「目を閉じて」
自分がそう言うと、そのひとは素直に目を閉じる。
可愛いなと思った。
今日だけで、いったい何度、可愛いと思ったっけかな。
そんなことがふと気になった。
たぶん、両の手じゃ足りない。
閉じたまつ毛の先がちょっと震えてたりして、それが、今からすることを期待されてるのか、それともちょっと怖い気持ちがあるのか、自分にはよく判らないのだけれども、どちらにしたって、自分の言うことをそのまま、その通りにしてくれてるって、つまり、信頼されてるんだろうなって思う。
心(しん)から信じてくれるっていうの、こういうことなのかな、とか。
えー、もう、こんな半価値(はんかち)な自分のこと、全身あずけて信頼するとかですね、大丈夫ですかね。
大丈夫ですかね。
どうしよう。
やばい。もうほんとうやばい。めっちゃ可愛い。
そう思う。
俺の嫁さん可愛い。
可愛いすぎてつらい。
瞼を閉じた彼女の、きれいに発色した唇に、自然に目が行った。
見てるだけでやばい。
なんか、あ“ーーってなる。
滾(たぎ)るって言うの?こみ上げるって言うの?なんか、とにかくぶわーって、腹の底から湧いてくる衝動がある。
作りものみたいなんですって。比喩(ひゆ)じゃなくてさ。
でも、こういうのって、たぶん、本人は自覚ないですよね。
ないんだろうなあ。
自分だって、二十より前の頃、自分のことお肌ツヤツヤとか、そんなの思ったことないし、周りの、自分より年いった大人から、若いっていいねぇ、だとか言われても、ほーん、なにそれ、みたいな感じだった。
言われてることが、当たり前すぎて、本当に意味わからなかった。
だって若いって、一律、みんな通る道でしょ、って。
老いた赤子なんているわけないんだから、みんな、赤ん坊から少しずつ大きくなって、それで、その若さってやつを通り抜けて、大人になって、それから年老いていくんでしょうって。
ずっとそう思ってた。
そしたら、こう、不惑な四十路手前にして、なんかしみじみと若さについて考えるようになったりして、これってあれですかね、失ってはじめてわかる、とか言うやつですかね。
ちがうかな。
だったから、自分が彼女の若さってやつを食いつぶしているようで怖いとか、実際、何度言ったところで、彼女に通じないだろうなって思う。
通じないですよね。
まあ通じたところで、どうこうなるわけでもないしね。
とにかくね、もう、尊いんですって自分は言いたい。
膚(はだ)が透き通るだとか、もう冗談かよって思う。
あと頭のね、髪のところにこう、天使の輪っかがあるとかあるわけでね、ぱっさぱさの日に焼けた、保湿も潤いもどっかに飛んで行ってしまった髪じゃないわけでね、よくやらしいおっさんが、舐めまわすように若い娘見るって言うけど、あー判りますわーってなってしまう。
目が行くんですよ。
惹きつけられるんです。
自分が自覚しないまま、駆け足で通り過ぎて、そうして、いつの間にか消費しつくして、なくなってしまった若さってやつを、まざまざと無自覚に当てつけされて、それだけで、ありがてぇありがてぇって平伏したくなるっていうか、これは色欲とはまた別の感情だと思う。
若いっていいねぇ、って、言いたい。
いまならわかる。
俺も言いたい。
そうして彼女には、この、拝みたくなる気持ち、判らないだろうな。
その、どこもかしこも尊い若さがぴんぴん滲んでいる彼女が、自分の嫁さんって言うのが、いまだに信じられない。
嘘だろって。
いつも目が覚めるたびに、現実におののいてしまう。
一緒になるって決めたんだからって、自分は間借りしていた酒場の二階から、彼女は馬のハナともども賃借していた納屋の二階から、互いに引き払って、この、森の中の、ワールーンの見張り塔に模した住居に住みはじめた。
ここに暮らして、ふた月になる。
