この国ではそこまで珍しいものではないとはいえ、派手に目立つ赤毛の自分と比べると、中肉中背の黒い頭の男はたいそう地味だと思う。そうして、全身をがっしり覆う鋼のような筋肉は、数年経っても相変わらずだった。

 不器用に見えてやたら器用な男なのだ。機微(きび)に疎い自分より、よほど細やかなところに気がゆく。

 舗装された町中で、いくらでも足音を殺して歩けるのに、それをしない。視界の効かないところから近寄る、ただそれだけのために、わざわざ気配をあらわにし、音を立てて歩いてみせる。

 そうしてそれを自然にやってのける。厭味だよなあと彼は思う。

 

「……器の差を見せられてるみたいでいやだなあ」

「何が」

「いや、こっちの話です」

 不機嫌そうな顔でずかずか近づいたグシュナサフは、手にした酒瓶を差し出した。

「飲むか」

「飲みます」

 大歓迎だった。ず、ずと鼻をすすって手を伸ばすと、お前、とおかしそうに片眉を上げられる。

「泣いてるのか」

「泣いてますよ。……うるさいな。フラれたって言ったでしょう」

 痛いところをいちいち突くなよ。

 むかつきながら言葉を返す。この男とは、どうせどこかで、話をつけなければならないと思っていたのだ。

気がかりがあちら側からやってきてくれるのは都合がいい。

「タイミングは最悪ですけどね」

「だから何の話だ」

「別に」

 ふて腐れた思いで瓶の栓を歯で引き抜き、勢いよく呷(あお)る。

 度数のぐっと強い蒸留酒が、喉を焼いて滑り落ちていった。予想して構えていたものよりだいぶ強かったので、つい噎せかえる。

「……あんたにしては、ずいぶん強かないですか」

「ヤケ酒なら、べろべろに酔わないと意味がないだろ」

「……、」

 ほとんど把握しているような元同僚の声に、口元を拭い、なにか返そうと彼は口を開き、また閉じる。

 結局なにを話してよいか判らなくて、またひと口、瓶の中身を口にふくんだ。

 

 明かりの落ちた路地裏は暗い。雨雲がかかり、月明かりも星明かりもないのだから余計だ。

 グシュナサフは立ったまま、彼は壁に寄りかかり座ったままに、互いに黙り込んで雨の音を聞き、四半ときほど不機嫌もあらわに酒を呷っていたが、

「……おい」

 珍しく男の方から口を開き、彼を呼んだ。すこし沈んだ声だった。

「はい」

「ミシュカと言ったか」

「――はい」

「お前は、」

 一瞬男は言葉に迷い、

「……お前は、そっちの生き方を選ぶんだな、?」

 そうたずねた。

「……、……、……、そうですね」

 たっぷりと間を置き、ごしごし頬を拭いながら、

「あんたに小細工は通じるように思えないので、正直に言いますが、それが一番いいと思いますよ」

 浅く頷いて返す。

 そうか、と男はこたえた。そのまま、黙してまた酒を含む。

 すこし肩すかしな気がして、彼は顔をあげ、男をちらちら窺った。

「なんだ」

 視線を受けて、男が片頬を歪める。無愛想に笑っているのだ。

「空になったなら、酒の代わりはあるぞ」

「いえ、そうではなくて」

 まだありますよ。酒瓶を振り、中身を揺らして彼も薄く笑う。

「なんか言うことないんですか。なんか。追及。いろいろ。なんでこんなことしたんだ、とか。この四年なにしてたんだ、とか。このままでお前はいいのか、とか。根掘り葉掘り。いろいろ」

「追及されたいのか」

「されたくないです」

「じゃあ、聞かんよ」

 ごそごそと胸もとを探り、紙巻きを取りだすと、男は彼に抛(ほう)りなげる。不意の動きだったので、受けそこね、あやうく水たまりに落としそうになり、慌てて彼は両手で転がした。

 

「――大きくなっただろ」

 おととと、と手のひらの上でお手玉しかける彼へ、唐突にグシュナサフが呟く。

「はあ、……ええと、」

「彼女。見た側も、内面も。成長したと思わんか」

「……、」

 年が明ければ成人だしなあ。顎に手をやり、感慨深げに男は続けた。

「この四年、毎日、寝る間も惜しんで、懸命に勉強してな。価値観と、知識と、常識を、今まで覚えることができなかった分、自分は身につけないとならない、って。そうでないと、何かを選んだり決めたりするときに、自分は判らない、知らないで逃げてしまうからって――、どっかの、土壇場(どたんば)でビビって、しっぽ巻いて逃げだすやつとは違って」

