それは、隊商(キャラバン)が驢馬(ろば)に息を入れるために、立ち寄った灌木の木立でのことだったのだ。

 旅芸人の一座は、定まった場所に住まない。町から町を訪れ、そこでいっとき芸を見せたあと、また次の町へ流れてゆく。つねに旅の空である。

 雲と似ている。

 コロカント、グシュナサフ、娼婦のララは、旅芸人の一座に身を寄せていた。

 時には馬車と馬をあずけ、一行が宿に泊まるということもあったけれど、年に一度か、二度の贅沢で、その他の宿泊は幌の中の暮らしだ。

三台の幌馬車が彼らの寝台であり、住居だった。

 

 先頭の一台は、座長とその妻、そうして十歳を頭に、四人の子どもが乗っている。笑い声か、泣き声(喧嘩で負けたものと、母にげんこつを食らったもの)の聞こえる、にぎやかな荷台だ。

 もう一台は、芸人どもが八人、ぎゅうぎゅうに体を寄せ合いながら、うまい具合に男女で別れ、乗り合っている。

 もう一台は、馬のハナが曳く、コロカントたちの車だ。先の二台に乗らない、興行に使う大道具や小道具、そうして煮炊きの道具などが積まれている。四十を超えたこの老いぼれ馬は、相変わらず矍鑠(かくしゃく)と元気だった。

 南の大陸では、生活の中で使われるのは驢馬(ろば)がほとんどで、一座の車も、驢馬に曳かせている。

 馬は珍しい。

 しかもハナは、その珍しい馬の中でも、さらに大型の品種であったので、町にはいるたびに好奇の視線にさらされる。なかには大げさに驚いて、これは本当に馬か、なにか別の血が入っているのじゃあないかと、聞いてくるものもある。

 ちょっとした珍獣あつかいだ。

 おとなしく賢いこの馬は、いくらじろじろ眺めまわされても、周囲に人だかりができても、どこ吹く風で、のっそりと立っていた。暴れないし、騒がない。一座の観客集めにもひと役買っている。

 

 ――ハナはえらいですねぇ。

 コロカントが感心すると、馬は得意げに鼻穴をぴくぴくと広げてみせる。

 ――重い荷物の乗った車を、動かすだけでも役に立っているのに、お客さんも集めるなんて、文字通り二馬力です。

 

 そのハナの引き綱を解き、水を飲ませてやろうとしたコロカントは、ふと木立の中に違和感をおぼえて、目をやった。

 ……なにかしら。

なにが気にかかったのだろう。烏か。いや違う。もっと下の方、うっそうと茂る下生えの中になにかがいる。

じっと探るコロカントの横で、馬が桶に頭を突っ込み、喉を鳴らして水を飲みはじめる。その馬をちらと眺めた。もし、危害を加える野生の獣だったら、この賢い馬は敏感に察して反応するはずだと思った。

……気のせいかな。

目を凝らしてもよく見えない。音はない。茂みが動く気配もない。

恐怖はなかった。なにより近くに一座の人間も、グシュナサフもいる。興味が勝って、彼女はゆっくりと下生えに近づき、

「あ」

 短く息を吸う。

 草に隠れるようにして、人間がひとり倒れていた。

 意識があるものと見え、足をとめたコロカントへ顔を上げて、それは焦点を合わせる。うすよごれた顔の中で、眼光だけがぎらぎらと鋭い。

「近――くな」

 罅割(ひびわ)れた唇から声を押し出し、それは彼女へ向けられる。

「近づくな」

 片手に握りしめた短刀が、鈍い色で光る。

 

 そこできっとコロカントは、金切り声でもあげればよかったのだ。

 

