最近、コロカントには、バラッドの様子が以前よりすこし変わってきたように思えるときがある。

 それはたしかにここ、とは言えない些細な瞬間だったりするのだけれど、前よりも雰囲気がやわらかくなったというか、周囲に張り巡らせたこわばりがわずかにほぐれたというか、側にいる彼女だからこそ気付いたといえる、ほんのすこしの変化だ。

 

「もらったんです。食いますか」

 

 きれいな小石を見つけた子供のような顔で、にこにこしながらバラッドが言った。仕事先から両腕にかかえきれないほど、大ぶりの桃を持って戻ったのだ。

 大人の握りこぶしよりまだ大きい。まあ、と心底驚いて、コロカントは目を見張る。拭きあげていた皿の手が止まっていた。

「とても立派ですね。……これ、こんな大きいの、本当に桃なんですか」

 大陸が違えば植生も変わる。桃に似たなにか別の果物なのじゃないかと彼女は目を疑った。

「桃ですよ。ほら、今日、お祝いごとだって言ったでしょう。ものすごーく儲かってる商家さんの結婚式でね。もう、お祝いのテーブルに、見たこともないようなごちそう山盛りいっぱいあるの。いやあ、金って本当にあるところにはあるものですねぇ。感心しました。どうせ食いきれないから持って帰っていい、って太っ腹なこと言われたんで、それじゃ遠慮なく、って。これだけもらったって、まだまだ、たくさんあったんですよう。手提げでも持って行けばよかった」

 お手当もはずんでもらえたんですよ、嬉しいなあ。

 バラッドは歌うたいだ。今日は羽振りのいい家の祝いごとに呼ばれていると彼が仕事に向かう前に言っていた。おそらく、二次、三次会まで付き合ってにぎやかに楽器をかき鳴らしてくるから、遅くなるとも。

 すでに日をまたいでいる。今日に限らず、帰りが遅くなる時々は酒場の上で休むこともあった。もともと、バラッドが転がり込んで居候していた、あの二階の部屋だ。

 鼻歌まじり、上機嫌でひとつふたつ、カウンターの向こうで片づけの最後の仕上げに雑巾を洗って絞る、店主にも、バラッドは桃を抛(ほう)った。

「おい、桃を投げるな」

 しかめ面になりながら、それでもなんなく受け取って、それから絞った雑巾をカウンター下に広げて干すと、

「お前さんたち、今日は泊りだろう」

 鍵を差し出しながら主人はたしかめる。

「ええ、もう遅いですし……、木戸も閉まってますから」

 主人の言葉を受けて、バラッドが頷く。

 

 ここ、イツハァクの町は広い。町ひとつの単位で治安を守ることは困難だ。だったから、区画ごとに木戸があり、深更を過ぎると移動の制限があった。

 制限と言っても、通行許可証をもっていればもちろん、有事ではないので、その規制はゆるい。不寝番が顔なじみなら挨拶ひとつで簡単に通してもらえるし、実際、バラッドは今日そうして結婚式の合った区画からこの店に戻ってきている。

 ほとんど形だけ残っているものだ。

 だが、形式上のものでも、町の外へ出るとなるとコロカントとふたりでいくつかの木戸を通ることになるし、そのたびに不寝番をたずね、木戸の掛け金を開け、とわりと立ち止まることも多い。時間もかかる。泊まってしまった方が面倒は少ない。

 

「壁中に住めば、楽だと思うんだが」

「あすこが愛の巣なんですよぅ」

「……余計なお世話だったな」

 祝い酒を勧められるまま飲んできたのだろう。うふふ、と臆面(おくめん)もなくのろけるバラッドに、肩をひとつすくめて店主の男は返し、

「先に上がるぞ」

「おやすみなさい」

 首をごきごきと回し、前掛けの紐をほどくと椅子の背にかけ、おつかれさんと最後に言い残して、店から出て行った。

 

 それを見るともなしにふたりで見送って、それからバラッドへ目を戻すと、目が合った彼がまたにっこりする。

 なんだかとても楽しそうだった。つられてコロカントも笑いかえすと、姫、桃好きでしょう、とカウンター席に腰かけた男が、残りの桃をひとつひとつ丁寧に卓上に並べて言った。

