のんびりと反芻する牛の乳を搾り終え、それからブラシで毛を梳いてやり、飼い葉桶に青草を入れるころには、ひと汗かいていた。
コロカントが汗を拭いながらふと振り返ると、すぐ後ろにはブランシェと名乗った青年がいて、彼女と牛を見るともなしに眺めている。
振り返った彼女の顔に目を止めると、おい、だとか小さく呟いて手を伸ばす。なにをするのか、大人しくされるがままにしていると、伸ばした袖口で頬を拭われた。乳がはねていたものらしい。
そうして青年は、泡立ち、もったり揺れる乳缶を持ち上げた。納屋まで運んでくれるようだ。
重いものを運ぶ青年の歩調に合わせながら、コロカントは彼と並んで歩く。夕餉のにおいが、軒を借りる農家からただよってきて、嗅いだとたんにふたりともに腹が鳴った。
ちら、と相手をうかがい、ばつの悪い思いで、お互いにやにやする。
青年を林で見つけてもう十日ほど経つ。
当初かたく縛(いまし)められていた彼は、縄を解かれ、こうして彼女の仕事を眺めるようになっていた。
彼の処遇については、もちろん、ひと悶着あったのだ。解放することに難色を示したのは、当然グシュナサフと、それから意外にも座長だった。
あんたがどう思ってるかはわからんがね、四年も一緒に暮らしてりゃあ、俺にとっちゃ、もうあんたは娘みたいなもんなんだよ。
座長は言った。
その娘のあんたに、こいつは人殺しの道具を突きつけたんだ。許せるもんじゃねぇ。
俺には、あなたの身の安全を守る責任が、ふたり分あると思っています。
グシュナサフも言った。
あなたが、わざわざオオカミの口に手を突っ込むのを、黙って見ているわけにはいかないんですよ。
二人の男は、渋い顔をしてうんと頷かなかった。
どうせろくでもないやつにちがいないんだ、なぁにそうそう人間死ぬこたぁない、メシも食わせず、次の町に着いたらお役人に引き渡しちまえ。
ひとに手を差し伸べるやさしさは、尊いものです。ですが、やさしさと優柔不断さは、似て非なると思います。
コロカントは聞き分けなく、丸二日駄々をこねた。うまれてはじめてだった。
甘いことを言っているのは理解していた。ふたりの言い分もわかる。
ただ、どこか似たような境遇の青年を、見捨てておけなかったのだ。
いままで、こんなふうに駄々をこねたことはなかった。お願いだから彼を解放してやってほしいと泣きついて、座長もグシュナサフも首を縦に振らないので、根くらべとばかり幌に乗りあがり、縛られた青年の隣に座り込んで籠城した。
だったら、わたしも何も食べません。お水もいりません。
バカなことをしているのは判っていた。けれどそのまま役人に突きだすことは、やはりしたくなかった。
膝をかかえ、じっと動かない彼女に、二日目の昼に座長が先に折れ、夜にグシュナサフがとうとう降参した。
わかりました。男どもは言った。
わかったから、たのむから、もうそんなことせんでください。
許しを得て、青年は結わえられていた荷物から解放された。ただし、かわりに、興行の際に使う手枷(てかせ)をはめることにする、と告げられた。
筋肉自慢の大男芸人が、観客の前でねじ切り壊す木製の枷だ。
つなぐ縄にはかなりの余裕があったので、日常生活の動作は可能だが、枷は枷だ。
お前はまだ信用ならない。男どもの目が青年にそう言っていた。
その枷にも抗議しようとしたコロカントをなだめたのは、意外にも青年自身だった。
「別にかまわない」
彼は言った。
「俺はこれでも十分だよ」
「でも、」
繋がれなれていると彼は言った。質先をたらい回されて、もっとずっとひどい環境だったこともある、このぐらいたいしたことはない。
彼が良いというのなら、いいのかもしれない。でもやっぱり、おかしいような気もする。
