なんか、幸せって怖い。
最近の自分の身に余る……あまってるのか?……よく判らないけど、降ってわいた幸運、みたいなのがあって、それを自分は正直手に余していて、すこしだけうんざりする。
うんざりってちょっとちがうかもしれない。
でも、この胃の下あたりのもやもやと言うか、ぐるぐる渦巻いている不安をなんと表現したらいいか判らないし、それがいつまでも消えてなくならないものだから、気になって仕方がない。
たぶん俺は幸せだった。
「だった」、ていうと、なんか過去形みたいだけど、この幸せとやらはあいにく現在進行形で、つまりこの胃の腑のもやもや感も、怖いっていう思いも同じように進行形で引き連れていて、だから余計にどう対処していいのか判らなくて困るのだ。
しかも自分はちっとも動けやしなかった。
別に縛られてるわけでも、閉じ込められているわけでもなかったけれど、四日前の催事区のボヤ騒ぎが原因で、ひと口では言えないけど、まあいろいろあって、あちらこちらに怪我をした。
ヒビ入ったり、激しくぶったりだので、体ががたぴしで、ろくろく起き上がりもできなくて、わりと本気でまいる。
でもね、最初はね、そこまででもないかなって思ったんですよね。
グシュナサフに診療所に引きずって連れて行かれて、そこで医者がお前大丈夫かみたいな顔で手当てをするのを見ながら、なんだかやたら大げさに驚く医者だなあなんて思っていた。
たしかに体は痛かったし、力任せにぶん殴られたり踏みつけられたりしたから、骨の一本や二本いっただろうなあとは思っていたけれど、肩を貸されたとはいえ、診療所まで自分の足で歩いていったわけだし、見た目ほどひどくないんじゃないかな、だなんて思っていた。
だから、体のあちこちを保定されたり固定されたりで、すごく物々しくなって厭だったし、まぶたまで覆われたときには、あとでこっそり包帯とってしまおうだなんて思ったりした。
でもあれですね、痛い本番ってあとから来るって本当ですね。
よく、戦場で大怪我をした兵士が、そのときけろっとしてたのに、ひと晩経ったら虫の息、だとか、腕が折れていたはずなのに、不思議と戦闘が終わるまで剣を振るうことができた、みたいな、そんな光景を見たことも聞いたこともあったけど、まさか自分がそれを体験するとは思わなかった。
このさ、あとから来るって言うのが、難なんだよなぁ。
脳内麻薬っていうんですか、その効果こわい。
効いてる時のテンションと、切れたときの落差がハンパないって思う。
でも今気づいたけど、これってちょっと二日酔いに似てるかも。似てないですか。
飲んでるときは、だいじょうぶまだまだイケるイケる、とか思ってて、わりと調子こいてがんがん行ってたら、次の日になって、ものすっごいことになるとか、そういうの。
なるよね。なりますよね。
最後、のこった酒残すのもったいないし、みんな混ぜてちゃんぽんしちまえとか言って、まぜまぜして、よーしのりこめーみたいなノリで、飲んで、あとから後悔する系の。
半日は洗面器とお友達みたいな。
似てる。たぶん。
まあ怪我の痛みと二日酔いが、似てるかどうかの審議はおいとくとして、ともかく、好きなひとの前で、格好つけていたかったのに、興奮が静まったが最後、俺は正体を失った。
寝た、と言うよりは気絶だったんだと思う。夢も見なかったし。
ときどきなんとなく、額に手が当てられてるな、とか、汗拭かれてるな、とか、お薬ですよって声かけられて口開けた、みたいなうつらうつらした記憶はあるから、完全にぶっ飛んだわけじゃないのだと思うけれど、とにかく、ぽかっと目が覚めたのは、しばらく経ってから後だった。
――三日三晩熱にうなされていたんですよ。
自分の傍に付いていてくれた彼女が、そんなように言って、ああそうか、もうあの夜から三日が経ったのか、だなんて自分は初めて時間の経過を意識した。
意識して、それから大変申し訳なくなる。
三日三晩、どれくらい付きっきりだったか知らないが、熱でうんうん言っている怪我人に付き添って、彼女はまったく休めてないんだろうなと気付いたからだ。
