歌うたいの男と出会った二日後、コロカントは返しそびれた角灯と謝礼を包んで、また居住区を訪れていた。

 

 本当は男と会った翌日、すぐにでも挨拶に向かいたい気持ちだったけれど、さすがに一座の皆や、グシュナサフたちにさんざん心配をかけた手前、反省し、出控えるのが筋だと思った。

 それに、自分の気持ちをすこし整理したかった。

 

 あの赤毛の男が、バラッドなのか、それとも本当に瓜二つの他人であるのか、コロカントにはまだよく判らなかった。他人の空似、という言葉があるけれど、たったひととき接しただけで、空似と言うには、あまりにも彼と似ているところが多いと思う。

 似ているからこそ、空似、というのかもしれないけれど。

 けれど、もし、本当に空似ではなくバラッド本人なのだとしたら、まるで知らないふりをどうしてするのか判らなかった。いたずらにしては度が過ぎているし、たちが悪い。

 彼がそこまで悪ふざけするようにも思えない。

 

 ……じゃあ、どうして。 

 片膝を寄せて、じっと考えこむ。

 

 忘れたいことなのかもしれない。

 会いたくて一心に想っていたのはコロカントの側だけで、男は離れたのを幸い、厄介な任務を放り出して、肩の荷が下りたのかもしれない。

 あなたは何も悪くない、以前彼はそんなふうに言ってくれたけれど、悪くないということと、彼が自由になりたいかどうかは別の話だ。

 なにもかもに、疲れてしまったのかもしれない。

 しがらみから放たれて、自由になりたかったのかもしれない。

 もし彼が望むなら、自分にそれを責める資格はない。そう思った。もう十分すぎるほど、彼はたくさんのものを犠牲にして彼女を守ってくれた。

 

 あの日、日をまたいで戻ったコロカントへ、グシュナサフもララも、何も聞かなかった。正直、何があったと聞き探られると覚悟していた彼女は、拍子抜けた気がした。

 青年から、ある程度聞いていたのかもしれない。

 察したのかもしれない。

 聞き探られなかったのを幸いに、彼女の側からも、歌うたいの男に関して、詳しく話すことはしなかった。ただ、気分を悪くしたときに、親切にしてくれた人間がいたとだけ伝えただけだ。

 グシュナサフが出張れば、きっとこの問題はもっと早く解決されるのだろうと思う。グシュナサフとバラッドの付き合いは長いと聞いた。二人だけが知るような、過去の出来事もきっとたくさんあるに違いない。

 歌うたいの男が本物か、それとも赤の他人か、即日に結論が出ると思った。

 ……でも。

 コロカントはためらった。真贋を決定することを、先送りにしたかった。せめてもう少しだけうやむやなままで、もしかしたら、の希望を捨てたくなかった。

 だから、言葉を濁した。

 ずるいのは判っている。

 

 ――どうしましょう、お礼は、お金を包んだ方がいいのでしょうか。

 ――なに、金まで大仰(おおぎょう)なことは、相手も望んでいないでしょう。ちょっとした手土産で十分だと思いますよ。

 

 曖昧にしたままでグシュナサフに相談し、助言に従って茶菓子を携え、二日前よりもだいぶマシな心境で、コロカントは第二市場までたどり着いた。

 

 まだ夕刻の早い時間、市場は買い物客でにぎわっていた。

 そこではた、と戸惑う。ここからの道順が、あやふやだということに気付いたからだ。

 どうせなら、しっかり店の番地を聞くか、書きとめるかしておくべきだった。自分の不手際に歯噛みしても、今さら遅い。

 あの店に看板はなかった。だから、店の名前もさっぱりだ。市場の売り子に尋ねるにしても、店の名前が判らなくては、聞きようがない。

 あのときは目茶苦茶に歩いていたから、どう歩いたかも判らない。

 通行の邪魔にならないように道端にそっと避けながら、眉間に皺を寄せた。

 ……どうしよう。

 俯きかけた視界の端に、その時ちら、と赤い色が引っかかった気がした。

 

