「ちょっと待ってて」
俺を止めた赤毛の女は、卓を囲んだ俺ら三人にそう言うと、大きいため息を吐いて、食堂から大またに出て行った。いったいどうするのかなって三人で眺めていたら、そう間もなく急ぎ足で戻ってくる。
手には皮袋があった。
「……おい、」
「ここに、このひとの負けこんでたツケの分と、いまの場所代を合わせたぐらいのお金が入ってる。上乗せしてた分には足りないけど、これをあんたたちふたりで山分けして、それで手打ちしてくれないかな」
俺がとがめる声をさえぎって、女がどん、と皮袋を卓上に乗せると、中からじゃらじゃら音がした。
じゃらじゃらってなんだよ。じゃらじゃらって。
札束じゃなくて小銭の音、っていうのが、なんていうか、妙にリアリティあって心に沁みるわ。ああ、こつこつ貯めたんですねっていうかさ。
「おいこらてめぇ勝手に、」
「うるさい。顔面扁平になりたくなかったらすっこんでな」
俺がすごむと、倍の勢いで女からすごみ返された。ゆら、と一瞬立ちのぼった殺気はわりと本物だったけど、あいにく俺は引っ込む気なんてない。
殺気ひとつにビビってちゃあ、この仕事長くやれてない。
こいつに助けてもらうなんてまっぴらごめんだった。
なんか一生ぐちぐち言われそう。あのときあたしがいなければ、とか。やめて。そんなの絶対やめて。
俺の繊細(せんさい)な精神が耐えられない。
待てよ、と手をはらうと、手でもう一度さえぎられる。それにむっとなった。ふざっけんな。俺はガキじゃねぇぞ。
ていうか俺はてめぇよか年長だぞ。もうちょっと敬いってものをもてよ。
手をはらう。またさえぎられる。
そうして押しのけ合って主張しているあいだに、同じ卓を囲んでいた人形師と馬喰(ばくろう)は、俺とそれから金袋を、かわるがわる見比べた。どっちをとるのが得か、と考えたんだろうと思う。
くらべるまでもない。
宿の女将の不興を買う方がどう考えたって損だし、多少取り分がすくなくなったって、金を代替わりしてもらえるなら、ってんで、ふたりとも目配せしながら頷いた。
それで手打ちとなった。
なったみたい。
……なったみたい、じゃねぇ。
全然なってねぇよ。
たしかに女がしゃしゃり出て、場はなんとか丸くおさまったかもしれない。たしかにね。おさまった感がありますよ?
けど、俺の気持ちってものが完全に無視されてませんか。あのさ、さっき格好いいこと言ったでしょ。男には負けるとわかっていても戦わなければいけない時があるとかなんとか。さっきとちょっとニュアンスちがうかもしれないけど。けどそれ無視されてない?
それってどうなの。
憤懣(ふんまん)やるかたない鼻息を、俺が噴きあげているのに、卓にいたふたりは、じゃあ、とかで、それぞれ自分の部屋に戻っていった。
二階へ登っていく姿がうらめしい。
儲かってよかったですね。今日はいい夢見れそうですね。
はげ散らかす呪いにでもかかればいいのに。
……枕の下にしまっとけよクソ野郎。俺が夜中に取り戻しに行っちまうからな。
気をつけろよ。
本当は、勝負はまだ終わってねぇぞ、って呼びとめたかったけど、横にいる女が許しちゃくれなさそうだったし、なによりよくよく考えたら、俺ほんとうに、もう何も持ってなかったんだわ。
そりゃね、パンいち覚悟ならまだ残ってる、とも言えるけど、けど、その状態で勝ったとして、果たしてそれは勝ったと言えるの。それ、賭けには勝ってるかもしれないけど、勝負には負けてるんじゃないでしょうか。
下穿き一枚ですーすーして、我に返ったとき、なんか悲しくなるでしょ。
だから呼びとめたかったけど、結局ぎりぎり歯ぎしりして見おくる羽目になった。畜生。負けたんじゃないんだからね。今日のところは見逃してやるだけなんだからね。
勝者がそれぞれ部屋の戸を閉めた音をたしかめると、また大きく肩で息を吐いて、女がこっちに向き直った。
あっ。これ、知ってます。お説教タイムってやつです。
「……助けたつもりはないのよ」
そんなことを言う。
どう返してよいかわからず、はあ、って俺はこたえた。
……なに? なに? デレてんの?
