ひとつずつ、忘れていくのだと言った。
 聞いた瞬間、俺はなんだかいつもの十三課局長の顔を張るのも忘れ、え、と素の声が出て、その意味の分からない状況を告げた医務局員の顔をぽかんと眺める。
 言われたことを理解しようとする頭が完全に停止していた。驚き、まんま間抜け面で相手を眺めるだけになった俺へ向かって、その医務局員は気にせず話を続ける。待て、そんなに矢継ぎ早に報せるなと俺は喘いだ。
 追いつかない。
 息苦しいと思った。なぜか急に室内の空気が希薄であるように感じられた。ああそうか、俺はカソックの裏のホックまでしっかり留めてしまったから、首が絞まってこんなふうに苦しいんだろうな。
 だったらホックのひとつも外せばまだ息が楽になるだろうに、胸もとあたりを握りしめた自分の手が痺れたように動かないのだ。
 それでもなんとかまじろいで、俺は相も変わらずつらつら難しい言葉を並べ立てる目の前の男を見た。この男は誰だ。医務局員? 知っている顔のような気もしたし、まるで新顔のような気もした。どっちだったろう。
 そんなことを考え、思考を立て直す。立て直そうとする。それからようやく固くこわばった口をこじ開け、で、と俺は言った。

「――で、結論それはどうなるんだ?」


 テヴェレの川沿いを歩いている。
 息抜きがしたくて外に出たのだ。夕闇に沈んでゆく対岸のカステル・サンタンジェロがうまい具合によく見える場所で俺は足を止め、外套の隠しをさぐった。
 紙巻きの箱を取り出し、とんとんと叩いて一本取りだし、咥える。正直手巻きの方が安価だし香りも好みだったけれど、遺憾なことにいちいち巻いている暇がない。
 紙巻きと一緒に探り出したマッチを擦って火を点そうとする。だのにしばらく外套の隠しに入れたっきりだったそれは、湿気ってなかなか点こうとしなかった。舌打ちをしながら二本、三本、赤い頭の側をだめにし、四本目でようやく火を移すことができた。
 一旦深く吸い、そうして長々と煙を吐きだした。赤いような青いような、不思議な色彩の夕闇の空に立ちのぼる煙を目で追うとはなしに追いながら、俺はそのまま空を仰ぐ。これで星でも見えていればまだ気晴らしができたようなものなのだけれど、あいにく天気は崩れかけて、重く垂れこめた雲が見えるばかりだ。
 もうしばらくすると、雨でも降って来そうだった。まだ初秋だというのに、川べりは風が強くてけっこう寒い。薄い羽織りものでなくもうすこし暖かなものを選んで来ればよかったかなとすこし後悔した。
 そのまま咥え、川べりのコンクリートに寄りかかり、カステル・サンタンジェロを眺める。ヴァチカンを守る象徴の建物。門番。入り口の天使が、観光客を常に威嚇している。それも今は夕闇に沈み、ただ少しばかりあちらこちらに点されたライトアップが見えるに過ぎない。
 けれどそれでよかった。俺は観光客じゃあない。べつにサンタンジェロを見たいから、ここに来たわけじゃあない。

 ひとりになれる場所なら、ここでなくてもどこでもよかった。なんならヴァチカンの居住区のどこか人の来ない広場でもよかった。
 ただあそこは、ひとが来ないあいだ、たしかに俺は俺と認識せずにいられるけれども、誰かがたまたまやってきて俺を認めた途端、俺はイスカリオテ特務機関の長としての自分を取り戻さないわけにはいかなかったから、結局こうして巣穴を離れ、一般の人間にまぎれるのが一番都合がよかったのだ。
 咥えたまま、とくに煙を吸うわけでもなく、俺はぼんやりと今はもう闇に沈んだ城の陰影を目でなぞる。
 こうして眺めていると、やたらと質量を持った黒くて巨大な獣がうずくまっている姿のようにも見える。あれだけ巨大であったなら、入り口の天使も裸足で逃げだすかな、そう思い、いやそもそもあすこの天使は裸足だったから、その比喩自体が成立しないな、だとかもうどうでもいいことを考えながらにやにやした。
 にやついたまま片手で顔を覆う。
 俺は笑っていた。とくだん楽しくもないのに笑っていた。
 笑ってでもいないと、どういう顔をしていいのかよくわからなかった。


