、眠っていた。
いつもと変わりばえのない、見慣れた、一日のはじまりの光景だ。
ゆっくり起き上がると、いま見ていた夢の名残りもはがれ落ちて、消えてしまう。
あとすこしだけ、夢と気づかず見ていたかったような、惜しい気持ちになりながら、コロカントはそっと寝具を抜け出した。
ぐっすり眠っているふたりを起こさないよう、簡単な身支度を整えて、目隠しの布をまくり、外へ出る。
コロカントとグシュナサフと女の三人が現在身を寄せる、旅芸人の隊商(キャラバン)の馬車のひとつだ。
幌付きの馬車は三つあった。ひとつは座長の家族。ひとつは芸人ども。最後のひとつがコロカントたちのものだ。
彼女たちを含め、総勢十七人の、中規模の一座である。
外へ出ると、座長の妻がすでに起きていて、煮炊きの支度をはじめていた。幌をくぐったコロカントに気がついておはよう、と声をかけてくる。
「あんたはいつも、朝早いね。もうちっと、寝ていたってかまわないんだよ」
話し方や気風(きっぷ)の良さが、オゥルに少し似ていると、こっそり彼女は思っている女だ。
「ありがとう。でも、目が覚めてしまったから」
「ああ、……なんだい。あれかい、いつもの夢でも見たのかい」
「そう。いつもの夢」
あてられて、コロカントは頷く。座長の妻はそんな彼女をちらと一度眺め、そうして鼻を鳴らした。
「まったく、本当に、ご執心なんだねぇ。若いねぇ。枯れたこっちにゃ、羨ましいくらいさ」
枯れた、と言いながら、座長との間には五人の子があり、夫妻がいまだに大熱々なのを、コロカントは知っている。曖昧にほほ笑んだ。
「……それはそうと、あんた、朝の散歩に出るなら、ちょっと頼まれておくれでないかい」
鍋の中をかき回しながら、女が言った。
「塩を切らしたんだ。帰りがけに二袋、持ってくるように頼んできておくれ。あと、出かけるのはいいが、朝めしに遅れるんじゃないよ。あんたの保護者がそわそわするからね」
「はい、」
頷いて答え、その場を離れる。声を聞きつけたのか、座長たちの幌馬車から、子供の顔がひとつふたつにゅっと突き出された。その腕白顔へ挨拶する彼女の背に、
「……でも、あれだねぇ」
しみじみとした女の声がした。
「あんたみたいな可愛い子ちゃんに、夢に見るほど一途に想われるったあ、その騎士さま、相当いい男なんだろうねぇ」
「ええ」
俯いてコロカントはそっと笑う。
「……わたしには勿体ない、とてもいいひとでした」
歩き出す。
歩きながら、自然とあの日を思い出していた。
*
あの日、バラッドは戻ってこなかった。
待ち合わせの港で、許されるぎりぎりの時間まで、彼女たちは男が戻るのを待った。戻らないと判っていたけれど、きっと戻るものだと信じてもいた。
……だって約束したでしょう?そう思う。指切りしたもの。迷子になるから、ずっと手をつないで、絶対に離さないって約束したもの。
もうひとりにしないって、言ったもの。
一度自分はその約束を破ってしまったから、だから、もう決して離れませんって、大まじめな顔をして言ったもの。
――時間です。もう待てない。行きましょう。
重く苦い声でグシュナサフが呟き、コロカントは頷いた。
泣きたかったし、喚きたかったし、駄々もこねたかったけれど、そのどれもうまくできなかった。草臥(くたび)れすぎていて、感情は平らだった。
しんとした気持ちをかかえて、促されるまま船に乗った。
頭が醒(さ)めているのに、体と気持ちは妙にふわふわとして、これが一体どういうことなのかも、彼女はよく判らなかった。
ただ甲板に立ち、もやい綱が解かれるのを見た。
港と舟をつなぐそれが、手早く解かれ、綱がだらりと海中に垂れたとき、唐突にやるせなくなって、そうして無性に悲しくなって、コロカントは身もだえた。
