|獣被り《ドロシ》女と遭遇したところから、女のあとに続いてふた時ほど。
いやあ、歩きましたわ。
女はかなりの健脚で、付いてくるかと言ったわりに、俺のことをまったく顧みずすたすたと歩いていっちまうんで、俺も遅れじと女について行った。
遅れじっていうか、はぐれると確実に迷子になるから、もうもう必死だった。
ほんと、めちゃくちゃ早いのよ。すったすたなのよ。
別に野山を駆けまわってるわけじゃあないが、それなりに足腰には自信があった。
あったはずだった。
自信というか、普段の町から町への移動する際、馬車は高いし金をケチると徒歩になる。だから、街道筋をてくてくてくてく歩くことになるんだけれども、町と町の距離間って結構あるんだよな。
何日も何日も野宿をはさみながらの行軍だ。だから、自然、筋肉が付くところに付いてるはずだったんだけど。
その俺でも辟易するような悪路だった。
だのに、その道をですよ、道と呼ぶのもためらうかんじのただの山中をですよ、先を行く女は足元の悪さを気にもせず、結構な傾斜もおかまいなしにさっさのさって具合に登っていっちまうんです。
体を支えるために枝とかつかんでないのよ。足だけ。角度的にものすごい足の腱伸びてるはずなんだけど、いったい体のつくりどうなってるのって思う。
なんでしょうね。あれですかね、肉球とか蹄(ひづめ)とかついているんでしょうか。
俺と同じヒト科っていったけど、本当にそうなのか確証が持てなくなってきた。ワンチャン下半身が偶蹄目(ぐうていもく)の可能性あるんじゃないの。
山羊足の悪魔とか、おとぎ話でいるじゃん。ああいうやつ。
けど、たしかめようにも毛皮で覆われててよく見えない。
木立をつかみ、下草に足をすべらせ、ひぃひぃ言いながら俺はついて行った。なんたる苦行。
そんで、こんだけがんばってお仕事してるのに、銅貨ひとつ上乗せされないとか、泣ける。
|獣被り《ドロシ》の巣穴に着いたときには、文字通り全身汗みずくになっていた。
森がひらけて峡谷みたいになった場所にそれはあった。
灰白っぽい岩でできていたから、おそらく石灰岩なんだと思うが、俺は地質学者ではないので実際のところはよくわからない。
その段差になった石灰岩に、自然なのか人工的なのか、ところどころにぼつぼつ横穴が開いていて、女はその穴のひとつへ背をかがめ、くぐっていく。
一度ちらりと振り返り、躊躇(ちゅうちょ)する俺を手招いて、こっち、と短く言っただけだ。
ああ、はい。そっち。そっちに行けばいいんでしょうね。
でもね、毒食わば皿までとか言いましたけどね、あのね、たしかに言いましたけどね、なんか本当に、この穴はいって大丈夫なんでしょうか。
毒食わばっていったって、その毒食って死んじゃったら意味ないんですが。
ことここに来て、俺はいきなり怖じ気づいた。
俺はやっぱり女に騙されていて、中に大勢が息をひそめていて、俺が入ろうと身を屈めた瞬間、上からがっと斧とか落ちてきたりしないだろうか。
まあ一気に頭落としてもらえれば、たぶん即死すると思うから、痛いも痛くないもないままに死ねるんだと思うが、あの、ほら、食人の方のね、噂をね、ちょっと気にしてるわけでね。
俺は、食われるのは怖い。
なんだかうまく言えないのだけれど、たとえば野垂れ死んだ自分の体を、鳥や獣どもがつつくというのは、自然の摂理というか、もうしかたないよねって諦めてる。
ベッドの上で死ねるかもわからないしさ、まあ死んだって葬ってくれる誰かがいればいいけど、最悪川っぺりにぽいと転がされるだけかもしれない。
だから風葬だか鳥葬だかわからないけど、路肩で死んだら、もう動物が来るのは不可抗力だよねって思っている。