「あの、」

 けれど彼女が考えたことは、このひとはどうして倒れているんだろう、だとか、どこか怪我でもしているのだろうか、だとかいう、わりとズレた心配だった。

 そうして、一度怯えるタイミングをつかみ損ねると、うまく怖がることもできなくなるのだ。

 そもそも行き倒れた人間を見るのがはじめてだった。こういうとき、見て見ぬふりをすべきなのか、手を差し伸べてよいものなのか、これまで読んだ辞書には書かれていない。

「あの、」

何と声をかけたらよいのか迷っているうち、くるなと脅した相手が、ひとつふたつ、喉を鳴らし、それから背を丸めて咳き込みはじめた。乾いたうわすべりの咳だった。

苦しそうだと、思った。

……水を飲めば、すこしは楽になるかも。

手には、馬に注いだ残りがある。一座の様子をうかがうと、すこし離れた場所で、座長とグシュナサフが、ララをまじえて談笑していた。誰もまだこちらに気づいていない。いちいち声をかけて騒ぎだてるのも、ためらわれた。

「……お水いりますか」

水袋を手に、倒れた人間に近寄る。数歩進んで、男だなと気がついた。

若い男だ。

差しだすと、ひったくるようにして袋を奪われた。三分の一ほど残っていた袋は、たちまち空になる。

「ええと、……もっと?」

 いちどきに、ハナくらい飲んだんじゃないだろうか。そんなに飲むなんて。どれだけ渇いていたのだろう。

驚きながらたずねると、男が口をぬぐい、無言でうなずいた。そこで彼女は一旦車に戻り、手桶に張っていた水を手に戻る。

差し出すと、起きあがっていた男が、今度はゆっくりと時間をかけ、手桶を干した。干し終えると、唇をはなし、長い息をひとつ吐く。

じろじろ男を眺めていたコロカントは、手桶を突き返すその頬が、痩せているというよりはこけていることに気がつく。これだけ渇いていたのだから、ひょっとして、ろくろく食べ物も口にしていないのではないか。そう思った。

「あの……、ご飯も、食べますか?」

 おずおずとコロカントがたずねると、一瞬いぶかしむように目をすがめ、男は彼女をじっと見る。頭も、目も、真っ黒だな。見返して彼女は思った。

 しかし、さすがに見ず知らずの男に食べさせるとなると、一座の誰かに声をかけた方がよさそうだ。青年が立てるなら、彼を座長のところに連れて行くのがきっといい。

「た――」

 立てますか。

 たずねかけたコロカントの背後から、不意に唸り声が上がった。威嚇(いかく)だった。人が発したとは思えない声だった。獣かと思い、弾かれるように彼女は振り向く。

 

 ひとまたぎで接近できる距離に、グシュナサフが立っていた。おそろしくけわしい顔で、腰の剣に手をやり、低く構えている。

 今の声は、彼が発したものだ。

 いましがた、小さく頷きながらのどかに歓談していた男と、同一人物だとは思えなかった。ぜんたい、悪霊でもとりついたのかと不安になるほどの、変貌ぶりだった。グシュナサフがここまで恐ろしい顔になったのを、彼女は初めて目にした。

 その殺気に反応し、息をのんで硬直したコロカントの後ろで、青年が素早く立ち上がる。そうしておもむろに腕を伸ばし、彼女は彼に引き寄せられた。抵抗する間もなかった。

引きずられ、胸元に抱きとめられて、

 

「――うごくな」

 

 喉元には刃。

「剣を捨てろ」

 青年はグシュナサフに言い放つ。

 

 言われたグシュナサフは、相変わらず鋭い目で、品定めするように青年を見た。剣から手を離さない。

物騒な動きに、それまで緊迫した空気に気付いていなかった他の一座のものたちが、はっとこちらを見やるのが判った。

 たちまちあたりも殺気立ち、

「姫ちゃん、!」

 手に手に得物を持ち、コロカントは青年ごと一座の人間に囲まれる。

 緊張感がいや増した。息苦しいほどだ。

 グシュナサフが舌打ちをする。

 

「その子に、何かしてみろ。ブッ殺すぞ」

 

 ドスのきいた声で座長が言った。

「……剣を捨てろ」

無感情に青年はくり返す。

「まって、」

引き寄せられ、密着していたコロカントは、人質をとり、脅迫しているはずの彼が、必死に震えを抑えていることに気づいた。それは、緊張や恐怖の震えではない。飢えて力が入らないのだ。

