「これで五人か」
ぶん、と手にした刀身を振り、血糊(ちのり)を飛ばしたグシュナサフが、袖口で汗を拭い、言った。
その男を見止めながら、青年はいつの間にか詰めていた息を吐きだす。吐き出すと同時に、全身の毛穴が開いて、汗が吹き出しはじめたのを自覚する。……ひどく緊張しているあいだは、汗も止まるものなのだな。すこし感心した。自分の体は、思ったよりも機能的なものらしい。
一座が寄宿する牧場から山ひとつ離れた山砦に、青年ブランシェはいた。
砦、と言っても堅固な建物ではすでになく、半分崩れた石のかたまりだ。その隙間に野盗どもは棲みついている。
「おい、」
息を吐いた彼に目をやった男が、たちまち鋭い目つきになり、
「後ろ、」
言うと同時に男の体が動き、青年を床に引きずり倒したかと思うと、鞘に手を伸ばし、小刀を引き抜いてまっすぐに投げる。くぐもった呻きが聞こえ、倒れ込みながら彼は背後を振り向いた。
喉元にぐっさり小刀を突き立てられたならず者が、血泡を吹きながら絶命する。
「気を緩めるな死ぬぞ」
「すまない」
突き立った小刀を引き抜き、軽く血をぬぐって鞘に納める男へ、青年は言葉を返す。しかしすまない、とあやまりながら、実際彼の頭にあったのは、いましがた男が納めた鞘の形の異様さだった。
腰に佩いていた時分は気にも留めなかったが、ちょうど膝をついた目の高さに男の剣の鞘がある。見れば三連の刀身がおさまる鞘である。男がいま手にしている、柄のない中ぶりの内反りの剣だけでも珍しいのに、鞘に納めた小刀、それと同じ形のものがあと一本入る、三連の鞘。
……なんだこれ。
正規の軍で使用するような、いわゆるまっすぐな騎士剣とはまるで異なる意匠で、青年が初めて目にする形だった。
……なんだこれ格好いいぞ。
こんな場合だというのに、思わず凝視してしまう。
その凝視に、うん、と訝し気になったグシュナサフが、彼から視線を辿って鞘へたどり着いた。
「……ああ、」
珍しいか。
子どもみたいな顔をしていたのかもしれない。彼を見た男が、わずかに頬をゆるめた。
「ハブレストあたりじゃあ、見かけないかもしれんな」
青年も、ひと通りの型は習っている。国交のための人質とはいえ、人質だからこそ、警護にそうそう人員を割けない、という理由で、週に四回、道場へ通った。
自分の身は自分で守れと言うことだ。
道場で習う際に使用する模擬剣は、刃渡り一尺(いっしゃく)ほどの直剣で、こんな内反りの剣は見たこともない。
よくよく見れば、鞘は、ひどく古びて使い込まれていた。丁寧に手入れされているあとがあちこちにある。
「……あんたの素性を教えてくれないか」
立ち上がりながらおのれの剣をあらためて持ち直し、彼は言った。
「俺には、腕の立つあんたが、ただの素浪人には思えない」
「ただの素浪人だ」
彼の言葉に、おかしそうに男がこたえる。
「昔の同僚は、俺のことを、傭兵あがりの騎士くずれと呼んだが」
「傭兵あがり」
「お前ほどの年齢の頃、俺は非正規雇いの傭兵だったからな。……だが、それだけだ。波乱万丈の華々しい武勇伝を期待されても、なにもないぞ」
そうか、頷いて彼はもう一度男を見やる。謙遜(けんそん)だと思った。
全身隙のない空気をまといながら、下手に気張ったり、力んだりするところを持たない。それは、男がうまい具合にこわばりを逃すすべを知っているからである。
刃物をふるうには、瞬間の強い緊張が必要だ。ぶった斬ってやる、という気迫といってもいい。包丁で芋を剥(む)くのとはわけが違う。
ただし、必要以上に気負うと、がちがちに体はこわばり、思った通りに動かない。
張りとゆるみのバランスが大事なのだ。
男は適度に気を張り、そうしてゆるめている。重心も常に低い。こういうのを、構えが成っているというのだろうなと、青年は思う。
一朝一夕の鍛錬で身に付くものではない。