べ、べつにあんたのためにやったわけじゃないんだから! みたいな感じなの? でも俺の天使ちゃんたちがやるならまだしも、三十路も半分超えた年増がやったって気持ち悪いだけよ?
そこまで続けていってやろうかと思ったけど、それを言うとわりと本気で俺の鼻骨くんが悲劇なことになりそうな気がしたので、そこは黙っておいた。
鼻の骨曲がるのいやだし。
君子危うきにちかよらず、みたいな。ちがいますか。
「じゃあ、どういうつもりよ」
俺はふて腐れながら言った。
長年の付き合いだから見捨てられなかったとかいう、ありきたりで陳腐な理由なら、ここで床にころがって、ばたばたしてやろうかと思った。
そういう馴れあいを俺は望んでいない。
「ひと月だけ待ってやるからさっさと死ぬ気で稼いで来い、……とか、そういう話?」
「冗談」
鼻でせせら笑ってそいつがこたえた。
「なんであんたに仏心出して、ひと月も待ってやらなきゃならないのよ」
「あ、ですよね」
それを聞いて、俺はしんからほっとする。ああよかった、って。いつものこいつだ。
俺に嫌悪しか抱いてない、つんけんしてとりつくしまがない、いつものやつだって。
嫌われてて安心する、ってのもなんかおかしな話だけどさ、言ったでしょ、? 一目ぼれの反対だったって。
そう言うやつから好意とまではいかなくたって、なんか、プラスな方の感情を向けられることがどれほどおっかねぇことか、あんたにはわかるかな。
「稼いで来い、って言って、律義に仕事掛け持ちして稼ぐタマでもないでしょ」
「よくご存じで」
俺も薄笑いでこたえた。
俺のことわかってくださっててありがとうございます。
「依頼を受けてほしいの」
そうしてまた唐突に女が言った。
こいつが唐突に話を振るのは、まあ、いつものことだ。俺は不本意ながら一緒に仕事した五年で慣れていたので、ああうん、と話をうながすにとどめておいた。
「先月うちに持ち込まれた話なんだけどさ。――あ、ちなみに、この話、強制的に受けてもらうから。聞いたら口つぐんだまま、すぐ部屋に戻って寝る。で、明日の朝立つ。いいわね?」
「なんじゃそりゃ」
「借金野郎に拒否権はないってことよ」
くっそ。
言ってくれるじゃねぇか。
いらっとなって、やっぱり床の上をばたばたしたくなったけど、けど、そいつの言うことにも一理あったので、俺は悪口をこらえる。
まあ、百分の一理くらいはね。
「で、どんな依頼だって?」
ジョッキにちょびっと残っていた酒を呷ると、俺は腰に差してた山刀を抜き取り、皮布でみがきながらそいつにたずねた。
手持無沙汰ってそわそわするだろ。なんか手を動かしてないと落ち着かない。
お手手お膝において、ぼくきちんとお話聞きます的な、そういうの、いい子ちゃんみたいでいやじゃん。
「受ける人がいなくて困ってたの」
ああもういやな予感しかしない。
受けるやつがいなくてあまり続けてる依頼なんて、思いっきり報酬が安いやつか、思いっきり危険なやつか、そのどっちかしかないだろって。
てめぇ、借金ついでどさくさまぎれに、俺に厄介ごと押しつけるつもりだな。
「――|獣被り《ドロシ》って、あんた知ってる?」
「はい無理」
ばん、と山刀を卓上に叩きつけながら俺は言った。なんかさっき拒否権がどうの言ってた気もするけど、そんなん知るかよ莫迦。
ばかじゃないの。ほんとうにばかじゃないの。
|獣被り《ドロシ》? はあ? 冗談じゃねぇ。
依頼の全容聞いたわけじゃあなかったが、もう最初の一文からしてヤバい臭がぷんぷんする。あれだよ、ぜったいに踏み込んじゃいけない領域ってやつだよ。
だってさあ、考えてみて。「注意! この先、崖」って書いてある看板見て、ずかずか越えていく莫迦いる? いないでしょ?