「――ミシュカさん!」

 

 最初になんて声をかけたらいいのか、だとか、また会いに来て迷惑ではないか、だとか、来る途中に、堂々巡りになっていた悩みは瞬間吹き飛んで、気がついたときには顔をまっすぐに上げ、コロカントは雑踏に消えていきそうな背中に向けて、呼びかけながら駆けだしていた。

 一瞬、目を丸くした男が声に振り返る。緑の目が丸くなると、どこか猫じみた顔になった。

「――おや、可愛いお嬢さん」

 彼女を認めると、男はにっこりと笑った。

 赤毛の頭。やに下がった顔つき。片懐手(ふところで)に、着崩した姿。もう片手には酒瓶の入った包みを提げていた。どうやら酒を調達しに、市場に出向いていたらしい。

 彼女の視線に気づいて、うん、と男が手提げを上げてみせる。

「寝酒を切らしましたのでね。開店前の準備運動と言ったところです。……ところで、今日はどうしました、また迷子になったんじゃあ、ありますまいね」

「違います、迷子じゃないんです。今日は、ミシュカさんにお礼を言いたくて、わたし」

「自分に会いに来てくれたんですか。やあ、嬉しいな」

 ふ、と相好を崩した男に、ずくと胸が痛んだ。この笑顔は卑怯だ。こっそり心の中で毒づく。……バラッドと同じ顔で、嬉しそうに笑うだなんて、ずるい。

 

 そのまま促され、男の横に並んで市場から道を歩く。今度こそ道順を忘れないようにと、きょろきょろあたりを窺い、番地を確認する彼女に気づいた男は気付いたらしい。

「店の場所ですか。奥まって見つけにくい場所にありますが、そんなにややこしい道順じゃないんですよ。市場のいっとう南口から、市場を背にしてですね、三叉路を右、道なりに進んでまた右、つきあたりを左、そこで小さな広場に出ますから、その真ん中の通路をまっすぐ行って、路地のつきあたりを左です」

「……ええと、」

「聞くとむずかしく聞こえますけど、歩くと簡単ですよ。百聞はなんとやら」

 右、右、左、と繰り返したコロカントに、男がまた笑った。

 歩きながら汗ばんだらしい首筋をぼりぼりと掻いている。動きに、着流した上着がはだけ、胸板に点々と赤紫の痣があるのが見えた。接吻痕だ。一瞬目を止め、すぐに気づく。

 ……誰が、誰と。

 かっと自分の顔が赤くなるのが判った。

「うん、……?」

 急に赤くなったコロカントに、どうしました、男が顔を窺うように屈みこむ。

「……こないだは青かったり、白かったりしてましたけど、今日は赤いですね。熱でもあるのかな」

「ちち、違います。大丈夫です、なんともありません」

「でも、」

 眉根を寄せた男が、すっと手を伸ばし、額に触れようとした。

「……あの!」

 縮まる距離に焦ったコロカントは、

「これ、その、このあいだのお礼で、ええと、つまらないものですが、それと、本当にお世話になりました、あの、」

 真っ赤になったまま支離滅裂になりつつ、ぐいと提げていた包みを差し出し、一歩男から離れる。

「お礼ですか?このあいだ、帰り際に、きちんと言っていただきましたよ?」

 一歩離れた彼女の様子にか、それとも言葉にか、怪訝な顔をした男へ、

「違うんです。わたし、角灯もお借りしたままで、このあいだお店でご迷惑かけて、そうしてご馳走していただいたのに、そのまま帰ってしまって、……、」

「あー、」

 合点がいったらしい彼が包みを受け取り、中をちらと覗きこんだ。

「そんな、別に急いで返しに来なくたってよかったんですよ。……それにまあ、ご丁寧にお菓子まで。これ、商業区の店のやつでしょう。ラヴェリーなんたらとかいう、舌噛みそうな名前の。夏限定の水菓子とか、あそこ、並ばないと買えないやつですよね」

