「……診療結果。お前の頭で理解できると思わんが、一応医者が伝えろと言うから、言うぞ」
ひとこと前置きして、グシュナサフが口を開く。
「表皮熱傷。部分に浅達性熱傷による水疱を含む。それから軽度の眼球熱傷。それから左鎖骨骨折。それから右尺骨一部亀裂骨折。それから前部第七と第八肋骨の亀裂骨折。それから挫滅創による腫脹と皮下出血斑」
「わあ、なんか魔法の呪文みたいですね」
すごい変身ができそう。
頭にさっぱり浸透せず、右から左へ抜けていく読み上げられる声に、バラッドが素直な感想を述べると、ぎろりとこちらを睨んだらしいグシュナサフが、
「絶対茶化すと思った。……つまり、あほなお前にも理解できるように言うと、あっちこっち火傷したり、ぶつけたり、ヒビはいったりしてるから、治るまで大人しくベッドでねんねしてろってことだ」
聞こえよがしに、肩でため息をつきながら言い直す。
居住区の診療所まで、有無を言わさずグシュナサフに引きずり連れていかれたのだ。
そこで、患部を石膏粘土で固められるやら、包帯を巻かれるやら、軟膏を塗られるやらで、ようやく自室がわりに使っている酒場の二階にバラッドが連れ戻されたときには、深更近くになっていた。
途中で彼らを探していた女とも合流し、バラッド、グシュナサフ、女、青年、コロカントの大人数の移動になった。
最後の客が帰り、店じまいをはじめていた店の主人に、グシュナサフが軽く経緯を話し、そのまま二階の部屋に連行される。
連行。
連行という以外、このがっちりとした拘束はないのではないかなと、放してくれそうもない元同僚の腕に、うんざりしながらバラッドは思った。
「ここでいいか」
たしかめられ、寝台に寝かされる。ぶっきらぼうな言葉のわりに、そっと寝かせられた。
「水と薬はここに置いておくからね」
女の声もした。
「すいません、ご迷惑をおかけしました」
塞がれた視界のまま、バラッドは殊勝に頭を下げておくことにする。
大男に力任せに棒きれで殴られ、その打撲やら擦り傷やらはしようがないと覚悟していたが、屋根の上に上がり、熱気と煙でいぶされた結果、目玉も少々傷んだらしい。
薬を浸した湿布を目にあてがわれ、その上から油紙と包帯を巻かれて、両目とも今はまったくの目暗(めくら)だ。
ここまで連行されてきたからなんとか戻ってこれたものの、自分ひとりで歩こうとすれば、一歩踏み出すのにも手探りで進むしかない。
しばらく不便を強いられるな。想像してバラッドはため息をついた。
「あー……、でもちょっと待ってください、ええと、ここまでお世話になっちゃってますし、この際、厚かましくお聞きしたいんですけど、あのう、自分、もしですね、催(もよお)したときはどうしたらいいですかね?」
屎尿壺?
若干引きつりながらバラッドはたずねた。
寝込んでいるのだから壺にするのは別にいいとしても、それにしたって手探りの状態で、こぼさず垂らさず、うまく始末できる自信はない。
目が見えない傷病人が、ひとりで用を足そうとして失敗し、粗相をしてしまったとしても、それは誰も責めることはないのだろうけれど、自分がそうなるのはちょっとわびしい。
すこし濡らしてしまった寝台で、小便くさいにおいと共に、部屋でうんうん痛みに耐えるとか、ちょっとどころかわりと本気で泣いちゃうかもしんない。
いまから半泣きになっているバラッドへ、彼が、とグシュナサフが答えた。
「ブランシェが下にいる。おそらく、今晩、もう何もないとは思うが、……念のため、下に張らせておく。男手が必要なら呼ぶといい。付き添いは、姫がするそうだし」
「え、待って、」
最後の聞き捨てならない一言に、びっくりしてバラッドは身を起こした。
「ちょっと待ってください、あの、なんか、姫がするとか聞こえ、……あの、こういう流れの場合って、普通、あんたが俺の世話してくれるとか、そういうんじゃないんですか」
「なんで」
「なんでって、……なんでって、だってここ、寝台ひとつっきゃないですし、……他に寝椅子でもありゃいいですが、そんなものもない。あんた、ちょっと考えれば判るでしょう。女性を床に寝かせるわけにいかないでしょうに」
「俺なら寝かせるのか」
「ああもう、だから、そういうことを言っているのではなくて、!……寝かせるに決まってんだろ。それに、もうひとつ深刻な問題があるでしょう。あのですね、婚前の若い娘さんが、ひとり暮らしの男の部屋に泊まるって言うのはですね、」