 アレクサンド・アンデルセンに不具合がある、と報告されたのがもう四日ほど前のことだ。内々に話があると医務局からコールされ、なんだまたあいつが定期点検ついでに無茶な施術を強請ったかと、俺は何の気なしに医務局へ仕事の合間を縫って顔を出した。


「――いや、些細なプログラムの瑕疵ではあるのですよ、」
 いったいあいつの何の不満をぶちまけられるかと思って訪ねた俺に、医務局員のやつらが一瞬目配せをしあった。それで俺はおや、となったのだ。
 こいつらが、互いに互いを気に掛けるだとかいう仕草を、俺はいままで見たことがなかった。対人よりも対職務、それも俺とはたぶん意味合いの違う、ただただ機械的に職務をこなしている姿しか見たことがなかった。
 興味があるのはカスタムだとかバージョンアップだとか、およそ人体にはそぐわない言葉の儀礼ばかりで、つまりは人体実験だ。
 だのにいまこいつらは、目配せをしあい、今まで見せたこともない人間味をちらつかせ、そうして視線に押し出されるようにして、目配せをしあった中のひとりが立ち上がり、いくらかの書類をめくりながら、えらく言いにくそうに告げた。
「ひとつひとつはね、本当……、たいしたことのないバグなんです。早晩、再生者アレクサンド・アンデルセンがどうこうなる、というたぐいの話ではないんです。……実際、現時点でも彼は通常稼働しているわけですしね、いまのところそこまで大きな不備はないわけです、」
「……ぐだぐだ長い前置きはいい。俺は忙しい、要件を簡潔に述べてくれ。」
「はあ、」
 まるでえらく悪いことをした子供が大人に言い訳をするように、なかなか本題に進まないそいつらに俺はいらいらし、口をはさみ、先をうながす。
「……以前催促されてた、次期再生候補者の件か? でもあれは先月数人ピックアップして、名簿をここに回しただろ、」
「ええ、ですから、候補者の話ではないんです。」
「じゃあなんだ。先回行ったあれの再生儀礼の手続き書類か何かに見落としでもあったか? 全部目を通したつもりではあったんだが、」
「ええ、ですから、定期更新の書類がどうとかいう話でもないんです。」
「じゃあ、」
 さっぱり要領を得ない会話に、俺は髪をかき上げ、いったい何の話だと言葉尻荒くたずねた。
「さっさと言え。俺は忙しい。」

「記憶が、消えていくんですよ。」
「……は?」

 続いた言葉はまるきり俺が心がまえのしていなかった言葉で、だから俺は、え、だとかは、だとか、そんな吃音を喉から漏らすしかなくなったのだった。

 そんなことを思い出す。


 咥えていた煙草は、吸い口までちりちり燃え尽きかけていた。のろのろと顔をあげ、唇から燃えさしを引き抜くと、ぽんと水べりへ抛る。マナーが悪いことは重々承知しちゃあいたが、今はくそ真面目に公共のルールを守るようなそんな気分じゃない。


 記憶が抹消されていくのだそうだ。
 もうすこし精確に言えば、記憶媒体から特定の単語が消えていくらしい。
 つまり記憶喪失か、と俺が問うと、どちらかと言えば失語症ですかねと返された。虫食いが次第に多くなる文書のようなものですよとも付け加えて。

