彼とグシュナサフがまだだいぶ若造だった頃、バラッドに持ち上がった見合い話があった。彼の直属の上司からの仲人世話だった。むげに断ることもできなかっただろう。

 それでも、なんとなく、バラッドは断るのじゃないかなとグシュナサフは思っていた。赤い頭にひどく劣等感を持っていたし、ミランシアはわりとマシだったとはいえ、偏見の目はないとはやはり言えなかった。そうして毎夜飲み歩く彼の生活様相は、決して家庭的とは言えなかった。

 女と見れば声をかけ、同じ寝台では二度寝ない、だとか豪語して、とっかえひっかえ、あちらこちらをふらふらと遊び歩き、だのに虚ろで無気力な男だった。

 病気にかかって死ななかったのが、不思議なくらいだ。

 根っからの根無し草な男だった。ひととのかかわりがみょうに希薄で、表面だけをなぞって猿真似しているようなところがあった。

 たぶん、「誰かを愛おしむ」、という大事な部分が、本当のところ判っていなかったのだとグシュナサフは思う。

 自分が無条件に愛されたことがない人間は、そのやり方が判らない。想像はできても、実感として持っていないからだ。

 

 その彼が、どういう心境の変化か、上司の勧めたままに所帯を持った。

 興味本位だったのか、断り切れなかったのか、それともどうでもよかったのか、それは判らない。

 所帯を持った、けれど。

 傍目から見ても、バラッドの結婚生活は決して良いものとは言えなかった。

 嫁に迎えた女が、地味で小言を言わないのをいいことに、彼は結婚前と変わらず、酌婦にしなだれ、飲み明かし、情婦の部屋に転がり込んだ。家にはさっぱり戻っていない様子だった。

 新妻は黙って家で待っていたはずだ。

 見かねて同僚の騎士が、お前嫁さんほうっておいていいのか、だとか窘(たしな)めたこともあったけれど、肩をすくめてすこし酷薄な顔になって、別にかまわないんです、と返されるのがオチだった。

 ――家にいると息が詰まるんでね。

 そうして召集がかかると、楽器を抱え、さっさと戦場へ出かけてしまう。

 だから、そんな彼から妻に子ができたようだと打ち明けられたとき、グシュナサフは少なからず驚いた。夫婦の営みがあったことが意外だった。

 告げた彼の顔はさえなかった。正常な育ちをしていないのだと言った。

 医術に明るくないグシュナサフは、いくら説明を聞いても理解できなかったにちがいないが、胎児がいるべきところにいないらしいと彼は言った。

 そうして、母体を危険にさらしているとも。

 そうか、と自分は言ったはずだ。そうとしか返事のしようがなかった。

 戦場から、身重の妻の様子を見にいったん家に顔を出し、そうしてすぐにとんぼ返りしたバラッドの顔は妙にこわばっていて、グシュナサフは黙って酒袋を差し出した。

 いかんのだろうな、とただそれだけを思った。

 

 いくらかして胎の中で子は死に、追ってその母も亡くなった。

 訃報を受け、やけくそに陽気に楽器をかき鳴らし、おべっかを言っては酒を受け取り、へらへら笑う彼の目は昏(くら)かった。しとどに酔い、馬糞まみれの藁に倒れ込み、があがあと高いびきをかいて寝た裏で、声もたてずに泣いていたことも知っている。

 だが、それに気づいたものはグシュナサフよりほかにはいなかったはずだ。

 

 ……ああ、今と同じなのだな。ふと思う。荒(すさ)み方が似ている。

 幸せにしてやれなかった女のことを、バラッドは思いだしていたのだろう。

 

 

「悔いているのか」

「……いっそあんた、自分のことを人非人と罵ってくれてもいいですけどね、それが、さっぱり悔いていないんです。悔いてない。……だから怖い。大事にしてやれなかった。それなら彼女を忘れないようにしよう、じゃあないんです。なかったことにした。所帯を持って、人間ひとり不幸にしたことは申し訳ないと思います。俺は持つべきじゃなかった。彼女はただの被害者です。でも、それだけなんです。好きじゃなかった。そうして忘れようと思ったし、実際、しばらくしたらそこまで思いださなくなったんです」