たぶん、仮眠すらできてない。なぜならこの部屋には、寝台がわりになりそうなものはないからだ。
彼女の声に元気がなかった。そりゃそうだ。
自分だって三日三晩、かたい椅子に座ったまま、うたた寝程度で過ごしたら、同じようにへとへとになる自信がある。
でもきっと、大丈夫ですかと心配しても、大丈夫って返されてしまうんだろうな。
休んでくださいって言っても、平気ですって言われてしまうんだろうな。
自分はどれだけこのひとに無理させてるんだろうって思った。
たぶん俺は幸せだった。
だって、傍から見たらそうでしょうって思う。
生きてるか死んでるかもわからない自分のことを、四年も信じて待ち続けてくれたひとがいて、しかもそのひとから、間接かつ直接的に好きだって言われてて、普通だったらここで大団円、熱い接吻をかわしてめでたしめでたし、そうして騎士とお姫さまは、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。おしまい。そうなるのかもしれない。
俺も。俺もあなたのことが好きです。
そうやって伝えて、そうしてお互いの気持ちを確かめ合うとか、なんとか。
でも自分はその幸せ、だとか言うやつを、妄信的に、まるかぶりで信じる気持ちにはなれなかった。
一過性のものなんじゃないの。そうやって頭から疑ってかかる自分がいる。
落ち着いてよく考えた方がいい。あなたの目の前にいるのは、四十手前の、自分にまったく自信のない、卑屈なおっさんです。
これが、たとえば行き遅れた気の毒なひとだったり、一度嫁いで嫁ぎ先でなんやらあって、出戻ってきちゃったひと、とかだったら、自分もここまで卑屈にならなかったかもしれない。
こういうこと言うと、差別みたいですけど。
だけど、納得はできる。ああ、俺以外選べる人がもういなかったんだなって。
でも、自分を好きだって言ってくれてるひとは、成人ちょっと手前の、言ってみたら前途洋々たる若者とでもいったらいいのか、熟してるってよりは、いまから甘いにおいをはなつ予定の、それも、とびっきりにおいしくなりそうな、色づく前の水菓子(フルーツ)みたいなひとで、顔のつくりだってとても可愛らしいと思うし、性格は言うまでもないし、つまり、よりどりみどり、これから男がいくらでも寄ってくる可能性があるひとで、そんなひとが、俺みたいなのを選ぶって言うのがもう信じられないというか、気の迷いですよねって思う。
早晩目が覚めるんじゃないのかな。何でこんな中年男好きになっていたのかなって。
だから怖い。
彼女をようやく抱きしめられると思ったのに、ふと彼女の気が移ろって、はなしてくれと言われたらそれまでになってしまう関係が怖い。
好きだとかいうけど、そこにはなにも確約なんてない。
確約なんてない、そうして、ひとの心がしばれないことを、自分は知っている。
どれだけ、百万遍、裏切らないって誓ったって、その誓いが邪魔になったら、ひとは誓いをあっさり捨ててしまうんですよ。
だってそうでしょう。
ひととひととが一緒にいるって、脳みそがある意味錯覚しているというか、相手のことを好きだって思う、脳内物質が出てるからですよね。
じゃあ、その、錯覚がきれたとき、ひとはどうするんですか、って。
親子はわかる。兄弟もわかる。血は水よりも濃いっていうけど、本当に、そうだ。
もうこれは理屈じゃない。同じものを持っている関係って言うのは、切っても切れない何かがあると自分は思っている。
生まれて即捨てられた自分には、その、切っても切れない関係の相手がいる、と言うのが、頭でしか理解できないけれども。
理解はできる。納得はしていない。
感覚的に、よくわからないからだ。
でも、親友同士、だとか、それこそ恋人だの夫婦だのっていうのは、まったく真っ赤っかの他人と他人だった。
その異物同士が一緒にいられるというのは、ひとえに、一緒にいたい、いようという相互努力の上に成り立っているからだ。
だから、どちらか一方がその努力を忘れてしまうと、関係はあっけなく終わってしまうんですよ。