「これ見てから、もう頭の中、どうやってもらって持って帰ろうかってそれっばかりになって。献上用とでもいうんですか。御用達っていうか。……こんなの、探したって市場じゃあ売ってないですし、この大きさは絶対、話じゃなくて持って帰って見せてあげたいなあって」

 自分が食べたかったというよりは、コロカントに食べさせたかったらしい。

 そうして皿を片付け終わった彼女を横に招き、招かれるままに隣に座ると、赤い頭の上にかぶっていた花冠をはい、と差し出して見せる。

 白とうす黄緑の花で作られた冠だ。

「花嫁さんから」

「……わたしに?」

 もう一度目を丸くしていると、花冠はバラッドの手から彼女の頭へとおさまった。そうして、

「うん、やっぱいい」

 ひとりで悦に入っている。これも戦利品だったらしい。

「これは……、」

「これですね、二次会でどんちゃんしてるときに、花嫁さんとすこし話したんですよ。若い花嫁さんでね。年を聞いたら、十七だって言うじゃないですか。……それで、自分にも若くて可愛い嫁さんいるんだあって自慢したら、幸せのおすそわけねって」

 もらいました。

 得意そうな顔だ。片頬杖をついてコロカントを見る目がやさしく蕩けている。

「絶対似合うと思ったんですよ。……考えてみれば、姫と一緒になったって言っても同じ家に住むようになっただけで、贈り物ひとつしたわけじゃあないでしょう。毎日せっせと町へ通って、お互いの職場に出て。……それはそれで平々凡々な、穏やかでいい毎日かもしれないですけど、……でも、なにかお祝いしてもいいのかなって」

「お祝いですか」

「そうそう。二、三日休みとってね。お泊りで出かけるとか」

「どこかに……、」

「ああ、遠出するって言ってるわけじゃないんですよ。考えてみりゃ、この町だってたいそう広いわりに、出入りする場所は限られてて、行ったことのない区画も多いでしょう。そういうところにふたりでお出かけとかね。探検みたいでしょう。どうです、」

「――いいですね」

 聞いているだけでコロカントの方までわくわくしてくる。なにしろ男が楽しそうだ。

 同意すると、じゃあああしてこうして、だとか彼がぶつぶつ呟いている。

「バラッド、?」

「いや、いろいろ下調べして……、旅行プランっていうんですか。自分企画してもいいですか」

「ええ、はい、」

 どこか行きたいところが決まっていそうだ。もしかすると、今日の宴席でなにか聞きこんできたのかもしれない。

 さっぱり見当もつかないが、彼女に異論はない。バラッドに任せることにした。

 

 それからあらためてカウンターに向き直り、桃の芳香に魅入られるようにひとつ手に取る。鼻を寄せてにおいを嗅ぐ。濃密な香りが胸いっぱいに広がって、ほうと勝手にため息が漏れた。

「いいにおいでしょう」

「食べるのも好きですけど、……わたし、このにおいがとても好き。甘くて、幸せなにおい」

 そう言ってしばらく鼻をくっつけ、存分にすうすうと深呼吸していると、桃まけしないでくださいね、と隣から心配そうな声があがる。

「桃まけ」

 聞いたことのない言葉に、コロカントは首をかしげた。食べすぎて、口のまわりが痛くなったとか、そういうことだろうか。

 目を向けると、男はちょっと肩をすくめて言った。

「むかしね、なったんですよ、桃まけ。……まけって言うのかどうかは知りませんけど……、……自分ね、桃って言うのをだいぶ大きくなるまで食ったことがなかったんです。もちろんあるってことは知ってましたけど、自分の稼ぎじゃ高嶺の花でね。貧しかったですねぇ。森になってる野生のものもありますが、あれと、店先で売られているものじゃあ、もうまるきり、別の代物でしょう。でね、お客と同伴……じゃなくて、ええと、……得意先のお客と、一緒にごはん食べにいったときにですね、はじめて、桃ってものを買ってもらって」

 なんていいにおいがするんだろう。

 赤毛の少年は心底感動したそうだ。

「やわらかで、白くて薄い毛がぽやぽやたくさん生えててね。まるで赤ん坊の肌みたいだなあって。……肌みたいだなあって思って、食べるのがもったいなくて、その日、寝るまでずっと頬ずりしてたら、ほっぺたがかぶれました」

 ここ、とおのれの頬を指さして、バラッドがあほです、と笑う。どれだけ頬ずりしたのだろう。つられてコロカントもちょっと笑った。

 