 その後もいろいろありましたしね、もう別の物語のように思っていたんですよ。彼はつづけた。

「大切にできなかったばかりか、死に目にすら会わなかった俺のことを、彼女は怨んでいると思います。……怨んでいると思うし、それでいいと思う。怨まれて当然のことを俺はしました」

 そこまで一気に吐き出して、それからバラッドは顔をしかめ、あー駄目だ、とぼやき、煙草を敷石に押し付ける。

「また出そう」

 胸ぐらを掴み、よたよたと再び草むらへ向かう彼の後姿を見送りながら、今しがた押し付けて行った彼の吸い殻の横へ、根元まで吸いきった吸い殻をグシュナサフは抛(ほう)った。

 

 先ごろよりもだいぶん時間をかけて、死にそうな顔になったバラッドが戻ってくる。

「……あったま痛ぇ」

 こめかみをぐりぐりと揉みながら呻いている。自業自得だ。しようがない。

 もう一度、噴水に顔を寄せ、掬った水でうがいしてから、……あこれ噴水か、そこでようやく気がついたように彼は呟いた。

 上着の裾で手を拭い、新しく一本咥えて、

「ええと、なに話してたんでしたっけ」

 焦点があっていないような瞳で、グシュナサフを振り仰ぐ。

「姫に子ができたら、お前は怖くてハゲるという話」

「ええ……、……俺、そんなこと言いました?いやだなあ、勝手に俺の気持ち読んじゃあ……、……、まあ、間違っちゃいませんが」

 煙草を咥えたまま、火を点けずに彼はがっくりとうなだれた。

「くり返して、あんたの精神ごりごり削るようで悪いですけどね。俺、姫と寝たでしょう。その時点でも、わりとごちゃごちゃ考えてたんで、これ、ひょっとすると、萎え萎えで役に立たないんじゃないかって思ってたんですけど。……現金なものでね。愚息は普通に起ちました」

「……、」

 口を開けば罵倒になりそうだったので、鼻から煙を出してグシュナサフは答えとする。

 うなだれたまま、くぐもった声で男はつづけた。

「姫がね。それをのぞんでいたのはもう前から判ってたんですけど……、……。うぬぼれじゃなくて、……あんただって判るでしょ、そういう、そわそわした雰囲気というか。ああ、なんか触られたいんだな、みたいな。そういうやつ。……判ってたんですけど、俺、ずっと鈍いふりで通してたんです。のらくら言い逃れて、添い寝でごまかして、……けど、誤魔化しきれない崖っぷちまで追いつめられて、進退窮まりました。抱いてくれって直球で来られて……、もう、断ったら、あのひとが傷つくしかない状況だった。だから抱こうと思った。正直、童貞捨てるときより無茶苦茶緊張しました」

 童貞、の言葉に、グシュナサフは思わず、皮ズボンをはいた彼の股間へ目をやる。

「なんです、俺のタマ取る算段ですか」

「いや。……ゆるい下半身のお前にも、思えば初めてというものがあったんだなと感心した」

「はあ。売られた宿でね。もの知らずの少年に、教え込むのが好きな、ご婦人方は一定数いたんですよ。生娘ほどじゃないにしろ、初物はそれだけで商品価値だからって……、いろいろ手ほどきを受けました」

 はは、と乾いた笑いを上げて、バラッドは顔を上げた。

「……腰を振りながら、怖くて怖くて仕方がなかったですよ。今日か、それでなくても次か、ひと月先か、三年先か、とにかく、こうしたことをくり返していたら、きっと子ができるに違いないんです。だってあれ、生殖行為でしょう。生殖行為ですよね?……人間だから、快楽に重きを置いてますけど、動物だったらもっとシンプルなはずです。子孫を残すためにやるんです。――あれに恨まれている自分は、きっと同じ報いが待っている」

「報い、」

「――……姫の胎の、おかしな位置に、胎児が引っかかる」

「……、」

 見上げてくる緑の瞳が丸い。それは怯えをはらんで真剣だった。

「因果応報っていうでしょう。やったことは必ず返ってくる。子ができたと言われたって、自分はとても喜べない」

「……、」

「……でも、こんなこと、幸せそうにすり寄ってくる新婚の妻に言えますか?言えませんよ。打ち明けられたとして、あのひとは何て返せばいいんです?――過去の話は、彼女には全く関係ない話だ。すべての原因は俺なんだから、俺だけが罰を受ければいい。そうでしょう?喜びも悲しみも、夫婦は分かち合うものだとか言いますけどね、そりゃ夫婦になってからのことで、『これ』は、墓の下まで、俺が持って行く問題です。なんでもかんでもさらけだしゃあいいってもんでもない」

