呆気にとられているうちに青年はいなくなった。

 彼が立ち去った店の出入り口と、苦い顔をしているバラッドの顔を、コロカントは思わず見比べる。

 見比べながら、唐突に突きつけられた現実問題に、居たたまれない気持ちでいっぱいになった。

 どうしよう。

 いつかは話すつもりだった、もうすこしあとで、時が経てば、もしかしたら半分笑い話のついでに話せる失敗談のようなもの、そう思って先送り先送りにして、見ないようにしていた自分のなかのどろどろとした部分を、全部話せと青年は言う。

 どうしよう。

 いまの話を、いったいどこから聞かれていたのだろう。

 彼に対する不安や不満やその他もろもろ、こんなふうに聞かれることになるなんて思いもしなかった。

 せめて、席に座る前に、もうすこし辺りを見回しておくべきだった。

 いまさらしても栓のない後悔で鬱々としながら、コロカントはもう一度男の顔を窺った。

 

 

「いやあ、早起きはなんとかの徳、とか言いますけど、いつもより早く起きてね、ちょっと早いけどまあいいかってんで、惣菜買いに、店に行ったんですよ」

 男と一緒に店を出る。

 さりげなく、先導するように歩き出したので、これはついていってもいいのかな。小走りに並んで、コロカントは隣の男を見上げた。

「そうしたら、今日は姫はお休みだって言うでしょう。女将さんの顔見てたってね。そうそう面白いもんじゃなし。……しようがないので、早々に退散して、ここで仕事時間までだらだらすることにしたんですけどねぇ、……、まさか姫が同じように入って来るとは、やあ、そんな偶然ってあるものなんですねぇ」

 おどけた口調のバラッドが肩をすくめて彼女を見る。

 なんともない、たしかに会話は聞こえてしまったかもしれないが、気にすることはない、男が言外にそう言ってくれているのはわかった。

 それでもなんとこたえてよいのか判らなくて、黙ってコロカントは俯く。

 

「――まいった。そんなに怯えんでください」

 

 不意に弱った声が耳に飛び込む。見ると、男が眉尻を下げて情けない顔をしている。

「ごめんなさい。怒ってるでしょう。……怒ると思います」

 おずおずとコロカントは呟いた。

 あんなふうに、本人のいないところで、他の人間に愚痴をこぼしている。面と向かって言うならともかく、幻滅してしかるべきだと思った。

 彼女が言うといいえ、ときっぱり男が返す。

「怒っていません」

「……がっかりしたと言い換えても、」

「してません。自分自身を殴りたいとは思いましたが」

 言って男は手を伸ばし、彼女の手を握る。

「冷たい手をしてますねぇ」

「え、あ、」

「言ったでしょう。姫は辛抱しすぎなんですよ」

 思わず彼女が引っ込めかけた手を、ぎゅうと強く握って、そこではじめて怒った口調になって男は言った。

「つなぎたいと思ったらね、つなぐんですよ。つなぐんです。遠慮なんていらない。店に顔を出したいと思ったら、毎日だって顔を出していいんです。自分に迷惑がかかるとか、自分が困るとか、そんなこと、なにも考えなくて、来てくださっていいんですよ」

「……、」

「来ればいいんです。来ればいいのに、来られないようにしたのは自分ですよね。自分は姫に辛抱ばかりさせている。それが許せないと思います」

「……、」

 肩をいからせ男が呟き、口を閉じてしまう。

 やっぱりなんとこたえていいか判らなくて、片手をひかれたまま、コロカントは男と歩く。

 

 

 着いたのは、彼女が居を構える納屋の前だった。

 部屋に寄っていくのかと、彼女がバラッドを見上げると、それに目を合わせた彼がいいえ、と首を振った。

 そうして厩に入り、のんびり草を食んでいたハナの首を叩くと、さっさと馬装を取り付けて、側にかけられていた毛布も手に取る。

「行きましょう」

 のっそりと動いた馬が外に出るのへ、続きながら

「あの、」

 いったい何をするのかとコロカントがまじろぎ、戸惑っていると、ひょい、と身軽に馬の背に乗り上げた男が、彼女へ手を伸ばす。

「あの、行くって、どこに」

「見せたい場所があるんです」

「……、」

 ぐいと引っ張り上げ、彼女をおのれの前に座らせると、その体を毛布で包んでいいですか、と男は耳元に囁いた。

「ハナですからね。落としゃしないと思いますけど、念のため、掴まっていてくださいね」

「は、はい」

 慌ててたてがみに指をからめる。

 腹をすこし強く蹴って、馬は足を速めた。

 