おかしいと思う自分が、どこか間違っているのだろうか。よくよく考えてもわからなかった。
「お前、どうせ暇なら、姫ちゃんに付いて回って、仕事覚えろ」
ただ飯食らわせるつもりはねぇぞ。やつあたり気味に座長からがなられ、そうかと青年は頷き、そうして以降、彼女に付いて回るようになった。
話しかければ答えるが、あまり無駄口をたたく性質(たち)ではないようで、考えていることはよく判らない。退屈しているふうではなかったから、これで良いのかもしれない。
「……参った。姫が懐(なつ)くとは思わなかった」
コロカントが聞こえないところで、グシュナサフが頭を掻き、ボヤいたそのとき、
「つくづく判ってないのねぇ」
呆れた顔で、娼婦のララが返したことも、もちろん彼女は知らない。
「姫ちゃんが懐いたんじゃないよ。男の方が懐いたのさ」
まあ、あの子は悪いことするようにはあんまり思えないよ。疑りの目を向けるグシュナサフよりも、女は態度も言葉もやわらかだ。
「姫ちゃんを信じて、しばらくほうっておいても、大丈夫じゃないかな」
「……女の勘か」
「まあ、そうね」
「ふむ」
あんたがそう言うなら、そうかもしれんな。言ってグシュナサフは納得したようだ。
「ひとつ、聞いてもいいか」
次の日も、早くに目が覚め、朝もやの漂う中をそっと抜け出した彼女に、同じように目覚め、従うように付いてきた青年がしばらくして声をかけた。
「なんでしょう」
「お前は、朝いつも早いな」
軒を借りた農家は、牧場主だった。牧場の木柵に寄りかかり、空を眺める彼女へ、
「何を待つ」
彼の側から話を切り出すのは珍しい。だったから、仰いでいた目を、ゆっくりコロカントは彼へ向ける。
「待っているように見えますか」
「そうだな。……朝は、あまり元気がないように見える」
「……、」
そうですか。
ぱっぱと勢いよく前掛けのほこりを払い、いけませんねとコロカントは笑ってみせる。
「なにもないです。なにも心配なんて、」
「本当に?」
「……、」
二度問われて、彼女は口をつぐんでうつむいた。靴の先で土を蹴る。
「俺は、ハブレストに差し出された人質だと言っただろう」
黙ったコロカントへ、なにか思うところがあったのか、青年がぼつ、と続けた。
「ハブレストには、俺の他にも……、別の国から差し出された人質が何人もいたんだ。とくに、交流らしい交流もなかったし、互いにしようとも思わなかったが、まあ、似たような待遇だったんで、同じ屋敷で顔を合わせることがあった」
「……、」
「そいつらがな、よく空を見ていた。ちょうどお前みたいに」
「――、」
しばらく黙ったあとに、彼女はブランシェさん、とちいさく彼の名を呼んだ。
「これは、なんというか、ひとりごとの愚痴みたいなものなんです」
「うん、」
「ときどき――、夢を見るんです」
「うん、」
「悪い夢ではないのよ。昔、小さかった頃の、……楽しかったころの夢を見るの」
「うん、」
「わたしがまだ、とても小さかったころの……、本当に、なんでもない、ごくごく日常のできごとばかりなんです。初めて手拭いを一枚縫い上げただとか。初めて木苺のジャムを作っただとか。……そのときは全然気づかなかったけれど、今思うと、わたしはとても大事にされていたんだなって、思うことばかりの夢なんです。胸があったかくなる、幸せだった昔の思い出です。だから、本当だったら、目が覚めても、いい夢だったな、大事にされてありがたいな、そう思って終わるはずなのに、見たあとのわたしは、どう言うわけか、後悔ばかりするの」
「……後悔、」
「そう。もっとああ言えばよかった、とか。こうしていればよかった、とか。夢の中のわたしは、四つや五つで、悔しいくらいもの知らずです。まっすぐに本音を言わない、あのひとの言っていることが、よく判っていなかった。……、……、今、判っているのかと言われると、それも自信がないですが」