「よく判らなかったのですが、一座のお姐さんがたに聞いたら、そこがおいしいって……、あの、お口に合いますかどうか、……というか、ミシュカさんが甘いものが好きかどうかもよく判らなかったのですけれど、」

「好きですよ。甘いもの、よく食います。でも、こんなにたくさんいただいて、自分だけで食べちゃうのはもったいないですねぇ。……そうだ、一緒に食べませんか」

「え、」

 気がつくと店の前に付いていたようだった。

 まだ開店前のようで、店の扉は準備のために開いていたが、中に客の姿はない。

「店が開くまでまだ間がありますし、開いたって、最初は客の入りはぼちぼちなんです。常連は宵っ張りが多いですからね。そうそう自分はお呼びじゃないんですよ。歌うたいの出番は、客に酒が入ってからですし」

「あの、でも、」

 手招きされてコロカントはためらう。店の主人にも、迷惑をかけた詫びを含め、挨拶したいのは山々なのだけれど、これ以上、男のペースにのせられてもいいものかどうか迷う。

 迷惑じゃないのだろうか。上目遣いで窺うと、視線に気づいた男が、おや、と片眉を上げた。

「今日の興行は終わったんでしょう?ですよね、だったら、急いで戻らなくたっていいわけだ」

「でも、」

「大丈夫、今日はそこまで遅く帰しませんよ。ちょっとだけ、……ね?」

 そこまで誘われて、断るのも失礼かと思う。小さく頷いて、促されるままに、彼女は店の戸口をくぐったのだった。

 

 

 中に入り、開店準備の店主に二日前の不躾を詫びたあと、男に奥の卓席を勧められ、コロカントはおずおずと腰を下ろす。

 このあいだ飛び込んだときは、無我夢中で、よくよく店内を見回す余裕もなかったけれど、客もまだない今日は、じっくりとカウンターや、吊り下げられたランプのほやの形や、客が書いたらしい壁に貼られた絵、あめ色に変色した木床などを見ることができた。

 落ち着く店だな、と思う。酒場特有の、浮足立った猥雑さがない。

 男はというと、開店準備をするカウンターの向こうへ入りこみ、店主の隣に立っていた。手慣れた動きだった。茶葉を選び、湯を注いで蒸らし、グラスを並べ、ついでに先付をふたつ、盆の上に乗せている。もしかすると、繁忙(はんぼう)どきにはこうして手伝うこともあるのかもしれない。

 

 やがて、準備を終えた男は、

「おまたせしました」

 めかしこんだ表情で、コロカントの座る座卓まで盆をささげてやって来ると、甲斐甲斐しく小皿を並べ、グラスにふたつ、茶を注ぎ、それから斜め向かいに腰を下ろした。彼女に付き合って、酒ではなく茶を飲むつもりらしい。

「……どうしました、」

 男の動きを、思わずひとつひとつ目で追ってしまった彼女は、彼の声にはっと我に返り、

「いいえ、なんでも」

 慌ててグラスに口をつける。

 

「――そういえば、こないだ別れてから、すこし考えたんですけどねぇ」

 しばらくして、懐から慣れた仕草で煙管(きせる)を取りだし、煙草を丸めはじめながら、男が手元に目を落としながらいった。

「ほら、自分が、あなたの探してる人に似ているとか言ってたでしょう。ほくろの位置まで一緒だとか言って」

「……はい、」

「あれって、よく言う、複体(ドッペルゲンガー)ってヤツじゃないんですかねぇ」

 煙草を詰める手を一度置き、小皿の上の茶菓子を一口放り込んで、うん、と男は目じりを下げた。

「うまいです」

「……よかった」

 まるでよくないもやもやした気持ちを抱えたまま、コロカントは言葉を返した。

 面と向かうと、どうにも緊張してしまう。同じように出された、花の形の水菓子に、ちっとも手を付ける気にならない。ぎこちない笑顔の彼女の様子に気づいて、男がすこし困った顔になった。

