まさか、だとか自分は声をあげることができたのだろうか。

 よく判らない。

 腰かけていたスツールから、いつの間にか立ち上がった体が勝手に動いて、

「――バラッド!」

 転げるようにして、コロカントは男に近づき、膝にすがっていた。

 

 こんなところにいたのですか。わたしはあなたを探してました。ずっと、ずっと会いたかったです。無事だったのかどうか、心配していました。でも無事でよかった。会えてうれしい。

 

 一気にまくしたてるうちに、引っ込んでいたはずの涙までまたぼろ、と頬を伝って、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、彼女はしゃくりあげ、つっかえ、つっかえ、訴えた。

 訴えながら、自分の手が、男の服を握りしめていることにふと気づいて、ああシワになってしまうなと思ったけれど、放すことはできなかった。ここで放して、ぱっと煙のように消えてしまったら怖いと思った。

 似たような夢を、何度も見た。

 男と再会した瞬間に、男が消えてしまう夢だ。

 夢と同じになるのは厭だった。

「バラッド、」

 男は弦を弾く手を止め、じっと自分を見下ろしている。

 緑灰色の目には、たしかに自分が映っているのに、男はなにも言わない。

「バラッド、」

 すこし詰(なじ)るような気持ちになって、コロカントは顔をあげ、男の名を呼んだ。

「どうして返事してくれないのですか。会いたくなかったのでしょうか。それとも、わたしが誰だかわかりませんか」

 言いながら、四年前に再会したときのことを思い出す。

 幽閉された塔の中に、男が助けに来たときのことだ。

 あのとき男は、成長した自分を見て、あ、と口を開いたまま惚(ほう)けて、それから見る見るうちに挙動不審になり、焦り、しばらくよそよそしい態度が続いた。

 嫌われたのかと彼女は胸を痛めたが、そうではなくて、のちに、成長した姿にどうしていいか判らなかったのだと告白された。

 子供が大きくなることを忘れていました。

 言いにくそうに、顔を赤らめながら、実は、と男はバラしたはずだ。

 男の中では、彼女は別れた時のまま、ずっと七つの姿でいたので、成長していた姿に動揺したのだと言った。

 アホです。究極にアホです。

 そんなことを言って、怒ったように、ぐるぐると鍋の中身をかき回していたような気がする。

 あの様子が嘘をついていたとは思えない。

 男はたしかにたくさんの嘘をついていて、なかなか本心を見せてくれなかったけれど、あのときのばつの悪い顔は、裏表のないように思えたし、いまでもそう思っている。

 あの頃から、また四年が経って、コロカントは今、十一でなく十五になっていた。

 あまり自覚はないけれど、大きくなったねと言われることが、ちょくちょくある。一座の女たちと並んで、背丈に遜色(そんしょく)もない。

 子どもあつかいから、娘あつかいされることも多くなった。

 男はその途中経過を見ていない。だからもしかして、自分がまた記憶の中の十一のままで止まっていて、戸惑っているのかもしれないと思った。

 

「バラッド。わたしです。コロカントです」

 深呼吸をひとつし、気を落ち着けようと努めながら、彼女は男を見上げて言った。

「こっちに渡ってから、大道芸の一座と知り合って、……、そこへ身を寄せているの。この町へは一昨日着いて、一座のひとが、居住区で、むかし、あなたが弾いてくれた歌と、同じ歌が流れている気がするって言っていて、……、」

 逸(はや)る気持ちを抑えてゆっくり彼女は言葉を紡ぐ。もし自分が逆の立場だとしたら、と考えたからだ。

 もし、自分が逆の立場だとして。彼女は思う。

 目の前に、四年前に生き別れた人間が唐突にあらわれ、一方的にやいやいまくしたてたら、むっとなるし、面食らうかもしれない。

 ……でも。

 落ち着こうとしながら無性に悲しくなって、彼女は涙ぐんだ。

 自分ばっかりひとりで空回りして、興奮して息せき切って、探し回って、駆け付けて、なんだか莫迦みたいだ。

 男は大人しく自分を見つめている。

 

 想像していた再会は、もっと驚きと、喜びでいっぱいのものだった。

 なんだかこんなふうに、拍子抜けしたように、白々しい雰囲気ではじまるものとは思わなかった。

 どうせなら、もっときちんと着替えてから来るべきだった。あらためておのれの格好を見下ろして彼女は思う。

 こんな、舞台衣装のまま、走って来るんじゃなかった。舞台映えする色や飾りは、この薄暗い、落ち着いた店の中ではちぐはぐで、目立って、場違いなことこの上ない。夕暮れ時から走り回って、着崩れて、よれよれで、みっともなくて恥ずかしかった。