さらされたままの、盗賊やら追い剥ぎやらの虫が集(たか)ってる死体とか見てると、特にね。
俺もきっと似たようなもんだろうなって。
でも、そんなふうに、野垂れ死ぬことも野ざらしになることもしかたないと思ってるくせに、俺は、俺と同じなりをしている生き物、――つまり知恵を持った人間――に、自分の死体を解体されて肉を削がれ骨をしゃぶられるのは、絶対に絶対に勘弁だと思っている。
勘弁だというか、なんか、とてつもなくいやだ。
熊や狼の餌になるのは平気だけど、ヒトに食われるのだけは生理的に怖い。
だからもしかすると俺は、女に聞き取ることもできないような名前なんか聞くより先に、俺を食う気があるのかどうか、そもそも|獣被り《ドロシ》は本当にヒトを食うのか、確認した方がよかったのかもしれない。
確認したところで、ほんとうに食う気だったら、教えてくれるはずはないのだろうけど、でもやっぱり聞いておいた方がよかったのかもしれない。
女の姿はもう見えない。
挙動不審になりながら、俺は周囲を見回した。
貝塚、みたいな、食った骨を積んであるような場所は、とりあえず横穴の近くには見当たらない。
まあ、見当たらないからってね、安全かって言うとまるでわからないわけなんだけれども。
女は俺を招いただけでもう奥に行ってしまったし、ここに突っ立ってるっていうのもどうなのっていう話だったから、俺は仕方なく穴に近づいた。
おそるおそるなんてもんじゃない。もうびくびくもんよ。膝笑いまくってる。
怖い。
いやもう本当怖い。
……俺、うまくないですよ。そんなに脂も付いてないし、スジばってるし、さっきの熊じゃないけど育ちきってますから、肉もかっちかちですよ。
そんなことを呟きながら俺は弓を背に戻し、代わりに腰の山刀に手をやって、いつでも抜けるように構えた。
抜いて入って行ったってよかったんだけど、たとえば中で|獣被り《ドロシ》のやつらとはちあわせして、俺が抜き身の刀持ってたら、たぶん問答無用で戦闘になっちゃうでしょ。
弁解の余地がなくなるのは避けたかった。
女が入っていった穴は、異様に狭い。洞窟というよりはまるで白アリの蟻塚だ。
俺は平均よか小柄な方だけど、その俺でさえ肩を若干竦めないと擦れるような穴幅だった。それなりの体格のやつだと、体を横にしないと通ることすらできないと思う。
十数歩進んで、後ろを振り向くのもやっとなことに気がついて俺はぞっとする。これ、もう前後から塞がれたら逃げようがないじゃあないかって。
ここが俺の墓穴になるのかとふと思いついて、ますますそそけ立った。
そうしてものすごくうまくできているところは、一度穴の中に踏み込んだら、容易に方向転換できないようになっていることだ。後ろ向きに戻れば戻れないこともないけど、無防備な背中からいくの? いやだ。
だから、もし戻りたければ、いったんどこか体を反転できるだけの幅がある空間までいって、そこで回れ右しなきゃいけない。
つまり、否が応にも進むしかないってことだ。
えー、これ、通常|獣被り《ドロシ》の方たちはいったいどうやって通行してたんですかね。
毎回互いにはちあわせしてたら、鬱陶しくてかなわないと思うんだけども。
往路と復路でも決まってるんでしょうか。
息を押し殺し、半泣きになりながら、俺はしようがなく前へと進んだ。
俺ばかじゃないの。なんでこんな穴にまで入り込んでるの。ほんとばかじゃないの。そう思った。
鼻汁が垂れてることにもなんとなく気付いていたけど、だからさ、ぬぐえないっつうの。せますぎて。
なんだかガキの頃のおっかない夢がそのまま現実になったような、そんな通路だった。
悪夢の中の俺は、いつもなにかに追われていた。それはナメクジじみた軟体生物だったり、毛むくじゃらのトロルだったり、ときには顔がのっぺらぼうな殺人鬼だったりした。