 ――自分も、記憶という定義については、まあざっくり一般常識でしか語れないのですがね。記憶喪失というと、たとえば大きな事故を起こして、その事故前後の自分がしたことのあれこれが数時間、あるいは数日ぬけているだとか、そうした、時間の流れを含めた全体がすっぽり抜け落ちるといった認識でしょう。もしくは痴呆ですね。近年は若年性のものもだいぶん騒がれていますが、これも、ある日通勤路がわからなくなるだとか、成長した自分の子供を我が子だと認証できなくなるとか、そうした性質のものですよね。
 しかしそうしたものとも少し異なるのですよ。そいつは言った。あくまでもこれはこの医務局内での共通認識というやつでしかないですが。
 ――それで発見が遅れたというのもあるんです。なにしろ、人間が脳髄で覚えられる文字の量たるや、五百兆とも、千兆とも言われてるわけでしょう。個人差もあるでしょうが、顔だけで五千人は永久記憶で保存されるって話ですよ。アレクサンド・アンデルセンがどの程度文字を覚えているかはわかりませんが、そこからひとつ、ふたつ抜けたところで、生活に支障はないわけです。そういうふうにできている。だから我々も気が付かなかったんです。
 それは、と俺は言った。頭も舌も痺れていて、呂律がうまく回っているかどうかすらわからなかった。
 それはたとえば、脳の一部分がうまく機能していないとか、銃痕や弾片のようなものが邪魔をして回らないとか、そういうものじゃあないのか。
 ――そこは綿密に調べました。我々もアマチュアじゃない。なんならCTやらMRIやらの結果はここにありますのでね、あとで照査してくださっても結構ですよ。物理的に脳組織がどうこう、という話じゃあないんです。だから弱っている。

 弱っている、と言いながらどこも困っている様子はない。ひとりでおたおたしている俺がばかみたいだった。
 それから数十分ほど、アンデルセンの現状説明をされて俺は医務局室を出る。機関室までの廊下がやたらとぐねぐねとしていた。たしかつくりはまっすぐだったはずなのに、どうしてこんなにうねり歪んで見えるのだろうと思った。


 それは、寝て、覚めると、抹消されているそうだ。パソコンでいうところの電源を切り、再度起動するという形に近いのかもしれない。
 一日に一度睡眠をとれば抹消回数は一度、たとえばうたた寝をあいだに挟めば二度、眠る都度、記憶は消されてゆくらしい。
 一度消えた単語は戻らない。もう一度覚えようとしてもはじかれてしまうらしい。
 一度に消える単語の数はひとつ、ただしこれは前述のように、膨大な量の言葉を覚えているという前提からの計算結果にすぎませんがと付け加えられた。
 忘れる言葉に法則のようなものはない。ランダムに選出されるらしい。それは花や木の名前だったり、聖書に書かれた地名であったり、食べ物の名前だったり、そうして人の名前だったりした。
 最初に違和感を覚えたのは、フェルディナントルークス院へ通いでやってくる清掃業者に挨拶されたときだという。挨拶を返そうとして、その挨拶の言葉が出てこなかった。挨拶の概念は覚えている、夜の挨拶や、食事の前の祈りの文句はすぐにでも出てくるのに、朝と昼日中に相手に返す、言葉がどうしても出てこなかったのだと言った。
 その場は笑ってごまかした。
 次の朝、子どもたちからおはようと声をかけられ、その言葉を認識できないことにあらためて気が付いておかしいと思ったのだそうだ。
 おかしいと思いながらそれでも数日過ごし、今度気づいたのは聖書をひらいた折、その中に書かれている聖人のひとりの名前が読めないことだったからだという。
 ペェジにアルファベットは刷られている。たしかにそこにある、あると言うことは視覚で認めることができるのに、それが脳髄とリンクしないのだという。
 いぶかしんでいるうちに月定例の点検日になった。そこでどこか具合のおかしなところはと聞かれ、申告したところ発覚した。

 ――我々が把握したときは、すでにかなり症状が進んでいましてね。
 ひととおりの報告書を渡しながら医務局のやつは言った。
 ――いつから、というその始点がはっきりしないもので何とも言えませんが。……ええ、でも、たぶんだいぶ前からはじまっていたんじゃないかな。
 だが、あると認めることができるのなら、たいした支障はないのだろう。まったく信用ならないおのれ自身の口が勝手に動くと、それがねえ、と医務局員が返す。
 ――聖人の名ならまだ問題はないんですよ。せいぜい発音できないことと、会話の聞き取りに一瞬穴が開くことくらいですからね。トランシーバーで会話しているのとそうたいして違いはないです。……しかしね、それが「物」の場合が困りものなんです。たとえ話をしましょうか。レモンがありますでしょう。そう、果実のレモンですね。……アレクサンド・アンデルセンの中から消える単語が、たとえばレモンである場合ですね、レモンと書かれた文字を認識することもできないわけですが、同時に、レモンそのものを本人の目の前に持っていっても、物質としてのレモンもわからなくなっているんですよ。目の前にある、たしかにある、手で触れれば形があるしにおいも感じられる、でもそれはひとつひとつ、言ってみれば受容器官で感じ取っているものでね、それを総括してレモンと判断する脳の部分が、つまり働かないいんです。わかりますか。
 わかるよと俺は言った。言うしかなかった。わかるよと言って、そうしてわかりたくもないと思った。
 ――あいさつにしてもですね。消えたところで、まあ、日常生活にそう支障があるわけじゃないです。せいぜい、挨拶の返事をしない、なってない大人、その程度で済むわけです。でもこれが物質となってくるとですね、つまり彼の、……アレクサンド・アンデルセンの世界がだんだん、虫食いだらけになっていくわけですから、……。

