(……好きって、結局どういう気持ちなのかな)

 

 ブランシェと二人、肩を並べて通りを歩きながら、コロカントの息が白く立ちのぼる。

 

 年が明けていた。

 温暖な気候とはいえ、やはりこちらの大陸にも冬はあるもので、それなりに寒いのだ。

 底冷えしないだけ、それでもましなのかもしれない。昔体感した石床からしんしん伝わる寒さをふと思いだし、思わず彼女は身震いした。

 あの、次第に芯から冷え切り、しまいには吐く息すら白くなくなるほどの寒さ、暴風雪に外に出た瞬間、頭の血管が一息でちぢこまる寒さ、目が覚めたときに粉雪が掛け布団の上に吹き込み、うっすら白く積もっていることに気づいたときの寒さ。

 そんな極限の寒さとは段違いだったからだ。

 頭からかぶった薄い毛織布をぎゅ、と前でかき合わせながら、空を見上げる。

 

 ここでは雪は降らない。

 

「寒いか」

 隣に並んだ青年が、気づかわし気に彼女を見た。いいえ、と首を振って、それからはい、とあらためて頷きなおす。

「どこかであたたかいものでも飲んでいきませんか」

「そうだな、ひと休みしていくか」

 寒そうに肩をすくめた青年も、彼女の提案に同意した。

 

 夕飯時よりもすこし早いこの時間は、店の中は空いており、コロカントと青年はすぐに席へ着くことができた。

 腰を下ろす手前で、青年が一瞬、妙な顔をしたが、

「ブランシェさん?」

「……なんでもない」

 首を振って返された。

 注文を済ませると、手持無沙汰になって、いましがた市場で買ってきた食材へ目をやる。

 青年も同じように袋へ目をやっていた。

「よく太った家鴨(アヒル)があってよかったな」

「ええ、おいしい丸焼きができますね」

 彼の言葉にうなずく。

 今夜と明日の午前中仕込んで、明日の夜、身内で祝いの宴をひらくつもりだった。

 グシュナサフとララの結婚祝いだ。

 結婚、といっても、どこかに出向くでもなし、親族の顔合わせがあるでもなし、誓いの言葉があるでもなし、そもそも今までも一緒に生活していたのだから、ほとんどなにも変わらない。

 ただいつもより、すこし豪華なご馳走を食べて祝うだけの、ささやかなものだ。

 見栄えを気にする豪商であるとか、貴族でなければ、盛大な式は挙げないのが一般的だった。

(……それでも、)

 それでも、コロカントは羨ましいと思う。憧れてしまう。

 

 *

 

 ララに子ができた。

 子ができた、女からそう告げられてすぐに、グシュナサフは腹を決めたらしい。

 

「根無し草はしまいだ」

 

 言ってその日に中央市場に赴き、仕事と住処を決めてきたそうだ。

 コロカントはララから伝え聞いた。

「相談もなしに全部一人で決めてくるのよ、あのひと」

 女はぼやいていた。

 まだ子が腹の外に出てくるまでには半年ばかり間があるし、滞在するにしてもこう人の多い町ではなくどこか別の農村あたりに移動したっていいのだし、そもそも身重と言っても悪阻(つわり)があるくらいで、まだ腹も重くないのだから、そう言っても通じないと女は言った。

「もうね、頭いっぱいなの。顔に出ないでしょ、あのひと。感情顔に出さないでしょ。顔に出ない分、内心いろいろいろいろ先々まで考えるのね。たぶん、生まれてこの先、二十年くらい、考えちゃってる気がする。こないだ計画表みたいなの書いてたし。予定は未定って言葉、言ってやりたかったけど……、……まあね。それがいいところって言ったらそうなのかもしれないけど。でも、仕事決めた足で、木馬まで注文してきたとか言うから、さすがにドヤしてやった」