ここからは、イツハァクの町まではやや距離があるけれど、馬のハナがいたし、毎日仕事で町へは通うしで、入り用なものは町で手に入ったし、そこまで不便に感じるわけでもなかった。
もっと不便な生活を、自分も彼女も知っている。
それを不便と思わずに生きてきたわけだから、いまの暮らしなんて、それこそ、なんでもすぐに手に入る、便利すぎる生活だと思う。
それから、自分は結局、歌うたいを続けていた。
四十年近く、それで食いつないできたわけだし、いまから別の道に進もうったって、いろいろもう手遅れ感があるっていうか、この年でね、徒弟とか、よろしくお願いしますーって頭下げたところで、取ってくれるところもないですよね。
叱られて伸びるとか言うけど、もうその伸びしろがないことは自覚している。
良くも悪くも、もう完成しちゃってるんですよね。
ただまあ、所帯持ったからには、自分一人がその日飲み食いできる小金程度じゃ困るわけで、そこはね、甲斐性みせないとって、意気込みはあった。
だから、わりと真面目に客を取って、酒場から酒場に顔出して営業して回っている。
歌うたいに需要はあるし、稼ごうと思えば、それなりに稼げる仕事だった。
いままで真面目にやってなかっただけで。
彼女――コロカントは、いまのところ、酒場の親父さんに紹介された惣菜売りを、そのまま続けている。
ただ、親父さんが、最近、俺もそろそろ年だしなあ、だとか言うことが多くなって、娘だの孫のいる田舎に引っ込むとか引っ込まないとかで、親父さんの嫁に行った娘も町に戻ってくる気はさらさらないらしく、それで、ゆくゆくは親父さんの店を、自分と彼女で継ぐっぽい、みたいな流れになっているところはあった。
ぽい、ってだけで、なにも混み入った話はしてないんだけども。
でも、わりと親父さんは本気に考えてるらしくて、最近は経営のほうの、経理だの、仕入れだのを、彼女に少しずつ教えていたりする。
自分は蚊帳の外です。
お前に金勘定は任せられんよ、ってきっぱり言われました。どんぶりでダメだって。
まあ、どんぶりの自覚はある。
でも自分も、酒は仕入れるより浴びる方が好きなので、そのあたり、強く突っ込む気はないし、彼女本人も、親父さんから学ぶことに熱心にしてたので、口出しするのはやめておいた。
伸びしろがある人間は、伸びたらいいと思ったからだ。
これも経験ってね。
あ、それと、自分が勢いで衝動買いしたこの住居は、旧ミランシア領の相続金を使ったというか、つまり彼女の持ち出しということになった。
はい。
最終的に、なりました。
ここはあくまで自分の一存でここを用意したのだし、向こう十年の月賦払いも覚悟の上で購入したのだから、そんなふうに自分はだいぶねばった。
どんぶり勘定の自分でも、どうしたって彼女の支度金を使うことを良しとは思えなかったし、それに、なんていうの?そういうの、譲れない部分というか、彼女におんぶにだっこじゃあ、格好がつかないでしょうって。
ヒモに近しくない?って。
なんか、最初から、彼女のお金をアテにして買ったみたいで、それは厭だった。
だからなにがなんでも、自分は自力でこの建物の代価を払うつもりでいたのだけれど、彼女も相当に頑固だった。
俺の嫁さん、意外なところで固いです。
うん、って言ってくれないんです。
たいがいのことは、お願いしたらすぐに、はい、いいですよって譲ってくれる彼女が、これっぱかりは判りました、じゃあバラッドにお任せしますと言ってくれなくて、どころか、あなたが仕事を倍にするつもりなら、妻であるわたしも、明日から仕事を倍にして支払いを手伝いますとか、そんなこと言う。
ええちょっと待ってって、頭抱えた自分の気持ちが判りますか。
自分は別に、あなたに債務の片棒を担いでほしいわけじゃないって、働きづめにしたくてここを買ったんじゃないんですって、いくら口を酸っぱくしていっても聞き入れてくれない。
