え、って。

 

 いやもう、え、っていうのも俺の頭にはなかったかもしれない。なんていうの、人間本気で頭パンしたときって、なんにも考えられなくなるって本当なのね。

 目はたしかにものを見てて、耳はたしかに音をひろってるんだよ。ひろってるはず。

 はずなんだけど、それが情報として脳みそまで到達しないというかさ。ただただ素通り。ザル状態。

 ザルですらないかもしれない。

 目を開けたまま気絶してるというかね。それに似てるのかもしれない。

 

 そんでしばし思考が停止した俺が、そのあとようやく脳みそ動きはじめて一番最初に思ったことはと言えば、あ、お空きれい、ってことだった。

 こう、ひれ伏したやつが下にいるから、それを目に入れないようにすると、自然と目線が上に行くでしょ。そうしたら木々の梢のあいだから空が見えた。もうすこしで夕暮れになるほんのちょっと前の空、太陽に赤く染まる前の、青が一番深いときの空だ。

 ああそう言えば青いって言えば、青い目のエミリーちゃんっていう天使ちゃんがこないだ寄った娼館にいたなあ、あの子めちゃくちゃ髪の毛もふわっふわで可愛かったなあ、また会いたいなあ。

 そんなことを思った。

 でもここ、エミリーちゃんのいるベッドの上じゃないんだよね。残念ながら。森の中なのよ。

 そうして俺は、きれいな空から視線をずらして、黒い毛むくじゃらのやつをいやいや視界におさめる。

 おさめたくもないんだけど、このままずっと、ってわけにもいかないでしょ。

 同じようにくしゃくしゃしているはずなのに、この、ふわっふわの髪の毛、といった感じだったエミリーちゃんと、もじゃもじゃしたやつ、っていう差はいったいなんなんだろう。

 さっき、熊とくんずほぐれつしてたときは、やたら動き回ってたからただ黒い毛のかたまりに見えたのかとも思ってたけど、こうしてぴくとも動かない今でも、印象はやっぱ黒い毛のかたまり、だった。

 

 それはまだ地に伏していた。

 地に伏してはいるんだけど、いるんだけど、……なんていうのかなあ、土下座じゃないとは言える。

 土下座ってこう、膝折ってきちんと座って、地面に頭くっつけて、ははーってかしこまってやる感じでしょ。

 だからどっちかって言うと、これって、あー……、五体投地? 全身地面と平行線みたいなさ。

 五体投地とか、よく話では聞くけど、本当にしてるひとにお目にかかる機会ってなかなかない。そりゃ、寺院とか行ったら敬虔なひとはしてるのかもしれませんけどね、俺信心ないですからね。

 だから、その五体投地ってやつを実際に見たのは、俺はこれがはじめてだった。はじめてだってことに気がついた。

 まあ、気がついただけで、気がついてなんなんだって感じなんですけれども。

 気がついたからって、目の前で平伏しているそれがどうなるって話じゃないわけで。

 

 えーまずもうどうしようって思った。なんかさっき俺にも認識できる言葉を発した気がするし、俺とこれはたぶん対話可能だ。可能だと思う。たぶん。……たぶん。

 ただ、対話可能っていうのと、それを実行に移すっていうのはものすごく大きな隔たりがあるんだよね。

 

 まずね、正直に言うと、俺はこれと話したくないんですよ。

 というか、関わり合いになりたくないんです。

 

 俺がどうして|獣被り《ドロシ》と呼ばれるこれと関わり合いになりたくないかって言うと――、まあ、ひと口に言ってしまえば、種族の違いってやつだ。

 種族って言うと、語弊があるかもしれない。俺はヒト科ですし。|獣被り《ドロシ》と呼ばれるこれもヒト科だ。

 人間の形をしている同じ生き物だ。

 形は同じだよ。同じなんだけどさ、なんて言ったらいいのかなあ――、あのね、サクラマスっているだろ。マス。脂のってるやつ塩焼きするとうめぇやつね。

 んで、あれとさ、同じ魚にヤマメっているでしょ。ヤマメ。こっちも塩焼きにするとうまいやつ。

 ヒトと、|獣被り《ドロシ》の違いっていうのも、そのサクラマスとヤマメみたいなもんというかさ。

 出どころは一緒で、上流に残るとヤマメで、川を下るとサクラマスになるというかさ。人間のなりかたちをしちゃあいるんだけど、ほとんど山や森を出ず、他所との接触もせず、どっちかっていうと森の生き物の一種みたいなあつかいの|獣被り《ドロシ》と、村だの町だのを作って生活する俺らっていうか。

