背中に背負ったコロカントの体温を感じながら、男は露店の賑わう区画から徐々に距離を取り、喧騒から離れた。
そうしてゆっくりと足をゆるめ、ほっと大きく息を吐く。
ここまでくれば、追ってくる野次馬もいないだろう。
「ごめんなさい、重いでしょう。降ります」
男の溜息を、勘違いしたのか、背中の彼女が言った。
「何言ってるんですか。まだしっかり歩けんでしょう」
重い?娘の言葉に、うっすら笑いながら男は言葉を返す。
日頃、自分がベッドまで抱えて運ぶ、女たちのずっしりとした重さを教えてやりたいと思った。
彼女は軽かった。そうして若木のようにしなやかで、やわらかく、汗をかいているのに、いいにおいがした。
役得だよな、と思う。降ろすつもりは当然ない。
「このまま、一座の天幕まで、お送りますよ」
「……すみません」
男の下心(したごころ)をまるで知らない彼女が、申し訳なさそうに体を縮こまらせる。
その娘が身動くたびに、耳元に飾っただいだい色の花が、同じように揺れ、蜜をこぼしながら香りをふりまく。彼女は気付いているだろうか。男はふと思った。
この香りは、頭の芯をくらくらさせるほど甘い。
「……今日は、いろいろとすみませんでした」
そのめまいに似た痺れを打ち払うように頭を振って、男は言った。
おかしな気を起こす前に、彼女の寝泊まりする一座の天幕がある区画へ、歩いてゆくことにする。
「食って、飲んで、踊って、的までやらして、調子に乗りました。詰め込みすぎです。すみません。腰を抜かすのも当然です。反省してます」
背負ったまま頭を下げると、そんな、背中から慌てた声がする。
「そんなことないです。とても楽しかったもの。……今までで、いちばん楽しかった」
髪を結いあげ、頭に花を挿し、せいいっぱいにめかしこんで、驚いたり、喜んだりする彼女はとても可憐だった。
飲みなれていない、飲めもしない酒を飲めると言い張り、大人ぶって、半分も減らさないうちにしゃっくりが出る彼女が愛おしかった。
彼女が、しんから楽しそうに声を立てて笑うのがうれしくて、もっと笑ってほしくて、無茶をした。
ずっと見ていたかった。
「その、……、言い訳ですが、一度でいいから羽目(はめ)を外して、思いっきり祭りを楽しむってのを、やってみたかったんです。ばか騒ぎっていうんですか。ばか騒ぎするには、ばかにならないとできないわけでしょう。後先考えず、ばかになって……、……。でも、限度ってものが考えていませんでした」
もう一度頭を下げた男の言葉に、そのとき彼女はなにか言いかけたのだと思う。けれど口を開いて言葉を発するより前に、
どおん。
建物と建物の隙間の路地の夜空に、轟音と共に、夜空の大輪のかけらが見えた。花火だ。
「あ」
一瞬ぎょっとなり、それから花火だと気づいて、男も娘も空を見上げる。
空いっぱい埋め尽くす火の粉が、ぽたぽたと頭上に降り落ちてくるようで、すこし離れた会場から、拍手と歓声が聞こえてくる。
すかさず、二発目、三発目が重なる。
打ち上げ場所が近いのか、反響音が、体にじんじん沁みて痛いほどだ。
密着している彼女からも花火の振動が伝わって、なんだか繋がったひとつの体のようだな、男は思う。
このまま帰してしまうにはすこし惜しくて、
「……帰る前に、ちょっぴり、寄り道していきましょうか」
あともうじき、小広場をみっつ向こうで到着、というところで、男は言った。
「花火が見える、いいところがあるんです」
「はい、」
もう無茶はしませんね。
頷き、付け加えて、彼女がちらっと笑った。
「ここ、穴場なんですよ」
案内したのは、細い路地のつきあたり、あまり近寄るものもない格子の裏側だ。