「まあ、そうだな」

 低く同意して、ふと、グシュナサフはお前、と続けた。

「ララは、」

「……ララ?」

 急に出た別の名前に、怪訝な顔になって男が首をかしげた。

「あいつはこないだまで胎に子が入っていただろう。身近な女が身重になっても、お前、怖くはなかったのか」

「怖がってどうします、」

 何を聞かれているのか判らない、そんな様子で鼻に皺を寄せ、男は眉を上げてみせた。

「ララは、だって、あんたの奥さんでしょ?ですよね?ものすごくひどいことを言うと、彼女の生死は俺には関係ない話です。……そりゃね、知ってる身内がなくなったら泣くと思います。悲しいですよ。悲しいですが……、でも、半身を捥(も)がれる絶望があるわけじゃない」

 ああこれ咥えているだけで不味い、顔をしかめて男はやにわに加えた一本に火を点ける。火を点け、まずそうな顔のまま、煙を宙に吐き出した。

 そのまま、またしばらく互いに口を閉ざす。

 また数本、いらいらと吸いつぶしたバラッドが、くそ、と赤毛をかき上げ、

「姫に圧し掛かりながら、俺、これだけ怖いのに、なんでこんなことしてるんだろうって思って……、男なんて結局、タネまくだけでしょう。子を宿すのも、ふくれた腹抱えて十月十日頑張るのも、産み落とす痛みも苦しみも、全部女の側だって。あほですけど、それに初めて気がついたんです。……そうして、店で飲んでたらね。おかしな育ちをしていたあのとき、あれが、ものすごい顔をして必ず産みます、って言ったのをなぜか思い出しました。鬼気迫るっていうんですか。あんなに静かで恐ろしい顔、俺は、それまでもそれからも、戦場ですらお目にかかったことがないです。あれはもう、自分が死ぬのが判ってた顔でした。あんなに壮絶なのに、そこにはもう、俺への怒りだとか、そんなものは浮かんでいなかった。墓石のように灰色で、静かでね。……姫が、そうなるかもしれないって考えたら、俺、もうわけわからなくなって」

「悲観すぎだろう」

 

「――可能性はゼロじゃないでしょうが!」

 

 呆れてなだめようとしたグシュナサフに向かって、急に爆発しバラッドは怒鳴った。完全に八つ当たりだ。彼にもきっとわかっている。

「じゃあどうします?打ち明ける?無駄だ。……手を出すのをやめる?そうしたら、なにがあったのかって聞かれますよね?……八方ふさがりなんですよ。ちょっと詳しくは言えないが、俺の一方的な理由であなたが心配だから、今後は一切抱きません、清く、正しい生活にしましょうとでも言ったらいいですか?」

「お前の問題だ。お前の恐怖は、お前が消化するしかない」

 淡々と返すグシュナサフの言葉に、破裂した怒気はまたすぐにしゅんと萎み、彼は肩を落とす。

 何度も口を開いては閉じ、そうしてようやく、

「……すいません。あんたに怒鳴ったってどうなるわけでもないのは判っているんですが」

 ぽつんとくたびれた声で呟いた。

「いや、」

 ゆるゆるとグシュナサフは首を振り、それからもう一本くれ、と低く催促する。乞われて、彼は新しい煙草を出そうと懐をまさぐり、

 

「……あれ、」

 まさぐった手が一瞬止まり、それから急に上着のあちこちを押さえ、……あれ。ない。やさぐれた顔から一転焦った顔になって、あたりを見回しはじめた。

「……煙草がきれたか」

「いや、ちがう。そうじゃなくて、……。あれ。おかしいな、家を出るときはあって……、」

「なにが」

「……、」

 なにが、の声には答えずに、縁石に手をかけ立ち上がると、今度は尻の下や足元を見まわし、落ち着かない視線できょろきょろもう一度周囲を見回した。

「煙管……は、置いてきたと言っていたな。金入れでも落としたか」

「……いや、煙管でも財布でもなくて……、」

 心ここにあらずで呟いて、先ごろ這って言った草むらの方へ、まだすこしおぼつかない足取りで探しに向かう。

「なにを落とした」

「……いや……、たいしたものじゃ……。あれ……、……ない。やっぱない。……すいません、ちょっと俺、店まで戻ります」

「おい、」

 足下あやしく、ふらふらと歩きだした長身の背中を一瞬見送りかけ、このままほうっておくわけにもやはり行かないのだろうな、大きくため息をついてグシュナサフも重い腰をあげた。