「……まって、」

震えに気付いた瞬間たまらなくなって、彼女は一座のものを止めようと、身もがいた。……このひとはたぶん悪いひとじゃない。

もがくはずみに足が一歩前に進んで、喉元にあてた刃が食い込み、皮膚がこすれる。首の皮は薄い。すぐにぶっつり切れてしまう。

そうして皮膚の下は太い血管だ。

「ば、」

 ぎょっとなった青年が、一瞬刃を引くそぶりを見せた。

「ばか、この、――!」

 喉元に短刀を突きつけられてるのに、動くばかがあるか。死にたいのか。吐き棄てる口調に物怖じせず、コロカントは彼の腕にそっと触れる。

 

「乱暴はだめです」

 

 言い聞かせるようにコロカントは言った。

 肩を掴んだ青年の痛いほどの指の力が、かなしいと思った。

「グシュナサフ。最初から剣を突きつけたら、相手だって突きつけ返すしかなくなります。乱暴はいけません。引いてください」

「……姫、」

「お願いです。このひとは、くたびれてお腹が空いているだけ。ひどいことはいやです」

 切っ先を制され、懇願されて、グシュナサフの目に一瞬迷いが生じる。青年の出方と、おのれの身の振り方を、すこし先まで想像したのだろう。

「グシュナサフ」

「……、わかりました」

 彼女の言を受け入れ、グシュナサフが剣から手を離し、だらりと構えを解く。同じくして、青年がコロカントを突き飛ばした。

「え、」

 よろめきながら、驚いて振り返る彼女の目に、ぼとん、と無造作に手放される短刀がうつる。

 

「いいさ」

 青年は言った。投げやりな口調だった。

 実際、コロカントが動いた瞬間に、駆け引きの勝ち負けは決まっていたのだ。

青年が、仮に本気でコロカントを人質にとるなら、押し当てた刃が喉に食い込み血がしぶこうと、引いてはいけない。引いたということは、彼が本気で彼女を傷つけようと思っていないということで、傷つける気のない脅しは、脅しとして使えない。

青年は理解していた。

青年が脅せないということを、グシュナサフが理解しているということを、理解していた。

「姫ちゃん、」

 女に受けとめられ、よかった、無事だった。ぎゅっと抱きしめられた彼女の耳に、

「いいさ。好きにしな」

 諦めと虚ろの混じった声が聞こえた。

 

 *

 

「殺すなら、さっさと殺せ」

 無人の幌馬車の一隅に、荷物と共に放り込まれた青年は、傍らへしゃがみ込み、後ろ手に縄を縛る男に言った。

「それともどこかに突きだすのか」

「殺すだの、突きだすだの、物騒だな」

 男がちいさく笑い、そうしてちらりと意味ありげな視線を彼に向ける。

「突きだされる心当たりがあるのか」

「さあ、」

 失笑で返す。

「小金稼ぎにはなるかもな」

 

「そうか。……ところでお前、ハブレストから来たな」

 

 縄を結び終えた男が不意にぼつりと呟き、その唐突で的確な指摘に、おのれの喉がひゅっと鳴ったのを、彼は自覚した。

「ハブレスト生粋の人間ではないようだが。見た目は北部の生まれに見える。だが、向こうの大陸から来た」

「……それは、」

 どうして。顔色が明らかに変わっていたのだろう。もう一度ちらと男が彼を見やり、

「刃」

 短くそう言った。

「刃……、」

 男の手に、彼が先ごろ放り出した短刀がある。

「鋼(はがね)」

 彼の視線を受けて、男がまた短く呟く。

「……あんた、鋼を見てどこの国か判るのか」

 まあ、だいたい。あいまいに頷いてかえす男に度肝を抜かれて、彼は口を閉じる。これはだめだ。観念した。捕まったと言っても、所詮は流れの芸人の集まり、折を見て逃げ出す機会もあるだろうとタカをくくっていたが、どうやら無理のようだ。