 わかるかな。

 もう文化っていうか、生活形態そのものがちがうんだって。

 外国の、ちょっと別の暮らしをしているひとら、とかじゃあないのよ。それは、多少の挨拶の意味とか、信心する神がちがうとか、しきたりとかがちがっても、大筋のところは一緒でしょ。

 |獣被り《ドロシ》はちがう。

 

 仮にさ、魚が言葉をたがいに話せるとして、サクラマスがヤマメと話をして、会話になるかっていう話なんですよ。

 わかるかな。

 例えがアレだけどさ、途中から、もうまるでちがう生き物になっちゃってるでしょ。体の大きさもそうだし、淡水か海水かってのもそうだし。最初は同じでも、終着点のあたりじゃ、まるっきり別の生き物でしょ。

 どっちも魚じゃん。どっちも食べれるじゃんって言いきっちゃえば、そりゃそうなんですけれどもーってなるけどさ。

 目の前のこの毛むくじゃらと、俺には、それぐらい差があるんだってことを、言いたいのね。

 

 

 俺も、|獣被り《ドロシ》ってやつを目にするのは、人生で初めてだ。

 四十ウン年生きてきて初見。普通に生きていたら一度も見ないことだってある。それぐらいこれらとはお目にかからない。

 そもそも|獣被り《ドロシ》ってやつは、人類未踏の地、じゃないけど、ものすごく山奥とかに生息してて、独自の文明を築いている。

 こう、なんていうの。ただのひと嫌いで、僻地(へきち)に住んでて、でもときどき里に下りてきて必要な生活品と山のものを交換、とかじゃなくて、一切の交流がないのね。ヒトの文明と関わらないというかね。

 寝ずの番の肝試し話のひとつに、これらと山奥で遭遇した、みたいな話が出ることがあって、それだって話してる本人が出くわしたわけじゃなくて、また聞きのまた聞きのまた聞きくらいのもんだった。

 俺のじいさんのじいさんのじいさんのかみさんのおとっつぁんの飲み友達の隣に住んでいるおっさんが体験した話、くらい信憑性に欠ける話だ。

 

 曰く、深山に猟で迷い込んだら遭遇しちまったとか。

 曰く、崖から落ちて気が付いたら複数のそれに囲まれてたとか。

 

 だからさ、たしかにヒトのなりをしちゃあいる、しちゃあいるが、区分としたらこれらはヒト科ではなくて、熊だとか山犬だとか、そうしたほうの分類だった。

 やつらは群れで生活している。そうしてまず出遭ったら命がない。これが定説だ。

 姿を見たやつは首を狩られるんだとか、肝を抜かれて焼かれるんだとか、すりつぶされて家畜の餌になるんだとかいろいろあったが、とにかく、出くわさないに越したことはなかった。

 だから|獣被り《ドロシ》がいるだとかいう噂の立つ場所に、おいそれと人間は近づかない。どうしても入らざるをえないときだけ、歌を歌うとか、剣を打ち鳴らすとか、とにかくわざわざ音をたてて、こちらの居場所を相手にしらせるのだった。熊鈴みたいなもんだ。

 そんで、もし出遭っちまったらとりあえず神に祈れ、それから決して背を向けずに、敵意のないことを示しながら、刺激しないようにじりじり後退しろ、っていうのもやっぱり熊といっしょだった。

 運がよければ見逃してもらえるかもって。

 ちなみに、熊とちがって、槍でぶすぶす刺されても呻き声をたてない自信があるなら、死んだふりも有効らしい。

 刺されて失血死しそうではあるが。

 なお俺は絶対したくない。

 

 生態は謎につつまれている。

 群れで生活しているらしい、っていうのも、らしい、ってだけで、誰もそれらの群生地を見たことがない。

 見ようがない。だって、遭遇したら死ぬんだから。

 定住しているのか、移動して生活しているのかもわからない。

 わかっているのは、それらの気性がものすごく荒々しいということと、成体になると他の獣の皮をかぶるって言うことだけだ。皮。|獣被り《ドロシ》、って呼んでるけど、単純に、皮をかぶるから皮かぶりとも呼ばれてる。