一度離れたら、それはもと恋人だとか、もと友人じゃない。「もと」、なんて建前だ。自分に対しての、気休めの言い訳だ。
自分とはもうかかわりのない、他人と言うだけ。
ひとは、それが怖いから、別れても関係が続いていると思い込みたくて、「もと」と付けたいだけ。
なんでそんな小難しい屁理屈こねてるんだって言われそうだけど、だってね、諜報活動と言う名の、孤衾に憂うる奥方さまがたを相手にしてみなさいって話なんですよ。
彼女たちはみんな、夫に永遠の愛だの純潔だのを誓ったはずだ。
そうしてその口で、彼女たちはみな、あっさりと誓いを破った。
ためらいもなく、まるで夜着をとっぱらうかのように、ぽいと誓いをまるめて捨てた。
そうでなくたって、諜報活動でなくたって、自分がまだ売春宿にいて体を提供してたころ、顔を隠したご婦人がたが、たびたび宿にやってきていた。
自分だって、別に毎日毎晩、若い男の尻が大好きなおっさんどもに掘られてたわけじゃない。
客の半数は、女性だった。
そうして、その女性客のほとんどは、既婚者だった。
だから、つまり、そういうことなんだろう。
たしかなものなんてどこにもない。
いってみれば、彼女が俺を好きでいてくれるかどうか、それだけでなんとかつながっている関係で、そんなあやうい土台の上で、自分はがたがた震えているのだった。
俺は幸せだった。
だから、その幸せが終わることが怖かった。
――だったら逃げちまえばいい。自分の中で囁く声がする。
もう逃げないって、白旗あげて観念するって決めたはずなのに、本当は、すぐにでも逃げの一手をえらびたい自分がちらちら見え隠れしていて、そいつが俺をそそのかす。
なあ、怖いんだろ。彼女の気が変わる前に逃げちまえ。
なあ、怖いんだろ。彼女が俺を捨てる前に逃げちまえ。
逃げちまえ。逃げちまえ。逃げちまえ。
そうしたら、俺は、幸せだった気持ちを抱えたまま、その追憶の中でずっと生きていける。
ずっとくり返しくり返し、壊れたオルゴォルのように、それは俺をそそのかし続けて、
「……とかなんとか、そういうことがぐるぐる頭の中を回っていてはなれないんですよね……、」
鬱々と膝をかかえ、寝台の上でバラッドがボヤくと、ものすごーく呆れたため息をつく音がした。
ふたつもした。
「まーーーた頭めでたい愚痴こぼしてからに、せいぜい勝手にしろ、という感想しか出てこないが」
ひとりはグシュナサフだ。
くだらない話だと決めてかかると、とりつくしまもない。
「あんたがつっけんどんなのは今に始まったことじゃないですけど、それにしたって、自分のこの、悲愴たる吐露を聞いて、なんでそんな非情な意見が言えるんです、」
「お前のそれはな、悩みとは言わない。そりゃ惚気(のろけ)っていうんだ」
「……、」
うっかりここで反論すると、バラッドに対して容赦なく毒を吐くグシュナサフに倍以上反論されそうで、彼は口を噤む。
……これ、のろけか?のろけなのか?
こんな苦しいだけの思いが、のろけなのかな。
そうも思う。
「……、お前のその高邁な苦悩とかやらは、俺にはよくわからんが」
バラッドのぼやきに一応は付き合ってくれるつもりのようで、がりがりと音がする。頭を掻いているらしい。
らしい、というのは、まだバラッドの目は包帯をあてがっていたからだ。
この部屋にはいま、バラッドと、見舞いに訪れたグシュナサフ、そうして女の三人だった。寝ずの看病に疲労の濃いコロカントを、そのまま傍に置いておくにはしのびなくて、バラッドは無理を言って、ふたりに彼女を宿へ連れて行ってもらったのだ。
彼女を宿に連れてゆき、戻ってきた彼らに、ここ数日間のおのれの恐怖をボヤいたのがはじめだ。
「姫を信じてやれ。断じてやってもいいが、あの方は、お前を裏切るようなことは絶対になさらない」
「……でも、」
「逆に聞くが、お前はどうなんだ。その、お前が言う、うつろいやすくて、もろい土台の上とやらに、姫とお前の関係が成り立っているというのなら、その持ち分は五分と五分だろうが。お前が誓いを破ったって、その関係は終わるんだろうが」