「ああ、……、俺、やっぱり説教食らうんですね」

 ちくちく刺さる厭味に、苦笑いして彼は煙草に火を点ける。

「まあ、でも、しようがないか。説教くらい食らわないとダメかもしれないなあ。……泣かせちゃいましたし」

 彼女は笑いながら泣いていた。栓のない約束。

 叶うとは思っていないのに諦めることもできない。悲しい指切り。

 その顔を見たとき、今まで別人を騙(かた)っていたなにもかもぶん投げて、今しがたフラれたこともすっぽり忘れて、引き寄せて、抱きしめたい衝動にかられた。

 とどまったのはどうしてだろう。

 

「でも、……、……それでもねぇ」

 彼は呟く。お言葉ですけど、この四年、俺もそれなりに考えたんですよ。

「考える時間は腐るほどあったんです。なにしろ、最初の一年は寝たきりでしたしね」

 煙と一緒に、しみじみ自嘲を吐きだした。

 

 うんざりするほど聞きなれた、海風の音がよみがえる。

 

 

 その日、目が覚めると、彼は土間に寝かされていた。

 ……あれ。

 一瞬、自分がどうしてここにいるのか、今までなにをしていたのか判らなくて、混乱し、とにかく現状を把握しようとした。

 あたりを見回そうとするものの、体が固められたようにまったく動かない。まばたきするのがやっとだ。

 ……いやこれは、目が覚めるというよりは、無理矢理起こされたと言った方が正しいんだろうな。

 目覚めた瞬間、全身引き攣れる強烈な痛みが、なだれうって襲いかかり、気絶したかったのに意識が完全に覚醒する。

 くそ、こんなことならずっと人事不省でいればまだましだったのに、だとか歯ぎしりし、うんうん呻吟していると、半日ほどしてようやく部屋の戸のきしむ音が聞こえた。

 近くから聞こえた。えらく小さな部屋であるようだ。

 目玉を動かし、必死に音の鳴る方を見ようとするが、やはり体は動かない。首を傾けることすらできないのだ。

 その彼の耳に、おや、だとか低くしわがれた声が聞こえてきた。

 視界にひょいと顔をのぞかせたのは老人だ。日に焼け、なめしたような皮膚が、そのまま骸骨の上に貼りついているような、肉付きのまるでないのがまず目についた。

 干からびた蛙(カワズ)、だとかと言う言葉が彼の頭に浮かぶ。

 

 ――目が覚めたかね。……お前さん、自分がなにものか、覚えてるかね。半月ばかし、意識がなかったが、忘れちゃないかね。

 眠りの美女なら大歓迎だったんだが。

そのカワズが言う。深刻そうな色はない。面白がっている口調だった。

 ……半月。

 返そうとしても喉がつぶれ、呻き以外の言葉も出せないことに、彼は気がついた。

 

 カワズの老人は、日に二度、小屋を訪れ、彼の傷の具合をたしかめた。

 背中の矢傷のほかに、体のあちらこちらに裂傷やら擦過傷やら打撲痕などがあって、追い剥ぎでもなかなかここまでしないわな。老人におかしなところで感心された。

 のちに知ったが、寝かされていたのは、漁師小屋だ。

 帆布や網の替えや、修繕用の木材と言った、普段は使わないものを押し込んでおく、三間ちょっとの板壁の物置だった。彼を最初に見つけた漁師が、ここへ運び込んだということだった。

 ――最初は、土座衛門(どざえもん)が流れついたと思ったらしいがね。

 老人が言う。

 

 ……しまった、いやなものを見たな。

 漁師は思ったそうだ。

 関わるどころか、できれば見たくもないが、波打ち際にそのまま放置し、腐敗するのも見てくれがよくない。集落のすぐ近くで、臭われるのも困る。満潮でまたどこかに流れていってくれればよいが、期待通りに運ばれるとも限らない。

 いやだな。……いやだなあ。

 しようなしに近づいてみると、その水死体に、まだ息があることに気がついたのだという。

 ――まあ、虫の息だったな。

 彼の幸運だったのは、息があるうちに運び込まれたことと、処置が的確だったことだ。

 老人の腕はたしかだった。本人は詳しく語らなかったが、どうもその昔、どこかの宮城の御典医だったということだった。

 御典医まで務めた老人が、なぜこんなひなびた漁村に暮らしているのか、ふと気になりもしたが、ひとにはそれぞれ事情がある。彼自身も、なぜこんなところにいるのだと聞かれて、うまく説明できる自信はない。尋ねることはしなかった。