男の生きざまが、そのまま構えになっているように思った。
「あんたみたいな人がいても、ミランシアは滅んだのか」
素直な感想を口にすると、男がすこし困った顔をした。照れたらしい。そうして、
「俺は特別な人間じゃない」
そう言った。
「ミランシアは、国だったからな」
「国」
「腕におぼえのある人間がいくらかいても、大勢に影響はない。――たとえば、腕の立つやつが五人いて、ひとりが二十、敵の首を上げたところで、三百の敵が一気に背後を衝いてくれば、まるで歯が立たない。負ける」
今と同じだ。続けて言う。
「野盗どもを始末するのも、俺ひとりではどうにもならん。相手は十からなる集団だ。一対一の状況をひたすらくり返せる、細くて長い通路でもあるならともかく、囲まれたらまずやられる。物語とはわけが違う。背中をあずける味方の人間……、せめてひとりは欲しい」
「でも、俺はそんなに強いわけじゃあない」
頼られても困る。青年は言い返す。
「あんたの後ろを守れるか、判らない」
「守れる」
男にはっきりと返されて、青年はしばらく言葉に詰まった。それから、……なぜ。心底不可解で、たずねる。
「俺は剣の腕はそうよくない。習いはしたが、大負けに負けて見積もったって、せいぜい中の下だと自分でも思う。だが、それでは、背中をあずけるのは不安じゃないのか」
「お前が役立たずなら、一座の人間は論外だ。……連中は、大道芸に秀でてはいても、刃傷沙汰にはなじみがない。おかしな具合にからむ酔っ払いは何度もたたき出したかもしらんが、武器を構えた人間と向かい合うのとはわけが違う。連れてきても役に立つかは疑わしい」
「でも、俺は、恩も義理もないが、ハブレストに関わる人間だ。それはあんたも判ってるんだろ。たとえば、……、コロカントをかどわかして手土産に持って帰り、そうして引き換えに金や地位を得る、だとか、そういうおそれがあるとは思わないのか」
「お前が」
男が彼に目を向けた。瞳の奥が笑っている。
「お前がクソみたいな人間なら、そうするだろうな」
「俺がクソでない根拠はどこにある」
こうしてあんたと二人きりで、後ろからぶっ刺して逃げるかもしれないんだぜ。言うと、……そうだな。男は考えるそぶりを見せた。その際もこちらに気をやりながら、別の場所にいる賊の気配もうかがっている。器用な男だと思った。
しばらくして、
「お前が今持っているその短刀、お前用に拵えたやつだろう」
そう言う。
「どうしてそう思う」
「長さだ。しっくり合っている。そのあたりで適当に買ったものだったり、ほかの誰かから奪ったりしたものなら、どうしても構えたときの長さが、ちぐはぐになる。それがない。そうして、前も言ったが、その鋼はハブレスト産のものだ。ということは、その剣はハブレストにいたお前が、鍛冶屋に赴いて尺骨の長さをきちんと図り、作らせたということが判る」
「……、」
淡々と語る男に度肝を抜かれて、青年は黙り込んだ。先ごろ、ただの流れの傭兵だと言ったが、「ただの」一介の傭兵が、相手の得物を見て、ここまで分析するものなのだろうか。それとも、傭兵というものは、相手の力量が知れるよう、分析の研究をするものなのだろうか。
「……あんた、鍛冶屋の息子か何かか」
たっぷり黙ったのちに、彼の口からでたのは、そんな言葉だった。
「いや」
男が首を振り、同時に腰を低く落とす。足音の振動を察知したのだ。
近いぞ、と目配せされて、彼も短刀をかまえた。
山砦に棲みついた野盗は、ちょうど十人だそうだ。叩きのめしたものがふたり。叩きのめされた仲間を見捨てて、逃げたのがふたり。絶命したのがひとり。
あと五人はどこかにいる計算になる。
意外と近くから、おおい、とだみ声が聞こえた。用足しに出た仲間が戻らないのを不審に思い、様子を見に来たらしい。
……壁の向こうにいる。
さっと走った緊張に、ぽんと後ろから肩を叩かれ、そうして彼は男がおおい、と同じようにだみ声で返すのを聞いた。