 見透かされているのだなと思う。

「気になってしょうがないという感じですね」

「え、……、」

「自分が、その、探し人じゃないって確たる証拠」

「――、」

 指摘されて、思わず言葉を失う。

 別の名前で呼ばれていても、生い立ちを聞かされても、心のどこかで、諦めきれない思いがあるのは事実だ。

 

「知りませんか、この世の中には、自分とそっくりな顔があとふたりいるっていう話ですよ。顔立ちも、仕草も、吸ってる煙草だのよく飲む酒の銘柄まで、同じだったりするみたいです。……、だから」

 だから、ほくろの位置も一緒、という人間もいてもおかしくないんじゃないかな、とか。穏やかに言い聞かせるようにしながら、男がまた煙管へ手を伸ばす。

「自分が、……、たとえば、浜に流れ着いた、水難事故で記憶を失った水夫だったとかですね、そういう人間だったら、まあ、ひょっとしたら、忘れてるだけで、その探していた人、って話もあったりするかもしれませんが、なんせ、こないだ話したように、旅芸人の夫婦の子どもでしょう。その探し人とは、なにもかも違うと思うんですよ」

 男が言うのなら、きっとそうなのだろう。彼が嘘を吐く道理はない。

 だのに聞いているうちに、なぜか無性にせつなくなって、コロカントは俯いた。

 なにもかも違う。男は言った。

 ……本当にその言葉通りならよかったのに。

 こんなふうに、すこし語尾を上げるような話し方も、煙管から流れる煙のにおいも、困ったときに首をかしげる仕草、なにもかもそのままで、自分の前で笑わないでほしい。

 泣きたかったけれど、泣いてはいけないと思った。

 彼が言うように、バラッドにどこまでも似ているだけの他人なのだとしたら、目の前でそう何遍も泣かれるのは、本当に厄介で、いい迷惑だと思う。

 だのに目の前がうっすらぼやけて、それが悔しい。もう泣かないと四年前に決めて、それからずっと涙は引っ込んでいたはずなのに、どう言うわけかこのあいだから、涙腺が言うことを聞かないのだ。

 

「ああ、ミシュカ、また女の子泣かせてる」

 

