「ちょっと俺のことたたいてほしい」

「え、やだ、気持ち悪い」

 

 馬宿にもどり女将の顔を見た俺が最初に口にした台詞(セリフ)はそれで、そうして女将からの返事はそれだった。

 しかも俺が出かけるときは所用でいなかった女将のツレ、つまりはここの馬宿の主が、カウンター奥からこっちを胡乱(うろん)気にじろりと眺めるおまけつきだ。

 

 ここのおっさん、俺苦手なんだよね。

 顔も体もいかつくて、縦にも横にもでかい。といってもぶよぶよ太っていると言うわけではなくて、なんか古木の切り株というか、大岩というか、そんな感じしてる。どっしりしてると言ったらいいのかもしれない。俺は今この大男のことをおっさん、と言ったけど、これで俺よりふた回り近く年は若いとか、ぜったいなにかの詐欺(さぎ)だと思う。

 俺は年相応だと思うけど、ここの主人は絶対老けてる。老けて見える。

 なんでも、文字通り、山で生まれて山で育ったらしいから、老成しているといったらいいか、ちょっと浮世離れしているといったらいいか、とにかく、俺はここの女将とはウマが合わなくて嫌いだったけど、その女将のツレである大男はものすごく苦手だった。

 嫌いと苦手って、似ているけどちがうと思います。

 

 ちなみにたたいてほしいって言ったけど、俺はべつに人妻に叩かれて興奮するとか、そういう倒錯した趣味はない。

 どうせたたかれるなら、たたく方が楽しいし。ごめんなさい許してって言われるところを、あとを残さないぎりぎりのところで加減しながら叩くのが楽しいんでしょ。いやこっちの話。

 でもなんか、一発くらいぱんと頬でも張られないと、俺はちょっと血迷ってるんじゃないかというか、頭の線が一本ねじれちゃったんじゃないかというか、とにかく正気に戻りたかった。

 正気。

 正気を失ったとしか思えない。

 伸びてきた顎の不精髭をなぞりながら、俺は考える。

 

 

 目の前に、美人な女がいた。

 それも俺がまったく見たこともない、知らない女だった。

 

 俺の中で美、ていうものにはふたつほど定義があって、ひとつは観賞用、たとえばそれ石や木を彫った像だったり、絵画だったり、もっと身近で言えば花壇の花だったり、そうした、眺めて目を楽しませる方の美しさだ。

 それともうひとつは触れちゃいけない美しさというか、俺、毒鏃(どくやじり)の毒作る仕事柄、神経にクる成分もってる花とか、分泌してる体液が毒なカエルだの蛇だの、結構さわる機会があるのね。

 ああしたふうな、美しいんだけれども普通は絶対に近寄っちゃいけない美しさというか、きれいなんだよ、きれいなんだけど、若干ぬめぬめ濡れ濡れと粘液が出ているようななめくじみたいな美しさというか、道端で半分腐ってウジがわいてる死体とかでも、まだかろうじて肉としてかたちが残ってる部分がものすごい美人だったりとかさ、そうした、あまり視界に入れちゃいけない方の美しさってたしかにあるでしょ。

 美しいんだけど気味悪いというような。

 目の前の女は後者だった。

 それが濡れたように真っ黒な目で、俺を見上げていた。

 見た瞬間、頭の中に警鐘が鳴り響いたというか、あ、ヤバい、これは魅入られる、経験的に俺はそう判断して、とっさに目をそらそうとするのだけど、どう言うわけか女から目を離すことができなくなっていた。

 