 どうして男は何も言わないのだろう。彼女は思う。もしかすると、自分に呆れているのかもしれない。

 

 ――せめて一言、名前を呼んでくれたらいいのに。

 

「……バラッド、」

 それまでの勢いが不意になくなった。先より小さな声で男の名を呼ぶコロカントの声に、

「ミシュカ、その子、だぁれ」

 ちら、とこちらを窺った女のひとりが、かぶせるようにして男にたずねる。先ごろノリよく踊っていた二人に、拍手していた女客のひとりだ。

「聞くのも怖いけど、まさかあんた、そんな若い子にまで、ちょっかい出してるんじゃないでしょうね」

「……出しちゃいませんよ、失礼な」

 そこでコロカントは初めて男の声を聞いた。おどけのまじった、飄々と返す男の声。

「本当かなぁ。あんたの言うこと、九割信用ならなそうだしなぁ」

「こんな若い娘さんに手を出すほど、節操なしじゃありませんて」

 心外だというふうに、男がわずかに口端を上げる。その声も、聞き覚えのものとそっくりそのままで、だのに男の言葉に一瞬で彼女の頭の中はさっと冷えて固まったのだ。

 水をかけられる、とはこのことだと思った。

「本当かなぁ」

「九割信用ならないのなら、残り一割は信用してもらってるんでしょう。信じてくださいよ」

「まあ、床の中なら、……、ね、」

「今夜ためしますか」

「ふふ」

 やめとく。今夜あたし忙しいの。

 煙草の煙を吐きながら女が婀娜(あだ)に笑う。その紅をひいた艶(つや)やかな唇がきれいだな、大人の女のひとだな、とコロカントは思った。

 男はそうして、声をかけた女から目を移し、じっと固まって動けなくなっている彼女へあらためて向き直り、

 

「――ええと、その、人違いされてませんか」

 

 半分困惑したように、半分面白がるように眉を上げ、言った。

「ひと、ち、がい、」

 かすれた声が、口からこぼれて落ちていくのを感じる。

「自分はね、ミシュカっていうんです。歌うたいのミシュカ。あなたがさっきから呼んでる、その、……バラッドですか?そんな名前じゃあないですよ」

「……バラッドじゃ、ない、」

「ああ、それか、もしかしてあれですかね、熱心な、……なんて言ったかな、……そうそう、追っかけ、?っていうんですか、それみたいなやつ」

 一言ごとに、目の前が暗くなっていく気がした。なんでだろう。彼女は思う。なんで目が覚めないんだろう。

 こんな悪い夢、さっさと覚めてしまえばいいのに。

「……追っかけ、」

「まあ、いるんですよ。ときどき、そうして寄ってこられるご婦人。あなたの演奏に感動したー、とか、ちょっと音楽について語りたいことがあるー、とか、話のきっかけは、だいたいそう言うところが多いですけど」

 男の言葉の意味が、本当は先ごろからの態度で理解しはじめているはずなのに、なにがどうなっているのか理解したくなくて、彼女は男の言葉をばかみたいにくり返す。

「わたしが、そうだと」

 人違い。

 違うって、どういうことなんだろう。

 だとすると、彼女は赤の他人の膝にすがって、涙ながらに訴えていたということになる。

 気付くと急によそよそしい気分になった。離れ、立ち上がろうとしてバランスを崩し、コロカントはしゃがみ込む。

 こんなこと、あるんだろうか。うまく息が吸えなくて、彼女は喘いだ。

 頭の色も、目の色も、声色も覚えているそのままで、珍しい二連の泣きぼくろもそっくりそのままで、きっと青年ブランシェが聞いたという歌も、この男が弾いていたのだろうと思うのに、外殻だけ生き写しで、まるきり、中身のまったく違う人間なんて、いるんだろうか。

 目の前がぐるぐる回る心地がした。

 気分が悪い。

 