 

 老人が訪れる以外に小屋への来訪者はなかった。

 日がな一日、動けない体で彼はひたすら木目の浮いた天井を眺めて過ごした。

 

「唖(おし)になるかと思いました」

 彼は言った。

「誰とも、なにも話さないんです。もうずうっと長いあいだ。朝晩、お医者の老人が通ってくるって言ったって、俺、寝てただけだし、話すことなんてたいしてないんです。せいぜいがところ、今日は晴れたなとか雨だなとか言う、その日の天気くらいなもんですよ。退屈だし、動けないし、もう尻に根っこ生えるかと」

 

 煙草も酒も医者から止められ、体が動かないので自分勝手でこっそり入手もできない。傷にはよいかもしれないが、鬱屈した気持ちばかり溜まる日々だった。

 ばかみたいに口をぽかんと開けて、天井の木目をかぞえる日々だった。本気で、気鬱になるか、悟りがひらけるかどちらかだなと思った。

 痛み止めの薬で一日のほとんどをうつらうつらしていなければ、実際気がふれたかもしれない。

 

「窓があれば、まだ外が見られたんでしょうけどねぇ。ほったて小屋でしょう。寝かせてもらえてるだけ御の字で、……、まあ、普通は、素性の知れない、傷だらけでぶっ倒れてた半死半生の外部の男なんて、警戒されますよね。俺だって警戒します。漁村のだあれもやってこない」

 薬が切れれば、痛みを紛らわす方法もない。

「……そこで、もう若くないなあって、なんだかしみじみ実感しましてねぇ。なんせ、傷の治りが遅いんですよ。いくらか縫ったんですけどね。閉じない。若い時分に戦場で矢傷を受けたりもしましたが、ここまで治りが遅かったかなあ、だとか思って。そうして閉じても、今度は攣れたり、腫れたり、膿んだりで。……ようやく起き上がれるようになったら、半年経ってました」

 よたよたと四つん這いで小屋の外に出て、目に入った海の青さはどうだ。

 潮風が目に沁みて、まともに開けていられないほどだった。

 そうして、ああ、世界は美しいなあと思う。

 

 

「別に、苦労の押し付けしてるわけじゃあないんですよ」

 二本目に火を点け、深々と煙を吸い込んで、彼は言った。

「俺はこれだけ頑張ったんだぞって、アピールしてるわけでもないんです。たいしたことしてないですしね。……ただ、そこでまともに動けるようになるまで、また半年ほどかかって、それから海を渡ったわけでしょう」

 すでにこの漁村に居ついてから一年経っていた。

 

 最初はねぇ。

 闇の中に浮かぶ赤い火の一点をくゆらせながら、彼は続ける。

「最初はすぐにでも駆けつけようと、必死だったですよ。気ばかり急くんですがね、体が動かないんです。立ち上がって、歩行する。その簡単な動きすら、赤んぼよりうまくできない。ばたん、です。自重があるから余計ですよ。早く感覚を取り戻そうと、いろいろやりましたがね。……まあ、そのころは、まだ、自分も熱く燃えていたというか、どこにいたって必ずあんたらに追いついてみせる、みたいな、根拠のない自信もありました。……、……でも、……」

 でも、四年でしょう。次第にしょんぼりと声が沈むのを自覚する。

 四年だった。まだ四年と言うべきか、もう四年と言うべきか、そもそも自分はこの四、という数字にあまり恵まれていないようだ。

 四年彼女を森に押し込め、四年塔に捕らわれた。離れて四年。次の四年はいったい何かなと思う。

 

「十年ひと昔って言いますけどね。四年もすりゃ、わりと忘れます。ものすごく痛かったとか、ものすごく辛かったとか、そんなことでも、喉もと過ぎればって、案外その通りで、けろりと忘れたりするもんです。時が解決するとか言うでしょう。そのときは、たしかに、メシも喉を通らないくらい悲しくて、苦しくて、お先真っ暗に思ったって、時間が経つうち、ゆっくりと諦めは身に滲(し)みてくる。理屈じゃないんです。おかしなことがおかしいと思えるようになる。味のなかったものも、食えばうまいなと思えるようになるし、花が咲けば美しいと思う。……正直、もうこのまま、俺は死んだって、忘れられた方がいいんじゃないかなって」

