わりと本気で、目の前のこいつを殴りたい。

 

 乗らない気のまま、怪我人が間借りしている酒場をグシュナサフは訪れたのだ。

 本当に、しぶしぶだった。

 しかたがない、当番なんだから。自分にそう言い聞かせながら足を運んだ。

 耐えろ。不寝番と一緒だ。寝ずの番にくらべたら、怪我人の付き添いなんて楽なものじゃあないか。

 今夜と明日のふた晩じっと辛抱して、昼過ぎに交代要員のブランシェが来るまでの辛抱だ。

 何度も言い聞かせながらだらだら階段をのぼり、部屋の戸を開け、寝台の上にいた腐れ縁の赤毛の阿呆(あほ)を目に入れた瞬間の、グシュナサフの胸のうちに沸(わ)き上がった衝動はそんな言葉だ。

 

 殴りたい。

 

 寝台の上の包帯だらけのアホは、それでもようやく目の包帯が外れ、膝の上に乗せた朝飯だか昼飯だかわからないそれを、逆手に持った大匙ですくい、もちゃもちゃと食べている。

 その顔がしまりなく緩み切っていて、しかも、

 

「なんか俺、いまものすっごく幸せ」

 

 だとか、ほざいていた。

 つい三、四日前に、今にも鬱死しそうな顔をしていた人間と同じには到底見えない。

 返事をするのも面倒なので、喉の奥で唸ってそれでしまいにしようとしたのに、ねぇねぇ、だとか、この口から先に生まれたようなアホは、すり寄り話しかけてくるのだから、始末に負えない。

「あんた、俺の話、聞きたいです?」

「聞きたくない」

 即答だった。

 こたえるといつもの大げさな身振りで、ええぇ、だとか騒ぐのだ。

「なんでです。あんた、親友……もうあれですよね、心の友と書いて心友みたいな、それっくらい長い付き合いじゃあないですか。その心友が、長年の思いを成し遂げて、幸せになってる話をですね、聞きたくないんですか。聞いてやろうっていう気概はないんですか」

「ない」

 やはり即答する。

「俺はお前の世話をするためにここに張ってるんだ。お前の鼻の下が伸びた惚気を聞くために来たんじゃない」

 ああもうせめてこの阿呆が寝入ったあとにくればよかった。

 心底後悔する。

 不寝番よりはましだと思ったけれど、不寝番の方がずっとましだった。敵襲を警戒して、じっと耳を澄ませ、膝をかかえて気を尖らせているだけでよかった。

 このアホの話し相手をつとめるよりも、ずっとずっとずっと気楽だったと思う。

 惚れた相手ならともかく、なにが悲しくて男の惚気(のろけ)話の聞き役なんぞつとめなければならないのか。

 複雑な思いで椅子を引いた。

 話しかけられたくなかったので、なるべく寝台から離れて腰かけた。

 自然、窓に寄る形になって、日中の閑散とした路地を見るともなしに眺める。

 窓下の道は細く、荷車が通る幅の広さはない。だったので、行き交う人間の姿もほとんどない。

 

(そもそもだ)

 

 こっそりため息をつきながら、グシュナサフは窓下を眺めつづける。

 認めたくはないが、バラッドとはたしかに長年の付き合いだ。

 文字通りの「肩を並べた」期間は、数えてみればそう長くはないのだろうけれど、グシュナサフがミランシアに従属したときから現在まで、思えばもう二十年近い付き合いのわけで、腐れ縁、と呼ばれてももう仕方はないかな、と諦めつつある。

 なお、心友だとは思っていない。

 ただ、長い付き合いと認めるということと、その長い付き合いの男の惚気を黙って聞くというのは別の問題なわけで、

 

(……そもそもだ)

 

 眉間を揉む。

 頭が痛くなってきた。

 その惚気と言うのがまた厄介だった。

 

 ただの町娘に、惚れた腫れたの話だったのなら、聞いているふうを装って、右から左に聞き流してしまえばよかった。

 事実、いままでグシュナサフは、バラッドの女に関するたぐいの話をそうして聞き流してきたし、ふんふんと相づちを打って、ほんの時折ほう、とでも言っておけば、相手は勝手に満足するのだから、それでよかったのだ。