 この男には隙がない。

「じゃあ、早く殺せ」

 腹を決めてそう言うと、呆れた顔で見下ろされる。

「だから、どうしてそう極論なんだ」

 埒があかんな。やれやれと首を回し、そのまま彼に危害を加えるふうもなく離れてゆく。おい、と青年が呼びかけると、

「危害を加えるなと頼まれたんでな。しばらくそうしていろ」

 最後に言い残して、幌を出て行った。

 

 意図が判らない。

 足音はすぐに遠ざかり、彼はつながれた荷物へもたれる。つながれてしまってはどうしようもできないし、もともと、どうするつもりもあまりなかったのだ。

……それに、つながれることには慣れているしな。

 頬をゆがめてうつむいた。

 

 車外からは、肉と野菜の煮えるひどくよいにおいがして、生唾が湧き、くらくらとした。気がちがいそうなほど腹が減っていた。

だが、どうせ食えないのだ。捕らえた人間に食わせる飯はない。

腹を減らして力のない方が、管理も楽なのは判っていた。

しかたなく、目をつむる。この状況では、寝るしかないと思った。どうせなら嗅覚も遮断できればいい。こらえようにも、流れ込む煮炊きのにおいが、容赦なく神経をいらつかせる。

 

それでもしばらく気を飛ばしていたようだ。縛られているとはいえ、半月ぶりに人工物に囲まれた空間に落ち着き、体がゆるんだのかもしれない。

それとも、なるようになれと、腹をくくったせいか。

いつの間にか終わっていたらしい、食事の後の和やかな空気が、幌を通しても感じられた。いくつかの談笑の声、子供のはしゃぐ声。やることもなかったので、じっと耳を凝らし、人数をはかろうとした彼は、ふと顔を上げる。

幌が揺れる気配があった。そちらへ目をやる。

自分を縛ったあの男がまた来たのかと身構えるところへ、姿を現したのは、先だって短刀を突きつけた娘だった。

 

……お前。

何をしに来たのだろうと思った。

それから、あのときのあまりにも無頓着(むとんちゃく)な動きを思い出した。一瞬、喉をかき切ってしまったかと、本気で仰天したのだ。

場の流れとやらで、やむを得ずとっさに刃を突きつけたけれど、水を差しだしてくれた娘を、傷つけたくはなかった。

渇いていた。

ここ二、三日は、とにかく水がほしくてさまよっていたのだ。

これが、逃れてきた北の大陸なら、溶け切らない根雪もあったかもしれない。だがここは年中温暖な気候で、雪がないのだ。

雨でも降るか、うまい具合に川へあたればよかったが、そのどちらもない。

朦朧(もうろう)となって歩き続け、もう一歩も進めぬと倒れ、半日ばかり転がって、気が付くと彼女が近寄っていた。

――追手か。

最初に浮かんだのはそれだ。

娘がいったいどんな素性のどんな人間で、どうして自分に水を差しだしているのか、そんな考えが及んだのは、彼女から二杯目の水を受けとり、飲み終えたあとだ。

そんなことにも気づく余裕がないほど、切羽詰まっていた。なさけない。

 ……そういえば、姫だとか呼ばれていたな。

 そんなことを思い出す。

 旅芸人の一座だ。とすると、見世物の役柄だろうか。

だが、娘からグシュナサフと呼ばれていた男は、芸人には見えなかった。用心棒だろうか。どこかの貴族のおしのび、と言うやつかもしれない。

 そんなことを思っているうちに、娘は彼のすぐ近くまでやって来る。

 ……鬱陶(うっとう)しい。

 舌打ちをしたい気分だった。かまってくれるな。

 小さな角灯を片手に、もう片方に袋を持ち、彼女がこちらを窺う。

「……あっちに、」

 あっちに行け。

近づいたきり、じっとこちらを窺うので、いいかげん面倒になり、彼は唸るように口を開いた。ほうっておいてほしかった。

その声を制するように、しいぃ、と娘は指を唇に立ててみせる。声をたてるな。そういうことだろう。

 そうして、膨らんだ袋を彼女は指し示す。

「ごはん」

 ちいさく囁いた。

 そうして、先と同じ、これまた無防備に彼の傍らへ膝をつき、括りつけられた縄をしらべはじめる。

 解(ほど)こうとしたようだ。

 無理だろうなと思った。解けるはずがない。おとなの男の力で、がっちり締めていったのは判っていた。

 

