その日も朝から熱かった。

 

 身を寄せている芸人一座と商業町イツハァクに到着して、二日経っている。

 ふり仰ぐと、高い外壁と、丸みを帯びた屋根から、たなびく赤、青、黄、緑などの原色に近い吹き流しが目に入った。

 見ているだけで賑やかだ。いっそうるさいほどだと思う。

 吹き流しは、遠くから町を訪れるものへの、祭りが開催されている目印だ。

「派手ねぇ」

 遠景からその吹き流しを目に入れたとき、呆れたように言った女の言葉を、コロカントは思いだす。

 こちらの大陸はどうも開放的だ。

 元いたミランシアや、その周辺の領とくらべると、格段に気候は暖かで、冬はともかく夏は暖かというよりは暑い。

 暑いというよりは熱い。

 日差しの強さがまず違う。肌をじりじり焼くというよりは突き刺すほどだ。

 猛暑というにも生ぬるい、そんな言葉があるのかどうかわからないけれど、刺暑、とか、痛暑、だとか言いたいとコロカントは思う。

 その暑さの中、荷駄を曳く馬や驢馬(ろば)がへばらないように、ゆっくりの行程で進んだので、野盗退治を請け負った農場からイツハァクに到着するまで、ひと月とすこし経っていた。

 

 イツハァクの演芸祭、というと、大陸でもかなり有名なのだそうだ。数年に一度の割合で開催されるのだが、実入りの良さを期待して芸人どもはこの町を目指すし、その全国から集まった芸人どもの競い合うさまを見るために、遠方から仕事を都合して、見物に来るものも多いらしい。

 開催は二週間。今はちょうど六日目にあたる。

 開催初日より少し遅れて一昨日着いたコロカントたちは、見世(みせ)を張る許可の手続きを経て、今日から本格的に荷を解き、芸を披露することになっていた。

 朝食を済ませた男どもは、くわえ煙草に大道具を広げ、確認しながら設置しはじめたが、

 

「ねぇねぇ姫ちゃん。探検いこ。探検」

 

 夏空を眺めながら、朝食の洗いものをしていたコロカントは、一座の女芸人たちとそれからララに誘われた。

「探検、ですか」

「そうそう。知らない町の細い路地とか、なんか面白そうじゃない?どうせ、大道具引っ張り出して設置してる間は、非力なあたしたちは邪魔なんだし。お披露目は昼過ぎだし。子供連れて行くンなら、ぶらっとしてきていいって、女将さんにも許可もらったし」

 思い思いに派手な色目の服を着ている女たちが笑う。

 ちなみにこちらの大陸は、おしなべて薄着だ。

 薄着、というよりは、肌をさらしている部分が多いと言った方がいいのかもしれない。

 とくに、すこし動いただけで汗ばむこの季節は、胸や下腹部の要所を隠すだけで、肩や腹や背中を出す意匠が多かった。

 上着と言えば、薄い紗を羽織ったり、腰に巻いたりするのがせいぜいだ。

 基本的に透ける。

 郷に入れば郷に従え、がモットーだというララは、喜んでその涼しい格好を受け入れたし、コロカントにも勧めた。

 案の定この時も、頭の古くさい保護者が、若い娘が肌をさらすというのは、貞操観念がどうの、だとか難を示したが、

 

 ――ばかじゃないの。

 女が一刀両断に却下した。

 ――二の腕さらして貞操が判りますかってんの。姫ちゃん茹でたいの。死ぬよ。

 

 そうこうして身軽な格好のいまに至ることを思い出す。身軽な格好はミランシアのものと比べて、格段に快適だった。

 そんなことを思いだしていると、

「おいおい、散歩かよ」

 女たちの会話を耳にはさんで、くわえ煙草の男どもから野次が飛んだ。

「汗水たらして仕事にいそしんでいる俺たち差し置いて遊びに行くたァ、いいご身分だな」

「遊びじゃないわ。偵察よ、偵察」

 けろりとした顔で女たちは返した。もちろん、互いに冗談であるのは承知の上だ。

 そのやりとりを聞きながら、コロカントは急いで洗い物を片付けてしまうことにした。そうしてこうした掛け合いができる間柄はいいな、とも思った。

 オゥルとグシュナサフ、そしてバラッド三人が、昔森で見せていたやりとりと、少し似ている気がするからだ。

 洗いものを終え、前掛けで手を拭いていると、天幕の柱を青年と組み立てていたグシュナサフが、ちら、とこちらを見やったので、

「行ってもいいですか」

 彼女がたずねると、どうぞと男から返された。

「楽しんできてください。持ち合わせは足りますか。迷子にならんよう気をつけてくださいよ」

「……あんた、姫ちゃんいくつだと思ってんの」

 呆れた女の声も聞こえる。その声に、思わず笑ってしまった。

 

 

 座長の子どもの上三人を連れて、女三人とそうしてララとコロカント、計八人は朝の町を腹ごなしにそぞろ歩く。

 連日の開催とはいえ、見世をひらく芸人どもも朝は準備する時間なので、基本的にどこの座も閉まっている。寝ぼけ顔の野良犬が、路地を嗅ぎまわっているほかは、静かなものだった。

 嵐ならぬ、祭りの前の静けさ、とでも言うのかな、隣を歩いていた女がぽつと呟いた。

 