 その会話の内容がまったく頭に入っていなくても、たいして支障はなかったのだ。

 ところが、今度のバラッドの惚気の対象は、コロカントである。

 少女が、まだものごころつく前のあたりから、同僚が彼女に懸想しているのを、グシュナサフは気付いていた。

 気づいていたし、問い詰めたこともある。

 好きですよ。悪いですか。

 隠すそぶりもなく、あっさりと彼は認めた。

 ――悪いも何も、大問題だろうが。

 そう突っ込みを入れたような記憶もあるけれど、グシュナサフは、女にだらしない同僚が、いつになく真摯であることを知っていたし、そうして彼が彼女を大事に思っていることも知っていたし、なにより彼がひどく臆病であることも判っていた。

(きっとこいつは口にしない)

 そう思った。

 口にしない、と言うよりは、口に出せない、と言う方が正しいのかもしれないけれど。

 彼自身も、彼女に伝えるつもりはさらさらなかったようだ。

 そのはずだった。

 そのまま、ミランシア再興のために働いて、コロカントが領主の座に返り咲くか、もしくは有力な後ろ盾に渡した時点で、彼も、グシュナサフも、お役御免になるはずだった。

 そこで終わるはずだった。

 一介の騎士もどきが、ひそかに主君に寄せた思いは、そこで幕を下ろすはずだったのだ。

 

 だのに、現実は、ミランシアは再興せず、領地を追われるどころか、大陸を離れることになった。

 どころか、バラッドは生死不明の行方知れずになり、そんな彼を待つうちに、いつのまにか、少女は彼への思いを静かに深めていったようだ。

 気付いてはいた。だがどうしようもない。

 

 グシュナサフには、幼い子供に心を奪われるアホの同僚の気持ちは、いまだにさっぱり共感はできないが、彼女を見守り、庇護するうちに、父親代わりの気持ちにはなってはいたから、まあ、おかしな具合にこじらせるとそう言うこともあるだろうかな、とグシュナサフなりに理解しようとはした。

 理解しようとはした。

 した、けれども、そのアホが思いを寄せる相手と言うのが、自分が娘のように思うコロカントなのだから、無責任にアホの背中を押す気にも慣れない。

 父親代わり、と思っているが、まさしく、年頃の娘に悪い虫が寄ってきているこころもちだ。

 その悪い虫が目の前にいる。

 やっぱり一発殴りたい。

 

 苦悩に吐いた重いため息を、どう曲解したのか、姫はどうです、といくぶん心配そうな口調になってアホがたずねた。

「寝ておられる」

 一週間、無理を押して彼の付き添いをしていたコロカントは、今日の朝から発熱して、いまは宿で休んでいた。

 無理もないと思う。

 相変わらず、この部屋には寝台はひとつきりしかないからだ。

 簡易の寝台をとりあえず取り付ける、という話が上がったことには上がったが、日中はララやブランシェと交代して宿で休むから大丈夫だとコロカントが言い張ったのと、なんとなく、これは本当に、グシュナサフの私情でしかないのだけれど、アホの隣に仮とはいえ、看病のためとはいえ、寝台を並べるのに、なんとなく、気が乗らなかったせいもある。

 完全に娘を取られたくない父親の心境だ。

 

 

「そういえば、伝言があった」

 窓の下を眺めているうちふと思い出したので、グシュナサフが口を開くと、え、と嬉しそうな顔をしたアホがいる。

「姫からですか」

「いや。お前な、なんでもかんでも姫に結びつけるな。頭お花畑か」

「はあ、まあ、そんなようなもので」

「……、商工会議所のまとめ役だとかいう……、お前がすっぽかした祭りの遠当てについてな」

 聞けば同僚は、祭りの最終日に、近隣でかなり名を馳せているナイフ投げの男と、腕比べをすることになっていたらしい。いったいどういう経緯でその流れになったのかグシュナサフは知らないが、まあ、いつものなあなあのノリでいて、巻き込まれたんだろうなと、あたりをつけてある。

 言うと、うわあ、と思いだしたように、アホな同僚はいやな顔をした。

「なんです、見世物がおじゃんになって、高額賠償でも発生しましたか。俺、いま逆さに振ったって何も出ないんですけど。どうしよう」

「……お前はいったい何に巻き込まれてるんだ」

 呆れながら、グシュナサフは言付けをそのまま伝えることにする。

「祭りは終わってしまったからな。お前と、そのナイフ投げの対決は、次回の祭りに持ち越しだそうだ。次回が、……ええと、四年?五年後か?そのときの祭りの目玉にするから、こっそり逃げるなよ、だと。垂れ幕をもう何枚も作ってしまったので、お蔵入りするのはもったいないんだと」

