意識を取り戻したバラッドがまず最初に考えたのは、喉が渇いた、ということだった。

 喉が渇いた。水が飲みたい。

 そうして、それと同じくらいの強さで、ああ面倒くさいなと思った。目を開けることすら面倒くさい。開けたくない。開けたらどうせ目が覚めてしまうのだから、喉が渇いたことはひとまずうっちゃって、このままもう一度寝入ってしまいたい。喉の渇きなんて、寝たら忘れるんじゃないかな。死ぬもんじゃなし。

 でもやっぱり喉が渇いた。

 だけど起きたくない。

 体の要求と怠惰(たいだ)な睡眠欲のあいだでしばらくうだうだ悩んだバラッドは、結局腫れぼったくて重いまぶたをしぶしぶ開いて水を探すことにした。

 目を開けると、外はすっかり明るくなっていた。明るいというよりとっくに昼日中の日差しだ。バルコニーの陽光はまぶしくて、まともに目をやれない。

 記憶があるのは明けの空までだ。

 すると半日ほど寝呆(ねほう)けていたのだな、ようやく追いついた思考がそんなように思った。

 

 ぼんやりとした頭でそれだけたしかめると、バラッドはゆっくりと寝返りをうち、うつ伏せになって枕元の水差しへ手を伸ばした。

 二軒どころか四、五軒梯子して、さんざんっぱら飲み明かした次の日のように、頭ががんがんとする。不調なことこの上ない。

 起き上がるのも億劫(おっくう)で、頭をもたげ、吸い口へ直接口をつける。噎(む)せない程度に流し込んだ。

 柑橘系のわずかに香る水差しの水は、ひと晩経ってもうとっくにぬるいものへと変わってはいたものの、からからに乾いた体にはひどく甘くてうまいものに感じられた。喉を鳴らして飲む。

 半分ほど乾(ほ)したところで口を拭い、深々と息を吐いた。

 ふと、隣の妻へ目をやる。

 最愛の妻は、ぴくりとも動かずに横たわっていた。眠っている、というよりは気絶していると言ったほうが正しいのかもしれない。

 あまりに静かなので、にわかに不安になったバラッドは、片手を伸ばして彼女の体に触れ、あたたかいことと、皮膚の下の脈動をたしかめてほっと胸を撫でおろした。

 

 無茶をさせた。わかっている。

 

 もう一度枕元へ手を伸ばし、今度は煙管(きせる)を探した。吸いたくなったのだ。

 さすがに寝たまま吸うわけにもいかず、しかたなくのろのろ起き上がり、胡坐(あぐら)をかいて煙草を詰めはじめる。

 詰めながら、あらためて動かないコロカントをまじまじ眺めた。

 嘆息する。

 ひどいありさまだった。

 もしこれが自分がしでかしたものでなかったら、バラッドはたぶんなにごとかと驚いたに違いない。

 体のいたるところに噛み痕や、吸い跡が残っている。

 ほどけた髪は、汗と涙と唾液で一部ごわごわに固まり、寝乱れてぐちゃぐちゃになっている。

 さんざん吸いしゃぶった乳首は赤く腫れ、何度かぶっかけた精液が腹となく乳房となく散って半ば乾いている。

 投げ出された足は軽く立てられ、ために狭間まですっかり見えていた。そこは朝方までなぶられ続けたためにふっくらと花開きひくついていて、彼が注ぎこんだ白濁がぬる、としたたり落ちて敷布に染みを広げていた。

 

 ……やりすぎだクソ野郎。

 

 火を点け、一度ゆっくりと肺まで煙を入れて、そうしてバラッドは長々と煙を吐きだした。

 後悔に煙までにがい。

 ここまで無茶をさせるつもりはなかった、……なかった、言い訳はあとでどうとでもできるものな。

 部屋に入ってすぐにバルコニーでちょっかいを出し、そのまま寝台へなだれ込んだ。こちらが呼ぶまでこなくていいと到着時に受付に言い伝えてあった通り、部屋に宿の人間は誰も訪れず、ろくろく食事もとらないまま、猿のように盛(さか)った。

 もう許して。そう懇願すると思っていたコロカントは、最後までその言葉を口にはしなかった。ただ彼と同じように幾度となくてっぺんに突き上がり、そのたびに全身を波打たせてこちらにしがみついた。

 けなげに付き合う姿態にまた興奮した。

 眉間を揉み、がりがり頭を掻く。

 彼女が目覚めたら、風呂につれて行ってやろうと思った。きっと足腰立たなくなっているだろうから、抱えていくつもりだ。わりと高い確率で、自分の腰も抜けている可能性もあったが、それは自業自得と言うやつだ。

 