 

 

「……ここは、」

 町から、馬でいっときほど東へ離れた場所にそれはあった。

 遠景から、次第に近づいて細かなかたちが判るにつれ、コロカントは息をのむ。

 それは塔だった。

 てっぺんの一部が崩れた見張り塔だ。

 

「似てるでしょう」

 

 後ろから彼女をくるむようにして、鞍にまたがっていたバラッドが言った。

「自分も、はじめて見つけたときはびっくりしたんですよ」

「これ、……これ、あそこに、そっくりです」

「そうなんです。似てるんですよ」

 呆然と呟いた彼女の言葉に、男は頷く。

「自分も、気になってね。いろいろ聞き回ったんですけど、詳しいことを知っている人間がなかなかいなくってですね……、文献もない」

 まあ、このあたり、戦もほとんどないような地域だったらしいですからねぇ。

 顎に手をやり男は言った。

「見張り塔の態を成してはいるんですが、たぶん、見張り塔として使われたことはなかったみたいですね。塔があることは知っていても、あるな、程度で、農夫はあまり近づかなかったみたいですね。……それでもなんとか塔の持ち主、……まあ地主ですね。そのひとを見つけまして、話を聞くことができたんですが。なんでもむかーし、どこか遠い国からふらっと流れて建築家が、この塔を建てたんだと、そう言う話で……。これは自分の憶測ですが、ワールーンにあった建物を建てた建築家と同じだとか、まあ、それにつながる人間が建てたんじゃないかなあって」

 そうだとしたら、その建築家はなぜここへ来たのだろうとコロカントは思う。

 自分と同じように、北にいられない理由があったのだろうか。

 逃げるようにしてこちらへきたけれど、やっぱり故郷が忘れられなくて、同じような建物を築いたのだろうか。

 

「……本当に、そっくり」

 塔の戸口前のひらけた場所で馬を下り、あたりを見回すと、どうにも胸がいっぱいになってコロカントは思わず涙ぐんだ。

 覆いかぶさるような森。

 跳ね橋の鎖は半分錆びついていて、そこを渡れば、年月の入り、苔がびっしりはびこった外壁があった。

 馬のハナと男がいて、それだけであのころの世界の半分がそろっている。

 いまにもそこいらの茂みから、幼い子供がひょっこり飛び出してきそうな気がした。

 その子供は無垢だ。怖い思いや、辛い思いをまだ知らない。

 しぼむのじゃあないかと思うほど泣いたり、気がふれる一線手前の、糸のちりちりと張りつめるあの感覚を知らない。

 明日というものが、寝て起きたらやってきていると信じて疑わない、しあわせで愚かな子供だ。

 もう二度と戻れないと思っていた。

 ぱちぱちとまばたきで涙をはじき、ふと振り返ると馬の鼻づらを撫ぜながら、男がじっとこちらを眺めている。

 その目がなにか言いたげだ。

 無言で扉を促され、いぶかしく思いながら戸口に近づいた。

 そっと扉を押すと、それは難なく開いて、

「……ああ、」

 中に一歩入ったコロカントは、今度こそこみ上げる感情に我慢ができなくなった。

 

 内部のしつらえは、なにもかもあのワールーンの森と酷似していた。

 