「……ちょっと、大丈夫ですか」

 間近で不意に声が聞こえる。訝しみながらも気づかったらしい男が、彼女の傍に膝をつき、こちらを覗きこんでいたのだ。

「大丈夫です、」

 眩暈(めまい)をこらえるために額に手を当て、彼女は答えた。こめかみの疼きが、ずくずく音がするほどひどい。

 なんだか世界が点滅している。

「……大丈夫って顔色じゃないですね」

 青いってより真っ白ですよ。言うと男は彼女の体に手をかけ、膝裏からすくって、ひょいと抱えあげた。

「わあ、軽いな」

「はな、放してください、……大丈夫です、わたし、大丈夫です、ひとりで立てます、……その、本当に大丈夫なので、わたし、」

「すこし横になって休んだ方がいい」

 胸に抱えられ、どうしていいやら混乱してもがく彼女へ、男は声をかける。本気で心配してくれているらしい。

「ミシュカ」

 こちらに目をやり、同じように気づかわしげな声をあげた店主へ、ちょっと上で寝かせます、男はこたえた。

「たぶん、貧血か、そんなものじゃないかな。休めば直ると思いますが、……なにか、気が落ち着くようなものでも」

「わかった」

 お願いします、そう言い置いて、コロカントを抱えたまま、酒場の中扉を器用に開けると、男は二階へ続く階段を上りはじめた。

 

 

「おろしてください、本当に大丈夫ですから、」

「そんな顔して、大丈夫もなにもないでしょう」

 できるだけ揺らさないようにして、男がゆっくり一段一段のぼっていくのが判る。

「それと、自分はそう筋肉ダルマじゃないですからね。あんまり暴れると、ふたりして階段の下に逆戻りですよ」

「……っ、……、」

 のんびり男が言った。その言葉に、コロカントは暴れることをやめる。ここで暴れて、彼が自分を取り落とすだけならともかく、巻き込んで双方転げ落ちていくというのは、善意で運んでくれている相手に対してたいへん申し訳ない。

 申し訳ない、というより居心地が悪いの極致だった。背負われるならともかく、こんなふうに抱き上げられたことがまずない。これまでの人生で初体験だ。

 お伽話(とぎばなし)の姫君は、こんなふうにして危機一髪から救った王子や騎士に抱えられているけれど、いったいどこの力をどんなふうに入れたり抜いたりしたら、相手が抱えやすいのかもさっぱり判らない。

 そもそも、重くないのかと心配になった。背丈は五尺ほどある。大人と同じなのだ。きっと重いと思う。

 けれど尋ねるには、男の顔が近すぎた。こぶし三つ分ほどの距離だ。あの、だとか不用意に話しかけて、おとこがひょいとこちらを見下ろしたら、恥ずかしさで死ねるかもしれない。

 もういろいろといたたまれなさ過ぎる。 

 しかたなく身を固くしたまま、男の顎の先あたりを睨むようにして、じっと動かなくなる彼女へ、ふ、と男が笑った。吐息だけのちいさな笑いだ。

 その笑いにやっぱり見覚えがあるような気がして、目眩(めくら)みがひどくなる。

 そうこうしているうちに男は階段を上り終え、つきあたりの扉を開けた。

 扉の向こうは小ぢんまりとした部屋があって、寝台がひとつ、椅子がひとつ、転がっている酒瓶がいくつか、それから窓枠に置かれている楽器のたぐいが見えた。

「ここね、親父さんの休憩部屋なんですけどね」

 勝手知ったる足取りで、男はその寝台へ進む。

「親父さん、店が終わると家に戻っちゃうんで、ほとんど倉庫なんです。ありがたく自分が転がり込んでるわけで」

 そうしてその上掛けの上へそっと彼女を下ろし、枕をあてがって頭をすこし高くすると、

「自分は下に行ってますから。ちょっと休んでらっしゃい」

 そう言った。

 そのまま男は踵を返し、言ったとおり、店内へ下りて行く。彼女があ、と声をかける暇もない。

 男が去ると、ふいにしんと部屋は静まりかえり、開け放った窓からは、夜気がぬるい風と共に流れ込んでくる。

 この細い路地からは、大通りの喧騒も遠い。

 とにかく眩暈をどうにかしないことには、動きようがない。言われた通り、いまは大人しくすることにして、コロカントは寝台の上で手を瞼にあて、深く呼吸をくり返した。

 

 そのままいつの間にか眠っていたようだ。

 

 目を覚まし、休むだけのつもりが、眠っていたことにまずぎょっとなって、コロカントは半身を起こした。

 飲まず食わずで暑い中半日ほど走ったとはいえ、男から探し人でないと告げられたことがショックだったとはいえ、ただバラッドと外見が似ているだけの、見ず知らずの人間の部屋で眠ってしまったわけで、不覚にもほどがある。