 こいついったい誰なんだろう。俺はどうしてここでこいつと見つめ合っているんだろう。

 そんなことばかりぐるぐると頭の中を回って、固まったまま、俺は女の美しい顔をただ茫然と眺めていた。

 透きとおるような白い肌、よく見るとその下に流れる血管の青まで見える。

 そうして薄く吊り上げ気味の真っ赤な唇。

 その唇がゆっくり動き、なにか言葉を紡いだのだけれど、俺の耳はそれを聞き取ることができない。

 やばいやばいやばいやばい、ただそれだけがぐるぐると俺の頭の中を回って、そうこうしているうちに、俺は女の顔がやたら接近してることに気がついた。

 まつ毛も黒いんだな。でもって目茶苦茶長ェな。

 穴が開く、って言葉があるけど、まんま女は俺の顔に穴が開くほどじいっと見つめていて、水に濡れてしっとりとしたそいつの顔がますます近くなる。

 いつの間にか、唇にひんやりとしたものが触れていた。童貞ぶる気はまるでないのだけれど、そのときの俺はそれが何なのかはわからなかった。あまりにやわらかくて、心地がよくて、俺はぼうとなってそのひんやりとしたものが触れてくるに任せる。

 一度、二度、と触れては離れ、離れては触れ、をくり返しているうちに、離れてゆくのが惜しくなって、どちらが先だったのか、俺はそれと舌をからめ合っていた。

 舌は唇よりひんやり感がうすく、その分それの体温が感じられる。

 俺もそれも、相変わらずぱっちりと目を開けたままだった。

 ……こういうときって、目を閉じるもんじゃないの。開けっ放しなの。情緒ないの。

 

 どのくらいの時間、そうして弄り合っていたのかはよくわからない。たぶん最初、すぐ近くの木立から鳩でも飛んだのだ。

 そこで俺はぱち、とひとつまじろぎをして、そうしておのれが身を置いている状況を知った。

「え……、え……、え……、……はあ?」

 いま一体何をしたんだろう。

 わからない。意味っていうより自分の行動がわからない。

 化かされた感がしてぶるりと身震いすると、目の前にいたのは、濡れねずみの、黒い毛がぼさぼさ生えた、やぼったい女がいるだけだった。

 

 

「モグラのおじちゃん!」

 

 そんなことをぼんやり思っていると、不意に背中からかけられる若々しい声があって、その声が耳に飛び込んだ途端、瞬間融解で顔がでろでろになるのが自分でもわかる。

 来たわ、俺のオアシス。

 やっぱこれですわ。

 

「姫ちゃん!」

「おじちゃん!」

 

 俺は振り向いて、愛しのきゃわわちゃんとの再会を果たした。

 くるくる巻き毛で、お目目ぱっちりの、ここの、っていうか俺のアイドルだ。

 今年で七つになる俺の可愛い子ちゃんは、ここに俺が顔を出す目的の九割、……いや、十二割といったほうがいいかもしれないな……、を占めていて、もう彼女に会いに来るためだけにこんな辺鄙な場所までわざわざ来てると言って過言じゃない。

 だってそれ以外にここにくる必要性ある? ないでしょ?

 根無し草の俺が、関わる人間のほとんどが一期一会でしかない俺が、唯一生まれたときから知っていて、いまも付き合いがある人間といってもいい。

 生まれたときはものすごくちっぽけで壊れものみたいだった彼女も、だんだんに成長して、手足も伸び、幼女というよりはもうすっかり少女だ。

 

 もうね、本当かわいいの。

 顔かたちとか仕草がかわいいっていうのももちろんあるのかもしれないけど、もうそんな次元じゃない。そこで息してるだけでかわいい。

 俺はもちろん血縁なんてないし、彼女の父親はそこにでっかくいるわけなんで、決して父親的な目で見てるわけじゃないと思うんだけど、これ、彼女に好きな人できたとか聞いたらたぶん卒倒する自信ある。

 なんだろう、まいあさゴミ出しついでに挨拶する、おじさんポジションっていうかさ。

 手放しで可愛いってこういうことを言うんじゃないだろうか。

 可愛いすぎて、食べちゃいたい。

 比喩的にじゃなくて物理的にやーらかそうなほっぺとか、はむはむしたい。してみたい。でもたぶんすると最後、俺はここの夫婦にぎったぎたに細切れにされて、家畜の餌にされる未来が確実にあると思う。