 暖炉脇に積み上げられた薪も。そのそばで灰に刺さった火かき棒も。

 ぶ厚い一枚板のテーブルも。後ろ足がややちびて、かしいだ腰かけも。

 テーブルの上には山ぶどうの蔓で編んだ籠があって、その中には果物まで積まれている。

 男が揃えたのだとすぐに理解した。

「……ずるいわ」

 もう一度辺りを見回し、彼女は薄くほほ笑んだ。その上げた頬が涙で濡れるのが判る。

 塔を見つけても、誰にも、何も告げずに、男はひとりでこれを揃えたのだ。

 これだけ揃えるのに、どれほど手間暇かけたのだろうと思った。

「ずるいのは自覚しています」

 入るとすぐに暖炉に火を熾していた男が、こみ上げる感情に震える彼女の肩に、毛布を掛ける。

 毛布を掛け、そっと離れていこうとする手を追って取り、振り向くと彼女は彼の首に飛びついた。

「わわ、」

 不意打ちに驚いた男は、けれどひっくり返ることもなく、彼女を受け止める。

「その地主さんに、ここを借りたんですか」

 男の胸に顔をうずめ、くぐもった声のまま、コロカントは聞いた。

「いや、まあ、借りたというか、なんというか」

 歯切れ悪く男が答える。

「なんというか……、?」

「……衝動買いというか」

 

「――え?」

 

 驚いてぱっと顔を上げると、困ったように首をかしげて見下ろす男の目をかち合う。

 かち合ってあらためて、え、と彼女は呟く。おかげで感涙が引っ込んでしまった。

 よっぽど驚いた顔をしていたのかもしれない。

 男が苦笑する。

「いやそんなに驚きますかね?……驚きますか。……、……驚くかあ、やっぱり」

 頭を掻き、そんなことを言っている。

「驚かないわけないでしょう。だって、……だって、建物ですよ?相場なんて知りませんけど、ぬいぐるみだとか、お菓子を買うのとはわけが違うでしょう」

 失礼かもしれないが、この町でのバラッドの暮らしぶりを見ていて、堅実に貯蓄していたようには、彼女はどうしたって思えない。

「いやあ、それがまあ、ここの持ち主もわりと処分に困っていたというか、手入れしないと崩れていく一方なわりに、見張り塔として使わないわけですからね。……買い手がいて、渡りに船的な?もちかけると、乗り気でね、格安で譲ってもらえてですね、」

「格安」

「あー、……ええっと、こういうのって言わないとダメですか」

「バラッド」

 いったん口をつぐみ、男をじっと見つめる。男がこの視線に弱いということに、彼女は最近すこし気付いてしまった。

「わたしは、バラッドと一緒にいたいと思います」

「はあ、……ええと、ありがとうございます」

「一緒にいる相手に、隠しごとはなしです」

 見返す彼が、内心どぎまぎしているのまで、手に取るように判ってしまう。

 一瞬空を仰ぎ、あー、と考えていた男が、

「……いやーそのですね、さすがに、にこにこ現金一括払いはですね、ちょっと無理だったんでね、そのー、……毎月ちょっとずつ返済する、みたいな」

「ちょっとずつ返済して、いったいどれくらいかかるんですか」

 軽く睨んでやると、ますます男がしどろもどろになった。

「えーと、そのぅ……、……年?」

「声がちいさくて聞こえないわ」

「……だからその、……十年?賃借契約してきたというか?」

「十年……、」

 これだ。

 ――相談もなしに、全部一人で決めてきたのよ、あのひと。

 状況はちがえど、ララのぼやきが思わずよみがえるコロカントだ。

 女の話を聞いたとき、ひとりでなにもかも進めてしまうなんて、グシュナサフらしい、そんなような感想を彼女は抱いたけれど、もしかすると、勝手に話を進めてしまうのは、なにもグシュナサフに決まったことではなくて、男という生き物全般に共通する話なのだろうか。

 他人の話だとほほえましい気がしたのに、わが身に降りかかると、わりと笑えない。

 

「ああ、いや、姫はですね、連帯責任とか、そう言うのにはなってないですし、あの、取り立てとかね、そんなのないようにきちんと払うつもりですし、その、これは自分が個人的に取り決めたことで、まるで姫には関係のないことですから、決してご迷惑はかけないつもりですし、」

「……、」

 