「……でも、あのときの桃よりもずっと、姫はやわらかなんだよなあ」

 うっとりとした調子で、頬杖をついたまま男は彼女に手を伸ばした。すりすり指の背で撫ぜられたので、頬ずりしますか。ためしにコロカントは言った。

「え、」

「かぶれるかどうか」

「ふふ」

 こっちの方がいいです。

 言ってバラッドは彼女の顎を持ちあげ、つと引き寄せると、ちゅ、と軽く触れるだけの口づけをする。

「いいにおいがして、甘い」

 そんなことも言っている。

 もう、と半ばあきれて見せながら、コロカントは形だけ怒ってみせた。

「まだお店閉めてないでしょう」

 店の常連はこの時間にはもう来ない。とっくに寝入っている時間だ。

 けれど、たとえば主人がなにかを思い出して店に戻って来るとか、客がひょっと気を起こしてやって来る可能性もゼロではないと思った。

「見せつけちゃいましょう」

「なに言ってるんです。わたしはいやですよ」

 ほろ酔い気分でそんなことを言っているので、コロカントは彼に背を向けてもう一度桃の香りを吸い込んだ。

「やあ、期待されちゃあ、戸口閉めないわけにいかないなあ。……あ、姫は桃食っててくださいね」

 お前なに言ってんだ。

 ここにもし腐れ縁のグシュナサフがいたら、ものすごく厭な顔をしてそう言っただろう。

 うきうきと浮かれた足取りで施錠しにいったバラッドの背中を見送りながら、

「でも、こんなに大きいのに、食べてしまうのがもったいないです」

 両掌で玉をつつみながら彼女は言った。

「ずっと飾っておきたいくらい」

「もったいないけど、食わないと、どんどん味が抜けちゃいますからねぇ……、……」

 店じまいしはじめたバラッドを見ながら、いったいどうしたものかとコロカントはあらためて手の中の桃を見た。

 ずっとの立ち仕事を終えて、いくらか喉はかわいている。うまそうだった。ナイフでひと口大に切り分けて食べようか。でもきっと果汁が流れてしまって、それももったいない気もする。

 すこし行儀は悪いかもしれないけれど、見ているのはバラッドひとりだ。かぶりついてしまうことにした。

 薄皮をつまむと、熟れたそれはする、と果肉から難なくはがれてしまう。

 するするとまず半分をむいて、それから果肉をつぶさないよう、むいた半分をそっと押さえながら残りに取りかかった。

 引き寄せた木皿に置いて、汁でうっかりすべらないよう、慎重にむいていくと、あっという間に透明色の赤橙の皮はむけ切り、じゅんとした水気たっぷりの香りがいっそう立ちのぼる。

 いただきます、とちいさく彼女は呟いて、誰も見ていないのを幸い、あーんと口を開けると、大玉のそれにかぶりついた。

 たちまち鼻の奥まで桃の甘ったるくてさわやかなにおいでいっぱいになる。においだけで咽(むせ)かえりそうだ。

 

「うまいですか」

 正確にはひとり見ていて、夢中でかぶりつく彼女の隣に戻るとまた嬉しそうに眺めている。

「とっても」

 おいしいです、そう言いかけたコロカントの口の端から思わぬ一滴がつうと顎にしたたって、あ、と慌てて掌で拭おうとした彼女の手を男は素早くつかむと、

「俺はこっちを食います」

 べろんとその滴をなめとってにんまり笑った。

「バラッ……、」

「姫。動いちゃだめですよ。桃が落ちちゃいますからね」

 一言で彼女を押しとどめて、動けなくなったところを好き勝手にバラッドは伸ばした舌でなめていく。顎から頬にうつり、それから、かすかに震えている唇にもう一度口づけた。

 触れるだけだった先ごろのものとは違い、今度は口中にまで舌は入り込んで、それにくまなくなめまわされる。

「桃の味がします」

「バラッド、だめ、だめです」

「なんでですか。鍵はかけましたよ」

「桃が、」

 切羽詰まった制止をかけると、男が怪訝な顔をする。けれど彼女が言いきる前にするりとすべって、勢い思わず落としそうになった桃を、

「おっと」

 口づけながらも見越していたのか、差しだした皿で男はすくいとると、これで大丈夫ですね、とほくそ笑んだ。

「こっちも食わせてください」

「あ」

 器用に皿をカウンターへ置くと、彼は解放されたコロカントの手をそのまま口元へ持って行き、つい先ほど彼女がしたのと同じように口を開け、ぱくんと彼女の手指を食んだ。

 もちろん歯はたてない。

 男の口中はなまあたたかい。自分の指が舐めしゃぶられている感覚が妙になまなましくて、ぱっと彼女の頬に血がのぼる。なめられている側が手持無沙汰で、彼の動きを見下ろせてしまうのが、また問題だと思う。