 

 

「で、一体何を落とした」

 店から噴水まで抱えて行ったのはグシュナサフだ。通った道も彼しか知らない。

 きっとさかさまに引っくり返して運んでいったから、懐からこぼれ落ちたんだろうな。そう思い、バラッドが探しているものがなにか判らないままに、グシュナサフは彼の背後から声をかけた。

「いやあ……、なんていうかね、たいしたことないものなんですけど」

 たいしたことはない、そう言いながら道に落とす目が真剣すぎて、まるで言葉とそぐわない。ふうん、と頷いて見せると、

「その、ちょっとしたお守り?……みたいな?」

 やはり気の入らない声で返しながら、不意に顔をあげ、通った道はどこです、と男はたずねた。

「こっちだ」

 先に立って歩きながら、お守りな、聞き覚えがまるでない言葉に首をひねる。

「お前、そんなに信心してたか」

 昔から今まで、きょときょとあたりへ目を散らす男が、神に跪(ひざまず)く姿をグシュナサフは見たことがない。極限状態になりやすい戦場で、祈りの言葉を唱えている姿すら記憶にない。

 言うと、

「いや、べつに、……神さまのお守りってわけじゃないんですよ。……ただ自分にはお守りがわりだったってだけで」

 お守りがわりだった、言いながらふと向こうの方に投げた視線のまま、あ、とバラッドが口を開けて固まった。

 

 四辻のひとつに、子連れの流れものがうずくまって休んでいる。身なりの小汚さからすると、宿に泊まる金もろくろく懐にない連中だ。

 バラッドの視線は、うずくまった親の隣に立つ、垢じみた幼い子供に止まっていた。

 つられてグシュナサフも子供に目をやる。少女だ。ぼうぼうに伸びた頭に、白い飾りが一輪ついている。

 端切れで作った花飾りのようだった。

 視線を感じたのか、それとももともと近づく足音に気づいていたのか、少女は寝ているのか動かない大人から離れ、慣れた様子でグシュナサフらに近寄り、その小さい手をひょいと差し出し、おあしちょうだい、とたどたどしい言葉で呟いた。

