「ねえちょっと。あンたあのひとの保護者でしょ。引き取りに来てよ」
仕事帰り、一杯ひっかけて自宅へ戻る途中、不意に路地裏から声をかけられ、グシュナサフはその方角へ顔を向けた。
見ると、派手な化粧で婀娜(あだ)な格好をした女が、気だるげな様子で彼を見ている。顔見知りではなかったが、春を売る女だとひと目でわかった。
「保護者、」
短く返して、眉を寄せる。
グシュナサフが保護者だと自認している相手は、ひとりしか思いつかない。彼には妻と子があったが、それは彼の中では家族であって、保護する対象ではなかった。だから、思いつくのはたったひとりだ。
そうして、その相手がどういうことに巻き込まれたら、娼婦が呼びに来る事態になるのか、これまたさっぱり想像がつかない。
なにがあった、女の方へ寄り、低い声でたずねる。
「引き取るというのは、どこかで気分が悪くなって休んだりしているのか」
「……まあ、具合が悪いというかなんというか。見に来れば判るんじゃない」
だるそうに返された。
よけいに不審が湧く。
「怪我でもしているのか」
「してない。転がってるだけ」
「転がっている」
くり返してますます首をひねった。どういう状況だ。けれど女はそれ以上語ってはくれなさそうだった。
「来て。こっち」
手招きされるまま、グシュナサフは路地の裏通りへ足を踏み入れた。
「……、……、……、……」
こういうのを絶句と言っていいのだろうか。すくなくとも、言葉を失っているのだから、絶句の範疇(はんちゅう)なのかもしれない。ただし驚きや衝撃で言葉を失ったのではなく、ただただあきれ果てて言葉が出ない、と言った方が正しいのかもしれないけれど。
案内されているときから、いやな予感しか胸になかったのだ。いやな予感、それも心配だとか、不安だとか、そう言うたぐいの予感ではなく、単純に、なんだか俺は余計なことに巻き込まれているんじゃないかな、と言ったふうの。
それでも、唯一の相手、自分が保護者だと自覚している彼女、コロカントの身になにかあったのだとしたら、それは放っておくわけにはいかない。
コロカント。今は亡い領国の生き残りの娘。
彼はコロカントの父親ではないし、父親代わりだと自称したこともなかったが、それでも父親のように、年長者として、数年は彼女を見守り、暮らしていた。
だから、彼女になにがしかの災難が降りかかった場合、その火の粉を払う役目を負うことはやぶさかではない。
大事な存在だと思っている。けれどそれに、名前を付けるとなるとすこし難しい。
思慕でなく、忠誠でなく、義務でなく、同情や憐みでもない。
関わってしまったゆえの責任、というのが一番近いような気もするが、自責というほど切羽詰まって彼女に接しているつもりもなかった。
ただ、幸せになってほしいとは願っている。
それはたしかなことだ。
案内された場末の酒場に急いて飛び込んだグシュナサフは、そのまま、一言も言葉を発さず、回れ右をしてさっさとその場を去ろうとした。
「ちょっと」
見とがめた女が、彼の袖口をつかんですかさず引き留める。
「帰ろうとしないでよ。持って帰ってよ」
「人違いだ。俺はそいつと面識がない」
「嘘つかないで。あンたがこのひととつるんで歩いてるの、見たことあンのよ」
にべもなく断ろうとしたところへ、女が口をとがらせて袖口を引く。
「あンたは地味でも、このひと派手な上に仕事で夜の街ぶらつくでしょ。目立つの」
言われてしぶしぶグシュナサフはもう一度振り向き、半分椅子からだれ落ちている、もと同僚――とも今は呼びたくないどうしようもない酔っ払い――を上から下まで眺めた。
それは赤毛だった。カウンターに伏せた背中の半分から右が黄色、半分から左が朱色の、ちぐはぐな上着を着ていた。中に着ているシャツはかろうじて白かったが、皮ズボンは緑だ。