 揶揄する声が聞こえて、潤んだ視界のままコロカントは顔を上げた。

 いらっしゃい。店主に挨拶し、カウンターのスツールにすべり込んだ三人連れの女客が、こちらを見るともなしに眺めていた。いつの間にか開店時間を回っていたようだ。

 すでにどこかで一杯ひっかけてきた様子で、ひらひらと振る手が気怠い動きだ。

「あんた、いい加減にしないと、あとで痛い目に遭うわよぅ」

「絶対、夜道で刺されるとかすると思う、あたし」

「……取り込み中なんです。放っておいてください」

 女たちの声に、むっとした様子で男が返す。

「だって。……ねぇ」

 女三人は顔を見合わせ、にやにやと笑った。

 それからスツールを立ち上がり、ジョッキを持ったまま、見上げるコロカントと男の座卓へ近寄ると、隣の卓に腰を下ろす。

「ちょっと。あっちに座ったんでしょうが。あっちで楽しくやってくださいよ」

「まあまあ。固いこと言いっこなしよ」

「だってミシュカが、そんなふうに、健全に女の子と向かい合ってるとこ、珍しいんだもん」

「……自分はいつだって真剣なお付き合いしてます」

「なに言ってんの。しょっぱなから頭に酒詰まってるの、あんた」

「好き嫌いなしでなんだって食べるって、大口叩いてたの、だぁれ」

 言いあう女客に、なんとなくコロカントは見覚えがある。二日前にも店にいた顔ぶれのようだ。

 そうして迷惑そうに顔をしかめる男にひとりが絡んでいる間に、他のふたりがコロカントにしなだれかかった。

「ねぇねぇ、可愛いお嬢ちゃん」

「は、はい」

 粉白粉のにおいが甘くて、どぎまぎする。

「なんだかワケありみたいだけど、この男と火遊びするのはやめときなさいよぅ。本当に、火傷しちゃうわよ。この半年で、何人泣かせたのか判ったもんじゃないんだから」

「来るもの拒まずでね」

「……やめろ、そのお嬢さんはそう言うのじゃないし、そのひとにおかしなこと吹き込むな」

 後ろにひとつでまとめた赤毛をもみくちゃにされていた男が、いい加減頭に来たようで低い声を出すと、女たちは肩をすくめ、顔を見合わせた。

「あんた、いつもはへらへらしてるくせに、なんで今日に限ってムキになってるの」

「いいじゃない。可愛い子ちゃんと、あたしたちも一緒に飲ませてよ」

「いいからあっちいけ」

 男は軽口に乗らなかった。半ば本気で怒っているようで、目の緑が薄くなっている。

 その様子に面食らったのか、女たちは不意につまらない顔になり、

「おかしなミシュカ」

 ちょっかいを出すのをやめて、隣の席に引き下がると、三人で盛り上がりはじめた。

 

 ふん、と鼻で息を吐きながら、女たちをしばらくのあいだ睨んでいた男は、どぎまぎしたまま、ろくに言葉も出なかったコロカントへ、目を戻し、すいませんと謝る。

「いえ、その、」

 どぎまぎしたものの、女たちの絡みは決してしつこいものではなく、コロカントは特に不快に感じなかったし、男と二人の気づまりな雰囲気を、むしろ助けられた気持ちでいたから、

「……ミシュカさん、人気者なんですね」

 すこし嬉しいような気持ちになって、呟いた。歌うたいの男がバラッドでなくても、同じ顔をした男が、客に弄(いじ)られるほど好かれていることはなんだか嬉しい。

「これ、人気者っていうんですかね……、」

 情けない顔になった男を見て、コロカントは笑った。笑って、それからようやく茶菓子に手を付ける気になって、フォークで小さく切り分け、口に入れた。

 菓子は口の中でとろけて甘い。

「本当、おいしい」

「うん、」

 その笑った彼女を見て、なぜか男が満足そうな顔になった。

 

 

 そうしていくらかほどけた雰囲気になり、しばらく飲み食いしていると、店内も次第に客が入りはじめて、半時ばかりでほとんどの席が埋まった。

 さすがにこれ以上長居するのは気が引けて、支払いをして帰ろうとしたコロカントを、歌うたいの男が引き留める。

「いくらか歌ったら、送っていきますから、ちょっと待ってらっしゃい」

「大丈夫です。まだ遅くないですし、ひとりで戻れます」

「なに言ってるんですか。可愛いお嬢さんを、ひとりで帰すわけにはいきません」

 言って、代わりに乳酒の入ったジョッキを押し付けて行った。飲んで待っていろと言うことらしい。

 おそるおそる口をつけてみると、酸味のきいた、しゅわ、と舌の上で泡のはじける飲み物だった。飲みやすい。酒と言っても、そう度数の強いものではないようだ。

 

 そのまま、ちびちび舐めるようにして、常連客とやりとりしながらつま弾く男を眺めていると、

「ねぇねぇ、」

 再び隣の女三人の卓席から声がした。見ると、ほどよく出来上がった三人が、こちらを見ている。

「お嬢ちゃん、芸人さんなの」

「えっと、わたし、ええと」

 そう言えば、二日前、この店に飛び込んできたときは、舞台衣装のままだった。そうと認識されてもおかしくない出で立ちだったと思う。

「芸人……なのでしょうか」

 一座に身を寄せて、一座の興行の手伝いをしているのだから、芸人と言えば芸人なのかもしれないけれど、そう名乗るには、なんら秀でた技もない。ただ、大道具の塔の上に登って、助け出されるのを待つだけの、手伝い役だ。