 イツハァクの町は、現在大まかに言って三区画に分かれている。

 ひとつは居住区だ。

 もうひとつは商業のかなめの商工会議所と中卸(なかおろし)の店舗が並ぶ商業区で、普段なら荷駄の往来で騒がしいはずなのだが、いまは鎧戸をおろしている。祭りの期間中は祭りの方で忙しいので、店を休むのだ。

 代わりに軒先を、小規模の一座に貸しだした。商業区の大通りも、祭りの色が濃い。

 三つめは催事区で、ここに大規模と中規模の一座の幌馬車が並ぶ。コロカントたちも現在ここに寝起きしている。

 それぞれの規模に見合った広場を割り当てられ、そこで芸を披露するほか、中央広場では各座の同種目の腕くらべが行われたりしていた。

 祭りの目玉イベントでもある。

 力くらべ、やわらかさくらべ、軽業くらべに遠当てくらべなどなど、種目の競技に登録し、勝ち抜き方式でみごと一位に輝くと、優勝賞品が用意されているのだ。

 観光客の目的のひとつはこれで、普段は並べて比べようがない個々の芸の巧拙を見比べることができると、中央広場の混雑は、体の形がひしゃげるほどすごい、というのが一座の経験者の談だった。

 そこまで人気なのだから、こわいもの見たさで見てみたいけど、でも話に聞くほど恐ろしい混雑なら、遠慮したい気もする。呟いたララに全面で同意した。

 

「ここが、その中央広場ね」

 

 座長のところの子どもと手をつないで歩いていたコロカントは、声に顔を上げる。

 まだ朝で、舞台には幕が下りていたし、種目別腕比べの受付けは午後からだったので、広場は閑散としていた。

 階段式になっている広場を見るや、わ、と歓声を上げて子供らは駆け下りてゆく。

「あ、こら」

 コロカントと手をつないでいた五つの子も、彼女の手をぱっと払い、上のふたりに遅れじと駆けていった。

「転んだら危ないのよ、」

 慌てて後を追う。

 子供ら三人は、円形上の窪地になっている舞台まで一気に駆け下りると、今度はその周りをぐるぐると走って遊びはじめた。

 同じように下ろうとして、一瞬コロカントはためらった。段差の多い場所、とくに階段は苦手だ。慎重に、一段一段下りてゆく。

 昔、刃物で切断された足の腱は、こちらに渡ってきてから医師に診てもらい、つなぎ直し、リハビリも経て日常生活にさしつかえはなくなった。もちろん走ることに問題はない。

 ただ、切られたときの痛みを忘れることはできなかった。痛みというよりは、衝撃と言った方がいいかもしれない。心因的なものだ。

 だから、片足ごとに負荷がかかる階段がなんとなく厭だ。またあのぶつ、と耳にはっきりと響いた音を聞くのは怖い。

 こらぁ、と女たちの誰かが怒鳴る声がした。あんたたち、コロカントちゃんを困らせちゃだめよ。

「お姉ちゃん」

 ようやく下りきったときには、思わずほっと息が出た。軽く汗ばんでいる。額ににじんだ汗をぬぐったところへ、走り回った三人が駆け寄ってくる。

 手に花を持っていた。

「見て、きれい」

「本当、きれいね」

「あげる!」

 舞台の回りの植え込みの植樹に絡まるようにして、ツタ科の花が、圧倒する勢いで咲き乱れていたのだ。

 どぎついだいだい色の花だった。こんなに大きな花弁をコロカントは見たことがない。

「飾って。飾ったら、きっと似合うよ」

 にこにこ笑って先まで手をつないでいた子供が言った。

「わたしに似合うかしら」

「似合うよ。お姉ちゃんきれいだもん」

 鮮やかな夏の色の花は、自分のくすんだ髪の色には似合わない気がする、ちらと思ったけれど、子供が嬉しそうに差しだすので、受け取り、耳の上に挿してみた。

「うん」

 満足そうに子供が頷く。

「お姉ちゃん、ほんとうのお姫さまみたいね」

「ありがとう」

 言われてコロカントは微笑んだ。すこし離れて女たちも、こちらを見やり笑っている。

 強烈に甘ったるい匂いは、彼女が身動くたび、うだる暑さの空気にゆるゆると広がった

 

 

 昼を過ぎると、午前ののんびりした空気がにわかに一転し、町全体に活気がみなぎりはじめる。

 ところ狭しと設えられた簡易の見世で、あちらの一座、こちらの一座と興行が開かれ、その興行を目当てに、宿場から最初はぽつぽつ、やがてぞろぞろと、路地いっぱいに広がる川のような客の流れ、わあっと遠くであがる歓声、野次、拍手、口笛、投げられる銅貨、銀貨のチンチンと跳ね転げる動き、暑さと比例してゆく町の高揚感、すっかり飲みこまれたコロカントは、飲んでもいないのに、酒で酔ったように頭までぽっぽと火照(ほて)っていた。