 発音しなれていない。どこか別の国から来たのかもしれない。

 懐を探ろうとして、ああ、とグシュナサフは嘆息する。バラッドの飲み代を肩代わりして払ってきてしまった。金入れはからだ。

 同じように懐を探ったバラッドは、銅貨を三枚、小さな手のひらに乗せると、

「素敵な花飾りですねえ」

 しゃがみ込んで少女と視線の高さを合わせる。ぎこちなくほほ笑んだその顔へ、グシュナサフはちらと目を向けた。

「さっき、ひろったの」

「……そう、」

 伸ばした手でよしよしと子供の頭を撫でてやる。鳥の巣頭の彼女の毛の色は赤だった。

「よい拾いものをしましたね。赤によく似合う」

 褒められて、少女の顔にぱっと喜色が広がる。

 じゃあね、と手を振り、貰った銅貨を握りしめ、親の元に駆け戻る子供にくるりと背を向け、

「さあ帰りましょう」

「お前、」

 もと来た道をさっさと戻ろうとする彼に、慌ててグシュナサフは隣に並び、声をかけた。

「探しもの」

「見つかりました。見つかったというか……、たった今なくしたというか」

「……それは、今の子供の、」

「似合ってて、可愛かったですね」

 ぐすん、と洟をすする音で、グシュナサフは気がついた。同僚は泣いている。

「……お前、」

 みっともなくべそをかく姿に、呆れた声が出た。大の男が、端切れの花飾りごときで。そう言う思いもあったし、それから、

「……今のあれ、……、……、もしかして、もうずっと前にお前が姫から貰ったやつか。……まだこちらへ渡る前の」

「記憶ちがいでしょう。俺がそんな物持ちがいい人間だと思います、?」

 心当たりがたしかにあってグシュナサフが呟くと、ぶっきらぼうに突き放す口調で彼がこたえた。

「姫がたしかお前に歌をねだって、……お前が歌ってやるから何かよこせって……、」

「やめてくださいよ。そんな昔の話」

 ぴしゃりと会話を終わらせる否定に、確信に変わる。

 手の甲で乱暴に頬をぬぐいながら、バラッドは言った。

「俺はたしかに落とし物をしましたけど、それは今の花の飾りなんかじゃあない。もっと些細なものです。あの飾りはあの子が拾った、あの子のものですよ」

「……返してくれと、」

「言えませんよ。あんなに嬉しそうなのに」

 険しい目になって男が呟く。痩せ我慢にもほどがあると思い、グシュナサフはため息をついた。

「じゃあ、すっぱり諦めろ」

「諦めます。諦めますよ。そんなの判ってる。……、……でもね。俺、あれがあったから、怪我が治るまでの一年、小屋でひとり転がっていても耐えれたというか、頑張れたというか……、……。形見みたいに思ってね。大事だったのになあ。なんだろう。なんかむちゃくちゃ悲しいなあ」

「未練たらたらじゃねぇか」

 こういうのを踏んだり蹴ったりと言うのだろうか。グシュナサフは思った。ちがう気もする。

「……まあとにかく、間が悪かったな、としか言いようがないが」

 一応慰めた方がいいのだろうな。そう思い、ぽんと彼の肩を叩き、飲み屋へと誘いかけた。こういう場合は結局、痛飲するしかない。解決できるものではないからだ。

ところが誘おうとしてふと、おのれの金入れが軽いことを思い出した。

 またため息が出る。今日何度目かもう判らない。

「すまん、飲んで付き合ってやろうと思ったが、まるで金がなかった」

 というか、いま目の前でしょぼくれている男のために、さっき店ですべて払ってしまったのだが。

 言うと、ええ、と非難めいた声を出して、恨めしそうにバラッドがグシュナサフへ目をやった。

「こういう時こそもつべきものは友、というか、もつべきものはずっしりとした財布を持った友、じゃあないですか」

「よく判らん言葉を作るな。あと俺はさっきも言ったが、お前の友になったつもりはない」

 一緒に痛くて長年連れ添ったわけでもない。ただ、腐れ縁で別れたいのに別れられないというのが、一番正しいのだろうと思う。

「それに、俺がないのなら、お前が出すのがスジってもんだろ」

「はあ。それが、俺も今あの可愛い子ちゃんに渡したので最後の最後、すっからかんで」

「……、」

 互いに情けない顔を見合わせ、同時に息を吐く。

「じゃあ歌え」

 バラッドは歌うたいだ。笛のひとつもあれば、夜通しやっている酒場に顔を出し、歌って飲み賃を稼ぐ、という方法もないではないし、以前もそれでまかなったときもあった。

「本領だろ」

「無理。もう全然無理。歌える気がしない」

 グシュナサフの視線の意味を理解した彼が、首を振ってこたえる。

「俺いま口ひらいたら、ゲロ吐くか、泣くか、どっちかだと思います」

 嘆きの歌じゃあ金は稼げませんしねぇ。肩を落として呟く姿がいっそ哀れだ。

「じゃあ、家に戻るしかないが」

「……あんたの家?」

「……、」

 聞かれて一瞬グシュナサフは言葉に詰まった。

 ここで彼と別れて、自分だけさっさと自宅へ戻ったらどうなるのだろう。無精ひげの伸びた顎を撫ぜて考えたが、どう好意的な目で見積もっても、このままやさぐれて、女のところへ転がり込む姿しか思い描くことができない。

 彼がひとりで朝を迎えるとは到底思えなかった。

「……ああ、こういうとき、保護者ってのは厄介だな」

 勝手にしろと放流するには、コロカントの姿がちらついてしまうからだ。

「……うちに来るか?」

 赤ん坊を抱えた妻は、酒とヤニと反吐のにおいがぷんぷんとする酔っ払いの男ふたりを、はたして家に入れてくれるだろうか。想像して渋面になった。

「……、……、……入れるか正直わからんが」

 最悪軒下で朝を迎えることになるだろう。

 なんだか自分まで落ち込みそうだ。いったいどうして平和で何ごともなかった今日の締めくくりが、こんなふうになってしまったのだろうとグシュナサフはちょっぴり悲しく思った。