「怠惰(たいだ)の見本みたいな生き方してそうなくせに、お前、結構そう言うところ気にするよな。……なにか問題が」
「大ありです。大ありでしょう。あんた保護者でしょうが。何考えてんすか。どうするんです、俺がもし変な気でも起こしたら」
「お前、その、ひとりで水飲むのもつらそうな、ずたぼろの体で、変な気起こす元気があるのか。すごいな」
逆に感心されてしまった。
ああもうそう言うことではなくて。
頭を掻きむしりたくても、左腕は固められているし、右腕も差し木を添えて包帯が巻かれてある。
おまけに目は見えない。
たしかに満身創痍だ。
「じゃあいっそ、……、あれだ。お手数ですけど、自分をもう一度診療所に連れていってですね、あすこの寝台にひと晩、……、いや一週間ほどかな?とにかく、目の包帯がとれるまで、置いてもらえるように頼んでくださいよ」
「診療所は今夜のボヤ騒ぎで、すり傷作ったり、目だの喉が痛くなったりした祭り客で、あふれていただろうが」
重症人がいなかったのが救いだがな。しぶい声でグシュナサフが付け加える。
医者は徹夜だろう。
「まあ、あの中で、お前が一番の重症人の気がするぞ、俺は」
「だったら、」
「あのな。祭りのために町を訪れている人間と違って、お前はきちんと休める部屋があるだろうが。診療所の寝台は、行き場のない怪我人に譲るべきだろ」
そう言って同僚が振り返る気配があった。
「姫、こんなこと、こいつは言っていますが、看病どうします」
「いたします」
「うぐ」
その上一番に拒否できない一押しをされてしまう。
それでもなお、あきらめ悪く、えええ、と情けない声で呻いていると、それにすまんが俺は忙しい。グシュナサフがぼそと呟いた。
「忙しいって」
「今晩のうちに片付けておかなけりゃいけない仕事がひとつ……、いや、みっつある」
ひとつは転がしてきたしな。
思案しながら発している。その声に不穏なドスが効いていた。……あいつら、一度きりなら見逃してやったのに。
ボヤいている声が、どこか楽しそうだ。
……ああ、火付けしてた悪漢どもをシメにいくのだな。
役人に突きだすに違いない。
さんざんそのうちのひとりにやられたあとだというのに、容赦なくグシュナサフにぶちのめされるだろう男どもに、バラッドは思わず同情した。
「……まあ、そう言うわけで、俺は行く。ブランシェ、あとはよろしく頼む」
「はいグシュナサフさん」
「えっ、……、本当に、ちょっと待ってくださいって。……もう、なんなら、ほら、もう、なんならそっち、ララでもいいです。そのひとのお手を煩わせるのだけは何としてでも」
面倒くさくなったのか、話を切り上げていこうとする男の気配に、バラッドは慌てて追いすがる。
困る。ここでふたりきりになるとか困る。
ここじゃなくて、じゃあいつならいいんだ、だとか、そんな具体的な代案は何もなかったけれど、とにかく今は困る。
「なんなら、ってなによ。あたしは厭ァよ。もう眠いし、帰って寝る」
「えっ、えっ、待って。待って待って待って、……じゃあもう、その彼氏君に、」
「――バラッド」
往生際悪くあがこうとする彼へ、グシュナサフがゆっくりと彼の名を呼んだ。
丁寧な物言いなのに、無言の重圧をひしひしと感じる。怖い。
「いい加減、そろそろ腹くくれ」
そうして少女に向き直り、姫、と先よりずっとやさしい声で、彼女を呼んだ。
「はい」
「こいつは逃げようとするかもしれませんが、……、普通は、これだけ痛めつけられてたら、まず三日は立てないはずなんですが……、もし、みっともなく逃げようとしたら、もう、足の骨の一本や二本、増えてもたいしたことはないです。へし折ってやって結構ですよ」
さらっと、えらく物騒なことを助言している。
「あたしもお邪魔だろうし、帰るわね」
女も言った。
「姫ちゃん、もしこのあんぽんたんが、ここに来てまで逃げるような男だったら、縄でも鎖でも縛って、ぐるぐる巻きにしときなさいな」
言外に含まれる棘がびしびしと痛い。
「俺は下にいるから」
最後に青年が口を開く。
「階段から先へは絶対に逃がさないから、安心してくれ」
「えええ、……ええええ~……」
三者三様にぐっさり釘を刺されて、バラッドは頭を抱えて、とうとう寝台に突っ伏した。
