「ここね。この線ね。このラインが俺とあんたの魂の境界線ね」
部屋に並べられたふたつの寝具を、離せるだけ両側の壁に離し、その真ん中の床に白墨で線を引いて、俺は|獣被り《ドロシ》の女にその線を指し示しながら言った。
「お前さま」
その線を思案気にじっと見ながら女が呼ぶ。
「なんだよ」
「越えるとどうなる」
「俺が悲鳴をあげます」
即答した。
悲鳴って大げさな、とかいうかもしれないけど、いや本当ないから。マジでないから。なにがないっていうか、俺がまっっっっったく好みでもない女と布団並べておねんね、とかもう冗談キツいわ。キツさバリバリですわ。
俺は四十超えたおっさんですよ。相手は毛むくじゃらでよくわかんないけど、おそらく二十歳に届くか届かないかの女だ。
若いよ。うん。こいつは若いんだと思うよ。たぶん。
でも俺が大好きな娼婦のおねぇちゃんたちとはなにか、うまく説明はできないけど、決定的に違う気がするんだよ。
言ってみれば、俺が好きなのはゆでたまごなのね。カラ剥(む)いてつるっと白い白身が見えてるやつね。
んで、発芽したいちごってみたことある? なんかすごいもさーっとしてるやつ。
つるつるのゆでたまごが好きなやつの前に、あのもさもさいちご(しかも黒い)はい、って置いたとして、食指が動くかって話なんですよ。
全力で拒否すんだろ。
ちなみに、このいらんお気遣いに対して、俺はひと言文句を垂れるべく、ちゃんと食堂へ行った。
正しくは行きかけた。
ここは垂れるべきでしょ。勝手に気を回すんじゃねぇよって。俺とこいつの間に流れる微妙な空気に気がつかんのか。アベック間に流れるあまぁあい空気は微塵(みじん)もねぇだろ。そう思ったからだ。
けど、階段を下りる手前で俺は足を止め、ちょっぴり考える。
あのさ、まず、俺があいつと同部屋ってどういうことだっていうよね。
そしたら、あらそう、じゃあ、別の部屋取る? って聞かれるよね。
別の部屋? 別の部屋って他の客も泊まる大部屋?
大部屋に、ドロシーひとりぽんと抛りこんで何もないと思えるほど、俺はさすがに頭がおめでたくない。
じゃあ個室取るの、って話になる。個室取るの。誰のお金で。
ドロシーは手持ちがない。当たり前だ。つい昨日まで、森に棲んでいた女だ。完全自給自足で外界との接触がなかったやつが、金を持っているはずがない。
持ち合わせがないどころか、たぶん貨幣の概念から教えないといけないような気がする。硬貨だしたらこれ何って言われる自信がある。
物々交換的なものは、もしかしたら部族内であったかもしれない。でもそれだってせいぜいどんぐりとかでしょ。
馬宿にどんぐりたくさん持ってきて、これでひと晩泊めてください、とか言って許されるのって、頬袋ふくらませたリスぐらいのもんだろ。
通用しないわ。
じゃあどうするの。女を俺の部屋に泊めて、俺が大部屋行くの。
自分の部屋がちゃんとあって、しかもそこの使用料を滞りなくきちんと払っていて、なのに他の泊り客のいぎたない鼾だの、下半身ぼりぼり音の中で、体小さく丸めて寝るとか、なんか悲しくないですか。
涙で袖が濡れそう。虚しさの極致。いやだそんなの。
それに正直なところ、俺のおさいふ事情はそんなによろしくないのだった。
ないわけじゃない。今日明日困窮するような、そんなぎりぎりの状態ではなかったけれど、返してもらった依頼品の短刀持って、蒐集家(コレクター)のところへ行って報酬を受け取るまでにもそれなりに金はかかるし、報酬受けとったら受けとったで、ちょっとくらいは羽伸ばしたくなるのはわかってもらえると思う。お楽しみって大事でしょ。自分にご褒美。大事だと思います。
飢え渇ききった俺にいま必要なのって、毛皮かぶった方との異文化交流じゃなくて、お肌ツヤツヤのおねぇちゃんたちとないぺた枕とかしながら、朝まで楽しく飲み食いするとかそう言うことだろ。
それにもやっぱり金は必要だった。
だから、できるだけパアっと使えるその日に向けて、日々の出費を抑える努力をしなきゃなのだ。