 なにしろ、初めてのことなので前例がない。再生機能による脳への負荷ではないかということだったが、これもはっきりしない。脳梗塞や脳溢血のたぐいでもない。すべてがあやふやなのだ。
 あやふやなままに、あいつの中の言葉だけが、ひとつひとつ形を消していく。

 それはもしかすると絶望なのではないかと俺は思った。
 わからない。けれどもし仮に、俺が同じ立場に立たされ、眠りから覚めるたびにおのれのあずかり知らぬところで身の内からひとつずつ言葉が抜け落ちていくというのは、言葉でもってのし上がった自覚のある俺にとって恐怖でしかない。

 選びようがないのだ。慈悲のないルーレット。どうしたって手放したくない文字まで、無作為におのれ以外の何かが選んで抜き取ってしまうのだ。もしかするとそうした目に見えない力を「神」だとかひとは呼ぶのかもしれないが、そんなものにすがるのは俺はまっぴらだった。
 症例がないのだから、薬で抑えることもできない。それでもひととおりは、癲癇発作薬だの抗鬱剤だのためしては見たようだが、効き目があったかも疑わしい。脳波だとかホルモンのバランスではないのだ。記憶媒体だなんてメスでは切開できない場所、ひとのこころ、と言ってもいい場所から言葉が消えていくのだから。
 ただ淡々と手のひらから水がこぼれるように、貴様の中か言葉が死んでいく。


 フェルディナントルークス院に着いたときには夜半を過ぎていた。孤児院の近くでタクシーを停め、下車してから俺は何度舌打ちしたかわからない。
 ここに来る気はなかった。まったくなかった。そもそも俺は今日の分の仕事を残して機関室を後にしてきたのだし、明日までに仕上げないといけない、他の課からせっつかれている書類もある。
 ここにくるにしたって、俺はまったくのノーアポイントメントで、あいつがいまは出張中でなく院で過ごしていることはわかっていたけれど、知っていることと、不躾に訪れることはまるで違う。
 それにもう院は施錠をして寝静まっている時間だ。あいつを含めた、住み込みの数名の教誨士だって、とっくに寝床に入っている時間だった。こんな時間に俺がたずねたところで迷惑でしかない。
 それを俺はきちんと理解している。頭では理解していた。
 だのに体は勝手に、院の外門をくぐり、前庭を通り抜け、施錠されている表玄関でなく、裏庭に回っている。がたぴししている非常口の鍵は半分壊れており、俺はそれを知っていた。
 不用心、院を知らない人間はそう言うかもしれないが、こんな、金目のものがなにも無い場所に泥棒は入らない。鍵が壊れているままなのが、何よりの証拠だ。なにしろこの鍵はもう十年がところ半分壊れたまま使われているのだ。

