そうしてしばらくまた互いに無言になり、ころころ飴玉を口の中で転がしている彼の横で、グシュナサフも酒を呷る。
もう話すこともないな、と思う。
水たまりに腰を下ろしていたので、じっとりと染み込んだ水は、下穿きまで濡らして不快なことこの上ない。気温が高く、風邪をひきそうもないのだけが救いだ。
それでも体の上っ面は冷えたようで、みっつほどたて続けにくしゃみをしてのちに、
「うん、……、?」
ふと顔を上げた。
鼻奥を、ほんのかすかにつんと刺す、なにか気がかりなにおいを、空気の中に感じたのだ。
体を叩く雨のにおいにまぎれて、ともすれば気付かないほんのかすかなにおい。
ほんのかすか、だがたしかに胸さわぎを覚えるにおい、
「煙」
いや違うかな。くん、ともう一度鼻をひくつかせて、傍らの元同僚を仰ぐ。
「どうした」
「あんた、においますか」
「いや」
俺は判らん。花火じゃないのか。訝しげな声で男が呟く。
たしかに花火は、先まで雨にもかかわらず大量に打ち上げられていて、
「硝煙のにおいじゃあない」
首を振った。
花火のにおいは楽しいにおいだ。説明しろと言われても困るが、夜空を飾るその煙に、あやしさやせつなさを掻き立てる成分は含まれない。なんとも感覚的なもので、信憑性(しんぴょうせい)に欠けるのは承知しているが、確信があった。
「もっと……、どちらかと言うと、そうだな。むかし、戦場で嗅いだような、」
「グシュナサーフ!」
不意に、路地の角のいくつか向こうから、男を探す女の声がして口を噤んだ。呼ぶ声は次第に近づいてくる。
誰だろう、聞いたおぼえのある声だなと彼は思い、ああそうか、あの娼婦かと思い当たる。
「こっちだ」
男がいらえる。いらえながら、男自身も寄りかかっていた壁を離れ、声の方に大またに歩みだした。
自然、ひとり残される。
一瞬どうしたもんかと逡巡し、このまま、彼らにはかかわらず、水たまりに浸かりながら朝まで飲んだくれるか、それとも、とりあえず腰を上げて場所を変えやっぱり朝まで飲んだくれるか、双方の顛末(てんまつ)を思い描いて、ひとまず立ち上がり、ごみごみとした路地裏から去ることにした。
今いた路地は突き当りで、ひらけた道へ出るためには、一旦道なりに建物の隙間と隙間を戻る必要がある。
自然、先に急ぐグシュナサフの後をよたよたとたどってゆくことになって、とうとう四つ叉で、男と女が立ち話しているところまで追いついてしまった。
「あんた、」
男の肩越しに、何気なくこちらを眺めた女の目がまん丸に開かれる。……なんだよ。
女のあまりの驚きように、ここ最近で一番最悪な気分だったのに、一転して愉快になった。まるで、幽霊にでもあったみたいじゃないか。
「――……あんた、」
「こいつのことは後だ」
一瞬頭がこちらに飛んだらしい女を、男が強引に引き戻す。
「あとで、こいつを穴が開くまで質問攻めにしていい。――今は、そっちの話が先だ」
「ああ……、ああ、そうよね、ごめんね、なんか動転しちまって」
男の言葉に落ち着こうと額を押さえる女の横を、はいちょっと通りますよ、彼は通りぬけようとした。質問攻めなんてまっぴらだ。かかわりを持つのも金輪際(こんりんざい)ごめんだ。
都合三日くらいは、ひたすら無言で酒を浴びていたい。
もう終わったのだ。
自分には関係ない、彼らがなにを話していようが、たとえ明後日、一座の出立時間について話していたとしても、
「姫ちゃんが」
がりりと口の中でアルヘイ糖が砕けた。思わず足を止める。振り向くのはこらえた。
「姫がどうした」