「まあ、それは、……それは、……ええと、おめでとうございます」

 グシュナサフのせっかちぶりはともかく、めでたいことにはちがいない。笑って祝いを述べたコロカントに、

「ありがと」

 女も小さく笑い返す。

 それから妙にしんみりした顔になった。

「あたしさ、生業(なりわい)が生業だったからね。なんか、こんなふうに普通に……、普通に、誰かと一緒になって、子ができるなんて、夢にも思わなかった。いまでも信じられない」

 でも、夢じゃないんだよね。

 噛みしめるように呟いた女の膚は透きとおるように白くて、ああ、きれいだな、コロカントはこっそり思う。

 胎に子が入った女は美しいと聞いたことがあるが、どうやら本当らしい。

 

 

 とにかくそんなわけで、仮住まいの宿場を出て、グシュナサフは部屋を借りた。

 自分たちと姫は、血縁上は他人かもしれないが、感情的には娘と同義なのだから、このまま一緒に住むといい。まだ年若いのだし、それが一番いいように思う。なにも気を使う必要はない。部屋も用意する。

 家族と思って暮らしてほしい。

 グシュナサフとララのふたりに呼ばれ、そんなふうに話された。ふたりの提案が、きれいごとの建前ではなく、本心から言ってくれていることも判っていた。

 ありがたいと思った。

 ありがたく思いながら、コロカントは辞退した。

 子が生まれれば、それどころではなくなるのだ。

 せめてすこしの間、夫婦ふたりの時間の邪魔をしたくはないなと言うのが、彼女の素直な気持ちだった。

 

 代わりに、ふたりの住まいからすこし離れた、町の入り口近くに部屋を借りた。

 運送業を営む店の、納屋の二階の空き部屋だ。

 そこを選んだのは、驢馬(ろば)の世話を手伝う代わりに、ハナを置いてもらえることになったからだ。

 なので、朝、目が覚めるとロバの世話をし、そのまま天気が良い日はハナを連れて町の外の野原へ散歩に出かけ、昼過ぎに戻ると軽く昼食を済ませ、支度をして今度は宵の口あたりまで惣菜屋の店先に立つ、と言うのがいまのコロカントの日課になっている。

 

 勤め先の総菜販売店は、バラッドの居ついた酒場の主に紹介してもらったところで、声の小さく影の薄い主人と、太っ腹な女将の夫婦二人で、切り盛りしている店だった。

 祭りが終わっても、イツハァクの町は外からの人間の往来が絶えることはない。

 街道筋の町であったし、商工組合(ギルド)にも加入しており、多くの出入りがある。よく言えば賑やかな、悪く言うと常にごちゃごちゃした町だった。

 

 そのせわしない町に住む、ギルドの職工は、独身者がほとんどだ。

 これは、農村の次男坊、三男坊が、口べらしで手に職をつけるため町へやって来るからで、ギルドのある町は男女比にかなりの偏りができるのが常だった。

 それから、ギルドに原材料となる荷を運び入れたり、商品を運び出したりする商人たちも、やはり男が多い。

 一日の仕事を終えた職工も、商いのために木賃宿に寝泊まりしているものも、外に出て食事をとることになるのだが、酒では胎は膨れない。

 そうして、それなりな食事を出す店に毎日入り浸ると、意外と食費がばかにならない。

 観光ではないからだ。

 必然的に、安価に済ませられる惣菜の店に、ひとが多く集まることになる。

 けっこう忙しい。

 芸人一座の下働きを経験しておいて、よかったなと思うコロカントだ。何ごとも経験、そんなふうに言われてこなした切符もぎだの、客あしらいだの、あれこれしたけれど、その経験はたしかに生きていると思う。

 働きはじめてまだふた月目だったが、そこそこうまくやれていると思っている。

 

 そうしてだいたい毎日、赤毛の男も総菜を買いにやってきた。

 