 だからこわいからやらない。

 

 そうして俺が、はむはむしたい欲望を押さえ、彼女の目線に合わせて膝をつき、せめて会話を楽しもうとしたとき、戸口のむこうからひぎゃ―とかいうガキの悲鳴、続けて怯えた泣き声が聞こえてきて、ぱっと顔を見合わせた女将と主が急いで戸口のむこうに駆けて行った。

 声からして姫ちゃんの下の双子のやつらだろうなって思う。

 俺も思い当たることがあったんで、慌ててその後に続いた。

 

 

 腰を抜かして泣き叫んでいたのは、予想通り馬宿のチビどもだった。

 

 ふつうはさ、子どもって、怖いものがあるとそれから急いで離れて、母親のもとに泣きながら走って来るでしょ。だから怖いそのものの前にへたりこんでるのって、もう泣きわめき倍増しよ。

 そうしてこちらも予想通りと言おうか、チビどもが見て腰を抜かした相手、つまりは|獣被り《ドロシ》の女ってことになるんだけど、その彼女が、両手を顔の横あたりにあげ、たいそう困った様子で立ち尽くしていた。

 ドロシーは、川で毛皮も体も洗った後、もう一度ご丁寧に皮を着込んでいた。だから、頭の上にもうひとつ、あのゲヤなんとかっていう獣の頭が乗っていることになる。

 もうさ、見た目で泣いたんだなっていうのが一目瞭然だ。

 

 流れの傭兵の中には、男性性? ていうか俺は強いんだぞーっていうのを誇示するために、わざわざ獣の頭をモチーフにした兜なんかを被ってるやつもいたりもしたから、だから、獣の頭とか頭蓋骨をかぶっているのがみんながみんな|獣被り《ドロシ》ってわけじゃあない。

 だけどやっぱり珍しい部類だし、さすがに馬宿に入るにあたって人目もあるし、そのままだとじろじろ見られるのは確実だから、俺はそいつに頭からマントを被るように言った。

 ほんとうは毛皮を外すのが一番だとは思うんだけどさ。でもなんか守り神的なんでしょ。それを外したままにさせるって、精神的に大丈夫なのって気もした。

 なんか、「皮無し」の俺と出会って森を出るってだけでも、たぶん相当なストレスかかってるよね。

 その上俺は川で彼女を洗うことまでしてる。

 ここでさらに皮を外させてそのまま逢ったことのない文化に突っ込めって、結構、っていうかかなり酷なことというか、ぶっちゃけストレスで自家中毒おこされたりしたら困るなって。

 部分ハゲとかできたら困るでしょ。ちょっぴり心痛むわ。

 だから俺にとっての最大限の譲歩が、せめて毛皮の上からマントを被れ、だったのだ。

 

 ドロシーは、言われた通りマントをすっぽりとかぶり、そうしてここまでやってきたわけなんだが、俺が女を待たせて中に入ってるあいだ、オスガキ二匹がそのマントを剥いだらしい。

 まあ言うて剥いだマントの下からいきなり獣の歯を剥き出した頭があらわれたら、大人でも腰を抜かしそうではあるけど。

 

 ――|獣被り《ドロシ》。

 宿の主の大男が女を見たとたん、呟き、腰を低くして身構えた。あっ知ってるんだね。ひと目でわかるんだね。すごいね。

 

 デカブツの殺意にドロシーがぴくっと反応する。相変わらずお手上げポーズのまま、けれど先までの困った様子から一転して、機をうかがうような、いつでも攻撃を回避できる、みたいな緊張がさざ波のように体に走ったのがわかった。

 大いのしし殺しの山男と、|獣被り《ドロシ》の女との世紀の対決、みたいな文句が、俺の頭に一瞬頭に浮かんで、それから、

 