 でもほら、皮かぶりだとさ、いろいろ別のこと連想しちゃうだろ。余計なお世話ですが。あ、ちなみに俺はかぶってないです。

 

 被る皮も、狼だとか、熊だとか、山犬だとか。キツネやイノシシっていうのもいるらしい。

 どうして被るのかとか、どういう基準で被っているのかだとか、誰も知らない。ただ「らしい」ってだけで。

 だからさ、区分としては熊とか狼枠で、でもって生態は未確認生物なわけですよ。

 

 ご理解いただけますか。

 

 こちらに友好的ではなくて、攻撃性の高い、人間並みに知能があって、群れで動いている、その上未確認生物なんて近づきたくないでしょ。ありえないでしょ。

 

 熊は今の通り、距離さえ取れていればしとめることができる。

 狼や山犬は、群れで行動するからその分厄介ではあるが、リーダーさえやっちまえば、戦意を喪失させて追い払うことができる。あいつらは、最後の一匹まで戦う、とかそんな率の悪い狩りはしないからだ。

 あと、高所を占めればわりと楽だしね。

 けど、リーダーやったって執拗に追いかけてくるらしいんです。この、皮かぶるやつら。

 殺意のかたまりみたいな群れなんて、もう遭ったらどうしようもない。あがきようがない。かっちょいい物語なら、おおぜいの敵に取り囲まれたって、騎士も王子も平然と敵と対峙しているけど、現実は無慈悲だ。

 多対一なら、どうしたって多のほうがつよいんだよ。それは節理だ。

 弓やったって、剣やったって、俺にゃあ無理だが、たとえ大鉈(おおなた)振り回したって、勝てっこない。殺されるに決まっている。

 

 はなから、俺がずっと主張しているのはそこなんです。

 なんでわざわざ|獣被り《ドロシ》の生息地に足を踏み入れなきゃならないのって。自殺行為だよね。

 さっき、「崖注意」の看板うんぬんの話したけどさ、俺が今やってることって、その看板を見ながら素通りして、ずんずんその先に進んでいるってことなんだよね。あと数歩で落ちて死ぬっていうかさ。

 

 じゃあなんでそんなことやってるのって言うと、だから賭けに負けたことがそもそも間違いだったっていうかさ。賭けに負けたっていうより、勝負に乗ったこと自体が間違いだったのかもしれないけど、知っていますか。後悔ってあとからするんだよ。

 

 

 そんなことをたっぷりと考えながら、俺は足元に相変わらず五体投地しているそれを見下ろす。

 それから、それがさっきしたことと言ったことを頭の中で反芻してみた。

 なんかこれ、しゃべったよね。

 それからなんか、足に口付けてたよねって思ってうわあってなった。なんかばい菌とかついてるんじゃないか。ばい菌じゃなくたって、毒のなにか。遅効性の、でも確実に死ぬようなやつ。俺の抗体のない、未開の地の風土病みたいな。

 

 毒、と思い、俺は背中の矢筒を一瞬ちらと見た。

 普段から、だいたい二種の矢筒を背負うことが多い。

 ひとつは、こっちがメインで使うことが多いんだけど、クセのない鏃(やじり)のもの。これは多めに用意してある。

 それからもうひとつは、致死毒だの麻痺毒だのを鏃に塗ったもの。これは明確に相手の命を奪うので、おどしには使えない。いまのような大型の獣や、話の通じない野盗なんかにはもってこいなんだけれども。

 

 相手はまだ顔も上げずに伏したままなので、俺は遠慮なくじろじろとそれを眺めた。

 トロルもどきの黒い毛は、かぶっている皮と、それ自身と同じ色をしている。最初は狼をかぶってるのかとも思ったが、頭に乗せている皮の頭の形を見るかんじ、狼でもないっぽいんだよな。

 俺は山の獣なんか詳しくない。野宿の時に見つけた野ウサギを射って食うのがせいぜいだ。

 イタチとテンの見分け方とかさ。あれわからんて。どっちも細くてしゅっとしてますねって具合だ。

 だから、それがかぶっている獣の名前がなんていう名前のものなのか、全然わからなかった。犬っぽいような、猫っぽいような、どっちともつかずの醜悪なフォルムだなと思っただけだ。