越えていくのって字が読めないおバカさんか、自殺志願者でしょ。
見えてる虎バサミに自分から突っ込んでどうするんだよ。
そいつが言わんとしているのが、|獣被り《ドロシ》のどんな依頼なのかは知らないが、それ以上俺は聞く気がなかった。
もうほんとありえないです。
ありえないんですよ。
それに関わる依頼受けるぐらいだったらあれだ、もう、ここの地下――この宿に地下ってもんがあるのかないのか知らねぇが――室に、五年ばかり猿轡(さるぐつわ)かまされて監禁されるとか、そうじゃないなら五年無償無休の皿洗いでコキ使われるほうがマシだ。
絶対マシだ。
なんだったら、近隣の農家さんに代わって町に出張っていって、肥やし汲みやったっていい。
いやさ、俺は便所の汲み取りを莫迦にしてるわけじゃないのよ。
あれだっておいしいお野菜作るのに必要だって、わかっちゃいるのよ。
でもほら、あれじゃん。桶かついで汲み取り行くじゃん。あれ、前と後ろに入れる量のバランス間違えると大変なことになるじゃん。
そんで、桶重いし、肩にむちゃくちゃめりこむし、おまけにちょっとでも勢いつけるとぴちょんとはねて、ほっぺたとかさあ、くっつくじゃん。
そんで、体中からあのえもいわれぬかぐわしさがただよって、三日はひどいじゃん。
ひり出したあとの便のにおいとかもね、そりゃそれなりにくせぇとは思うけど、あの肥壺のにおいって、そういうのとは別次元のにおいになるじゃん。
やったことあるならわかると思う。
そんでさ、ぎらぎらお天道さんが照り付ける夏なんかにその仕事やるとさ、立ちのぼるションベン臭に目が沁みるのよ。つぅんて。涙出てくるの。
また脱線したわ。
ちがうの。俺は別に汲み取りの話がしたかったんじゃないの。
つまり、俺は目が沁みて涙ぼろぼろこぼしながらでもその仕事やるほうが、女の言ってる依頼受けるより数百倍マシ、ということを言いたいのであって。
別ににおいについて熱く語りたいわけじゃない。
だけど、その、かっちょよくお断りしたはずの俺の前に座った女は、まあ、ふてぶてしいことこの上なかった。
俺が無理って言ったのを聞くやいなや、そいつはさっと能面になった。あっこれ知ってます。若かろうが年増だろうが、女ってやつがこの顔で怒るってろくなことないです。
そいつはおもむろに俺の方に手を伸ばすと、あろうことか俺の耳を力任せにひねった。
「あだだだだだだだだ」
「無理じゃない。なにとんちきなこと言ってんの。拒否権ないって言ったでしょ」
「痛え痛え痛え痛え痛え痛えちょっとやめて耳もげるやめろってやめろやめやめやめやめやはなせっつってんだろうが!!」
耳の軟骨がひしゃげるぐらいぎりぎりぎりぎり引っ張りやがって、俺はとうとうぶち切れて先ごろ叩きつけた山刀に手を伸ばし、女に突きつけようとした。
だが伸ばした俺の手は、そいつに上から押さえつけられる。見越してたってやつか。気がついて余計にいらいらした。
うっわあれだよ、ガタイでかい女はやっぱ手もでけぇし力も強ぇよ。
そんな悪態吐いてやりたかったけど、目下のところ引っ張られてる耳が痛くてですね、悪態が口から飛び出てこないっていうかですね。
っていうかあれだ、あーなんかわりと長い付き合いけど、こいつの手さわったのそういや初めてだな―とか、がさがさしてよく働いてる手、俺の天使ちゃんたちのすべらかしい手とは比べものにならない手だけど、あったかいそれはいやじゃないっていうか違うそんなことが俺は言いたいんじゃない。
「やかましい」
怒鳴った俺に女はぴしゃりと言った。
「お客さんが起きるでしょ。声控えな」
「……じゃあさっさとこの手をはなしゃいいだろうが!」
「あんたがきちんと話を聞くならはなしてやるわよ」
「くっそ聞く聞く聞きます……、……とりあえずほんと耳とれちゃうから莫迦力でひねりあげるのやめろつって!」
俺が誓うと、ようやく女はひねりあげていた手をぱっとはなした。はなされてもまだ耳がじんじんする。だから暴力的な女は嫌いなんだよ。
涙目でうらめし気に見上げても、女は涼しい顔をしていた。
「……、……、……、で?」
さっきよか数倍ぶんむくれて、俺はたずねる。
わかるかな。この、聞きたくないのに、聞かなきゃいけない空気。
「大人しく聞く気になったの、」
「ご清聴してさしあげるからとっとと話せよ」
片頬杖をついてそっぽを向きながら俺はそいつをうながした。
……。
…………。
はい。
ここまでがね。導入部分なんですよ。長ぇ。
三行で言えって?
