一度でいい。たのむ。
それが懇願する。
それは裸だった。
俺の前に獣のように四つ這いになり、すがる目で俺を舐めあげている。
すがる視線に、強烈な色気を含んでいることに気付いていたけれど、俺としてはその色気よりも、普段見上げているそれを見下ろしている方の優越感に、ぞくぞくとしてしまう。
にっと口角があがるのがわかる。俺は上機嫌だった。鼻歌でも歌いたい気分だ。
外だった。
どこだか知らないが、それは室内ではなく外だと俺は認識していた。
いったいどういう状況で、それが裸になって俺が仁王立ちする経緯になったのか、さっぱり覚えてないが、とにかく今現在「そう」なってるんだからそうなんだろう。
俺は服を着ている。
服を着ているどころか、まるで乱れていない。釦(ぼたん)ひとつ崩れていない。目の前に伏せる丸裸のそれと、対比的にすぎた。
俺はなにも乱れず、女を見下ろしている。
それは女だった。
それも、俺の知らない女だ。
月が中天にかかっている。
今日の月はやけに黄味がかって、時々生ぬるく吹く風もみっしり水気を含んでいる。湿気ているせいで、むせかえるほど漂った熱気がどこかに流れていかない。そこに蒸れ蒸れと居残っている。
立っているだけで汗ばむ。
じんわり滲み出たと思ったらこめかみから流れて来た汗を肩口で拭って、俺は、とりあえずしゃぶれよ、とそう言った。
「ほしいんだろ」
鼻でせせら笑う。
「ほしいんなら、起たせろ」
起ったら、考えてやるよ。
言うと女の目にさっと感情が走った。喜色だった。飢えた犬の前にぽんと肉を投げ与えたような。
いいのか、と口では確かめながら、あたえられたお許しにしっぽを振る勢いだ。
女が俺の下穿きの前立てに手をかけ、あらわにするのもそこそこに顔を寄せ、真っ赤な唇から舌をのぞかせる。
すっと通った鼻筋だとか、おきれいな顎のラインを持つ相手が、嬉々として俺の息子を咥えようと大きく口を開けるのが、なんだかものすごくイケナイことをしている気分だなあと思いながら、俺は女を見下ろしていた。
女は、はむ、と俺をくわえると、軽く唇を閉じ適度に圧迫を加えながら、頭を上下に動かしはじめる。
ぬめった女の口内が気持ちいい。そうして不快なほど熱い。
俺は軽く呻き、女の頭へ手をやった。もっと喉奥まで突っ込めよ、そういうためにくしゃくしゃの髪に指をからめて、それからあれ、と思う。
こいつ頭黒かったっけ。そう思ったからだ。
俺が知っている、俺より図体がデカい女は頭が赤かった。だから俺は、いつもいつも俺を見下ろすそいつを、屈服させたくてたまらなかった。口に出すとなんだかただの負け惜しみになりそうだったし黙っていたけれど、ほんとうは汁ぶっかけてぐしゃぐしゃにして、ざまあねぇな、なんてツラしてやがる、だとか嘲(あざけ)ってやりたかった。
なのに、いま俺をくわえて懸命に起たせようとしている女の長い髪は、どう言うわけか黒い。
黒い女に知り合いはいたかな。
戸惑う丁度のタイミングで裏筋をぞろ、と舌でなぞられた。思わず声が漏れて、ついでに相手の頭が黒いとか赤いとか、どうでもよくなった。
「もっとだよ」
もっと吸いしゃぶれ。
ゆっくり芯を持ちはじめるそれに気を良くしたのか、女が嬉しそうに唇をあげる。薄くて血に濡れたみたいな、赤い唇だった。
大気の水気にむっと女のにおいが混じり、立ちのぼる。くらくら酔いそうだ。
うねる女の黒髪に手をかける。髪に覆われて見えない目を見たくなったのだ。
かき分けると、重くて長い睫に隠れた黒目があった。自分でむき出したのにぎょっとする。それから、どうして俺はそんなにぎょっとしたのだろうとよくよく眺めてみれば、女の白目が妙に少ないのだと言うことに気がついた。
黒目が大きいんじゃない。白目の面積が少ねぇんだよ。薄膜が張っているというか。うまく説明できないけど。
そうか、と思う。だからなんだか、現実離れしているのだ。ヒトの形をしているのにヒトじゃない。
その、膜が張ったような潤んだ目は、イチモツから離れない。ああもうこいつはほしくてほしくてたまらないんだな、そんなように思った。
だったらくれてやるよ、そこまで続けて思い、けれど先からおのれの中でざわざわする胸さわぎに顔をしかめる。胸の一点にささくれる危険信号のようなものがたしかにあって、それがどうにも気になってしようがないのだ。