「――おい」

 しばらくどうしたものか思案していたものの、むきになって結び目と格闘する彼女へ、いい加減面倒くさくなって、口をひらく。

腹に力が入らなかったので、抑えなくてもかすれ声になった。

「お前な。離れろ」

「なぜ、」

「あまり寄るな」

「なぜ、」

「……なぜって、」

 顔をしかめた。自分を質に取ろうとした人間に、なぜとくる。

「……あのな。俺がもし、えらく悪意を持った人間だったら、どうするんだ」

 荷物へ手首を括りつけられているとは言え、男は足まで結んでいかなかった。絡め取ろうとする意志があれば、娘ひとりぐらいどうとでもなる。そう言ってやる。

「縊(くび)り殺されるかもしれないんだぜ」

「……、でも」

「わかったら、離れろ」

「でも、」

 薄暗い明かりに照らされて、彼女がしゅんとする。急にうなだれた様子に、なぜか青年の方が慌てた。

「でも、こんなのってないです」

 うつむいた顔が、泣いてはいないかとひやひやする。ああ畜生。心の中で罵った。

しばられているのはこっちで、泣きたいのもこっちのほうだ。そう思う。それからここから去ってゆく際、危害を加えるなと頼まれた、とぼやいた男の顔を思い出した。

こうして頼まれたわけである。

「おい。……おい!」

 ひそめた声で叱る。面倒だからしょぼくれるな。

「メシ持ってきたんだろう」

「……はい」

「食わせてくれ」

 言うと、またぱっと表情を明るくした娘が、泣いたカラスもどこへやら、いそいそと袋の口を開ける。……面白いぐらい表情のかわるやつだな。そう思った。

 

差しだされたのは、パンと、すこしの野菜と干し肉だ。

「どうぞ」

 器用にナイフを使って娘がパンを切り、野菜と肉を上に乗せてはさみ、そのあとどうするのかとみていた彼の口元へ差し出した。

 後ろ手に縛られていて、縄が解けない以上、そうして食べるよりほかない。

 見ず知らずの娘から、赤ん坊のように食べさせてもらうというのも、気恥ずかしかったが、他に方法はなさそうだ。そうして、においが鼻に届いたときから、頭の中は目の前の食べ物を腹に入れることでいっぱいになった。

 あぐ、と大口を開けると、娘がパンを差し入れる。それを噛み切り、咀嚼(そしゃく)する。

舌鼓(したづつみ)、という言葉があるが、なるほどこれは勝手に舌が打ってしまうものらしい。なるべくみっともない姿を見せないように、と考えていたのは最初のひとくちふたくちで、あとはむさぼるように彼は食いついていた。

 がつがつと食い、水を差しだされ、それも飲み干す。

 気付くとすべて平らげて、袋をのぞきこんでいた娘に、まだいりますかと聞かれていた。

 

「……いや、いい。じゅうぶんだ」

 首を振り、そこではじめて、

「うまかった」

娘の顔を真正面から見た。ひとごこちつくと、すこし余裕が生まれ、彼女と話してもよい気分になっていた。

「半月ぶりのまともなメシだった。うまかった」

「……半月ぶり、……、」

「あんたには二度、すくわれたな」

 言葉をくり返す娘に、ありがとう。彼は頭を下げる。

「……わたしは、なにも、」

 礼を言われ、はにかんで俯く彼女を眺めながら、そう言えば名前もまだ聞いていないのだ。呼びかけようとして、彼は気付いた。

「ブランシェだ」

「え、?」

「俺の名だ。ブランシェという。……お前は?」

 彼が名乗ると、眉を上げて怪訝な顔をしていた娘は、名前、と呟いたあとに、コロカント、とこたえた。

「コロカント、」

「はい」

「よい名だな」

「そうですか」

 言われて娘は嬉しそうな顔になる。その顔を眺めながら、……コロカント、ブランシェは口中で名前をくり返した。どこかで聞いたような気がしたからだ。

 