そうしてぞろぞろ出て行った部屋の戸をコロカントが閉めると、室内は急にしんと静かになる。
「……、」
三人の脅しに似た、捨て台詞ならぬ置き台詞がおかしかったのか、くすくす小さく笑っていたらしい彼女が、寝台から離れた窓辺下にある椅子まで移動して、腰かける音がした。
そのままじっと動かなくなる。
「……ええと、」
このまま知らんぷりで、寝たふりを決めこんでもいいものか。だがそれはさすがにひととして、と言うより男としてどうなのか。
お前タマついてんのか、とか、事後さんざんにグシュナサフと女にけなされることだけは、容易に想像できる。
へたすると、悪漢どもと同じくらい、ぎたぎたにシメられるかもしれない。
何と話しかけたものか思い巡らし、巡らし、結局、適当なとっかかりも思いつかないままに、バラッドは口を開いた。
「その、……ええと、あのですね、」
「痛かったら、言ってくださいね」
だらだら脂汗を垂らしかける彼の言葉をさえぎり、そっとコロカントが言った。
「え、あの、」
「お医者様が言うには、今はまだ、体が興奮していて、痛みをあまり感じないんだそうです。でも、興奮がおさまるにつれて、痛くなってくるからって……、それと、折ったり、打ったりしたところが、じきに腫れて熱をもってくるからって。言って下さったら、お薬、飲むお手伝いをしますから。……それまでは、わたし、ここから動きませんので、安心して……、安心できないかもしれませんが、どうぞ休んで下さい」
「あ、はい、」
いや。はいじゃない。
寝台に横になりかけ、バラッドは起き上がり直す。
「あの」
ちいさく呼ぶとはい、といらえる声がした。
「どうしました。お水いりますか」
「いや、その、水ではなくて……、水でなくてですね、水は大丈夫です。でも、その……、なにかあの、文句とか、あるんじゃないですか」
おそるおそる彼はたずねた。
「文句ですか」
たずねられ、困った声で彼女が首をかしげる気配がある。
「わたしがどうして文句を言うんです」
「いやだって」
「わたしはミシュカさ……、……あなたに助けてもらったんですよ。それも、あんな乱暴なひと相手に、傷だらけになってまで庇ってもらって、本当にありがたいと思っているし、申し訳がないとは思いますが、どうして文句を」
「いや、だからですね、せめて詰(なじ)るとか。あるでしょう」
「わたしがですか」
「だって。だって、自分、姫を騙してたわけですよね。この町で再会してからずっと。自分はミシュカですって、何度言ったですかね。どうして、本当のことを言わなかったのか、とか、騙して裏で笑ってたんじゃないのか、とか、そういうの、考えると、腹が立ちませんか」
重ねて尋ねると、そこではじめて考え込む素振りになって、……そうですね。そっと額に手を当てる動きがあった。
会話が途切れる。すると、静けさがいたたまれなくてそわそわする。
しばらくの沈黙に耐えられなくなったのは、やはりバラッドが先だった。
気まずい。
とにかく会話が続いていないと、どうにも自分が保てない。
視界が塞がれて、相手がどんな表情をしているかが判らないのもつらい。
あの、と彼は口を開き、なんとか場の空気を換えようと無駄な努力をする。
「そういえばですね、服、濡れていたでしょう」
「え?、……はい」
「ほら、花火見ているうちに、雨でびたびたになって、それから、煙だのすすだの。時間たってますから、生乾きしてるかもしれませんが、でも、そのままじゃあ気持ちが悪いでしょう。風邪ひくかもしれない。よければ、その窓下の木箱の中に、いくらか替えの服が入ってますので、そのう……、自分の着古しですし、大きさはがばがばかもしれませんけど、」
「……そうですね、では、お借りします」
なんとか会話を続けようと苦しまぎれにそんなことを勧めると、じっと考えていた彼女は勧められたまま、木箱を開け、着替えを取りだしたようだ。
……あでも待てよ。
手早く汚れた服を脱ぎ、着替えているらしい衣擦れの音がして、余計にいたたまれない空間になったことにバラッドは気がついた。
これ、自分、目を押さえていた方がいいんだろうか。普通後ろ向いたりするよな。いやでも、いま、包帯巻かれていて、見えないっちゃあ見えないんだから、もう目隠ししちゃってる状態なわけだから、別にそんなお気遣いしなくてもいいかな。……いいのかな?