「おぉい。悪ぃが、ちっと来てくれ」
男は言った。そうしてゆっくりと彼から離れ、部屋の中央へ移動する。常より品のない、がさつな物言いだ。
「どうした?」
「いやあ、なんか、床がよ、……、」
「床?」
「うん、いや、ちょっと見てくれ。石が、あー、いや、これはキノコかな?」
「なに言ってるんだおめぇ、」
床、と言いながら隣室から戸口をくぐり抜けてきたひとりが、武器を構えたグシュナサフの姿を見て一瞬混乱し、硬直する。
その硬直の隙に、戸口横に潜んでいたブランシェは、振り上げた鞘ごとの短刀を、男の後頭部へ向けて思い切り叩き下ろしていた。
――殺してもいいが。
事前に男から説明されていたことを思い出したのだ。
――やむを得ない場合を除いて、できれば生け捕りだ。野盗どもには役人へ突きだす。頭数(あたまかず)で、褒賞金がでるらしいからな。
ごしゅ、と鈍い音を立てて、そのままならず者は昏倒した。
「うむ」
これであと四人、満足そうな顔をして頷く男へ、
「さっきの問いに答えてくれないか」
彼はしつこく食い下がった。
「さっきの」
「俺が、クソでない証拠」
「ああ、……、」
がりがりと男は頭を掻く。面倒くさそうな顔になっていた。
「……どこまで話したかな」
「剣が、俺の長さで作られたという話」
「ああ、」
つまりだ。頭を掻く手を止めて、男は言った。
「お前はその剣をハブレストで作った。作って、そうしておそらくずっと、肌身離さず持ち歩いている。持ち歩いていると、たとえ肉を斬って汚れなくても、刀身はくたびれる。手入れしないとならない」
「うん」
「俺の経験上、性根の腐ったやつって言うのはな。手入れをしないんだ。曇ったら、曇りっぱなしで平気な顔をして、そうしてこの剣は切れ味が悪い、だとかぬかしやがる。切れ味が鈍るのはな、剣じゃない。使う人間の問題だ。……そうして、お前のそれは、よく手入れされているから、だから、……、」
まあ、ひっくるめて、長年のカンだな。
面倒くさそう、から、はっきり面倒になったらしい男が、そうして話を締めた。
「休憩は終わりだ。あと四人。先へ進むぞ」
「……ああ、」
今の説明で納得したわけではないけれど、とにかく目の前の男の腕は確かだ。
そうして青年は腕の立つものを、正直に尊敬する。
背をあずける、先ごろ言った男の言葉を思い出し、すこし面はゆくなりながら、彼はグシュナサフの後に続いた。
数刻後、縄でがんじがらめに縛りつけた五人を引きたてて、グシュナサフと青年が戻ると、牧場の境の境あたりで数人、彼らを待っている姿があった。
そのうちの一人、はらはら待っていたらしいコロカントが、ふたりの顔を見つけてぱっと顔を輝かせる。
「グシュナサフ、ブランシェさん」
「ただいま戻りました」
慇懃に男は彼女に頭を下げ、そうして彼女の隣で待っていた牧場主にも同じように頭を下げた。
「五人か」
たいした腕だな。素直に感嘆した牧場主は、次いで頷き、横にいた牧夫に合図すると、心得顔の牧夫が、ならず者どもの縄を受け取る。
納屋の裏にでも転がしておくつもりなのだろう。
「町に使いを出す。お役人ども、街道の修復にはなかなか腰を上げんが、手柄になる話にゃ、押っ取り刀で駆けつけてくるだろうさ。……本当によくやってくれた。助かったよ。今夜は飲んで、食ってくれ」
ぽんぽんと親し気にふたりの肩を順繰りに叩き、そうして母屋へいざなう。ありがたく歓待を受ける気で、歩き出したグシュナサフをちら、と窺い、そうして青年は小さくおい、と男に並びながら囁いた。
「なんだ」
「牧場に戻ってきたけど、……いいのか、俺の」
「……お前の?」
「その、……、手の枷(かせ)。付けないのか。野盗退治に邪魔だからってあんたが取ったが、それも終わったことだし、」
「なんだ。付けたいのか」
返す男の口元が緩んでいる。縛られるのが趣味か?