「変わりませんよ、そんなこと」
即座にバラッドは言い返す。
「邪魔になるとか、飽きたとか、そんな上っ面で変わるようなものなら、もうとっくに変わってる。損得はかって自分にうまみがなければ損切りするなら、ミランシアが落ちたり、隠れ家の居場所がバレたりしたときに、とっくに見限ってるはずでしょう。醜態さらして死にものぐるいになる必要はない」
「だからさ」
そういうことだろ。
投げやりな口調でグシュナサフが言った。
「お前がそう思ってるなら、あの方はそれと同じ強さで、お前に応えようとするだろうよ」
そう言うふうに、お前が仕向けたんだろ。言外に告げられて、バラッドは口を開きかけ、再び口を噤む。
「お前がしたんだ。いいか、そこが肝要だぜ。――お前がしたんだ。タマついてるなら、責任取れ。腹くくれって言うのは、そう言うことだろ」
「……でも、」
「くだらんこと考えてないで、とりあえずお前はクソして寝ろ」
唐突に会話に興味を失ったようで、グシュナサフはじゃあな、と最後に言い置くと、さっさと退室していった。
そもそも、バラッドの様子を見に来たというよりは、宿に戻ってこないコロカントを案じて顔を出したようなものだったのだから、その目的が達成された今、長居するつもりもないのだろう。
のしのしと階段を下りてゆく音に耳を傾け、それからすこし長めにバラッドはため息を吐いた。
男の言うことは正論だ。間違っていないのはよくわかる。
弱音を吐いたことにたいして、まるで慰めを見せないのも、グシュナサフらしいと思った。
「なんかさ」
一連のやりとりを黙って見ていた女が、男が去った後、ゆっくり口を開く。
先ごろグシュナサフと共に、呆れたため息をついたかたわれだ。
「なんです、慰めてくれるんですか」
「慰めてもらえると思ってんの」
「優しくおっぱいにうずめて、よしよししてくれていいんですよ」
「冗談。それ、あたしの役目じゃないでしょうが」
あきれたままに、女が続ける。
「それにあたし、娼婦は廃業したの」
へえ、とバラッドの喉から声が出た。
「一大決心、」
本心だ。
春を鬻(ひさ)ぐことでしか生きてこなかった人間が、その、体にへばりついた泥のような習性をやめて、別の生き方を模索することがいかに難しいか。
似たような境遇で、宿にいたことがあるバラッドだからこそ判る。
「あの無口でがさつなあれに決めたんです?」
「そう。ひとりに絞るのも、悪くないかなって」
「つまり、それって、自分とグシュナサフは穴きょうだ、……ぐえ、」
蛙のつぶれたような声が出たのは、女が急に手を伸ばしてバラッドの首を絞めたからだ。
「阿呆なこと言ってると縊(くび)るよ」
「すみませんすみませんすみません。ララさん、力が本気です」
「それに兄弟も何も、あんた、あたしのこと、一度も抱かなかったじゃないの」
彼が降参の意を示すと、鼻を鳴らして女が手を放す。
「そうだったかな」
「そうだったの。すっとぼけたってあたしは覚えてんのよ。あんた、あたしのところに転がり込んだのも、一度や二度じゃなかったでしょうが。一緒に寝よう、って言って、ぐうぐう高鼾(たかいびき)掻きはじめたの、最初見たときは、なに考えてんのって、本当にびっくりした」
「ひとり寝だと眠れないんだ」
「よく言う」
はあ、とまた女がため息をつき、そうして椅子に腰かける音がする。
さっさと帰っていったグシュナサフと違って、こちらはしばらく相手をしてくれるつもりのようだ。
「あたし、あんたのこと、わりかし本気で、男めかけだと思ってた」
椅子に腰かけ、勝手にポットから茶を注いだらしい女は、喉を潤したあとにぽつ、と呟く。
「ひどいな」
まあ、しかたないか。
言ってバラッドは薄く笑った。
「情報集めとはいえ、結局奥方さま相手に、似たようなことやってましたしね」
抱かれると、女はまるで素性の判らない相手でも信用するらしい。
その証拠に、閨(ねや)の会話は口が軽くなった。諸侯の情報を得るには、その夫人にすり寄り寝床にもつれ込むのが、てっとり早い方法だったので、バラッドも当然よく利用した。