 足音を忍ばせ、非常口の前にまでやってきて、それからどうしたものかなと俺は思う。力任せに何度か扉を前後させれば、弛んだ掛け金ははずれ、中に入れることはわかっていたけれど、扉を動かせば音が鳴る。騒音の多い日中ならともかく、こんな夜中じゃあさすがに目立つ。目を覚ましたガキのひとりがお化けがいるとでも騒いでもみろ、たちまちそれは伝播して、ガキどもの金切り声の合唱になってしまうと思った。
 どうしたものかな。
 ……やっぱりこのまま帰ってしまおうか。
 思案しかけた俺の耳が、かた、とちいさく窓枠の揺れる音をひろった。しまった、院の誰かに見つかりでもしたかと俺の体がぎくっとし、
「……局長?」
 怪訝を含んだ重低音にもう一度こわばる。
 振り向けば、俺が院を訪れた当初の目的の、そいつがすこし面白がっているような顔をして、窓から顔を出し、俺の方を眺めていた。
 俺はほっとし、それから一気に不快になった。コォルのひとつもしてないのに、どうして貴様は俺がここに来たことを、こうも簡単に察知するのか。動物的な勘でも貴様は持っているのか。聴覚が異様に発達していて、たとえば葉擦れのひとつでも聞き取れるような耳を持っているのか。
「局長?」
 俺が答えないものだから、貴様はもう一度俺を呼んだ。それで俺は仕方なくなんだ、と答え、貴様に会わずに帰ってしまおうという選択肢をほうり投げることになった。
「……ナターレにはまだすこし早いのではないですか。」
 続けて貴様が俺にかけた言葉は、なぜここに、だとか、仕事はどうした、だとか、通り一辺倒の言葉ではなかったので、俺は応じる気になる。
「そうだな、」
「プレゼントが見当たりませんが?」
「たとえナターレだとして、貴様にくれてやるプレゼントはないな。」
「去年はくださったのに?」
「……あれは荷物運びの報酬だ。」
 そう言えば去年は一緒に子供向けの菓子を買いに行ったのだったな、そうしてこいつは大きな紙袋二つ持って、サンタクロースよろしく院に戻っていったのだった。それを思い出し、俺もおかしくなってすこし笑った。
「――中へ?」
 すこし笑った俺を見て、貴様はすかさず建物内へ俺を誘った。まったく機を伺うのがうまいやつだと思った。茫洋としているようで実は鋭い。それで俺は不快になったことを自分自身に目を瞑って、建物の中に誘われてやる気になった。

 貴様が一旦踵を返し、部屋を出て非常口へ向かおうとするのを見止め、俺はいいよと呟く。
「局長?」
「すこし早くたって、サンタクロースなんだろう。サンタクロースなら、窓から入るだろうさ。」
 言って俺は呆気にとられる貴様の前で窓枠に手をかけ、よいしょと体を持ちあげて、行儀も悪く窓から入室した。

「……悪いサンタクロースだ。とても子供たちには見せられない。」
 たいして咎めるでもなく、くつくつと喉を鳴らして貴様が笑う。
「見ろ、花壇の土まで入ってきたぞ。」
「別にかまわんさ、どうせ掃除するのは貴様だ。」
 肩をすくめて言ってやると、やれやれと呆れた声で返された。その声も、態度も、いつもと変わりがなくて、俺は何となしにほっとなる。医務局から報告を受けたそのときから、貴様がなんだかまるでちがう生き物になってしまったような気がして、急いて、俺はどたどたとこんな孤児院くんだりまでやってきているのだった。
「何か飲まれますか。」
「うん……、」
 答えながら俺は、目の前のそいつがまったく寝ぼけた顔をしていないことに気が付いた。寝ていて、目が覚めたわけではないのだ。起きていなければならない理由がない限り、そいつが規則正しく早寝してしまうことを俺は知っていたから、なんだ珍しいなと思い、そうしてこの部屋に椅子はなかったので、代わりに寝台へ腰を下ろし、床にころがっている数本の空き瓶に気が付いた。
「……貴様、」
 気が付き、あらためて驚きより先に呆れる。転がっていたのはグラッパの瓶で、おそらくこいつが飲んだのだ。そうして室内にただよう強烈な酒くささに遅れて気が付き、俺は顔をしかめた。
「……局長も飲まれますか。」
 そうした一連に俺が気付いたことを見て取ったのだろう。言い訳するでもなく、悪びれるでもなく、半分ほど空いた瓶をそのまま差し出され、もう一度俺は貴様、と眉をひそめた。
「何本やった。」
「どうでしょう。今日は四本目ですか。」
 へいざな顔をして、今日は、とそいつは言った。今日はと言うことは、常習していると言うことだった。
「貴様が中毒願望があるとは知らなかったな。」
「……なりませんよ。なり得ません。なにしろ体内でたちまち分解されてしまう、」
 おかげで強いものでないと酔うこともできない、そんなふうに薄く笑って、そいつは寝台に腰を下ろした。先に俺が腰かけていたので、並んで座る形になった。
 眠ると記憶がひとつ消えていく。やはりこいつでも眠るのが怖いのかな。そう思い、俺は渡されたグラッパに目を落として思案する。突き返してもよかったが、それもなんだか大人げない。しかたなく、唇をつけてひと口、ふた口、行儀悪くらっぱ飲みしながら、ちらと横目でそいつを伺った。立ちのぼる白ぶどうのにおいにくらくらする。