 そうしてまだ酒が抜けずゆらゆらと上半身を揺らす同僚を眺めながら、こいつに関わると相変わらずろくでもないことばかりおこるな、と半ばあきらめながら思った。

 

 

 貧民街区から抜け、自宅のある商業区の裏路地に入る。

 先ごろまでは自分の足で歩いていたくせに、もうむり歩けない抱っこして、だとかふざけた世迷言を抜かし、もたれかかってくるバラッドを蹴りたて肩を貸しての帰宅だったので、いつもより倍以上の時間がかかった。

 本気で何度捨てて行こうかと思ったか判らない。

 捨てたほうが楽なのは判っている。そのあたりに転がしたところで、そうそうもめ事に巻き込まれることもないだろう。女子供ならともかく、すかんぴんの中年男にわざわざちょっかいを出すものもいない。

 なのに、捨てよう、捨てようと心をかためるたびに、コロカントの悲しそうな顔がちらついた。その都度思い直し、抱え直し、引き立てて歩いた。

 勲章ものだと思う。誰からも褒めてもらえないが。

 自分の甘っちょろさに涙が出る思いだ。

 

 あと角をひとつ曲がると我が家、のところで、ふと、細く長く声が聞こえた気がして、グシュナサフはおやと顔を上げた。

 ……こんな夜更けに。

 高い、女の声だ。だが聞きなれた妻の声ではなかった。そもそもこんな夜中に起きているはずもない。

 子守唄かな。

 同じく聞きつけたのか、隣を歩く男の肩がびくんと揺れた。それからのろのろと彼も顔を上げる。

「なんだ。吐くならどこか道の端の方で、」

「いえ、そうじゃなくて」

 この歌。耳を澄ますようにしてバラッドが口をちいさく開く。

 

 ――さがしてもさがしても、……、……あのひとが見つかりません。

 

 声は歌う。歌詞にこめられた内容に沿った、切々とした歌いかたではなく、やさしい、言い含め、聞かせるような穏やかなハミングだ。

 

 ――わたしのひと、……、あのひとはどこに……いらっしゃるのでしょう。

 ――わたしはめっぽうさびしくて、……だのにとても幸せです。

 

 グシュナサフにも聞き覚えのある旋律(メロディ)だ。この四年、少女がよく手慰みに弦をつま弾いて歌っていたことのある歌だった。

 そうして少女が覚えたのは、隣の男が手持無沙汰の時に口遊(くちずさ)んでいたからだ。

「……それはきっと、」

 夢うつつの口ぶりで、隣の男が肩から離れたので、自然グシュナサフは彼を見送る形になった。次いで、しまったなと臍(ほぞ)を噛む。

 見なければよかった。路地裏にまで差し込む今夜の星明りがうらめしい。

 悪縁、腐れ縁の同僚の、こんなかなしい顔を見る日が来るとは思わなかったし、見たいとも思わなかった。

 

 ――それはきっとわたしが、

 

 壁に寄りかかり、すがるようにしながら、バラッドが声に引かれるように足を進め、低く歌う。か細く流れる女の声をかき消すことを恐れるような歌い方だった。

 角で立ち止まり、彼がちいさく笑う。ちょうど曲がり角だったので、グシュナサフからは見えてしまったのだ。

 はかない、胸が痛くなるほどのやさしい微笑だった。

 

「それはきっとわたしが――、はじめてひとを愛したからでしょう」

 

 くり返すハミングにかぶせた男の声に、ちいさく飛びあがるようにして驚いて、コロカントが振り返った。ふたつに結んだ長いお下げ髪までが、ぴょんと跳ねる。

「まあ。驚いた。……バラッド、」

 続けて何か口にしようとし、彼女は僅かためらう。佇む彼をじっと見つめ、それからかすかに首をかしげた。

 腕に小さな布包みを抱えていた。赤ん坊だ。近づいてグシュナサフは気がつく。

「あやしてくれていたのか」

「……おかえりなさい」

 先に近寄ったグシュナサフに顔を向け、少女がほほ笑む。腕の中で赤ん坊はまん丸な目を見開いて、彼女と、それから父親とを見比べていた。

「夜更かしとは悪いやつだな」

「ずっといい子だったんですよ。……でも、さっき急にむずかって……、お乳はたっぷり飲んだばかりし、お尻も濡れてないんですけれど。ララさん、寝不足だって言ってたから、……代わりに」