なんだろうな。扱(しご)かれながら俺は考える。
じっくり考えたいのに、下半身が次第に熱をもち、その熱と共に思考力が低下する。考えがまるでまとまらない。かといって諦めて行為に没頭しようにも、ささくれが気になって没頭もできない。
「……なあ、」
ぐい、と俺は女の肩を押して、一旦口を離した。それからあらためてまじまじと女を眺め、こいつはいったい誰だったかなと考える。口端から垂れたよだれが糸を引いた。
こんな一度見たら忘れそうにないきれいなくせに薄気味悪い女、いったいどこで知り合ったんだろう。娼婦じゃあない、娼婦だとしても、俺が手を出すような風貌じゃあなかった。だいたい、俺は買う女は金髪か薄茶色と決めている。理由は特にない。なんとなく、そっちの方が清らかそうな感じがするからだ。
たしかにきれいだ。だがこれは魔性の美しさだ。魔性って言うとものすごくありきたりで陳腐なので、言いたかないけど、ほかに表現を知らないのだから仕方がない。
蛭(ひる)か蚯蚓(みみず)を、人間の形につくり直すとこんなふうになるんじゃないかとも思う。
女の長い舌がべろりと唇を舐めた。
そうして、
「お前さま」
言った。
恍惚とし、また俺自身を咥えながら、
「お前さま、たのむ」
「――いや待てあんた、」
あんたは。
「……エロ夢見てびっくりして目が覚めるとか、俺はあれか、思春期か」
何年遅れの思春期だよ。
げんなりして俺は目が覚める。
覚めた瞬間わずかに熱をもった下半身に気づき、頭を抱えたくなった。
いやあー、ないわ。ないですわ。
いくらご無沙汰してたって、俺が|獣被り《ドロシ》の女で起たせるとかほんとないわ。
これがちょっとおっ起ったくらいでよかったと思う。夢精とかしてたら目の前の藪枝に、縄かけて首吊ったかもしれない。
起き上がろうとすると、右半身がみょうに重い。目をやると、俺の片腕を胸に抱くようにして、女がぐっすり寝ていた。
「……いやいやなんで添い寝で通常運転、みたいになってんだよ」
文句ぐらい言わせてもらいたい。
寝る際、女が絶対領域を律義に守っていたのは、たぶん最初だけだったと思う。
馬宿ではそれでも言うことを聞いていたけど、馬宿を出て、野宿するようになってからは、境界線なんてそれこそただの土の上に引いた線にすぎなかった。
べつに最初から押せ押せで近くにくるわけじゃない。たがいに寝入るときはきちんと離れてるんだけど、気がつくと転がって転がって、いつの間にか真横に来てたりする。無意識なんだろう。
こないだなんか寝返りが打てなくて寝苦しくて目が覚めたら、きんたまくらされてた。
なんかすごくいやだった。四十年以上生きてきて、いまさら俺の大事な金的、とか言うつもりもないけど、なによりいやだったのは、その状態でも俺がたいしてこいつに対してムカつかなかったことだ。
距離を詰めるというか、心の隙を突くというか、無意識に踏み込んでくるというのがいっとうに嫌だ。
意識せず、というのが厄介なのだ。
これを女があからさまに媚を含んですり寄ってきたのなら、俺はさっさとこいつを切っただろうし、切ることに対してなにも罪悪感を抱かなかっただろうと思う。
無意識なんだよ。無意識だから困るんだよ。
げんなり通り越していっそ絶望の気分になって、俺は女から腕を引き抜き、起き上がって荷物をさぐり、紙巻きを取りだした。
冬なら人間湯たんぽでありがたいのかもしれないが、いまは夏だ。人肌あったかいとか最大限にねぇわ。
とんとんと叩きだし、一本咥え、煮炊きしたあとの熾火で火を点けて、そうして煙を吸い込む。
吸い込み、細く長く吐き出した。八割がたため息混じってた。
吐きだした煙は、今日は上へは登らない。低くもったりと、地面の方へ流れていく。空気が重いんだろう。
煙が流れていく方向に女がいた。だから煙を眺めていた俺は、たどって女へ目が行くことになる。わざわざ見たんじゃない。たまたま目が行っただけだ。
こいつをどうするかが、とりあえずのところ俺の目下の課題だった。
一番手っ取り早い方法は、もといた森に戻ってもらうってことだったんだけど、まあ、事情が事情だしね、一族だれもいなくなった場所に戻ってひとりで暮らせっていうのも、俺だってそこまで人非人(にんぴにん)じゃないっていうか。
さすがにかわいそうな気がしないでもない。
かと言って、俺が女をどこまでも連れ歩くっていう案は却下だった。理由は三つだ。