 隣に座ったそいつは、俺に酒瓶を渡してしまったので手持無沙汰になり、しようがなく寝台に伏せてあった本を取り直し、膝に広げて読んでいる。俺がやって来る前から読んでいたようだった。いったい何を読んでいるのかなと、ひょいと横からのぞき込むと、わりかし最近のビジネス書のようだった。貴様がそんなものを読むとは意外だったな。俺は呟く。なにしろ頭のてっぺんから爪の先まで信仰と教義でみっしり詰まっているような人間に感じていたので。
「最近ね、読みはじめたんですよ。今まで全く触れたことのない分野ではあったのですが……、目を通してみればなかなか役立つことも多い。面白いです。」
「ふうん、」
 ちびちび酒をやりながら、時折りペェジをめくる貴様の横から本をのぞきこみ、俺も一緒になってついつい読み進む。活字中毒なのは自覚している。周りに何かしら文字があり、そうして読める環境にないと俺は落ち着かないのだ。
 近年は、電子データでほとんどのものがパソコンひとつにおさまる。電源さえ確保できれば、場所を取る膨大な量の書籍や文書がなくても十分賄える。それはそれで便利なのかもしれないが、俺はどうも、頬杖を突き、紙をめくりながら文字を頭に入れていくという作業の方が好きだったので、どうしてもアナログに寄りがちになる。
 文字、と俺は思い、それからどうして横のこいつは、そのうち自分の中から抜け落ちていくだけなのに、今になって新しい単語を覚えているのだろうかと不思議になった。
 そんなことを考えている俺の前で、貴様が紙をめくる。わからない箇所は横に置いてある辞書をひらいて調べている。
俺は立ち上がり、たいして広くもない貴様の部屋をぐるりと見まわす。長年孤児院にいた割には、この部屋に入った回数はそう多くない。この前来たのはいつだったかな。以前訪れたときにはなかった壁の張り紙にふと気を惹かれて顔を近づけると、そこには貴様の筆圧の強い字で、いくつもの単語が書き並べられていた。
 酒を呷りながら、目を近づけてたしかめた。それは、ひとの名だったり、料理名だったり、聖句の一文であったりした。子供の飲む甘い風邪薬の名前や、冒険譚の題名、きらした電球のアンペアなんかも書いてあったりした。
 そんな文字がびっしりと、中には一文だけ書かれた紙が、何枚も何枚も、大小さまざまに壁にピンでとめられている。貴様のうちを覗き見るような気がして、俺はひとつずつ読み下していった。


 壁掛けの時計は、二時を指していた。
 そろそろ休まないと明日の業務に支障が出るだろうにと俺は思う。ガキどもの活力というか、勢いというか、なにしろ生気みなぎるパワーはすごい。無駄にあふれている。傍で触れるだけでたじたじとなるのに、そのパワー全開で、ガキどもはこいつに群がってくるのだ。その応対をするだけでくたびれそうだな、そう思い、いつの間にか最後のペェジの最後の行まで読み終わった貴様が、本を閉じていたことに気が付いた。
 まあ、寝るも何も、深更いきなり部屋を訪れて居座っている俺が言うことでもないのだけれど。俺が立ち去らないとこいつは寝られないのはわかっている。
「そろそろ戻る。邪魔をしたな。」
「……戻る? いまからですか? 歩いて? ……外は雨だ。こんな時間にタクシーもないでしょう。」
 低く呟き、そいつはゆっくりと視線を移し、こちらを見た。俺はふと気まずくなって顔をしかめる。たとえそいつのものでなくても、誰のものでも、こうして、視線にさらされる時間というのが苦痛だった。打ち合わせ説教その他で大勢の前に出ることはとくに気にならないのに、個対個であることが苦手なのだ。あまり見るなよと睨んでやると、どうして、といぶかしむ声で返される。
「……私を見ても何も無い。」
「そんなことはないです。あなたはとてもきれいだ。見ていて気持ちがよいですよ。」
「きれいとか、」
 俺はますます顔を歪めてむっとなり、貴様を見やった。
「そういうのは、女に言うもので男の俺に言うものじゃあない。」
「きれいなものに、男も女もないでしょうに。」
 ぎし、と音をたててそいつが寝台を立ち上がり、俺の方に一、二歩踏み出した。それは小さな動作ではあったのだが、俺はぎくりとし、あたりを見回す。狭い部屋だ。数歩でたちまち退路を断たれ、俺はあらためて寝台に向かうこともできず、近づく貴様を睨みつけることしかできなくなった。
「……そう怯えた顔をしなくてもいい。」
 俺はどんな顔をしていたのだろう。目の前に立ったそいつが、面白がっているような顔をして、そうして俺に手を伸ばした。うわ、と思わず顔を庇うと、片手にしていた酒瓶をもぎ取られる。もぎ取り、そのままあと少し残っていた酒を、貴様が全て流し込んでしまった。
 瓶を傾けたことで、またぱっと部屋にぶどうの香りが散って、俺は目をすがめる。
「マクスウェル、」
「なん――、」