まあね、俺もいい年だしね、いまさら女と同じ部屋で寝たからって、手を出すような血気さは持ち合わせてないですし。
いまはひたすら寝たいし。
じゃあこれまでぐだぐだ言ってたのってなにってなるけど、手を出すかどうかと、寝具が並べて敷かれてるのは別の話だよね。
俺だって主張したい。
外はもう暗かった。
飯は食った。酒も飲んだ。じゃあもう明日まであとは寝るしかない。
灯りつけててもやることないし、寝るには若干早い気もしたけど、なんだかもう一度、他の客の姿もちらほらある食堂まで下りていくのは億劫だった。
ドロシー付きだと気疲れしそうだし。
厨房から酒調達して部屋で飲む、っていうのもできないわけじゃなかったけど、でも差し向かいで飲む相手がこいつっていうのもなあって気がする。
寝るか、というと女も頷き、それから今度は敷かれた布団を珍しそうに眺める。
「お前さま」
「んだよ」
「これは寝るためにもちいるものだな」
「だな」
「これは、板の上に体を寝かせて、その上にこの掛け物を全部かけて寝るのが正しいのか」
「ちげぇよ」
背中が痛くなんだろ。
「はさまるの。布団に。ほら、ピタの具材みたいな感じ……ってピタを知らねぇか。ええと下のが敷布団。上のが掛けるやつ」
手のひらを平らにし、上と下を合わせながらああそうか、と俺は気付いた。
毛皮をほとんど常に身にまとっていると言うことは、防寒具も常に体にくっついてるということで、つまり、毛布だとか寝袋的なものがなくてもいいんだってこと。
ちょっと便利かもしれないと思った。やるかどうかは別として。
自分をだめにする歩く毛布的な。
なあ、と俺は女を呼ぶ。
「そいつ、つけたまま寝るの」
「つけて寝るのはよくないことか」
そいつ、と俺はゲワなんとかを顎で指す。
「いや、いけなかないけど……いけなかないけど、寝にくくない?」
頭の上にもうひとつ顎があるというのをちょっと想像してみてほしい。こう、上の顔も正面向いてるわけね。
仰向けと横向きはともかく、うつ伏せできないでしょ。上の顔の鼻づらが長いから。なんか姿勢が限られるって、寝違えそう。
「あとこう、目を開けて目の前にそれがあったら俺が嫌」
そっちの方が大きな理由かもしれない。すくなくとも目覚めは最悪そうだと思った。ある意味一瞬で起きれるのかもしれないが。
「――」
俺と床を一瞬眺めて、それからどう判断したのか、ドロシーは毛皮を縛っていた紐をほどく。外して寝ることにしたようだった。
ゲヤなんたらの頭を外したところで、
「あでもちょっと待てよ」
唐突に、女が毛皮の下がものすごく自由な民であることを思い出して、俺は待ったをかける。
「待って。下はいいわ。下はそのままでいい。むしろそのままがいい。そのままで寝ろ」
なにも無いって言ってもいやじゃん。裸の女と枕並べて寝るとか、ひとつ勘違いされたらなんか勘違いがそのまま雪崩(なだ)れてにざらざらっていっちゃいそうっていうか。
そうして、これでいいかと確認しながら、下は着けたまま布団にもぐりこんだ女を確認すると、俺は明かりを吹いて消した。
訪れた真っ暗闇の中で、女がもぞもぞ身動きする気配がある。
「――すごいな。布団というものはやわらかいものなのだな」
しばらくして、はー、と感心のため息とともに、そんな声が発せられた。
「そんなにやわらかいか、これ」
ここの設備を整えるとき、俺はほんのすこし立ち会った。藁床ではなく、管理しやすいように羊毛を押し固めた敷物を使う、だとか言っていたように思うが、そんなに高級なわけじゃない。
「体が沈んでうまく眠れるか心配だ」
「大げさな」
笑ってしまう。
こんな薄い敷物ひとつでこれなら、高級娼館で使われてるような、羽毛五枚重ねとかの寝床に寝かせたら、いったいどんな反応をするのだろうと思った。ちょっとやってみたい。ぜったい面白い反応をする気がする。
そこまで考え、いやいやいやいやまてまてまてまて。もうひとりの冷静な俺が制動する。
なんで女をずっと連れ歩く前提なんだよ。