「まてまてまてまて」

 

 俺は慌てて間に入った。

 ついでに鼻水垂らして泣きわめくガキどもをつまみ上げて、女将の方へ転がしてやる。

 そうしてウドの大木に舌打ちする。

「ちょっと待て。いきなりけんか腰になるな。話聞けって」

 あんたもさ、反応すんじゃねぇよ。肘で女を小突くと、こちらを見た彼女の体からふっと緊張が消えるのがわかった。

「……お前さま、」

 だからするから。いま何とかするから、途方に暮れたような声を出すなっつうの。

 

 駆けつけたとき、女は両手をあげて子供たちを見下ろしていた。

 それは昨日、俺が教えて女が覚えたばかりのポーズ、つまり、戦意がない、何もしないという彼女の最大の意思表示だ。

 信じてほしい。女は声に出さずに訴えている。

 

「こいつは俺のツレだ。森の中でたまたま知り合って、ここまで怪我人を運ぶのに手を借りた。見た目は、……、……、まあ見た目はちーーーと変わっちゃあいるが、悪いやつじゃない。ないと思う。森に勝手に突っ込んで崖から落ちたばかどもを、ひと月近く介抱したのもこいつだ。だからまずはその攻撃姿勢をやめろ」

 女を背にするかたちで俺が宿の主と女将に言うと、ガキを両腕に抱きしめたまま、俺と女を見比べていた女将が、イーヴ、とまじめな声で俺を呼んだ。

 

「イーヴ。それほんと?」

「うそ言ってどうするんだよ」

「そのひとは、」

「|皮被り《ドロシ》だ。話すと長くなるから、これ以上はここで話したくはねぇな」

「……、わかった」

 

 俺の言葉に女将はうなずき、ちょっと、目の前のデカいのに声をかける。うん、とうなずいた大男は、体の警戒を若干ゆるめ、まだ泣いたままの双子をひょいと両腕にひとつずつ抱えると、よしよしとあやしながら先に宿の中に消えていった。

 

「えぇと」

 

 頭からマントをかぶり直した女と、俺とを交互に見比べながら、女将は若干戸惑い、それから、

「とりあえず……、飲む?」

 そう言った。

 

 

 宿の食堂は薄暗い。明るい外から入ってくると、その薄暗さが五割増しに感じられる。

 この季節、暖炉に火が入れられていないから、余計暗く感じられるのかもしれない。

 

 俺はテーブルに置かれたピッチャーをとり、自分のジョッキに三杯目を注ぐ。ここの女将が持ってきたんだからこれは俺が頼んだものじゃない。これはおごりだ。おごりに遠慮は必要ない。遠慮するだけ損だと思う。

 ボゥルに盛られた胡桃(くるみ)を炒って塩をまぶしたものをぽいぽい口に放り込みながら、背が高い分長い脚を組み、ぼんやり天井を見ている女将と、それから俺の斜め向かいに座ったマントのフード目深のドロシーを眺めながら、俺は三杯目のはちみつ酒を一気に半分空けた。

 なんでしょうね。この、一応女とテーブルに座ってるはずなのに、ちっとも嬉しくない感。

 ちなみに俺の前には、借金のカタ代わりに取り上げられていたワケアリ短刀が戻されていた。

 

「……待ってるあいださ」

 俺はその包みを鞄にしまいながら、女将に向かってたずねた。

 

「衝動的な殺意に駆られたりした?」

「……ああ、やっぱり、あんたが運んでるんだからロクなものじゃないんだろうなって思ってたけど、やっぱりロクなものじゃなかったのね」

 

 昔、似たような刀にからんだ事件のときに、いろいろ互いの損得都合がかさなって、俺はこいつと仕事をした。それを思い出したのか、女がぶる、と肩をすくめる。そうして、気味悪いからさっさとしまって頂戴とぼやいた。

 