それと、なんか無言でいたら、お着替えの音、耳澄まして聞いてるみたいで、やばくないか?助平心(すけべえごころ)丸出しと言うか。なんかそれ期待して勧めたみたいじゃないか?耳おさえるか?おさえた方がいい?それとも、見えてないから大丈夫ですよとか言う?
でも逆にそれ完全にあやしいひとですよね。ものすごい意識してるみたいでいやだな。
じゃあなんだ、頭から毛布でもかぶってた方がいいのか?
良識とは何ぞや、だとか、彼がぐるぐる悩んでいるあいだに、さっさとコロカントは着替え終わったようで、
「ありがとうございます」
礼を述べる小さな声がした。
「あ、はあ、」
「濡れていたし、少し寒かったの。乾くまで、お借りしますね」
言いながらふふ、と笑って、袖を持ち上げたり、着心地をたしかめているような気配がする。
「えっと、あの、なにか……、食べこぼしのシミでもあったですか」
心配になって口をはさむ。なにせ、やもめ男のひどくいいかげんな洗濯しかしていない。一応洗って干してある、それだけで、細かな汗ジミだの、しわだの、たいして気にも留めなかった。着れりゃあいい、そう思っていた。だから、こんなふうにして、別の誰かが着るだとか、それも同性ではなく若い娘が着る可能性があるだなんて考えたこともなかった。
におうかもしれない。
ぞっとする。自分じゃあ自分のにおいは判らないと言うし、適当に洗ったシャツがくさいとか、幻滅以外のなにものでもない。
はらはらしていると、いいえ、と彼女が返した。
「ううん、ちがうのよ。男の方のシャツは、ずいぶん大きいなあって思ったものだから」
……うわ、これ、あれだ、彼シャツ。
ぐだぐだ悩んだ先ごろのもっともな建前を、見ているとか見ていないとかの良識を、バラッドは全力でぶん投げた。
視界が塞がれていることが、こんなに悔しいと思ったことはない。
見たい。猛烈に見たい。
さっき目ん玉にまで軟膏塗られて、失明したくなければいいというまで包帯とるな、とか医者に念押しされたけど、だめだろうか。今、ちょっとだけ取っちゃだめだろうか。ちらっとだけ見るぐらいなら、大丈夫じゃないだろうか。
だめかな。
わりと真剣に考えこんだ彼の耳に、さっきの、と彼女が呟く声がした。
その声に引き戻される。
「さっき言っていた、……。騙されていて、わたしが怒っているんじゃないかって」
「ああ、……はい」
「あなたは」
言いかけ、いったん言葉を切って、彼女はこちらをじっと見つめているようだった。何を思っているのかは判らない。聞いてみようかと彼が口を開きかけたそのときに、
「……バラッドなのですよね」
一語一語、万感噛みしめるようにして彼女は言った。
「はい」
「そうですか。では、わたしはそれだけで十分です」
そんなことを言う。その語尾が、一瞬かすかに揺れた気がした。
――あれ。
訝しく思って彼は顔を上げる。思いあたって、小さく姫、と呼んでみた。
「はい」
こたえる声は震えていない。では今のは、気のせいと言うやつだろうかな。
「……そっちへ行ってもいいですか」
ふと思いつきを彼が言うと、コロカントは大げさに驚いて、はずみで椅子を立ち上がったようだった。
「え、歩いてってことですか?いけません。寝ていてください。動いたら、わたし、そっちの方が怒ります」
それこそ縛りますからね。きっぱり脅しをかけてくる彼女へ、
「じゃあ、こちらへ来ていただけますか」
バラッドは言った。
誘うと、ためらう気配がある。
「……行ったら厭なのでは、」
しばらく逡巡したのちに、そっと彼女がたずねたのはそんな言葉だ。
「どうぞ。大丈夫ですよ。いらしてください」
腕を開いてまねく意思を表すると、そろそろと、こちらを刺激するのを恐れる足取りで、彼女が近づいた。……大きな音を立てると逃げるリスかなにかか俺は。
彼女の慎重さに思わず苦笑いが漏れてしまう。