 三回目の見世を終えたところで夕刻になっていた。彼女の担当する囚われの姫君役もなんとかもつれることなくこなせて、ほっとする暇もなく次の出し物の手伝いに駆ける。

 立ち見の客の横をぐるりと回り、反対側に抜けようとしたとき、お姫さん、だとかいう声がいくつか飛んで、小銭を握らされた。心づけだ。

 とっときな。あんた、可愛かったぜ。

 どうだい、このあと、時間はあるかい。

 いい店知ってるんだ。見世がはけたら、俺と行こう。

 ただのからかいとも、誘いともとれるひそひそ声に引き留められ、にっこり笑ってごめんなさい、忙しいの、首を振っていると、ぶしつけにぐいと引きよせる太い腕がある。

「あ、」

 引き寄せられ、どんとぶつかった胸は、毛むくじゃらで汗ばんでいた。

 驚いて顔を上げると、縦にも横にもいかつい禿頭の大男だ。周りの客と比べても、頭ひとつ分は高い。

 混みあう見物客の中で、大男の回りだけ妙に浮いている

 饐えたにおいがした。

「いくらだ」

 酒くさい息を吹きかけ吹きかけ、大男は言った。顔に見覚えはないと断定できる。そうして、確実に堅気でないと思われる倦んだ雰囲気と上半身の刺青。

「あの、放してください」

「放さねぇよ。金は払ってやると言ってるんだ。いくらだ」

「いくらって、」

「ひと晩。天国見せてやるよ」

 天国だとか。意図に気づいて眉間に皺が寄る。嫌悪感しかない。

「……やめてください。放して、」

 胸板を拳で叩いて拒否しようとすると、身を屈め耳元へ吹きこまれる声。

「いいじゃねぇか。俺のはデカいぜ」

 ぱっと周囲へ緊張が伝播(でんぱ)し、大男と彼女を囲む形に客が割れた。

 ぎりぎり食い込む男の指に顔をしかめたコロカントを、なおも引き寄せようとした大男の肩に手をかけて、

 

「放してやってくれないか」

 

 不意に掛けられた声がある。ああん?胡乱な目で大男は振り向いた。

 裏方で大道具の出し入れを手伝っていた青年が、いつの間にかそこにいた。

「――ブランシェさん」

 彼の姿を認め、そのすこし離れた後ろにグシュナサフの顔も見え、大男の力が緩んだ隙に、コロカントは青年の背に隠れる。彼女がやくざ者に絡まれたことに気づいて、やってきてくれたらしかった。

「なんだ、てめェ」

「放してやってくれないか」

 いっぺんに殺気立つ大男に向かって、無感情に青年はくり返す。

「俺ァいま、この姉ちゃんと懇(ねんご)ろになるところなんだ。邪魔すんじゃねェ」

「厭がっているだろ」

「てめェ」

 大男の声が一段低くなり、対した青年は、腰の剣に手をかけた。様子をうかがう野次馬に、ぎょっとした緊迫が一瞬流れたが、青年が手にしている剣が、舞台用の模擬剣だとたちまち気がつき、……なんだ、これも出しものか。誰かが呟いた。

「ブランシェさん」

「下がってろ」

 大男はでかい。盛り上がった肩から見るに、喧嘩も強そうだ。青年の身を案じて彼女が呟くと、短く彼が答えた。

「かまけてんじゃねぇぞ色男」

 剣呑な光を目にたたえた大男が、唐突に青年につかみかかる。その突進を眉間に剣を叩きこむことでいなす様子を横目にしながら、

「……グシュナサフ!」

 離れたところで顎に手をやり、青年と大男のやり合いを黙って様子見する男へ、コロカントは駆け寄り、たまらず懇願した。

「お願いです、助太刀してあげてください。ブランシェさんが怪我してしまいます」

「なに、腕試しみたいなもんでしょう」

「グシュナサフ!」

「大丈夫ですよ」

 答える男が、のんびりとしているようで、その実わりと真剣な目をしていることに彼女は気がついた。

 検分するようにじっと見ている。

「腕試しって、」

「ひと月分の成果を試す、いい機会ですので」

 姫は大丈夫ですか。お怪我はないですか。ぽんぽんと肩を叩かれ、はいと頷きながら、コロカントは後ろを振り向き、大男をかわす青年を目に入れた。

 牧場を発ってからひと月のあいだ、折を見ては青年が男から剣の手ほどきを受けるのを、思い出したからだ。

 

 手ほどき、というよりは一方的な打ち込みだった。剣を構え向かい合うとき、グシュナサフは加減しなかったからだ。

 短剣の鞘自体は付けたままであったので、斬りつけられることだけはなかったものの、鋼の芯が入ったもので殴られるのだから、痛みは相当なものだと思う。

 ――クソ。

 一太刀も入れられずに、逆にグシュナサフからこてんぱんに打ち据えられ、尻餅を衝いた青年が悔しそうに吐き棄てた。

 ――強いな。歯が立たない。

 その体中の青あざや黒あざに軟膏を塗り、湿布を張ったあとで、

 

 ――やりすぎではないですか。

 青年がいないところで男をつかまえ、コロカントは一度だけ抗議したことがある。

 

 ――わたしは剣の練習をしたことがありません。だからもしかしたら、グシュナサフのやり方が正しいのかもしれない。でも、あんなに叩きつける必要がありますか。もうすこし手加減をするとか、やりようがあるのではありませんか。

 ――剣は、殺し合いの道具ですよ。

 腰から引き抜いた小刀を磨きながら、彼女の抗議に、淡々と男はこたえた。

 ――藪や枝を掃(はら)ったり、料理を作る道具じゃないんです。剣を構えたら、相手は決して手加減をしない。痛そうだからちょっぴり弱い力でやってやろうだとか、ないんですよ。やるか、やられるか、それだけなんです。いま俺が、半分の力でもってあの若者に教えてやったとして、それは彼のためにならないと俺は思います。