声をあげたかった。
それは例えば待って、だとか、いやだ、だとか、そういったたぐいのわがままだったと思う。だのに、実際のコロカントはぴくとも動かず、船の手すりを握りしめ、じっとしていただけだ。
晨(あさ)。
水平線からみるみる顔を出す太陽が、活気づいてゆく空気にふくまれた水滴が、白々とあたりを明るくして、燃えるように赤かった空の色を消してしまう。
いやだ。
雲に映えた赤色が薄れ、だいだい色が桃色になり、そうして淡い黄色になって、
いやだ。
朝焼けが消えてゆくことが、なんだか男が消えて行ってしまうように思えた。
――姫。
聞きたかった声が聞こえた気がして、弾かれたようにコロカントは顔を上げる。どこだろう。探した。たしかに聞こえたと思う。だのにそこには誰もいない。いるはずがない。
――姫。
不意に熱くなった瞼を、乱暴にごしごしと彼女は擦った。泣いてはいけない。そう誓ったばかりだった。……こんなところで。歯を食いしばって彼女はこらえる。
――泣かんでください。
よわる男の声がする。わかりました。大丈夫。わたしは泣きません。わたしが泣くとバラッドが心配するから、わたしは絶対に泣かないから、だから、
「姫、」
震える肩に毛布が掛けられ、ここは冷えますと押し殺し気味にグシュナサフが言った。
「船室へ行きましょう。行って、すこしお休みください。昨日からお休みになっておられない、」
「……ああ、……道、……、」
「え、」
コロカントは呟く。声につられて、グシュナサフも海へ目をやった。
水平線から登ってきた太陽から、真っ直ぐ、光の筋が海面へ投げかけられていて、それがまるで一本の太い道のように見えるのだ。
ああ、と彼女の背後でグシュナサフが嘆息した。同じように道を見止め、同じように何かを思い浮かべたのだ。……あの道を、誰が。
その声にふくまれた悲しみに、救われると彼女は思った。
*
威勢のいい声にコロカントは顔を上げる。
いつの間にか、港通りへ出ていたようだ。
あれから四年。
あのとき十一だった彼女は、十五になっていた。手も足もすっかり伸びて、一座の大人の女たちと丈は変わらない。
四年はそのまま、キャラバンに身を寄せて経った年月でもある。
一人前かどうか、自分では確証が持てないものの、大人たちに雑ざって、覚えた雑用もできるようになったし、一座が興行するときは、舞台でひと役担うようになった。
囚われの姫君の役である。
いろいろな意味で既視感がありすぎて、話を持ち掛けられたときに微妙な気分になったのは、きっとコロカントだけではなかったはずだ。
発案は座長だった。こちら側の大陸へ渡り、一座へ身を寄せるようになっても、相変わらず彼女を名前では呼ばず、姫と呼ぶグシュナサフの言から思いついたらしい。
――姫と呼ばれるだけあって、あんた、娘さん、品があるんだな。掃き溜めに鶴。まあこの場合、わしらが掃き溜めってことになるがね。
――なに、べつに出自がどうのとか、そういう話じゃねぇんだ。あんたらが何者だってわしらはかまわない。あんたらは困っていたわしらを助けてくれた。だから、わしらもあんたらを信用する。それだけの話だ。
――難しい役柄じゃねぇ。娘さん、あんた、その可愛い顔を、ちらっと窓からのぞかせてくれるだけでいいんだ。
舞台に設(しつ)えた板張りのてっぺんの小窓から顔を出し、騎士に扮した軽業師が演目を披露するのを、はらはら見守り、応援するのだ。
囚われの姫君が見守る中で、騎士は門番のドラゴンの目をかいくぐり、手下どもを蹴散らし、最上階まで助けにやって来る。
そうして騎士に、勝利の栄冠をかぶせたところで幕になる。
当初、コロカントが見世物になることに渋い顔をしていたグシュナサフも、……固いこと言うなよ。座長をはじめ、女にも、コロカントにすら諭され、いまはもう何も言わない。