その「なにか」から逃げるために、俺はいつも、とてつもなく細い、土管のような隘路(あいろ)の前に、追い詰められるのだ。
目の前の隘路は、どう考えても絶対先細りしていると思われる細さで、だけど背後から迫る「なにか」から逃れるためには、そこに入るしか選択肢がない。
入らなければ見つかって死ぬ。
だが、入ったところで、助かるかどうかはわからない。
そうして夢の中の俺は、その道が最終的にどん詰まりになるということを、とっくに「知って」いた。入れば、途中で身動きできなくなるということも。
入ったって、もうダメなのだ。助からない。救いようがあったら悪夢とは呼ばない。
けれど、「なにか」の荒い、はあはあした息づかいは刻一刻背後にせまってくる。
俺は目の前の通路に体をねじり込むしかない。
一縷(いちる)の望みをかけて、本当は助からないことを「知って」いながら、体を無理矢理ねじり込み、前へ前へと身を擦りながら進む。
やがて、体はどうしても前へ進まなくなり、そのときはもう後ろに下がることもできなくなっているのだ。
通路は明かりひとつなく真っ暗で、俺はひとりだ。全身が締めつけられているために助けを呼ぶ声さえ出ない。
ああだめだ、だから入っちゃいけないって言ったんだ、その俺に後ろからずるずると体を引きずるようにして「なにか」がせまってくる気配がある。
うなじがちりちりとし、俺はほんの一寸でも前へ進もうともがき続ける、だめだもう助からない、もうすこしで細く長く伸びた「なにか」の手が俺の肩にかかる、あとすこし、……あとすこし……、あとすこし、
「お前さま」
「ぎゃあ!」
唐突にぽん、と肩に手が置かれて、俺は飛び上がり、絶叫する。
たいして叫んだわけでもないのに、頭からざあっと血が引いて、目の前に星が散った。あ、これ、倒れるかも。
思った瞬間、いきなり視界が真っ黒になって、俺の意識はそこで途切れた。
昔から低血圧で、片頭痛もちだ。
曇りの日なんかとくに、頭が一日中くらくらしたりで、いきなり立ち上がるとざあーって血の気が引くのがわかるとか、わりと貧血にも慣れてる。
だから、その貧血具合がもうちょっとひどい時には、ばたんと倒れるっていうのも何度か経験あるんだが、わかるでしょ、貧血なったことあったらわかるでしょ。
そんな時でも手順というか、倒れるまでの一連の流れみたいなのはあるじゃない。
まず急激に気分が悪くなって吐きそうになる、それから全身の毛穴から汗が吹き出してくる、それから顔面中心に血が下りていくのがわかる、それから呼吸が不規則になって手足の末端が冷えていく、そうして目の前がちかちか明暗して音が妙に遠くなる、で、はい、意識ふわぁ、みたいなの。
周りで見てる方はいきなりぶっ倒れたように見えると思うが、倒れる本人はいきなりじゃないのよ。序章みたいなのがあるのよ。
だけどその予兆もなしにいきなり気絶するっていうのは、俺ははじめての体験だった。
体験ってったってね、全然うれしくない体験ですけれども。
心臓発作ってあるけど、似たようなもんなんだなって思う。
本当に人間って、驚きの限界値を一瞬で越えると気絶するんですね。
創作の中だけだと思ってたわ。
俺けっこう本読むんだけどさ、かよわいお嬢がくたくたっとよく倒れるじゃない。穿いてるドレス中心にして、うまい具合に気絶するような描写があるじゃない。
でも実際倒れ込むときなんて、無防備なんだよな。
ばたんといったきり、防御のしようがないから、顔面か、後頭部か必ず強打してる。だから目が覚めて一番最初に思うことって、痛ぇ、っていうことだった。
今回も痛みで目が覚めた。