「ここまで運んできた怪我人だけど」

 言って俺は話しを元に戻す。

 依頼は、森に乗り込んだ阿呆の捜索だったはずだ。俺は森に入り込み、五人のうちふたりを見つけ、残りの三人も死んだことを確認した。ドロシーの言葉を確認するために崖下にも出向いてみたが、肉も骨もきれいに残されてなかった。とっくに獣どもが持ち去ってしまったらしい。

 ただ、いくつかの布の切れはしが散らばっていたので、それを遺留品とした。

 

「いいわ、あの怪我したひとたちは、こっちで引き取る。それぞれの引き取り先に連絡して、そうして運んでいってもらうように手配するから」

「そりゃ助かる」

 

 女将に引き取りを拒否されると、俺はドロシーと共に、引き取り先まで出向かないといけないことになるところだった。

 筵(むしろ)を引くのは、まあいいよ。なんか奉仕の精神が有り余ってるのがいるからそいつに任せるよ。でも割に合わない仕事を受ける気は俺にはなかったし、かといって道端に捨てていけっていうのもなんだか気が引けていやだった。

 ちなみに捨てていかないのはやさしさじゃない。

 俺ひとりならたぶん捨てていった。俺は依頼以上の無報酬の仕事をする気はさらさらなかった。厄介ごとをわざわざ引き受けて、苦労して頭のおめでたいひとたちの住まいまで運ぶ? それで俺が得られるものってせいぜいありがとうの言葉くらいのもんだろって思う。

 でもそれ言われたところでどうするのって。

 ひとにやさしく、だとか言うが、それを言えるのはきっと心にも生活にも余裕があるやつらにちがいない。

 言葉じゃ腹はふくれない。そうして俺に必要なものは、言葉じゃなかった。

 

「ここまで運んでくれた手間賃も、うちから上乗せしておくわ」

「ありがとうございます」

 

 ここだけは即答で俺は頭を下げた。さすが同業者は話が通じる。ありがたい。

 

 食堂に、今は俺らのほかに客はいなかった。ここは宿だ。このあたりに長居する用事がなけりゃ、普通は連泊する客はいない。そうして今は昼をすこし過ぎたところで、次に宿が忙しくなるのは、夕刻よりちょっと前、そろそろ足元が暗くなって、屋根の下で一泊を求める旅人が訪れる時刻までだ。

 食堂から見える、中庭に通じる戸口は開け放しにされていて、その中庭でオスガキ二匹がさっきまで犬っころのようにころがりまわって遊んでいた。

 それが今は見えなくなっている。

 あれどこにいったのかな、中庭から目を戻し、思わず食堂内をきょろきょろとした俺に、ほらちゃんとこっちに来なさい、そんな年上口調でガキんちょ二匹を追い立てて来た俺の姫ちゃんがいる。

 たしか姫ちゃんが七つで、三つ歳がはなれてるはずなので、ガキんちょ二匹は三つか四つの計算になると思うんだが、そいつらがおずおずというかおどおどというか、けれどその腰がひけた態度のわりに、好奇心で目だけはきらっきらして、|獣被り《ドロシ》の女の前に歩いてくると、

 

「あやまんなさい」

 

 母親譲りの強い口調の姫ちゃんにうながされて、ごめんなさい、と頭を下げた。

 下げられたドロシーは、何を言われているのかわからないようで、フードの奥からきょとんと子供らを見下ろしている。

 

「……その、」

「お客さんに失礼なことするなんて絶対だめなんだから」

 

 宿屋教育行き届いてますね。

 勝手にフードをめくったことに対して姫ちゃんは注意したっぽいけど、当のオスガキ二匹は、一応謝ったのをいいことに、ドロシーに対して興味津々な目で近寄り、ねぇねぇ頭を見せて、と言った。

 俺は酒を飲みながら眺めることにする。なんか口出すことじゃなさそうだし。

 あたま、と女は弱った声を出した。

 