「姫ちゃんが帰ってこないの、いや違うか、姫ちゃんが帰ってきたら危なくて、ううん、そうじゃない、姫ちゃんをブランシェ君が探しに行って、ああもう、つまり、あいつらが」
「落ち着け」
焦りすぎて支離滅裂になる女の両肩に、グシュナサフが手を置く。
「いっぺんに言わんでいい。一番重要なことを言ってくれ」
「ええっと……、姫ちゃんが、危ない」
――わたしは好きですよ。赤い色。きれいな色だと思います。
ずっと昔、生真面目にこたえてくれた、少女の声が頭をよぎる。
反射的に、バラッドは走り出していた。
*
どうしてこんなになってしまうんだろう。
恐怖に顔を引き攣らせ、植え込みと植え込みのあいだに隠れるようにして、コロカントは駆けつづけた。
足を止めることができない。
鼓動がうるさくて、周囲の音もよく聞こえない。
……本当になんて一日。
不意に、逃げているのがどうでもよくなり、捨てばちに大声で泣き喚きたくなって、こらえるために急いで唇をかみしめる。
親切な歌うたいの男を欺(あざむ)くかたちで祭りを回り、その彼が何度もかけてくれた好意を結局みな断って、みじめな気持ちで 宿場へ戻る途中だった。
きっと後悔するのだろうな、そう覚悟して出かけたはずの祭りは予想外に楽しくて、楽しければ楽しいほどに、落ち込んだ。
自分のしたことは最低のことだ。
誰かを身代わりにして、自分の思い出に決着をつけるなんて、してはならないことだ。
引っ叩かれても仕方ないことを自分はしたと思った。罵られると思った。
……なのに。
男は責めなかった。
ただ悲しい顔で、全部わかっているようなさびしい顔で、微笑んだだけだ。
居(い)た堪(たま)れなさが、ますます募った。
責めてくれた方がよかった。何を考えているんだこのクソガキが俺の好意を無駄にしやがって、だとかさんざんに蹴落としてくれた方がたぶん楽だった。
その方が、罪悪感もすこしは軽くなるのにと思い、そうしてまた、自分のことしか考えてない自分がいっそう厭になった。
徹底的にうちひしがれたとき、涙なんて出ないのだ。
とぼとぼ路地を歩く彼女のちょうど前の辻から、えらく出来上がった様子の体格のいい男どもが三人、角を曲がり、こちらの路地に入ってくるのが見えた。
通りはたいそう狭い。互いにすれちがうには、どちらかが立ち止まり、道を譲る必要がある。
その男どもが掲げている松明が目についた。
……なんでこんなもの。
内心こっそり眉をひそめる。明り取りの目的だったとしても、あまりにも物騒だ。
ここがまったく人気のない道か、もしくは郊外なら、その勢いよく燃える火は行く先を照らし、便利なのだろうが、この狭い路地で、しかも今は祭り期間で、往来にも、広場にも、ひとが溢れている。
蔽(おお)いのある角灯や提灯ならともかく、直に燃える火、それも大きく燃えるものをかざすのは、どう考えても危険な行為だ。
……火吹き芸の芸人さんなのかな。
興行のあちこちで、高く火を吹く男たちを見かけた。その手合いかもしれない。それにしたって、こんなところで、松明を燃やしてもいい理由にはならないけれど、
「――おやあ」
体を横にして、男どもを先に行かせようとしたコロカントに目を止めて、男のひとりが声をあげる。うなじにへばりつく感じの、下卑た笑いと一緒だった。
今度こそ、はっきりと嫌悪感をあらわにして、彼女は顔を上げる。酔っ払いのからかいなら、きっぱりとした態度であしらわなければいけないと思ったからだ。
こちらがまだ若く、力でも勢いでも、押さえこみにかかれそうと取ると、この手の男は言いがかりと難癖をつけようとしてくる。興行で何度か行き会ったことがあった。
おまけに相手は複数だ。気が大きくなっているに違いない。