それだけ奇態で、だのに似合っているのが珍妙な気がしたが、とにかくグシュナサフの美的感覚ではまるでいただけない。
そういえば昔、彼女の誕生日の祝いを選ぶときに、しようもないものばかりを選んできたことを、思い出したくもないのに思いだしてしまった。
深々とため息をつく。
「道化の知り合いは知らん」
「なにシラ切ってんの。このひといっつもこんな格好してるじゃない」
そう言われて言葉に詰まった。
要するに、趣味が悪いのだ。露店の軒先に吊り下げられた、どうしようもなくてらてらの粗悪品のシャツを、あ、なんかいいかも、だとか言って手に取っていることが、一度ならずある。
身なりにほとんど興味がなく、服なんて着られればそれでいい、が身上のグシュナサフですら、目をむくセンスのなさだった。
正直、彼が保護義務を感じる少女はどうやって、この悪趣味な着こなしに目を瞑(つむ)っているのか、疑問ですらある。
……痘痕(あばた)も靨(えくぼ)ってやつなんだろうか。
そう思いたい。もしかすると、コロカントが同じようにセンスがない可能性も、あるかもしれないとはちらと思ったものの、そっちはあまり考えたくない。
「連れて帰るかどうかはともかく、一応、どうしてこうなったか、聞いてもいいか」
しばらく黙って目の前の阿呆(あほう)を眺めたのち、もう一度大きく息を吐きながら、彼はたずねた。
「連れて帰るって約束すんなら、答えてやってもいい」
返される言葉も容赦がない。
女としたって、こんなところで酔いつぶられて迷惑この上ないだろう。そもそも、春を売る彼女が、どうして酒場の使いになって、自分を呼びに来ることになったのか、
「……店主のおっさんに頼まれたのよ」
さぐるような目になっていたのだろう。視線を受けた女が肩をすくめて言った。
「昔馴染みだったから、知ってるだろうって。居座られても邪魔だから、引き取り呼んで来いって」
ぐるりを見回すと、カウンターの隅っこで迷惑そうに煙草を蒸かす店主と目が合った。場末の酒場に、今夜は常連はいないようだ。
もしかしたら、泥酔した阿呆をいやがって、長居せず帰っただけかもしれないが。
そんなことを思いながら、グシュナサフはもう一度、店内を見渡した。
彼が連れてこられた酒場は、いま赤毛の阿呆が占領しているカウンターに三つの椅子、あとは立ち飲みの足の長い卓が二つ置かれているだけの、ちいさな飲み屋である。
酔いつぶれた元同僚が、普段出入りしている、瀟洒なおもむきの酒場とは違って、しつらえも寒々とした石壁と床があるだけの、貧民窟に半分足を突っ込んだ場所にある酒場だ。住民でなければまず近づかない。
出てくる酒も安酒を安酒で薄めたようなもので、悪酔いするために飲むようなものだ。
それを知ってて、わざわざこんな裏路地を選んだのだろう。
じっと考え込むうちに、グシュナサフの眉間に深くしわが刻まれる。
飲みたいだけなら、なにもこんなところで飲まなくたっていい。歌うたいである元同僚は、拠点とする酒場も、そこから選んで訪れる数軒の酒場も、きちんと定めていて、飲みたいのなら、そこで楽器を弄(ろう)しながら、酒とアテでも頼めばいいのだ。
つまりこの赤毛の彼には、酒に逃げてつぶれたいだけの理由があったに違いない。
「まあ、あンたが断るってんなら、それはそれで、あたしは構わないのよ」
無言で椅子からずり落ちる背中を眺めるグシュナサフに、脅しをかけるように娼婦の声がした。
「そしたら……、ほら。このひとがぞっこんな可愛い子ちゃん。あの子に引き取りしてくれって、頼みに行くだけだから、」
でもそれあンた、都合悪いんじゃないの?