何日も何日も、押したり、引いたり、なだめたりすかしたり、泣き落としてみたり、自分だけじゃなくて、ララやグシュナサフから説得してもらったりしてみたけど、だめで、とうとう、自分が折れることになったって言うのが、まあ、あらましです。
判りましたって、姫のおっしゃる通りにしますって、自分が降参して手を上げたときのぱっと喜びに輝いた顔が、なんかとっても可愛かったから、もう最終的によしとしました。
もういいよねって。
それから、なんか、彼女的には、どうせこの塔、広いのだし、グシュナサフとララのふたりも一緒に住んだらいいのじゃないか、みたいなこと思ってたふしがあるっぽいんですよね。
それは止めた。
俺が全力で止めた。
ようやく彼女と水入らずで、きゃっきゃうふふできる環境が手に入ったのに、なんでそこに他人入って来るのって思った。
それも、自分に対して口うるさいのがふたりとか、正直、意味わかんないです。
舅と姑といきなり同居みたいなもんですよね。
いやだ。
絶対いやだ。
たぶん彼女は、旅芸人一座の、わやくちゃとひとが入り混じる生活というか、そう言うのが楽しかったんだろう。
大家族って言うの?自分も経験があるし、たしかに醍醐味はあると思う。
それから、単純に、これから赤ん坊が生まれる、ララの手伝いをしようと思っていたのも、あるかもしれない。
とにかく彼女的には、まったく悪気なく、みんなで一緒に生活したらいろいろ手を貸し合えて便利ですよね、みたいな、そう言うニュアンスだったのだと思う。
判るよ。
都合いいというか、効率で考えたら、たぶん、多人数で住むのがいいって言うのは判っていますよ。
そもそもここは模したものではあっても見張り塔で、つまり、大勢の兵士が詰めても余裕がある造りになっていることはたしかだった。
なにしろ三階部分まである。各階ごとに分けて、一階部分は共同で、二階と三階は各々(おのおの)の部屋に、だとか、そう言う区分けは可能なはずだった。
呪うぞ、って自分は言った。
のこのこここにきたら、俺は毎晩あんたに呪いの歌を歌うぞって、自分はグシュナサフに言った。
もう情感たっぷりに、怨念こめて歌うぞって。
赤ん坊泣くぞ、お乳の出も悪くなるぞ、いいことないから一緒に住むとか言うんじゃないぞって。
涙目になっていたかもしれないけど、俺は本気だった。
彼女との生活を死守するために、自分は必死だった。
結局、呆れたような、ヒかれたような、よく判らないけど、とにかく、一緒に住む気はないと、グシュナサフに言わせることができた。
まあ、最初からあいつは、ここに来る気はなかったように思う。
後ろに控えていたララと彼女二人が、若干不満げに見えたけれど、そこは見えないふりをした。
都合の悪いところは見えないふり。これ大事。
なんだかゆくゆくは、一緒に住むことになるような予感がするのだけれど、ひとまず、目下のところ、自分は、自分と彼女のふたりだけの生活を手に入れたと思う。
涙ぐましい努力だったと思います。
努力のかけかたが違ってる?そんなことはない。
ええと、なんだっけ、話がちょっとそれたけど、つまり、ここに自分は彼女と住んでいて、だから、目が覚めると隣に彼女がいるわけなんだけど、本当に、これ、夢じゃないのかなあって思う。
今朝も思った。
ほしくてほしくて、憧れてたまらなかったものが、ひょんなことからぽんと自分の手の中に落ちてきてしまって、面食らうというか、扱いに困るというか、この気持ち、判るだろうか。
決して手に入れたいわけじゃあなかったんだ、ただ遠くから眺めているだけで幸せだったんだ、ほんのすこし、おこぼれを貰えるだけで満足できる野良犬みたいな位置取りだったんだ、いろいろ言い訳はできるけど、とにかくもったいなさ過ぎてどうしようもない。