そこではじめて、松明から男どもの顔に目が行った。行ってぎくんと背中がこわばる。
「見たことある顔じゃねぇか」
にやにや笑いにまるで品性がない。
裸の上半身に彫られた刺青。
縦にも横にもいかつい体。
初日の興行の際、からんできた禿頭の大男。
――こいつ。
一瞬で蒼白になった彼女に気づいて、大男はいっそうにやにや笑いを深めた。
「お姫のねぇちゃん、今日はひとりかい」
守ってくれる青年騎士さまはいないのかい。
ずいと顔を近づけられ、酒臭い息を吹きかけられた。
駄目だ、と思った。このならずものに口は通じない。捕まったら最後、即組み伏せられ、確実に犯される。
ぱっと彼女は身を翻した。自分の太刀打ちできる相手じゃない。とにかく、グシュナサフや青年のいる広場まで、そうでなくても人目のある大通りまで戻らなければならないと思った。
路地は狭く、前進はできない。
一旦引き返し、迂回して別の道をゆくしかない。
逃げた背に、野卑な口笛が飛んだ。おい、こりゃあ今夜は楽しめそうだぜ。男どものどれかがそう言った。
「おーいまだ追うな追うな」
大男の声がする。
「十だ。十数えてから追うんだ。――いいか、ゲームは楽しまないとなぁ」
*
「ばかか、こいつら」
目下の煙の上がる町を見下ろし、バラッドは忌々しく舌打ちする。
「……町を燃やすつもりなのか?」
ひとりごちた。屋根の上だ。
走り出したとき、とっさに足が向かったのは、道なりに大通りへ続く路地ではなくて、自分が今しがたまで飲んだくれていた、突き当たりだった。
狙ったのは屋根へのびる梯子(はしご)だ。
通りはだめだ、無意識に判断していた。
路地は入り組んでおり、暗く狭く、足元もおぼつかない。走るには向かない。
それに、大通りや広場は、祭りを楽しむ人間がおおぜいいて、かき分けて走るのは骨が折れる。
自由に動けるのは、上しかない。
雨にぬめる梯子をのぼり、屋根に出た。くんくんと空気のにおいを嗅ぐ。先ごろ感じたきな臭いにおいは、気のせいではなかったのだ。
花火の煙のにおいじゃあない。嗅ぎなれた、ものが燃えるにおい。
胸さわぎのにおい。
……だけど人間が燃えるにおいが入ってないだけ、マシかもなぁ。
あれは本当にひどいにおいだから。そんなふうにも思った。
きな臭いにおいを辿り、数区画飛ぶと、すぐに煙が登っているのが見えた。屋根にいるから余計だ。
近づくと、ひとりかふたりか、路地に積まれている木箱だの、植え込みだのに火を点けて回っているらしいことが判った。先に感じたかすかな煙は、今やあちらこちらから火の手の見える焚きつけになっていた。
煙の数があきらかに増えている。
「くそ、」
うっかり大きく吸い込み、咳込んだ。
屋根の上にいればいるほど、苦しくなるのは判っていたが、ボヤに気づき、我先に安全な区画まで逃げようとする祭り客と、急いで消し止めようとする住民とで通りは混乱し、ごった返しており、下りたところで少女を見つけられるようには思えない。
下りるわけにはいかなかった。
鼻と口を覆い、目を凝らす。
ぼ、とまたひとつ煙が上がるのが見え、見えた瞬間、からだが屋根をふたつほど飛んでいた。
飛びそこねかけてたたらを踏む。喉を焼く蒸留酒を、二瓶近く開けた後悔を、こんな状況でする破目になるとは思わなかった。
視界が回る。
……畜生。
「おい!」
見た覚えのある姿を見かけて、バラッドは階下を見下ろした。同じように血相を変えた青年が、人波に揉まれるようにして、こちらを見上げるのが判った。
その純粋で真摯な瞳が羨ましいと思う。
「彼女はどこだ、」
「――あんたが一緒じゃないのか」
