湯を沸かし、湯桶に空け、そうしてまた湯を沸かし桶に空け、そんなことを数度くり返して半分ほど湯が溜まったあたりで、あの、とコロカントの後ろから遠慮がちな声がした。
断固として洗ってやろうという気概を持って、彼女が二階から下りてきてから、すでに半時ほど経っている。
「はい」
後ろから眺めているだけだったバラッドも、止める気はとうにないようで、夜半に腕まくりをして俄然やる気を出した彼女を、見るともなしに眺めている。
そもそも、バラッドが、コロカントのやることにケチをつけること自体、ほとんどないといっていい。
やりたいようにやらせてくれる。
大人の余裕かもしれない。
こだわりが、わりとないからかもしれない。
いくらか最初に引きとどめる言葉を発することはあっても、後半は黙って眺めているのだ。
「それくらい溜まっていれば、あとは水でうめれば何とか」
「それじゃ、だいぶぬるくなってしまいます」
「冷や水でなければ風邪ひかんでしょう」
まだまだ沸かして溜める気だったコロカントが振り返ると、煙管に煙草を詰め、とんとんと指で均しながら眉尻を下げた男が言う。
困っているようにも見えた。
「……呆れていますか」
子供っぽいと思われているのかもしれない。
こんな夜中に、もう二階に上がって寝ようとした時分に、急に男を洗うことを思い立って、しかも我慢できずに実行に移すだとか、
「……いえ、」
おもむろに不安になって尋ねた彼女に、燃えさしから煙管に火を点け、ふうと一口、煙を上に吐き出して男がうすく笑った。
「不精な自分に呆れてはいますが」
言って立ち上がると、湯気を上げはじめた暖炉の鉄鍋を男は掴み、よいしょ、とひと鍋、湯桶に空けた。
「こんなもんで、いいでしょう」
言って、煙管を煙草盆に置き、上着の釦(ぼたん)を外しはじめた男に、
「石鹸と、ええと、手ぬぐいと足拭きと」
思いあたってコロカントは踵(きびす)を返した。
物入れから石鹸をさがしながら、そういえば今と比べものにならないほど、男がものすごく汚れていたことがあったな、と彼女は思いだす。
思いだしてすこし笑った。
「どうしました」
息が漏れていたらしい。聞きつけて男がたずねる。
「バラッドが、たわしで擦られたことを思い出しました」
言うと、あああ、と後ろから苦しぶい反応があった。男も思いあたったらしい。
「……グシュナサフが」
「そう」
「馬用のたわしでしたねぇ。……、……、ひどい目に遭いました」
湯を水でうめながら、しみじみと呟いている。その男へ、浴用道具を渡すために近づいた。
「たわしじゃあないでしょうね」
「まさか。手拭いと、石鹸です」
笑ながら手渡す。
いつの間にかバラッドは服をほとんど脱ぎ、薄い肌着一枚になっている。
その彼の横で、石鹸を渡したまま、コロカントがじっと湯桶を見つめていると、あの、と声をかけられた。
「自分が入る気満々でしたが、先に姫が入りたかったですか」
「いいえ、今日はバラッド優先です」
「ですか。……じゃあ、ええと」
「折角ですから、旦那さまの背中を流そうと思ったのですけれど……、」
「あー、」
湯桶から立ちのぼる湯気から目を離し、バラッドの顔へ移すと、どうしたもんかな、呟きながら、しばらく彼が宙を眺める間があった。
「わたしが見ていては、入りにくいですか」
「いや、べつにそう言うことじゃあないです。そう言うことじゃないんですが、……、つまり、自分の裸は、あんまり見れたものではないと思いますんで」
「わたし、気にしません」
「そうですか」
「はい」
古傷のことを言っているのだろうと思った。
昔、コロカントが幼かった時分、なにも心構えのないままにバラッドとグシュナサフの裸を見てショックを受けたことがある。
男たちの体は大小さまざまな、刀傷だらけだったからだ。
それまでも、腕まくりした腕や、薄着になった肩に、いくらか傷がついていることは知っていたけれど、あんなふうに、腹にも背にもついているとは思いもよらなかった。
そのひとつひとつが、切られたり、突かれたりした、血を流した痕だ。
痛くはないかとたずねると、ふたりはそろって笑い、昔のことですと言った。
慣れているから大丈夫だとも言った。