 上目づかいで、すくいあげるようにこちらを眺めてくるのもたちが悪い。

 彼にならって見返していたら、茹だってしまいそうだ。

 慌てて目をそらすと、視界への暴力はなくなったけれど、その分、肌の感覚が過敏になって、よけいに状況が悪化したような気がするコロカントだ。

 果汁のついた手指を舐めていたバラッドの舌は、そのまま手首へと移動して、ゆっくりと腕を這いあがってくる。

 かかる息と舌使い、そうしてたどっていった後のひんやりとした感触に、ぞくぞくと肌が粟立って、知らずうすく開いていた口からかすかな息が漏れた。その息は熱い。

 ふ、とそれに吸い寄せられるように、彼の唇がまた戻り、むちゃくちゃに口づけられる。普段からコロカントより高い体温の男が、酒が入っている上に興奮して余計に熱い。不愉快なほどだ。

 ……ああ、食われてしまう。

 抵抗しようとして腕をわずかに突っ張ると、飲みこみきれない唾液がさっきの桃と同じように彼女の顎へ伝って、ますます動悸がはやくなった。

 ……こんなところで。

 もっときちんと抗いたいのに、頭がどうにもぼんやりしてうまく抗議の声をあげることができない。口づけの合間に、むずかるような声を漏らすことができただけだ。

 

 男の腕が彼女をゆっくりと押し倒し、カウンターに背が触れてようやくあ、と自分の状況に気がついて、せめて一言文句を言おうと口を開きかけたところに、男が再び口づける。その口づけと共に今度はなにかが口に押し込まれて、彼女は目を白黒させた。

 いつの間にか男がひと口、齧(かじ)りとった桃だ。

 生ぬるいそれが押し込まれ、飲みこめずに喘ぐと、男の舌でつつかれて、互いの口を行き来する。つぶさない程度に上に覆いかぶされて、桃の芳香と男の香油、そうして煙のにおいにくらくらとした。今日はひと口も飲んでいないのに、酔ってしまいそうだと思った。

 気付いたときには胸元がはだけられていた。さすが手なれていると言ってもいいのかどうか、彼女が悩む間もなく、バラッドがそのあらわになった乳房へ頬ずりする。

「やわらかいなぁ」

「……バ、」

「ここならいくら頬ずりしたってかぶれませんね」

 先ごろの桃まけの話を思い出したのだろう。男がくすくすと笑いながら、頬やら顎やらで胸のふくらみを刺激する。

 彼の整えた顎髭がさりさりと胸の頂をかすめて、ぴくんとコロカントの肩が揺れた。

「おや」

 男はそれを見逃がさない。

「……ここ?」

 同じ仕草をもう一度くりかえして、彼女の体がちいさく跳ねるのを楽しんでいる。

「バ、……バラッド、」

「はい。……気持ちいい?」

「きき気持ちよくなんかありません。ただくすぐった……ひゃ、」

 なけなしの抵抗を見せようと彼女が口にした否定は、男が頬ずりから直接先端を口にくわえたことでかき消えてしまった。

 ずんと腰のあたりに重い衝撃が走り、ああもうだめだなとコロカントは抗議をあきらめる。

 隠そうとしたところで、経験値の多い彼と自分とでは、はなから勝負はついているのだ――ただ素直に認めたくはないだけで。

 指と同じように口の中でころころと転がされて、むず痒いような快感がわきおこった。なにかに爪を立てて徐々に蓄積されるそれを逃がしたいが、バラッドに立ててはいけないと思う。