尋ねると青年が顔を歪める。どうして。責める口調だった。
「どうしてだよ。あんたが連れ出したんだろう。……、……あんたがあいつと一緒じゃないのか!」
喚く青年の背後の路地を、そのとき、げたげた笑う男が駆けていった。手に松明を持っている。
「なにか」を追っている動きだ。
青年も、彼も、その声に素早く反応した。
ところが、駆け出そうとした青年の前に、煙を避けてどっと団体客がなだれ込んだ。くそ、と青年が腹立たしげな声を出し、
「あんた!」
屋根の彼に向かって怒鳴った。
「あんた、そこからの方が早いだろ!」
行ってくれ。
声に背を押され、彼はまた赤レンガの瓦を踏んで走り出す。
ただでさえ足場の悪い屋根瓦は、降りそぼる雨にぬれ、つるつるとよくすべった。もんどりうって横転し、何度か屋根からころげ落ちかけ、それでも瓦に爪を立ててしがみつき、バラッドは走った。
まるで四年前だと思った。あのときも屋根だった。あのときも必死だった。だが、四年前のあのときでも、こんなに狂騒の思いで走ったかは判らない。
一度激しく転倒し、打ちつけたとき、ぐき、だとか厭な音が肩のあたりからした気もするが、……問題ない。走れる。すぐに飛び起きて、やはり走った。
屋根をひとつ飛ぶたび、路地を一本越えるたびに、階下へ目を凝らし、もうもうと上がる煙のあいだから彼女の姿を探したが、あの細い姿は見当たらなかった。
このあたりまでくると、ひとの気配もまばらだ。
わずかに残った祭り客が、口元をおおい、背を丸めながら慌てて煙から逃れてゆくのが見えるだけだった。
熱気と煙は目に染み入り、ぼろぼろと涙がこぼれた。雨で上着が濡れていてよかったと思った。火が点きそうなほど、上空の空気は乾燥し、熱されている。
名を呼ぼうと口を開け、噎せかえって上手に空気が吸えない。煙とナントカは高いところが好き、だとか言う言葉がふと頭にもたげた。確かにそうだ。莫迦じゃなけりゃあ、こんな場所にのぼって、人探しをしようとは思わないだろう。
……なあ、お前さん。
なお探し探ししているうち、おのれの中の、計算高いあさましいもうひとりが、いいのか?囁きはじめたことに気がついた。
いいのか?こんな、燻製ハムになりかけて、何をそこまで必死になる?命がけで彼女を助けさえすれば、それで万事解決かい。誰かが勲章一等でも授けてくれるのかい。
そいつはくつくつと喉を鳴らし、彼の行動をしのび笑う。
お前さんがやっていたことは、つまるところ、真似(まね)ごとだ。騎士のままごとだよ。小さな子供がよくやるだろう。ほら、敷物を敷いて、茶碗と皿を並べて遊ぶ、アレさ。王さまはどなた、家来はどなた、役柄を決めて、はい、始まりはじまり。ええとあなたは何の役でしたっけ。……な。わかるだろ?芯がないんだ。メッキなんだよ。性根の腐った男の、嘘八百で塗り固めた、でたらめのメッキが剥げたのさ。
だってお前さん、知ってるか?騎士ってのは、「守る」ものだそうだぜ?忠誠を誓った主を、守りきるものなんだ。誓いのときにな、主の前に膝をつけ、こうべを垂れてこう言うんだそうだ。我が身命賭(しんめいと)して、我が今生賭(こんじょうか)けて、ってな。身命、今生、なんともご立派なお言葉じゃあないか。
「……今生かけてね」
走りながらつい失笑がもれる。
「なんかそんなたいそうな台詞、言った覚えがあるなぁ」
身の程わきまえてなくて、いやだね。
ボヤくと、そうだろう?もうひとりが同じように失笑した。
お前さんにゃあ、不釣り合いな言葉だ。
「守る、って」
……そうさ。
……なあ、一度でもいい、お前、お前のお姫さまを守り切ったことがあったかね?