「それと、ちょっぴり痛くなってきました。薬を渡してもらえますか」
「え、」
彼女の言葉通り、自室へ戻り、次第に祭りやらボヤ騒ぎやらの興奮が次第におさまってくると、代わりにずきずきと脈を打つのと同じはやさで、痛覚が刺激されていることに気がつく。
……わりと、キツいかもしんない。
目の奥までが痛んで、吐き気まで催しそうだ。
おっかなびっくり近づいていたコロカントが、彼の言葉に、慌てて寝台横のテーブルへ寄り、薬包紙を手に取ってひらく音がした。
「粉のまま飲めますか。見えないなら、溶かした方がいいですか」
「ああ、いや、……、大丈夫、そのまま飲めます」
ひらかれた包みを右手で受け取り、口にざっと呷ると、水を求めて手を伸ばした。はずみでグラスを差し出す彼女の腕に軽く触れて、
「え、……え?」
驚いて声が漏れる。袖は冷たかった。濡れていた。
つい今しがた、彼の上着に着替えたばかりの袖口が、ぐっしょり重くなっている。
「……姫、……?」
胸がつぶれる思いで、バラッドはコロカントを呼んだ。水を受け取るのも忘れて、ごくんと飲みこんだ口中は、粉薬だらけでひどい味になったけれど、そんなことは意識の埒外(らちがい)に吹っ飛んでいる。
「え……、」
おそるおそる腕を伸ばし、彼女の頬に触れる。そこも冷たく濡れている。
声もたてず、すすりもせず、コロカントは微笑みながら泣いていた。
「ああ」
見えなかった。だから気付かなかった、そんな言葉で言い訳できるものではないと思った。
「え、……え……?ちょ、ちょ、え、なんで、っていうか泣くほど騙されたことが悲しいとか、あの、え、待って、」
今ほど、後悔という二文字がおのれに突きつけられた瞬間はない。横っ面を叩かれたというよりは、破壊槌が勢いをつけて真横から激突した思いだ。
いっそ大声で泣きわめいて、こぶしで叩かれ、責められた方がましだった。
こんなふうに、葉陰に隠れる蝶蛾(ちょうが)のようになって、細かに全身を震わせ、声なく泣かれるくらいなら、
「すみません!あの、すみません!すみません。……すみません!」
どうしよう。どうしようどうしよう。大慌てで身を起こし、
「すみません。本当に、本当にすみません。あの、すみません。すみません。とりあえず、ちょっと、その」
そうだ。土下座しよう。土下座。床に土下座して、頭擦りつけてとにかくひたすら謝ろう。
また泣かせた。また彼女をどうしようもなく泣かせてしまった。
錯乱し、もはや何を口走っているのかよく判らないまま、バラッドは誠心誠意謝罪の意を見せようと、泡くって寝台から下りかけた。
「だめ、いけません」
驚いたらしいコロカントの腕が伸び、ぐっと肩にあてられて制止される。
「下りてはだめ。ちがいます。……ちがうのよ。ちがうの」
ごめんなさい。歯を喰いしばり、ぼろぼろ泣き出してしまった彼女を前にして、今度こそバラッドは絶望した。
だめだ。ことここに至って、もう謝って済む問題じゃない。腹かっさばくくらいしないとどうにもならん。動く方の手もあまり力が入らないし、うまい具合に突きたてられるか判らないけど、もうだめだ。もう腹切ろう。
枕元に確かあったはず、小刀に手を伸ばしかけた彼の脳髄に、なにを勘違いしてるか判らないけれど、早まってはだめ、泣きながらなだめるコロカントの声が染みいる。
「まぎらわしくてごめんなさい。怒っているのではないんです。わたしはただ、あなたがバラッドだったということが、うれしくて仕方がないの」
胸に押し当てられた彼女の涙が熱い。
じわ、とそれはバラッドのシャツにも染み込み、それからその下の包帯も湿らせて、
「ああ、もう、」
……まいった。
心底お手上げになって、バラッドは天井を仰ぎ、ため息をついた。泣きたい。自分が情けなさすぎて泣きたい。
けれど、そのまごつきっぷりがおかしかったのか、それとも彼があまりに情けない顔でもしていたのか、みとめた彼女が今度はふっと吹き出し、泣きながら笑いだした。