けれど、すがるように伸ばした爪先がカウンターの板をかりりと掻く音を、彼は聞き逃しはしなかった。

「……いけません」

 爪が欠けてしまうでしょう。

 そっと彼の骨ばった手で握られ押さえられ、逃がすすべがなくなる。そのまままた乳房への愛撫を再開されて、コロカントは頭を左右にした。

「バ、バラッド、」

「はいはい」

「バラッド……!」

 次第に高められる体にあらがうように、彼女はやや声を荒げて叫んだ。

「なんです。気持ちいいのだめですか」

 真面目に聞こうとしない男の顔を、ぐい、と掌で押し上げると、不服げな表情でぼやかれる。

「そそ、そういうこといってるんじゃありません」

「じゃあなんです、?」

 うっかり力をゆるめると、すぐにいたずらしようとする彼の手をぎゅっと握り返して、コロカントは大きく息をひとつ吐いた。

「つまり、その、……ここはお店ですから、……、」

 彼女の言葉を受け、ああ、と眉間にちいさくしわを寄せていた男が頷く。

「なるほど。お楽しみの続きは、ずっぷりねっぷりベッドで楽しみたいと」

「そんなこと言ってません……!」

 わざとあからさまな言葉で恥ずかしさをあおるのだ。本当にやめてほしい。

 

 真っ赤になってコロカントがきぃきぃわめくと、はいはい、と心得顔で体を起こした男が、彼女の膝裏に手をあてすくい上げ、簡単に持ち上げた。

「……うーん。相変わらず軽いなあ。……ちゃんと食べてます?」

 重さを確かめるように抱えた彼女を上下に揺さぶって、バラッドがそんなことを言う。

「食べてます。食べてます。あの、ですけど、あの、ちょっと、そんなに簡単に抱えないでください」

「……なんでです?嫁さん抱っこしたらいけない、なんて法はないでしょう。ないですよね?」

 あっても自分は破りますけどね。おかしなところで自信満々にきっぱり言い切っている。

「だって、重いです」

「だから重くないんですってば」

 言って、ばたばた暴れるコロカントを抱えたままだ。放す気はないらしい。

 そうして店の奥へ足を進めた彼の姿を、どこかで見たことがあるような気がした。降りることをあきらめた彼女が、ふと黙り込むと、急に静かになった彼女をいぶかしんだらしい男が、こちらを窺っている。

「どうしました」

 むりやり抱えるから怒りました?

 緑の目に、心配そうな色をにじませている。

「いいえ。怒っていません」

 答えて彼女はバラッドのほくろのあたりへ手を伸ばしながら、ミシュカさんに、とちいさく呟いた。

「え、ミシュカ」

「はい。ミシュカさんにも、前こうして運ばれたことがあったなって。あのときは、……、……そうですね、あのときは、……、今とはまるで、ちがいましたけれど」

 こんなふうに、彼の腕の中におさまって許される日が来るなんて思わなかった。

 あのときはただの他人でしかなかった。

 他人の空似(そらに)、バラッドにそっくりなだけの彼に迷惑をかけてはいけない、そんな思いばかりで、ぎこちなくてたどたどしいものでしかなかった。

 確率なんてものは知らないけれど、好きで、会いたかった相手ともう一度会えて、しかもその相手から思ってもらえるなんて、――なんだかもう夢みたいだなと思う。

 なんとなくしみじみした気持ちになって、黙ってバラッドの目元を撫でていると、勘違いしたらしい彼が、

「……やっぱりちょっと怒ってます、?」

 不安そうに聞いた。

「怒るって、なにをですか」

「……ですから、そのう……、あのとき、自分がミシュカと名乗ってあなたを騙したこと」

「いいえ」

 おずおずとたずねられ、きっぱりとコロカントは首を振った。なにが正しいだとかそんなことは彼女に判らない。誰が決めるものでもないのだろうと思う。

 あのときは、きっとあれが正しかったのだ。

 

「バラッド」

「……はい?」

「ミシュカさんも、わたしのこと好きですか?」

 男の仕事は歌うたいだ。そうしてイツハァクの町ではミシュカとして生きてきた。だから、なじみの客たちは彼のことをいまでも歌うたいのミシュカ、と親しげに呼ぶ。

 仕事の上では彼はミシュカと呼ばれて生きているし、コロカントやグシュナサフからはバラッドと呼ばれて生きている。

 もともと多面性の男だった。今さらひとつふたつ名前が増えたところで、本人もたいして気にしていないようだ。

 彼女がたずねると、ええ、と彼は一瞬困惑し、それからすぐにじっと彼女を見つめかえして、

「……そうですね」

 静かに頷く。

「自分は、自分の全部であなたが好きですよ」

 そんな赤面ものの殺し文句をさらっと言ってのけるのだから、たちが悪い。実際コロカントは、困らせるためだけに言ったようなものだったのだ。姫ぇぇ、だとか情けない声で言うのを若干期待していたので、聞いた彼女の方が逆に恥ずかしくなってしまう。