ないよ。
こみ上げた反吐と共に、バラッドは自嘲を吐きだした。度の強い酒は、逆流するときも喉を焼き、ひりひりと痛んだ。
守れなかった。たったの一度たりとも、満足に守りきったことなんてなかった。
俺はいつも失敗してばかりだ。
そうだよ。
ぶすぶす燻ぶりはじめた上着の肩の火の粉を払い落しながら、彼は顔を歪めた。
俺は、毎度、毎度、間が悪く、彼女をひとりにして、さびしい思いをさせて、傷つけて、守りきったことのない、史上最低のクソ野郎だよ。
判断を誤った回数なんてもう判らない。もうずっと間違えてる気ばっかりする。
だってそうだろう?
もう何度泣かせた?
本当に情けなくて笑ってしまう。たぶん、両の手を使ったって、足りやしない。
彼女を託されて森へ押し隠し、後ろ盾を見つけたかと思えばすぐに失い、結局候補をしぼることさえままならなかった。
あげく、隠れ場所を嗅ぎ中てられ、ハブレスト側に連れ去られて、その先で少女は羽をもがれた。
何をされたか彼女は多くを語らない。
塔から逃げる際に、毎晩、うなされていたから、ひどいことをされたのだろうなと察することはできたけれど、恐ろしくて、とても尋ねることはできなかった。
聞いてどうする。聞いておのれの無力を再確認することが、ひたすら怖かった。
――わたしは的になったことがあるんです。
だのについこの間、彼女がふと漏らしかけた過去に、打ち震えた。
やめてくれ。本気で恐怖した。
自分が鎖につながれ、ただじりじりとして、離れた塔のてっぺんを窓から穴のあくほど眺め、ただ眺め、眺めした四年のあいだに何が起きたか知るのが怖かった。
てめぇは無力だ。
ここまで来て、名前を変えて他人のふりをしてまで、おのれの過去の愚行は追いすがってくるのだと思った。
そのあいだ俺はなにをしていた?
考えなくても判る答えだ。ずた袋のようになって、順繰りに看守どもに輪姦(まわ)されていただけだ。
時に四つ這いで、時に仰向けに転がされて、おかされる合間、ひたすら尖塔の小窓を見ていただけだ。
たった一度でいい、たった一言でいい、塔のてっぺんの部屋に閉じ込められているはずの彼女に、せめてここにいることを伝えたいと思った。
知ってどうなるものではない。最悪な状況は変わらない。
けれど、あなたはひとりじゃないのだと、時間はかかるかもしれないが、必ずそこへ行って助け出すから待っていてほしいと、伝えたかった。
……それで、思いは届いたかね?
おのれの中のおのれが嗤(わら)う。
結局彼女を癒したのは、自分の言葉でも、ましてや思いでもない。
過ぎた時間と、周囲のあたたかい人間関係だ。
俺じゃなかった。
はなから過重責だったのはあきらかだった。実力も権力も、どちらも持たない自分が、彼女を守れるはずがないのは承知していた。
わかってる。
わかってたよ。でも。
再びこみ上げた反吐を吐きだし、バラッドは口を拭う。
体を動かした分だけ酔いは確実に回って、しかも熱気にあてられ、視界がものすごいことになっている。ぐらぐら、だなんて生ぬるい。ぐわんぐわんと言ったって、物足りない。真っ直ぐ体を起こして立っていられるのが不思議なくらいだ。
もしかしたら傾いでいるのかもしれない。でもそれでもかまわない。
体が動くのだから、それでよいと思う。
煙に目をすがめ、彼はまたひとつ路地を飛んだ。
――あ。
飛んだ視界の端に、ともすれば見落としてしまうような、くすんだ藁色の頭がちらとかすめた。
とたんに、ぐんと強く引かれるように、視線がそちらを向いていた。
それは追い詰められていた。
広場の隅で、火と煙から逃れるように、うずくまり、身をこごめ、かたくなっていた。
もうどこにも逃げ場がなくて、もうどこに逃げていいか判らなくて、おびえた子供のように膝をかかえ、背を丸めて小さくなっていた。