「……お前が暇を見つけては勉強しているのも、」
「そうですね」
こたえて彼女は少し笑う。
「すこしでも、判りたいからかもしれません。……ブランシェさん」
「うん、」
「昔、わたしに、好きに生きてくださいと言ったひとがいたんです。しがらみとか、建前とか、全部なしにして、わたしがしたいことをしてくださいと、言ってくれたひとがいました。わたしは、それにもうまく答えることができなくて、その時そのひとは、結局うやむやにしてしまったのだけれど」
「……そいつを、待っている」
じっと彼女を見ていた青年が、ぼそ、と呟いたが、
「さあ。……どうでしょう」
曖昧に笑って、コロカントは言葉をごまかした。
「だって。待ち合わせ場所も、時間も、なにも決めていないんですよ。どこにいるのか……、なにをしているのか、……、無事でいるのかすら、お互いに知らない。この世の中で、たったひとり探し出すなんて、できるとか、できないとか言う前に、不可能だと思います」
「不可能だと思うか」
「……だって、」
「無理だと思うか」
「……、」
無理でしょう。言いかけた言葉が、しゅんと尻すぼみになる。
無理だというのは判っていた。この世界にいったい何人の人間が住んでいるのだろう。想像もつかない。目隠しして、手探りのまま、砂漠の中から、ひと粒の砂を見つけるようなものだ。できっこない。わかっている。
そもそも彼が、海を渡っているということすら、確かめようがないのだった。打つ手がない。
……それでも、
「――会いたい」
どうしたわけか、この四年、グシュナサフにもララにすら、言ったことのない本音がこぼれた。きっと彼が、コロカントからあまりにも無関係な人間だったからだろうと思う。
「無理だって判っているけど、でも、会って、……、会って、あのとき、判らないばかりでごまかしてしまった答えを、……わたしなりに考えた答えを、聞いてほしいと思います」
「……、」
こちらを探るように眺めていた青年が、ふと目を離し、服の隠しを探った。取り出したのは、折りたたまれた手巾だ。
「見るか」
「……これは、」
大事そうに掌の上で手巾を開くのへ、のぞき込んでコロカントは首を傾げる。
広げた上には、いくつかの乾燥した黒い粒が乗っていた。
「なんだと思う」
「種……、のように見えますが」
「そうだな。種だ」
「……、」
言われてもう一度、まじまじと手巾の上の種を眺める。今この手巾をぱっと取り落として、そうして下にこぼしてしまったら、二度と元へ戻せないように思える、ちいさくて、なんの変哲もないものだ。
「……お前は今、無理だ無理だと言ったが、……俺にも、無理だけど、諦めきれないものがひとつあって」
のぞき込む彼女に、青年は言った。
「これな。俺の国から持たされた種なんだ」
「……ブランシェさんの、」
「俺の生まれた国は、国を離れる人間にこうして種を持たせて、道中の息災を祈るまじないがあるんだそうだ。無事に、国へ戻れますようにっていう」
青年は続ける。
「俺の場合、だれが持たせたのか知らないけどな。顔も知らない母親か、種馬じみた父か……。他の、二十二の上のやつらにも持たせたのかなとか……。人質に差し出すってのに、戻ってこられちゃあ、まずいだろうに」
「お守りなんですね」
「そうだな」
彼女の言葉に、青年は頷いた。それから不意に顔をあげ、コロカントの目をまっすぐ射貫くように見つめながら、
「ちなみに俺は、これを、国へ戻って蒔くつもりでいる」
そう言った。