 その、醜悪な獣ががばっと口を開いた顎のところに、かぶっている本体の頭があった。

 それの頭も黒くてぼさぼさした毛でおおわれている。五体投地してるんだから、当然顔面は前だよな。だからいま上を向いてるもじゃもじゃの部分は後頭部だ。

 それぐらい前後がわからない毛でおおわれている。

 毛、と俺は思い、ああでもこれがヒト科なのだとしたら、この脂ぎってえらく長く伸びているこの黒いものは、髪の毛なんだなとおくれて気がついた。

 ああー、そっかー、これ、一応髪の毛かー。

 まあ髪の毛だからどうしたっていうかんじなんだけれども。

 

 俺はまた一瞬現実逃避しかけて、それからしぶしぶまたそれを眺めまわす。

 まあもう半分珍獣眺めているような気分です。

 全身一枚皮で剥いだものをまるっとかぶっているので、頭から背中、尻にかけては、だからほとんどその、わけのわからない獣の皮の毛だ。

 フードとファー付きのマントとでもいったらいいのかな。すごい野性味あふれてるけど。

 そのあいだから伸びている手足にもなにか毛皮のようなものが、皮ひもだかツタだかでぐるぐる巻かれてあって、だからほとんど地肌は見えていない。

 いやこれ、なにかの毛皮だよな。……別の獣の毛皮だよな? 地毛じゃねぇよな。

 それこそトロルみたいに、地毛がもじゃもじゃ生えまくったメスっていうのはいただけないと俺は頭の片隅で思った。おとぎの物語じゃあ、髭(ひげ)の生えたゴツい女がいる部族、なんていうのもいるらしいけど、これ、作り話じゃなくて現実です。髭とか体毛がものすごい濃ゆい女とか、もう絶対ごめんこうむりたいです。

 同じ空気を吸うのもいやです。

 俺はそうして、無意識のところでそれの性別を認識している自分自身に驚愕した。

 

 あこれメスか。

 

 いやこの場合、一応、……、……一応、女、といっていいんだろうか。女。うん。――………………女だよな?

 

 言い切れないところに不安になって、俺はあらためてそれを見まわす。

 おっぱいぽろりとまではいかなくてもさ、ふくらみとかさ、なにがしか、女と確信が持てるような部位が見えたら一番よかったんだが、いやまあ、ご覧の通りですわ。

 毛だらけ。毛しか見えない。

 それから俺は、じゃあいったいどういうところで、これを女と判断したんだろうって思った。

 骨格か? それともさっき発した声か? 女にしてはわりと低めだった気がする。

 顔――、顔じゃないことは断言できる。なぜなら俺はそれの顔をまだ見ていない。

 見ていない、と思う。

 熊とそれが組みあっているときに俺が見たのは、それの血に濡れたような赤い唇と、興奮にぎらっぎら輝いていた目ぐらいなもんだ。

 目と口が見えたなら、それはいわゆる顔だろって言われるかもしれない。でも本当に部分だけなんだよ。全体像としてとらえてないの。

 そうして思いだす。

 これと熊が、どうして死闘ににおよんだのか俺は知らないし知りたくもないが、あそこで、あの場面で、俺が横から手を出さなければ、この女は死んでいただろうと思う。

 だろうと思う、というより、確実に死んでいた。

 あれはどう考えたって、ひっくりかえせる状況じゃあなかった。一拍先か、二拍先には、熊の突き上げかもしくは叩きつけで、この|獣被り《ドロシ》の女は内臓ぶちかまして絶命していたはずだ。

 力で圧倒的に自分を上回る、小山みたいな猛獣が突進してくるときに、恐怖を感じないやつなんているんだろうか。

 すくなくとも俺は怖い。

 俺が悲鳴を上げて逃げ出さず、過(あやま)たず狙いを定められたのは、自分の持っている弓矢の毒が、射抜きさえすれば相手を仕留められると知っていたからだ。

 半分からぼっきり折れた、ただ木の枝を鋭くとがらせて作った、ガキの工作みたいな槍一本で熊に立ち向かえなんて言われたら、それこそションベンちびりまくって、殺される前に失神してるわ。