「さっきの、大きな動物の頭、頭の上に乗せてるんでしょ。格好いい! もっかい見たい!」

「さっきはびっくりしたけどもう大丈夫! みせてみせて」

「こら! あんたたち!」

「……、……、お前さま、」

 

 押し詰められ、困ったようにこちらを向く女に、俺はいいんじゃねぇの、とうなずいてやった。素顔を見せろと言っているわけじゃない。それに今は食堂に身内しかいない。

 もしかするとゲワなんとかに驚いてもう一回泣くかもしれないが、それは俺の知ったこっちゃない話だ。

 おそるおそる女がフードを少しずらして獣の鼻づらを露出させると、すごーい、かっけぇー、的なことを言いながら、ますます二匹は詰め寄った。それを姫ちゃんは呆れて何か言いたげに口を半分開きながら見ている。

 男は単純な生き物だなあと思う。俺も含めて、だけど。

 ちょっぴり怖いものって格好いいと同義なんだよな。わかるわかる。

 

 それをまた胡桃を口に抛(ほう)りいれながら眺め、それで、と俺はさっきから何か言いたげな元同僚の女将を横目で見た。

 

「なんか聞きたいことがあるなら、今なら出血大サービスでおじさん答えちゃうぞ」

「……そのさ。いろいろ混み入った事情があるかもしれないから詳しくは聞かないけどさ、そのひとは連れていくつもりなのよね、」

「だってしょうがねぇじゃん。文化が違うのはわかってたし。こっちでなにか免疫ない病気にかかって死んじゃったりしてもいろいろ厄介でしょ。俺だって置いてきたかったのよ? きたかったけど、」

「けど?」

「いろいろ省くけど、成り行きで、俺が命を助けたみたいなかたちになったわけ。そしたら一族の掟で、借りを返すまでぜったい離れないって言うんだもんよ」

「ああ、……、」

 

 なにか納得した様子で女将は深くうなずき、まあそう言うこともあるわよね、だとか言った。

 もしかするとこいつにも、似たように恩義を着せられたような経験があるのかもしれない。それってなに、とか聞いてみたい気もしたけど、あんたに関係ないでしょとか返されたらそれはそれで腹が立つので、黙っておくことにした。

 

 

 そうして、ピッチャーの酒を三人であらかた飲み干して、いい具合に酔ったんで、俺は部屋に引っ込むことにする。数日ぶりの土の上じゃない寝床だ。警戒手放しにして、泥のように深く眠ってしまいたかった。

 ゲワなんとかの守り神の頭や、その背中の毛皮やらを、今はすっかり警戒を解いた二匹のガキに触りまくられているドロシーに、先に部屋に上がるぜとひとこと声をかけ、俺は夕飯までひと眠りするために食堂をぐるりと見下ろす階段をのぼり、そうして愛しの我が個室へと着いた。

 俺が年払いで借り上げているこの部屋に泊まることは、よくて数か月に一度、長けりゃ半年以上開いたりする。ここの宿屋の夫婦は俺的に気にくわないことが多いけれど、でも、部屋の掃除や管理はきちんとしてくれている。それだけは信用できた。

 さっきデカブツの方の姿が見えなかったってことは、俺や女将が下で飲んでいるあいだ、上の部屋をととのえていたんだろうと思う。なんかごとごとしてたし。

 酔いもあって、俺は鼻歌なんかを歌っちゃったりしながら、機嫌よく、自室のドアを開けた。

 ごん。

 わりといい音がした。しばらくは何の音かわからなかった。

 数拍遅れて、自分が戸口の柱に頭をぶつけた音だと言うことに気がついた。

 

「ええ……なにこれぇ……」

 

 俺の口から心底勘弁してほしい色の声が漏れる。

 部屋の中には仲いいかんじで寝具がふたつ、並んで敷かれてあったからだ。

 

 

 

最終更新:2020年08月19日 23:27