ええと、宿に泊まりました。
知り合いに借金しました。
返すために無茶な依頼受けないといけなくなりました。
はい。そんな感じです。
もう一度あたりに目をくばる。唾を飲みこんだ喉が引き攣れて痛い。
さっきっから、なににビビってんだって話なんだけど、だからさ、それが件(くだん)の、
「――っ!」
不意に獣のうなり声がして、俺は短弓を取り落としそうになる。そうでなくたって、持ち手はもう脂汗でべたべたしていた。
もうやだ。本当にやだ。おうちに帰りたい。
半泣きになりながら、俺はできるだけ身を低くし、音の出どころを探った。
聞こえた獣の唸り声は、明らかに大型獣のものだった。地響き具合が違う。独特な唸りは、きっと熊だと思った。
だがその声は俺に向けて発せられた声じゃなかった。
これは、威嚇だ。
熊は、一方的に襲う前の獲物に、こんな声を発しない。熊は、おのれの体格や力の強さを知っている。
これは、おのれと同格か、それより上のものに対して、おのれの優位さを示すためにあげる声だ。
鹿や、たぬきや、うさぎや、ましてや人間にこんな声をあげることはない。そいつらは切り株ほどの掌を叩きつけるだけで、簡単に死んでしまうことをあいつらは知っている。
じりじりとにじり寄りながら、俺は手にしていた矢をいったん矢筒へ戻し、そうして別の矢筒から三本引き抜くと、もう一度矢をつがえ、それからそうっと茂みの薄いところから声の方をうかがった。
俺は、熊ならこわくない。熊は狩ったことがある。熊は得体が知れない生き物じゃあない。
だから俺が森に踏み込んだときから、ずっとビビり続けているのは、
「……うわぁ」
藪向こうで繰り広げられている光景に、思わず声が漏れた。
ちいさかったので聞こえていないと思うが、目の前に見えた光景は、半分がた、俺がそうでなかったらいいのになあと想像していたものだったからだ。
藪向こうにいたのは、成体の熊が一頭、そうしてなんやらわけのわからない、もじゃもじゃとした一匹の黒い毛のかたまりだった。
かたまりのように見えた。
見えた瞬間、俺はトロルだとか、オークだとか、ゴブリンとかいう言葉を思い出す。
ガキどもに聞かせるようなこわい話、いい子にしてないと食われちまうよ、そんな話に出てくる、汚い毛の生えた、迷信上の生き物の名前だった。
だから俺のうわぁ、はそのトロルだかオークだかわからないが、そんな未確認生物的ななにかが目の前にいたという意味と、そうしてその黒くてもじゃもじゃしたかたまりが、熊とくんずほぐれつの死闘をくり広げていたからだ。
いやあ、俺だってさ、熊は狩ったことがあるって言いましたけれども、でもそれはあくまでも弓で距離をとって狩ったのであって、こんなふうに至近距離でもみくちゃになるとかありえないでしょ。
思わずそう思う。
だってあの爪が、もう鋭いナイフの一本一本みたいなもんだった。うっかり腹にヒットでもしたら、そのまま中身がこぼれて出てお陀仏だ。
たぶん、俺はろくな死に方をしないだろうなと思っている。十中八、九、野垂れ死ぬだろうなと思っている。思っちゃいるが、それでも、こんなふうに熊と揉みあって、うっかり腹割かれて、臓物ぶちまけてひくひくと苦しんで死んでいくのは、どう考えてもごめんだ。
こんな原始的な戦い方は、絶対にしたくない。
そんな、俺にとってありえない戦闘が、目の前で起こっていた。
ふたつの獣は死に物狂いだ。だから、俺にはまったく気づかない。
気づかれないのをいいことに、俺は分析と傍観をきめこむことにした。