 思った通りそのまま伝えると、ふうん、と頷いた女たちが、

「そうだ、ミシュカ、最終日の競技、この子に手伝ってもらいなよ」

 歌の合間を縫うようにして、男に声を投げた。

 

「――は、?」

 

 心地よいざわめきの向こうから、ぎょっとしたふうの男がこちらを見るのへ、

「あたしが出るより、この子の方が可愛いし、若いし、絶対見栄えがすると思う」

「演出効果は大事よね」

「そうよ、そうしなさい」

 口々に言いたてる。

「いやいやいやいやいや待て待て待て待て。だから、そのひとは無関係だって言ってるだろ。なんだってわざわざ巻きこもうとするんです」

 男は本気で泡を食っている。

「だって、面白いもの。あんたが慌てるって珍しいし」

「……なんの話ですか」

 さっぱり話が判らなくて、まじろぎながらコロカントはたずねた。何かを勧められているらしいことは理解できるのだが、流れがさっぱり読めない。

「うん。あのね」

 女のひとりが、彼女へ顔を向けた。

「祭り期間中、催事区の中央広場で、芸人同士の競技が行われてるのは、知ってる?」

「はい、……、力比べしたり、曲芸比べしたりするんですよね。種目別になってて、勝ち抜き戦でやるから、とても盛り上がるとか」

「そうそう」

 とろんとした目をさらに細めて、女が笑う。

「それのさ、最終日に、ナイフ投げがあってね。ミシュカを参加させようって、店のみんなで推してんの」

「ナイフ投げ、」

「うん。すごいのよ。前にね、ええと……ダーツっていうの?樽にさ、的を描いて、みんなで羽矢を投げ合うってのを、やったことがあって。これがさあ、きちんと狙って投げているはずなのに、なんかだいたい、明後日の方向に飛んでいくわけ。それがまたおかしくって、盛り上がってさ。そうしたら、誰かが次の日、的をきちんと作って持ってきたのね」

「で、また、みんなで当たらない羽矢投げて、げらげらしてる時に、ミシュカにもやらせてみたわけ」

 女たちの話を聞きながら、コロカントは黙って話題の男を窺う。男は弾き語りの手を止め、こちらを渋い顔で見ていた

「すっごいのよぉ。百発百中。誇張じゃなくてさ。的に当たるってだけじゃなくて、狙った場所に全部、中(あ)てられるの。りんごとか、ナツメとか、ブドウひと粒とか、的を小さくしていっても中るし、これ結構すごいんじゃないかって、ためしに羽矢じゃなくて果物ナイフ投げさせてみたら、それも上手にあたるわけよ」

「これは埋もれさせておくには惜しいー、って誰かが言いだしてね。でさ、もうすぐ祭りがあるから、そこのナイフ投げ競技に参加させたら、これ、いい線いくんじゃないのって、また盛り上がっちゃって」

「祭りに集まってる、この日のためにやってきた、どこかの一座の誰かじゃなくて、ただの町の住人が勝ち上がっていったら、面白いじゃない?」

「……手伝いと言うのは、」

 男の慌てっぷりで、だいたいの事情を察しながら、彼女が呟くと、

「だからさ、あたしが的役で出る予定だったんだけど、その的役を、お嬢ちゃんにやってもらったらいいんじゃないか、って」

 

「勝手に決めるな。このひとは関係ない」

 

 不意に固い声が近くから聞こえて、コロカントは驚いて視線をその声へ移した。

 いつの間にか、男が楽器を放り出して、彼女たちの傍まで戻ってきていて、

「それに自分はまだ、出るとも出ないとも言っていない」

 不機嫌な声で唸る。……なんでよ、それを聞いた女が、不審な声をあげた。

「だって、あんた、結構乗り気だったじゃない」

「あれはその場のノリというか、……、流れみたいなの、あるでしょう。本気で出るつもりで言ったわけじゃ」

 