「……姫は、」

 墓穴を掘り、ばたばたするのをやめて男の胸に顔をうずめていると、いつの間にか二階への階段を上っていた。彼女を抱えたまま、器用に足でドアを開け、男がたずねる。

「自分といて楽しいですか」

「楽しいなんてものじゃありません」

 バラッドにとっては勝手知ったる部屋だ。引き払ったあともこうして泊まることもあったので、多少の着替えを残してある。

 ベッドにそっと下ろされたコロカントは、男のくせのない赤毛をくんと引っ張り、自分の方へ引き寄せながらそっと笑った。

「とってもしあわせです」

「……そう、」

 告げた相手の顔に、一瞬走ってすぐに隠された苦みを、彼女は目ざとく見止めている。そうして、あ、と思った。

 こういう、些細なしぐさに、今までなかった彼が気を許す瞬間が見えるのだ。

 男はたしかに以前より雰囲気がやわらかくなった。つまりそれは、コロカントに対してガードがゆるくなったということだ。それは彼が意図的にしていることなのか、それとも自然にそうなってしまったのかまでは判らないものの。とにかく彼は、今までとは違った表情をほんのすこしだけ彼女にのぞかせることがある。

 それが今だった。

 もうしばらくのあいだ、彼はなにかに悩んでいた。彼女もなんとなく気付いていたのだれど、聞いてはいけないような空気があったから黙っていたのだ。

「バラッド」

「……はい、」

 自分と彼は夫婦だ。だから、相手が苦しんでいるなら、悩みを聞かせてほしい、共有したいと彼女は思う。

 けれどそう願う同じ強さで、自分と彼は別の生き方をしてきた人間で、すべてを聞き出せばそれでよしとはいかないこともわかっている。

 だから彼女はたずねるかわりに、男をじっと見た。見て、それでなにが判るわけではないけれど、それで彼の苦しみが少しでもやわらぐことがあればいいのにと思う。

「姫」

 じっと彼を見つめていると、片眉を上げた男が、すこし弱ったように笑った。

 そうして、掌でそっと視線をおおわれてしまう。

「見んでください」

「見るのはだめですか」

「だめじゃないんです。姫の目はとてもきれいだ。好きです。でも、見透かされるので今は困ります」

「見透かしてなんかいないですよ」

 自覚がなくて、目をおおわれたまま彼女は首をひねる。そんなにきつい視線でも送っていただろうか。

「……自分は底の浅い人間ですからね」

 彼は言った。

「その、姫の、吸いこまれるみたいな深い目に見られてると、なにもかも、全部、包み隠さず話してしまいそうになって怖いんです」

「――、」

 じゃあ話してくださいとはいえなくて、コロカントは口をつぐんだ。話せるものなら、バラッドはきっと洗いざらい、もう話していただろう。

 話してくれないからこそ、聞けない。

 そのままうまい言葉が出てこない唇を、彼が唇でふさいでしまう。

「バラ、」

 ついばんではほんのわずか離し、離してはまた彼女がそこにいるのをたしかめるように、男は口づける。

 視界を閉ざされているので、男がいまどんな顔をしているのか、彼女は知らない。知らない、けれどきっと、まっすぐ立てないほど酔いくらった先日と同じように、途方にくれてべそをかいたようになっているのだろうなと思う。

 ――あなたはなにを苦しんでいるんだろう。

「だいじょうぶ」

 なにが大丈夫なのか自分でもよく判らないまま、いい子いい子とコロカントは彼の頭を掻きなぜた。

 こうすることで、すこしでも泣いている大きな子供が、泣き止むといいのだけれど。

「だいじょうぶ。……だいじょうぶですよ」

 ついばむ口づけがやがて深いものへと変わり、むきだしにした肌に男が顔をうずめ、温もりをたしかめるようにゆっくりと圧し掛かってきても、彼女は何度も同じ言葉を彼の耳に吹き込みつづけて頭を撫ぜた。

 

 

 

最終更新:2020年05月02日 00:04