 不覚にもほどがある。そうして無警戒だ。あつかましさもはなはだしい。

 とんでもないと思った。

 いつの間にか額に濡らした手ぬぐいがあてられていて、それすら気づかず寝ていたのだ。彼女が身を起こした拍子に、体の脇へ滑り落ちる。

 

「そんなに急に起き上がると、また目を回しますよ」

 

 囁くようにかけられた声に、彼女は慌てて目をやった。

 出窓の枠のところに腰を下ろし、小さな真鍮の笛を磨いている赤毛の男がいた。猫のように静かで、まったく気配を感じない動きだ。

「すみません、わたし、眠ってしまったみたいで、……あの、ごめんなさい、」

「さっきよりはだいぶましな顔色になってますけどね。まだ動かない方がいい。もうすこし休んでからお帰りなさい」

 さっきは本当、幽霊みたいに真っ白でしたしね。

 彼女の言葉に、笛に目を落としたまま、こちらを見やらず、男が言った。

「でも、」

「そこ、机の上に、いろいろ並べてあるでしょう。食べられそうなもの、親父さんに見繕ってもらったんです。水も、お茶も、それと……、飲むか判りませんが、飲むなら酒もありますよ。安酒ですけどね。そのまま、そこで食べてらっしゃい」

 男の言葉通り、寝台脇には先までなかった小机が並べられていて、そこに小皿のいくつかと、水の入ったグラス、ポットなどが乗った盆が置かれている。

「こんな、その、ご迷惑をおかけするわけには、」

「いいんですよ。困ってる人間はどうでもいいですが、可愛い子には優しくしろ、が自分のモットーなんです」

 言って磨き終わった笛をことんと置くと、懐から煙管を探り出し、煙草の葉を丸めてゆっくり詰め始める。その手つきが、昔コロカントがまだ小さかった時に、森で見たバラッドの動きそのままだったので、思わず彼女はじっと男の手元へ目を注いでしまった。

 

「……珍しいですか」

 その視線を感じたのだろう、タンパーで表面を軽くならしながら男が薄く笑う。

「そんなに注目されると、どきどきしてしまいますね」

「いいえ、ごめんなさい、わたしの知ってるひとと、同じやり方だなと思って……、」

「その、バラッドとか、バラアドとか言うひとですか」

 そんなに似てますか。

 面白そうに片眉を上げて、男が言った。そうして煙管をくわえ、火を近づける。

「なにか訳ありみたいですねぇ。……まあ、人間、だれしも大なり小なり、生きてりゃ、訳だってくっついてきますよね。きれいなままじゃ生きていけない。悲しいことですが」

 もう一度うながされ、コロカントはおずおず用意された遅い夕食へ手を付ける。ここまで面倒をかけておいて、断り続けるのも好意を無駄にする気がしたからだ。

 見繕ってくれた料理はどれもうまそうだった。中から食べられそうなものを選んで、水と一緒に口に運ぶ。

 

「……探していたとか言ってましたねぇ」

 煙を長々吐きだしながら、男が呟いた。

「……はい」

「聞いてもいいですか。なに、自分のそっくりさんに、ちょっとした興味です」

「……はい」

 そうして彼女はたずねられるままに、この四年の話を、いま先ほど知り合ったばかりの、会いたかった人間に似た相手に話していた。

 似ていたからこそ、そうして知らない相手だからこそ、話せる気がした。

 

 別の土地から、こちらへ渡ってきたこと。

 その際に、とても大切なひとを置いてきてしまったこと。

 もう一度会いたくて、探していること。

 けれど、その相手が、生きてるかどうかすら判らないこと。

 そうして、旅の途中で芸人一座と知り合い、一緒にいること。

 この町には、祭りの期間中滞在すること。

 

 ミランシアだとか、ハブレストがどうのとか、そのあたりの込み入った事情はざっくり省いて語ったけれど、男が存外聞き上手だったので、ぽつぽつと、気付けば用意されたポットの中身をすべて空にするまで、コロカントは話し込んでいた。

 窓の枠にもたれかかり、半分眠ったような顔で、男は時々軽く頷いたり、ふん、と相づちを打つ程度で、余計な口を挟まない。

 