その穏やかさが、悲しいと思った。
痛みに慣れる生き方なんて、幼い彼女は考えたこともない。
そうして、恐怖した。
男たちは、何度そうした目に遭ってきたのだろうと思ったからだ。
そのやりとりを思い出す。
今バラッドは、それを言っているのだと思った。
気にしません、もう一度くり返すと、
「まあ、中年の裸ですしね。幻滅せんでくださいよ」
湯桶をまたいだバラッドが、こちらに背を向け、そうして肩から肌着をすべり落とす。
「――」
その背を見て、はっと息をのんだ。
悲鳴が口から漏れないように、奥歯を噛みしめる。
バラッドと一緒に暮らすようになってからふた月、そのあいだには互いに着替えることもあったけれど、着替えるとき、男はそれとなく薄暗い場所に下がるか、裸にはならず、薄いシャツ一枚羽織っていることが多かったように思う。
明るい場所で、まじまじと彼の素肌を観察したことがなかった。
まだ寒い時期だったし、わざわざ男を裸にするタイミングもなかった。
男の扱いに長けた女ならともかく、肌をまさぐり、脱がす技量(テクニック)を、コロカントはまだ体得していないからだ。
そうしてすぐに気づく。
タイミングがなかったのではなく、男が意図的に避けていただけだ。
男の背は、引き攣れ、ただれ、縫いあとが縦横に走っていた。
それも、わりと真新しい。
もとあった薄茶色の古傷の上から、明らかに深くえぐれたと思われる傷が五つあって、そこに張った皮膚だけがうすい。
てらてらと桃色にてかっていて、よけいに生々しい。
コロカントの知らない傷だ。
(これは、)
彼女を逃がすために、男が死に物狂いで追手を引きつけ、応戦し、そうしてひとりで負った傷だ。
視界が赤黒く点滅する。
怒りなのだと、遅れて気がついた。
「――がっかりでしょう」
湯桶の中に座り込み、うつむいて自嘲する男の声がする。
「連れ合いがね、こんな、きったねぇ裸だなんて、恥ずかしいですよねぇ」
「……がっかり?」
ゆら、と足を踏み出して、コロカントは男に近づいた。
絞りだした声は低くしわがれている。
自分の声でないみたいだと彼女は思った。
「がっかりするような人間は、ひとの心がないひとです」
おそるおそる男の背へ手を伸ばす。
そっと触れた背中はじんわりあたたかくて、ああ生きているなと確認する。
手のひらから温かさが伝わり、体に染み入るようだと思った。
「あの時の……、バラッドがひとり出て行ったときの、傷なのですね」
「――ああ、まあ、ええと、……どうでしょうね?」
「ここにきてから、バラッドが行水していなかったのは、裸になると、わたしがこれを見てしまうからですか」
「いやあ、ただの不精なだけじゃあないですか」
「バラッド」
「はい」
「はぐらかさないで」
「――はい」
観念したように男が肩をすくめる。
「これは、剣ですか」
「いや、なんていうかね、ちょっと逃げるときに下手こいたというか。その、……、……、弓?」
「弓」
返しのついた鏃(やじり)がすぐに浮かんだ。
あれがいくつもいくつも、男に突き立ったのだと思うと、
「……あ、え、……姫?」
「あなたは」
男の背中に額を当て、彼女はうなだれる。
「わたしの知らないところで、いったいどれだけひどい目に遭っているのでしょう」
自分は何も知らない。
何も知ろうとはしていない。
船着き場で、暁までバラッドを待ち、やってこない彼をひとり残して、彼女たちは海を渡った。
それが時限だった。それ以上待てば、追手に見つかる可能性もあった。しかたがない。
理屈は判っている。
無事に夜明けを迎え、船を出すことが要(かなめ)だったのだから、当初の目的は達成されたのだ。
(――でも)
震える指を傷口にあてる。
きっと男は打ち捨てられて、転がっていたのだと思う。
そうしてどれぐらい、男は苦しんだのだろう。
男にこんな傷をつけたやつらを、ぶちのめしてやりたいと、心(しん)から彼女は思った。
ぶちのめしてやりたいと思い、それから自分にはその資格すらないことに気がつく。
追ってこない、やってこないとただ求めるだけの自分がいかに傲慢だったか。
四年自分は待った。たしかに待った。
(でも、それがいったい何だというの)