そうしてバラッドが見つけたタイミングと同期で、いかつい大男も彼女を見つけたのだ。
得たりと野卑な笑みを浮かべ、大股で近づく大男と彼女のあいだに、割り込むようにして彼は身を躍らせていた。
咄嗟(とっさ)だった。
武器を持つ大男がなにものかだとか、そいつの不意をどうして衝いてやろうとか、背後からどう奇襲してやろうだとか、頭の片端に思い浮かぶいとまもなかった。
そう言えば自分は素手だった。対峙して初めて気がついた。
「なんだ、てめぇは」
不意に屋根から降ってわいた彼に、禿の大男は喉奥で唸り、火の消えた松明を振りかぶる。
「いっぱしの助太刀気取りか。そこをどけ。そいつは、俺の獲物なんだ」
「はあ、そうしたいのは山々なんですが」
こんな大男に力任せにぶん殴られたら、どれほど痛いだろうか。考えなしに飛び込んだ結果がこれだ。本当に自分が厭になる。
空手を今さら後悔しながら彼はこたえた。
「山々なんですが、ここをどくわけにはいかないんです」
その声に、かたくつぶっていた目を開けこちらを見上げたのだろう。……ミシュカさん?彼女の小さな声がする。
まいったな。そう思った。
覆面でもして颯爽と登場し、白刃一閃、この大男を叩きのめすことができたら、どんなにか格好いいだろう。
まるきりお伽話の騎士だ。憧れてしまう。
腰に挿した細身の剣でもって、大男を打ち伏せ、みねうちで勘弁してやる、これに懲りたらもう悪さはするな、だとかなんとか言えたらどんなに、
「――……ッ」
がつ、と鈍い音が響いて、バラッドは奥歯を噛みしめ、呻きを噛み殺す。
現実は過酷だ。
「……ミシュカさん!」
斟酌なく振り下ろされた太い棒きれが、こめかみあたりを強打したのだ。手を上げて防ごうにも、先ごろ屋根にひどく打ちつけた左の肩口が言うことを聞かない。
上げようとするまで、上がらないことに気付かなかった。筋を違えたか、骨でも折れたか、だらりとぶら下がった腕はまるで糸の切れた人形だ。
こちらは動く右腕で、ふところをまさぐるが、得物はない。煙管しかない。こんなことになっているけれど、そもそも出だしは祭りを楽しもうと思っただけだったのだ。……祭りを楽しもうとするやつが、武器なんて仕込むか?
鉛筆削りの小刀一本すらふところにはない。
額が割れ、たらたらと熱い滴りがこめかみから横頬を伝った。歪めた視界に、大男がまた棒きれを振りぬくのが見て取れた。殴ることしか頭にない低能め、罵りながら歯を喰いしばり、衝撃を覚悟する。
「ミシュカさん!」
眉間のあたりを狙ってきたので、とっさに右腕で防いだが、おかげで腕骨がみしみしといやな音を立てた。おまけに文字通り吹っ飛ぶ。
ああもうだから脳筋はいやだ、ごろごろと二転三転いもむしのように転がって、そこにコロカントが駆け寄った。
「ミシュカさん。……ミシュカさん!」
彼女の前では、いつもいつもぶざまな姿ばっかりだ。
「……じゃ、な」
もういいです、どうか逃げてください、震えて懇願する彼女の伸ばされた手をぎゅ、と握り返してバラッドはちいさく呟く。
「ミシュカさん、もう、どうか、」
「ミシュカじゃあ、ないんです」
ぺっ。切れていつの間にか口中に溜まっていた血を吐きだし、おぼつかない足取りで立ち上がった。
完全に優位を確信した大男がゆっくりと大またに近づいてくる。
くそが、と小さく吐き棄てて、バラッドは彼女を背に庇う。どうして三下はこう下卑た笑いってやつが、どいつもこいつも同じなのだろうな。
「自分も、できれば逃げたいんですけども」
煙で目が焼け、視界がよく利かない。
「悲劇のね、英雄ぶるつもりもないんですよ。そんな見上げた性根の人間じゃあありませんし……、言っても、そもそも、実力が伴わない」
ただねぇ。
がつ、がつと、棍棒が振り下ろされるたび、頭蓋の中まで響く音にぎりぎりと耐えながら、バラッドは背後の彼女に聞かせるでもなく、ひとりごちた。