「ひぇええ」

 情けない声をあげて、アホは頭を抱える。

「えええ、今回、俺、満座の前で恥さらして、笑われて、それで終わりだと思ってて、まあそれはもうしようがないかって覚悟してましたけど、でも、中止じゃなくて延期とか、その覚悟を数年単位で持ち越して持ってなきゃいけないんですか?しかも、今回は急遽決まった企画、みたいだったのに、それを次回の目玉で大々的に広報するつもりとか、成功するわけないでしょう。なに考えてんだ」

「俺は知らん」

 肩をすくめてこたえる。

「お前が招いた騒動なら、お前がなんとかしろ」

 にべなく言ってやると、アホはまたうへぇ、と言って頭を抱えた。

 

 けれど、先に伝言を持ち出したことで、すこし話がしやすくなったのはたしかだ。

「おい」

「はあ」

「これから、お前どうするつもりだ」

その勢いのまま、バラッドにたずねる。

「これからですか、……、ええっと、次回開催まで、毎日、ナイフ投げの練習を頑張るとか、そういう、……?」

「そっちの話じゃなくて」

 うなだれ膝の間に突っ込んでいた顔をこちらに向け、きょとんといぶかしむバラッドに、グシュナサフはまた盛大にため息を吐いた。

「いつまでも、ここにいるわけにもいかんだろう」

「はあ、」

 あくまでもこの部屋は酒場の主のもので、それを店主の好意で、バラッドが間借りしているに過ぎない。

 看病のために、コロカントやグシュナサフや、その他の人間が通うことはできても、それをずっと続けるわけにはいかない。

 そんなふうに言ってやると、首をひねっていたアホは、

「部屋でも借りますかねぇ」

 言った。

「部屋な」

「あんたらも、どうせ借りるつもりなんでしょう。部屋」

 グシュナサフらが身を寄せていた芸人一座の隊商は、祭りも終わった一昨日、イツハァクを離れていったのだ。

 

 ――姫ちゃんをたのむ。どうかよろしくたのむ、あの子はいい子だから、本当にいい子だから、おかしな虫が付かないように、どうかどうかあんたが見張っておくれ。

 

 娘だと思っていると公言して、旅の中でもなにくれとコロカントに目をかけてくれた人のよい座長は、涙ながらにグシュナサフの手を握り、最後まで頼み込んでいった。

 おかしな虫が付いたらぶちのめしてくれ、とも追って頼まれたが、言われなくてもグシュナサフはそうしたい。

 その虫が、長年の腐れ縁の同僚でなければ、とっくにぶちのめしていたはずだ。

 

「まあ、借りることになるだろうな」

 いまは、とりあえずの宿暮らしだ。荷物もあるし、預けてある馬のハナもいる。

 こちらもずっとと言うわけにはいかないな、半分頷きかけたグシュナサフの耳に、

「そうだ。いいこと思いつきました。どうせ借りるなら、だったら、いっそ、お隣同士にでもなりましょうよ。……ね?愛の巣ふたつ。いやあ、自分で愛の巣って言いきっちゃうのも、なんだか自己表現過剰みたいでお恥ずかしいですけど……、でも、幸せ空間ですよ。幸せオーラまき散らして、人集まっちゃいますよ。幸運スポットになっちゃいますよ」

 ね?じゃねぇ。

 頭おかしいとしか思えない世迷言が飛び込み、

「お前、」

 グシュナサフは一瞬絶句した。

「お前、頭沸いてんのか」

「えへ、湧いてるかもしれないなあ。姫といるだけで俺は常春ですもん」

「……、」

 とうとう我慢しきれなくなって、窓横に置いてあった拳ほどの小さなかざり箱を手に取ると、グシュナサフは寝台上の彼に投げつけた。

「うわ」

 大げさにアホは身をすくめ、けれどひょいと小箱を片手で受けとめて、受けとめたはいいが、骨にでも響いたのか、遅れて顔をしかめている。

 

「……、聞きたくもないことをこんなふうに聞くのは、ものすごく無粋で、聞くこと自体、俺はイヤでイヤで仕方ないんだが、あのな。お前、姫に手を出してはいないな?」

「やだなぁお義父さん、まだチュウ止まりです」

「死ね」

 今度は本気で、半分ほど入った酒瓶を投げつけた。

 