成体の熊の方は、おそらく雄だ。雌にしちゃあ体がデカすぎる。それも、十歳は超えてそうなご立派なデカさだった。デカいと言うよか巨大だ。九尺はある。
生き物というよりは、もう完全に小山が蠢動しているようなもんだった。小山、それもえらく俊敏な小山だ。
その小山が、手の届かない背中に回った相手を、振り落とそうとしている。
対してる黒いもじゃもじゃのトロルっぽいのは、そこまで大きいものには見えなかった。チビの俺より確実にデカそうではあったが、熊と並ぶとそれはたよりなく細いものに見えた。
よくよく見ると、その黒いもじゃもじゃには四肢がある。その手が熊の毛皮を引き絞り、距離をとられないよう、必死でしがみつきながら、なんとか致命傷を、そうでなくても戦意を喪失させるだけの決定打を打ち込みたくてもがいている様子だった。
手。
そこまで眺めて、俺はその黒いもじゃもじゃが、人間と同じような左右の手と、左右の足を持っていることに気がつく。
え? 手?
え、ちょっと待って。
戸惑う俺の前で、それまで膠着(こうちゃく)状態だった勝負が、急に動き出した。
雄熊がうなりをあげながら頭を低く下げ、その強靭(きょうじん)な背筋でもってはねあげると、背中に何とかしがみついていたものが転がり落ちる。
それがぱっとはね起きる前に、熊は相手の体の下へ頭をもぐり込ませると、力任せに振り飛ばした。
もじゃもじゃの方は抗う暇もない。軽々と吹っ飛んだ。
落ちたその先でも勢いを殺せず、ごろごろ地面を転がってそのまま幹に叩きつけられる。
叩きつけられた拍子に舌でも噛んだのか、仰のいた唇からつうと一筋赤い筋が垂れた。
そこへ巨体を振るうようにして、雄熊が突進する。
ど、ど、ど、と熱気と轟きが見ている俺まで届いてくるようだった。
叩きつけられ、半ばずり落ちた黒い獣の頭から、もうひとつの別の頭が顔をのぞかせる。のぞかせる、そう言ったが、どういう原理かよくわからなくて、俺はそれがいきなり脱皮でもしたのかと思った。
こう、さなぎの背を割って出てくる蝶のような。
顔がのぞいたと思った、だが俺はどう言うわけか、それの全容をみとめることができなかった。
ただ、ぼっきりイった槍――それは槍を持っていた――の柄をはなすことなく、少ない動作で斜めに構え、相手の突撃の力を利用しようとしているのだけが見えた。
それから、おのれへ向けて一直に向かってくる雄熊を見据え、にい、と口角をあげたのが見えた。
……笑いやがった。
目にした瞬間、俺の世界から音が消える。
そうしてなぜだか俺は、こちらへ完全に無防備な熊の背中へ向けて、矢を続けざまに三本放っていた。
風切り音を上げ鋭く飛んでいった矢は、熊の背中にぶすぶすぶすと深々と突き刺さる。だが背中じゃ無理だ。毛皮と厚い脂肪におおわれた背中じゃあ、多少痛がりはするかもしれないが、致命傷にはなりえない。
そうして、はなから致命傷になるとは、俺も思っていない。
三本まずあたり、唐突な横やりに驚いたクマの突撃が急停止する。……まあね、この場合、やりじゃなくて矢ですけど。
俺は矢筒から三本また抜き取る。
あとすこしでしとめられる獲物を、横取りする敵だと認識したんだろう。
怒り狂ってこちらを見返ると、おもむろに方向転換し、熊はこちらを先に始末しようと定めたようだった。
一拍後、殺戮(さつりく)の突撃が開始される。
俺はそれを待っていた。
こちらへ頭をめぐらせた瞬間、俺は熊の右と左の双方の眼窩へ向けて二矢続けて放っていた。