隠されるようにして、鉄梯子(てつばしご)が設置されており、雨樋(あまどい)と共に屋根の上に伸びていた。
秘密基地みたいですね。わくわくした声で娘が言う。
「たぶん、普段は、煙突掃除夫さんが使う梯子……なんだと思うんですけどね。ほら、あのひとら、仕事柄、どうやったって屋根に上らないといけないわけでしょう。普段は誰も使わないし、ここ、つきあたりだから、通り抜けもしないし、地元の人間も、あんまり気付いてないんです。子供は柵があるから越えられませんしね」
「ミシュカさんよく見つけましたね」
「自分は、なんていうか……、一宿っていうんですか、ひとがあまり来なくて、ごろ寝できるところを探していたら、まあ見つけたというか」
この町に来たころの話だ。
夜露をしのぐことにも、あまり頓着していなかった。雨ざらしでよかったのだ。
ただ、不審なものへじろじろ向けられる往来の視線は億劫だったので、人目を避けるところを探していた。見つけたひとつがここだ。
「登れますか」
「はい」
背中から降ろすと、彼女の足取りはしっかりしていた。抜けた腰も戻ったらしい。
先に屋根に上がり、登ってくる彼女に手を貸して引き上げる。
「まあ、」
這いあがった瞬間、頭上に、ひときわ大きな花火が上がって、彼女が感嘆する。きらきらした瞳が花火に照らされて、とてもきれいだった。
男も真似て、大きく空を仰ぐ。
高い空から火の粉が降りそそぎ、それは屋根にも届きそうだ。
掴んでみたいと、ふと思った。
手を伸ばして届けば、なにかが叶う気がした。
「……あ、そうだ」
今なら、花火の音と火の粉にまぎれて、勢いで言ってしまえる気がして、男は口早に語りかける。
「さっきの景品、あったでしょう」
硝子(がらす)細工のそれは、そこそこ高価なものではあるはずだ。
ああ、はい、と帯に挟んであったそれを取り出し、男へ手渡そうとする彼女へ、
「いや、それ、たいしたものでもありませんが、よかったらもらってもらえませんか。……そのぅ、……、一緒に祭りを回った記念に、みたいな」
「……、」
彼の言葉に、じっと娘がこちらへ目をやった。
光の洪水を反射するぶどう色の目が、年齢よりも大人びた、ゆらゆら不思議な色をたたえている。
しばらくそのまま目を合わせる。吸いこまれそうだと思ったころにようやく、煙草、と彼女がぽつんと呟いた。
「はい、?」
「煙草、今日は吸わないんですね」
「ああ、いえ、だって……、煙(けむ)いでしょう」
持ってはいたが、咥える気はなかった。これでも一応気を使ってはいるのだ。店ならともかく、せっかくめかしこんでいる女性相手にぷかぷか煙管をふかし、よそ行きににおいをつけては悪いな、だとか言う、
「吸ってください」
彼女は言った。
「好きなんです。……その葉っぱのにおい」
「……自分はかまわんですが、」
彼女の頼みに、それでも、……本当にいいのかな?遠慮しいしい、おずおずとふところに手を伸ばし、煙管を取りだした男へ、
「退屈な話をしてもいいですか」
たったいま思いついた、そんな口調で娘が言った。
「はあ、話ですか」
「はい。ミシュカさんにはまるで関係のない、……聞いていたってちっともおもしろくない、退屈なだけの話だと思います。でも、……、吸い終わるまで、」
辛抱して聞いてもらってもいいですか。
思いつめたような彼女の様子に否とは言えなかった。続きをうながすように、黙ってそのまま刻んだ葉を丸めはじめた男へ一瞬目をやり、
「――ものごころついたとき、わたしは森に住んでいました」
娘は口を開いた。