 ――それは、

 それはそうなのだろうけれど。

 口ごもった彼女をちらりと見やって、それから少し安心させるように男はうすく笑ってみせた。

 ――そんなに姫が心配なさらんでも、彼はたぶん、すぐに上達しますよ。痛くならなくなる方法を、自分で見つけるはずです。基礎はしっかりできている。やる気もある。筋もいい。ただ、応用力がないだけだ。実戦経験、と言い換えてもいいですがね。これはもう、場数を踏むしか方法がないです。

 ――実戦経験、

 ――まあ、見ていらっしゃい。ひと月もすれば、ものになると思います。俺が請け負いますよ。

 

 その男の言葉通り、ひと月の間に青年の身のこなしはめきめきと上がった。どこがどう、とコロカントにはうまく説明ができないのだけれど、手当てをする回数も、ひどく打ち据えられ地に転がる回数も、目に見えて減り、たとえ打撃を受けたとしても、ひと晩腫れるほど真っ向から受けることが少なくなった。

 受けた力を逃すすべを、体が覚えたのだ。

 

 そんなことを思い出しながら、コロカントは目の前のやくざ者と青年を見つめた。

 大丈夫と、グシュナサフが言うのだから、きっと大丈夫なのだろう、はらはらと見守る彼女の前で、時計回りに円をえがくようにして、青年は大男の攻撃をうまく受け流している。

 まともにやり合えば、大男の力にかなわないのは誰の目にも明らかだ。青年自身も判っている。だから受け止めるのではなく、受け流す。舞台用の模擬剣で、掴みかかる大男のこぶしを、相手の勢いを利用してひねり、横の方へ流して、そうして隙を見て一撃、大きく踏み込むと、したたかに相手の急所へ入れた。

 その動きを地道にくり返す。

 踏み込みのしかたに見覚えがあった。グシュナサフがよくやる足運びだ。

 ものになる。

 男が言ったことを、知らず彼女は口の中で呟いていた。

 何度も何度も繰り返すうちに、大男は業を煮やしたようだった。があ、とひと声けだものの声で吠えて、構えの形を捨て、捨て鉢な一撃必殺の突撃になる。

 その変化を、青年は見逃さなかった。

 それまで横平で打ち据えていた模擬剣を縦に構えると、捨て身で突っ込んでくる大男の足を払い、もんどりうった相手のうなじへ、今までで一番苛烈なみねうちを叩きこむ。

 どっと観衆がざわめいた。

 打たれた大男は、床に這いつくばり、呻くばかりで立ち上がろうとしない。

「……うむ、」

 どこか嬉しそうにグシュナサフが頷くのへ、

 

「ちょっとちょっと早くきてくださぁいおまわりさぁん」

 

 聞き知った女の声がした。ララだ。

「こっちよ。喧嘩なの。女の子が襲われてるの」

 

 その声を聞き、よろよろと立ち上がったのは大男だ。堅気ではなさそうな雰囲気、だとかコロカントは大男を評したが、やはり後ろ暗いところがあるらしい。役人、と聞いて舌打ちしながら、よろめき、……クソ、どけ。囲む野次馬どもを肩で割り、悪態を吐きながら、逃げ出した。

「おぼえてろよ」

 お決まりの捨て台詞も忘れない。逃げ出す背に、またどっと歓声が沸いた。

 その逃げ出す大男の脇をすり抜けて彼女の方へやってきたのは、今しがた声をあげたララだ。ちらと舌を出し、いたずら顔で笑ってみせる。

「なあぁんてね」

 都合よくお役人なんているわけないじゃないの。彼女に小声で囁く。

「そもそも、お役人、仕事してんのかしら。やる気あるの。お祭りで一緒になってお休みしてるんじゃないの。とっとと、ああいう莫迦しょっ引きまくればいいのに」

「ララさん」

「ほらほら。なにぼんやりしてんの。悪漢をやっつけてくれた騎士のところに、お姫さまはいかないと」

 にこにこ笑って耳打ちされる。そうだった。はたと我に返ってコロカントは周囲を見回した。野次馬と化してはいたが、もともと一座の舞台を見ていた観客だ。ここで取り乱しては、客は興覚めしてしまうと思った。

 一座の見世はまだ続いている。

 次は何をするんだと言ったふうに、こちらを眺める観客の前をそろそろと歩き、肩で息をするブランシェへ、コロカントは近づいた。

「コロカント、」

「ええと、……感謝します、わたくしの騎士よ」

 芝居がかった仕草で手の甲を持ち上げ、青年を促すと、一瞬ぽかんとした彼が、すぐに意図を理解してばつが悪そうな顔になり、それから困って頭を掻いた。

「……こうでいいか」

 小さな声でこちらを窺いながら膝をつき、手を押し頂いて唇を当てるのへ、ちいさく頷いてみせる。そこにわっと拍手と歓声がおこった。

 そのまま、見世は、次の出し物へと移ってゆく。

 今のうち、うやむやのまま裏へ移動してしまおう、若干引き攣った笑顔で二人ともに観客に会釈を返し、手を取り合いながらとにかく幕の内へ身を隠す。

 隠したときにはびっしょり冷や汗をかいていた。

 