 

 だのに、あのとき、|獣被り《ドロシ》の女の目にあったのは、歓喜だった。

 絶望だとか、悲愴だとか、そんなものが一切ない、戦いに血沸き肉躍る獣の目だった。

 

 ……まあ、いいか。

 俺はかるく頭を振って思いを振り払う。

 熊と立ち向かう勇気――俺はそれを勇気とは呼びたくないが――うんぬんはこの際どうでもいい。

 とりあえず今必要なのは、俺が突っ立ってて、女が五体投地しているこの状況ね。

 この状況なんとかしないと、話が進まないよね。

 ずっと突っ立ったままっていうのもね。うん。足くたびれるしね。あとこのまま俺が黙ってたら、こいつもずっと伏せているような気がするしね。

 

「……あのさあ」

 なんと声をかけたらいいか迷って、結局俺は普段通り、ヒト科の女、つまり町の女に話かけるように、ひれ伏しているそれをあつかうことにした。

「邪魔だからとりあえず離れてくれない?」

 別にこいつが|獣被り《ドロシ》だったから、俺はそんな物言いをしたわけじゃあない。

 単純に、俺が優しく親切に紳士的に対応するのは、十代ピチピチの可愛い子ちゃんだけだって決めてる。あとはもう、俺の区分け的に、ガキかババァかオスでしかないです。

 

 声をかけられたそいつは、びくんと体を震わせて、さっきと同じように、ほぼほぼ予備動作なしでぱっと体を起こし、はじかれるように数歩離れた。

 さっきもそうだけどさ、なんていうか、動きが唐突すぎなんだわ。予想できないっていうか。

 そういうの、見ていて疲れるんでやめてほしい。

 

 顔をあげてこっちを見ているらしいそれの前面は、やっぱり毛でおおわれていた。

 それでもなんとなく、なんせ表情が見えないからほんとうになんとなくなんだけど、こっちの出方をうかがっているような感じがあって、だから俺は相手が黙っているのをいいことに、聞きたいことをさっさと聞いてしまうことにした。

 

「確認するけどさあ、あんた、俺の言葉通じてる?」

 俺の質問に、そいつが僅かに首肯するのがわかる。それを見てああよかったって俺はまた思った。とりあえず、是非の概念は、俺と同じらしいってわかったからだ。

 

「とりあえずさ、どっちが前か後ろかわかんねぇんだわ。足の向き見て判断するの面倒くさいから、顔出してよ」

 言うと、ちょっと考えるような間があって、それから|獣被り《ドロシ》の女は、手で前髪? をかき分け、鼻と口を出してみせた。ああ、まあ、俺が言ってた顔出せっていうのは、顔全部見せろってことなんだけど、まあいいや、うん。

 

「あんた、|獣被り《ドロシ》だよな?」

 聞くと、またうん、と頷く気配がある。

「あのさ。あんた以外の、群れの他のやつらはどこにいる? 近く?」

 次に俺がたずねると、またちょっと考えるような間があって、それから|獣被り《ドロシ》の女は首を横に振った。

「え、なに」

 仲間の居場所は教えないとか、そういうのだろうか。

 まあそうかもしれない。

 俺が悪意をもって、この森の中に侵入してきた可能性だってあるわけだしね。

 たとえば俺が、ひとりで来ているわけではなくて、斥候とかそういう先遣の人間で、群れの位置や数を知って俺の仲間にしらせ、一気に強襲する、そういうのを警戒されているのかもしれない。

 言わせてもらえば、俺だって探り入れるようなこと、本当は聞きたかない。もう怪しんでくれって言ってるようなもんでしょ。怪しさびんびんでしょ。

 だけど、とにかくこいつらは群れで動くっていう話だったから、こうして俺がこの女とお話しているときに、背後からいきなりぶすぶすぶすってなって、はい槍衾(やりぶすま)、とか、そういう展開だけは避けるために聞かざるを得ないというか。

 ほんと避けたい。

 安全確認大事だと思います。

 

「いない」

 