手に入れていろいろいじくりまわしたかったわけじゃなくて、こう、一段上の棚に飾って、毎朝拝んでおきたい存在だったっていうか。
でも、じゃあ手に入れたいま、それを手放せるのかって聞かれると、それも無理そうなのだから、本当に業(ごう)が深いと思う。
身に余る光栄というか、自分には分不相応(ぶんふそうおう)に感じて、なんかこれ、大掛かりな仕掛けでもあって、たくさんの人間に示し合わせて騙されてて、とうとう自分が、最後の最後のところでようやっと信じきって、ああそうか、このしあわせは本当なんだなって、ほっと肩の力を抜いたところで、はい、実は嘘でしたー、みたいな、そんな展開になっちゃうんじゃあないかって、自分は怖くて仕方がない。
とか、たとえばここまでの流れは、あの豚小屋みたいな監禁塔の中で見ている、長い長い、とにかく長い夢じゃないのかなとか。
なんか一番いいところになると目が覚めて終わっちゃうんじゃないかとか、無防備に自分の隣で寝ている彼女を見て、思ったりする。
しあわせに実感ってあるのかな。
たしか、そんなようなこと、前にグシュナサフに愚痴ったことがあったような気がした。
あほか、みたいな感じで自分はあのときあいつから言われて、そう言うの惚気(のろけ)っていうんだとか、言われた気もするけど、惚気って、もっと、めろめろで、でれでれで、全身弛みきっている人間が言うんじゃないのって思ったりもする。
こんな、全身血の気が引いたような、心臓ばくばくで、疑ってかかってる自分のこれが、惚気だとは到底思えない。
だって、触れたら消えちゃうんじゃないかって、思いながら自分は彼女に触れている。
まぼろしなんじゃないのって。
自分が拗(こじ)らせていることは理解していた。
だから、幻聴とか、幻影とか、見えてもおかしくはないかって思ったりする。
拗らせてるレヴェルって、きっとそれくらいはあるよねって。
触れて、そこに確かに息づいている彼女を感じて、おずおずと安心する自分がいる。
彼女はあたたかい。だから、たぶん夢じゃなさそうだ、って。
夢にも味だとかにおいだとかあるって言うし、これがやっぱり夢じゃないっていう確証はどこにもないのだけれど、すくなくとも、いまはまだ、覚めない。
分不相応と思うなら、彼女に相応しい人間になればいいじゃないかって思うかもしれない。
切磋琢磨(せっさたくま)、じゃないけど、おのれを磨いて、彼女の隣に並んでも恥ずかしくないような、立派な心掛けの人間になれって思うのが普通ですよね。
そうしたら安心できるんじゃないのって。
でもね、よく考えてみてください。
さっき、伸びしろって言ったでしょ。
自分はもう、四十目前で、始めか終わりかって言ったら、中間地点とっくに折り返して、後ろの方にいるわけでしょう。
人間五十年って言いますね。言いますよね。
自分、あと十年ちょっとしか、猶予ないですよって。
あと十年、いまから、必死に彼女に相応しい人間になろうとしたところで、金メッキにしかならないんじゃないでしょうか。
いや、金メッキほどになったらそれだって立派なもんだ、実際頑張ったところで、メッキにすらなれるかどうかすらあやしい。
付け焼刃のご立派さなんて、鼻くそほどの価値もないんじゃないのって。
そんなようにも思う。
それならね、いっそ彼女を諦めて、誰かよその若いのにお任せして、身を引けって言われたって、もうそれもできやしない。
彼女を誰かに譲る?絶対に厭だ。
手に入らないと思っていた。
手に入らないと思っていて、半ばどころか九分九厘あきらめていて、眺めるだけでいいと思っていて、それが万の百分の一くらいの確率で手に入ってしまった。
一度手に入れたら、もうだめだ。
どうしたって放せない。
だから、いわゆる、詰みってやつなのだった。
自分は彼女との関係において、雁字搦(がんじがら)め、二進(にっち)も三進(さっち)もいきやしないのだった。