「――あきらめたのか」

 しんと静かな声でグシュナサフが口をはさんだ。

「あきらめるのか」

 そうですね。くたびれた笑いを口の端に浮かべ答える。

「数えたんですよ。船乗る前に。指折り数えたら、俺、もう三十後半になってました。……、初老とか、そろそろ言われちゃうんですよ。老いのはじまり。こわい。そんで、なんだか急に現実突きつけられた気がして」

 開いた手のひらの指を、いつの間にか数えるように折っていた。

 

 彼が別人を騙(かた)ろうとしたのも、たいして深い意味はなかったのだ。とくだんに、他の生き方をしたかっただとか、生まれ変わってみたかっただとか、そんな重いものでもなくて、ただ乗船の際、便宜上、本名はどうかなと思い、適当に思いついた名前を名乗った。

 名を名乗ると、勝手に自分の口から、すらすらとその別人の生い立ちがすべりでた。それは北の小国ですごした、陰惨なおのれの半生とはあまりにもかけ離れた、平々凡々な別の人間の人生だった。

 そのまま、別の名前で生きようと思った。

 

「前の名は捨てたんだな、」

「……捨てたとか、」

わらってしまう。

「だから、そんな、決意表明新たにした、ご立派で大仰(おおぎょう)なものじゃあないんですって。……ただ、あんたもさっき言ったでしょう。もう少ししたら、あのひと、成人するって。あのひといま十五でしょう。十五。……俺、三十七で、あのひと十五で、その差二十二。倍でもどうかと思うのに、倍以上。なんか考えただけで吐きそうです。二十二て。昔、あんたが、終わってるなって、俺に言ったことありましたでしょう。ありましたね?」

「あったな」

「俺ね、そのときはたいして思わなかったんですよ。あの頃あのひとはまだほんの子供でしたし」

 そもそも、好きだという気持ちは、そこまで先々のことまで考えるのかな。そうも思う。

 好きだと思うその瞬間、一緒にいたい、いると楽しい、せいぜい考えるのは一週間やひと月先のあれやこれや予定の話で、数年後、十数年後を見据えて、計画的にひとを好きになるだとか言うことはあるものなのだろうか。

「俺、あのひとが好きでしたよ。でも、好きだあって思うのと、好きだからそれを口に出して、好きだ、だから付き合いたい、ていうのは、また別の話なんじゃないかな。俺は別に、彼女を俺のものにしたいわけじゃなかった。ただ、時々森へ行ったときに会えてうれしい、それだけ。想ってる、それでいいと思ってたんです」

 それでも、彼女との大きく離れた年齢差は決定的だと思った。

 ああ、俺、終わってるんだな。

 すとんと納得してしまった。

 

「俺ね、邪魔だって思いました」

 肩をすくめて彼は言った。

 

「あのひとはもう長いあいだ、籠の中にいたような生活で……、ようやっと、自由になれたでしょう。自由ですよ。何だって、好きなことができるんです。行きたい場所にいける。食べたいものが食べられる。ここはすこし暑いですが、ミランシアだとか、ハブレストだなんて言う人間もいない。同盟がどうの、協定がどうの、あのひとを縛り付ける、目に見えない縄はなにもない。好きなように生きていいんです」

 彼女に相応しい、誰かと幸せになってほしいと思った。

 それは願いだ。

 どんな若者かな。彼女を包み込んでくれるかな。

 彼女は笑顔が可愛いから、相手も、きっと笑顔が素敵な人間にちがいない。

 彼女と並んで、なんら違和感のない、おかしな目で見られることも、勘違いされることもない、

 ――自分は彼女を縛るものになっていはいけない。

「あきらめようと思いました」

 彼女を追ってはならない。

「もう邪魔しちゃあいけないって思いました。はい、傷が治りましたー、もう元気ですーって、のこのこ顔出してごらんなさい。ここでの出会いがいい例だ。無駄にあのひとをかき回すだけに違いないんです。だから」

 捨てたわけじゃないんですよ。ただ、俺は、俺を全部、置いてきたんです。

 二本目の吸いさしを水たまりに押し付けながら彼は言った。

 

 ただ、船に乗っているあいだ、どうしようもなく悲しかった。自分は彼女と会うつもりもない、会ってはいけない、

 ……じゃあどうして海を渡っているんだろう。

 