「あのとき、あんた、年も仕事も、名前すら口に出さなかったでしょう。変わったひとだなって思ってた。……、……まあね、娼婦相手に、名前も名乗らない、一夜限りの関係なんて、それこそ死ぬほどいたけどさ、……、でも、何度か買ってくれたような客は、寝てる合間に、自分が仕事でどれだけ稼いだとか、山賊をばったばったなぎ倒した手柄話とか、まあいろいろ、自分についての自慢話を上らせるって相場が決まってた。たぶん、男はそうでしか、自己表現できないのね」
でもあんたはちがった。女は言う。
「ばかみたいな冗談ばっかし口にして、さっぱり自分の話をしない。煙みたいな、つかみどころのない、変な客だと思ってた」
「……そうだったかな」
特に意識はしてなかった。首をひねると、そうよ、と女が笑う気配がある。
「今だから正直に言うけど、あたし、あんたのこと、怖かったのよ」
「……、」
「本当に怖かった。へらへらとして、だらしがなくて、調子のいい、ただの女好きの男めかけみたいに見せてて、でも、一言も正体を口にしないし、あんたの目はいつも笑ってなかった。ふざけたことを言ってるときも、あんたの目は暗くて重い色をしてた。ああこのひと、ちっとも面白くないんだなって。酔っぱらって、げらげら笑ってるくせに、ぜんぜん楽しくないんだなって、気付いたの」
「くわばらくわばら」
言ってバラッドは首をすくめる。そこまで見抜かれているとは思わなかった。
女は怖いな。そう思う。
「水、飲む」
「……酒が飲みたい」
「ばかねえ」
本心を呟くと、心底呆れた女の溜息が聞こえる。
「姫ちゃんに言っておいてあげる。目を光らせてないと、あいつこっそり酒を飲むと思うよって」
「やめろ、やめてくれ」
わりと慌ててバラッドは手を振った。あれだけ渾身で看病をしてくれている少女に、冗談交じりでもそう吹聴されるのは、考えただけで目の前が暗くなりそうだ。
「はい」
慌てて振った手に渡された小さなグラスを、考えなしにぐいと流し込んだ彼は、その中身が水でなかったことに、流し込んでから気付き、噎(む)せてごふ、と噴きだした。
寝酒用に買って転がしてあったものだ。
「おま、」
「ほんのひと口じゃ、毒にもならないでしょうよ」
「……、」
ああもう早く、この視界をふさぐ包帯を何とかしたい。
四日目になる目暗(めくら)の世界を嘆きながら、まぶたに手を当てる彼に、こちらも茶ではなく酒を注いだらしい女が、
「でも、今のあんたは嫌いじゃない」
ふ、とやわらかく笑う。
「なんだそれ」
「姫ちゃんと一緒にいるときのあんたは、判りやすいもの」
「……、」
「あんたの自己評価が底なしにずぶずぶなのは、まあ、たぶん、今にはじまったことじゃないのよね。それは誰にも変えられないし、あんただって変えられるのかどうかもわからないけど」
抱きしめてあげなさい。女は言う。
「理由も理屈もいらないから。惚れた男に抱きしめてもらったら、それだけで女は幸せなのよ」
「でも、自分は、」
「ぐだぐだ言わない。しゃっきりしなさいよ。姫ちゃんはあんたを選んだんでしょが」
ひっ叩いてやりたいけど叩けないねぇ。悔しさのにじむ声で女が呟く。
「さすがに、これだけ包帯だらけだと、叩くのにためらう」
「怪我の功名ですかね」
「名を成してないじゃないの。こういうのは、憐れまれてるっていうのよ」
それからまたしばらく話し込んでいるうちに、夕暮れになったようだった。
グシュナサフと女がたずねてきたのが、昼より手前の時間だったから、およそ半日ばかり女はいたことになる。
話疲れて互いに黙ったあたりで、バラッドは眠ってしまったようだ。
ふと目が覚めると、部屋には夜気がしのび込んでいる気配と、それからまだ女のいる気配がした。
階下からなんとなく物音が聞こえるところを見ると、夜半より前、とバラッドはふんで、それから、
「水をくれ」
何の気なしに呟いた。寝起きのしゃがれた声が出る。
黙ってそっと手渡されたグラスが空気を揺らし、その揺らした中にかすかに漂った相手のにおいが、先とは明らかに違う。