「ものごころついたとき、わたしは森に住んでいました。母ではない、わたしの面倒を見てくれる年上の女のひとがひとりいて、そのひとと、それからいくらかの家畜たちと。季節はあったけれど、そこは冬が圧倒的に長くて、一年の半分は雪で埋もれていました。こっちじゃあ、考えられないくらい、もうずっと雪が降るんです。……その雪の森の、半分崩れた塔の中で、わたしは暮らしていました」
男は黙って、火皿に丸めた煙草の葉を詰め、また次の玉を丸める。
「普段はわたしと、その女のひと――オゥルという名前でしたが――、そのオゥルとふたりの生活でしたが、時々、森にやって来るひとたちがいました。男のひとでした。そのとき、わたしはまだ、四つや、五つでした。男のひとたちは、オゥルと同じように、ずっとずっとわたしより年の離れた、大人でした。……わたしは、そのひとたちが好きでした」
愁いを帯びた声で彼女は言った。
「わたしは森の外に出てはいけないと言われていました。どうして森の外へ出てはいけないのか、外はどれだけ危ないか、男のひとたちは一生懸命、わたしに説明してくれましたが、そのころのわたしは、わかってる風な顔をして、半分もわかってなかったと思います。もっと、即物的に、森では手に入らない、瓶に入ったビスケットや、甘いこんぺいとうや、白くてやわらかなパンや、絵本や、ぬいぐるみや……、そんなものがうれしかったし、楽しみでした」
……男のひとはふたりいて、彼女は続ける。
「子供だったわたしに、親切にしてくれました。ふたりとも、たいへんやさしくて、丁寧で、わたしはどちらも好きだったけれど、あるとき、わたしは、そのうちのひとりと話していると、胸がどきどきすることに気づきました」
このあたりが痛くて、苦しかったの。言って彼女は心臓の上あたりを押さえた。
男は葉を均(なら)しながら、聞いていますよとちいさく頷きを返す。
「でも、どうしてそんなふうにどきどきするのか、考えてみても、あまりよくわからなかった。食べ過ぎて苦しいのかな、とか。急いで走ったからかな、とか。……子供すぎたんですねぇ」
彼女は笑う。
「ふたりが森から去ると、塔の中ががらんとしてさびしくて。またやって来るまでが待ち遠しくてたまらなくて、……、森が深い雪で閉ざされてるあいだ、そのひとは来られなかったから、春が来て、早く雪がとけてほしくてたまりませんでした。じりじりとしながら、春が早く来ればいいのにって、そればかり思って。……そのころのわたしは、そのひとが持ってきてくれるお菓子や、話して聞かせてくれる森の外のお話が、待ち遠しいからだって思っていましたけれど……、今だったら、すこしわかる気がします。わたしは、そのひとが、好きだったんですね」
「……、」
煙管を咥え、火をつけながら、男は仕草にまぎらわして、一瞬ちらと娘を窺う。
次々に上がる花火を見上げ、彼女は微笑んでいた。瞳に映ってはいたけれど、きっと彼女はもう、花火を見ていない。
鼓膜の奥で、遠い春の雪融(ゆきど)けの音がする。
「……そのひとが弾いてくれる曲が好きでした。胡坐(あぐら)をかいた膝に乗って、後ろから聞こえてくる、そのひとの声を聞いているのが好きでした。でたらめな歌だって、こんなの森の外じゃあたいしたことないって、わたしが褒めるたびに、そのひとは謙遜したけれど……、でも、わたしは素敵だと思った。ぱちぱちと薪の爆ぜる音と、高いところを歌うとき、すこし掠れたように歌う声と、それから煙草と、香り袋のまじったにおい。大人の男のひとのにおい」
大好きだったにおい。
「……、」
煙草、と聞いて男は煙管の先にふと目をやった。ここから上る煙のにおいが、さっき彼女は好きだと言ったな。