「――なんだ、ミシュカ、出ないのか」

 女たちと男の会話を聞きつけたのか、別の卓の男客が身を乗り出す。

「出るからには優勝狙うぞお、って意気込んでいたじゃねぇか」

「賞金とったら奢ってやる、俺らみんなと娼館くりだすって言ってたのは、ありゃ、嘘か」

「いやだから、それは、酒の入った勢いというかですね、」

 男客どもまでが話に加わると、彼の語気がやや弱くなる。

「だって、考えてもみてくださいよ?ね?自分なんかが出たところで、タカが知れてるでしょう。レヴェル違い。言ったって、素人技でしかないんですよ。素人。自分のは趣味。あちらさんは本業。切磋琢磨(せっさたくま)こいてる名人さんたちに敵(かな)うわけがないですって」

「あら、どう見たって、あれは素人まるだしの腕じゃなかったわよ」

「必中だって自分で言ってたじゃない」

「それに、あたしが的なら投げられるくせに、お嬢ちゃんだとできないって、どう言うわけ」

「……だから、」

 勢いがそがれたのをいいことに、女たちが押すと、男が言葉に詰まる。その隙をついて、男客のひとりが、

「ミシュカ、俺ァ、今日、登録してきちまったぞ」

 背中を押すというよりは、最終宣告に近いようなひとことを吐きだした。ぎょっとするを通り越して、愕然とした感じの男が、その発言をした客を二度見する。

「は?え?登録?誰のです」

「だから、ナイフ投げ。お前さんの、」

 赤ら顔の客は、男を指さした。

「登録してくれだなんて頼んでませんよ」

「カミさんと子供に、せがまれて祭り見に行ったついでにな」

「取り消ししてきます」

 がばと身を起こし、いきおい、くるりと踵を返した男に、やりとりの様子を見ていた店の主人が、

「もう夜だぞ」

 突っ込みを入れる。聞いてコロカントは、入り口の向こうに目をやった。確かに、取り消す手続きをするとしても、登録所はもう閉まっているだろう。

 鼻息荒く肩をいからせ、足を踏み出そうとした男は、その主人の声にぐにゃりと足をくじき、床につんのめった。

「ええ、……、……、えええー」

 情けない声をあげてへばっている。見ていてなんだか気の毒になってしまったのは内緒だ。

 

 

 そのあと、顔を覆い、しくしく泣いていた男は、

「ほら嘆くのはあとにして、送っていったげなさい」

 女たちに尻を叩かれて、ようやく起き上がり、彼女と並んで店の表へ出る。

 

 そのまま、競技の話題に触れていいのか、互いに思案し、なんとなく口を噤んだまま、肩を並べて歩いていたのだが、

「あの、ミシュカさん、」

 隣を歩く、若干まだ生気のない男を見上げながら、コロカントはつい声をあげた。

「さっきの話ですけど、その、もしわたしでご迷惑でないなら、」

「駄目です」

 全部を言い切る前に、ぴしゃりと撥ねつけられてしまった。予想していたとはいえ、少しがっかりしてしまう。

「……やっぱり、ご迷惑ですか」

「いや、……、あのね、迷惑とか、迷惑じゃないとか、そう言うのじゃないですよね。というかですね、考えてみてください。きちんと。お嬢さん、あなた、つい二日前まで無関係だった相手から、ナイフ投げられるんですよ。ナイフ。おっかなくないですか。ナイフですよ。先に刃がないやつ投げるにしたって、失敗して中(あた)りどころが悪けりゃ、怪我します」

「怖くないです」

 即答すると、男がぎろりと彼女を睨んだ。

「それはあれでしょう。自分が、お嬢さんが信頼していたバラッドってやつに似てるから、とかそう言うのですよね。ここいらでもう一度はっきり言っておきますがね、自分はバラッドじゃないですよ。ミシュカっていう」