……ああ。
涙まじりに笑う彼女の声を聞いているうちに、なんだかバラッドのまぶたも熱くなってくる。そうでなくたって、気分は最初からはちゃめちゃなのだ。
「あなたは、俺が、俺だって知っただけで、泣いてくれるんですねぇ」
「そうですよ」
彼女はこたえた。
「こうしてバラッドにまた会えるなんて、夢みたいです。……でも夢ではないのですよね」
「まったく、」
それがうれしい。ありがたすぎて、泣きたいほどうれしい。単純だと思う。
彼もつられて、半べそ顔で笑いだしていた。
しばらく二人で顔をぐしゃぐしゃにして、ぐすんぐすん鼻をすすりながら笑っていると、おずおず彼の右手へ重ねる小さな手のひらがある。
手のひらは彼の手を両手で包んで離さない。しっとりとしてやわらかな手のひらだ。
「バラッド」
涙に濡れた声のまま、コロカントが彼を呼んだ。
「はい」
「もうどこにも行きませんね」
「……はい」
腹をくくれ。先ごろ、グシュナサフに言われた声がよみがえる。
そうだな。俺はたぶん、そろそろ観念しなけりゃならないのだろうな。頷きながらそう思う。
「こっそりいなくなると、また姫を泣かせてしまうんでしょう」
「泣きますよ。もう、朝から晩まで、身も世もなく泣いて泣いて、体の水分全部流してしまいます」
おどけながら彼女は真面目な声でこたえる。
「ああ……、それじゃあ、自分はもう、この手を離してはいけませんねぇ」
離しては迷子になってしまうから。
苦笑して返すと、そうです、離してはだめですよ、強く念を押すように、彼女がくり返した。
「離してはだめです。ずうっとつないで、バラッドの行くところ、ぜんぶ一緒に連れていってください。もう置いていかれるのはいやです」
「姫」
今まで聞いた中で、いちばんはっきりした懇願に、バラッドは驚いて顔を上げた。こんな声を出すひとだったかな。ああくそ、と呟いて、まぶたの上に手を当てる。
「目が使えないって不便ですね。……あなたの顔が見たいです」
「全治三週間だそうですよ」
言って、そこで彼の体のことを思い出したのだろう。すん、と大きくしゃくりあげたあと、
「そうだ、こんな、泣いている場合じゃないのでした。……寝ないと」
コロカントは慌てたように言った。
「そうですね、そうします」
怪我の痛みなのだか、フラれたときの痛飲のせいなのか、もうよく判らないが、がんがんする痛みが全身を駆けまわっていて、実はそろそろ体を起こしているのも難儀だった。
ありがたく言葉に甘えることにする。
そうっと体を寝かせると、横にしただけでだいぶ楽になった気がして、バラッドは大きく息を吐いた。
「どっちにしろ、これじゃあ逃げられませんね。ろくろく立てるかどうかも判らない」
「痛いですか。――痛いですよね」
はずみで聞いて、それからおのれに言い聞かせるようにコロカントが言った。
「痛かないですと言いたいところですが、痛いです」
言いながら急激に頭に霞がかかってくる。体はかなり前に限界だったらしい。
「――バラッド、」
痛ましそうな声をだす彼女にひとつ笑って、バラッドはなんとか彼女の手を引き寄せる。そうしてその甲に唇を押し当てた。
「姫。……俺の姫」
ぽろ、とそんな言葉が自分の口からこぼれだして、言った直後に赤面する。俺はなにを言っているんだ、内心突っ込んでみるけれど、熱に浮かされたようなうわ言が勝手に滑り出す。
「もう一度会いたかったです。自分はあなたに会って、そうして、もう一度、……、」
「……、」
呂律の回らなくなった額に手を当てられ、彼女が何か答えた気もする。あてがわれた手のひらが冷たくて心地いい。
……もっと話していたいのにな。
眠ってしまうのが惜しいと思った。
引っ張って引っ張って、とうとう意識を手放す最後の瞬間、ちゅ、とバラッドの耳元で、やさしい音が聞こえたような気がした。