「それから……、しばらくして、森を離れなくてはならない事情になって、わたしはずいぶん長くひとりで過ごしたこともあったけれど、そのときも、そのひとのことを考えると、胸の中があたたかくなって、頑張れた。もうだめだって思った悲しい夜や、寒い夜でも、そのひとが歌っていた歌を歌ったら、朝が来ることを知りました」
ふ、と風向きが変わった気がして、男は遠くへ目をやった。雨が降る前のにおいがする。
「だけど、よく考えたら、そのひとと会った時間なんて、全部足したって、たぶんひと月にもならないの。だから、ひとを好きになるっていうのはそういうもんじゃない、そんな短時間でできるもんじゃない、それは勘違いだって言われたら、そうなのかもしれない。外から来る、時々しか来ない、めずらしいひとだから、特別だって思えたんだって言われたら、そうなのかもしれません。わたしはそのひとを好きだと思ったけれど、あの気持ちは、恋だとか愛だとか、そんなはっきりとした形のものではありませんでした。もっとあやふやで、名前も付けられない、ぼんやり掴みどころのない、でも、目を凝らすとどうしてかそこにある、陽炎(かげろう)のようなものでした」
彼女からなるたけ顔を背け、長々と男は息を吐きだす。
わかるよ、口には出さないがそう思う。名前も付かない、指のあいだからこぼれていってしまうような曖昧なもの、判る気がするよ。
「そのひとは、わたしのことを助けに来てくれました」
娘は膝をかかえる。気になって目を走らせると、痛みをこらえるような顔をしていた。
「ぼろぼろでした。人間が、こんなになるのかっていうくらい、痛めつけられていて、全身、泥と垢と血で汚れて、それでも、そのひとは来てくれました。ぼさぼさに伸びた髪が、ところどころ毟(むし)られてて、手の指に爪はひとつもなかった。拷問されていたんだと思います。……だのにそのひと、お前のせいでこんな目に遭ったとか、苦しかったとか、恨み言ひとつ、言わないんです。わたしの心配しかしないの」
おかしいでしょう。笑っちゃう。
言いながら、彼女はすこし泣き出しそうな顔をしているのだ。
「そこから逃げ出して、追手を巻きながら、何日も何日も野宿をして遠くへ行こうとしました。夜になると、わたしを抱えて寝かせて、そのひと自身は何日も寝ないんです。大丈夫、徹夜は慣れてるからって言って、ずっと神経を張り続けて、……大丈夫なわけないんです。なのに口にするのは、干し肉みたいな乾物ばかりで、きちんとした食事が摂れないで申し訳ない、とかそういうのばかりなの。もういっそ、面倒な子供なんか放り出して、見捨ててしまえばよかったのに。そうすれば、あんなに痛い思いをしなくてもよかったのに。なのに、わたしを庇って、獣に噛まれて、ろくに手当てもしないから傷口がぱんぱんに腫れて。熱が高くて、息ができなくて死にかけてるのに、そのひとはわたしに、泣かないでください、なんて言うんですよ」
ぽつ、と雨が空から落ちてくる。
ああしまったな、男は尻を浮かせかけ、それから動こうとしない娘に気がついて、また腰を下ろす。
遠い目をする彼女は、もしかすると、雨にも気付いていないのかもしれない。
「あともうすこしというところで、とうとう追手に囲まれて、逃げられなくなりました」
ぽつ、ぱた、様子を窺うように落ちてきた雨粒は、たちまちその数を増して、ぱちぱち、かつかつと屋根を叩きはじめる。
「わたしを追っていた人は、たぶんわたしにしか興味がないひとだったから、わたしを差し出せば助かるのに、誰も、そうしようとしませんでした。それから、熱も下がらない、ご飯も食べてない、どう考えたってもう限界の体で、そのひとは追手を引きつけるために出て行きました。最後にすごくやさしい顔をして。こっち見て笑って。すぐ戻りますって嘘をついて」