「なんだいまの。なんかあのデカブツとやってる時より、最後めちゃくちゃ緊張したぞ」

「……わたしもです。もうやりたくありませんね」

 ふたりでへたりこみ、今さら赤面する。

 そうして額の汗をぬぐいながら、あらためてコロカントはありがとうございますと、青年へ頭を下げた。

「ありがとう。本当にどうしたらいいか判らなかったの。助かりました」

「いや、」

 照れくさそうに鼻を掻き、青年が答える。

「あのひとに、行けと言われたからな」

「グシュナサフが?」

「特訓の出来をはかる、もってこいの相手だって、そう」

 言い方がグシュナサフらしい。はあ、と相づちを打つコロカントへ、

「でも、きっとあのひと自身より、俺の方が適任だったんだろうな」

 青年は言った。

「適任、ですか」

「うん。あのひと、突き抜けて強いだろ。その分容赦ないっていうか。たぶん、あのデカブツ相手にしたら、一方的に虐殺……ううん、あれだけ野次馬がいたから、さすがに殺しはしないと思うけどさ、とにかく、あの野郎を、あっという間に伸(の)しちまったと思うんだよ。こてんぱんっていうか」

「ああ、……、」

 説明されて彼女も頷いた。

 グシュナサフは強い。大男との力の差が開いていた場合、それは見せものにはならず、ただのなぶり殺しになる。どちらが勝つか判らずはらはらするから、野次馬は盛り上がるのだ。一瞬で勝負がついてしまっては、見ごたえがない。

「まあ、俺の方が弱いから場が盛り上がるってのも、なんか癪な話だけどな」

 それってつまり、俺が負けるかもしれないと、半分期待されてるってことだろ。

 少し悔しそうな目になる青年へ、

「でも、グシュナサフは大丈夫って言ってましたよ」

 こっそり補足しておくことにする。

「ブランシェさんが勝つのが判ってたみたいでした」

「あのひとが、」

「はい」

 そうか、ならまあそれでもいいか。

 師匠に認められ、単純に嬉しそうな顔になった青年へ、コロカントもにこにこ返した。

 

 そのまま、出しものの終わった小道具を手入れし、片付ける作業にそれとなく二人は入った。

 出番の終わった芸人たちも、数人裏方にやってきて、同じように明日またすぐに使えるように手早く道具をそろえ、準備していく。

「よお、さっきの格好良かったぜ」

「あたしも惚れちゃったわ。今度からまれたら助けてね」

 野次られて、そのたびに困ったように眉尻を下げる青年の横で、棍棒を片付け、リボンを巻き、滑り止めの粉をコロカントがふるっていると、

 

「ああ、そうだ」

 

 青年がふと思い出したように、作業の手を止めて彼女の顔を見た。

「前にさ、お前が弾いてくれた曲、あっただろう」

「弾いた曲ですか」

 一瞬心当たりが浮かばなくて、首をかしげたところへ、ほら、と珍しく焦れたように青年が口早に促す。

「牧場の野盗を退治した夜に、お前が聞かせてくれたヤツだよ。……あと、ここに来る道中、馬車の中でも暇なときに何度か弾いてたりとかさ。なんか、ゆっくりな、ちょっとだけさびしそうな、……ええと、音色っていうのか?俺、音楽とか全く判らないんだけど、あれ、なんて歌なんだ」

「なんてって、」

 たずねられてますます弱り、彼女は眉を寄せる。

「……判らないんです、わたしも聞きかじりで覚えただけだから」

「聞き覚え」

「はい。……ずっと昔、わたしがまだちっちゃいときに、弾いてくれたひとがいたんですけど、わたしもそう何回も聞いてないし、そのひとが歌っていたかどうかもあやふやで……、弾いていたことは覚えているのですが」

 こっちへいらっしゃい。

 煙管(きせる)を咥えながら爪弾くその邪魔をしないよう、すこし離れて眺めていた彼女に気づくと、笑った男。

 ぽんぽんと膝の上を叩いて、それから手にした煙管(きせる)をそっと脇に置いて、また差し招いた男。

 しめされた膝の上にちょんと座ると、頭を撫ぜられ、なぜか目を細められて、そうして何弾きます、とたずねた男。

 嗅ぎなれた煙草のにおい。そうして懐にふくませた香り袋のにおい。

 

「あの歌な、こっちの国の歌なのか」

 “――さがしても、さがしても、わたしのひと、恋い慕うあのかたは見つかりません。”

 “――夜ごと、臥所(ふしど)を抜けだし、求め、呼びさまよう。”

 “――それはきっと、わたしが、”

 

「どうでしょう。もしかしたら、わたしに弾いてくれたひとが、こちらから向こうの大陸へ、海を渡っていった歌を、どこかで覚えたのかもしれませんが」

 答えながら、ああ、ちがうなと彼女は気がついた。たしか男は、弾いてくれたときに、でたらめですからね、と言っていた覚えがある。

 実はこれ、全部でたらめなんです。

 男はそう言った。

 自分が弾いてるものなんて、もうその場の即興、思い付きの全部でたらめで、曲だなんて言えたもんでもないんです。明日になったら忘れちゃってるかもしれない。次に同じものを弾けるとは限らない。それっくらい、適当で、おおざっぱなものなんです。