だのに、それなのに、俺の嫁さんすげぇ可愛い、とか言えちゃうのだから、自分自身、相当めでたいなあというか、脳みそお花畑が過ぎるなあって思う。
目を閉じた彼女の桜色に色づいた唇へ、奪うように重ねた。
そこはひんやりとしていて、しっとりとしていて、なんとも言えないほど気持ちが良い。
何度も何度も角度を変えて、彼女の唇を吸い弄(なぶ)っていると、やがておずおずと彼女が唇を開けてくる。
そこへ遠慮なく舌を差し込んで、ぢゅ、ぢゅとわざと音を立てる。羞恥心を煽(あお)って、そそのかしてやると、最初はすこし緊張していた彼女の体がだんだん弛緩して、それから自分の方に身を預けてくるようになる。
ああもうめっちゃ可愛い。
寝台のある二階に鏡はないから、彼女は彼女自身の顔を見ることができないのだけれど、こんなふうに、上気して、とろんとなった彼女を見ることができるのが自分だけだって、ものすごい優越感がある。
背徳感って言ってもいいかもしれない。
うすく開いた唇から短く吐きだす呼吸とか、いつの間にかきゅっと握っている自分の袖口とか、それがどれだけ自分を煽(あお)っているか、彼女はきっとわからないに違いない。
自分は自慢するわけじゃあないけど、経験人数、っていうだけだったら、軽く三百は超えてる自信がある。
いやべつに、モテたとかじゃないんですよ。モテたとかじゃなくたって、売りやってたら、悲しいことに経験人増えていっちゃうんですよ。
とか、あと、各諸侯の情報収集の時とかね、孤閨(こけい)に震える奥様がたをお慰めしたっていうかね。
まあ孤閨に震えてるわりに、ご婦人がたはえらく大胆で、臆面もなく、こっちがあああーって目を覆いたくなるほどあけっぴろげだったっていう説もあることはあるけど、いまは関係ない。
とにかく、おしなべて、売春婦やご婦人方は、計算づくで男心を煽ってるところがあって、こっちもそれに乗っかるというか、なんていうんですかね、演技だってお互いに判っちゃいるけど、かたちから入って盛り上がる、みたいなところありますよね。
だから、こんなふうに、初心(うぶ)まるだしで身を預けてこられるとね、うわあいいの、みたいになる。
なんか本当に何も知らないんだなって。
自分が教えることをそのまま覚えて、そのまま返してくるって、なんだろうな、なんか、自分の色に全部染めてる感が、悪いけどもものすごくそそられてしまう。
知らず知らずのうちにニヤついていたのかもしれない。
こっちを見ていた彼女が、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「どうしました」
判っていながら自分は彼女に囁いた。言わせたいだけなのだ。
「眠いですか。もう寝ましょうか」
「……ええと、あの」
照れて、もじもじとしているさまをたっぷり観察する。
観察したいから、枕元の灯りは消さない。毎晩、貴重な蝋燭一本ずつ消費したって、ここは譲れない。
たっぷり堪能しながら、自分はひたと手のひらを彼女の頬にあてた。
ぞく、と産毛を発たせて顔を上げる彼女の表情がたまらない。
「……触れてもいいですか」
「はい、」
頬を赤らめ、かすかに頷く彼女の了承を得て、自分は彼女の上にかぶさるようにして、首筋に顔をうずめる。
ついばんで、時々ちゅ、と軽く吸ってやる。
あちこちまだらに跡がつくと可哀想だから、所有の印はまだ残さない。
最近、こうして軽く吸いつくたびに、ぴくん、と彼女が肩を揺らすようになった。
気持ちいいと思ってくれているのかな。
すくなくとも、怖いだけではないように思うけれど。
幼少の彼女が、幽閉されていた時分、いったいあのクソ野郎に何をされたのか、自分は詳しくは知らない。
彼女がいくらか語りはした部分はあるけれど、それが全部じゃないことぐらい判っている。