「もちろん、戻るときは正面からの凱旋(がいせん)だ。こそこそネズミみたいにしのび込む真似はしない。……お前、こないだ俺に、帰りたいかって聞いただろう。帰りたいよ。帰りたいと思う。だけど俺は欲張りだから、ただ国へ戻るだけじゃあ、満足できないんだ」
望郷ではないんだよ。彼は言う。
「向こう側に戻って、……ハブレストでも、セイゼルでも、旧ミランシア一派でもいい。そのほか小国でも、……、……。有力貴族のひとりになんとか取り入って、後ろ盾になってもらって、力をつける。力をつけて地固めをして、今まで、無駄飯ぐらいの能無しだって莫迦にしてきたやつを見返してやる。そいつら全部従えて、そうしていつか、俺は、俺の国へ帰って、この種を蒔く」
言葉の過激さとは真反対に、彼の瞳は静かだ。
「無理だろうか」
「……、」
「判ってるよ。無理だ、できないと諦めるのが一番簡単なんだ。人質として、三度三度、出された飯を食い、衣服や女をあてがわれて、大人しく従順に、ハブレストの犬として一生を終える。それだって、かつかつの暮らしをしている貧民にくらべれば、相当恵まれた生活のはずなんだ。ハブレストという国が続いている限り、保証された人生だな」
だが俺はごめんこうむる。彼は首を振った。
「俺は諦めない。必ず国へ戻る。だから、お前も諦めるな」
「……どうして、」
どうしてそんなに大切なことを話して、そうして励ましてくれるのでしょう。コロカントは思わずたずねていた。彼が語ったものは、言ってみれば彼の根幹だ。
中途で消えたコロカントの言葉を、きちんと青年はとらえたらしい。。
「どうしてかな」
かすかに困って頬を掻き、笑った。
「俺はさ。……荷物にまぎれて港について、……、なんだって海を渡ろうだなんて思ったのか、どうしてこんなところをさまよっているのかもよく判らなくなって、とにかく腹が減って、喉が渇いて、もうだめだって何度も思ったんだ。俺はここで野垂れ死ぬんだって思った。厄介者扱いされて、たらいまわしにされてた俺にふさわしい、みじめな死に方だってな。こんなところで死ぬのかって思ったら、なんだか悔しかったけど、でも、こわくはなかった。ただ、死んだ体を、野犬に食い荒らされるのはごめんだなって思っていた。登れる木でもあったらよかったんだが、俺がへばったあたりには、手ごろな木もなくて」
そこにお前が来た。青年は言う。
「ああ終わったって。お前はきっと悲鳴を上げる。悲鳴をあげて、それを聞いた誰かが駆けつけて、俺は役人に突きだされるか、追い払われるか、とにかくろくでもない始末をされる。野垂れ死ぬのは怖くないと思ってたのに、いざ終わりが目の前に見えると、おかしなもんで急に怖くなった。でも体は動かなかったし、……、もう終わりだ、そう思った」
だのにまさか、水を勧められるとは思わなかったよ。青年がやけにおかしそうに笑ったので、つられてコロカントも頬をゆるめる。
「……水も、飯も、うまかった。あんなにうまいと思ったのは生まれて初めてだ」
「……、」
「お前はいいやつだ。それも、底抜けに、掛け値なしに、首に刃物を突き付けられてるのをうっかり忘れるような、大ばかの、いいやつなんだと思う。その大ばかのやつが、なんだかしょんぼりしてたから、だから、……、」
「ええぇー、それってつまり、つまり、無自覚の、つまり、ひとめナントカってやつ?……、落ち込んでるお前を、ほうっておけない、みたいな。やだ、若いわぁ。中(あ)てられるわぁ」
「……ララさん、」
並んで空を眺めていた背後から、急に声をかけられて、コロカントは驚き、ぱちぱちまじろぎしながら振り返る。
「おはようございます」
いつの間にか日が昇り、朝になっていた。すっかり靄は晴れて、いい天気だ。早々に放牧された牛たちが、思い思いの場所で青草を食んでいた。