 先と比べると、だいぶん殺気のこもった一撃だったので、若干顔を引き攣らせたバラッドが、それでも器用にその瓶を受け止めて、危ないな、とこちらを咎める目になる。

「ちょっと。俺、怪我人ですよ。筋肉だるまのあんたに本気で投げられたら、死んじゃいます」

「かち割る気で投げた」

「ちょっと」

 口調がやや鋭くなる彼へ、重ねて念のため聞くが、と前置いて、グシュナサフは言った。

「お前、なんで避けた」

「はあ?なんでって、……、なんでって、そりゃ、当たったら痛いからでしょうが」

「避けられるんだな」

「避けますよ。当たったら痛いのが判ってて、わざわざ当たるのを待つ莫迦がどこにいます」

「そうか」

 いったん頷き、それからグシュナサフは、

「じゃあお前、あの晩、殴られなくても済んだところを、わざわざ殴られる莫迦に甘んじたのはなんでだ」

 問うた。

 声に、一瞬バラッドはひゅっと息を吸い、そうして口を開き、また閉じる。

 

「……なんのことです」

 しばらく噤んだあとに押し出した声は、すこししわがれたものだった。

「シラを切るな。懐に、煙管(きせる)を持っていただろう」

「……、」

 反論に目こぼす気はない。

 そもそもが腑に落ちなかったのだ。

 

 

「――多対一ならともかく、図体がデカかったとはいえ、相手はひとりだった。これまでにだって、逃げ場なく囲まれる、似たような状況は何度もあったはずで、……お前はその状況をいなしてきただろう。これが実戦のはじめてってわけじゃあない。剣の腕がない腕がないとお前は言うが、補って余りある実戦経験があると俺は思っている。正直に言え。たとえナイフを仕込んでなくたって、俺がお前なら、煙管を使うと思うんだが」

 ちがうか?じろりと睨みつける。

「もっと言ってやろうか。顔の中で、目玉はいっとうにやわらかい部位だ。煙管の吸い口だろうと、いまのお前のその大匙のように、逆手に構えて突き刺せば、相手の視界は奪えただろう?視界を奪えば、反撃の余地はあったはずだ。お前はそれを知っている」

「……、」

「お前が知っていることを、俺も知っている」

 突き詰められた彼が、無言で手元に目をやる。

 逆手に構えていた匙に、あらためて気づいたように力なく笑って、ああ、俺はテーブルマナーを身につけないといけませんねぇ、と呟いた。

「マナーがなってない男と食事をしてたら、姫に幻滅されちゃいます」

「そうだな、マナーは身につけるべきだろう」

「ええと、あのときは無我夢中すぎて、身を守るすべがすっぽ抜けたっていうのは、」

「苦しい言い訳だな」

「……、」

 有無を言わさない勢いで封じてやると、頬にうすく笑いを残したままの彼が、先に投げつけた酒瓶の口をひねり、ひと口、ふた口、流し込んだ。

 緑灰色の目が揺れている。

 

「まあ、仰る通りですよ」

 

 しかたない、そんなふうにまたうすく笑って、バラッドが認める。

「あんたの言う通りです。俺の懐には煙管があったし、……、それから、姫が頭にいくつか先のとがった細い飾りをつけてましたしねぇ。使うことは考えた。実際、何度か、目玉を突いてやろうかなとは思ったんですよ。その機会もあった。反撃できたかどうかと言うなら、できたと思います。あんたには即日突っ込まれるだろうなとは、思ってましたが」

「見せたくなかった」

「――」

 さらに上段から切り下ろしてやると、ああもう、と片手で頭を掻きむしり、判ってるならそこまで言うなよ、と苛立った声で乱暴に返される。

「厭だったんだよ。……それとも、あんたならやるのか?あそこまで脅えきってる彼女の見てる前で、相手の目ん玉にとがったものぶっ刺してくりぬくとか、もうトラウマ確定だろ」

 彼女は俺らとは違う、言って彼は昏(くら)い目になった。

 むかし戦場で彼がよく見せていた、昏い色だ。

「……たいした血を流さずに、力任せにぶん殴って伸(の)すとか、そんな器用な力技は俺にはできない。俺は弱いからな、加減ができないんだ。徹底的に、殺すか、姿をくらますか、その、どちらかなんだよ。……あのとき、たぶんあのひとは足を軽くひねってた。あのひとを連れて、走って逃げるのは無理だったんだ。だったら、」