金がない。
趣味じゃない。
ガラじゃない。
|獣被り《ドロシ》の生息地っていうのは、なにもこないだ行ってきた森の奥だけではなくて、大陸のあちらこちらにあるのだそうだ。多くは人類未踏の地、じゃないけど、深山のようにめったに人間が訪れない場所で、群れをつくって棲んでいるらしい。
だから俺が考えた案としては、その、別のテリトリーの|獣被り《ドロシ》の群れのところまで行ってだ、こいつをそこに置いてくるということだった。それが一番いいんじゃないかなと思う。まったく別の群れに受け入れてもらえるのかっていうあたりは、俺は|獣被り《ドロシ》じゃないんでよくわからないが、それはおいおい、行ってから考えると言うことでさ。
だってどう考えたって、こいつが俺に付いてくるのっておかしいだろ。いや、借りがどうとか返さなくていいとかそういう話ではなくて、住み慣れた環境を離れてまるで異文明に付いてくるっていうのがさ。
海で棲んでた魚を無理矢理桶に入れて、川の水入れて飼ってるみたいなもんだろって。
まあね、そりゃね、ちょっとは、……、……ちょっとって言ってもほんのちょびっとね? は、かわいいかなって気もしてるんだよ。いやかわいいって言うと情が移ったみたいでいやなんだけど、そういうんじゃなくてさ。
追い払っても追い払っても、あと付いてくる野良ねこっていうかさ。あっち行けよって石投げてもついてくるみたいな。
頭の上にかぶってる醜悪な顔的には、猫って言うよりは犬よりなのかもしれない。狼みたいに鼻がすらって伸びてたらまた違った感想を抱いたかもしれないけど、あの獣、鼻がひしゃげているんだよね。前からぎゅっと圧縮かけた感じというか。そんで、牙が見えるから、なんかいつも威嚇(いかく)しているみたいな顔に見える。
だから正直、かわいいか? って聞かれると、キモい、か、こわい、の感想の方が先に出るんだけど、醜悪面だってなつかれたらかわいい、みたいのはあるでしょ。
とりあえず目が覚めたときに、あの獣の鼻づらが目の前にあっても悲鳴をあげない程度には慣れた。進歩と言ってもらいたい。
いつの間にか、吸い口まで燃えていた一本目をぐりぐりと土に押しつけながら、俺はもう一度寝ている女を眺める。
まったく起きる気配がない。無防備に寝すぎ。|獣被り《ドロシ》ってそもそも戦闘民族みたいな感じで聞いてたんだけど、こんなんで大丈夫なの。心配になる。
それからまたついさっき見ていた夢が唐突にフラッシュバックして、死にたくなった。死にたい。自分で穴掘って頭のてっぺんまで埋まりたい。
なんであんな夢見たんだろうって思う。
夢は深層心理のあらわれだとか言うが、あんなん俺の深層心理だとか、俺は絶対認めねぇですからね。娼館の天使ちゃんたちと寝たのがもうだいぶ前だったし、溜まってたっていうの差し引いたって、絶対に認めませんからね。
そこまで思っていると、女がうん、とちいさく呻いた。起きたのかと思ったがそうでもないらしい。
何の気なしだった。ひょいとのぞきこむと、唇が僅かに開いていて、そこから朱色の舌が見えた。夢の中で俺のことを舐めまわしていたやつだ。
思わずまたぼんやり眺めてしまった。まあけっこう気持ちよかったよな、と思う。
いや夢なんですけど。
気持ちよかったもなにも、夢なんですけど。
また女が呻いて寝返りをうった。悪い夢でも見ているんだろうか。たとえば全身もさもさ毛だらけのお化けが追いかけてくる夢とか。
悪い夢って楽しくないよな。楽しくないからこそ悪い夢って言うんだけども、でも目が覚めたときから腹の底にいやあなわだかまりがあるって、本当に楽しくないよな。わかる。
そんなことを思いながら俺は女を見た。とくだん見ようとしたわけじゃないけど、ここが野外で、ほかに見るものはと言えば草か、藪か、曇りの夜空しかなくて、だからなんとなく目がそこに落ち着いた感じだった。
眉根が寄っていて、すこし苦しそうだった。額が汗ばみ、口が半開きになって息が若干荒くなっていて、あれこれ具合が悪いんじゃあねぇの、そう思ってちょっとひやっとした。だって今ここで寝込まれても外ですし。俺、自分よりでかいやつを運ぶだけの腕力も体力もないですし。
それに、正直ここで体こわされても困る。看病するだけの優しさ成分は持ち合わせてないし、寝たきりつれて行くだけの財力は俺にはないですよ?