「――その、探している人間が、件(くだん)のバラッドっていうんですね」

 半時ほどは話していたのかもしれない。

「はい」

 やはりこの目の前の男はちがうのだろうか。

 ……こんなに似ているのに。

 彼女がじっと男の姿を見つめていると、その視線の意味を感じとったらしい男が、だから自分はちがいますよ、とかわすように口角を上げる。

「自分は、ここから東の方の旅の空生まれでね。お嬢さんのお話じゃないですが、それこそ、旅芸人の夫婦の間に生まれた子供で、……その両親は、自分が成人する前に、風土病(ふうどびょう)で死んじゃいました。それからはずっとひとりです。町の酒場から酒場を流しで歩いてるような……まあ、根無し草ですねぇ。イツハァクはなかなか、居心地がいい。この部屋も借りられましたしね。定住しようかな、なんて思ってるうちに半年です」

 あらためて見まわして、それからコロカントは、男が出窓に腰を掛けている理由に思い当たりはっとする。

 寝台は自分が使ってしまっているとはいえ、部屋には椅子もあった。幅の狭い窓枠にもたれるより、椅子の方がずっと座り心地はいいはずだ。

 男があえて出窓にいるのは、寝台から、そこが最も距離が離れているからだ。

 善意と言っても、コロカントは女で、彼は男だ。しかも、いっ時ほど前に知り合ったばかりの、お互いの素性も性質も、ほとんど判らない他人同士だ。

 だから男は、寝ている自分を怯えさせないように、彼と二人の空間で怖がらせないように、いっとう距離を置いて、しかも決してこちらを見ない。

 笛を磨いたり、煙管をもてあそんだり、窓の外へ目を流したりと、威圧を感じさせないように気遣ってくれている。

 

「……ごめんなさい、お暇(いとま)しなければ」

 気づくとますます申し訳なくなった。

 初対面の人間の部屋に転がり込んで、身の上話を聞かせるだなんて、本当にとんでもない。

 半分事故みたいなもので、残り半分は男の好意だとしても、あまりにも図々しいと今さら気がついた。

 これでは、店で男が言っていた、理由をつけて近づく女となにも変わらない。

「でも、」

「もう大丈夫です。おかげさまで、気分がよくなりました。ご迷惑をおかけしました。本当に、ありがとうございます」

「……、……そうですか」

 上掛けをととのえ、寝台から降りた彼女をちらと窺って、なにかもの言いたげな顔をした男が、

「まあ、大丈夫ですかね」

 顔色をたしかめたらしい。

「……催事区でしたね。送りますよ」

 言ってはじめて大きく身動き、煙管を懐にしまって立ち上がった。

 

 

 つい半日前まで、まったく知らなかった男と、肩を並べて歩いている。

 しかもその男は、自分が会いたくて会いたくてしようがなかった男と、瓜二つの顔をしているのだ。

 なにかの冗談かと思った。

 店の明かりは既に落ちていた。なので、裏口から外に出る。

「……お店のご主人にも、お詫びを申し上げなければ」

 迷惑をかけてしまった。コロカントは肩を落とす。常連の多い店内で、自分はかなり異色の存在で、わざわざ招き入れてもらったのに、歌うたいの男にすがりついて大騒ぎしてしまった。

 

「大丈夫ですよ。明日、自分から言っておきますから」

「……でも、」

「お嬢さんは若いから、まだ知らないかもしれませんがね、酒を飲む場ってのは騒ぎなんて、日常茶飯事です。気にしてないと思いますよ」

「でも、」

「どうしても気になるようなら、また、来られるときにでも店に顔を出したら、親父さんも安心するんじゃないですか」

「……そうします、」

 

 祭りの興奮が冷めやらぬ商業区や催事区は、それでも明け方まで人通りがあるのかもしれないが、居住区は寝静まってひそやかだ。

 寝静まった路地はかなり暗い。

 男が角灯をもって半歩先を先導してくれているが、よくよく目を凝らして進まないと、足元がおぼつかない。

 その上路地は段差も多かった。踏み外すことが怖くておっかなびっくり歩いていると、

「足、悪いんですか」

 気づかわし気に男がたずねた。進みの遅い自分に苛ついているのかもしれない。

「……すみません、悪いわけではないんです。昔、ちょっと痛めたこともあったんですが、それももう治っていて……、でも、また怪我するのが怖くって、どうしても」

「ああ、」

 合点がいったらしい男が歩を止める。そうしてコロカントの横に並ぶと、

「じゃあ、こうした方がいいでしょう」

 言って、ひょいと角灯を持っていない方の腕を差し出した。捕まれと言うことらしい。

「……あの、」

「躓(つまず)いたら、支えますからね」

「でも、」

「迷惑とか、ここまで来たら、言いっこなしですよ。言ったでしょう。可愛い子には優しくしろ、です」

 穏やにうながす男の声に、ためらいながら彼女は腕に掴まる。

 長身の彼の腕はしなやかな筋肉で覆われていて、意外にかっちりしていた。

「手は離しちゃいけませんよ」

 