驟雨であたりは真っ白だ。
男も彼女も、ずぶぬれになって座っている。
「不器用で、言うことは、調子のいい嘘ばっかり。とてもやさしいひとでした。ただなし崩し的に、押し付けられただけの役目だったのに、わたしを放りだすことができなかった、弱いひとでした。そうしてわたしに、好きなように生きていいんだって、言ってくれたひとでした」
わたしはそのひとが好きでした。
ひっそりともう一度コロカントは言った。男に聞かせるというよりは、知らず口からこぼれてしまったような言葉だった。
「お嬢さん、」
しばらく言い淀み、それから雨でとっくに火の消えた煙管を咥えたままで、男は彼女を呼んだ。
「戻りましょう。風邪をひきます」
「……こんなに暑いんだもの。かえって、冷やされて涼しくなるぐらいだわ」
「せっかくのよそ行きでしょう。刺繍がダメになってしまいますよ」
「いいの」
かたくなに彼女は首を振る。それから不意に顔をあげ、
「ごめんなさい」
すがりつくように囁いた。
「わたしの長い話に付き合わされて、知らない人間の名前を何度も出されて、似てる似てるだなんて言われて、おまけに雨まで降ってる。ミシュカさんが面白くないのはわかっています。本当にごめんなさい。……でもわたし、どうしても、今日でおしまいにしようと思って」
真剣な顔だった。
「おしまい、……、」
自分の口から、ぽろ、と言葉が漏れたのが判る。
「はい。このあいだも言ったでしょう。わたしはいやな女です。自分のことばっかり考えて、ちっともひとの気持ちを考えない、自分勝手な女です。ミシュカさんのことを利用して、自分の気持ちにケリをつけようとした、腹黒い女です。ミシュカさんに心配される資格なんてない。……、わたし、お祭りがとても楽しくて……、いままで生きてきて一番、楽しかった。こんなに笑ったのなんて初めてっていうくらい笑いました。でも、お祭りが楽しければ楽しいほど、わたしはあなたに申し訳なくて……、風邪をひいて当然なんです。悪いことをしたら、罰を受けないといけない」
「お嬢さん、」
娘はのろのろと男に視線を合わせ直す。
「さっき、ミシュカさんは、振り回したと言ったでしょう」
その目は先ごろと同じ、不思議な色をたたえて笑っていた。その彼女の頬を、容赦なく大きな雨粒がたたく。
「わたしも同じです。あなたを、バラッドのかわりにして。むかし祭りを回る約束をしたその通りに、あなたとなぞってみせて。あなたがわたしを心配して、気を使って、やさしくしてくださるたびに、そらとぼけて嘘まみれのわたしは、あなたに申し訳なくてならなかった」
だらだら流れてゆくそれは、涙のように見えるのだ。
「お嬢さん」
「明後日、町を発ちます」
おのれを叱咤するように、娘は囁く。弾かれるように男は目を見開いた。
「この数日、本当にお世話になりました。お店にも、お客の皆さんにも……、ご迷惑をおかけして、親切にしていただいて……、本当に、お礼の申しようがありません」
「発つ。……発つって、どちらへ」
「わかりません」
さびしそうに娘は笑った。花がほころんだように、ぱっと笑ういつもの笑顔でない、ひどくさびしいちいさな笑いだった。
「一座に身を寄せているんですもの。行き先は座長さんが決めるのだと思います。わたしはまだ知りません」
そうしてゆっくりと身動いて、立ち上がる。
どん。
雨の中、またひとつ花火が咲いた。
「明日」
慌てて腰を上げ、なにを口走っているのか自分でもよく判らないまま、男は言った。
「明日、よければ、……よければ、ですが、遠投げの応援に、ちらとでもいらしてください。その、きっと自分は、こてんぱんに鷹の目とやらにやられる一方だと思いますが――、」