意識が戻った瞬間の最初が痛みからはじまるって、目覚めとしては全然さわやかじゃない。むしろ最悪だと思う。
ただ今回、若干いつもと違ったのは、打ちつけた痛みじゃなくて、……、ええとこれ、なんて言うんですかね。擦過痛? ざりってすりむいて痛いやつ。
痛むのはこめかみから頬だった。
ちょうど頬のあたりにべったりと大判の葉が貼られているらしく、ものすごく青くさい。そうして一瞬あれってなる。俺、なんでこんなところに葉っぱ貼りつけてんのって。
それから、背中や腰のあたりが痛い。これは打ったんじゃなくて、ごつごつとした地面に寝かされているせいだ。
なのに頭の下だけは、なんやらやわらかいものがあるってことを次に感じた。
やわらかいって言っても、ふわふわっていうかんじじゃなくて、弾力のあるむちむちというか。むちむちをごわごわが覆っているというか。
説明しがたいんだけど、なんだろう、大きな犬とかを頭の下に敷いていると、もしかしたらこんな感じじゃないだろうか。
大きな犬。頭の下。
そこまで考えて、あれっこれいったい何ってなって、俺はまだぼんやりとする頭でゆっくりと視線を動かした。
最初に目に入ったのは、顎だった。
俺はどうやら寝かされていて、なので下から仰ぐかたちになるわけなんだが、下から仰ぎ見るに、なんやらとても白くて形のいい顎だった。
ほら、予感みたいのってあるじゃん。
あれこれもしかしてすごいきれいなんじゃね? みたいなの。
美醜の良し悪しなんてさ、結局骨格なんじゃねぇのって思う。言ってみれば枠組に肉がのっかってるわけなんだから、もとの枠が整ってなきゃ、上っ面をいくら整えても無理なんだよね。
根本的な問題だよね。
だからこれは持論だけど、骨格がきれいな女は比例して美女なんじゃないのかなって。
べつに、ものすごい美女って意味じゃなくでも健康的美しさ、とか、全体的に見てバランスがいいからきれいって言える、とかそういう建前の話じゃなくて、実際に美人さんが多いと思う。
その俺の勘がなんかピンときた。
これぜったいきれいな女だぞって。
てことは俺のこの体勢からすると、そのきれいな女に膝枕されてるってかたちになる。
ちなみに、なんで俺が頭を乗せてる膝の持ち主が女だと思ったかというと簡単な話で、つまりは喉仏がなかったからだ。
まだよく頭がはっきりしないまま、俺はその女に手を伸ばす。
伸ばしながら、なんで俺はここで寝てるんだろうってまず思った。
娼婦だったかなともちらと思ったが、夜鷹を買った覚えはないし、だいたい俺は道端とか川原の橋の下とかいやなんだよ。見せびらかして興奮する趣味があるわけでもないし、落ち着かないじゃん。
寝るならちゃんとした寝床がよかった。
だから、ここが娼館でないことくらい俺にもわかる。地べたの娼館とかどんだけ野性味あふれた趣向なんだよって思った。
それから、自分で言っといて、野性味、って言葉に引っかかって、うん、? ってなる。野性味。地べた。ごわごわに覆われた弾力のある体。
そうして、得体のしれない女。
そこまで呆けた頭でのろのろ考えて、そうしていきなり稲妻のように、現在どうしてこうなっちゃってるのかの状況がすとんと頭の中で理解し、それと同時に女がひょいと俺を見下ろした。
見下ろしたとはっきり言いきれるのは、女と俺の視線がかちんと合ったからだ。
はじかれるように、ってあるけど、文字通りはじかれるように俺はびよんと跳ね起きて、飛び退(すさ)った。肩がどこかの岩壁にどんと当たったが、痛みはまるで感じなかった。
腰を落とし、身構え、山刀へ手をかけた――かけた――かけようとして空を切り、そこに得物がないことに気づいて、頭をがんと殴られたような衝撃を受ける。
差していたはずの山刀がない。慌てて背に負った弓と矢筒を探したが、そこもやはり空だった。