すこし離れた場所から、朝の弱い女が、眠たげな目をしてこちらを見ている。
「おはよ。もうすぐごはんだから、呼びに来たのよ。姫ちゃんが出て行ったきり、帰りが遅いから、そわそわ落ち着きないやつが向こうにいてさ。もう、そわそわしすぎて、なんか、そわ死しそう。そわ死。見てるこっちまで落ち着かなくなるし。じゃあ自分で見てきたらって言っても、いや俺は、とか、踏み込むのは悪い、とかなんとか、面倒くさいったらありゃしない。……、ああ、お取り込み中だった?ごめんね」
「……いや、」
女の言ったお取り込み中、の意味が判らなくて、はてと首をひねるコロカントの横で、しかめっ面になった青年がちいさく首を振っていた。……お取り込み中?口中でくり返す。
やっぱり意味が判らない。
女はそんな彼女を見て、いいのよ。気だるげに笑って手を払った。
「いいの。姫ちゃんはそのニブさが売りなんだから、判らなくたっていいの。お願いだから、変わらず、そのままでいて頂戴(ちょうだい)ね」
「はい、……、……?」
怪訝に思いながら、とりあえず頷く彼女を一瞥(いちべつ)し、それはそうと、と女が青年へ目を流した。
「朝ごはんだから呼びに来たのも、そうなんだけどね。あとなんか、向こうで、そわ死しそうなやつが、あんたに用みたいよ。手伝ってほしいって」
「……俺に、?」
「そう。なんでも、次の町に続く街道が崩されてるとか、そういう穏やかでない話。土砂崩れじゃなくて、わざと崩したあとが見えるらしくて、どうやら、街道脇に棲みついた野盗どもの仕業なんじゃないかって。これは、昨日泊めてくれた、牧場のひとの談なんだけど」
「野盗、」
「うん。野盗。道を直すのは、このあたりのみなさん総出で作業するでしょ。でも、直そうにも、直してる最中、横を衝かれたら、まずいわけでしょ。また壊されても困るし。だからまず、そのならず者ども叩いちゃおうって」
「それに、俺を、」
「一応、町の方に、応援を頼んでるらしいんだけど、ほら、言ったって、お役所仕事なわけじゃない。腰が重いって相場が決まってる。待ってたっていつ来るかわかりゃしない。街道が使えなくて不自由するのは、結局ここいら近隣のみなさんだしね。あたしら一座も、次の興行町へ行くには、その道が直ってくれないと困るわけ。まあ、詳しくはあいつに聞いて頂戴」
「なるほど」
わかった。頷いて青年は、先に戻る、コロカントに言い置き、足早に戻っていった。あとには見送るコロカントと、女が残る。
「ごめんね。邪魔しちゃった?」
意味深な視線を含めて、女がまた言った。……邪魔。くり返してまたコロカントは首を傾げる。
「聞かれて困るような話はなにも、」
ああ、でももしかすると、自分はともかく、青年の話は、誰にでも話せる話ではないだろうから、聞かれて困ると言えるのかもしれない。言いかけて口ごもる彼女に、いくつだっけ、と女が呟いた。
「いくつ?」
「うん。彼。あんたより上でしょ」
「ええと、……、二十一、と言っていた気がします」
「そう。二十一。じゃあ、ちょうどお似合いだ」
「お似合い、……って、」
「彼が二十一。あんたが十五。並んでて、さまになってた」
「……ララさん、」
やめてください。小さく眉をひそめて、コロカントは女を睨んだ。お取り込み中、の意味を、そこでようやく理解する。
「そういうのじゃありません」
「あら。だって、まんざらでもないように見えるよ、彼の方は」
「違います」
むきになって否定すると、にやにや笑った女が、でもねぇ、と憂いをこめた口調で呟く。
「本当にお似合いだって、思ったの」
からかいの笑いとは対照的に、ひどく静かな声だった。
「それは、」