そのまま立ち去るかと思ったコロカントは、若干迷うそぶりを見せた。なにかまだ話したいことがあるらしい。なんだ、と聞いてやると、

「その、……。すこし、お話してもいいですか」

 神妙な顔になる。

「あなたは、ハブレストの人間に思えると、さっきグシュナサフから聞きました」

「……、」

 ハブレスト。聞きたくもない領国の名を出されて、彼は身構える。……やはり男の差し金か。メシを食わせ、油断させてから、真意を探り出して来いとでも言われたのだろうか。

 だが、続けて彼女がたずねたことは、まるで肩すかしの、拍子抜けする問いだった。

「わたしは昔、ハブレストの近くに住んでいました。それから、領内を通って、農村や、街道の風景を見たこともあります。でも、領主さまが住んでいる館の形や色や、その町のひとたちの様子、どんな特産品があるか、そんなことはまるで知らないのです」

「近くに住んでいた、」

「そうですね。……、……住んでいた、と言っていいかと思います。外出はしませんでしたが」

「都も見てないのか」

「ないです」

 コロカントが首を振る。

 ……ああ、でも、それもしようのないことかもしれないな。彼は思う。

 これがまだ国交の正常な時分なら、行き来も楽にできるだろうが、十二年前、ハブレストがミランシア領との協定を覆し、侵攻してから、周辺との領境は険悪な雰囲気だ。

 滅ぼしたとはいえ、旧ミランシアの残党との小競り合いが絶えないし、隙を見せれば隣国セイゼル領が牙をむいてくる。

 領内の反乱分子もきな臭い。

 畑でとれた野菜を市場に売りに行くならともかく、子供連れで暢気(のんき)に旅ができる情勢では決してない。

 

 ……子供?

 ふとなにかが引っかかって、彼はあらためて目の前の娘を、まじまじ見直した。自分よりいくつか年下の、おそらく十四、五の娘。

 ……コロカントと言ったな。

 十二年前、ミランシア領主の館を陥落(お)とした際、たったひとり、末の娘の行方が、結局、はっきりとは判らなかったと聞いている。

 ミランシア領内にいた当時三つの子どもらが、見せしめに百以上、槍玉にあげられたとのちに伝え聞いて、なんてむごいことをと、彼は眉をひそめたのだ。

 目の前の、腕の立つ男から、姫と呼ばれる娘。

 ――行方知れずの末娘の名は、コロカントといったような、

 

「……お前……、ひょっとして、ミランシアの生きのこり……か?」

 

 しまったなと思うより先に、疑問が思わず口をついてでた。はずみだ。

 たずねた娘に驚きはなかった。

肯定も否定もせず、ただすこし困った顔をした。角灯の明かりに照らされ、ぶどう色の目の色合いが不思議にゆらいで、じっと彼の視線を受ける。

数呼吸、そのまま無言が流れて、

「ああ、……いや、すまない」

 そんなことはどうでもいいんだ。

 急いで彼は打ち消した。いまそれを聞くことで、娘から不審を抱かれるのが厭だった。

「悪い。べつに、お前がなんだって、俺にはどうでもいい話だった」

 すくなくとも彼は、水と食糧をあたえてくれた彼女を、困らせるつもりはなかったのだ。だったから、

 

「ハブレストの都はな。真ん中に領主の館がしつらえてあって、半円で囲むようにして、貴族どもの館がある。特産品ははちみつ酒と軍馬。軍馬は質がいいとかで、結構な数を、あのエスタッド皇国にも納めてるって話だ。ええと、それから、」

 自分のことを話すのならば、彼女は困った顔にはならないだろう。親切にしてくれた彼女を、先のような明るい表情にしたいと思った。ブランシェは続ける。

「年に二回、春と秋に祭りがあって、そのとき大通りは、領の色だとかいう、黄色い花……、名前は、ちょっと忘れたが、とにかく黄色い花で埋め尽くされる。特産品のはちみつ酒の飲み放題、大盤振る舞いなんかをしてな。酔っ払いがあちこちに転がっている」