「……あれ……、あの、姫?」
「はい」
おそるおそる呟くと、小さく囁くような声で、こたえが返った。
その小さな声が耳に入るより前、これは確実に女の気配ではないと悟った瞬間、飛び上がるようにバラッドは跳ね起きようとして、
「いっ――!!っ――っ」
「バラッド!」
びき、とあちこちの骨が軋んで悶絶する。声にならない声をあげ、固まった彼の脇へ膝をつき、おろおろとなるコロカントに、
「……いじょうぶ、大丈夫です、……大丈夫、ちょっと痛かっただけ」
無理矢理口の端を上げて笑ってみせた。邪魔だ邪魔だと思っていたが、いまだけは目が隠れていてよかったと思う。確実に涙目になっているに違いないからだ。
「本当に、」
「本当に。大丈夫です。急に動いたのがよくなかっただけです……っていうか、すいません、自分、姫に、失礼な口を、いや、それより、どうして姫がここにいるんです。せっかくあいつに連れていってもらったのに」
「戻ったんです」
「はあ、なるほど、……いやいや、なるほどじゃないです。自分はね、姫にきちんと休んでほしくてですね」
「休みましたよ。昼から夕方まで、夢も見ずぐっすりでした。夜になって目が覚めたので、戻ったの」
ようやく静まった全身を走る痛みに、ゆっくりとこわばった肩の力を抜きながら、いやいやそうじゃない、と彼は首を振る。
「そのまま、朝まで休んでいただきたかったですよ」
「……バラッドは、」
口にしたあと、いったん思案するそぶりを見せた少女が、
「バラッドは、わたしがここにいると、落ち着いて休めませんか」
しょんぼりと、悲しそうな声でたずねる。
「わたしがここにいると、気が休まりませんか」
「いや!いや、そういうことじゃなくてですね、」
「水をくれでいいんですよ。かしこまって話す必要はないんです。ララさんにはそう言うのに、わたしにはそう言ってくださらないというのは、つまり、わたしに心を許してないと、そういうことですよね」
「ちが、ちがいます。ちがうんです。心を許すとか、許さないとか、そう言うのじゃないんです。ちがうんです。自分はですね、姫が尊いというか、大事っていうか、大事すぎて怖いっていうか、その、」
自分の失言に、頭が真っ白になりながら、あたふたと弁明しようとするバラッドの肩口に額を押し付け、
「今のは無しです」
寝台に腰かけたコロカントが、小さく笑って呟いた。
「ごめんなさい。意地悪を言いました。バラッドが困るのが判ってて言ったの」
「姫、……、」
「あなたがララさんと仲が良くて、わたしが悔しかったんです。だから、絶対困るのが判ってて、意地悪をしました。ごめんなさい」
「……、」
その笑った声がなぜか寂しそうだと思った。
どうして彼女が意地悪をしようと思ったのか。そんなこと、誰かに言われなくたって判る。
――抱きしめてあげなさい。
つい先刻、女に言われた言葉がよみがえり、肩口に押し付けられた頭に彼は手を伸ばし、そのまま胸もとに引き寄せる。
ちいさな動きだったけれど、彼にとっては冷汗三斗の思いだ。
引き寄せたコロカントは、とくに抗うこともなく、彼にもたれかかった。
包帯を巻いて湿布くさい胸もとに、触れても大丈夫だろうかなと遠慮がちに頬を押し当て、くすくす笑う気配がある。
「なんです、」
「バラッドの音……すごく聞こえます」
胸板に耳を当て音を聞き、彼女がそう言う。
「……そりゃそうですよ。めちゃくちゃ緊張してるんです。もうバクバクしすぎて、脳の血管切れそう」
「バラッドは、わたしといると、緊張してしまうんですね」
「しますよ。そりゃ、好きな相手をこうして引き寄せたら、誰だって緊張します」
「……好きな、」
「はい。もう、バクバクがバレてますからね、この際だから言ってしまいますが、つまり、自分は、姫にめろめろの首ったけなわけで」
「――」
引き寄せ、嫌がられなかったのを幸いに、告白まがいをにおわせてみると、ふと少女が黙り込む。
……あれ。
ぎくりとなった。
もしかして、浮かれているのは自分だけなのだろうかと思ったからだ。善意と好意は似ているようでだいぶ違う。