 はあ、ともう一度ため息とともに煙を吐いて、そうしてバラッドは煙管を咥えたまま、水差しへ手を伸ばす。せめて彼女の頬に残った、乾いた涙の痕だけでも拭ってやろうと思ったのだ。

 濡らした手ぬぐいは意外に冷たく感じたのかもしれない。

 頬を拭っている途中でうん、とコロカントのまぶたが震え、そうして一度開いてまぶしさですぐに閉じ、もう一度今度はおずおずと開かれる。

 しばらく視点の定まらない様子で敷布のしわを眺めていたが、やがて意識がだんだんにはっきりしてきたらしく、ぶどう色の視線が動いた。

 

 *

 

 泥のように深く沈みこんでいた意識がふと浮上する。頬に、なにか濡れた刺激を感じたのだ。

 それが濡らした手ぬぐいで、――どうやら自分は頬をぬぐわれているんだな――そこまで考えて、コロカントは目を開けた。

 開けたものの、差し込む陽光のあまりのまぶしさに、いったん目を閉じ顔をずらす。その顔を動かすほんのわずかな動作が、どういうわけかひどくだるい。

 人間の頭って意外に重いのだな。

 そんなどうでもいいことに感心しながら、コロカントはもう一度、今度は先より時間をかけて目を開け、それから見慣れない敷布にしばらく鈍い頭で考えこんだ。

 うちに、こんな色の布あったっけ、だとか。

 昨日は酒場の二階に泊まったのだっけ、だとか。

 ぼんやり考え、そうしてここが自宅ではなく、休暇で泊りに来た宿だったことを記憶の片端からようよう引き出して、ゆっくりと視線をずらす。

 

 ……なんだったっけ……、やすらぎ……、やすらぎの里なんとか……、……。

 

 何度聞いてもおぼえられないプランの名前を思い出そうとしながら、胡坐をかき、煙管(きせる)をふかしているバラッドに視線が行き当たった。

 こちらを見ている。

「……ぉ、」

 おはようございます。

 そう言おうとして、昨日の比ではない、今度こそ本当に声の出ない喉に気がついた。風邪をひいたときの方がましなくらいだ。

 痛みはない。ただかすれた声しか出ない。

 ……まあそれもしようがないのかも。ひと晩どころか、空が白白明けてくるまで男にさんざん鳴かされたことを続けて思いだす。

 鳴かされた、というと、なにやら無理矢理合意の感があるけれど、実際はコロカントも乗り気で付き合ってしまったのだから、彼を責める由はない。

 翌日の仕事や、体力やらを考えずに、ひたすら行為に没頭すること自体はじめてだったし、快楽のてっぺんを覚えた感覚はそれまでのものとけた違いで、もっと、もっとと自分から腰を振り乞いねだったのだから、これはもう誰が悪いかと聞かれれば、自分が悪いとこたえるよりなかった。

 濃密な一夜だったと思う。

 自分の知らないことばかりで、けれどそれが決していやでなかった。

 

 ……なんて顔をしているんだろう。

 

 すまなそうな、申し訳なさそうな顔のバラッドを見つめかえす。

 きっと彼は、自分がしでかしたひと晩を頭の中でいろいろこんがらがって考えて、そうして後悔してしまっているのだろうなと思った。

 いやではなかった。むしろ嬉しかった。

 それを伝えたくて、けれど喉が使いものにならない。だから彼女は彼を招き入れるように腕を広げる。

 きて、と唇を動かすのみで伝えると、動きを読んだ男がひょいと片眉を上げるのがわかった。

 吸いさしの煙管を煙草盆にあずけ、……いいのかな。そんな顔で、おそるおそるひらいた腕の中に体を割り入れてくる。

 上にのしかかる姿勢でありながら、肘をつき、彼女が苦しくないように気を使ってくれていて、そういうところが心憎いのだ。

 ……こんなときくらい、抱き潰したってかまわないのに。

 手を伸ばし、赤毛をくしゃくしゃとかきまぜ、顔を引き寄せた。

 ちゅ、と声の出ない挨拶のかわりに唇を重ねると、困ったような顔をされてしまう。

「煙草くさいでしょう」

 ――いいえ。

 首をふって、頬をすり寄せた。煙のいがらっぽいにおいと香り袋のにおいと、そうして男自身のにおい。くさいだなんて思ったこともない。入り混じったそれが昔から大好きだった。

 それから、まだすまなさそうな顔をしている男に、もう一度口づける。

 