「自分で作るよりうまいし、酒場のまかないよりも栄養バランスいいですからね」

 顔を出すたびにお決まりになった台詞を吐いて、それから、ずらりと並んだ日替わりの総菜の中から一、二品、時間をかけ、じっくり吟味して買っていく。

「あとで一緒に食べましょうね」

 買った総菜の包みを渡され、嬉しそうにそう言って、指切り、バラッドは小指を差し出すのだ。

「……わたし、ご飯作りますのに」

 わざわざ毎日出向く必要もないのじゃあないかと言ったこともあったが、いいんですよ、と軽くかわされてしまった。

「自分は宵っ張りで、昼過ぎまでぐうすかでしょう。夕方近くに起きますからね、それからここまで散歩がてらに目を覚まして……、もどって、飯食って、そうして稼ぎに出る。ちょうどいいんですよ」

 男がそうと言うのだからそうなのかもしれない。頷いたコロカントに、

 

「――あんたが他の客にコナかけられてないか、心配で心配で仕方ないのさ」

 

 品出しをしていた女将がおかしそうに肩を揺らしながらそう言った。

 煙草をふかしながら帰る男の背中を眺めている最中のことだった

「コナですか」

「そうさ。毎日顔を出して、これは俺のだってツバ付けとかないと、とられるって思ってる。あれはそんな顔だよ」

「……、」

 心配で仕方ないということは、信用されてないのかな。

 誰かに声をかけられたら、すぐに付いていってしまうように思われているのかな。

 男の背中を見ているうちに、なんだかしょんぼりとなってコロカントは俯いた。

 

 そんなことを思い出す。

 

 *

 

 思いだし、市場からのうきうきとした気持ちがしゅんと萎んでいくのを自覚しながら、あの、とコロカントは目の前に座る青年にたずねてみることにした。

 彼女が居を変えたように、青年もこの町を発つのだと言った。

 向こうの大陸へ渡る便が見つかったのだそうだ。

 こうして共にいるのも、あとすこしのことだと思うと、すこし名残り惜しい。

 うん、といらえながら頬杖をついて表の通りを眺めていた青年が、こちらへ目を戻す。

「なんだ」

「ブランシェさんにとって、好きってどういうことですか」

「え、」

 尋ねると、一瞬ものすごく驚いたように目を大きく見開いた青年が、……なんだ、とすこし遅れて言葉を返した。

「……あのな。恋愛相談は俺の守備範囲じゃないぞ」

「そうですよね、それはそうなんですけれど、でも、……、」

「聞く相手間違ってないか」

 言いながら運ばれてきた熱い茶に口をつけて、あちち、と顔をわずかにしかめている。

 動揺しているのかもしれない。

「あのな。お前には、お前が好きな男がいて、それで、そいつもお前のことが好きだときてる。だったら、好きだのなんだのって話は、そいつに聞くのが一番手っ取り早いだろ」

「それは、そうなんですけれど、」

「じゃあ、そいつに聞けよ」

「お互い好きかもしれないけれど、……、でも、お互い好きだからって、お付き合いしてるとはいえないですよね?」

「は?」

 言うと青年が目をむいた。

「意味わからんぞ、それ」

「だって」

 言葉を切ってうなだれる。

「だって、こういうふうには話せないんです」

 続けると、はあ、とまた眉根を寄せられてしまった。

「話せないって、なんで」

「どうしてでしょう。ブランシェさんは平気です。グシュナサフも、ララさんも、他のお店にくるお客のひとでも平気なんです。でも、なんだか、バラッドとふたりになると、ものすごく気まずくて」

「気まずい、って」

「気まずいんです」

 くり返す。

 

 