 額に手を当てた彼女を見て、なにを勘違いしたのか男がますます慌てて弁解する。

 債務の共同負担の心配をしていると思われたらしい。

 ちがう。そういうことを言いたいんじゃない。

 反論しようと口を開きかけて、そうして結局彼女は口を閉じた。

 グシュナサフは、妻になる女と、そうして胎の中の子のために、安全に暮らせる場所を用意したに違いないと思った。

 惚れた女の喜ぶ顔が見たかったのだろう。

 だったら、突っ走る方向性はだいぶ明後日の方向でも、目の前の男も、同じなのだろうなと思ったからだ。

 見せたいものがある。

 そう告げたときの、男のすこしうきうきした声を彼女は思い出した。

 

「バラッド」

 しばらく黙り込んでいたコロカントが男を呼ぶと、彼がおそるおそる彼女の顔を窺う。怒られると思っているのだろう。そう考えるとおかしくなった。

「前に、グシュナサフに聞いたことがあるんですけれど、なんて言うんですか、ええと、……支度金?……ミランシア再興のための、まとまったお金を預かってるって」

「ああ、はい」

「いくらあるのか、詳しいことは知らないんです。機会があったら渡しますと言われて……、いままで特に必要もなかったので、そのまま。……今、思い出したんですけれど、そのお金を、ここの購入費にあてがうことはできますか」

「姫」

 何を言い出すのかと、怪訝な顔をして話を聞いていた男は、彼女の言葉に目を丸くし、それからいけません、とやや険しい声を発した。

「いけませんか」

「支度金は、姫のものです。何か必要になったときにないと困る金です」

「わたしには、いまが必要なときに思えるのですけれど」

「姫」

 くすりと笑うと、困惑と生真面目を足して二で割ったような顔になって。男は眉尻を下げた。

「ご冗談がすぎます」

「冗談で言っているわけじゃあ、ないんですよ」

「……あのですね、衝動買いしたのは自分です。自分が手前勝手に、姫を驚かすために用意した、いわゆるびっくり箱みたいなものです。その片棒を姫が担ぐなんて、どうかせんでください」

「バラッド」

 男の胸板に額を押し付けて、コロカントはちいさく笑って言った。

「そんなに何度も何度も、関係ないって言わないで」

「しかし」

「片棒くらい、担がせてください。……言ったでしょう。一緒にいたいって。わたしが言っているのは、今だけじゃなくて、この先ずっと、ってことですよ」

「……ええと。ええと、それは」

 男がますます戸惑った声を出した。

 判っているのか、判っていてわからないふりをしているのか、どっちなんだろう。思いながら、軽く男の脇腹を抓(つね)ってやる。

「もう。わたしいま、バラッドにプロポーズしているんですよ。もうすこし甘い雰囲気になってください」

「……プロポ、え、プロ、え、」

「バラッドが、ちっともしてくれないんですもの。待っていたら、わたし、おばあちゃんになってしまう」

 

「――姫」

 

 不意に真剣な声を出して男が彼女を呼んだ。

 あまりに差し迫った声だったので、どきりとしてコロカントは顔を上げる。

 上げると、まっすぐに男が彼女を見つめていて、

「思い付きで、言っていい言葉じゃあ、ないですよ」

 目に焦れた色をにじませながら言った。

「そう言う言葉は、もっと考えてから、姫がちゃんと大人になって、しかるべき時に、ほかの相応しい誰かに言うべきです」

「……わたし、きちんと考えました。考えたと思います。……ここ最近のことじゃないのよ。もうずっと……、あなたと離れてから、ずっとです。考えすぎて、頭が痛くなるぐらい、もうこれ以上考えられないくらい、ずううううっと考えたの」

「……、」

「思い付きやその場のノリで、わたしが言うと思いますか」

「……、それは」

 返すと、男は苦しそうに眉を寄せる。

「でも、その言葉は、自分が受けるべきじゃない」

「バラッド」

 名を呼び、彼女は男の心臓のあたりへ手をあてがった。

 

「“姫は、姫をやめたいですか”」

「え、」

 