脅迫する女の目がにやにや笑いを含んでいる。最初からグシュナサフに拒否権はないのを知っていて、女は声をかけたのだ。
むう、と喉の奥から唸りが漏れた。たしかに彼が断われば、コロカントに連絡が行くのが流れだろう。
この状態のバラッドを彼女に見せる?ますます眉間のしわが深くなった。
却下だ。考えるまでもない。
自分で立てないほど正体なしになった人間ひとりを介抱するのがどれほど大変か、グシュナサフは知っているし、だいたい、上からだの下からだの、事後大変なことになると相場が決まっている。
その処理を、コロカントに押し付けることはしたくないと思った。
まず、彼女の力では支えきれないし、連れて帰るだけでひと苦労だ。そうして、こうまで悪酔いした原因について、あれこれ思い悩むに違いない。
たとえば、なにか二人のあいだでいざこざがあっただとか――それこそ、服の趣味ついての意見だとか――、程度の問題であったなら、きっとバラッドはこうまで痛飲していないにちがいない。
そうでなくたって、こうもみっともない夫の姿を、新婚のうら若い妻に見せるというのも、気の毒な話だ。
みっともない現実を見せて、愛想を尽かさせるというのもありかなとちらと思いはしたものの、実行にまで移す気はない。
捨てられてやさぐれるだろう酔っ払いの方はどうでもいいが、コロカントが失望する顔は見たくないと思う。
結局、グシュナサフが引き取るしかないのだ。
……俺はごみ収集業者じゃないし、お悩み相談所でもねぇぞ。
低く殺意をもって唸りながら、もう一度息を吐いた彼は、怒りもあらわにどしどしと元同僚に近づき、
「おら。立て。帰るぞ」
ぞんざいな扱いで歌うたいの男を引き立たせ、おのれの肩に腕を回させて支えてやりながら、抱えてやる義理はねぇぞと押し殺した声で囁いた。
酔いつぶれた彼が、気を戻す様子もない。
「二足歩行種なら、自分の足で歩け」
途中で吐いたら捨てて行こうと思う。
「――おい」
その後ろから、なおも引き留めようとする酒場の親父の声に、なんだ、と不機嫌もあらわにグシュナサフは振り返る。
「まだ用があるのか」
「お代」
「……。……。……。……」
親父が手のひらを差し出し、彼は渋面を作った。
もう絶対、絶対絶対、こいつが正気に戻ったら、二倍の料金でもって取りたててやろうと、心に固く誓う。そうしてふところから金入れの皮袋を取りだし、なけなしのそれを後ろに抛(ほう)って、
「足りない分はツケといてくれ」
十一(トイチ)でいい。返すのはこいつだから。そう捨ておいて、バラッドを引きずり、酒場を後にしたのだった。
結局、泥酔し半ば気絶しているようなバラッドは、引き立てて歩かせるどころか、まともに立つこともできなかった。骨のないぐにゃぐにゃの生き物のようだ。
しかたなしにグシュナサフは蛸(たこ)になった同僚を肩に担ぎ上げ、荷運びの小麦袋のように二つ折りにして、小さな噴水のある公園へ行くことにする。
そこで酔いを醒ますまで、転がしておくつもりだ。
途中の裏通りで、客がなく手持無沙汰の靴磨きの子どもを見かけたので、コロカントへの言伝を頼む。
さすがにこの住民規模の都市で、普段あまり出入りしない地区に、帰らない夫をさがしに来た彼女が、どんぴしゃで彼らとはち合わせる、と言うのは、確率としてゼロでないとしても相当ゼロに近いのは承知していたが、偶然は偶然におこるから偶然、というのだ。
現実はなにが起きるか判らない。
少女が、探し続けていたバラッドにたまたま再会したのもこの町で、しかも話を聞くに万一の確率でも信じられないとグシュナサフは思う――買い出しに行った青年ブランシェが、「たまたま」復路で入り込んだ路地で、「たまたま」コロカントがよく手慰みに弾いていた歌を聞きつけ、それを彼女に伝え、探しに向かった先で道に迷い、「たまたま」訪れた店の中に、探していた男がいた――なんて話は。
ありえない、としか言いようがない。
いっそ、作り話の方がうまくできると思った。
しかし実際に少女は男と再会し、今では一緒に暮らしている。だから、認めたくないけれど、そういうめぐり合わせ、というものも、時にはあるのだと納得するしかない。
現在、少女とバラッドは森の中の隠れ家のような塔に居住し、そこから毎日体の大きなハナという名の馬に乗って町へやって来る。