 俺はそれを、窓から見ていたよ。

 言いながら見やると、コロカントが、こちらを見てわくわくした瞳になっていた。……本当にころころ表情が変わるやつだな。

ほっとする。

「ブランシェさんも、酔っ払いましたか」

「いや。俺も、酒をかっくらって、一度は転がってみたかったんだけどな。……俺にはひとりで出歩く自由がなくて、……、見物一辺倒だった」

「……自由」

 怪訝な顔になる彼女に、彼はうすく笑ってこたえる。

「実を言うと、俺も、お前とたいして変わりない身の上なんだ。俺は、生国からハブレストに差しだされた人質なんでね」

「……人質……、」

 うん、と彼は肩をすくめた。

「生まれはずっと北の方だ。寒いだけのちっぽけな国だった。貧しくてな。貧しすぎて、差し出すものが他にないから、親父はガキだけたくさんこしらえてて、あちこちの国へ差し出したのさ。俺はその二十三番目で……、下にもまだ、生まれたかもしれないが」

「二十三……」

 指を折って数えていた彼女が、ちいさく驚いている。それはそうだろう。

「大家族です、」

「多いなんてもんじゃない。側室含めて十人だ。入れ代わり立ち替わり、ぽこぽこ生まれるもんだから、名前なんて覚えきれないんだ。上の方のやつらは、俺が生まれる前に国を出されていたしな」

「ブランシェさんのお父上は、頑張られたんですねぇ」

「……そうだな、まあ、励んだんだろうな」

 しみじみと感心する声に、思わず素の笑いが漏れた。

 

 領主の館を囲む貴族どもに引き取られ、ハブレストの都で長いあいだ過ごした。食客と言えば聞こえはいいが、つまりはもてあまし気味のただ飯ぐらいで、あちらこちらの屋敷にたらい回しにうつされた。

監禁されていたわけではないから、許可さえ得られれば外出もできたけれど、その外出も、監視付きの、決まった範囲に限られた。

 八度目のたらい回しのときだった。

その押し付けられた何某(なにがし)、の所領地とやらにうつされる途中、野盗が馬車を襲ったのだ。

貴族の荷車であったから、金目の物でも運んでいると勘違いしたのだろう。

皮肉だなと思った。彼は、自分のいのちの重みが、砂金片手ひと掬いよりも軽いことを知っていた。

投げ出された車から、林の灌木に這うようにして逃れ、そこから川を下り、海へ出た。

港に停泊する商船に、夜半、しのび込んでその荷物の木箱に潜り込んだ。

なぜ逃げようと思ったのか、自分でもよく判らなかった。判らないまま、無我夢中で海を渡った。

 

その自分がここでこうして笑っている。悪い夢でも見ているのではないかと思った。

それともよい夢だろうか。

「帰ろうと思ったんですね」

 ぽつんと娘が呟く。

「……ハブレストへ?」

「いいえ、ブランシェさんが生まれたところへ」

 誰がハブレストに戻りたいと思うか。皮肉に頬をゆがめかけたところで、彼女のまっすぐな問いにのまれ、そのまま青年は無表情になる。

「今更……、帰っても、」

 ものごころつく前から質に出され、十人の側室のどれが母親なのかさえ知らない。

上にいるはずの二十二の兄弟が、どの国へ出されたのか、生死さえ判らない。

「むずかしいことはわかりませんが」

 のまれた彼の瞳をじっと見返して、コロカントが考えるふうにして言葉をえらぶ。

「わたしだったら、知っている人のいる場所へ、帰りたいと思うから」

 どうかな。

 不意に幌の合間から風が吹きこんだ。風に揺らされて角灯のあかりが揺れる。

 それを合図にして、ブランシェはようやく彼女から目を離した。

「どうかな。――もうよく判らないが」

 

 

 

最終更新:2019年07月14日 23:56