そこまで思い、よわったな、熱とか出てなきゃいいんだがな、なおも眺めていると、うう、う、と女が声を漏らしてうっすらと目を開けた。
「……よお、」
黙っているのもどうかという気がして、俺は声をかける。一拍、二拍、うつろをさまよっていた目が、急にかち、と生気を取り戻して、次いで女は飛び上がるようにして跳ね起きた。
「え、なに」
ぱ、ぱ、と女が体をはらうようなしぐさをし、そうして俺を真正面に見据えるようにした。片膝を立て、どちらかというと臨戦の体勢だ。ここまで勝手に付いてきて、しかも俺のこと抱き枕にしておいてそれはないんじゃないの。俺は急転直下で不快になる。
「なんかさあ、面白くねぇんだけど」
一気に険しくなった自分の声を自覚しながら俺は女を睨んだ。
「――俺が何かしたと思った?」
だったらそんなに男の横で、無防備に寝入ってんじゃねぇよ。
「寝ているあんたにちょっかいを出すような真似をすると思われちゃあ、ものすごく心外なんだが」
話すほどにだんだん腹が立ってくる。一応さ、一応だよ、未開の地にいた人間に対してこれでも俺は紳士的な態度で接してきたと思うんですよ。
森に乗り込んだおバカさんどもを保護してくれたこともあるしね、動物の皮かぶってようが、言葉が拙かろうが、生肉むしゃむしゃ食べようが、俺は見下したりしないようにしたつもりだよ。
すくなくとも対等に扱おうと努力はしてたよ。
そりゃ、丸裸に剥いたり、洗ったりもしたけどな、それでもさっきのなめなめ夢のぞけば、大半は性的になにか嬲ったりだとかしないでやっただろうが畜生。
騙(だま)くらかして、どこかの奴隷承認にプレミア付きで売ったってよかったんだぜ。
「ちがう、」
いらいらして鼻を鳴らしていると、頭を左右に振った女が慌てたように俺を見た。その目にすがるような色がある。臨戦態勢とってるくせにまるで視線は正反対で、俺はあれっと思って一旦言葉を止めた。
「しない。お前さまを疑う、ドロシーはしない」
「……んじゃあなんだよその態度はよ」
「お前さまじゃない、ドロシーが、お前さまに何か乱暴をしたかと思ったから、」
「は、――は?」
女はもどかしそうに頭を振り、そうすると頭の上の獣もふるふると首をふっている。なんだかその姿が間抜けで、頭にきている自分が滑稽に思えて、俺は怒らせていた肩の力を抜いた。
「ゲャワをかぶるもの、そういうことがある」
「そういうことって、」
そういうことってなんだよ。
「森でずっとひとりで、何もでなかった、だからゲャワは落ち着いている、ドロシーは思っていた。ドロシーは安心していた、だから、」
「……え、ちょっとなに急に、なに言ってるかわかんないんだけど、」
二本目の吸いさしをぽいと藪に投げて、俺は顎を引く。聞いておいた方がいいような気もしたし、聞きたくないような気もした。
困り果てたような顔で女が俺を見る。珍しく顔があらわになったままで、眉がへの字に下がっていた。
「ゲャワは発情しやすいのだ」
「え、え、………、……、……え?」
たっぷり間をとったあと、そこで俺はようやく女の頬が赤い意味を理解した。