どっといやな汗が吹き出ようとした瞬間、
「――わたしも一緒です」
ぽろ、と少女がこぼした。
「え、」
「もう頭の中、自分の心臓の音で、他になにも聞こえないぐらい」
「……、」
比較的自由になる右腕で、おずおずと彼女の肩を抱き、やわらかな髪に顔を寄せる。
……ああ、もうどうしよう。
心底うろたえる
幸せと怖いがいっぺんにどっと押し寄せて、正直気が違いそうだ。
引き寄せられた形のまま、身じろぎもせず、しばらくじっと彼の音を聞いていたコロカントが、
「前に、もっとわがままを言ってもいいってバラッドが言ったの。覚えていますか」
ぽつんと言葉を転がすように呟いた。
「たくさんわがままを言って、困らせてもいいって」
「覚えてますよ。たしかあれは、馬宿のことでしたか」
もうずっとずっと、昔の話のような気がする。
「ちゃんと覚えてますよ。あのとき、姫は、オゥルがしたみたいにぎゅってして、キスしてくださいって、言いましたねぇ」
こたえると、また少しためらう様子がある。
「バラッド」
「はい」
「わたしはあの頃より大きく、狡(ずる)くなりました。それでも、……わがままを言っても許されるかしら」
「どうぞ。辛抱は体によくありません」
頷くと、腕の中の彼女が、彼を見上げる気配がする。
「バラッド」
「はい」
「もっと、ぎゅってしてください」
「はい。……ぎゅっとするだけでいいですか?」
「……ええと」
笑いを含みながらたずねると、即答できずに少女は言葉に詰まった。
「それとも、別のなにかを姫はお望みかな」
「そんなの」
くつくつ喉奥で笑っていたのに気づかれたらしい。
「そんなの知りません……!」
ふくれた声をあげ、腕の中からもがき、つい逃げだそうとする彼女の体を後ろから抱きしめて、すみません、とバラッドは声を耳元に吹き込んだ。
まだ言外に笑いが滲んでいる。
「姫が弱るのを知っていて、意地悪を言いました。今のは無しです」
「ひどいわ」
「おあいこですよ」
追いかけるように、ちゅ、と拗ねる少女の手の甲に口づける。
そのまま何度か手の甲へ口づけ、次第に甲から手首を伝い、腕に至って、鎖骨のあたり、喉元、左に、右に、風が撫でるような優しい口づけを何度も落としていった。
視界がきかないので、まさぐるように唇で肌の上をたどる。
閉じた瞼に、そうして鼻先に、かすめるように触れてゆくと、あ、と戸惑うようにかすかな吐息が彼女からこぼれた。
次いできゅっと引き締めた唇の寸前でとどまって、
「姫」
バラッドはコロカントを呼んだ。
心臓が高鳴りすぎて、口から飛び出ていきそうだ。
自分のどこにこんなに初心があったのかな、おかしくなりながら、そっと仰のいた彼女の手を、おのれの胸へ持って行く。
「……大丈夫」
自分もこんなに怖いです。
ささやきながら唇を押し当てると、そこはやわらかく、そうして緊張にひんやりしていた。
数度、ついばむように唇を重ね、
「もっと?」
「……もっと」
なだめるように、押し当てては離し、離してはまた重ねる、口づけをくり返す。
ふたつの唇が離れるたびに水音が鳴り、音を追うようにして震える彼女の唇が心地いいと思う。
陶酔してしまう。
飽きもせず、それこそ互いの心拍音が聞こえるほどに密着したまま、何度も何度もくり返し、いったいどれだけのあいだそうして口づけ続けていたのか、もうよく判らない。
……ずっとこのままでいられたらいいのにな。
そんなことをふと思う。
こうして彼女を抱きしめ、口づけている今でも怖くて、――怖くて、だのに触れるのをやめることができないのは、これもまた麻薬のようなものかな、とふと思う。
自分は相応しくないだの、彼女の気が変わる前に逃げたいだの、口ではどうとでも言ったところで、つまるところ、もう、がんじがらめに捕らわれてしまっているのだ。
逃げようがない。
……それも、自分から深みにハマりにいっているんだぜ。ざまぁない。
心奥の自分が高らかに嘲笑する声がして、親指の腹で撫ぜていた彼女の唇へ、バラッドはまた唇を落とした。