 時々、コロカントの部屋をバラッドが訪れた。

 本当は、毎日来てほしいのが本音だ。

 来てほしかったし、そう言いたかったけれど、それはさすがに迷惑だと思った。

 男には男の生活がある。

 だから、週に一、二度の割合で、男が訪れてくるのを心待ちにするしかなかった。

 仕事が終わると、彼女は急いで部屋へ戻る。なるべく早く部屋に戻って、なるべく長く男といたかったからだ。

 彼女を訪れるとき男はいつも、厩(うまや)のハナのところにいて、ぼんやり煙管(きせる)をふかしていたり、馬の鼻づらを撫でていたりする。

 彼女の帰りをみとめると、ぱっと顔をあげ、次いでぎこちなく笑ってから、手にした惣菜の包みを振って、一緒に食べませんか、と言った。

 

 部屋で差し向かい、食事をとっていても、男はあまり語らない。

 彼女がたずねれば答えてくれるのだから、こちらの話を聞いているふうではあるのだけれど、ぼうと肘をついて彼女の顔を眺めたきりのことがよくあった。

 彼女の知る男は、多弁で、多動で、くるくるとよく表情が変わる人間だった。だからそんな態度を取られると、いったいどうしてよいのやらよく判らない。

 わからないから余計に気まずくなる。

 

(……わたしと一緒にいて、このひとは楽しいのかな)

 

 聞いてみたいと思った。けれど、その聞いてみたいという思いと同じ強さで、聞くのが怖いと思った。

 そうして彼はいっこうに彼女に触れてこなかった。ミシュカと名を偽って接していたころの方が、よっぽど慣れ親しい素振りだったと思った。

 

 食事が終われば、男は歌うたいの仕事に出かける。

 だから、一緒にいられる時間はほんの短いものでしかなかった。

 すこしさびしく思って、帰り際に彼女がじっと見上げていると、男はいつもちょっと首をかしげて考えるようにして、それから手を伸ばし、彼女を一瞬ぎゅっと抱きしめてくれる。

 けれど、それだけなのだ。

 付き合いはじめの十代の男女でも、これほどたどたどしいやりとりになるだろうか。そう彼女が悩むほど、男は彼女にまるで手を出してこなかった。

 彼女が頼むと、軽く抱きしめてくれたり、触れるだけの口づけを落としてくれることもあるけれど、本当にそれだけだったのだ。

 触れるだけでおっかなびっくりな男の狼狽を、彼女は感じていた。

 だからもっと、とそれ以上先をのぞむことは気が引けた。

 のぞめなかった。

 思いが通じ合ったのだと思っていた。けれど、もしかするとそれは、彼女の勝手な思い違いだったのかもしれない。

 

(わたしが、勝手に浮かれていただけだったのかな)

 

 

「グシュナサフとララさんが一緒にいるのを見るでしょう」

「うん」

 彼女が続けると、青年は頷く。

「とても羨ましいです。なんだか、ふたりとも自然体でいいなって思うの。どこにも力が入ってない。よそよそしさがないというか。うまく言えないけど、相手に対して全幅の信頼を寄せている感じが、言葉じゃなくて伝わってきて、一緒にいてまったく気づまりがないんだなって」

「うん」

「わたし、バラッドと一緒にいると、ぐずぐず考えてばっかりです。……たとえば並んで歩いてたとして、手をつなぐことも自然になんてできっこないの。もしわたしが手に触れて、そうして、ぱっと手を引っ込められたらどうしようって思ってる。わたしはバラッドと手をつなぎたいと思っているけれど、もしかしたらあのひとはそんな幼稚なこと、恥ずかしいかもしれない。でもきっとバラッドは、したくないって言うことを言わないで、わたしに合わせてくれるんだろうなって考えると、手をつなぐひとつだけでも、なんだかいろいろ考えてしまうのをやめられないの」

「うん」

「自分でも面倒くさい女だなあと思ってしまって、そうすると余計になにを話していいか判らなくなって」

 両手にカップをささげたまま、俯くコロカントにブランシェは相づちを入れる。

 守備範囲じゃない、そう言いながら、愚痴に付き合ってくれるつもりらしい。

 