やばい。本気でそう思った。一瞬でパニックに陥る。
やばい。
武器を、とられた。
「お前さま」
絶望に思わず呻いた俺を|獣被り《ドロシ》の女が、訝しげに眺め、呟いている。その声にちらと心配の色が見えたような気がして……、心配だ? するわけないだろう俺を食う気なら。
たしか俺は|獣被り《ドロシ》の巣穴をくぐっていたはずだった。
その途中でいきなり声をかけられ、ビビるあまりに失神した。
情けない。そう思う。ビビったくらいでぶっ倒れてちゃ、さあどうぞ俺を食ってくださいと言っているようなもんだ。完全に俎上(そじょう)の鯉じゃねぇか。
舌打ちをし、急いであたりを見回す。
さっきくぐっていた非常に狭い通路穴とは違って、ここは一応人が立って両手を広げてもつっかえないだけの広さが保たれていた。半間ほどだろうか。
白アリの蟻塚、と俺は言ったけどまさにそうで、おそらくあのせっまい通路を進むと、いくらかの空間につながっているにちがいない。
そこまで思い、それから俺はじりじりと目の前の|獣被り《ドロシ》の女に視線を戻した。
女は俺よりでかい。さっきの熊と死闘を演じていたのを見る限り、筋力も膂力(りょりょく)も申し分なさそうだ。
空手の俺で勝てる気がしない。
勝てる気がしない、というよりは、いやもう全く絶望的というか。
脇にいやな汗が伝って、俺はごくりと唾を飲みこんだ。可能性は限りなくゼロでも、このまま大人しくやられるのだけはまっぴらだと思った。せめて一矢、この場合矢は取り上げられているから拳なんだが、一発でも抗わなければならないと思った。
「お前さま」
俺を見ていた女が、首をかしげた。なんだ、そんな困ったような声をして。俺の隙をねらおうったってそうはいかねぇぞ。そう思う。
「危険、ない、……どうするか?」
「――は?」
次に女が発した言葉に虚を突かれ、思わず声が出る。
「ヌィ・ンッムョボ・ゲャワは、お前さまを傷つけない。……どうするか?」
「……どうするって、」
唐突に話を振られて、俺は若干うろたえる。
「どうするって、ちょっと、言ってる意味がわから、」
「ヌィ・ンッムョボ・ゲャワは、危険ではない。お前さまに危害を加えない。決して何もないないと約束する。危害を加えないかたち……、……体、手の形……、どうするか」
「え? 形? ……ええ、」
どうやら女は、自分が無害で無抵抗なことを示そうとしているようだった。示されたってだからどうだって感じなんだが。
戸惑いながら俺は両手を自分の顔の横あたりにあげてみせる。
「えー……、……、こうじゃねぇかな」
降参というか、ひとまず自分は何もしませんよっていうポーズだ。お手上げともいうが。
手を上げながら俺はちょっとだけ落ち着くことができて、代わりにじろじろ相手を見回した。
女は、さっき森の中で歩いていたときと大して変わらない格好をしていた。違いは、折れた槍を手にしてないくらいか。
相変わらずの毛むくじゃらで、先ごろ下から仰いだ顎のラインだけはきっちり見えていたけれど、それ以外は真っ黒黒な髪の毛で覆われている。
こうか。言って女は俺が教えたとおり、肩よりすこし上に両手をあげ、手のひらを俺に向ける。広げた手のひらはさっきの予想に反して、肉球もなけりゃ、なんのとっかかりもなかった。
それを見て、ああやっぱりヒト科なんだな、と思う。
「ヌィ・ンッムョボ・ゲャワは何もしない。お前さまはヌィ・ンッムョボ・ゲャワの命を助けた。だから、ヌィ・ンッムョボ・ゲャワの命は、お前さまのものだ」
「ええ……なにそれ、重い……、」
安い人間ならここで、真摯に訴える異種族の女に感動を覚えるものなのかもしれないが、とりあえず俺の心に真っ先に思い浮かんだことはと言えば、面倒くさい、だった。