 しばらく経ってぽつんと女が漏らした言葉は、ちょっと意外な言葉だった。

 さっきと同じ、女にしては低めのアルトだ。まあね、きぃきぃ甲高い、耳ざわりな声にくらべたら数段聞きやすいし、俺は別にいやな声じゃあなかったけれど。

「え、いないって、……、あんた単体でなにか狩りとか、……群れとは別行動してる最中とか、そういう、」

「いない」

 俺の言葉をさえぎって、女は先と同じ言葉をくり返す。意味がわからない。いないってどういうことよ。

 言えない、ならわかる。

 ああもう、って頭を掻きむしりたい気持ちでいっぱいになって、俺は大きくため息をついた。

 俺はね、会話がしたいんです。会話。言葉のキャッチボールってやつですね。単語じゃなくて、文でしゃべってくれるとありがたいんですよね。

 

「いなくなった」

 しばらく考えていた女は、何度か口を開いて閉じ、それから結局説明するのをあきらめたような様子で、もう一度首をふる。

「……いなくなったって、」

「わからない。いない……、いない、……、いなくなった……、もう、誰も、」

 

 えなにそれこわい。

 

 そして誰もいなくなった、とかふとそんな一文が頭をちらとかすめたりして、俺は無意識に二の腕をこすって身震いしていた。ミステリーとかサスペンス要素は求めていないんです。

 やめてください。

 

「あー……まあいいや。じゃあさ。ひと月ほど前に、森に入り込んだアホが何人かいるはずなんだけど、あんたそれ知らない?」

 群れの話をそれ以上聞きこむのは無駄な気がして、俺は本来の目的であるひと探しの方の話を、進めることにした。

 そう。ひと探し。俺はひと探しするために、入りたくもない禁猟区の森に入って、|獣被り《ドロシ》の女と話している。

「ひと、つき」

 聞かれて女が首をひねった。そのとまどいの仕草に、ああそうか、って思う。

 そうか、時間の概念とかがないのかって。

 まあそれもそうか。

 森の中に、カレンダーはいらないもんな。

「えーと、昨日のずっと前ってことなんだけど……ああ、……昨日はわかる?」

「いや、」

 俺の問いに、女がまた首をふる。ああそう。昨日もわからない。そうですか。

 なんか、やっぱり動物に近いのかもしれないなって俺はふと思った。動物ってさ、昨日、も明日、もないんだそうだ。つねに今。

 昨日いやなことがあったーってくよくよすることもなければ、明日獲物が見つからなかったらどうしようーって悩む-こともないらしい。ただ、今だけ。

 今、腹が減ってるから飯を食う。今、眠いから寝る。それだけなんだって。

 憂うとか、思い煩うっていうのがないんだそうだ。言ってみればそれってある種の幸福だよね。

 羨ましくはあるけど、なりたいかって言われると、なんとなく不便そうだから、俺は今の俺のままでいいかなとも思うけれど。

 

「いっこ寝た前が昨日ね。んで、いっこ寝たあとが明日。で、ひと月っていうのは、いっこ寝た前の、前の、前の、前の、前の、前の前の前の前のすごい前の日」

「なるほど」

 俺の言葉に女はうなずいて、それから覚えた、とにぃ、と口角をあげていった。

「皮なしの言葉は興味深い」

「え、なに、皮?」

 聞きなれない言葉に俺もくり返す。皮をかぶるのがこいつらなんだから、かぶってない俺のことが皮なしね。ああ、はい。

 皮、とか言うとやっぱり俺的に別のことを連想してしまうけど、そこはあまりこだわらないでおこうと思う。とにかく、俺は別にこの|獣被り《ドロシ》の女と、言葉の学習大会がやりたいわけではないのだし、当初の目的がまだぜんっぜん果たされていない方が気になるからだ。

「あのね、俺、ひとを探しにここに来たのね。まあひと月も前の話だから、ひと探し――ってよりかは、遺品拾い――みたいな意味合いが強いんだけど」

 

 

 俺が、馬宿の赤毛女将から、借金のカタに押しつけられた依頼はこうだ。

 ひと月ほど前、禁猟区の森近くの集落に、旅のよそ者が数人、泊ったんだそうだ。

 そいつらはつまり、一口で言えば、おつむの足りないおバカさんたちで、|獣被り《ドロシ》が住む森が近くにある、っていうのを聞いて盛り上がっちゃったらしい。

 そんで、よしとけばいいのに、止める集落民振り切って、おーし度胸試しだー、とかいって森に突っ込んで行ったんだそうな。完全にアホですわ。

 こういうの、若気のいたりとか言うんでしょうか。

 なんかときどきいるよな。危機管理できてないやつ。

 上流で雨降ってる川の中州でひと休みしようとするとか。火気厳禁の火薬の真横で一服しようとするとか。

 今回みたいに、|獣被り《ドロシ》がいると聞いて見に行こうとするとか。

 ああいうの、わざとじゃないんだよね? わざわざ、おのれを危機的状況において、どきどきすることにハアハアしたり、そういう性癖があるってわけじゃないんだよね?