「……でもな。手を出すのが、思いの強さって言うわけでもないだろ」

 すこし黙って考えていた青年が、やがてぽつんとそう呟いた。

「俺は男だから、男の立場からでしか意見できないが、大事だから現状維持したいって言うのもあるんじゃないのか」

「それはそうかもしれないけれど、……でも」

「でも?」

「昨日、バラッドがいるお店に行ったんです」

 言ってコロカントはカップをテーブルに置き、膝に手を置いた。

 どうしてこんなに泣きたい気分になってしまうのだろうと思う。

 ――明日はお祝いする日なのに。

 

「今週、一度もバラッドはこなかったの。忙しいんだろうなって思ったけれど、お酒の飲みすぎとかで、もしかしたら具合でも悪くしてるのかもしれないって思って。お店にどうどうと顔を出すのは迷惑かもしれないけれど、ほんのちょっと、仕事帰りに、様子を見に行くぐらいならいいかなって、そう」

「……うん」

 

 男がたいがい入り浸っている酒場は、彼が間借りしている部屋の一階の店で、その日、コロカントが開いた木戸へ近づくと、にぎやかにかき鳴らす弦の音が、表の路地へ漏れていた。

 中にいるのだ。

 手拍子も聞こえてきていたから、これはだいぶ盛り上がっているなと思う。客の誰かに、景気のいい話であるとか、祝いごとでもあったのかもしれない。

 見つからないようにして、入り口から中を窺(うかが)った。

 相変わらず極力明かりを落とした店内は薄暗くて、目をよく凝らさないとひとりひとりの顔まで判別がつきにくい。

 じっとうかがっていると、こちらを見ている視線に気づいた。店主だ。

 このひとはいつも、いっとう先にわたしに気づくな。

 思いながら、招かれる前に静かに首を振り、唇に手を当てた。

 男に気づかれたくないと思った。

 

「ミシュカさんの時は、もうこれきりと思ってたから、迷惑だとかなんだとか、ごちゃごちゃ考えずに強引に行けたんですけれど」

「うん」

 

 じっと目を凝らしているうちに、軽く火を入れた暖炉の炎の明かりに生えた、男の姿を見つけた。

 面白いもので、暖炉を熾(おこ)すと、客の入りが増えるらしい。

 火に惹かれるのは虫も人も同じだな。以前店主が言っていた話を思い出す。

 楽器を抱える男は、いつもと変わらず、元気そうだった。

 たんた、た、たんたんたた。

 笑いを取ろうとしているのか、へんてこな調子でタップを突く踊り手に、にやにやしながら、同じように足で調子を取り、弦を弾いている。

 なんだ、よかった。

 そう思った。

 考えすぎだった。何も心配することなんかなかった。きっと、予定が立て込んで、こられなかっただけなんだ。

 自分といるのが億劫になって、来なくなったわけじゃなかったんだ。

 

 ほっとして、踵を返し、店先から立ち去ろうとしたコロカントは、けれど男から目を離しかけて、離しそびれてしまった。

 男の横には、何度か見たことのある、女客が座っていた。

 その女が、おかしな踊りに笑いながら男にしなだれ、耳元になにか囁くと、男はうん、と身を傾け顔を寄せる。

 とても自然な動作だと思った。

 ……グシュナサフと、ララと同じ。気づくと胸が痛くなる。

 女に囁かれた男は、次いでふきだし、大笑した。

 楽しそうだと思う。

 楽しそうだと思い、それからなんだかいたたまれなくなって、急いで視線を外すと、くるりと背を向け、コロカントは小走りに店を後にした。

 

 ――信じてくださいよ。

 この町で最初に再会したときの、男と女の会話が、思い出したくもないのに頭の中に蘇ってしまう。

 路地を走りながら半べそになった。

 ようやっと見つけたと、コロカントが男にすがりついたときに、ミシュカ、その子、だれ。そんなふうにたずねた客だ。

 