あんな町はずれどころか、町から外に出た場所で、住みにくくてしようがないのじゃないかと、お節介ながらグシュナサフは思うのだったが、住んでいる当のふたりは、あまり不便を感じないらしい。
そうして定住し、しかも妻帯したのだから(保護者としてグシュナサフは認めたくはないが)、歌うたいだとかいう、あやふやでやくざな仕事はやめて、腰を落ち着けて定職に就いてくれるといいと彼は願うのに、赤毛の男は歌う仕事をやめるつもりはさっぱりないらしい。
――だって、声が出る限り、この仕事は足が萎えたって続けられるでしょう。
それが言い分だった。
基本的に、よその家庭事情に口をはさむ趣味はグシュナサフにはない。ただ、保護者として、娘がわりのコロカントの婚姻相手に、安定した仕事と、毎日もしくは毎月の決まった手当はひと言求めたい。
求めたい。けれど、
「そういうの、余計なお世話っていうの。首突っ込まないで黙っときなさいよ」
妻のララに止められている。
子を産んで貫禄の出てきた妻だ。
とにかく、コロカントと男は毎日ハナに乗って町へやって来、少女は店の仕事を手伝い、男は歌い賃を稼ぎに酒場や、時には宴会の会場を回る。そうしてまた夜半過ぎにふたりで森へ戻るのだから、今日は帰らない旨の一報は必要だった。
悪い酔いして正体をなくしているから帰れない、とはさすがに伝えられない。だから、グシュナサフと飲んでいるから、今日は先に休んでいてほしいと伝えることにした。
「この泥酔した阿呆のことは、お前、言うんじゃねぇぞ」
一応釘を刺しておく。
「店に行ったら、グシュナサフからだと言えばいい。お駄賃くれるだろうから」
駄賃、の言葉に、一も二もなく頷いて、子供は鼻の下を汚れた指でこすり、駆けて行った。
その後ろ姿を見送って、すっかり重いずた袋と化した酔っ払いを、小さな公園まで運んだ。
噴水の縁石の横に、かなり無造作に転がしたが、起きる気配がない。しかたなく、縁石に腰を下ろし、はあ、と空を眺めため息をついた。
……俺はいったい何をやっているんだろう。
自分のお人よしさ加減に涙が出そうだ。
俺には関係のないことだ。そう突っぱねて、以降、少女と赤毛の阿呆がどうなろうと傍観を貫くこともできたのに、わざわざ損な役目を背負ってしまった。
いっそこいつ、捨てられちまえばいいのに。
若干冷たい目になって、グシュナサフは地面に転がる彼に目をやり、顎を撫ぜる。彼は、同僚としては不足ないが、養娘の結婚相手としては問題の多い相手だ。
それでも、コロカントが良しとしたのだからと、いろいろ言いたいところをぐっとこらえ黙っているのに、今日のこの為体(ていたらく)は何だ。半時ぐらい説教したって許されるだろうと思った。
酒でもあればここで呷って待つのだが、それもない。バラッドのように懐に煙草を入れているわけでもない。
しかたなく首をすくめ、亀のような格好でそのまま黙って待つことにした。
暖かくなってきたとはいえ、春先だ。花冷えもする。
敷石の上に直に転がされているのだから、余計に冷えたに違いない。
一刻ほどそのまま待っただろうか。すでに夜半過ぎだ。町はひっそりと静まり返っている。
急にもぞもぞと身動きしたかと思うと、くしゅん、と顔と年に似合わない可愛らしいくしゃみを連発したバラッドは、次いでうううと呻いて、ようやく目を開けた。
目を開け、けれどそこから動かない。また寝入るだろうかとグシュナサフが様子をうかがっていると、縁石の模様あたりを見るともなしにぼんやりと眺め、黙りこくっている。少なくとも意識はあるようだ。
「……おい」
とうとう、沈黙にしびれを切らしたグシュナサフの方が、先にバラッドに声をかけた。
「ぁい?」
酒に焼けてかすれた返事が返ってくる。
「起きてるのか」
「寝てるれす」
「起きてんじゃねぇか」
腹立ちまぎれに、軽くつま先で小突く。
「あー……、ここ、ろこれす?水音?……、……雨?えっと、……うん、?……俺、たしか店れ飲んれれ」
「呂律回ってねぇぞ」
見下ろしていると、ようやくのろのろと体を起こした彼が、
「……ふわぁー」
そのまま、ゆらあとまたのけ反りかけて、あわてて縁石に手をかけた。首が据わっていない。その見てくれに、グシュナサフの喉から、またため息が漏れる。
「どんだけ飲んだんだ」
「さあ?ええーと、……、……五、六杯くらいまでは記憶にあったんれすが、……、あとはもうヤケクソらったんれ、来る端から飲みました」