 作曲だなんて、偉ぶったこと言うつもりもないですよ。そんな才能はないですからね。

 そういうものなのかな、言葉に頷きながら、けれど幼いコロカントは、真っ直ぐ男の目を見て言ったはずだ。

 ……でたらめでも、適当でも、わたしはとても好きです。いい歌だと思います。

 す、と一瞬息をのんだ男は、そのあとなんて答えただろう。

 

「でも、どうして急に歌のことなんか」

「うん。……昨日さ、座長に言いつけられて、買い出しに行ったんだ」

 不審に思って彼女がたずねると、また手元の小道具を磨きはじめながら、青年は言った。

「はい」

「いつもなら商業区があいてるから、そこで買えるらしいんだけどさ、ほら、いま時分、店が閉まってて駄目だからって。行商も回ってるけど、あれ、ぼったくって高いからって。ここの町の人間がよく使うっていう東の第二市場に、俺と、あともう二人で荷車曳いてさ、芋とか、豆とか、燻製ものとか、このひと月で食いきっちまった分補充しに、……どれくらいだったかな。午後だいぶん遅い時間に出かけて、買うものが多かったから、結構時間かかってさ。帰るころには暮れ六つの鐘が鳴ってて、やばい、夕メシ食いっぱぐれるって、一緒に行ったやつらと、そんな話してたぐらいの時間でさ」

「はい」

 頷く。夕暮れ時に、青年が芸人の男ふたりと出かけて、遅く戻ってきたことは、彼女も知っていた。

「とにかく早く帰りたいからって、わりとぎりぎりの幅だったけど、行きとは違う細い路地、荷車通していくことになってさ。ちょっと壁こすったりして、はまったらどうすんだこれとか言いながら戻ってたときに、……どこだろうな、たぶん地元の人間が仕事帰りに一杯やるような、看板もない店だと思う」

「……、」

 青年がなにを言いたいのかまったく判らなくて、そうして判るのが怖くて、コロカントはうつむき、口を噤んだ。おかしな続きを期待する自分が厭だった。。

 こめかみがどくどくとして痛い。

「店から歌が外に漏れてたんだよ。へったくそな酔っ払いの歌声のあいだから、お前が弾いていたのと同じ旋律(メロディ)の」

 がちゃん。

 指先の感覚がとうとうなくなって、彼女は思わず缶を取り落とす。中身の粉がばっと散って、音にぎょっとした青年がお前、こちらを窺い、目を丸くした。

「お前、どうした、顔が真っ青だぞ」

「それは、どこですか」

 震える唇を無理矢理開いて、彼女はたずねた。え、とますます戸惑った顔の青年が、それって、なにが、と鸚鵡(おうむ)返す。

 握りしめた拳が痛い。

「だからその、歌が聞こえた場所」

 聞いた声が恐ろしくしわがれていて、まるで自分のものでないようだ。

「いや、そんなの、俺もその都度、番地の確認してたわけじゃないから……、っていうか、どうしたんだよお前。歌なんか、どこの酒場からも流れるだろ」

「……流れないの」

 矢も楯もたまらず立ち上がったコロカントは、天幕の裏口を目指す。舞台では、最後の出し物が終わったようで、拍手が打ち鳴らされ、盛んに口笛の音が聞こえた。

 そのがやがやとした大勢の人間の歓声と、耳鳴りが共鳴する。自分でも何がしたいのかよく判らなかった。けれどとにかく、行かなければいけないと思った。

「あの歌は、流れないの」

 バラッドが歌った、でたらめの、即興の歌。

 “――それはきっと、わたしがはじめてひとを愛したからでしょう。”

 あの歌は彼にしか奏でられない。

「あ、おい、……おい!」

 呆気にとられていた青年が、慌てて立ち上がり、彼女の肩を鷲掴(わしづか)む。

「ちょっと待てって。お前どうしたんだよ、本当におかしいぞ。な、もう外は暗いんだって。ひとりでなんて危ないってまた言われっちまうし、外行くにしたって、……とにかく、ララさん呼んでくるから、ちょっと落ち着け」

「放して、」

 宥めようとする青年の手を振り払い、身を翻す。

「わたし、行かないと」

「コロカント。……おい、コロカント、待てよ!」

 強い制止の声が聞こえたが、足は止まらない。

 止められない。

 いったいどうしたんだと、同じく呆気にとられる芸人どもの間をすり抜けて、彼女は夜のとばりが下りはじめた町へと駆けだしていた。

 

 

 夜ごと、臥所を抜けだし、求め、呼びさまよう。

 まるきり歌の通りだなと思いながら、コロカントは駆けつづける。

 駆けつづけたと言っても、実際は途中で息が切れ、何度も立ち止まって呼吸を整えたし、まだ宵の口の町の通りは観光客であふれていて、全力で走ることは叶わない。ただ気持ちは急くばかりで、頭も真っ白だった。

 

 自分がばかな行動をしていることだけは、理解していた。

 そもそも、ブランシェの話を聞いたきりなのだ。彼が第二市場とやらから、どの路地を抜けたのかもあやふやなのだ。

 看板も出てないということだったから、そこが本当に店だったのかも判らない。

 そうして、彼が本当に同じ旋律を聞いたのかも、あやしいものだと思った。人間の記憶なんてわりと適当だ。すこし似ているかもしれない、が、いやこれはとても似ている、になって、そうしてこれは絶対に同じものだ、に変わることもそう珍しくないわけで、その他人の記憶を頼りに自分は人探しをしている。