 ――こんな若い娘さんに手を出すほど、節操なしじゃありませんて。

 ――本当かなぁ。

 ――信じてくださいよ。

 男が答え、客が返す。そのやりとりに親密な空気が流れるのを、気付かないふりをした。

 ――まあ、床の中でなら、……ね。

 ――今夜ためしますか。

 

 

「おい」

 すこしきつめの口調で急に呼ばれて、俯いていたコロカントは驚いて顔を上げる。

「お前、大丈夫か」

「大丈夫って、」

「お前、ひどい顔してるぞ」

「……ああ、」

 言われて、慌てて笑いを取り繕おうと、頬を上げようとした。うまく笑えない。

 そんな彼女を見ながら、まあなあ、とため息を吐いて、青年がだしぬけにカップの中身を飲み干し、席を立ち上がる。

 

「いまのお前の、そのごちゃごちゃした気持ち全部、まるごと、正直にきちんと話せ」

 

 そう言い置いて、さっさと店を出て行こうとするので、彼女はますます目を見張る。

 彼女に言っているというより、誰かに聞かせる素振りに見えたからだ。

「ブランシェさん、」

「言っとくが」

 背を向けたまま、青年は肩越しに言葉を投げかける。

「俺は三日後に、この町を離れるつもりだけどな、あんたがいつまでもぐずぐずしたまま、こいつにこんな顔させ続けるなら、俺はこいつを、ぐるぐるに縛って、猿轡(さるぐつわ)かませて、荷物にのっけて連れていっちまうぞ」

「……ブランシェさん?」

「こいつがあんたを想ってるからとか、あんたが年上だからとかで、俺は今まで一応遠慮してたけど、その遠慮取っ払って連れていっちまうぞ」

「……、」

「向こうに着いたら、俺は最大限こいつを利用する。旧領主とはいえ、利用しない手はないだろ。質として差し出すのか、それとも交渉手段に一夜の相手をさせるのか、とにかくこいつが望む望まないにかまわず、いちばん有効な手駒にして、俺はのし上がろうとするぜ。また幽閉されて、羽を捥(も)がれて、どこにも行けないひょろひょろの生霊みたいになってもいいってなら、」

 

「――それは困る」

 

 ぽん、と自分の背後から声が返ってきて、コロカントは軽く飛びあがる。

 聞き覚えのある声だったからだ。

 

 驚いて振り向くと、赤毛の男が苦虫をかみつぶした顔で、煙管を咥えていた。手近の卓上に灰皿があって、その中にかなりの灰が落ちている。

 だいぶ長いあいだ、彼女と青年が入店するよりももしかしたらもっと、男は後ろの席で煙草を蒸かしていたらしい。

「え、あ、バラッド、」

 思わず呟くと、男はちら、と彼女を見上げ、それから苦笑を唇に乗せる。

「いやあ、偶然って怖いですねぇ。まさか、自分がぐだっていた席の後ろに、姫が座るとは思いませんでした」

「だって、わたし、」

 焦る必要はないのに、どうにもあたふたしてしまう。

 まったく気付かなかった。

 そう言えば、席に着く手前で、向かい合った青年が一瞬訝しげな顔をしたことを、今さら思いだす。

 あれは彼女の背後の席にいた男を、青年が見とめていたからなのだ。

 ああ、今までの全部聞かれてしまった。

 気づいてざっと絶望する。聞かれたくなかった。自分のいっとうみっともないねちねちした部分を、男に知られたくはなかった。

 

「コロカント」

 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、青年は手を伸ばし、ぽんぽんと頭を叩いて、励ますように慰める。

「いいな、きちんと話すんだぞ」

「ブランシェさん」

「おまじないだ」

 言って青年は軽く額に口をつけ、……これぐらいしたって、バチはあたらないだろ。呟き、そうしてさっさと去っていく。

 ぽかんと見送る彼女のすこし後ろで、男が引き攣っていた。

 

 

 

 

 

最終更新:2019年10月29日 22:35