 彼女の言葉に小さく驚いて、男が目を見張る。

 緑灰色の目と相まって、本当に猫のようだ。思うと、なんだかコロカントはおかしくなった。

「あなたが、まだもの知らずなわたしに言ったでしょう。あのときから、わたし、自分が何をしたいのか、ずっと考えました。これだけはきちんと言わなきゃって思って……思っていたら、四年以上たってしまいましたけれど」

 言って彼女は笑った。

「そうして、判ったの。わたしがやりたいことは、たったひとつだけだったんですよ」

 この声が、男に届けばいいと思う。

 おーい、おーいと、原っぱでララと一緒に空に向かって叫んだことをふと思い出して、彼女は目を閉じた。

 会いたいとずっと思っていた。

 もう一度、触れたいと思っていた。

 その男がここにいる。

 閉じたまぶたの裏側が熱くなるのを自覚しながら、バラッド、ともう一度コロカントは男の名を呼ぶ。

「わたしは、あなたと、一緒にいたい」

「……、」

「遠慮なんてするなって言ってくれたばっかりですもの、言質をとるわ。……わたしはまだ子供で、あなたの隣に並んでも、たぶんものすごくちぐはぐで、おかしいのかもしれない。どんなにわたしが背伸びしたって、あなたは大人で、わたしが知っているときからずっと大人で、先を行っていて、わたしは決して追いつけない。そんなことは判っているんです。でも、わたしは、あなたと一緒にいたいんです。……酒場をのぞいて、あなたが他の女のひとと仲良くしているのを見るだけで、頭のてっぺんからつま先まで、溶岩みたいにどろどろしたもので満杯になってしまうくらい、バラッドをひとり占めしたいの」

 一目散に店から逃げ出しながら、あのとき彼女が考えていたのは、ああ、自分の中は、なんて醜いもので満ちているのだろうということだけだった。

 なるほど、鬼になるとはこういうことか。

 妙に納得した部分もあった。

「ひとり占めしたくて、やきもち焼いて。わたしの胸(ここ)を開いたら、きっと乾留液(タール)みたいなもので、一杯なんだと思います。……あなたはやたらとわたしを特別に見てくれるけど、前にも言ったでしょう。わたし、清らかでもなんでもないのよ」

 そうしてぱっと顔を上げる。上げた視線の先に、見開いたまま揺れる男の目があった。

 逃げていない。そう思った。男はいま猛烈に考えている。

 

「わたし、昔よりは、お料理が上手になったと思います」

 揺れる男の目を見て彼女は続ける。

 

「得意だなんて威張れるものじゃあないけれど、十人並みには、なったと思うわ。焼き菓子だって、オゥルがいなくたって、ひとりで焼けるようになりました。……お菓子が上手に焼けたら、いいお嫁さんになれるのでしょう?」

 言ってまたほほ笑んだ。四つ五つのままではないのだ。信じていたわけじゃない。けれど、

 

 ――いい嫁になれますよ。

 

 あのときの男の声がよみがえる。

「わたし、バラッドのお嫁さんになれますか」

 言いながらつい語尾がかすれてしまった。みっともなく膝が震える。

 こんな、押し付けて、強要するつもりはなかったのに。

 上げた視界がぼやけて、男の顔も歪んでしまう。いけない、と思った。こんなふうにすぐ泣くから、駄目なのだ。店先でおもちゃを買ってくれと駄々をこねる子供と変わらない。

 

「姫」

 

 頬にうっかりこぼれてしまった涙を急いで拭い、笑いなおすと、こちらを覗きこむ男の顔があった。

 いつもより目の色が薄いと思った。不躾な告白に、もしかしたら怒っているのかもしれない。

 ぱちぱちとまじろぎをくり返す彼女の目端を、伸ばした袖口で男は丹念に拭いはじめる。

 黙りこくったまま、左右の涙を拭いて、それから、

「……自分は、そんなにできた男じゃあないですよ」

 苛々した口調で呟いた。

「くだらない人間です。姫が、わざわざ、嫁にもらってくれと頼みこんでくださるような、価値なんてどこにもない」

「……、」

「素面で話すような話じゃあないですが、ぶっちゃけますとね、自分の半生は、そりゃもう、ひどいもんです。しようもないことのくり返しで、だらだら生きてきました。――姫は自分が清らかでないとおっしゃいますが、自分から見たらね、清らかどころか聖域みたいなものでね、触れるのがおっかなくって仕方ないです」