 なんだと最後まで言うことはできなかった。俺の唇は貴様の白ぶどうくさいそれで塞がれていたからだ。
 噛みついてやろうと思った。俺は別にそんなつもりでここに来たわけじゃあない。
「……きさ、」
「医務局からの報告を聞いて、矢も楯もたまらずすっ飛んできたのだろう?」
 握り固め、殴ってやろうとした拳は、振りかぶる前に押さえつけられた。もう一歩踏み込まれ、どんと壁際に圧しつけられて、うすい木の壁が軋む。隣の部屋が空き部屋であることは知っていたが、それでも誰かに聞かれるだろうと俺はおい、と声を荒げた。
「放せ。ひとが来る」
「……きませんよ。ロナウドもマルコも、一度寝入ればぐっすりです。朝方まで目が覚めません。」
「ガキが夜泣きして起きてくるかもしれないだろ、」
「扉に鍵はかかっています。あなたが声をたてなければ誰にもわからない。」
「そういうことではなくて……ッ、」
 首元を無理矢理くつろがされ、そのくつろいだ場所に鼻先をうずめられて、俺はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。実際怒鳴ってやりたかったが、物音をたてて誰かが目覚め、困るのは俺の方だ。
「慰めに来てくれたんじゃあないのか?」
「誰がッ……!……!」
 うぬぼれるなと思った。俺はただ、もしかすると貴様が、日一日と減っていく記憶にしょげて泣きべそでも掻いているんじゃないかと思っただけで、なんとなく、それを確認しに来ただけだ。
 それ以上でもそれ以下でもなかった。
 また唇を奪われる。女ならまだしも、正直男の俺が、男のそいつに「奪われる」、だとか表現するのもどんなものかとも思うのだが、言ってみればこれは合意じゃあない。強盗にあったようなものだ。
 そいつの肉厚な舌が、ちろちろと俺の口内を弄りに入ってくる。俺はそこで思い切り噛みついてやればよかったのだけれど、噛みつき、おのれの口の中まで鉄錆臭い味が広がるのは勘弁だった。それに、噛みつくと言うことは、歯列の内側までそいつの侵入を許すと言うことだ。
 歯を喰いしばって侵入を拒んでいると、そいつの伸ばした指が俺の耳朶あたりに触れ、くるくると小さな円を描いて撫ぜられる。ぞくんと肌が粟立って、俺はますます身をこわばらせた。やめろ、と絞り出した声で制止するのに、貴様はまるで聞こえていないふうなのだ。
「……がっかりですねぇ。検査結果に胸を痛め、もうすぐ使いものにならなくなりそうで落ち込んでいる人間を憐れんで、やさしい言葉の一つでもかけにいらしてくださったのかと思いましたが、」
 抑え込んだ低い声が耳元に吹き込まれる。それでまた痺れに似たなにかが、自分の背筋を駆けあがったのがわかった。
「貴様が落ち込むタマか、ッ……!」
「落ち込みますとも。これでも『普通の』人間なんでね。酒でも飲んで気を紛らわしていたところへ、あなたが来た。」
 くつくつと笑い、そいつはぶ厚い胸板へ俺を引き寄せる。
「酔いに任せてと行きたいところですが、酔いに任せると怒るのでしょう。あなたは、」
「……当たり前だ……ッ、」
 肩に顎を乗せられて、俺は唸った。以前こいつが俺の部屋に来たことがある。そのとき、どういうわけか、差し向かいで飲む破目になったのだが、こいつは俺に口づけて、そうして酔いを理由に逃げようとした。それを言っているのだと思う。
 体格差がうらめしい。体格差だけでなく力量差も相当なもので、きっとこいつに本気で押さえ込みにかかられたら、俺は手も足も出ないのだ。