 ちゅ、ちゅと口づけの角度を変えるたびに、バラッドが謝りの言葉を口にしようとするのがわかる。

 だから離せない。言わせてやらない。

 自分はいやではなかった、それを伝えたくてコロカントはさえずりのようなキスをくり返す。

 やさしいキスをくり返すうち、昨晩の男との行為をうっかり思い出してしまった。こんなに体はくたくたで、腕一本持ちあげるにもどうしようもなくだるいのに、次第に体の芯が蕩けてゆくのがわかる。

 毒されている。重症というよりは末期だ。

 すり合わせた股のあいだ、ほころびっぱなしの秘所からとろんと愛液と精液のまじったものが垂れる感覚がして、彼女はそっと下腹へ手をやった。

 それに気づいた男が、彼女の手に彼のものを添え、ここ、とちいさく呟く。

「いっぱい出しちゃいましたね」

 ――はい。

 あれだけ執拗に注がれたのだ。人間の体の仕組みが、そう単純でないことは判っているけれど、――けれど実っているとよいなと思う。

 彼女の考えが伝わったのかもしれない。鈍そうに見えて鋭い、聡いように見えて鈍い、いまだに掴みどころのない男なのだけれど。

 

「できるといいなあ」

 ――え。

 

 思いもよらない台詞(せりふ)に、驚いて顔をあげる。バラッドの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。

 苦手だと勝手に思っていた。

「意外って顔してますねぇ……。きらいじゃないですよ。子供。姫との赤ん坊なんて、もうぜったい、毎日ちゅっちゅちゅっちゅしちゃいます」

 顔に出ていたのだろうと思う。コロカントがまじまじと見つめているのに気づいて、彼がこたえた。

 

「覚えてないかな。ずうううっと前に、言ったことがあるんですよ。……自分のお嫁さんになりませんかって言った時にね。毎日にこにこ、笑顔の絶えない家庭にしますよって。伴奏付きで子守唄歌いますよって」

 照れ隠しだろうか、ぼりぼりと頬を掻きながらバラッドが言う。

コロカントは曖昧(あいまい)に頷く。そう言えばそんなことを言っていたかもしれない。

「……つまりです。子守唄歌うには、そのぅ……、歌う相手がいないといけません。いけませんでしょう」

 三人……、いや四人はほしいかな。

 勝手に指折り、計画まで立てている。四人。ひとりもできないうちから気が早いと思った。呆れてしまう。

 そんな目をしていたのかもしれない。こちらをたしかめた彼に、

「だってあの塔広いでしょう。かくれんぼとか、し放題ですよね。かくれんぼ、たくさんいたほうが、ぜったい楽しいですよ」

 みょうなこだわりで力説された。

「……自分ね、兄弟とか、家族とかにずっと縁遠くてね……、だから、もし家庭というものを持つときは、大家族になったら楽しいだろうなって、ずっと思ってたんですよ」

 ――大家族。にぎやかでいいですね。

 考えるとわくわくしてくるのだから不思議だ。男の調子に乗せられているな。そうも思ったけれど、それでいいような気がした。

 

 にこにこ笑いかえす彼女の顔を、嬉しそうに見つめて、そうして腹減りませんか、と男がたずねた。

「ここ、備えつけの浴場があってですね。貸し切りの。……大理石でできてて、眺めがいいのが自慢だそうですよ。風呂浴びて、お互いさっぱりして、メシ食いましょう。ね?」

 飯、と聞くと、現金なもので、それまで忘れていた空腹が不意におそってくる。そう言えば、昨日の午後から水や枕もとの酒以外、ほとんど何も口にしていないのだ。

 男の言葉を聞いて、ぐう、と彼女の腹の虫が鳴った。

「おや」

 彼女の腹の虫の音を聞き、……これは急がないといけませんね。言って体を起こし、寝台からずり下りながら、男がうわあと情けない悲鳴をあげている。

「やばい、膝が震えてる。小鹿。いますごい小鹿」

 台詞は情けないが、どことなく楽しそうで、コロカントはまた笑った。

 自分も同じようなものだろうな。

 気怠い体をもちあげながら、彼女も起き上がる。

 

「風呂に入ってメシを食って。そうして暗くなるまでだらだら寝たら、夜は祭を見に行ってみませんか。……、……姫さえよければ、ですが」

 起き上がった彼女に手を差し出しながらバラッドが提案する。

「目一杯めかしこんで。お互い髪に花を挿して。夜店をのぞいて、冷やかして、それから飲んで、踊って、……。そうして花火を一緒にみましょう」

 ――手をつないで。

 男の手に指をからめて、コロカントが唇を動かすと、そうですね、と握りかえされる。

「はなしちゃあいけませんね。はなしたら、迷子になってしまいます」

 言って、男は引き寄せた手の甲へうやうやしく唇を寄せ、そうして照れくさそうに、幸せそうに、笑った。

 

 

最終更新:2020年05月18日 00:08