彼の服を握りしめて、コロカントが泣いている。
「……言ったでしょう。自分は、ただ、あなたに笑っていてほしいって」
現況泣かせている自分が言えた義理でもないけれど。
不意に足払いをかけられ、構えもなっていなかった彼は、そのまま仰向けに転倒する。転げた胸を、どかと力任せに踏みつけられて、苦痛に思わず呻いた。
「――やめてください!」
その大男の足にしがみついてコロカントが叫んだ。
「やめてください!このひとはもう動けません!これ以上乱暴しないで……!」
「……だいじょうぶ。大丈夫ですよ、姫」
ああもう本当に、なんて自分は格好悪いんだろう。うっすらと唇に笑いを貼りつけて、よく見えない目をまたたかせ、バラッドは言葉を絞り出した。……見ろよ、助けるどころか、庇われているじゃないか。
「そいつに近づいちゃなりません。後ろにいてください」
まったくもって真似ごとだね。こんな騎士がいるかよ。
「時間は稼ぎました。……ほら、あなたを守れる人がきましたよ」
立ちのぼる煙を押しのける強さで、殺気がほとばしった。てめぇもここまでだ、だとかなんとか、悪漢お決まりの台詞を口にしかけた大男が、その言葉を口端にのぼらせる前に、悲鳴を上げて転がる。
殺気はふたつあった。グシュナサフと、青年ブランシェのものだ。
大男の手にしていた得物を奪うが早いか、問答無用でそいつへ一撃入れるグシュナサフと、よろけたそいつの足をすくい、その流れのまま回し蹴りを入れぶちのめす青年の姿に、なんだかもう全面的に白旗を上げる気持ちになって、バラッドは肘をつき眺めてしまった。
かなわないなあ。そう思った。
自分はどうやったって、こんな華麗な登場はできっこない。
「お前、」
傍らに膝をつき、立てるか?ざっとおのれを損傷具合を眺め、たしかめてくる男へ、
「……やっぱり、俺の白馬の王子さまはあんただと思います」
わりと心底感動して、彼は世迷言を呟いた。
「は?」
「あんた、俺の絶体絶命の窮地の場面に、必ずあらわれてくれるでしょう。塔から逃げるときも。俺が傷口倦ませて死にかけてたときも。……もうなんか、運命の相手なんじゃないかなって」
「煙で脳味噌まで煮えたのか。かわいそうに」
本気で気の毒なものを見る顔をされ、おら、立て。足で小突かれよたつきながら立ち上がる。冗談に付き合ってくれる気はさらさらないらしい。
「えらくやられたな、……お前な、もうちょっとやりようがあっただろうが」
「放っといてください。趣味なんですよ。趣味。殴られるのが好きなんです」
肩を貸してくれるらしい男へ、遠慮なく寄りかかりながら軽口をたたく。そこに、ひどく戸惑いながらバラッド?とちいさく呼ぶ声がした。
「……バラッド?……バラッドなのですか?……、……ミシュカさんではなくて?」
青年に付き添われ、立ち上がったコロカントが、こちらを見ている。寄る辺ない、不安気なまなざしが揺れていた。
とたんに、なにもかも投げ出して一目散に逃げだしたくなる。肩を借りたグシュナサフが、がっちり腕を押さえていなければ、もしかするとそうしていたかもしれない。
彼女の震えっぱなしの肩に、
「……コロカント」
諫めるようにして、青年が手を置き、歩くことを促す。
彼のその仕草を、純粋に羨ましいと思ってしまう。青年は彼女に触れることにためらいはないらしい。
……だって、助ける力があるんだものな。
「とにかく、ここを出ましょうか。話は、傷だらけのこいつを、まず医者にぶち込んでからです」
こいつ、とバラッドを顎で指しながらグシュナサフが言う。なにかもの言いたげだった彼女は、はい、と言葉を飲みこみ、頷いて歩きだし、肩を借りたグシュナサフに引き立てられるようにして、バラッドもしぶしぶそのあとに続いたのだった。