 滑稽(こっけい)だと思う。

 必死にさがしたところで、見つかりっこない、そんなことはもうこの四年で身に沁みて理解していた。

 ……あのひとはもう死んだんだ。そんな言葉がはじめて頭に浮かぶ。

 ただ自分があきらめ悪く、過去にすがりついたまま、四年が過ぎてしまっただけ。

 周りはみんな先に進みなさいと言ったけれど、聞こえないふりをして、思い出を辿っていただけ。

 考えたくなくて、耳も目もふさいでいたけれど、本当は判っていた。

 “――それはきっとわたしが、はじめてひとを愛したからでしょう。”

 

 いやになるほどくり返し、男の夢を見た。

 彼がひょっこり姿を現し、遅くなりましたがただいま戻りました。言って片眉を上げ、すこしおどけて芝居がかったお辞儀をする姿を思い描いた。

 煙草の煙の向こうで、すがめられた緑灰色の瞳。

 あの目をもう一度見たかった。

 朝焼けが見えると、いてもたってもいられなくて、外に出て空を眺めた。

 朝焼けは、男の色だ。眺めて、待ち続けていれば、いつか彼が帰ってくる気がした。

 帰ってくると信じたかった。

 路地の曲がり角を何度も曲がっているうちに、視界がぼやけ、腹立たしくて乱暴に拭う。泣いてはいけないと思った。泣くということは、男が死んだことを認めることだ。

 認めるのは、厭だった。

 

 第二市場への道を聞いた通行人は、彼女を不審な目で見ていた。泣きながら道をたずねる姿は、迷子に見えたのだろう。

 ……でもきっと、わたしはずっと迷子です。

 路地の角ごとに記されている番地のプレートを確かめる。何々通りの何番地、そこにはきっちりと記されてあったが、彼女はいま、どこを目指したらいいのかすら、判らないのだ。

 “――それはきっとわたしが、”

 宵の口に天幕を飛び出し、一昨日着いたばかりの知らない街角を、あてもなくさまよい歩き、夜が更けても歩くことをやめられない。

 足が棒のよう、ということがあるけれど、棒のようになっても、右と左を交互に出し続ければ歩けるのだなとすこしだけ感心する。

「――バラッド!」

 通りに立ち、口に手を当てコロカントは呼んだ。この声が届けばいいのに。この声が届いて、はい、とどこかで返事をしてくれたらよいのに。

 けれど実際は、どうしたのかと道行くものが何人か、いぶかしげな顔をして振り向いただけだ。

「バラッド、」

 ちりちりする思いで往来の寄り添う男女を眺める。腕をからめ、しなだれかかり、幸せそうに見かわす二人連れ。……どうしてわたしはひとりでいるんだろう。羨ましくて、切なくて、胸がきゅっと痛くなった。

「……嘘つき」

 唇をかみしめる。

「嘘つき」

 ずっと傍にいるって言ったのに。

 ずっと手をつないで離さないって言ったのに。

 

 

 もうどれぐらい経ったのかよく判らない。

 日が変わるほどには遅くなってないと思うけれど、それでもずいぶん経っている気がした。

いい加減、戻らないと、一座の皆が心配しているだろう。

 いったい自分がどうしたいのかすら判らなくなって、目をこすり、うなだれ、とぼとぼ歩いていると、どうしたの、と背後からかけられた声がする。

「どうしたの。何か探しているの」

 そう。わたしはずっと探している。

 ちいさく彼女が頷くと、奇遇だね。嬉しそうな声で返された。

「実は僕もね、探しているんだ。祭りで一緒に歩いてくれる可愛い相手をね」

 泣き腫らし、探し疲れた目をのろのろ上げて、そこではじめてコロカントは話しかけた相手を目に入れる。

 親しげに笑いかけるのは若い男だった。若い彼は、手にしただいだい色の花を彼女の髪にそっと飾り、

「一緒に行こう。可愛いひと。涙を止めてあげる」

 腕を差し出し、そう言う。

「……ごめんなさい」

 ますますみじめな気分になりながら、コロカントは力なく首を振った。

「ごめんなさい。行けません」

 好きなひとはいるんです。呟いた。

 ずっと待っていて、どこにも見つからないけれど、でも、諦めきれないひとがひとり、いるんです。

 若い男にもう一度謝り、背を向けて、戻ろう、と彼女は思った。

 戻ろう。きっと、ブランシェが聞いた旋律は聞き間違いか何かで、本当は別の、どこか似ただけの音色の歌だったのだろう。

 同じ歌が聞こえてその音に導かれ、劇的に再会するだなんて、そんな物語のような話は現実には起こりえない。

 戻って、頭から布団をかぶり、何も考えないで眠ってしまいたかった。

 

 居住区の路地をコロカントは歩く。

 

 きっと普段は人通りもなくなっている頃合いなのだろうけれど、祭りの最中は、催事区や商業区からあふれて流れた雑踏が、まだそこかしこを散策している。

 それでもこちらの区画の往来は、あちらと比べるとだいぶん興奮が抑えられていた。祭り特有の、観光客のおのぼり状態、はじけた上向きの高揚したそれではなくて、ややひそやかな、さんざめいた活気だ。