――このまま、うちの若いのと所帯持ってね。もうずっと、いてくれたって、うちはかまわないんだよ。
そんなことを、最近酒の席でもちかけられるほどに、親しくなった。
芸人どもは八人。そのうち半数ほどが男だった。気さくな男たちで、彼らからも可愛がられている。
……結婚かあ。
漁から戻った漁船から魚が運び込まれ、待ち構えていた仲買人が値をつけ、買い上げてゆく。
海流が暖かなためか、あちらでは見られなかった配色の魚が揚げられている。目が覚めるほど鮮やかな赤や青色や、中には白の水玉模様の入る魚までいるのだ。
はじめてみたとき、冗談かと思った。何度見ても飽きない。
邪魔にならないように遠目から眺めながら、コロカントはふと考える。
自分もいつかは結婚するのだろうか。
よく判らなかった。
過去に縛られ、ずっと悲しみを引きずったまま、生きて行こうとは思わない。それは、彼が望んだものではないからだ。
コロカントは十五で、同じ年代の娘たちは、ぼちぼち、身をかためる準備をし始める。十四から十八あたりまでに、相手を見つけるのが大方だ。
……結婚、するのかしら。
首を傾げる。
好きなように生きていいんです。彼は何度もそう言った。姫が決めるんです。なんでもいい。やりたいことをやるんですよ。
けれど言われたとき、彼女はまだあまりにものを知らなかった。判断材料があまりに少なかった。
無知を痛感した。
だからこの四年、コロカントは必死になって勉強した。
無知に甘えてはいけないと思ったからだ。
グシュナサフから月々に渡される小遣いは、すべて図鑑や、辞典に換えた。一座の中で学識のある男に、時間の合間を見ては教えを乞い、星の読み方や、歴史を学んだ。
女どもから、暮らしの中で必要な知恵、たとえばそれは布の裁ちかただったり、熾火を消さずに朝まで残しておく方法、赤ん坊のあやしかた、食材の調理のしかたなどを教わった。
興行の際は率先して手伝った。ときに絡まれる酔っ払い客や、軟派もののあしらいを教えてくれたのは、娼婦のララだ。相手の機嫌を損ねずに諦めさせるやりかた、誤解のされないうまい返しかた、そうして、いざというときの身の守りかた。
勉強するさまざまな行動には道理があった。意味のないものはひとつもない。芋の皮の剥きかたひとつとっても、理屈があり、物事はそのことわり通りに変化してゆく。
そのすべてが驚きだった。
綿花が水を吸いあげるように、コロカントはぐんぐんと知識を吸収した。
知らなかったものを、ひとつずつ解明することは純粋に楽しかったけれど、それで満足してはいけないと思った。
くよくよすることはやめた。自分の笑顔が好きだと彼が言ったから、いつも笑っていようと決意した。
それでも、うまくいかないとき、落ち込むときはあったから、そんなときは歌を歌った。彼が手持ち無沙汰のときにつま弾いていた曲だった。優しい、穏やかな旋律(メロディ)。歌詞もおぼろげだったので、だいぶん後まで彼女は子守唄だと思っていたけれど、それは恋人を探し求める雅歌だ。
――さがしてもさがしても、わたしのひと、恋い慕うあのかたが見つかりません。
――夜ごと、臥所(ふしど)を抜けだし、求め、呼びさまよう。わたしのひと、あのかたはどこにいらっしゃるのでしょう。
「変わったね」
ララがあるとき、ぽつと言ったことがある。
「あんた、前よりずっと変わった」
「……それは、いい意味で、悪い意味で、」
綴じ糸がほつれるほど読み込んだ図鑑から顔を上げて、コロカントがたずねると、女は曖昧にほほ笑んだ。
「……、どっちかな」
強くなったと思うけれど。
続けた言葉に首を傾げる。強くなった。本当にそうかしら。
あっという間の四年だった。