 単純にこうしたら結果こうなる、の連想力がおおはばに欠如してるんだよね?

 それはそれでお近づきになりたくない。バカが移りそう。

 

 まあそういう、ガキならともかく、大人になっても危機管理ができないおバカさんは、そこで死んでなくたって、早晩どこかで命を落としていたんだろうと思う。

 自業自得だろ、って俺はその赤毛の女将に言ったんだけど、事故に遭うためにわざわざ森へ突っ込んでいったおバカさんたちはおいとくとしても、見送った側の村人たちは、気持ちが悪くてしようがないらしい。

 おバカさんを止めきれなかった後味の悪さ。もうひと月も経っているから、生存はきっと絶望的なんだろうけれど、それはそれで気になるのってのがひとつ。

 死んでいるなら死んでいるで、きちんとした証拠がほしい。

 それから、|獣被り《ドロシ》がいる、とされている森に手を出して、群れがどう取るか、変に刺激したことにより、今まで大人しく奥へ引っ込んでいたやつらが境界を越えてこっちへ出てくるんじゃないか、出てきたらまずまっさきに集落は狙われるんじゃないか、という心配がひとつ。

 まあそうだよな。わかるわ。

 ヒト並に知恵が回る凶暴な獣が、近くではないとはいえ、森の奥の奥の奥の方にいるって知ってるだけでもびくびくもんなのに、それがもしかするとこっちへやって来るかもしれないとか考えたら、ちょっと枕高くして眠れないよな。

 住民に対しては、同情の余地があると思う。あ、おバカさんたちはもうどうでもいいです。

 

 気にはなる、もやもやする、でも自分たちで禁猟区に入るのはどうしたっていやだ、ってんで、住民みんなで頭を寄せて話し合って、戸ごとに金を出し、そうして馬宿まで依頼話を持ってきたらしい。

 踏み込んだやつらがいったいどうなったかを調べてほしい、と。そうして、もしできれば、|獣被り《ドロシ》たちが境界を越えてこないという確証がほしいと。

 限界集落の住民が、決して豊かでないそれぞれの財布から、なけなしの金を掻き集めて依頼を持ってくるとか、聞いてたら絆(ほだ)されちまいそうな話だが、判断力がちゃんとある報酬稼ぎならその依頼はどうしたって受けないはずだ。

 依頼が余ってるのが答えなんだよ。

 だっていやだよ。みんな、自分が死ぬのはいやなんだよ。

 ときどきは、そういう恐怖を感じるゲージが限界突破しているとち狂ったやつがいて、わざわざそうした依頼を選んで、荒稼ぎをして名を馳せている、なんてのもあったりするけど、そんなの万一みたいな確率のもんで、その他の九千九百九十九人はわが身が大事なんですよ。

 他人が困っている、金次第じゃあ請け負ってもいい。

 だけど、安全に限る。それが当たり前の感覚だと思う。

 もちろん俺だっていやだ。

 

 

 |獣被り《ドロシ》の女が、ああ、と俺の説明を聞きながらうなずき、

「お前さまは、仲間の皮なしを迎えに来たんだな」

 そう言った。

 そうですね。そうなりますね。

 それが迎えに来たっていうのか、くわれて残った服の切れはしを探しに来たっていうのかは、まあ、おいておくとして。

 うなずこうとして、ちょっとその言葉に引っかかる。

 こいつはいま、知らないとは言わなかったな。

「あんた、知ってるの」

「知っている。彼らを保護している」

「保護、」

「彼らは動けない。彼らは穴にいる」

 俺の問いに女はこたえ、付いてくるか、と仕草でたずねた。

 うーん、いまひとつ状況が飲みこめないけど、これってこの女について行っていいのかな。即答できずに俺はためらう。

 保護してるってことは、生きてるってことだよな。

 死んだやつに保護してるという言葉は使わないよな。

 