「苦しい。放せよ、」
「いやですよ。放せばあなたは逃げるでしょう。」
「逃げるに決まっているだろ。あのなあ、私はそんな目的でここに来たわけじゃあない。」
「――『そんな目的』?」
 俺がうっかり漏らした失言に、得たりと貴様は含み笑った。
「なるほど。我らが十三課局長は、なにか含むところあってここにきてくださったのかな?」
「……、」
「教えてくれ。『そんな目的』とはなんだ?」
「……ッ!……ッ!」

 いちいち言葉尻を捉えてくるのだから本当に腹が立つ。ぎりぎりと歯噛みして、今度こそ、たとえ力尽くで押さえ込まれてもめちゃくちゃに暴れて、足の甲を踏み、脛のひとつでも蹴りつけてやろうと腹をくくったところで、不意に俺は解放され拍子抜けする。
 代わりに腕を背中に回され、今度はせんとはちがう力の入れ具合で抱きしめられ、だから俺は貴様を蹴り上げるタイミングを逸したのだ。

「……アンデルセン?」
「――、」
 返事はない。
「……なんだ。貴様ほんとうに弱っているのか?」
「――、」
「おい、アンデルセン。」
「……――すこしでいい。このまま、」
 すんすんと肩口のにおいを嗅ぐようにしながら、貴様が静かな声で呟いた。その声はひどくひそやかで、先ほどのふざけた感じは見受けられない。
 しかしにおいを嗅がれ、そう言えばここに来る気は微塵もなかったのだから、というよりほんの少し、一服のつもりで機関室を抜け出して俺はすぐに戻るつもりであったから、なによりまだ執務中だったのだから、俺はシャワーのひとつも浴びていなかったし、だからもしかしたら汗くさいだとか、ヤニくさいだとか、あるかもしれない。
 俺はため息をつき、しかたなしに貴様の後ろに手を回す。筋肉質で肉厚な貴様の背中は、幅広で、腕を回すとなんだか年をくった太い木の幹に抱きついているようなこころもちになった。

「おい。壁に貼られているのはなんだ。貴様がどうしたって忘れたくない言葉か?」
「――、」
「そのわりに、どこを探しても私の名前が見当たらないな。私をもう忘れたか?」
 つれないな、ぼやくと貴様が顔を伏せたまま、くくと喉を鳴らす。
「忘れると思うか?」
「さあ。どうかな、」
 言って俺は小さく笑った。
 次に目覚めたとき、貴様が忘れているのはもしかしたら俺かもしれない。無作為に選ばれているのだから、十分にあり得ることだし、次第に狭まってゆく選択肢の中で、可能性は決してゼロではないのだ。
「……ビジネス書はあれだろ。貴様、自分の中に、新しい語を入れようとしてるんだろ。」
 語句を増やせば、消えていく大事な言葉がひとつ先延ばしになるかもしれないから。
 俺は言った。顔をうずめたきり、上げない貴様はそうだろうかなと、くぐもった声でこたえる。
「……顔をあげろよ、アンデルセン」
 俺は言った。たとえ忘れても、受容器官はその手触りを感じ取ることができるのだと報告された。
 だったらずっと覚えていればいい。たとえ頭で俺のことを認識できなくなり、俺の名前をその口に上らせることができなくなっても、貴様の耳と、鼻と、手と、口のそれぞれで、俺のかたちを覚えているといい。
 言われた通りに顔をあげ、なんだと片眉をあげた貴様に、俺は自分から唇を寄せ、忘れてくれるなとひとこと呟き、噛みついた。

 

 

 

 

最終更新:2020年09月30日 22:23