「怖い、」

 陰鬱な男の言葉にどきどきしながら、彼女は男を見上げた。

「触れただけで汚しちまうからですよ」

 言って男は自嘲を浮かべる。

「いま先がた、姫が言いましたでしょう。タールって。……まさにそれですよ。自分が触れるだけで、姫にべっとりあとがついてしまいそうでね。こわい」

「汚れません」

 きっぱりさえぎって、コロカントは男の手を取る。

 楽器をあつかう男の手は、かたいながらも繊細だった。グシュナサフのように、節々がふくれて瘤(こぶ)があったり、剣胼胝(けんだこ)があったりはしない。

 その男の手に、肉刺(まめ)がある。

 つぶれて、じくじくと汁が滲み出る、比較的新しいものだ。

「こんなふうに、いくつも、いくつも」

 思わず隠そうとしたその手のひらにそっとおのれの手を重ねて、彼女は押しいただいた。

「荷下ろしでもしたんですか。それとも、薪割りの斧や、畑起こしの鍬(くわ)ですか」

「いや、その、」

「このところ、お店にも、部屋にも来てくださらなかったのは、返済のために、普段のお仕事のほかに、空いた時間で別のお仕事もしていたからですね」

 言うと男がたじろいだ。図星なのだろう。

「そうして、わたしの知らないところで、ひとりで頑張ってばかりいる」

 言ってコロカントはついと男から離れ、子供の背丈に合わせた低い造りのテーブルに近づいた。

 山ぶどうの蔓籠の横に、拳ほどの小箱があることに気がついたからだ。

 その小箱に見覚えがある。あの祭りの夜に、男が輪投げで手に入れた、硝子の指輪が入っていた箱だ。

 小箱へ手を伸ばすと、あ、と男がちいさく声をあげる。気づいていたとは思わなかったのだろう。

 その声を背に聞きながら、彼女は箱のふたを開け、あらためて男に向き直る。

 

「これを、嵌(は)めてくださいますか」

 自分の片手を差し出して、コロカントは言った。

「もし、バラッドが、わたしと一緒にいてもいいって思ってくれるなら」

「や、あの、姫、……、」

 大きく動揺したのを隠すように、男は渋面を作る。

「……、……おもちゃですよ。ただの投げ輪の景品です。そんな、大仰な意味で渡そうとしたわけじゃ、」

「忘れたふりをしてもだめですよ」

 ごまかそうとする男の言葉をさえぎって、コロカントは自分の声を彼のそれに重ねた。

「あのとき嵌めた氷は、すぐとけてしまったでしょう。今度は溶けない指輪を差し上げますって、小さかったわたしに、バラッドは言ったわ」

「――」

「わたし、ずっと、待っていますのよ」

「――」

 

 こわばる頬を無理矢理笑みのかたちに変えると、じっとこちらを窺う視線になった男が、小さくひとつ息を吐いた。

 それから、コロカントの手にした箱から指輪をつまみ上げ、おもむろに片膝をつくと、芝居がかった動作でうやうやしく彼女の手を取る。

 そうしてそっと、彼女の指に、透明な輪を通し入れた。

 

 目の前の出来事を、半ば夢見る気持ちでコロカントは眺めた。うるさいほどに半鐘が鳴っていると思った。

 思ってから、それが鐘の音ではなく、自分の心音なのだということに気がついた。それでいて、しんと冴えわたっているような、こころもちもある。

 早く言ってほしい。なのに、いつまでも口を開く一歩手前のこの瞬間を、永遠にとどめておきたい。相反する衝動に煩悶する。

 その彼女の瞳をじっと見上げて、どうか、と男は言った。

 かすれた、低い声だった。

 

「――どうか、わたしのお妃に」

 

 同じように緊張して、神妙に頷いた彼女を見た男が、微かにふ、と目元を和ませる。

 ああ、と思った。

 ああ、この笑顔だった。

 

 

 

最終更新:2019年11月21日 22:20