一応連れて行くとは言っちゃあいるが、いつまでも付いてこられちゃこっちだって困るのだ。仕事にさしさわりが出るし、だいたいこいつを養う余裕は俺にはない。今日はたまたま、ここは俺の借り部屋で、だから宿泊費と言ってもたいしたことはないし、なし崩し的に布団を並べて寝る破目(はめ)になったけれど、そのうちどこかでうまく巻いて、とんずらするのが賢い選択だぜ、って。
女にとっちゃあ、借りを返すことがものすごく重要なことなのかもしれないが、そんなの知ったことか。女にもあるように、俺には俺の都合がある。そう思った。
そんなことを考えていると、もそもそしていた隣が静かになっていることに気がつく。ちらと眺めると、ちいさい窓からの月明りに女の横顔が見えた。横顔、って言ってもやっぱり伸ばし放題の髪にほとんど隠れていたから、鼻先と、唇が見えた程度だ。
仰向けになって天井を見ている。まだ寝息ではなかったから、俺はおい、と言った。
「なんだ」
「暇なんだよ。なんか話せよ」
「なにかとは……、」
「なんでもいいよ。俺と会ったとき、なんで熊さんとお相撲取ってたのかでもいいぞ。とにかくいい大人が並んで寝そべって、黙って天井ながめてる絵面がしんどいんだよ」
煙草でも吸えばよかったが、手持ちはあいにくきらしている。
そうだな、と女が静かな声でこたえた。わりと深く沈んだ声だったので、俺はもう一度女の方をうかがう。
「お前さま」
「なんだよ」
今度は俺が答えた。
「手に触れてもいいか」
「は?」
まるで予想していなかった問いに俺は素っ頓狂な声を出し、え、だとか、なんで、とか頭が思考停止したまま、差しだすつもりもなかったのに、なんとなく伸ばされた手に応えるような形になって、
「……だからって恋人つなぎはねーだろ」
仲良しかよ。
もうひとこと言ってやろうかと思ったのに口を開く直前、その手が細かく震えていることに気がついて、俺の文句は喉元で引っ込んでしまった。
「……どうしたんだよ」
具合でも悪いんだろうか。
隣で急にゲロ吐かれたらなんだかなあ、だとかこっそり思っていると、こわい、と女が言った。
「え、なにが」
あなた森からずっとカエルの面にしょんべんというか、物おじせずというか、時々すれ違う通行人の奇異の視線にも全く動じるそぶりも見せず、堂々たる歩きっぷりじゃなかったですか。
熊の突撃のときにんまり笑ったのと合わせて、恐怖を感じる頭の回路のところが麻痺というか、もともと持ち合わせていない方なのかなとか思ったんですが。
「森から離れたのが怖い?」
「……いや、」
まあそれもないわけではないが、言って女がちいさく笑った。
「お前さまに会ったからな」
「俺?」
「――お前さまに会って、それから、お前さまについてくるあいだに何度か人間を見て、……、……、見て、話して、ドロシーはあそこでひとりだったのだと気がついた」
「あ、実感わいてなかったのね」
でもそうかもしれない。
生まれてからこの方、ずっと住処で一緒だったやつらがある日突然空気のように消えていて、それもどうして消えたのかもわからない、置いていかれたのかどうかもしらない、残されているのは空っぽの巣穴だけとか、なんかまともに考えたらちょっと頭おかしくなっちゃうたぐいの話だと思う。
たしかに最初は探したんだろう。
思いあたるところを全てあたって、思い当たらないところも念のため探して、もしかしたら森からすこし離れて探したこともあったのかもしれない。
こいつ、そのとき泣いたりしたのかな。
月明かりに浮かぶ、きれいな顎の線を横目で眺めながら、俺は思う。
あんまり泣く姿の想像がつかないけど。
「――熊を狙っていたのはな、毛皮がほしかったのだ」
女は言った。
「毛皮、」
「うむ。狼か熊の皮がほしかった。……ドロシーが被っているのはゲャワなのだ。ゲャワではいけない。ゲャワは群れで生きる。強いメスを頭(かしら)にして、群れをつくる獣だからな」
一匹で生きるものでなければ、女は言う。
握られた手にぎゅ、と力が入る。
「じゃあ今はさびしくねぇじゃん。よかったな」
ひとりじゃないわけだから。