 よかったですね。ほら、お父さまが帰ってきましたよ。

 まだ言葉も理解しない赤ん坊に彼女はそう言って笑いかけ、どうぞ、とグシュナサフに差し出す。

「わあ、赤ちゃん」

 自分まだ見てないんですよね。見せて見せて。

 先ごろの赤ん坊がいやだのなんだの八つ当たった独白はどこへやら、明るくおどけた口調でバラッドは近寄り、グシュナサフの代わりに赤ん坊を覗きこもうとした。いつもの、周りに道化じみた壁のある状態の彼だ。

 ところが一、二歩進んだ彼へ、

「だめですよ」

 ぴしゃりとした口調でコロカントが待ったをかける。

「バラッドはこっちへ来てはだめ。ここからでも、すごいにおいです。……お酒が過ぎたひとは近づいちゃだめですよ」

「……えええぇぇ姫ぇぇ」

「めぇめぇ羊かヤギかお前は」

 情けない声をあげる男からコロカントはいったん目を離し、グシュナサフの腕へ赤ん坊をしっかりゆずり渡す。

「お願いしますね」

 そうしてようやく彼女は男の方を振り返ると、今度は迷いなしに近づいた。

「え、……ひ、め、」

 急にずいと来られて、一瞬どう対応してよいものやら悩んだらしい男が、片眉を上げ、丸めていた背をやや伸ばし気味にしてのけ反る。

 抱き寄せていいのかな、でも抱きついたら確実に汚すし、においが付くから近づかないでほしいという葛藤が見て取れた。

 わかりやすい男だなと思う。

 移ろ気で、あいまいで、その真意はわかりにくい。けれどコロカントに限っては、わかりやすい男なのだ。

「……あの、」

 

「……困りましたねぇ」

 

 とまどい、おどおどとする彼の真ん前に立ったコロカントは、もう一度首をかしげ、よだれだか反吐だか涙だかでべたべたにもつれた彼の赤毛に手を伸ばし、その先を彼の耳にかけ、顔をあらわにする。

「ちょ、姫、汚れます」

 離れて眺めているグシュナサフの方からは、ちょうど男の側が陰になっていて、コロカントの表情だけがよく見える。いつくしむ顔だな、と彼は思った。

 彼の妻が、我が子に向けるものと同じものだ。

 ぶどう色の目がじっと男に注がれて、そうして不思議に揺らめいている。

「ここにもひとり、泣いている子供がいますね」

「……、」

 相当飲んだのだ、体力としてはとっくに限界だったのだろう。それまでなんとか突っ張っていた膝がかくんと折れ、たまらずバラッドが地面に崩れる。ぺしゃ、とつぶれるような座り方だった。

「陽気な歌をたくさん歌って、にぎやかな音楽をかき鳴らして」

うなだれるその彼の頭に手を差し込み、指にやわらかな赤毛を絡ませて半分いさめる口調でコロカントは言った。

「わたしに言えない何かで苦しんで、あなた泣いているんでしょう」

 自分の胸に抱き寄せて、よしよしとコロカントは男の髪を撫ぜる。

「隠れて泣いて。わたしの前では平気なふりをして。男の方は大変ですねぇ」

「……わかるんですか」

 ぽつりと男が漏らしたのは、そんな言葉だ。

「わかりますよ。わたしはバラッドよりずっと子供でもの知らずですけど……でも、女です」

「そうですね。……そうですね……、……、」

 はは、と乾いた笑いをこぼしたバラッドは、ぺたんと座り込んだまま、押し黙ってもう何も言わない。

 戸口で彼らを眺めていたグシュナサフは、大人しく撫でられる彼を見ていてもこれ以上無意味だと、家に入ることにした。

 後々、なんで見ていたんですだとかでからまれるのも面倒くさい。

 そうしてちら、と腕の中に目を落とし、苦笑する。

 腕の中の赤ん坊は、いつの間にか勝手に眠っていた。

 

 

 

最終更新:2020年03月20日 00:14