 あのひとはやさしいですからね。彼は笑った。

「あのひとはやさしいですから、きっと、俺のゴリ押ししまくった勢いに、惑わされちゃってるんです。刷り込みってあるでしょう。ひよこの。卵から孵って、いちばん最初に見たものを親と思うっていうあれですね。あんな感じで、身近な人間に好意を抱くっていうのが、変な方向に捩(ね)じれたんじゃないかな。……まあ、捩じるのに一因作った自覚はあります。……でも、それに、いつまでも付き合わせるわけにはいかないですよね」

 二等船室で、心臓がぎりぎりと絞めつけられるように痛くて、うずくまって過ごした。どうしてこんな状態を、失恋だとか言うのだろうと思った。

 失うものなんて何もない。

 失ったわけじゃあないんだ、ただ諦めたんだよ。

 忘れようとした。

 八つ当たりのように、酒と女におぼれた。一日酒を呷り続け、ごみ溜めで泥のように眠った。髪と髭は伸び、垢じみて臭った。虱(しらみ)も湧いたが、どうでもいいと思った。

 飲み賃がなくなると、そのあたりで芸を披露してまた小金を稼いだ。やっていることは、あのろくでなしの育て親と同じだなと思うと、よけい荒(すさ)んだ。

 最低な生活をしていることは判っていた。だがやめようがなかった。

 自分は弱い人間だ。

 行きずりの女とくたくたになるまで腰を振り、寝台にぶっ倒れ込んで眠るときだけは、痛みがすこしましになる気がした。

 

「それまで、あちこちふらふらしてたんですけどね。この町に流れてきたのが半年前で……ここは祭りなんてなくたって、普段からひとが多いんです。ひとが多すぎて、ごちゃごちゃしていて、誰も、お互いのことを必要以上に干渉しようとしない。忙しくて、みんな暇がないんです。なんか、俺にはしっくりきて、長居してたら、酒場にいきなりあのひとでしょう」

 死ぬかと思った。言葉の綾(あや)でなしに、本気でそう言える。

 心臓がひっくり返るどころか、二回転半ひねりしたのちに、口から出てくるかと思った。

 

「会わんでしょう。普通。運命なんて陳腐なことは、言いたかないですよ。しめし合わせてもないのに会うって、何分……、何十万とか、何百万分の一とか、どれだけの確率なんですか。本当、店の入り口にあのひとが姿を見せたとき、横っ面はたかれただとか、ぎょっとした、だなんて言い表しじゃあ生ぬるくて、もうね、なんて言ったらいいですか。目の前真っ暗になって、音も聞こえなくなりました。……曲弾いてましたけど。立ったまま気絶する、って言うのがあるくらいだから、もしかすると弾きながら気絶してたかもしれない」

 どうしよう。どうしよう。どうしたらいい。うわあどうしよう。

 そんな意味のない言葉ばかり頭の中をぐるぐる回り、やがて彼女がこちらに気づき、膝にすがられ切々と訴えられても、鼓動のうるさいのはそのままだし、いっそう破裂する勢いで打ち鳴らされていた。

「バクバクですよ。バックバク。俺、具合悪くなったあのひと抱えましたけど、絶対聞こえてるだろうなってくらい、高鳴りです。小鹿かってくらい膝も笑うし、なんか俺の方が具合悪くなりそうだった。心臓疾患でもあったら、確実にあすこで死んでいたと思います。もう本当、どうしてバレなかったんだって言うくらい。あのひとじゃなかったら、きっとバレてたんだろうな」

 そらとぼけた覚えはあるが、演技ができたかどうかは自信がない。

 貧血を起こし、蒼白になった彼女を抱え、二階まで連れて行ったが、あいだの記憶もほとんど吹っ飛んでいる。

 落ち着け、とにかく部屋に運べ、落としちゃだめだ。落とすなよ、絶対落とすなよ。落ち着け、落ち着け俺。

 言い聞かせたことだけ覚えている。

 自分を取り戻したのは、一旦下へ戻り、上へ運ぶ食事を、盆に乗せたあたりからだ。

 

「俺がミシュカと名乗ると、あのひとは半信半疑で……、……二信八疑くらいだったかもしれない、でも、信じようとしてくれてるのが見て取れました。けなげって美徳ですね。……人を疑わないのは、相変わらずだなあって。これだけ露骨な、四方八方破れの嘘、信じようとするのって、……たぶんあのひとしかいないんじゃないかな」