なんだろう。いらん野良犬に懐かれた感覚というか。かかわりあいたくないというか。もう半分以上泥沼に足突っ込んじゃってる気もするが。
げんなり呟いた俺の声を聞いて、女は必要以上におどおどした。信じてもらいたくて一生懸命な忠犬、と言ったふうの素振りだった。
ひとまず女は俺を襲うつもりもないようだったし、物音一つ聞こえないところを見ると、間近に他の|獣被り《ドロシ》が隠れているというのもないようだ。
その代わり、女のうろたえぶりを見て、ふと俺の心に|悪戯《いたずら》心が湧く。悪戯と言っても、どっちかというと、わりと自覚ありの嗜虐寄りだったが。
「……なあ」
言質(げんち)をとるどころか、相手が勝手に言質を俺に与えてくれてるんだ。力の上下関係をはっきりさせる前に相手が譲ってくれているんだから、利用しない手はないと思った。
「じゃあさ、顔見せろよ」
意味もなく尊大な調子で俺は命を下す。実はさっき、顔を出せと頼んだときに、女が一瞬考えていたのを俺は知っていた。あれは確実にためらいだった。
何にためらったのかまで知る由もないが、相手がいやがることを強要して相手がいやいや従うとか、めちゃくちゃ楽しいじゃん。
さっき俺が顔を出してほしいと言ったのは、前後がわからない相手との会話をするために必要だったからだ。
今はちがう。
たぶん|獣被り《ドロシ》にとって、顔を出す、ということはあまり好ましくないことなのだなと察していながら、あえて俺は女にそう言った。
つい今しがたまで女にびくついて食われる恐怖に脂汗を流していた俺が、余裕かまして優位を示そうとしているとか、傍から見ればたぶんものすごくおかしい光景だったと思う。
まあ実際俺はちょっとおかしかった。
空手なのは相変わらずだったし、女はふと気を変えて俺を絞め殺そうとすればできる話だ。
だのにそのとき俺は、無性に女の顔を見たくて仕方がなかった。
好奇心ともちがう、探求心ともちがう、これははっきりといやがらせのたぐいだ。
女は俺の言葉を聞いて、またちょっと考える間を見せたが、お手上げしていた手を顔に持ってゆき、そうして最初と同じように、垂れていた髪の毛をすこしだけ分けて、鼻と口を出してみせた。
「そうじゃなくてさあ……全部だよ」
わかるだろ? 俺は言った。
「全部、」
さすがに女はとまどい、できない、とばかりに首をふりかけた。
「――信じてほしいんだろ?」
その拒否に俺は待ったをかけて、ひどくいやらしい台詞を吐く。
「あんたがなんでもするって俺に信じてほしいんだろ?」
「しかし、」
「信じてほしくないなら、べつにやってもらわなくたって俺はいいんだぜ」
「……、」
完全にいじめです。でも楽しいです。下種(げす)なのは生まれつきなんですいません。
追い打ちをかけてそう嘯くと、女は血に濡れたように真っ赤な唇を何度か開閉してなにか言おうとしてはあきらめ、そうしてゆっくりと頭に手をやり、かぶっていた犬のような猫のような獣の頭を取り外す。
かぶっていた獣の頭からは後ろにたてがみのように長く尾を引く毛があったから、それを取り外したってことは、うなじや肩のラインが露(あらわ)になったってことだ。
それから首の後ろに手をやり、いくらかもそもそとしている。きっと首の後ろの結び目を解いているんだろう。
これで鬱陶(うっとう)しく顔の前に垂れている毛も一掃されるかな。ようやく女の顔が全部拝めるな。
そう思った俺の前に、いきなりまぶしい裸体があらわれた。
女が体にまとっていた毛皮を脱ぎすて、一糸まとわぬ姿になったのだ。
そうして顔は女の地毛の髪の毛でやっぱり覆われていて、半分以上見えていない。
ちがう、全部見せろって言ったけど、そうじゃない。