何の気なしに俺がそう返すと、それまでじっと天井を仰いでいたドロシーがひょいとこちらに顔を向ける気配がした。
そのままこっちを見つめ続けている気がして、
「……え、なに。なになになに、」
見つめられると落ち着かない。そもそもじっと見られるとか好きじゃない。できるならずっとすみっこの方で、注目を一切浴びずに暮らしたい。
「……お前さまは面白い男だな」
しばらくこっちを見たのち女が言った。真面目な口調だったが、気配で笑ったんだなとわかる。
「べつに面白いことなにも言ってねぇし」
「こういうのをなんというのか、……、……ええと、くど、」
「くど?」
「……口説く?」
「えっ」
思いもよらない言葉に俺の喉からおかしな声がでた。若干体が跳ねた気もする。
跳ねたついでに慌てて半身を起こした。
「いやいやいやなになになになに。なに。口説くってなに。……聞き捨てならないこと言わないで。俺はまったく口説いてねぇぞ、」
「わかっている」
くつくつとおかしそうに女がまた声を漏らした。
「森の中とこっち、ちがうのだろう。そのやり方も、お前さまが知らない、わかっている」
「――あの、後学のために伺いたいんですが、やり方ってなんのだよ」
「ドロシーの森、男が女の、女が男の、皮を脱いで顔を見せるよう相手に求める、それは、番(つが)いを求めるやり方だ」
「えっ」
「それから、相手がその求めにこたえて顔を出す、それは番いを受ける気持ちがあるときだけ」
「えっ」
「それだけちがう。間違いないするため、もう一度たしかめる。番いを求めたほう、求められた側に食べものを渡す。これは木の実でも、肉でもなんでもよい」
「えっえっ」
待って。待って待って待って。
貧血とは別の意味でざあーって血の気が引くのがわかる。娼館で指定したはずの子と、まるで違うオバはんが来たような感覚。あれこれ俺やらかしちゃったんじゃないのって、ものすごくいやな予感をみとめたくないというか。
こいつは肉を焼くと言うことを知らなかった。だから俺、こいつにスープ食わせたらどんな反応するのかなって、好奇心からスープ作りましたよね。
はい。作りましたね。
それと、俺が女に命令したところどころで、こいつがしばらく考えるようなそぶりを見せていたのは、あれはそのせいだったんでしょうか。
俺が求愛行動してるとか思ってたんでしょうか。
どうしよう。
半泣きになった俺を面白がるような口ぶりで、だいじょうぶ、と女は言った。
「お前さまが知らないということを、ドロシーは知っている」
「え、ほんと、俺いきなり皮被れとか言われない?」
「言わない」
すがるように言った俺がおかしかったのかドロシーが笑う。笑っているその片手は、相変わらず俺の手を握ったままだったけれど、その手に走っていた細かい震えがいつの間にかなくなっていることに気がついた。
まあ、それだけはよかったと思う。それだけは。
ちいさく笑いを漏らしながら、女が俺の手を誘導するように口元に持ちあげ、そうして指のあたりへ唇を押し当てる。ぎゃあ、とか思った。なに。食べるの。おいしくないよ。なんの味もしないよ。
強いて言えば汗の塩気ぐらいのもんだよ。
「だが」
ちゅ、と音を出しながら唇を押し当てるのやめてほしい。なんかいやらしいことしてる気になっていたたまれなくなる。
「だがドロシーはいつでも受け入れる準備はできている」
「受け入れるって、」
よせばいいのに思わず俺は聞いてしまった。聞いてからああ俺のばかって思う。聞き流せばよかったのに。はいはいお休み寝言は寝て言えって言えばよかったのに。
「受け入れるって、……、何のだよ……、」
「お前さまの番いになる心構えだ」
「うわあ、」
無理です。
そうして俺はいまさらながら、最初にこいつと会ったとき、足の甲に口づけされたことを思い出す。
なんかあのとき、他のことにいっぱいいっぱい過ぎて、こいつが口づけたとかどうとかそんな些末事より、未知との遭遇のほうのコンタクトに忙しすぎてスルーしてたけど、いま思ったらあれか。
あそこからちょっと片鱗(へんりん)はあったのかもしれない。