 ――手を離すと、迷子になっちゃいますからね。

 

 彼女が掴まったことを確認した男が呟いた不意の言葉に、過去の誰かの声がかぶさって既視を感じ、コロカントは一瞬立ちくらみをおぼえた。

 ぐっとこらえる。

 男にさとられてはいけない。

 ここでふらついて、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。

 こらえ、それからなんだか泣きべそをかきたくなって、コロカントは下を向いた。下を向き、そのまま歩く。暗い足下を注意する言い訳があってよかったと思う。

 あんまりだ。そう思った。

 ずっと会いたかった。会ったらたくさん、話したいことがあった気がする。

 ……でも。

 

 もう余計なことは何も考えたくなくて、そのあとは一心不乱に足下だけを見て彼女は歩いた。

 男がなにかを言って、自分は何か頷いたり、答えた気もするけれど、よく覚えていない。

 うすい寒天質の膜が自分の頭の中に張っていて、音も、視界もおぼろだ。

 店が閉まったということは、とっくに深更を過ぎているのだろう。ずいぶん遅くなってしまった。きっと、宿泊場に戻ったら、グシュナサフや、ララや、それから座長に、こんこんと説教されるに違いない。

 そんなことだけ思いながら、ふと顔を上げた彼女は、建物と建物のあいだに挟まれるようにして立つ、ひとつの小柄な影を見た。

 

「……コロカント、」

 こちらを窺いながら、声をあげたのは、青年ブランシェだ。

 探してくれたのだと思った。

 心当たりがある彼が、こちらへ来たのだろう。

「その、隣のひとは」

「……ああ、彼氏さんかな」

 青年の探る目つきを流すようにして、赤毛の歌うたいが言った。歌うような軽い口ぶりだ。

「彼氏、」

 俺が?青年の怪訝な声に、

「ほら、君のかわいい彼女さんがね、うちの店で気分が悪くなっちゃったもんだから、ちょっと休ませててね。うん、もう夜も遅いし、ひとりで帰すわけにはいかないでしょう。だからここまでエスコートしてきたんですよ。……彼氏さんが迎えに来てくれたなら、もう安心ですね」

 に、とコロカントを一度覗きこむようにして、笑いかけ、そうして、

 ……あ、

 男の側からすっと身を引き、手を離す。

 思わず引き留めそうになった視線を、彼女は頬の内を噛んでこらえた。これ以上、バラッドに似ているだけの赤の他人に、わがままを言うわけにはいかないと思った。

「ありがとうございます」

 固くなったまま、頭を下げる。

「本当に、いろいろ、ご迷惑をおかけしました」

「いやなに、いいんですよ。よかったら、また店に遊びにいらっしゃい」

「……はい」

 頷く肩を抱くようにして、青年がおい、と男のかわりに彼女を覗きこむ。まだ男に対する不審の目を解いていない。

「大丈夫か。何かあったのか」

「なにも。何もありませんでした」

 本当に何もなかった。

 ……何かあったらよかったのに。

 ぼやける視界を拭うと、眉根を寄せた青年がまたおい、と声をかける。

「コロカント」

「なんだかね、彼女、いろいろ抱えちゃってるみたいだから。彼氏さん、いろいろ聞いてあげてくださいね。……それと、お嬢さん、探し人じゃなくて、ごめんなさいね」

 いつの間にか出した煙管をまた口に咥えて呟くと、……じゃあね。男は背を向けて去っていった。

 彼女の手に角灯を渡したままで、あちらに光源はないはずなのに、まるで見えているように男はさっさと歩いていく。

 ……まるで見えているように。

 気づいてはっとなったコロカントがもう一度見直そうとしても、男の姿は闇に溶けて、もうどこにもいないのだった。

 

 

 

 

最終更新:2019年08月20日 00:56