自分は待った。
もう一度会いたいと念じて待った。
待った、けれど、それはただ待っただけだ。
男が痛みで呻吟しているあいだ、傷を癒し、海を渡る算段をととのえるあいだ、自分はグシュナサフやララと冗談をかわし、飯を食い、芸人一座と旅をしていただけだった。
「……ごめんなさい」
歯を喰いしばる。
おのれの浅はかさが許せなくて、涙も出ない。
「姫」
「わたし、ミシュカさんだったバラッドに、言ったでしょう。……森にいたときも。塔から助け出してくれたときも。それから、追手を撒いていたあのときも。わたしは守られていたって」
「……、」
「あのお祭りの夜、火と煙に巻かれていたときも。あなたはいつもいつも、傷だらけになってわたしを守ってくれて、そうして血を流して痛い目に遭って、なのにわたしは見ているだけです」
「姫」
「わたしはあなたに何を報いたらいいのでしょう。守ってもらう資格なんか、」
「――いけません」
しいぃ。こちらを振り返った男が、それ以上は言わせないとコロカントの口に指をあてる。
「バラッド」
「だめですよ。資格がないだとか、そんな悲しいこと言わんでください」
「だって、」
「あのですねぇ。別に自分は、損得で姫をお守りしてたわけじゃあないんです。……まあ、ずっと、自分は芯のところを言わないでいましたからね。判りにくかったとは思いますが……、いまならもう口に出してもかまわないのですし、全部言いましょうか」
(何を)
いつの間にか固く握りしめていたこぶしを、男が静かに包み込む。やわらかに撫でられ、こんなにきつく握りしめては傷がつきますよと、彼の方が痛そうな声で呟いた。
のろのろと目を上げると、バラッドの緑の目とぶつかる。
姫、と彼は口を開いた。
「自分はあなたが好きです」
男は言った。
「もうせんから、ずっと好きでした。そうして、好きなひとを守るのに、理由なんていらないです」
そりゃなんだってしますよ。
吹っ切ったように、よどみない口調になっている。
「決めたんですよ。あなたは覚えてらっしゃらないでしょうけど、館が襲撃されて、自分とグシュナサフのいるところに落ち延びて来たときにね、自分の目を見て、バラッド、て、自分の名を呼んで。あんなにまっすぐ誰かに見つめられたのなんて、生きていて初めてだったんです」
「……、」
「よろしくお願いしますってね。言われたんです。だから自分は姫と、約束したんです。今生かけましても、って」
男はちいさく笑う。
今生ですからね。体を張るぐらい、なんてことないですよ。
「自分は、学がないです。教養もない。剣の腕もなければ、たくさんのことをいっぺんにこなす、器用さもありません。……それでも、そんな自分でも、あなたを守れるなら、守りたいと思いました」
「そんな」
男を見つめ返していたはずの、コロカントの視界がぶれる。
そんな昔の約束を、たった一度かわしただけの、きっともう誰も覚えていないような約束を、
「そんな約束だったんです。他愛もないもの、形式上のもの、みんなが小さいころにやった覚えのある、指切りげんまんと、たいして変わりはないのかもしれません。……でも、そんな約束でもね。自分にとっては、必要だったんです」
「……、」
「自分はそれまで、……それこそ、だらだら息をしていただけでした。姫にこんなことを言っていいのか判りませんが、ミランシアが落ちたと聞いてもね、なんの感慨も湧かなかったです。ああ、食い扶持先をまた探さなきゃなあとか、そんな程度で。……忠も仁もない。ただ手前の都合だけで生きていました。そうして、畜生のまま、腐って終わると思っていた。だから、……、……。姫との約束は、自分が自分でいるための、闇夜の灯台みたいなものだったですよ」
大切でしたと男は言う。
やさしい目をしている。
「そりゃね、殴られれば痛いし、斬られりゃ血も出ますが、……それでも、ひどい目に遭った、もうやめようとは思えなかった」
だってあなたが笑ってくれたでしょう。
男は続けた。
鼻の奥が痛くなって、コロカントは大きく目を見開いた。そうしなければこぼれてしまうと思った。