 言われて思いだしたのか、枕元の煙管を手に取り、手のひらで転がしながら彼は呟く。

「あんたらが追いかけてきてるのは判っていたし、じゃあ、少しぐらい痛くたって、俺が我慢して時間を稼いで、あんたらがデカブツを叩きのめしてくれたら、それが一番、あのひとの心の傷にならないんじゃないかって」

 そう言ってバラッドはちら、とこちらへ目をやり、片眉を上げてみせる。

 

「まあ、わりと、予想以上に、ボコボコにされましたけど」

 ああほらなやっぱり、そんな思いが頭をもたげて、陰鬱な目でグシュナサフは同僚を見返した。

 前々から何度も思っているが、どうしてこいつはこんなに不器用なんだろうと思う。

 普段は小器用に、たいがいのことを軽くこなして見せる男なのだ。楽器もやるし、軽業もできるし、食事を作ればそれなりの味になるし、繕いものだって案外こなして見せるのに、ことコロカントのことになると、とたんに不器用になるのだ。

 こういうのを何と呼ぶのだろうかな。

 グシュナサフはふと思う。

 純愛、だとか、そんなおきれいな言葉で呼んでやる気はさらさらないけれど。

 

 

「でもいいんです。そのおかげと言っちゃああれですけど、姫にいっぱい看病してもらえましたし。差し引きゼロどころか、差し引いたってお釣りが出ます」

 いましがたの素顔をすぐに引っ込めて、いつものおどけた顔に戻って同僚が言った。

 目がニヤついている。

「俺はもう身に余りまくるほど幸せでしたけど、けど、根詰めさせて具合悪くさせるのは、よくなかったなぁ。やっぱり、添い寝してもらえばよかったですね」

「添い寝って、おま、」

「やだな、そんなひと殺しそうな目で俺のこと見ないでくださいよ。あんたそんな顔、戦場でだってめったにしなかったじゃあないですか。しませんて。ただ一緒に寝るだけですって。……そんな、軽々しく、あのひとに手を出せるほど、俺は自分に自信満々じゃないです」

 あのひとはきれいですからね。

 そう言ってバラッドは、ちょっと気弱そうに笑った。

 

「なんか、俺がちょっぴり触っただけで汚しちゃう気がして、恐れ多くて。本当は、そっと棚の上にでも飾っておきたいですけど、でも抱きしめてやれとか言われるし。あのひとがそれで安心するなら、してやるに越したことはないと思うんですけど、でも抱きしめたら抱きしめたで、あのひとはいいにおいするでしょう。俺絶対、煙草くさいのと、あと、おっさん臭すると思うんですよ。自分じゃよく判らないですけど。におい、うつったらどうしようとか、今度はそればっかり気になって、怖くて」

 もう自家中毒おこしそう。

 不安に揺れる眼差しがゆるゆるとグシュナサフに注がれて、それはそれでなんだか尻座りが悪くなる。

 

「お前、幸せいっぱいなんじゃあなかったのか」

「幸せですよ。幸せです。……でも、それと同じ重さで俺はやっぱり怖いです」

 あのひとを汚すのが怖い。

 男はそう言う。

 

 

「俺、あんたが羨ましいです」

 

 それからしばらくじっと黙っていたバラッドが、また不意に顔をあげ、言葉をこぼす。

「ふん、」

 答えあぐねて、グシュナサフから漏れたのは、そんな生返事だ。

「あんたは地に足がついている。揺らがないっていうんですかね。決断に迷いがない。俺は女じゃないですから、女心なんかとんと無縁ですけどね、でも、女だったら、あんたみたいな男に頼りたいと思うと思います。ふわふわした根無し草の俺とは、まるで違う。――俺は」

 俺はあんたみたいになりたかったですよ。

 普段なら決して見せない気弱な台詞を吐いて、同僚はため息をついた。

 その悩める横顔をじろりと睨んで、あのなぁ、とこちらもため息をつきながらグシュナサフは答える。

「下手の考え休むに似たりっていうんだ、そういうのは」

「……、」

「そんなくだらないことぐだぐだ考えてる暇があるなら、お前はとっとと寝て、一日でも早く全快しろ」

「そうですよね。……そうですよねぇ」

 ああこっちはこっちで、だいぶ重症だな。

 うなだれるバラッドを眺めながら、グシュナサフは内心ぼやき、それから、一発殴るつもりでここに来たのに、どうしてこいつを慰める側に回らにゃならんのだ、憤然としながら寝台へ近づき、彼から酒瓶を奪うと、その中身を一気に呷って飲み干した。

 

 

 

 

最終更新:2019年10月17日 23:53