俺が知っているのは、彼女が素裸に剥(む)かれて、クソ野郎どもの的当ての台になったこと。
それから、間隔を開けてクソ野郎が部屋を訪れるたび、彼女の表と、そうして内部にまで器具を突っ込んで、見張りの衛兵どもに犯されていないか検(しら)べ嬲(なぶ)ったことだけだ。
そのふたつだけとったって、どれほど彼女の心に傷を残したと思ってるんだ。
考えるだけで胸糞が悪い。
あのクソはあと百万遍は死ね。
だからきっと、肌を見せるだとか、男に触られるということ自体、彼女にとっては厭なことを思い出すきっかけになっているんじゃないかなって、思っている。
俺はそれが怖い。
俺は、彼女が怖がることは、何もしたくなかった。
ぶっちゃけ、彼女とは一生手をつないで寝るくらいの、清らかなままの関係でいたって、自分はちっとも構わなかった。
そりゃあ、自分だって健全な成人男性だから、彼女に触れていたら、いろいろと股座(またぐら)のあたりがぎちぎちになったりするわけだけれども、べつにそれをどうこうしなくたって、いっこうに構わなかった。
彼女が怖い思いをするくらいなら、我慢するなんて、どうってことはない。
あとでこっそり、煙草ついでに外に出て、右手で処理するくらい、なんでもない。
そんな思いが、ひょっとすると動きに出てたのかもしれない。
身を震わせていた彼女が、ふと目を開き、そっと自分の肩を押しやるようにして、バラッド、と自分をちいさく呼んだ。
「はい」
場にそぐわないぐらい、生真面目な声で呼ばれたので、いったいなにかな、そう思いながら応えると、じっとあの、濡れたぶどう色の目で彼女が自分を見つめる。
吸い込まれそうな瞳だと思う。
じっとその瞳を見返していると、また名を呼ばれた。
「バラッド」
「はい」
「わたし、壊れものじゃないわ」
「はい、……ええと、その」
「もっとがっついてもかまいませんのよ」
「え、……がっつく、……、ええ、」
意外な言葉が彼女の口からこぼれたものだから、自分は目を白黒させて一瞬とまどった。
そんなに欲求不満に見えただろうか。
動きを止めた自分の下からそろそろと彼女は這い出て、ぐい、と自分の体を押す。
抵抗する気もなかったので、自分は押されるままに、寝台に仰向けになった。
「姫?」
「……あなたが、わたしのことを、とても大事にしようとしてくれるのは判ります。判ってますけど、」
じっとこちらを見つめたまま、どこか拗ねたように彼女は言った。
何か怒らせてしまったかな。
触れる動きがしつこかっただろうか。
どぎまぎしている自分の上に、膝立ちになって彼女は圧し掛かる。完全に形勢逆転だった。
姫、と情けない声を漏らす自分を見下ろして、彼女はすっと目を細めた。
笑ったのだ。
「あなたが、わたしを大事にしようと思ってくださるのと同じくらい、わたしがあなたに満足してほしいと思っているのは、伝わりますか」
「いや、その、姫」
言って彼女は俺の上に身を伏せ、先ごろ自分がしていたのと同じように、耳裏から首筋に唇を落とそうとして、
「ちょ、待っ、……待っ、姫!」
自分は慌てて彼女の体を押しのけた。
恥ずかしいわけじゃない。彼女が自分に触れるのが厭だってわけじゃあもちろんない。ただ単純に、
「バラッド、?」
「だめです、いかんです、あの、自分汚いんで、姫が、姫が汚れます」
このところ忙しさにかまけて行水していない。
ああこんなことなら、昼間川にでも飛び込んでおくんだった。自分はしみじみ後悔した。
濡らした手ぬぐいで、毎晩寝る前に体を拭き清めるくらいのことはしたけれど、それにしたって対処法みたいなかんじで、根本的な汚れはきっと落ちていない。
だいたい、ほら、いまはまだ春先っていうか、裸になるには寒い時期で、だからそんなに汗かかないかなー、とか。
まあかいたところで臭わないんじゃないかなー、とか。