「付けたいわけじゃない」
青年は顔をしかめる。
「付けたいわけじゃないが、……だけど、信用しきれないと言ってただろ」
「剣を構えた信用しきれない相手に、背中を見せるか?」
おかしそうに男が吹いた。
「枷はなしだ。疑って悪かった。お前は信用できる男だ。座長には俺から言っておく」
それより、言ってグシュナサフが青年へ顔を寄せる。
「頼みがあるんだが、お前、しばらく姫を見張っておいてくれ」
「……見張る?」
怪訝に思って彼が男を見返すと、ああ、とわりと弱り顔で男が頷いた。
「姫は何というか、……、育ちかな、悪意に鈍い。人を疑うことをしない方だ。流れで、野盗どもにおかしな肩入れをされても困る」
「……、」
「俺が目を光らせてもいいんだが、付いて回ると、なんだどうしたと聞かれるに決まってるし、お前なら、このところ姫に付いて回るのが当たり前になっているだろう。姫をやつらに近づけるな。よろしく頼む」
心当たりはあったので、青年は無言でうなずく。首元に刃を突き立てられて、無防備に動ける人間はあまりいないと思うからだ。
「なぁにぃ、男ふたりでなんのお話?」
にゅう、と二人のあいだに文字通り首を突っ込んできたのは、娼婦の女だ。
「ララ、」
「心配してた姫ちゃん置いてけぼりで、二人でこそこそ内緒のお話。やだわぁ、いやらしい」
「お前な」
女の言葉に呆れたように呟いて、グシュナサフが足を止める。振り向く青年に、すぐ合流するから、先に行っててくれと言い置いて、男は女の腕を掴むと、母屋へ向かう一団から離れて行った。
「ララさん、素直じゃないんですよ」
残されたのは、青年とコロカント、そうして牧場主と牧夫数人だ。
しかたなくコロカントと並んで歩くことにした青年は、その言葉に顔を上げる。
「心配してたのは、ララさんも一緒なんです。大人だから、わたしみたいにみっともなくおろおろしたりはしてなかったけれど」
「……お前、その指」
ふと目をやった彼女の指が、いくつも細く裂いた布を当てていることに気がついて、彼は思わず声をあげる。
見止められて、一瞬ぱっと後ろに隠しかけた彼女が、彼の無言の視線をたどり、しぶしぶ手をまた前へ戻した。
「切ったのか」
「たいしたことはないんです。本当に、小さな傷なの。ぼんやりしてたら、なんだか、ひっかけたりで。ララさんに、そわ死するわよって言われちゃいました。……いけませんね」
「見せてみろ」
「大丈夫です」
いやがる彼女の手を強引にとり、ブランシェはしげしげと傷をあらためる。本人の言うように、そこまで大きな傷ではないようだった。針で突いたのか、釘か何かに引っ掛けたのか、扉に挟んだか、包丁で切ったのか、とにかくそうした傷だ。
「お前、見た目より、案外そそっかしいな」
言っていて、どう言うわけか、不意におかしみが湧いてでて、青年はにやにやとした。相好を崩すだけではとどまらず、ついふふ、と声まで出る。
「ブランシェさん」
「すまん。なんか、のんきなお前を見てたら、力が抜けた。ああ、俺、丸一日、めちゃくちゃ怖くて、失敗しちゃだめだって緊張してたんだって、いま気づいた。……ようやく、無事で戻ってきたんだなって実感できた」
「それは、」
なんと言って返したらいいか、しばらく考える素振りがあり、そうして少し間をおいてから、
「……おかえりなさい?」
疑問符と共に、はてと首をひねった彼女へ、ただいま、と返して、青年はまた笑った。笑いながら、安心して出てきた涙を笑いにまぎれてそっと拭う。
牧場主による母屋での歓待は、農村らしい素朴なものではあったけれど、心づくしの料理がテーブルからあふれるほどに並べられ、野盗退治の報せを受けた近隣の地主も駆けつけて、やれ酒だるを二樽持ってきただの、まるまる太った豚を絞めてきたから、今から表で丸焼きをしようだの、甘瓜(あまうり)を木箱に山ともいできたから食ってくれだので、騒々しいほどにぎやかな歓待となった。
宴の当初は、ならず者どもを退治したグシュナサフとブランシェにむけて、口々に礼と感嘆が飛び交っていたが、そのうち、酒盛りと聞いてどさくさまぎれに芸人一味が乱入してくると、座の花はそちらへと移っていった。
なにしろ、注目を集めることには慣れている連中だ。
青年自身も、こう近くで見世物を見るのは初めてで、芸を眺め、心底から拍手を送った。