 じっと見つめる、濡れたぶどう色の瞳は相変わらずだった。

 そこかしこに、四年前別れたころの彼女の残り香があって、だのに全体的にのびやかに、予想していたよりもずっと、

「――きれいになりましたねぇ」

 ぽろ、と言葉がこぼれた。

「ここだけの話ですが、惚れ直しました。ひと目惚れの次って……なんて言うんでしょうね?ふた目惚れ?……、惚れ直して、……。惚れ直して、それで、……俺はもう十分だと思ったですよ」

 成長して美しくなった彼女を見られたのは、四年前の自分への褒美なんじゃないかな。そう思えた。

 あの死にものぐるいの頑張りは、無駄じゃなかった。

 彼女を見ることができた。それだけでもういいじゃないか。

 

 ――それだけでよかったのに。

 

「でも、俺は、結局、卑怯なんだよなぁ」

 酒瓶の残りを乱暴に呷って、彼はまた笑った。

「身を引く、だとか、諦める、だとか、ごもっともに嘯(うそぶ)きながら、やってることは真逆なんです。本当だったら、言葉通りにするつもりなら、あの夜会ってしまったすぐあとに、この町を離れるべきでした。あのひとがまた会いに来ようとするのは判ってることで、だったら、本気で俺が姿をくらますつもりだったのなら、ここにとどまっちゃあいけなかった。さっさと夜逃げするべきでした」

 だのにしなかった。彼女が探して会いに来るんじゃないかと思うと、どうしても引き払うことができなかった。

「まあ、すぐにあんたが来なかったのは意外でしたけどね。もっと血相変えて、鬼の形相で、うちの娘になにしてくれるって、お義父さんがその晩のうちにでもやって来るかなって覚悟してたんですけどねぇ」

「誰がお義父さんだ」

「似たようなもんでしょう。保護者なんだから。――あんたはそれでいい。不道徳で不純な思いなしに、あのひとの側にいて、陰に日なたに支え、あのひとの成長を見守ってやれる。あのひとにとって、必要なひとだ」

 ……でも、じゃあ俺は?

 そう思った。

 俺は彼女にとって、いったい何なんだ?

 

「――今晩かぎりって、自分に言い聞かせたんですよ」

 空になった瓶を振って催促すると、飲むのはいいが、倒れたあとの介抱はせんぞ、釘を刺しながら、男が二瓶目を投げてよこした。

「ずるずる引き延ばせば引き延ばすほどよくない。俺は、あのひとにとったら、会いたい人間じゃなくて、瓜二つの別人なんですからね。あのひとの傷が癒えるどころか、えぐる一方だ。だから、今夜、祭りに誘って……、あのひとと一緒に回ってね、めいっぱい楽しんで、そうして、楽しかったね、またねって、さよならするつもりだったですよ」

 だのに、気付いたら必死に追いすがっていた。なんとか引き留めたくて、約束を取りつけたくて、

「見苦しくてあさましいことこの上ないです」

 ――ごめんなさい。もう会えません。

 その上、きれいにフラれてしまった。

 がっくりと肩を落とし、抱えた膝の間に頭をうずめながら、

「笑いたけりゃ、笑ってもいいですよ」

 おのれを笑ってやるつもりの唇が歪む。

「俺はミシュカです。それで押し通すって決めたんです。……だのに、……、あきらめようって、俺は俺を向こうに置いてきたはずなのに、……、心臓が痛いなあ」

 グシュナサフの言う通り、土壇場でびびって、鼻水垂らして逃げ出した臆病者だ。

 二瓶目を一気に半分ほど喇叭飲(らっぱの)んで、そうして彼は鼻をすする。酔っ払いの中年が、酒を飲んで思い出話にくだを巻いている。

 もうどうしようもない。自分で自分が厭になる。

 

「やる」

 唐突にグシュナサフがふところを探り、片手になにか握らされた。

「なんです」

「やる」

 軽くたしかめて、それが色紙に包まれた、紅白のアルヘイ糖であることに気がついた。祭りの露店で見かける駄菓子だ。

「……俺は子供ですか」

 情けない声がでる。男なりに慰めてくれたのかもしれないが、飴玉で泣き止む子どもあつかいは、あんまりだと思った。

「これで喜ぶのは、迷子の子どもぐらいでしょう」

「べそかいてりゃ同じようなものだ」

「悪かったですね、ガキと同じで」

 ぶつくさ言いながら包みをはがす。口の中に放り込むと、焦がした砂糖の香りが口の中に広がった。

 

 

 

 

最終更新:2020年03月20日 00:16