「気分は」
「最悪。ゲロ出そう。もうぐっるんぐっるんにお空が回ってる」
「飲んだのは自分だろう」
うー、と低い唸りを上げた彼が、ふんふんと水のにおいに鼻をうごめかし、噴水に気づくと、縁石に掴まったまま、身を乗り出し、ざぶりと水に頭を突っ込んだ。
ついでに口を開けて飲んでいる気もする。深酒で喉が渇いたのだろう。……水場でなくこれは噴水なんだが。ふと思いはしたが、グシュナサフは黙っておくことにした。
水あたりするかもしれないが、明日には盛大な二日酔いが待っているのは確実だから、多少腹を下しても誤差の範囲だと思ったからだ。
野良犬もたまに飲んでいるのを見かける。死ぬことはないだろう。
「ああ、……ちょっとはすっきりした」
しばらくそうしていたバラッドが、水から頭を引き抜いたので、グシュナサフは腰に挟んでいた手ぬぐいを抛(ほう)ってやった。
「ありがとうございます」
「風邪ひくなよ」
「心配してくれるんれすか」
「姫にうつるのが心配なだけだ」
ごしごしと顔と頭をぬぐいながら、ああ、あんたのにおいがする、だとかふざけたことを言っている。気色が悪いので、彼は気持ち同僚から距離を取った。
そうしてまた互いのあいだに沈黙が流れ、うーとかあーとか呻いていたバラッドが、ちらと顔をあげ、彼の方をうかがう気配がある。
「……なんだ」
「あのー……、姫の方には、」
「使いを出しておいた。俺と飲み明かしていることになっている」
「ああ、ありがたい。持つべきものは友れすねえ」
「俺はお前の友じゃない」
鼻を鳴らして否定してやると、また男はうつむいた。
「……何があった」
聞いてやる義理もないが、聞かないで見過ごすわけにもいかない。ここで彼が行き倒れようとグシュナサフには関係のない話だが、野垂れた彼に心を痛めるコロカントがいるのだ。放っておくわけにもいかない。
「あんたに、……まあ、先に言っておきますと、たぶん顔の形が変わるぐらい、ぶん殴られると思うんれ、俺も、もうそれは受け入れる方向で言いますけろも」
しばらく沈黙し、あれこれ考えていたらしいバラッドが、しんとした空気に押されたふうに口を開いた。呂律は若干回復したが、しょんぼりとした声色だった。
「もったいぶるな。さっさと言え」
「姫と寝ました」
さらっと続けられた言葉に、数拍遅れて衝撃が訪れ、グシュナサフは漏れかけた唸りを、喉奥でこらえ、
「そうか」
なんとか鼻息と共に空中へ流しだした。
心臓がぎくんと握られたように痛んだのは内緒だ。
「……あれ、殴らんれすか。自分、半殺しくらいにはされる覚悟でいたんですけろも。……全殺しされちゃあ困りますけども。……けど、けど、あんたの気持ち考えたら、俺のこと、許せないって言うのは判ります」
「殴られたいか」
「痛いのはいやれすよ」
首をすくめてバラッドは言った。しばらく押し黙ってぎりぎりと奥歯を噛みしめ、深呼吸をくり返したグシュナサフは、やがて、殴らんよ、とひとこと言葉を押し出した。
「殴りませんか」
「本音で言えば、そりゃあブチのめしたいが。……だが、姫はもう子供じゃない。きちんと成人されて俺の手を離れている。その姫が、お前を選んだんだから、俺には文句の言いようがない」
言いたい気持ちでいっぱいなんだがな、とは言わなかった。一座の座長と相まって、過保護な保護者と揶揄された者の、せめてもの虚勢だ。
「早く言え。……ひとつ言っておくと、他より劣る自分が姫を汚してしまった――だとか、そういう、くだらん後ろ向きな愚痴がヤケ酒の理由なら、俺は帰るぞ」
「言いませんよ、さすがに」
苦い笑いで返された。
「あと、幸せすぎて怖いとかいう惚気(ノロケ)も、俺はもう聞かんぞ。勝手に道端の一里塚にでも愚痴っとけ」
「はあ、あいにくそれでもないです」
答えた彼は、それからおもむろにうっぷ、と口元を押さえ、脇の草むらに這っていった。聞きたくもないので、心を遠くに飛ばして、グシュナサフはどうでもいいことを考える。
使いを受けた少年は、きっと店でたらふく食わせてもらえただろうかな、とか。
今日は戻らないと報せを受けたコロカントは、自分の家に報せがてら、ララと赤ん坊の顔を見に行くんじゃないかな、とか。
彼の家にコロカントが顔を出すのは久しぶりのことだ。女二人と赤ん坊で、穏やかに賑やかに過ごしているだろうな、だとか。