日々の練習のたまもの、と芸人はこともなげに口にするけれど、どこをどう鍛えれば、右手で四つの棍棒を投げ、左手でこちらも三つの輪を回して、その上、足で不安定な台の上に立って演技ができるものなのか、彼には理解できないと思う。
母屋の二階は吹き抜けであったので、ついには即席であちらこちらに数本縄が張られはじめた。
二階の手すりから、こちらも一味に、ほらあんたも参加しなと尻を叩かれたコロカントが、頭に花冠をかぶってにこにこと階下へ手を振る。すると、それを見た芸人どもが、大きいのも小さいのも、太いのも細いのも、我先に縄にとりつき、面白おかしく転げ落ちては笑いを誘った。
それを見て、俺ならできる、俺の方がきっとうまい、どら試しにやらせろと、酔っぱらった数人の農夫が名乗り出て果敢に縄にとりつくも、やはり登れるものはない。
しばらくして、もう誰も登れるものがない、助けに来るものが誰もないと泣き出す姫君に向かって、道化の中からすっくと立ちあがった騎士に扮したひとりの男が、張り巡らされた中でも一番細い縄にとりつき、うまい具合に左右にバランスを取りながら、支えもなしにすたすたと縄を上ってゆく。
手すりにたどり着き、ひらりと飛び越えた勇者へ、姫君は頭の花冠を外して掛けると、やんやの喝采となった。
「賑やかなもんだな」
ひと通りの見世物が終わり、酒豪同士の飲み比べが始まったあたりで、一旦熱気を醒ますために戸外に出た青年は、すこしむこうの母屋の壁沿いに、ひっそりと座るコロカントを見つけて近づき、声をかけた。
振り向いた彼女は膝に楽器を乗せていた。どうやらひとりでつま弾いていたらしい。
「……すまない、邪魔したか」
「いいえ」
わたしも中は暑くって、笑って返す彼女の頬が、月明かりでも上気して見える。月を反射したぶどう色の目がきらきらと光り、思わず見とれると、ひっく、と彼女がちいさくしゃくりあげた。
「それ、お前、」
「飲め、って言われて飲んでみたら、お酒だったみたい。おいしかったんですけど、ですけど、しゃっくりが止まらなくなりました」
いぶかしんだ彼に、ほろ酔い特有のくすくす笑いを漏らし、しゃっくりを時々交えながら彼女が呟く。
「でも、そんなに飲んでないんですよ」
「酔っ払いはみんなそう言う」
「本当に、一杯と、あとすこしだけなんです。……ふわふわしていい気持ち」
グシュナサフには内緒ですよ。茶目っ気たっぷりに瞳をきらめかせたままで、コロカントが唇に指を当ててみせる。彼女は十五で、飲酒が許される成人は十六だ。
「怒られてしまいます」
「怒るかな。……まあ、怒るかもな」
心配性のあの保護者なら、小言のひとつも言うだろう。ついでに座長も連座しているかもしれない。くそ真面目な顔がふたつも並んで、ぐちぐち言う場面を想像し、……それは俺もいやだなぁ。青年は思わず呟いた。
「じゃあ、黙っている代わりに、なにか弾いてくれ」
「わたしがですか」
隣に腰を下ろし、彼が言うと、彼女が困ったように首をかしげる。
「まだ練習中なんです」
「別にかまわない」
「本当に、簡単な曲しか弾けませんよ」
「うん、」
頷いたところへ、なにで盛り上がったのか、母屋の中から壁ごしに、どっと歓声が沸いた音が聞こえた。
「盛り上がってるなあ」
聞いているだけでどう言うわけか楽しくなって、青年もにやにや頬をゆるめる。自分もだいぶ酔ったのかもしれない。本日の功労者に差し出された杯(さかずき)を、遠慮なくいただいた覚えがある。
実は、こうして賑やかに過ごす酒盛り自体が、はじめての経験だった。言ってみれば目の前の少女とたいした違いはないのだ。
「楽しそうですね」
「楽しい」
正直に彼は頷く。
「俺の知ってる酒宴っていうのはさ、なんていうか、こう、貴族同士が酒にまぎらわせて、社交の噂を口にしながら、互いに腹の探り合いをする、ギスギスして、冷え切ったもので、……、こんなふうに、ばか騒ぎするものだなんて知らなかった」
「それ、楽しくなさそうですね」
「楽しくない。酒もメシも、気取ってて不味いだけだしな」
顔をしかめ頷いて見せ、それから、豚の丸焼きうまかったなあ、しみじみ呟くと、つられて隣の少女も、腹を撫ぜていた。
「もう入りません」
「二日分は食った」
「わたしは三日分です」
しばらくまたくすくす笑いあっていると、ああ、そう言えば、と思いだしたようにコロカントがぽんと手を叩いた。
「街道が通れるようになったら、次の町へ行きますよね」
「――うん、?」