「見返りと言うなら、もう十分、見返りはあったんです。自分は、姫が楽しそうに笑っているのを見るだけで、ああよかったって……、……。あなたは、自分に守られたと仰いますが、そうじゃないんです。自分にとって、姫は、本当にたからものみたいなものだったんです。自分が、あなたに救われたんです」
(――なんて)
我慢していた視界がとうとう決壊して、涙がばたばたコロカントの瞳から滴った。
涙は熱かった。そうして、なんて言葉なのだろうと思った。
それから急いで涙を拭う。男の目をまっすぐ見返したかった。
目をこぶしでこすると、ああ、赤くなる、と男が困った声を出す。
「弱ったな、泣かせるつもりはなかったんですが」
「……だって。……だって、」
止めたいのに涙が止まらない。
しゃくりあげると、よけいに止まらなくなった。
こぶしを目に当てると、ぽんぽんと頭を撫ぜる大きな手がある。
骨ばって、指が長くごつごつした、大人の男の手だ。
あなたが好きです。耳元に低く囁かれる。
「あなたが好きです。こないだも言ったでしょう。こんなこと、言える日が来るなんて思わなかった。ずっと好きで、それだけでいいって思ってたのに、その好きな相手が、自分のことを好きだって言ってくれるんですよ。もう、これ以上はないです。あんまり嬉しすぎて、舞い上がって天にいっちまいそうなくらい」
「……いってはだめですよ!」
冗談でもとんでもない。顔を上げて、コロカントは男を見た。
「いってはだめです」
「いきませんよ。いく予定も今のところないですが」
こんな可愛いひとを置いていけませんねぇ。のんびりした口調で男は呟き、それから不意に息を吸い、へくし、と顔に似合わないくしゃみをした。
「……ああ、お湯が」
はたと今の状況を思い出して、コロカントは慌てて立ち上がった。
湯桶の湯気がほとんど消えている。話しているうちに冷めてしまったようだ。
「熱いのを足します、」
「いや、平気です。このまま洗っちまいましょう」
彼女が暖炉へ向かいかけると、男がゆるく制止し、そうして頭からぬるま湯をかぶりはじめた。
「手伝います」
これ以上冷める前に済ましてしまわないと、バラッドが風邪をひいてしまう。
泣くことは一旦やめにして、コロカントは石鹸を手拭いにこすり立てる。
それから、こちらに背を向け、大人しく洗われるつもりらしい男をあらためて見直し、ひとつ大きく息を吸った。
男が被(こうむ)った痛みを考え、卑屈に自己嫌悪に陥ることはやめようと思った。
陥ることは簡単だ。いつだってできる。
けれどそれでは、男が好きだと言ってくれた笑顔にはなれない。
(笑っていよう)
大きな背中を泡を立ててこすりながら、コロカントはしみじみ思う。
(わたしは笑っていよう)
男と一緒なら、難しいことではない気がした。
洗いあげ、仕上げに湯をかけたバラッドが桶から立ち上がる。
おお寒い、鳥肌を立てて身震いするところへ、手早く大判の木綿布を渡してやると、男はざっくり体に羽織って暖炉前に向かう。
火にあたりながら、彼が濡れ髪をがしがしと拭いているのを、しばらくコロカントはぼんやり眺めていた。
蝋燭は二階に上がる前に消していたので、室内の光源は暖炉だけだ。
「……どうしました、難しい顔をして」
乱れた髪のあいだからこちらを覗くようにして、男が怪訝な顔をしている。
合間に、伸びたかなあ、だとか、髪の先を指にからめながら呟いた。
「あの、」
先から頭の中でぐるぐる回っていた考えを口にしようとして、いったん彼女は言葉を切った。
これを言っても許されるものかどうか、判らなかったからだ。
「そのですね」
「はい」
「わ、笑わないで、聞いてほしいのですけれど」
思わずどもると、男がますます首をかしげる。
「はい、?」
「今、体を洗いましたよね」
「はい」
「つまり、きれいになったのですから、ええと、バラッドが気にしていた、においとか、そう言うのももう大丈夫ってことですよね」
「はい。今なら石鹸のにおいですよ」
くんくんとおのれの腕のにおいを嗅ぎ、男はにっこりとする。
それから炉棚上にあった飲みかけの白湯へ手を伸ばし、口に含んだ。
喉が渇いたらしい。
「バラッド」
「はいはい?」
「抱いてください」
言うと、飲み下しかけた白湯を喉に詰まらせ、男は盛大に噎(む)せかえった。