ひとりでいたころより、服を着替えて洗う回数だって増えていたりして、だからくらべたらよっぽど清潔だよなあ、とかとかで、素っ裸で水に浸かるのを先延ばしにしていたらこれだ。
ひと月ばかり水に浸かってない。
まずい。
服の上から抱きしめるとかならまだしも、直に肌に触れるとか、
「まずいです、姫に黴菌(ばいきん)が付きます。病気になります」
本気で訴える。
自分の汚さで嫁さん病気になるとか、それもうシャレにならない。
押しのけると、すこしびっくりして目を見張った彼女が、バラッド、とまた俺を呼ぶ。
「あなたはわたしに触れているじゃありませんか」
「だって、姫はこまめに体洗ってるでしょう。きれいです。自分とは汚れ具合が段違いなんですよ」
「わたしは気にしません」
「自分が気にします。あの、絶対、くさいんで」
「……そうかしら」
くんくん、と自分の胸元に顔をうずめるようにして、彼女が首をかしげた。
「姫!」
やめて。やめてやめて。
風呂に入らなかった自分が一番悪い。そんなことわかってるけど、俺は逃げ腰になり、心の中で悲鳴を上げる。
いいんですよ。十代の若者ならまだいいんですよ。
たぶんね、くさいって言っても、汗のにおいくらいでしょうよ。
若いとね、汗かいたってさらさらなんですよ。
でもね、おっさんになるとね、他にもいろいろ付加されちゃうんですよ。
あぶらとか、あれなんていうんですか。加齢臭ですか。
あと、俺、煙草吸うんで、ヤニとか、それに汗と垢と埃のにおいがくっついているにちがいないんです。汗だって妙にべたべたしたりしてて、全然さわやかじゃないんです。
卒倒するわ。
姫がそのにおい嗅いでるって考えただけで、俺が卒倒する。
ひゃあ、と飛び起きると彼女が不思議そうに首をかしげた。
「バラッドのにおいだとは思いますけど……、くさいとは思ったことはないですよ」
「それあれです、ほら、なんだ、惚れた欲目とか、そういう、」
「欲目なら、べつにかまわないのじゃありま」
「きたない。だめ。ぜったい」
ぶんぶんと首が捥(も)げるほど、自分は首を振った。
さっきまでのあまい、あまぁい雰囲気が、もうどこぞに吹っ飛んで台無しになっているのは判ったけど、自分は大真面目だった。
この桜色の唇が汚れた自分に口をつけるだなんて、何がどうあったって厭だ。
せっかくきれいであるものを、わざわざ汚穢(おわい)なすりつけるみたいで、そんなのは絶対に厭だ。
自分で自分のことを汚穢とかいうのも正直どうかと思うけど、いまはそんなことを言ってる場合じゃない。
清らかなものを汚して興奮する性癖は、自分にはない。
自分がよほど真剣な目をしていたのか、しばらく困惑していた彼女が、じゃあ、とやや思案げに言った。
「きれいだったら、良いわけですよね」
「え?あ、はい、……まあ、」
「だったら、洗いましょう」
「え?え、洗うって」
「洗いましょう。お湯で。……準備してきますね」
「え、ちょっと待ってください、姫、え、洗うって、洗うって……、いま?」
「今」
「えっ」
さっさと寝台から立ち上がった彼女を、つかまえそこねた自分の手が悲しく宙を握る。
いや待ってください。いま夜です。
さっきまで、たしかに階下で煮炊きしてたけど、もう火も落としたし、え、これからまた掻き熾(おこ)して、それから湯を沸かすとかですか。
それ結構時間かかりますよね。
「姫、」
風呂は明日にしませんか、そんなことを言いかけた自分の言葉は、
「バラッドだけ、わたしに触れるなんて、ずるいわ」
「いや、ずるいとかずるくないとか、そういうのじゃ」
「わたしだってあなたを舐めたいもの」
彼女の、無垢だからこその一撃必殺の強さでもって、空中分解して四散する。
え、舐め、え、舐めるって、え、え、舐め。
照れたらいいのか、それともさらっと受け流したらいいのか、一瞬迷った自分は、そうして寝台の上にひとり取り残されたのだった。