「判っています」

「ちっとも判ってない」

 男の声が不穏を帯び、低いものに変わる。そのまま足を止めたので、どうしたのかをふり仰いだ彼女の視界の両端を、どん、と伸びた彼の手が塞いだ。

 路地の壁に手をついたのだと、一拍遅れて理解する。

「自分は男で、お嬢さんは女ですよ。それも、自分よりも小さくて、力のない小娘だ。路地裏に引き込んでね、抑え込もうとしたらいくらだってできるんです。酒場の女たちの話から読んだかもしれませんが、自分は、そんなに『いいひと』じゃあない。あなたの理想のバラッドのような、聖人君子じゃあないってことですよ。店の客の手前、こうして送っていますがね、途中でオオカミにならないって保証はどこにもないでしょうが」

「そうですね」

「食われたいですか」

「……食べられてしまうのは困りますね」

 腕の中に閉じ込められながら、コロカントは薄く笑った。その顔を見て、男が苛々と眉を寄せる。

「なにかおかしいですか。自分が口先で脅していると思われてるなら、心外ですね」

「いいえ。ミシュカさんも、わたしのことをずいぶん買いかぶってるんだなあと思って」

 わたしもそんなにきれいな人間ではないの。挑発するように男の目を見つめ、続ける。

「……買いかぶる、」

「そうです。わたしだって、誰かを妬んだり、ムカついたり、このクソジジィと思ったり、その他にも、口に出せないような汚いことを、たくさん考えます。自分勝手で、わがままで、思い通りにならないと、内心面白くありません。そうして、そんな自分が厭になることがよくあります」

「……、」

「バラッドと同じ顔のあなたが、あのお店に来る女のひとと仲がよさそうにしていると、なんだかもやもやします。『寝た』痕を見たら、面白くありません。そうして、そう何度も、自分とあなたは無関係だって言われると、どうやったって、無理矢理に、関係をつなげたくて腹が立つ厭な人間なの」

「……、」

 男はなにかを言いかけ、口を噤む。

「ナイフの的役だって、あなたはわたしを脅して、怖がらせて、危ないからってやめさせようと躍起になっているけれど、そんな、心配そうな顔で脅されたって、ちっとも怖くない」

 だってわたしは、的になったことがあるもの。薄い笑みを深いものにかえて、彼女は言った。

「一座の話じゃないのよ。もっとずっと昔、いやも応もなしに、壁際に立たされて、げらげら笑われながら、的になったことがあるんです」

「――それは、」

「怖くて、もう本当に殺されるんじゃないかって何度も思ったんです。すこし離れた壁にナイフが突き立つたびに、ああ次はあれがお腹に突き刺さるんだって思って、そう思っただけで気が遠くなりそうで、……、今思えば、あれはただわたしを怖がらせて楽しむゲームだったのだから、殺されるはずはなかったのだけど、子供のわたしには判らなかった。わたしを的にした人は、太鼓もちの観客がわりに何人も手下を呼んだから、その何人もが見ている前で、わたしは泣いて、その人に許しを乞うて、漏らして、それでもゲームは、その人が満足するまで終わらな」

 自嘲気味に呟く彼女の口が、突如大きなもので塞がれた。

 

「……やめてください。……そういうの、やめてくださいよ」

 

 ひどく苦しそうな声が吐き出される。

 いつの間にか男は視線をそらし、頬を歪めている。塞いだのは彼の掌だ。苦々し気に頭を振る彼のその手は、細かく震えていた。

「……ごめんなさい」

 言い過ぎたことにコロカントは気付き、押さえつけた掌を外して急いで謝る。

「意地悪を言いました。ミシュカさんが聞いたって、面食らうばっかりですよね。こんなこと、……、かっとなって、つい、ばかなことを言いました」

「ちがうんです」

 のろのろと視線をあげた男の目が傷ついていて、彼女は息をのむ。泣き出しそうに揺れた緑の色石。

「ちがうんです」

 そのまま男は苦し気に何かを言いかけ、口を開き、また閉じて、何度か頭を振った。

「ちがうんです」

 三度同じことを呟いて、そうして結局男は口を噤み、大事なことは何も言ってくれはしないのだ。

 

 

 

最終更新:2019年08月27日 00:38