そうまで考えていると、口元をぬぐいながらバラッドが戻ってきた。まだ青い顔をしているようだ。
広場の乏しい光源だと、青いというよりは白い。
「幽鬼のようだな」
「はあ、とり憑かれてるかもしれません」
真面目な顔で返される。
「なんだそれ」
「ずっと憑いていたのかもしれませんが」
言って男は噴水の縁石に背をもたせ、懐を探った。取りだしたのは煙管ではなく、めずらしく紙巻きだ。
眺めていると、グシュナサフの視線を受け、家に置いてきちゃったんですよ、と男が笑った。青白い顔をしてはいるが、先よりもだいぶしゃんとした口調だ。
そうして一本咥えたバラッドに、俺にもくれ、と彼が呟くと、やや驚いたような顔をして、それから束を差し出してきた。
「まずいですよ。こんなくそ不味いの、久しぶりに吸いました。煙が出りゃあいいっていう粗悪品です」
「別にかまわん」
「それにあんた、いいんですか。いるでしょう。家に、赤ん坊」
「お前のわけわからん謎々あてに付き合わされるんだから、酒か煙草でもないとやってられん」
同じように一本咥えて火を点け、深々と煙を吸い込んで吐きだす。
はあ、という嘆息と、まずい、と言う感想がいっぺんにこぼれた。
そのグシュナサフをじっと見ていた男が、ふと視線をずらし、どうなんです、と低く呟く。
「なにが」
「赤ん坊。ついこないだ、生まれたんでしょう」
「生まれたな」
「可愛いですか」
「可愛い」
深くしみじみと頷いてやる。
「正直、赤ん坊と言うもんが、あんなに可愛いとは思わなかった」
「小さくって、ぐにゃぐにゃしてて、糞尿垂れ流しで、ちょっと目を離したらすぐ死んじゃうような生き物なのに?」
「……お前は、」
吐き棄てるような物言いが気にかかって、グシュナサフは視線を下ろし、バラッドに目をやった。
「お前は嫌いか」
「判りません。……判りませんよ。そんなもの。だって自分のところは、まだそうした生き物を家に迎えてもいないですしね?」
「……、」
いらいらとした口ぶりで、男が紙巻きの端をかんでいる。
グシュナサフがじっと黙っていると、そのまま三本、たて続けに吸った彼が、はあ、と肩を落とし、赤毛を掻き毟(むし)った。
「言ったでしょう。姫と寝たんです」
「聞いた。くり返して俺の辛抱を試すつもりなら、よそでやってくれ」
「そうじゃなくて。そうじゃなくて、……、……あんた、怖くなかったですか」
「怖い、」
バラッドの話の芯がわからず、彼は鸚鵡返(おうむがえ)した。寝るのが怖いというのは、どういうことだろうと思ったからだ。返すと、男は余計にぐしゃぐしゃと赤髪をかき回す。
その苛立ちが、やり場のない怯えに見えて、グシュナサフは眉を寄せた。
「自分の女の胎に、子ができた、と聞いたとき、あんたは喜べたんですか」
「俺は――……、そうだな、とても嬉しかったが」
頷き答えながら、彼は、子ができた、と気恥ずかしそうに告げた妻の顔を思い出した。気恥ずかしそうにしているのに、妻の全身から喜びがあふれていた。そうかと頷いた彼の胸にも、じわりとどうしようもなく温かなものが滲みだしたことも、重ねて思いだした。
そうして目の前の陰鬱なバラッドに視線を戻す。
戻し、グシュナサフは彼の不安に唐突に思いあたる。思いあたると次々に、なるほどそうか、と納得がつながり、最後にもやもやとやるせない気持ちになった。
「バラッド」
「なんです。急に名を呼ばんでくださいよ」
「お前は、……。ようやくわかった。中ててやろうか。お前は、『彼女』のことを思い出してるんだな」
気をあらためて呼ぶと、四本目に火を点けた男の方がぴくりと揺れた。黙りこくって二、三度煙を吐きだし、けれど平静を装おうとする指が、細かく震えている。
「……思いだしてますよ。言ったでしょう。とり憑いてるって」
互いに口を閉ざし、相手の思惑をうかがうような時間が長いあいだ流れた後、根負けしたバラッドの方が、口を開いた。
疲れた、弱弱しい声だった。
「あれは自分を恨んでます。恨んで怨んで死んだはずだ」
「……お前にどうしようもなかったろう。あれは、事故だ」
暗く重い気持ちに同調しながら、グシュナサフは呟いた。
あれは手立てのない事故だった。そう思い、それでもすっきりとしない気持ちのまま、うやむやにそのあと何十年も、彼も自分も生きてきている。