 もしかすると、女の言葉の八割がたは嘘で、たとえば森に深く入り込んできた俺を、罠にはめるための言葉かもしれない。

 群れがいなくなった、というのはひっかけで、実はこいつは囮で、のこのこついて行った俺も、先行のおバカさんたちと同じようにおいしく齧られてしまうのかもしれない。

 なんか、数ある噂のひとつには、食人するっていうし。それも、依頼を受けたくなかった理由のひとつなんだけれど。

 噂であることを切に願いたい。

 ほんと願いたい。

 

 俺は迷い、……けどなあ。ここまで入り込んでおいて、生きてるっぽいです、見てないけど|獣被り《ドロシ》の女がそう言ってました、任務完了です、お金ください、で、報酬がもらえるとも思えなかった。

 ていうか絶対それだとまた耳引っ張られるパターンだろ。

 なに莫迦なこと言ってるんだって、またあの赤毛女にさんざんけちょんけちょんにけなされるだろ。

 で、きちんと調べて来いって尻蹴られて叩きだされるだろ。

 もう先が見えるよね。

 それにさ、仮にこの女が囮で、群れが別働でいる場合、もう俺はしっかりかっきりターゲットにされちゃってますよね。

 逃げようがないですよね。

 さっき言ったろ。多対一なら多の方が絶対強いんだって。こんな逃げ場もない森の中で、俺に勝ち目はないですよね。

 だったらもう毒食わば皿までって心境だよね。

 

「行く」

 だから俺はしぶしぶ|獣被り《ドロシ》の女について行くことにする。

 俺の返事にうん、と頷いた女は、それから横でしおしおになっている巨熊を指さし、獲物、と言った。

「あ?」

「お前さまの獲物」

「ああ、まあ、うん、そうなんだけど……、……そうなんだけど、いいわ。いま皮剥ぐ気分じゃないし」

 これだけ大きな熊の毛皮とか、うまく剥げれば結構な値が付くだろうなと思う。

 育ちきっちまってるから、肉は固くてまずそうだが、掌とかね。持って帰ったらそれだけで結構な額……ああ、金と聞いたら心揺れるけど、……ものすごく心揺れるけど、でもなあ。解体面倒くさいしなあ。

 いいよ、あげる。言うと、なんだかとんでもないものを見る感じで、女が俺のことを見返す。え、なに。

 もったいないとか、森の恵みがとか、そういうお堅いこと言うのかなって身構えたけど、女は結局何も言わなかった。

 

 先に発つ女についていくかたちで、俺はさらに奥地へ踏み込む。弓を構えていこうかどうか相当悩んだんだけど、一応、女を信頼する態をとって、矢はつがえずに行くことにした。

 

「一応聞いとこうかな。あんたの名前」

「名前、」

「あるでしょ?なんか。あんたを指す言葉。大勢で生活してるんだから、固体名ないと呼ぶとき不便でしょ」

 進みながら俺は女に話しかけた。

 とくに会話しなくてもよかったんだけど、なんていうの、初対面どころか初遭遇の得体のしれない生き物と行動を共にするとき、無言ってなんか怖い。

 相手がなにを考えているのかわからないし、ただでさえ毛だらけなのに、これで黙っているとそれこそなにかの魔物にむくむく変身してしまうように思えて、だから俺は女と会話したいというよりも、俺自身の平静を保つ意味で話し続けた。

 これから夜をむかえる森の中、どう豹変するかわからない相手に先導されながら、森の奥へ奥へ分け入っていくとか正気の沙汰じゃない。自殺行為だ。

 ああ、もしかすると俺も件(くだん)のおバカさんと同じなのかもしれない。

 

 俺が言うと女はああ、とうなずいて、

「ヌィ・ンッムョボ・ゲャワ」

 と、振り向きもせず、背中越しに、これまた唐突にそう言った。

「えっ」

「お前さまが聞いたのだろう。わたしの名。わたしは、ヌィ・ンッムョボ・ゲャワという」

 

 

 ごめん、聞きとれない。

 

 

 

 

最終更新:2020年06月18日 22:34