またたくまに、視界へ突きたてられた熊が思わず悲鳴をあげ、後ろ足で立ち上がったところへ、心臓を狙い、俺はだめ押しの一本を放った。
ぶつ、と鈍い音が離れたここまで聞こえてくる。熊との距離は、ざっと十間ってところだ。この距離なら、きっと毛皮をとおしても心臓まで鏃は届いているはずだった。
ぐぐぐぐと呻きながら、口から泡を出したそいつが、なおも俺の側へ進もうとし、それからたたらを踏んでどうと倒れる。
最初の背中のやつの毒が効いてきたようだった。
それでも俺は六十、そいつの体に打ち込んだ矢の毒がすべて回りきるまで、近づくことはせず、突っ立ったまま数えて過ごした。
うっかり近づいて、死に際の一撃を食らってみろ、それこそ骨を砕かれる。
そうして次に悩んだことはと言えば、再度矢をつがえて、もう片方のもじゃもじゃに近づくかべきか、ということだった。
まあね、交渉の初手はとりあえずこちらに敵意がないって示すことですしね、相手に俺のそうした気遣いを、理解できる知能があればの話ですけどね。
そんなことを思いながら、俺はおそるおそる空手でトロルもどきに近づく。
熊の方はもう心配はいらなかった。口からだらりと舌がはみ出ていたし、なにより毛がしおれている。
もうもうと上がる獣体の蒸気に顔をしかめながら、俺はとっくに立ち上がり、ごしごしと唇をぬぐい、こちらがどう出るかかまえている黒いやつに、とりあえず引き攣った笑顔でにっこりしてみせた。
笑顔だいじ。たぶん。うん。
ああ、トロルもどきが、笑顔をあいさつと認識してくれることを祈ろう。
「ああ――、……ええと……、俺の言葉わかる?」
いつの間にか、俺の世界に音ってものが回復していて、俺は、俺の声を耳で拾うことができた。
こちらをじっと見ているそれにも、俺の声は聞こえているはずなのだけれど、動きはない。
だめなのかね。
やっぱり対話不可なのかね。
「俺はあんたが危ないところを助けた、……俺はあんたと話がしたい、……、……わかる?」
もじゃもじゃのやつは、ツタみたいにうっそうと前に垂れた黒い毛のあいだから、こちらを品定めるように見ている。
毛のあいだからのぞいているのは、血に濡れたように赤い唇と、ぎらぎら光る眼だけだ。
あー。もしかしてあれですかね。
笑顔を、笑顔じゃなくて、サル類みたいに威嚇の顔と思われてるとか、そういうのじゃありませんかね。
人間が、他の動物と決定的にちがうのは、「笑う」ことができるかどうかなのだそうだ。むかしどこかの酒場で酒のつまみに聞いたおぼえがある。
他の動物が同じように笑みを顔に浮かべるとき、それは怯えか、威嚇かのどちらかなのだそうだ。
友好を示す手段として動物は笑わない。
人間のなりかたちを一応しているとはいえ、こいつに通じるかどうかはわからない。
そのままたっぷり二十が過ぎて、やっぱだめかな、俺があきらめて別の、ボディランゲージとかそういう、交渉方法を模索(もさく)しようとしはじめたときだった。
がば。
そうとしか表現できない、ほんとうにでたらめで唐突な動きで、黒いもじゃもじゃが地に伏せる。
あまりに予想できない動きだったので、俺は一瞬なにが起こったのかわからず、ぎょっとなって文字通りちょっぴり飛び上がった。
あの、急に動くのやめてほしい。
心臓にくるから。ほんと、ぎゅってなるから。
そうしてそれは、
「え、ちょ、なに、」
「お前さま」
限りなく身を地面と平行にさせながら、そいつ――|獣被り《ドロシ》――は、えらく脂くさい体を俺にすりつけ、そうしていきなり俺の足の甲へむけて、服従の口づけをした。