「次の町も、きっと賑やかですよ。お祭りがあるんです」
「祭り」
「……なんていうのかしら、ええっと……芸術祭?……、違うな……、芸人祭?……うーん、なんだか、もっと楽しそうな名前だった気もしますが、とにかく、そういう、各国から腕自慢の芸人が集まって見世(みせ)を並べる、お祭りだそうですよ」
額に手を当て、思いだし、思いだし、彼女が告げる。
「見世を並べる……、この一座だけじゃなくってか」
「はい。たくさんの芸人が集まって、芸を披露して、そうして、それを見に、もっとたくさんのお客さんが来るんですって。わたしも、一座の皆さんから話に聞いただけで、まだ見たことがないから、とても楽しみなの」
「客が来るということは、お前も一座の演目で出るわけだ」
「ああ、そうでした。そうですよね。……、……、……そうですよね。普通に考えたらそうなりますよね。……ええ、どうしよう」
彼がふと言うと、本気でそこに思いいたってなかったらしいコロカントが、さっと顔色を変えて頬を抑える。失敗したらどうしよう、緊張してきた、だとかひとり言を呟いているので、
「まあ、なんとかなるんじゃないか」
無責任な慰めを口にしておいた。
「さっきの演技もさまになってた。なんとかなるだろ」
「そうですね……、どうしましょう、なんとかなるかしら」
「なるなる」
真面目な顔をして頷いてやると、ほっと安心したように、彼女はまた笑う。……本当に、表情がくるくる動くやつだな。感心して彼は眺めた。
「……たくさんの一座が集まるから、半月くらいお祭りをしているんですって。おしまいの方には、花火も上がって、盛大なんですって」
「へぇ」
それからまたしばらく、コロカントの祭りの話は続いた。
わくわくと楽しそうに話す彼女を見ていると、とくに祭りにも、見世にも、興味のない青年自分まで、楽しみな気分になるから不思議なものだと思う。
「花火か」
「そうなの。とっても大きなものが、たくさん上がるそうですよ。お腹に響いて痛いくらいだ、って。あんまり大きな音なので、お祭り期間中は、町から犬や猫が、びっくりして、逃げて行ってしまうそうですよ」
「それはすごいな」
「それから……。見世のほかにも、食べ物のやお土産の露店が、ぎゅうぎゅうに軒を連ねてるそうで、そっちも、見てて飽きないって」
「じゃあ、一緒に見て回るか」
聞いていた彼が、何気なくそう口にすると、いっしょに、と一瞬話を止めた彼女が、きょとんと彼を見返す。そう言うつもりで話していたわけでは全くなかったらしい。
……らしくないことを言ったか。
変に気恥ずかしくなって、咳払いし、いや別にお前がいやなら俺は遠慮するが、だとか、そもそも俺はどこまでこの一座に同行するつもりなんだ、だとかなんとか、彼が言い訳のような、自己突っ込みのようなものをしかけたところに、
「――そうですね」
ふと大人びた不思議な目の色を彼女が見せた気がして、のぼせかけた彼の頭が冷静になる。
「コロカント?」
しんとした愁いのようにも見えた。
けれど、見返した彼女は、先ごろと同じようにまた穏やかに笑っている。もしかすると気のせいかもしれない。
……言いたくないのかな。
「曲」
「え、」
「弾いてくれるんだろ」
「ああ、……はい」
深い追及は避けて、彼が話を逸らすと、すこしほっとしたようなコロカントが、ついと視線を外し、黙って馬頭琴を膝ではさみなおして、二、三度弓で音を確かめると、静かに弾きはじめた。
ブランシェはほとんど曲を知らない。だったから、それが弾き語り用の練習曲なのか、それとも彼女自身の故郷の歌だったりするものなのか、まるで判らなかった。
ただ、ゆっくりとしみいるように流れる曲だったので、子守唄かなとも思ったが、それにしてはところどころ切々としたメロディだと思った。
しばらく耳を傾けていた彼は、ほのかな声で、彼女が囁いていることに気がついた。歌っているのだ。
……何を歌っているのかな。
弾いている彼女も、おそらく意図しない呟きなのだと思った。無意識に歌っている。だから口を挟まない。声をあげたら、彼女はきっと歌うのをやめてしまうだろう。
耳をそばだててみても、とぎれとぎれの囁きはほとんど言葉になっては届かない。ハミングのようなものだ。
それはきっと、とかすかに聞こえた一節だけが、やさしい旋律にのせて、くり返し、夜気に囁く。
――それはきっと、わたしが、はじめてひとを愛したからでしょう。