 期間中、夜半まで開け放してある店が軒を連ねていた、客寄せの角灯がひとつ、入り口に掲げられている。

 中から、緩やかな弾き語りの音、煙草のにおい、時折りいくつもの笑い声と明かりが道に漏れ出ていて、ついふらふらと彼女は引き寄せられ近づいた。

 くたびれて、喉が乾いて腹も減っていた。このまま帰って眠ろうと思っていたけれど、その前に腹ごなししていくのも悪くないと思った。

 くちくなれば、このひどい気分もいくらかましになるかもしれない。

 一座の場所まで戻れば、そわそわしながら待っている男や女が、夕飯を取りおいてくれているだろうから、なにもここで食べて行かなくても良いのだけれど、戻って、食べながら、いったい何があった、どこへ行っていたのかと、根掘り葉掘り聞かれるのはつらかった。

 

 何の気なしに近づいて、コロカントは連なったひとつの店内を窺う。

 食事処というよりは酒を出す店のようで、さすがにもうこの時間、家族連れの姿はない。近隣に住んでいるらしい大人の男女が肩を寄せ合い、なにかを囁き合い、そうでなければひとりものがちびちび酒を舐めながら、頬杖をつき、のんびり紫煙をくゆらせている。

 天井も低く、半地下のような雰囲気の店内は落ち着いており、どこか瀟洒(しょうしゃ)だ。からんでくるような酔っ払いの気配もない。

 カウンターの向こうで、客と同じように煙草をくわえ、常連らしいものと談笑に興じていた店主が、一瞬会話を止めて、入り口からのぞき込むコロカントの姿をみとめ、それからくいと、ちいさく顎で指し示した。

 入ってこいと言うことらしい。

 招かれ、それでも僅かにためらった。……こんな、顔なじみしかいないような店に、余所(よそ)ものの自分が入ったら、相当場違いじゃあないだろうか。

 いっそ今の店主の仕草は見ないふりで、入り口を離れ、どこか遅くまでやっている露店でも見つけ、軽食を調達した方がいいのかもしれない。

 ためらった彼女に気づいていたのだろう、咥え煙草の店主は、まだ座ってもいないカウンターに、小ぶりのグラスをとんと置き、もう一度視線で招く。

 ここまで招かれて、すげなく背を向けるのもどうかと思う。

 戸惑いながら、それでもコロカントは、えい、と店内に足を踏み入れる。

 ここまでひどい気分でいるのだから、もうこれ以上悪いことになりはしないだろう。いっそなるようになれ、と開き直ったこころもちでもあった。

 入り口付近のやはり常連らしい男のふたり連れが、酔って眠そうな目色で彼女をちらりと見はしたが、また黙って酒杯を傾ける。

 

「いらっしゃい」

 おずおずと空いたカウンターの席に腰かけると、薄く笑って店主が言った。

「あの」

「まあ、なにも言わず、まずはこれでも食べてらっしゃい」

 彼女の言葉を遮り、ことんことんと、いくつかの小鉢がカウンターに並ぶ。

 クラッカーの上に魚の油漬けとチーズを乗せたもの。数種の豆と香草を、酢と香辛料で和えたもの。キノコに燻製肉を巻いたもの。

「腹減ってるんだろ。がっつり溜まるものじゃなくて悪いがね」

 覗き込んだグラスには、酒ではなく、チャイが注がれていた。

 促され、口をつける。

 まずはひと口のつもりが、一口含むと無性に渇いていたことを思い出し、結局一気に呷ってしまった。

「おいしいです」

 ほうと息を吐くと、店主がまた笑い、二杯目を注(つ)いでくれる。

 その、店主が笑ったのが先か、それともコロカントの背後で、ざわ、と小さくどよめきが上がったのが先か、彼女には判らない。

 

 そう広くない店の奥で、伴奏に合わせて体を揺らし、数人が静かに踊っていたことには気付いていた。耳ざわりでない、ゆるやかで気にならない調子で流れていたものが、不意に軽快なものに転化し、それに合わせて数人の動きも、大きな身振りのものへと変わったのだ。

 せまい中でぶつかりもせず、器用に腕を広げ、ステップを踏む。

 どよめきは、そのダンスの勝負に身を乗り出した、周囲の酔客のものだった。……楽しそうだな。彼女は振り向く。

 ああ、またはじまった。彼女の視線をみとめて、店主が呟いた。

「普段は静かなんだが、時々、……、うるさくて悪いね」

「いいえ、……、」

 気になりません、平気です。社交辞令として答えたはずなのに、口が動いたかどうか、コロカントは自信がない。

 振り向いた先で、交互にステップを踏む二人の男。ひとりは若く、もうひとりは老いている。顔見知りのようで、……ついてこれるかな?楽しそうに足をさばき、互いに煽る姿。

 その横で、手を叩いてけしかける女が、三、四人。

 足踏みする周囲の客ども。

 それから、その競う二人と、女と、客どもと、紫煙に身を沈めるようにして、煙管(きせる)を斜(はす)に咥え、小気味よく弦をつま弾く歌うたいの男。

 口元を皮肉に歪ませ笑い、ふと上げた視線が、目を見開き凝視するコロカントのものと、一瞬かちりと合わさった。

 ……え、?

 

 彼女の周囲から、音が唐突に消える。

 緑灰色の瞳。右目尻のふたつ並んだほくろ。

 男の頭は、燃えるように赤い色をしていたからだ。

 

 

 

最終更新:2019年08月14日 00:04