「ああ、別に、あたしは、あの彼とどうにかなんなさい、って意味でドヤしてるんじゃあないのよ。相性ってやつも、好みってやつもあるだろうし、彼、いろいろ抱えてそうだしね。あんたはまだ若いんだから、すぐにひとりに決めなくたっていいと、あたしは思うし」
「……、」
女の言わんとする意味が、言葉より早く理解できて、コロカントはさっと視線をずらした。聞きたくないと思う。面と向かって告げられるのはつらかった。
「あんたはまだ若い」
噛みふくめるように女は言う。
「ひとりに決めなくてもいい。言ってることは判るでしょう」
「……ララさん」
じっとこちらを眺める女の視線に耐え切れず、コロカントはゆるく首を振る。
「わたしは、」
「四年、あんたは待った。いまも待ってる。町へ入るたび、酒場に寄って……、たずね人の掲示板に、まっすぐ向かうってのを、あたしだけは知ってる。こうして、晴れの日の朝早く、あんたが外に出ていくのも、……朝焼けを見るためでしょう」
彼女の声を無理にさえぎって、女がかぶせた。
「あいつの色だ」
「――、」
言い当てられて、コロカントはうなだれる。姫ちゃん。その彼女を見て、女は言葉を継いだ。
「無事を信じて待つ。……それも、とても大切で素晴らしいことだと思うよ。でもあたしは、あんたに幸せになってもらいたいって思う。たった四年の付き合いだけどさ。座長があんたのこと、娘のように思ってるって言ってたけど、……、あたしにしてみたら、あんたは、年のものすごくはなれた妹みたいなもんだ。その可愛い妹分が、そうやって、いつまでも帰らない男を待って、ひとりに操(みさお)立てて、我慢して、我慢して、女の喜びを知らないまま、年食ってしわくちゃのババァになるってのは、ちょっともったいないと思うの」
しわくちゃのババァ。歯に衣着せぬ物言いに、おかしくなってコロカントがつい笑うと、つられて女も笑った。笑いながら……いやだねぇ。髪をかき上げ、深々ため息をついている。
「なんか、説教くさいわ。むかーーーしいた、売宿の、遣りてババァ思いだしちまった。……いやだねぇ。あのババァもこんな感じで、説教タレてたのかしら」
やだやだ、二の腕をさすりながらボヤいている。鳥肌が出たらしい。
しばらく腕をさすっていた女は、それから急に真顔になり、
「姫ちゃん」
コロカントを呼んだ。
「はい、」
「あのさ。あたし、大きな声出すけど、ひっくり返らないでね」
「はい、……、?」
「ここなら、大声で喚いたって、向こうの連中には聞こえないからさ」
言って女は、まだよく意味が呑み込めていない彼女の前で、すう、と深く息を吸い、
「バラッドオォオ!!!」
遠くの峰に向かって、腹の底から吠えた。大声に、近くにいたコロカントは耳がびりびりして、思わず顔をしかめる。
「とっとと姿を見せやがれこのあほんだらぁぁあ!!」
「……、ララさん」
「ああ、すっとした」
目を見張ると、ほら、あんたも、満足したふうな顔の女にうながされ、うながされるまま彼女は手を上にあげ、背伸びして
「おぉぉぅうい!」
空に向かって叫んだ。
わたしはここです、わたしはここです。
何度も何度も、見えない誰かが見つけてくれるように、おぅい、おぅいと大きく手を振る。
ほら、こんなに、思いっきり背伸びしても、痛くない。足は治ったんですよ。
どこまでも走れます。息が切れるまで踊ることもできます。
体も、大きくなりました。わたしはもう子供じゃあありません。
大きくなったわたしと、いつかの約束のように、一緒にお祭りを回ってくれますか。
「おぅい、」
会いたい。
喉がつぶれるほど声をあげていると、胸に突然、どうしようもなく熱いものがせりあがり、コロカントの視界がぼやけた。
――バラッド。
「姫ちゃん、」
女の声を聞きながら、口を覆う。
そうでないと嗚咽が漏れてしまいそうだったからだ。