「……ごめんなさい」
聞いた彼女は心底すまなそうに首を振る。
「明日は興行の最終日で忙しいですし……、もう、ミシュカさんにお会いしない方がいいと思います」
「なぜ」
「わたしが嘘つきな女だからです」
「お嬢さん」
うなだれたまま、彼女は梯子を下りる。
その細い背を追いかけ、せめて送りますよと声をかけると、彼女はまた頭を振った。
「もう、すぐそこですもの。ひとりで帰れます」
「……じゃあ、せめて、記念品だけでも」
「いただけません」
彼女がつい今しがたまで座っていた場所に、小さな箱ごと指輪は置いてあって、
「そんな、重い意味のつもりじゃないんです、ただ、なんとなく楽しかったなぁって、祭りを思い出すよすが程度でも」
なんとか引き留めたくて食い下がると、一旦足を止め、彼女は振り向いた。
耳元の花が、雨にしおれていた。彼女と同じだなと思う。
「指輪なら、わたし、ひとつだけ持っているんです」
土砂降りに負けない、きっぱりとした口調で答えた。
「それは、……、」
「――それは氷でできていて、指にはめてじきに、溶けてしまったものです。子供の体温なんて無駄に高いから、きっとあっという間に溶けてしまったに違いないんです。溶けてしまって半べそをかくわたしに、」
――今度は溶けない指輪を差し上げましょうね。
どん。
だいだいに照らされ、尾を引いて流れる火の粉が名残惜しそうにかき消えてゆく。
いつの間にか、雨ではない、生温かい雫が細めた目から溢れ、顎からしたたって、
「わたしはそんな栓のない約束を待っている」
笑いながら彼女は泣いていた。
しばらくして涙を拭い、もう一度深く腰を折ると、娘は去ってゆく。
彼はあとにぽつんと残された。
「くそ」
頬をしたたる雨に苛立って、彼は乱暴に袖で拭う。
今日のために借りてきた店の主人の金糸の上着は、濡れてぐしゃぐしゃだ。これは弁償しなければならんな、そんなことを思いながら、……そんなのどうでもいいか。
路地の壁にもたれ、ずるずると腰を下ろす。
足下には水たまりができていたが、そのまま、汚れるのも濡れるのも気にせず、小半ときばかり、ぼんやりと頭上を、口をあけて眺めていた。
いつの間にか花火は終わっていたようだった。
やや小降りになった雨の中、どこか遠くできょ、きょききょ、きょきょ、と鳴き交わす夜鷹(よだか)の声がする。
オスがメスを呼ぶ求愛の声だ。
まるでさっきの俺だな。思ったら、妙に皮肉な笑いが出た。
火の消えた火皿から濡れた煙草を落とし、ふところの葉を丸めて煙管に詰め直す。濡れた上着の中で、湿気ってしまったそれは、うまく火が点くはずもなくて、ぶすぶすと煙をすこしたてただけで燻ぶり、やはり消えてしまった。
あきらめ悪く葉を落とし、また丸め詰め直す。
燻ぶる。また詰め直す。
むきになっているなと自分でも思う。
それから不意に諦め、煙管をしまうと、うなだれて鼻をすすった。
あびるように酒を飲んで、そうしてげろまみれになって、前後不覚にぶっ倒れてしまいたいと思った。だがあいにくここには酒がない。
賑やかな広場へ行けば、いくらでもあるのは知っていたが、取りに戻るのはいやだった。腕を組み、楽しそうな笑顔ばかりの、、あの幸せな場所に戻るには自分はあまりにみじめだった。
細い路地はひっそりとしている。
そのまま一度がっくりと頭を落とし、そうして手鼻をかんだ彼は、ようやく陰に立つ相手と対峙する諦めがついて、
「なにかご用ですか」
声を投げた。
「フラれたおっさん見て、なにか楽しいですか」
「――いや、」
これと言って用はないんだ。答えてのそのそ足音を立て、暗がりから相手が姿を現した。